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み旨中心に対することができないのは何の理由だったのだろうか! 洗礼ヨハネも人間なので、メシアというその自体ならもっと高貴な位で自己に見られたはずだったが、あまりにも普通の人間と変わらない存在の容貌であり、自己たちが望むようにみ旨の成事の路程を取っていくことができない存在として、どうしてメシアの資格ということとはあまりにも距離が遠かった。
뜻 中心하고서 対하지 못함은 무슨 까닭이었을까!. 세례 요한도 사람인지라 메시아라는 自体면 좀 더 高貴한 位에서 自己에게 보여졌을 것이었는데 별로 다름없는 存在의 貌樣이면서 自己들이 바라는 바와 같이 뜻 成事의 路程를 取하여 나아가지 못하는 存在로서 어찌 메시아의 資格이랑 너무나 距离가 멀었었다.
ヨハネもやはりその時代的に対するイスラエルの民と同一な観点で立つことになることが大きな失敗の始まりだった。 だからイスラエルの民は言うまでもない行動だった。 また、洗礼ヨハネはイエスの前にメシアなら完全に侍從するために自己中心で、その他の弟子たちまで一緒に入ってきてイエスの弟子にならなければならない立場だったが、それが果たして人間性から出た破壊行動だった。 自分の弟子と共にイエスの弟子になって、昨日先生の立場を変えてイエスの前に一人の弟子のように立つと、
요한 亦是 그 時代的으로 対하는 이스라엘 百姓과 同一한 觀奌으로 서게 됨이 큰 失手의 始作이었다. 그러니 이 百姓은 두 말할 수 없는 行動이었다. 또 세례 요한은 예수 앞에 메시아(애리아)라면 全 侍從하기 爲하여서 自己를 中心하고 其 外 弟子들까지 함께 들어와서 예수님의 弟子가 되어야할 立場이었는데, 그것이 果然 人間性에서 나온 破壞行動이었다. 自己 弟子와 함께 예수 弟子가 되어 昨日의 先生이 立場을 変하여 예수 앞에 한 弟子 樣으로 서니