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「神様、私を用いて伝道してください」
小室宏之
一九六〇年十月 入教
七百七十七双 キルギス共和国国家的メシヤ
不思議なおばさんとの出会い
私が統一教会に入教したのは、一九六〇年十月です。私が神様に召命されたということを実感するのは、大学生のとき健康管理と修行を目的として、十二日間と八日間の断食をした後に、松本道子さん(通称、松本ママ)に伝道されたからです。
高校時代は、東京大学に行こうと勉強していたのですが、「赤門(東京大学の俗称)」よりも「白門(中央大学の俗称)」のほうがよいと思って中央大学法学部に入学しました。そして弁護士になって困っている人のために生きようと、司法試験の勉強を一生懸命にしていたのです。しかし勉強すればするほど悩みが生じてきました。人間が人間を裁くことができるのか、善と悪の判断は何によって決まるのかなどの問題で、非常に悩み苦しんだのです。
この問題を解決しないと、法律を勉強して司法試験を受ける気持ちにもなれませんでした。それで二年のときに、四年の法哲学の講座に参加して、刑事訴訟法や民事訴訟法などを学び自分の疑問を解決したいと思ったのです。法哲学の先生にも随分と質問をしましたが、納得のいく解答が得られませんでした。善悪について説いている宗教の門を叩かなければならないとも思いましたが、宗教団体に入るのには抵抗があったのです。
当時、中央大学は御茶ノ水駅の近くにあり、近くにキリスト学生会館がありました。ある日、そこで「キリスト教に入らなくてもいいから、聖書の勉強をしたい人は来てください」という内容の聖書研究会の広告を見たのです。そこで聖書研究会に通い続け、聖書の勉強をしていました。そこに松本道子さんが、大学生を伝道しようと思ってキリスト学生会館の聖書研究会に来ていたのです。不思議なおばさんが来ていると思っていました。
ある日、私はその聖書研究会で牧師さんに、次のような質問をしたことがあります。
「なぜ、全知全能の神の子であるイエス様が、十字架にかからなければならなかったのですか? 全知全能であれば、十字架を避けられたのではないでしょうか? 今のキリスト教は、『イエス様の十字架によって世界が救われた』と言っていますが、救われた世界になぜ刑務所があり、裁判が必要なのでしょうか? それでは救われていないのではないでしょうか?」。
この質問に牧師さんは、しどろもどろになって答えられないのです。そのときそこにいた松本さんは、いらいらするようにして「学生さん、学生さん。それは……」と、説明しようとしたのです。私はそのとき、松本さんの立場も価値も分かっていなかったので、「おばちゃんは、黙っててください。私は今、牧師さんに質問しているのです」と言って、松本さんが語ろうとするのを退けました。そのときが一九六〇年十月でした。
統和社で出会ったある青年
その日、聖書研究会が終わって、御茶ノ水駅に向かって歩いていると、松本さんは私の後を追いかけてきました。「学生さん、学生さん。あなたの質問は素晴らしいです。あの牧師さんに、答えられるわけがありません。あの牧師さんが答えられない問題を、明確に教えてくださる先生が日本にただ一人だけいます。そこに行きませんか?」と誘われたのです。
それで私が、「そこは、どんな教会ですか?」と尋ねると、「それは、行ってみれば分かります」と言われました。それで、そのときに行くのはやめて、(一九六〇年)十月二十六日に、中央線の大久保駅の改札口で待ち合わせる約束をして別れたのです。
十月二十六日、私は待ち合わせの時間どおりに大久保駅の改札口に行きました。そこで松本さんと出会い、教会に向かったのです。私は素晴らしい大きな教会に連れて行ってもらえるとばかり思って、ついて行きました。確かに大きな建物があったのですが、その前を通り過ぎて行きます。
「あれ?」と思っていると、長屋みたいに粗末な建物に「統和社」という看板が掛かっていました。ガラスにはひびが入り、そこに紙が貼ってある建物に入りました。私は「おばちゃん、早く行こうよ」と言ったのです。すると松本さんは、「申し訳ないけど、私ちょっと用事があるから、ここの事務所でいすに座って待っていてくれない?」と言うのです。
松本さんは事務所の奥のほうに行って、だれかを呼んで来ました。事務所の奥が印刷工場になっていたのです。松本さんは、作業服を着た若々しい、きりっとした顔の印刷工を連れて来ました。松本さんは私に、「私が帰ってくるまで、このかたと話をしていてください。すぐに帰ってくるから」と言って、出掛けてしまったのです。
私は松本さんが帰ってきてから、恐らく素晴らしい教会に連れて行ってもらえるのであろうとばかり思っていたので、暇つぶしにその印刷工の人と話をしていました。そのうちに、いつの間にかキリスト教の話になっていました。この印刷工の人は、随分キリスト教のことを知っていると思ったので、この前、牧師さんにした内容と同じ質問をしてみたのです。
「全知全能の神の子イエス様が、なぜ十字架にかからなければいけなかったのか」、そして、「イエス様が十字架でこの世界を救ったと言うが、なぜ刑務所があり犯罪があるのか」という内容です。
そのときその印刷工が、非常に分かりやすく、明快に答えてくれました。この回答を聞いて、随分、教養のある印刷工の人であると思いました。身なりはみすぼらしくても、素晴らしい答え方をしてくれるので、次から次と今まで疑問に思っていたことを質問し続けたのです。それらの質問に対しても、納得の行く回答をしてくれるのでうれしくなってきました。
統和社内の情景といえば、四十ワットの薄暗い裸電球と、ひびが入った畳一枚くらいの大きさの黒板と、チョークが置いてありました。いすに張られた布は破けており、そのほかに丸いいすが二個置いてある本当に粗末な事務所でした。広さは六畳か八畳くらいでしょうか。
私は質問に答えてもらったのがうれしくて、時のたつのも忘れていました。しばらくして、松本さんが帰ってきたのです。「おばちゃん、随分待たせたね。早く教会に行こう」と言うと、松本さんはがっかりしたような顔をして、「学生さん、このかたに質問をしましたか?」と言われました。
「しましたよ」
「どうでしたか?」
「とても素晴らしい話でした」
「良かったですね。明日もここに来ませんか?」と、松本さんが言うのです。聖書のことを知っているのなら来てみようと思って、「いいですよ」と言って別れました。
後で、その印刷工の人が西川勝先生(韓国名、崔奉春宣教師)だと分かったのですが、そのときはどのような人かは全く分かりませんでした。でも西川先生は姿勢がよく、目は清らかで、口元はきりっとしており、非常に気品のある顔をしていました。それに話の内容が良かったので、外的にはみすぼらしくても、つまずかなかったのではないかと思います。
夢で教えられた再臨主
それから毎日、統和社に通いました。私が三回目に統和社に行ったとき、小河原節子さん(現、桜井節子さん)が、ちょうど「メシヤ論」の講義を聴いていました。そのときここに来ている人もいると思って安心し、毎日、通うことができたのです。
私は講義の中では、「創造原理」が大好きでした。西川先生は、一回の講義でチョークが何本も折れるほど、黒板にチョークを叩きつけて文字を書き大声で講義をされました。その情熱あふれる講義を聴きながら、いつの間にか私の心は解けてきました。熱が物を溶かすのと同じように、情熱が人の心を動かすことをそのとき悟らされました。
法学部の学生は、理屈屋が大半です。みんな弁護士や裁判官、検事を目指しているので、理屈では絶対に負けないという自信を持っています。私はあまり屁理屈のような質問はしなかったほうですが、それでも随分、西川先生を質問責めにしていじめたようです。それは、納得が行くまで知りたかったからです。
「堕落論」を聴いたときは、当たり前のことを言っているのではないかと思いました。というのは、私の母が学校の教頭だったので、母は「結婚前に、不倫な関係を持ってはいけない」と、しょっちゅう教えてくれていたからです。そのことが自分の心にしみ込んでいたので、「堕落論」には、あまり感動しなかったのです。講義の中では、「創造原理」と「メシヤ論」に感動しました。イエス様の十字架の真相が分かってくると、とてもうれしく思いました。
講義を一通り聴いたといっても、そのころは真のお父様についての証しはありません。あくまでも、メシヤが来ているかもしれない、来ていないかもしれない、という程度で、講義が終わるのです。後は、自分で悟らなければなりませんでした。
私がメシヤはすでに来ていると思ったのは、講義を聞き終わった後に、ある夢を見せられたからです。それは、長いトンネルみたいな中をくぐって行く夢でした。小さい門をくぐって行くと、そこには部屋があり、その部屋の中に入ると大きな写真が二枚掛かっていました。どちらも同じ顔をしていました。
すると案内してくれた人が、「小室さん、どちらがメシヤだと思いますか?」と質問するのです。私は同じ顔をしているが、やはり少しでも光り輝いているような顔をしている写真の方を指して、「このかたです」と言うと、「学生さん、よく分かりましたね。そうですよ、このかたがメシヤです」と言われました。
それで西川先生がメシヤの再臨について隠していても夢を通して、メシヤは来られていると悟らされたのです。さらに再臨主がいかなるかたであるかということを知ったのは、西川先生が用事があって外出されたとき、西川先生がいつも愛用していた金で装飾された聖書を手に取って開いて見たときです。
聖書の中に一枚の写真がありました。それはみすぼらしい服を着ている人が、岩の上に立っている写真でした。その写真を見たとき、あれ夢で見たかたと同じではないか。ああ、やはりこのかたが、再臨のメシヤなのだと思ったのです。そのときは驚きと同時に、とても喜びが込み上げてきました。
西川先生は当時、メシヤの再臨については言葉に注意して講義をされました。それは、相手をつまずかせないための西川先生の配慮でした。中央大学からも、YMCA(キリスト教青年会)からも、素晴らしい学生が何人も来て講義を聴いたのですが、やはりイエス様の十字架の問題で悩んで、来なくなっていたからです。
私は講義を聴くのがうれしくて、家に帰るのがいつも夜中の十二時過ぎになりました。ある日、母は私の帰りが遅いことを心配して、遅くなる理由について尋ねてきたことがあります。私は「将来の司法試験の勉強のために、図書館で勉強しています」と答えたのです。
そのころの統和社での食事は、とても粗末でした。明日の食べるお米がないときもありました。私はいつも弁当を持って大学に行っていましたが、教会での食事があまりにも粗末なのを見かねて、母に「このごろ大学で剣道をやっているから、おなかが空いてたまらないので、でかい弁当箱にしてほしい」と言って、ご飯もおかずもたくさん詰めてもらいました。昼食には、その弁当には手を着けず、一杯三十円のラーメンを食べ、弁当は統和社に持って行き、皆に分けてあげたのです。西川先生は、そのことをとても喜んでくださいました。
西川先生の講義に燃えて澤浦先輩を伝道
私が統和社に三回目に行ったとき、桜井節子姉がいたことはお話ししましたが、何回目かに行ったときには増田勝さんがいました。このとき男性も来ていると思い、非常にうれしかったことを覚えています。
そのころ増田さんは、一通り講義を聴き終わっていて礼拝に来ているようでした。礼拝は統和社ではなく、統和社の近くにあった矯風会館の一室を借りて行っていました。そこには年配の素晴らしい夫婦も参加していました。大体、七、八人が礼拝に参加していたのです。
矯風会館でも統和社から次に引っ越した所でも、西川先生は大きな声で説教されました。三階とか五階を借りて礼拝をすれば、一階にいても西川先生の声が聞こえてくるほどでした。西川先生の情熱たるや大変なものでした。ですから当時、西川先生は結核を少し患っていたようですが、それは情熱で吹き飛んでいったのでしょう。
西川先生はどんなに生活が貧しくても、サタンから絶対に讒訴されない歩みをすることを、常に心掛けていました。ですから、人がだれも見ていなくても、絶対に不正なことはしなかったのです。文先生の伝統をちゃんと引き継いでいました。西川先生はいつも、「このようなみすぼらしい部屋で講義を聴いて、つまずくような人はだめだ。本当の義人は、こういう部屋で講義を聴いてもつまずかない」ということを、口癖のように言っていました。
やはりそのような環境でみ言を聴き続けた人が、今も統一教会に残っています。増田勝兄、桜井節子姉、澤浦秀夫兄(二〇〇五年昇華)、岩井裕子(現、神山裕子)姉、春日千鶴子(現、ロニオン・千鶴子)姉、それから別府美代子(一九七二年昇天)姉たちです。
西川先生の気迫あふれる講義で燃えた私は、伝道をするために一週間断食をしながら中央大学で、「神様と世界に貢献できるかたと出会わせてください」と祈っているとき、学内の床屋で出会ったのが澤浦秀夫兄でした。そのとき澤浦兄は、中央大学法学部四年生で弁護士になるため司法試験の勉強を一生懸命にしていました。
法律においても話術においても、私よりも数段優れていたので、必死に祈りながら聞き役となり、質問話法で澤浦兄を伝道したのです。一九六〇年十二月六日に、西川先生に澤浦兄を紹介すると、彼は真剣に講義を聞き始めました。西川先生は「日本人が日本人を初めて伝道してくれたね」と言われ、本当に心から喜んでくださいました。今でもその時の西川先生のうれしそうな顔を忘れることができません。
澤浦兄は銀行に勤めながら、伝道活動をしようと考えていました。しかし彼は、「原理」を深く学ぶにつれ自ら今何をすべきかを悟り大学を卒業して間もなく、管理職として就職した銀行と弁護士への道をすべて神様にささげて、男性の中で最も早くみ旨を献身的に歩むようになったのです。
澤浦兄は、父親を早くに亡くしていたため、実のお兄さんが澤浦兄の父親のような存在でした。お兄さんは、澤浦兄が大学を卒業した後には、銀行に勤め司法試験にも合格してほしいと望んでいました。澤浦兄が家(群馬県伊勢崎市)を出て、教会活動に専念しようとする時には、並々ならぬ状況下にあったのです。
澤浦兄が、故郷を出て東京に向かおうとする日、お兄さんが「西川という男に会いに行く」と言いながら追いかけてきたのでした。澤浦兄は、そのお兄さんに対し「自分を殺してから、西川先生の所に行ってくれ」と命懸けで訴え、家を離れたのです。その日が、一九六一年四月二日でした。そのとき初めてもらった給料袋の封を切らず、給料袋を持って上京しました。
澤浦兄は、立正佼成会のかたを伝道し、そのかたが久保木修己先生を伝道することによって、日本統一教会の発展の基礎を築きました。真のお父様も西川先生も、澤浦兄を「ザワ」と呼んで深く愛してくださいました。
澤浦兄は、岸信介元総理大臣と福田赳夫元総理大臣に原理講義をしましたが、自分でしたことを口に出すこともなく謙虚なかたでした。真のお父様が「統一教会を引っ張っていく男だ」とおっしゃったごとく、パウロのように活躍されました。
澤浦兄の次に路傍伝道で、四柱推命を研究されていらっしゃる壮年の方を伝道しました。その方はアベル的な方でみ言に大変感動されました。二か月間、教会に来られて熱心に伝道もしていたのですが、本人や家庭の事情ではなく教会に来ることができなくなったのです。もしその方が教会に留まることができれば、大きな活躍をされたことでしょう。今頃とてもその方が思い出されてなりません。
路傍伝道と廃品回収
教会が、飯田橋方面(新宿区西五軒町)に移った後の一九六一年三月末から路傍伝道が始まりました。桜井節子さん、神山裕子さんと私の三人が、日比谷公園で路傍伝道をしたのです。
桜井さんが黒板を持って「序論」の講義を始めると、すぐに警官や日比谷公園の管理人が飛んできて、「ここでは、やっていけません」と言うのです。ここで引き下がれば、桜井さんが講義できなくなるので、私は警官を相手に「警官の目的は何ですか。罪悪世界をなくすことでしょう。この講義は、罪悪世界をなくすための講義ですから、邪魔をするのは警官らしくないですよ」という話をし始めたのです。
私は法律を勉強しているものですから、警察法のことまで持ち出して警官と話をしたので、警官は講義をやめさせることができませんでした。私と警官が話をしているので、公園を散歩している人は、何事が起きたかと思って多くの人が集まってきました。黒山の人だかりになったのを見て、天はこのようにして人を集めるのかと思ったのです。
私と警官が話している間、桜井さんはずっと「序論」の講義をすることができました。美しい花園の日比谷公園で、黒板講義による路傍伝道ができたことは感謝でした。日比谷公園以外では、渋谷では増田さん、池袋では松本さんと澤浦さん、新宿では西川先生が路傍伝道をしました。
路傍伝道とともに、澤浦兄の発案で「天職」と呼んでいた廃品回収が始まったのもこのころでした。廃品回収は、両国の高橋さんという大きな廃品回収の問屋を中心に、みんなでリヤカーを引きながらやったのです。私はよく春日千鶴子さんと一緒に廃品回収に行きました。両国は、坂が非常に多いのです。リヤカーで坂を上るときには、後ろから押してもらわなければなりません。そして上り終わると今度は下りです。そのときいちばん大変だったのが、リヤカーを止めることでした。上りも下りも苦労しました。
いちばん感動したことは、ほかのメンバーがどんなに実績がないときでも、西川先生は新聞や鉄くずをリヤカーにたくさん積んで帰ってくることです。たとえ断食中であっても、西川先生がリヤカーに廃品を山盛りに積んで帰って来るのには感心しました。廃品回収が終わると、両国駅の近くにある粗末な焼きそば屋に行きます。そこで醤油がかかった一杯三十円の焼きそばを、みんなで食べるのが喜びでした。そうして食事が終わって午後二時ごろから、それぞれが伝道に出掛けたのです。
そのころ西川先生が、いつも口癖のように言われたことは、「どんなにみんなが失敗しても万事益となる。それは神様のためにやったことだから」と言って、慰め励ましてくださいました。西川先生はどんなに疲れていても、口笛を吹いて楽しそうに帰ってこられるのです。西川先生が好きな歌が、「冷たい冬の木枯らしよ」で始まる「嘆きを吹き飛ばせ」という聖歌でした。その聖歌をよく歌って、私たちを励ましてくださったのです。
八百日間の路傍伝道
路傍伝道や廃品回収をしているころ、西川先生から「中央大学に『原理研究会』をつくらないか」と、言われたことがあります。日本中、どこを探しても、まだどこにも「原理研究会」がないときのことです。一九六一年四月、新入生を対象に「原理研究会」の募集を始めました。多くの学生たちは興味を持って、このサークルに集まってきたのです。
原理研究会の顧問に、どの教授になっていただいたらよいか随分と悩みました。原理研究会が当時の日本の大学にはまだつくられていないサークルなので、どの教授が納得してくれるか分からなかったからです。政治学の小松春雄教授の講義を聞いているときに、小松教授が日本の現状を憂う講義を時々されるので、一番前の席に座ってできるだけ小松教授に顔を覚えてもらえるよう努力し、講義を真剣に聞いている態度を見せました。五、六回講義に出てから小松教授の部屋を訪れたのです。
もちろん訪れる前に、四日間の断食をしました。教授の部屋に入ると、小松教授は私の顔を覚えていてくれて原理研究会の趣旨を聞いてくださいました。中央大学の精神的支柱を確立し、家族的情味のある中央大学にするのが会の目的であることを、情熱を込めて語りました。それを聞かれた小松教授は「顧問になっていいよ」とおっしゃったので、とても神に感謝しました。別の教授にも働きかけると会の趣旨に賛同していただきましたが、学生に人気のあった小松教授を原理研究会顧問に選んだのです。
二十数年後、小松教授の自宅に妻と一緒に訪ねたとき、同教授は妻に「(小室さんは)学生服に直立不動で丁寧に挨拶したので、この時世にこのような純粋な学生がいるのだろうか」と思い、感動したと話してくださいました。きっと神様が、私を純粋に見せてくださったのだと思っています。
白門祭(中央大学の学園祭)においても、「統一原理」を紹介する展示会場を借りることができ、たくさんの学生がやって来ました。そこでは大きな声で原理講義をするので、学生たちは何事かと思って毎日が満員御礼となりました。
その中から何人かは、飯田橋にあった教会に訪ねてきて西川先生から講義を聴いたのです。ところが西川先生は正義感にあふれていたので、語る言葉も激しいものがありました。「今は、勉強している時ではない。愛と真の世界を創ることを最優先しなければならない」と言われるので、たくさんの受講生はいたものの、途中で教会に来なくなる学生がほとんどでした。
私はあまりにも実りが少なかったので、大学の屋上に上がり何日も泣きながら祈りました。そうして「神様、なぜ私のような者を召命したのですか。私よりも、もっと素晴らしい人を導かれれば、中大生はつまずかないで済みます。私がここに来たために、中大生はかわいそうです」と言って、泣きながら祈ったのでした。
そのとき、天から声がしたのです。「小室よ、泣かなくてもよい。伝道はわたしがするのだから、心配しなくてもいい」と言って私を慰めてくださいました。ですから「神様に用いられてこそ、人材復帰はできるのだ」ということを、このときに悟らされたのです。それで私は、「神様、私を用いて伝道してください」という徹底した祈りをするようになりました。その結果、多くの学生がみ言を聴き、入教するようになったのです。
毎日、朝と夕方に中央大学の四十以上の教室の黒板の左側の隅に、原理研究会の宣伝文章を書きました。しかし講義がある度に、折角書いた宣伝文章は消されてしまうので私は泣きたくなる思いでした。
なぜかといえば、当時の私は法律の勉強はもちろんですが、剣道部の活動、アルバイト、教会活動などでとても忙しかったからです。昼間の講義が午後四時半になると終わり、その後、夜間の講義が始まるまでのわずかな時間に、たくさんの教室に原理研究会の宣伝文を書くことは非常に忙しく大変でした。
だから見渡朗良兄と、もう一人の学生が黒板の宣伝文を見て、原理研究会の勉強会に来てくれた時は大変うれしく思いました。何日も一人で空き教室で、待ち続けながら祈っていた苦しさから解放されたからです。そのとき十二名ほどの新入生が、中央大学原理研究会に入会してくれました。
原理研究会には、見渡兄、江利川安榮さんをはじめ、田代正一兄、吉岡征治兄の中大のメンバーなどが入会し修練会に参加することによって、多くの人が献身的に歩むようになったのです。このようなことも、中央大学の屋上で悔い改めたことを天が取ってくださったのだと信じています。
後に、全国大学連合原理研究会(全大原研)が設立され、原理研究会設置の運動が展開され始めました。初代の全大原研会長は、立正佼成会の大物であった小宮山嘉一兄です。澤浦秀夫兄の路傍伝道に感動して、「統一原理」の講義を聞いたかたで、このかたが久保木会長を伝道したのです。中央大学原理研究会の初代会長は私で、顧問は小松春雄教授でした。私の後は、小林育三兄が後を継いでくれました。
私自身はなかなか伝道ができなかったので、路傍伝道の条件を立てて伝道することにしました。最初は、四百日間、毎日、路傍伝道する条件を立て伝道に出発したのです。路傍伝道をした場所は、渋谷、新宿、池袋、御茶ノ水、時には、神奈川県の厚木でやったこともあります。厚木で路傍伝道したときは、周りは田んぼでした。蛙がガーガーと鳴く中で、その蛙に向かって訴えたこともあります。
四百日間の路傍伝道を全うすると、七百日間に延長し、それが勝利すると、八百日間、路傍伝道を続けました。天が感動する条件を立てれば、天が働いてくださると確信したからです。
その八百日間の期間の中で、天が条件を取ってくださったのか、松下正寿先生(当時、立教大学総長)と出会い、み言を伝えることができました。西川先生は、「大物を伝道しなさい」と言われていたので、クリスチャンの松下先生にみ言を伝えようと、一週間断食をしながら、松下先生に何度も手紙を書いたのです。
その後、西大久保(東京都新宿区)に教会があったころ、西川先生が夜遅くまで原稿を書かれ、兄弟たちで校正しながら作った『原理解説』を持って、西川先生と一緒に松下先生の自宅を訪問しました。それ以前も、一人で松下先生の家を訪問したことがあったのですが、留守でお会いできなかったのです。
松下先生にお会いしたとき、松下先生は私たちが差し出した『原理解説』を見られて、「『原理解説』を読ませていただきます」と言われ、本を受け取られました。そうして、松下先生はみ言を学ばれたのです。大物を伝道するには、本当に天が働かなければできないということを実感しました。
その後、ある電力会社の会長を伝道したことがあります。そのときは、四十日間、毎朝、自転車で自宅まで行き、手紙をポストに投函しました。それと同時に、一週間断食をして訪問したのです。玄関を開けるとすぐ会長が出てこられました。「私が中大後輩の小室です」と自己紹介すると、会長は急に笑顔になって「君か、毎日手紙をくれたのは。ありがとうよ。なぜもっと早く来ないんだ。どんな人か会いたかった」と言われました。そして、すぐに部屋に案内してくれたのです。
このとき私は、キリスト教と「勝共」について語り、愛と真の日本を築いていかなければならないことを訴えました。会長も中大の先輩だったこともあり、とても私をかわいがってくださいました。それからしばらくして、会社の社宅が空いたので私たちに社宅を貸してくださったことがあります。そこは三十畳ほどの部屋もあり、十畳ほどの部屋が四部屋ありました。廊下は長く広く、見事な庭園もあって御殿のような館でした。
一九六七年七月、真のお父様が福岡を巡回されたとき、この館に宿泊していただくことができました。神様は真のお父様が来られることをご存じで、そのためにこの建物を準備されたように思えるのです。
真のお父様との出会い
真のお父様が日本留学以後、初めて来日されたのは一九六五年一月二十八日です。そのころ本部教会は、南平台町(東京都渋谷区)にありました。真のお父様をお迎えするために、学生部のメンバーが中心となって、羽田空港に行きました。
真のお父様が本部教会に到着されたとき、学生たちが行列をつくってお迎えしたのですが、私は玄関の前にいたので直接、真のお父様に「お父様、お帰りなさい」と申し上げることができました。「先生、お帰りなさい」とは言わなかったのです。そのころは、真のお父様のことを「大先生」とお呼びしていたのですが、なぜか、そのとき「お父様」と言わなければいけない思いに駆られて、「お父様」と申し上げたのでした。
真のお父様に対する私の第一印象は、若々しくてハンサムであるということです。真のお父様は、聖歌二十四番の「新エデンの歌」を、体を揺さぶり手を振りながら何度も歌われました。それ以来、私は、この聖歌がいちばん好きになったのです。
真のお父様は、私たちを前にして、み言を何時間も語り続けられました。私は絶対に真のお父様の前では居眠りしてはいけないと思い、お父様の目を見詰めながらみ言を聴き続けました。そのためか真のお父様が、私にお話ししてくださっているように思えたことが何度かあったのです。
真のお父様と一対一でみ言を聴いているように思えたので、とても緊張しました。み言を聴く前は、眠らないためとトイレに行かないようにするために、飲食物を控えました。兄弟たちが狭い所にぎっしりと座っているので、いったんトイレに行けば、前のほうには座れなくなるからです。
真のお父様を間近に拝見していて驚いたことは、お父様はコーラや水をとても多く飲まれるのですが、トイレには行かれないことです。十時間以上、み言を語られながら水分を多量に補給しても、トイレに行かれないのです。真のお父様の体は、どうなっているのかと不思議に思いました。
み言を語られた後、真のお父様が休まれたのは、南平台の本部教会の二階でした。そのころ真のお父様を警備しなければならないという意識は、ほとんどなかったように感じました。そのようなとき、私は真のお父様をサタンからお守りしなければならないという思いで、お父様が休まれる部屋の前に座って、徹夜祈祷をさせていただきました。
真のお父様が出掛けられるときは、いつも先に玄関に飛び出していって靴べらをお渡しして、「行ってらっしゃい」と申し上げてお見送りしたのです。このようなことをしたのも、すべて真のお父様と親子の関係を実感したかったからでした。
真のお父様は、南平台に集まった教会員と一人一人、握手をしてくださいました。握手していただいたときは、本当にうれしく、私は思わず両手で真のお父様と握手をしました。握手だけではありません。真のお父様は、全員に記念のハンカチを下さったのです。真のお父様が、日本から米国に出発されたのは、一九六五年二月十二日でした。私も見送りに羽田空港に行きましたが、真のお父様と空港でお別れするとき、お父様は仕切られたガラスに手を当てられました。
見送りに行った私たちは、真のお父様の手にガラス越しではありましたが、一人一人、手を合わせたのです。このようにして、真のお父様は、教会員一人一人を心から愛してくださいました。ガラス越しに真のお父様と手を合わせたことは、今でも忘れることができません。一九六五年秋にも、真のお父様が来日されました。それ以後、次に来日されたのは一九六七年六月でした。
そのときは松濤本部で「原理大修練会」が行われました。原理講義は、劉孝元韓国初代協会長がされたのですが、真のお父様は毎日のように私たちにみ言を語ってくださいました。
私の個人的なことは、真のお父様にはお話ししていなかったので、ご存じないはずなのですが、みんなの前で私のことをぽつりと、「この男は、手紙を出すのが好きなんだよ」とおっしゃったことがありました。
そのとき真のお父様は、なぜそのようなことまでご存じなのかと、私はとても驚きました。それは、四十日間、電力会社の会長に手紙を出し続けて、み言を伝えた後のことでした。真のお父様は、私が手紙を書くことが好きなことを、霊界を通してご存じだったのです。真のお父様は、私たちのすべてをご存じなのです。
一九六九年、真の父母様が来日されたとき、私は埼玉県にあった神川工場で仕事をしていました。そのとき真のお父様が、神川工場を訪問されたのです。真のお父様は神川工場で働く教会員を社員が寝泊まりしている部屋に集められて、み言を語ってくださいました。そのとき私は司会をしました。このことも、私の忘れられない思い出の一つです。
神川工場で働いているとき、私はいつか真のお父様がここにいらっしゃると思って、支給された作業服を一着、袖を通さず、新しいままロッカーにしまっておいたのです。私が司会をしたときは、その真新しい服を着て臨むことができました。
神川ではいろいろ夢で教えられましたが、ある夢の中で真のお父様が小さな木を十二本私の胸の中に入れてくださいました。振り返ってみると、それは十二双に選んでくださっていたという内容だったと思います。
真のお父様は神川工場から東京に戻られて、十二双のマッチングを行われました。しかし私には連絡がなかったのです。東京に来るように連絡を受けた時には、すでに祝福の修練会は終わっていたようです。私は急いで何のために行くかも分からず東京に向かいました。しかし夜が遅かったため乗り物がなく、長い時間をかけて暗い道を歩いて神川の駅まで行かなければなりませんでした。
東京に着いて本部教会の礼拝に参加したとき、真のお父様はみ言を語られていたのですが、私の顔をごらんになりながら、「人間は、赤ちゃんをつくることは大変なんだよ。子供をもうけて神様を喜ばせるんだよ」などと語ってくださいました。
その後、私は何で呼ばれたのか知らなかったので、夜中、渋谷の代々木の聖地にお祈りをしに行きました。私が戻ると真のお父様は、「おまえがいないから、ほかの人を祝福した」と非常に悲しまれ、二時間以上、澤浦兄と一緒に叱られました。今も申し訳ない気持ちでいっぱいです。
毎日の「感謝祈祷」の実践
信仰生活の中で、私は愛の減少感を感じることが多くありました。信仰問題で悩んでも、だれにも相談することができませんでした。そのような中で、真のお父様はどのようにして天使長ルーシェルを屈伏させたのかを考えました。天使長ルーシェルが失敗したのは、愛の減少感です。ですから天使長ルーシェルと同じ程度の愛の減少感を感じたとき、その愛の減少感を乗り越えることができれば、天使長ルーシェルを屈伏させることができるのではないかと思ったのです。
そしてどのようにすれば、愛の減少感を乗り越えることができるのかということを考えた結論が「感謝祈祷」でした。一日が終わる前に、どんな小さなことでも四十、感謝すべきことを挙げて、感謝の祈りをささげるようにしたのです。
十ほど感謝することを挙げるのであれば、それほど難しくないのですが、四十、挙げることは、簡単ではありません。でも、毎日、四十の感謝の祈りをささげることを通して、愛の減少感を乗り越えることができるようになったのです。この感謝祈祷は、愛の減少感を克服するだけではなく、霊界に行くための準備としても大切なことであると思って今も毎日、実践しています。
私たちが霊界に行っても、神様が分かるとは限りません。この地上で常に神様の愛を瞬間的に分かる自分をつくって、初めて霊界に行って神様の愛が分かるのではないかと思うのです。
真の父母様と個人的にかかわりを持ったことは、一九六九年以降もありましたが、夢の中でも、真の父母様との関係を深めることができました。かつてこのような夢を見たことがあります。
それは、高い山に兄弟がみんなで登る夢でした。夢の中で真のお父様が先頭切って登っていかれるのです。そして頂上から真のお父様が、「みんな、後ろを振り向くんじゃないぞ。お父様目指して、お父様だけを見詰めて登って来なさい」と叫ばれました。
私はなぜ真のお父様が、そのように言われるのかと思って、瞬間的に後ろを振り向きました。すると鯨よりも大きななめくじが、ふもとから登ってきて、ゆっくり登っている兄弟をのみ尽くしているのが見えたのです。急いで登っている兄弟は追いつかれません。だから「後ろを振り向かず、さっさと登るように」と、真のお父様がおっしゃったことが分かりました。そうして、富士山よりも高い山の頂上で、真のお父様が叫んでおられるという夢でした。この夢が、現在でも信仰生活を送るうえでの教訓となっています。
もう一つ紹介したいことは、私が文興進様に会食に招かれた夢です。そのときとてもうれしく思ったのですが、会食の席に着くと興進様が私に、「生前、どのようなことをしてきたかを証ししなさい」と言われたのです。
私はそれを聞いて、会食どころではなくなりました。誇るべき実績を持って霊界に行かなければ、恥ずかしくて会食にも行けないことが分かったのです。天が「小室よ、生きているときに、愛の心情で天に宝を積みなさい」と言われる夢だったと思うのです。
二〇〇一年十二月、天宙清平修錬苑に「世界入籍祝福家庭夫特別修錬会」に参加したとき、大母様は「長く生きると思ってはいけません。あと一年で霊界に行くとしたら、どのように一瞬一瞬を生きなければならないのか」というような意味のことをおっしゃられました。私は今、その言葉をいちばん肝に銘じて歩んでいます。