|
日本語の諺100選(な行060~074)
日本語の諺100選
060 ない袖(そで)は振(ふ)れない
持っていないお金は、出してあげたくても出せないということ。「ない袖は振れない」ということわざは、「袖がないのだから振ることができない」という意味ですが、これをたとえとして用いています。具体的には、お金や財産がない場合には、それを使うことや提供することが不可能であるという状況を表しています。このことわざは、人が持っていないものは提供できないという現実を受け入れることの重要性を教えています。たとえば、友達がお金の援助を求めてきたとき、もし自分自身が経済的に困っていて手持ちのお金がなければ、どうにかしてあげたい気持ちはあっても実際には援助をすることができません。このような状況で使われるのが「ない袖は振れない」という言葉です。これは、不可能なことを無理にしようとするのではなく、現実を直視し、できる範囲で行動することの大切さを教えてくれます。
日本語の諺100選
061 泣(な)きっ面(つら)に蜂(はち)
悪い事が起きた中で、更に悪い事が重なっておこること。「泣きっ面に蜂」ということわざは、一度に二重に悪いことが起こる状況を表しています。例えば、すでに悲しいことがあって泣いているところに、さらに蜂に顔を刺されるような、追い打ちをかけるような状況を想像してみてください。本来泣いているだけでも十分辛いのに、それに加えてさらに痛みを感じることで、もっと大変なことになる、というわけです。この言葉は、江戸時代の中期から使われ始め、やがて「江戸いろはかるた」というカルタにも収録されることで、広く日本中の人々に知られるようになりました。現代でも、何か悪いことが起こった上にさらに悪いことが重なるときに使うことが多いです。
日本語の諺100選
062 無(な)くて七癖(ななくせ)
人はだれでも、癖があるので、ないように見える人でも七つぐらいは、癖があるものだ。「無くて七癖」ということわざは、どんな人でも表面上は気づかないかもしれないが、実はそれぞれが持つ多くの癖があるという意味です。直訳すると、「ない人でも七つの癖がある」という意味になります。このことわざは、人間誰しも完璧ではなく、何らかのクセや特徴を持っていると認識し、それを受け入れるべきだと教えています。友達やクラスメートを見る時に、小さな欠点や個性を見つけたとしても、それが人間である証拠であり、誰もが何かしらの癖を持っていることを理解して、お互いを尊重する心が大切です。この考え方は、人間関係をよりスムーズにし、互いの違いを認め合うことで、より豊かな交流ができるようになります。
日本語の諺100選
063 情(なさ)けは人(ひと)の為(ため)ならず
人に親切にしておくと、それはめぐりめぐって、やがて自分のためになるのだから、人には親切にしなさいとの教え。よくある間違いとして、「情けをかけると、その人のためにはならない」という意味ではないので注意。
「情けは人の為ならず」ということわざは、直訳すると「情けは人のためではない」となります。この言葉は、他人に親切にする行為は、ただ相手を助けるためだけではなく、最終的には自分自身にも良いことが返ってくると教えています。つまり、他人を助けることは、結局は自分自身のためにもなるという考え方を示しているのです。例えば、誰かが困っているときに助けてあげると、その人は感謝しますし、あなた自身も人から感謝されたり、喜ばれたりすることで幸せな気持ちになれます。また、いつか自分が困ったときに、助けてくれる人が現れるかもしれません。このように、親切は循環して、いつかは自分にも良い影響をもたらすというわけです。このことわざは、自分だけでなく他人にもやさしくすることの大切さを教えてくれます。それによって、周りの人々との良好な関係が築かれ、社会全体がより良くなることにもつながります。だから、「情けは人の為ならず」という言葉には、自分と他人両方の幸せを考える深い意味が込められているのです。
日本語の諺100選
064 七転(ななころび)八起(やおき)
度重なる失敗にも屈せず奮起することのたとえ。また、人生の浮き沈みがはなはだしいことのたとえ。「七転び八起き」ということわざは、「何度失敗してもめげずに何度でも立ち上がること」を表しています。この言葉は、文字通りには「七回転んでも八回目には起き上がる」という意味ですが、その本質は「失敗を乗り越え、挑戦を続ける精神」を称えるものです。人間だれしも、仕事や学業や、友人関係などで挫折や困難に直面することがあるかもしれません。そのような時、このことわざは、「失敗や困難から立ち直り、前向きに努力を続ける大切さ」を教えてくれます。人生において挫折は避けられないものですが、それを乗り越えることで人は成長し、より強くなることができるのです。「七転び八起き」は、ただ単に頑張ることを促すだけでなく、失敗を恐れずに挑戦し続ける勇気を持つことの重要性を教えてくれています。どんなに何度つまずいても、諦めずに再び立ち上がることが、最終的な成功への道を開く鍵となるのです。
日本語の諺100選
065 七度(ななたび)たずねて人(ひと)を疑(うたが)え
自分の物が見つからない時には、何度も良く探して、それでも見つからなかったら初めて人を疑いなさいといった意味。軽々しく人を疑わない、人を疑うのは最後の最後、といった戒めにも使われ、この場合の表現は探し物に限定されない。「七度たずねて人を疑え」ということわざは、他人を疑う前にしっかりと事実を確認し、十分な理由があると確信するまで疑ってはいけないという意味が込められています。
このことわざにおいて「七度」という数字は、ただ単に多くの回数という意味で使われており、実際に七回と数える必要はありません。大切なのは、何か問題が起こった時にすぐに他人を非難するのではなく、まずは自分でよく調べたり、状況を考えたりすることです。例えば、自分の物がなくなったときにすぐに誰かが盗んだと疑うのではなく、まずは自分でしっかりと探してみることが求められます。他人を疑うことは、その人との関係を悪化させる原因にもなりかねないので、軽はずみに疑うことなく、きちんとした根拠が見つかった時のみ疑問を持つべきだと教えています。このように、「七度たずねて人を疑え」とは、争いごとを避け信頼と理解を大切にする姿勢を促す教えと言えるでしょう。
日本語の諺100選
066 習(なら)うより慣(な)れよ
物事は、人に教わるよりも自分で直接体験してゆく方が身につくということ。「習うより慣れろ」は、特に職人の世界で、昔からよく使われています。「習うより慣れよ」という言葉は、何か新しい技術や技芸を学ぶ際に、単に理論や方法を人から教わるだけではなく、実際に自分で何度も練習を重ねることが非常に重要であるという意味を持っています。つまり、教科書や先生からの指導を受けることも大切ですが、それだけでは十分ではないということです。本当にうまくなりたければ、実際に自分の手で試み、経験を積むことが必要です。例えば、ピアノを学ぶ場合、先生から楽譜の読み方や指の置き方を教わることは初歩的なステップですが、上達するためには何時間も自分でピアノに触れ、曲を弾いてみることが不可欠です。間違えながらも繰り返し練習することで、徐々にスムーズに演奏できるようになり、音楽の感覚も身につけることができます。このことわざは、学ぶ姿勢についても教えてくれます。新しいことに挑戦する際は、失敗を恐れずに多くの経験を積むことが、最終的に技術や知識を習得する上での最速の道であるというわけです。ですから、何かを学び始めたら、理論学習だけでなく、実践を積み重ねることで、その道のプロに近づいていくことができるのだと言えるでしょう。
日本語の諺100選
067 二度(にど)あることは三度(さんど)ある
二度も同じようなことがあると、さらにもう一度続いておこる可能性が高くなる。物事は繰り返されることが多いので油断してはならないという意味。悪いことに使う。「二度あることは三度ある」ということわざは、ある出来事が2回起こった場合、それが再び起こる可能性が高いという意味を持っています。このことわざは、人間の行動のパターンや自然現象、事故など様々な状況に適用されます。例えば、ある学生が試験の前日に勉強をしないで失敗したとします。その後、同じ学生がまた試験の前日に勉強をせずに失敗した場合、このことわざは次の試験でも同じ行動をとる可能性が高いと警告しているのです。つまり、一度や二度の行動が繰り返されると、それが習慣になる可能性があると考えられます。「二度あることは三度ある」ということわざを理解することで、私たちは過去の行動から学び、将来の失敗を防ぐために行動を改めるきっかけにすることができます。
日本語の諺100選
068 二兎(にと)を追(お)う者(もの)は一兎(いっと)をも得(え)ず
よくばって二つのことをいっぺんにやろうとして、結局両方ともできなくなること。「二兎を追う者は一兎をも得ず」ということわざは、二つの目標を同時に追い求めると、最終的にはどちらも成功しない可能性が高いという教訓を表しています。これは、努力や注意を分散させると、どちらの目標にも集中できず、結果として何も成し遂げられなくなることを意味しています。
例えば、受験生が部活動と勉強を同時に頑張ろうとした場合、どちらも全力を尽くすのは難しいかもしれません。もし、部活にも勉強にも同じ時間とエネルギーを割くことができなければ、試験の成績が下がるか、部活でのパフォーマンスが落ちるかもしれません。そのため、一つの目標に集中し、それを達成した後で次の目標に移る方が実は効果的であるとするものです。
このことわざは、目標を設定する際には、一度に多くのことをしようとせず、ひとつひとつに集中することの大切さを教えてくれます。これによって、各目標に対して最大限の努力を注ぎ、成功の確率を高めることができるのです。
日本語の諺100選
069 濡(ぬ)れ手(て)で粟(あわ)
何の苦労もしないで、もうけること。
「濡れ手で粟」という言葉は、文字通りには「濡れた手で粟(あわ)をつかむ」という意味ですが、ことわざとして使われる際には、「何の努力もせずに、簡単に大きな利益を手に入れること」を表しています。この表現は、たとえば水に濡れた手が何かをつかむと、粒などが手にくっつきやすい様子から来ています。つまり、予想以上に少ない努力で、思いがけず大きな成果を得られる状況を描写する際に用いられます。このことわざは、日常生活やビジネスの世界など、さまざまな場面で使われることがあります。例えば、誰かが特に苦労をしないのに昇進したり、大きな遺産を突然相続したりした場合などに、「濡れ手で粟を得た」と表現することができるでしょう。また、特に大きな努力をせずに利益を得たという意味合いを含んでいることから、周囲の人々にとっては、羨ましいといった感情や、不公平であると感じられることもあるでしょう。
日本語の諺100選
070 猫(ねこ)に小判(こばん)
どれほど貴重なもの・高価なもの・価値のあるものでも、持ち主がそれを知らなければ何の値打ちもない。すばらしいものを見せても、効果や反応がない事を意味することもある。「猫に小判」ということわざは、価値のあるものや高価なものを理解できない人に与えても、その価値が全く認識されないことを意味しています。文字通りには「猫に金の小判を与える」という意味ですが、猫にとって金の小判は何の価値もないため、それを喜ばないという事実から来ています。例えば、美術品や高級ワインなど、特別な知識や興味がないと価値がわかりにくいものを、それについて何も知らない人に渡しても、彼らにはその真価を理解できませんし、感謝もされないかもしれません。これは、日常生活で適切な人に適切なものを提供する重要性を教えてくれる教訓とも言えるでしょう。「猫に小判」ということわざを通じて、私たちは人とのコミュニケーションや物の価値についてより考えるきっかけを得ることができるのではないでしょうか。相手が何に価値があると感じるのかを理解し、それに基づいて行動することが大切だというメッセージが込められています。「ことわざを知る辞典」によると、江戸中期には、「猫に小判を見せたよう」と直喩の形式でしたが、「猫に小判」と簡潔な暗喩にすることで、ことわざらしい表現になったようです。後期には、上方のいろはかるたに採用され、さらにひろく知られるようになったとされています。
日本語の諺100選
071 寝耳(ねみみ)に水(みず)
思いがけない出来事が、突然起きてびっくりする様子。「寝耳に水」ということわざは、非常に突然で予期しない出来事が起こり、それに対して驚く様子を表しています。この表現の背景には、文字通り「寝ている耳に水がかかる」という状況を想像すると分かりやすいでしょう。普段、何も予期せず安心して寝ているところに、いきなり水をかけられたら、誰でもびっくりして飛び起きるはずです。このように、日常生活で何の前触れもなく突然起こった出来事に直面したときの驚きや戸惑いを、この表現はうまく捉えています。こういった理由から、このことわざは、特に理由も予兆もなく、突然に生じた状況について話す際に用いられることが多いです。例えば、突然の大きなトラブルに見舞われた場合や、予期しないニュースを聞いた時など、様々な場面で使われます。また、この表現を用いることで、そのニュースや出来事が自分にとってどれだけ予想外だったかを強調することができるのです。「ことわざを知る辞典」によると、太閤記などの古い文献では「寝耳に水の入りたるごとし」あるいは「寝耳に水の入るごとし」とあり、後にこれらを簡略にしたものとされています。
日本語の諺100選
072 能(のう)ある鷹(たか)は爪(つめ)を隠(かく)す
実力や才能のある者は、むやみにそれを表に出さず、いざという時にだけその力を発揮するという意味。「能ある鷹は爪を隠す」ということわざは、本当に能力のある人は、その能力を見せびらかさず、控えめに振る舞うという意味です。この表現は、鷹が獲物を捕らえるために使う鋭い爪を、普段は隠しており、必要な時だけ見せる様子から来ています。同様に、人間でも自分の才能や成果を誇示することなく、謙虚にふるまうことが真の強さや能力の表れとされています。特に、周りを圧倒することなく、自然体でいることで、他人からの信頼や尊敬を得やすくなるという教訓が含まれており、自分の能力を過信せず、常に謙虚な姿勢でいることが、将来的に大きな成功につながるというメッセージが込められていると言えるでしょう。「ことわざを知る辞典」によると、鷹が「爪を隠す」というのは、爪がまったく見えないように隠すということではなく、むやみに爪を立てて相手を威嚇しない意とされています。また、比喩に「鷹」が出てくる背景には、古くから公家や武家の間で好まれてきた鷹狩りがあったとされています。
日本語の諺100選
073 喉(のど)もと過(す)ぎれば熱(あつ)さを忘(わす)れる
どんな苦痛や苦労も、それが過ぎると、その苦痛も苦労も忘れてしまうということ。また、苦しい時に助けてもらった恩や恩人を、楽になったら人は簡単に忘れてしまうという戒めの意味もある。「喉もと過ぎれば熱さを忘る」ともいう。「喉もと過ぎれば熱さを忘れる」ということわざは、何か困難なことや辛い経験があっても、その事態が一度過ぎ去れば、その大変だったことをすぐに忘れてしまうという意味です。このことわざは、人が苦しい状況を乗り越えた後で、その時感じた痛みや苦しみを思い出さなくなる心理を表しています。例えば、熱いお茶を飲む時、その瞬間はとても熱く感じますが、喉もとを過ぎ飲み終わった後にはその熱さをすぐに忘れてしまいます。このことわざは、人の記憶や感謝の気持ちが時と共に薄れていく様子を表しており、私たちに対して、受けた恩は忘れずに感謝を持ち続けるべきだと教えてくれます。また、過去の困難に対しても、それを乗り越えた経験を大切にすることの重要性を示唆しています。「ことわざを知る辞典」によると、多くは体験に学ばない者や恩義を忘れる者を批判して使われますが、少数ながら「福翁自伝」のように肯定的に使う例もあるとされています。
日本語の諺100選
074 暖簾(のれん)に腕(うで)押(お)し
相手の反応や手応えがない事や、張り合いがないという意味。「暖簾に腕押し」ということわざは、どんなに力を入れても暖簾(のれん)はただの布なので、力を押し込んでも何の抵抗も感じられず、効果がないことを表します。この表現は、何か行動をしても全く結果が得られない状況や、相手との対話が意味を成さない無駄な努力という意味で使われます。どんなに努力しても目に見える成果や反応が得られないことのたとえとして覚えておくと良いでしょう。例えば、誰かに何度説明しても理解してもらえない場合や、問題を解決しようとしても全く進展がない場合にこのことわざを使うとよいでしょう。「ことわざを知る辞典」によると、比喩としては、「糠に釘」や「豆腐にかすがい」と同様に、力をこめても徒労に終わることですが、ニュアンスは微妙に異なるようです。「糠」や「豆腐」と違って、「暖簾」の場合は、どうも相手のほうが一枚上手で、うまくあしらわれる感じが否めないとされています。