|
大隈庭園(おおくまていえん)は、東京都新宿区戸塚町一丁目にある日本庭園。大隈重信旧邸の庭園で[2]、早稲田大学早稲田キャンパスの一角に所在する。庭園の面積は約3,000平方メートル。
歴史
この場所には江戸時代後期の天保年間以降[2]、彦根藩井伊家や高松藩松平家の下屋敷があった[2]。この時期に築かれた大名庭園が大隈庭園のもととなっている[2]。池泉回遊式庭園は近江八景をもとにしているという[2]。
明治維新後、この庭園の所有者は転々としたが[2]、1874年(明治7年)に大隈重信が入手して別邸とした[2]。1882年(明治15年)、大隈は隣接地を東京専門学校(現在の早稲田大学)開設のための用地として購入[2]。1884年(明治17年)に大隈はこの邸宅を本邸とし[2]、この際に庭園を和洋折衷式に改修している[1][2](作庭者は佐々木可村[1])。園芸にも熱心であった大隈は、庭園に温室や菜園を設けて洋ランやメロンなどを育てた[2]。
1922年(大正11年)に大隈が没すると、庭園は早稲田大学に寄付され[1][2]、大隈会館の庭園として[1]一般公開された[2]。1945年5月の空襲で深刻な被害を受けたが[1][2]、戦後ほぼ復旧された[1][2]。
庭園内
庭園には広大な芝生、小川、季節の植物、散歩道があり、提灯や小さな石塔、彫像が置かれている。
中華民国獅子像
1983年(昭和58年)、早稲田大学創立100周年を記念して、台湾校友会から寄贈されたもの。
エミレの鐘と韓鐘閣
エミレの鐘は、聖徳大王神鐘(通称エミレの鐘)の約1/2の縮小レプリカで、1983年(昭和58年)に早稲田大学創立100周年を記念して、韓国校友会から寄贈された[2]。当初鐘は大隈記念講堂内に展示されていたが[2]、早稲田大学創立125周年を記念して韓国校友会から韓国式の鐘楼が庭園内に寄贈され、2004年(平成16年)に鐘が鐘楼にかけられた[2]。
童子石・文人石
朝鮮王朝時代の石像。早稲田大学創立125周年を記念して2007年(平成19年)に高麗大学校校友会会長から寄贈された[2]。
孔子像
2008年(平成20年)、中華人民共和国から寄贈された[2]。設計・製作は山東省政府[2]。
完之荘
1952年(昭和27年)、校友の実業家小倉房蔵(雅号が完之)から寄贈された建築物[2]。飛騨地方にあった古民家[2]。
旧大隈邸門衛所
1902年(明治35年)に建設された大隈邸の門衛所[2]。戦災も免れ、早稲田大学の敷地内で最も古い建築物である[2]。
大隈綾子像
大隈重信夫人[2]。朝倉文夫作[2]。1927年(昭和2年)に早稲田大学創立45周年記念として、大隈信常により寄贈・建立[2]。
田中穂積像
早稲田大学第4代総長[2]。朝倉文夫作[2]。1957年(昭和32年)に早稲田大学創立75周年記念として、校友会により建立[2]。
----------------------------------------------------------------
大隈 重信(おおくま しげのぶ、1838年3月11日〈天保9年2月16日〉- 1922年〈大正11年〉1月10日)は、日本の政治家[1]・教育者。位階勲等爵位は従一位大勲位侯爵。菅原姓[2]。
参議、大蔵卿、内閣総理大臣(第8・17代)、外務大臣(第3・4・10・13・28代)、農商務大臣(第11代)内務大臣(第30・32代)、枢密顧問官、貴族院議員。報知新聞経営者(社主)[3]。聖路加国際病院設立評議会会長[4]。同志社大学社友[5]。
通貨・円の制定、日本初の鉄道敷設[6][7]、政党内閣制を基軸にした即時国会開設を主張するなど議会制推進。
早稲田大学を創設し官学に匹敵する高等教育機関を育成するために力を注いだ。また、日本における女子高等教育の開拓者の1人であり、成瀬仁蔵と共に日本女子大学を創設[8]。立教大学の発展にも携わった[9][10]。
略歴
幕末佐賀藩の上士の家に生まれて志士として活躍し、明治維新期に外交などで手腕をふるったことで中央政府の首脳となり、参議兼大蔵卿を勤めるなど明治政府の最高首脳の一人にのぼり、明治初期の外交・財政・経済に大きな影響を及ぼした。明治十四年の政変で失脚後も立憲改進党や憲政党などの政党に関与しつつも、たびたび大臣の要職を勤めた。明治31年(1898年)には内閣総理大臣として内閣を組織したが短期間で崩壊し、その後は演説活動やマスメディアに意見を発表することで国民への影響力を保った。大正3年(1914年)には再び内閣総理大臣となり、第一次世界大戦への参戦、勝利し、対華21カ条要求などに関与した。また教育者としても活躍し、早稲田大学(1882年、東京専門学校として設立)の創設者であり、初代総長を勤めた[11]。早稲田大学学内では「大隈老侯」と現在でも呼ばれる[12]。
生涯
生い立ち
佐賀県佐賀市に現存する大隈の生家(国の史跡に指定)
佐賀藩士時代の大隈
天保9年(1838年)2月16日、肥前国佐賀城下会所小路(現・佐賀市水ヶ江)に、佐賀藩士の大隈信保・三井子夫妻の長男として生まれる。幼名は八太郎。大隈家は、知行400石[13](物成120石[13][14][注釈 2])を食み、石火矢頭人(砲術長) を務める上士の家柄であった。幕末の上士出身で明治後半まで活躍した元勲には井上馨、板垣退助、後藤象二郎ら総理大臣には就けなかった者が多いが、大隈は数少ない例外である。
重信は7歳で藩校弘道館に入校し、『朱子学』中心の儒教教育を受けるが、これに反発し、安政元年(1854年)に同志とともに藩校の改革を訴えた。安政2年(1855年)に、弘道館の南北騒動をきっかけに退学となった[16]。このころ、枝吉神陽から国学を学び、枝吉が結成した尊皇派の「義祭同盟」に副島種臣、江藤新平らと参加した。のち文久元年(1861年)、鍋島直正にオランダの憲法について進講し、また、蘭学寮を合併した弘道館教授に着任したが、実際には講義は殆ど行わず、議論や藩からの命を受けて各地で交渉を行うなどの仕事をしている[17]。
文久2年(1862年)より、副島種臣、前島密らと共に米国聖公会のアメリカ人宣教師チャニング・ウィリアムズ(立教大学創設者)の私塾で英学を学ぶ[18][9][19][注釈 3]。ウィリアムズの私塾で儒学者の谷口藍田と知り合い、その後深く交遊していく[21]。
大隈は、長州藩への協力および江戸幕府と長州の調停の斡旋を説いたが、藩政に影響するにはいたらなかった。慶応3年(1867年)、長崎の五島町にあった諌早藩士山本家屋敷を改造した佐賀藩校英学塾「蕃学稽古所」(翌年、致遠館と改称[22])の校長で、オランダ出身の宣教師グイド・フルベッキに英学を学んだ。このころにアメリカ独立宣言などを知り、大きく影響を受けた。致遠館では、舎長・督学の副島種臣と共に教頭格となって指導にあたった。また京都と長崎を往来し、尊王派として活動した。慶応3年(1867年)、副島とともに将軍・徳川慶喜に大政奉還を勧めることを計画し、脱藩して京都へ赴いたが、捕縛のうえ佐賀に送還され、1か月の謹慎処分を受けた。謹慎後、大隈は鍋島直正の前に召され、積極行動を呼びかけたが容れられなかった[23]。
明治維新時の活躍
長崎時代の大隈重信(前列中央)。左端は伊藤博文、右端は井上馨。後列左より久世治作、中井弘。撮影・内田九一
慶応4年[注釈 4](1868年)、幕府役人が去った長崎の管理を行うために、藩命を受けて長崎に赴任した[23]。長崎では有力藩士との代表とともに仮政府を構成していたが、2月14日には朝廷より長崎裁判所総督澤宣嘉と参謀井上馨が赴任、引き継ぎを行った[24]。まもなく裁判所参謀助役として、外国人との訴訟の処理にあたった。3月17日、徴士参与職、外国事務局判事に任ぜられた。大隈の回想によれば、井上馨が「天下の名士」を長崎においておくのは良くないと木戸孝允に推薦したためであるという[25]。当時隠れキリシタンの弾圧である浦上四番崩れについて、各国政府との交渉が行われており、大隈はイギリス公使パークスとの交渉で手腕を発揮し、この問題を一時的に解決させ、政府内で頭角を現すこととなった[26][27]。この交渉の成功は、ウィリアムズとフルベッキから学んだ英学とキリスト教の知識の恩恵であった[20]。また、交渉には谷口藍田が同行している[27]。12月18日には前任の小松清廉の推挙により、外国官副知事に就任した[28]。
新政府での活動
「大隈財政」も参照
壮年期の大隈
明治2年(1869年)1月10日、再び参与に任じられ、1月12日からは会計官御用掛に任ぜられた[29]。これは当時贋金問題が外交懸案の一つとなっていたためであり、大隈は財政や会計に知識はなかったが、パークスと対等に交渉できるものは大隈の他にはなかった[30]。2月には旧旗本三枝七四郎の娘、三枝綾子と結婚した[31]。美登との離婚は明治4年(1874年)に成立している[32]。
3月30日には会計官副知事を兼務し、高輪談判の処理や新貨条例の制定、版籍奉還への実務にも携わった。4月17日には外国官副知事を免ぜられたが、それ以降もパークスとの交渉には大隈があたっている[33]。7月8日の二官六省制度の設立以降は大蔵大輔となった。このころから木戸孝允に重用され、木戸派の事実上のナンバー2と見られるようになった[34]。またこのころから「八太郎」ではなく「重信」の名が使用されるようになる[35]。7月22日には民部大輔に転じ、8月11日の大蔵・民部両省の合併に基づき双方の大輔を兼ねた[35]。このころ大隈邸には伊藤博文や井上馨、前島密や渋沢栄一といった若手官僚が集まり、寝起きするようになった。このため大隈邸は「築地梁山泊」と称された[36]。強大な権限を持つ大蔵省の実力者として、地租改正などの改革にあたるとともに、殖産興業政策を推進した。官営の模範製糸場、富岡製糸場の設立、鉄道・電信の建設などに尽くした。しかしこれは急進的な改革を嫌う副島種臣や佐々木高行・広沢真臣といった保守派や、民力休養を考える大久保利通らの嫌うところとなった。
日本初の鉄道敷設計画
大隈や伊藤が鉄道計画を立てたのは1869年から1870年ごろのことと考えられる。井上馨や渋沢栄一に相談された大隈は「賛成せざりしにあらざれども、時の情勢に危ぶところあり」が「斥けかかる反動の気焔を挫かんには、かかる大事業を企成して天下の耳目を新たにするに如くはなし」と答えている[37]。
明治2年11月5日(1869年12月7日)、右大臣三条実美の東京邸宅において岩倉具視、沢宣嘉、大隈重信、それに伊藤博文がパークスと非公式に会談しているが、大隈と伊藤が事前にパークスと協議した脚本どおりに議事は進行。「折から東北・九州は凶作に見舞われ、北陸・近鉄は反対に豊作と聞く。鉄道があれば豊作地の米を凶作地に短時間で大量に輸送することが可能になり、以降の日本は凶作への不安から解放される」というパークスの主張に三条・岩倉ともに手を打って賛同し、明治2年11月10日(1869年12月12日)には鉄道敷設が正式に廟議決定された。その内容は「幹線として東西両京(東京⇔京都)を結び、支線として東京⇔横浜線ならびに琵琶湖⇔敦賀港線を敷設するが、その第一着手線としたのは、ときの政治拠点と外交拠点を直結するという意味以外に、爾後の鉄道拡張に必要な資材を外国から輸入する港湾の確保という意味もあったようである[38]。12月には廟議で東京と関西を結ぶ幹線と、枝線として東京-横浜間の計画が決定し、手始めに東京-横浜間が建設されることとなった。
この際に決まった東京-関西のルートは中山道沿いを通るもので、山間部の開発に繋がることと、海に近い東海道では軍艦からの攻撃を受けやすいので避けたいという陸軍の意向も働いたという[39]。ただ大隈は『大隈重信自叙伝』にて「その計画は、鉄道敷設の起点を東京とし、横浜より折れて東海道を過ぎり、京都・大阪を経て神戸に達するを幹線と為し、京都より分かれて敦賀に至る支線を敷き、この幹線と支線とを以て第一着手の敷設線路と為し、これより漸次してついに全国に及ぼさんと図りしなり」と述べている[37]。結局、中山道ルートは山間部の開発があまりにも困難と判断されたようで、前述の1869年12月廟議の計画は東海道ルートを通るよう変更された。
資金は外債募集に頼ることとなった。そのため「我が神洲の土地を典じて外債を募集する」という陸軍・兵部大輔の前原一誠を筆頭として反対運動が発生し、鉄道を建てる試験のための電信線を傷つけ電線を切断するなどの行為があったようである。因みに兵部の西郷隆盛の反対があり、最初の京浜鉄道は陸路を使う事ができず海を埋め立てて通したとも言われれる。また枢密院議長だった黒田清隆も当初は大反対だったものの、1871年1月から5月にかけてアメリカ合衆国やヨーロッパ諸国を旅行して鉄道の重要性を体感し、賛成に転じたと大隈は述べている[37]。
明治2年11月10日(1869年12月12日)に鉄道敷設の正式決定した2日後には大隈重信と伊藤博文はレイと仮契約を交わした。レイ借款が100万ポンドの借款で、30万ポンドは鉄道敷設に使い、残りは外債償却に使用するものであった[38]。また大隈重信が外国では鉄道の軌間基準がどうなってるかレイに訪ね、それに対し日本のような川や山が多く平地が少ないところでは、南アフリカなどに敷設されている3フィート6インチ(1067mm:ケープゲージ)が適当だと勧められたため、これを導入している。ただしこれはレイが同じケープゲージを採用していたインドの中古資材を購入して、その利ざやを稼ぐための意図があっての回答であり、欧米の通常軌道より狭いものであった。このため大隈は後年、一生一代の不覚であったと悔やむこととなった。ただ1870年5月20日にイギリスから『タイムズ』が大隈らのもとに届き、そこに4月23日にレイがロンドンにおいて公債公募による詐欺を行っていたとする記事が掲載されていたため、レイ借款を即時解除するという騒動に発展した[40]。
1871年7月半ば、横浜港にイギリスから届いた機関車と客車が陸揚げされた(基本的にこの京浜鉄道は外国からの中古品や流れものによって構成されていたようだ[40])。伊藤と岩倉は11月12日より岩倉使節団として欧州に出発し日本を不在にしたため、日本初の鉄道開業は留守を司る大隈のもとで行われることになった。1872年6月12日(明治5年5月7日)に品川-横浜間で仮営業を開始し、同年10月14日(明治5年9月12日)に開業している。
明治4年以降
明治4年6月25日、大久保主導の制度改革で参議と少輔以上が免官となり、新参議となった木戸と西郷隆盛によって新たな人事が行われることになった。大隈はこの日参議と大蔵大輔を免ぜられ、6月29日に大蔵大輔に再任された。しかし7月14日には参議に任ぜられ、大蔵大輔は免ぜられた[41]。11月12日に岩倉使節団が出国すると、大隈は留守政府において三条・西郷らの信任を得て、勢力を拡大し、大蔵大輔となっていた井上馨と対立するようになる[42]。1873年(明治6年)5月に井上が辞職すると、大蔵省事務総裁を兼ねて大蔵省の実権を手にした。5月26日には大蔵卿の大久保が帰国したが、その後も実権を握り続けた[43]。
一方でウィーン万国博覧会の参加要請を日本政府が正式に受け、博覧会事務局を設置。大隈が総裁、佐野常民が副総裁を務め、明治になって政府が初めて参加した万国博覧会となり、近代博物館の源流となった。大隈は会場に出席するため渡欧しようとしたが、政府内の同意が得られず出国しなかった[44]。
明治六年政変では、当初征韓論に反対の態度を示さなかったが、10月13日以降反征韓派としての活動を始めた[45]。征韓派は失脚し、佐賀藩の先輩であった江藤新平・副島種臣と袂を分かった。政変後の10月25日には参議兼大蔵卿になった[46]。また大久保利通と連名で財政についての意見書を太政官に提出している。
大久保政権下の活動
明治7年(1876年)1月26日には三条より、大久保とともに台湾問題の担当を命ぜられ、積極的に出兵方針を推し進めることになる[47]。4月4日には台湾蕃地事務局長官となり、出兵のための船を閣議に図らず大蔵卿の職権で独断で確保した[48]。大隈は出兵を命ぜられた西郷従道とともに長崎に向かったが、その間にイギリスとアメリカから抗議があったため、出兵を一時見合わせる方針となった。ところが西郷は独断で出兵を行い、政府も追認せざるを得なくなった。この間、大隈が西郷の出兵を止めようとしたという記録は残っていない[49]。大隈は出兵後も駐兵を続けるべきと主張していたが、大久保らが早期撤兵の方針を取ると、それに従った[50]。5月23日には左大臣となっていた島津久光が、大隈とその腹心である吉田清成の免職を要求した。大隈は病気を理由に辞表を提出したものの、台湾問題の最中に担当者である大隈を辞職させることもできず、久光の意見は却下された[51]。
明治8年(1875年)1月4日には「収入支出ノ源流ヲ清マシ理財会計ノ根本ヲ立ツルノ議」という意見書を三条宛に提出し、条約改正の実現と、間接税の重視と内需の拡大、官営事業の払い下げなどを主張している[52]。2月11日の大阪会議の開催については全く知らされておらず、大隈を嫌うようになっていた木戸の復帰は、大隈の権力基盤を脅かすこととなる[53]。このころから大隈は体調を崩したとして出仕せず、三条・岩倉・大久保らは大隈の大蔵卿からの解任を検討しているものの、後任候補の伊藤が受けなかったことや、大隈以上の財政家がいないことを理由に大隈を慰留して続投させた[54]。しかし復帰した木戸と板垣退助も大隈の辞任を要求し、大久保が大隈を庇護する形となった[55]。久光と板垣が10月29日に辞職し、木戸も病気が悪化したことで大隈への攻撃は消滅することとなる[56]。
伊藤政権下の大隈
明治11年(1878年)5月14日に大久保が紀尾井坂の変によって暗殺されると、政府の主導権は伊藤に移った[57]。大隈は大久保暗殺を聞いた後、伊藤に「君が大いに尽力せよ、僕はすぐれた君に従って事を成し遂げるため、一緒に死ぬまで尽力しよう」と述べている[57]。
大隈は、会計検査院創設のための建議を行っており、会計検査院は明治13年(1880年)3月に設立された。明治14年(1881年)には、正確な統計の必要性を感じ統計院の設立を建議・設立し、自ら初代院長となった。
1879年6月27日、大蔵卿大隈は、地租再検延期・儲蓄備荒法の設定・紙幣消却の増額・外国関係の度支節減・国債紙幣償還法の改正の「財政四件ヲ挙行センコトヲ請フノ議」を建議する。
明治13年(1880年)2月28日、参議の各省卿兼任が解かれ、大隈も会計担当参議となった[58]。大隈は佐賀の後輩である佐野常民を大蔵卿とし、財政に対する影響力を保とうとしたが、大隈が提案した外債募集案に佐野も反対したことで、大隈による財政掌握は終焉を迎えた[59]。またこのころから伊藤・井上らから冷眼視されるようになり、井上は駐露公使に大隈を据えるなどの左遷案を提案している[60]。
明治十四年政変
「明治十四年の政変」も参照
そのころ自由民権運動の盛り上がりにより、各参議も立憲政体についての意見書を提出する動きがあったが、大隈はこれになかなか応じなかった。明治14年(1881年)1月には伊藤・井上・黒田清隆とともに熱海の温泉宿で立憲政体について語り合ったが結論は出なかった[61]。3月、大隈は意見書[注釈 5]を提出するが、それは2年後に国会を開き、イギリス流の政党内閣とするという急進的なものであり、しかも伊藤ら他の内閣閣員には内密にしてほしいという条件が付けられていた[62]。7月にこの意見書の内容を知った伊藤は驚愕し、大隈は「実現できるような見込みのものではない」と弁明したが[63]、伊藤は抗議のため出勤しなくなり、大隈は7月4日に謝罪することとなる[64]。
7月26日、自由民権派の『東京横浜毎日新聞』が北海道開拓使による五代友厚への格安での払い下げを報道し、世論が沸騰した[65]。参議の間ではこの件をリークしたのが大隈であるという観測が広がり、孤立を深めることとなった[65][注釈 6]。大隈が自らを排除する動きが進んでいたのを知ったのは10月3日のことであり、10月11日には払い下げの中止と、明治23年(1890年)の国会開設、そして大隈の罷免が奏上され、裁可された。これは同日中に伊藤と西郷従道によって伝えられ、大隈も受諾した[66]。10月12日に大隈の辞任が公表されると、小野梓ら大隈系の官僚や農商務卿河野敏鎌、駅逓総監前島密らは辞職した。また大隈派官僚とつながりがあるものも罷免された[67]。
立憲改進党の設立
東京専門学校(1884年5月)
野に下った大隈は、辞職した河野、小野梓、尾崎行雄、犬養毅、矢野文雄らと協力し、10年後の国会開設に備え、明治15年(1882年)4月には立憲改進党を結成、その党首となった。また10月21日には、小野梓や高田早苗らと「学問の独立」「学問の活用」「模範国民の造就」を謳って東京専門学校(現・早稲田大学)を、北門義塾があった東京郊外(当時)の早稲田に開設した[68]。明治20年(1887年)、伯爵に叙され、12月には正三位にのぼっている[69]。
外務大臣
遭難事件により右脚切断の重傷を負った大隈(病院にて。両側の4人は看護婦)
遭難事件で右脚を失った大隈が使用した義足(佐賀市・大隈記念館)
明治20年(1887年)8月、条約改正交渉で行き詰まった井上馨外務大臣は辞意を示し、後任として大隈を推薦した[70]。伊藤は大隈と接触し、外務大臣に復帰するかどうか交渉したが、大隈が外務省員を大隈の要望に沿うよう要求したため、交渉はなかなか進まなかった[71]。明治21年(1888年)2月より大隈は外務大臣に就任した[72]。このとき、外相秘書官に抜擢したのが加藤高明である[72]。 また河野、佐野を枢密顧問官として復帰させ、前島密を逓信次官、北畠治房を東京控訴院検事長に就任させている[73]。同年、黒田清隆が組閣すると大隈は留任するが、外国人判事を導入するという条約案が「官吏は日本国籍保持者に限る」とした大日本帝国憲法に違反する[注釈 7]という指摘が陸奥宗光駐米公使より行われた[74]。大隈は裁判所構成法の附則から違憲ではないと主張するが、井上毅法制局長官からも同様の指摘が行われた。山田顕義法務大臣は外国人裁判官に日本国籍を取らせる帰化法を提案し、伊藤枢密院議長、井上馨農商務大臣もこれに同意して条約改正交渉の施行を遅らせるよう求めた[74]。大隈は帰化法の採用には応じたものの、条約改正交渉の継続を主張した。大隈を支持するのは黒田首相と榎本武揚文部大臣のみであり、また世論も大隈の条約改正に批判の声を上げた[75]。
明治22年(1889年)10月18日には国家主義組織玄洋社の一員である来島恒喜に爆弾による襲撃(大隈重信遭難事件)を受け、一命はとりとめたものの、右脚を大腿下三分の一で切断することとなった[76][注釈 8]。大隈の治療は、池田謙斎を主治医とし、手術は佐藤進・高木兼寛・橋本綱常・エルヴィン・フォン・ベルツの執刀で行われた[76]。翌10月19日、東京に在留していた薩長出身の閣僚すべてが条約改正延期を合意し、黒田首相も条約改正延期を上奏、10月23日に大隈以外の閣僚と黒田の辞表を取りまとめて提出した[78]。大隈は病状が回復した12月14日付で辞表を提出し、12月24日に裁可、大臣の前官礼遇を受けるとともに同日に枢密顧問官に任ぜられた[78]。
その後大きな活動は見せなかったが、裏面で改進党系運動に関与しており、明治24年(1891年)11月12日には政党に関わったとして枢密顧問官を辞職することとなっている[79]。12月28日には立憲改進党に再入党し、代議総会の会長という事実上の党首職についた[80]。これ以降大隈は新聞紙上に意見を発表したり、実業家らの前で演説をすることも増えていく[81]。明治26年(1893年)3月25日には進歩党系新聞の『郵便報知新聞』紙上で「大隈伯昔日譚」の連載が開始されている[82]。
明治29年(1896年)3月1日には立憲改進党は対外硬派の諸政党と合同し、旧進歩党を結成した。大隈は新党において中心的存在とされたものの進歩党には党首職はなく、8か月たってから設置された5人の総務委員のうち大隈派と呼べるのは尾崎行雄と犬養毅にとどまり、内訌を抱えたままの存在であった[83]。4月22日から5月17日には、長崎赴任以来28年間帰省していなかった佐賀に戻り、大規模な演説会などを催している[84]。
松隈内閣
詳細は「第2次松方内閣」を参照
ブラックタイを着用した大隈
6月、伊藤博文首相は大隈と松方を入閣させて、実業家層の支持を得るとともに、内務大臣となっていた板垣の自由党勢力を抑えることを考慮するようになった。板垣は反対したが、松方は入閣に際し大隈の入閣を条件とした[85]。8月31日に伊藤は辞任し、元老会議では山縣が推薦されたが病気を理由に辞退した[86]。元老会議は松方を推薦し、9月18日、第2次松方内閣(「松隈内閣」と呼ばれる)が発足した。9月22日、松方との協議で大隈は外相に就任したが、尾崎行雄の回想によれば、一時大隈が怒って入閣が流れそうになったこともあったという[87]。進歩党員からの入閣はなかったが、内閣書記官長として進歩党の高橋健三が、また内閣法制局長官に進歩党に近い神鞭知常が就任している[88]。
10月25日、小雑誌『二十六世紀』に伊藤と土方久元宮内大臣を批判する記事が掲載された。『二十六世紀』には高橋内閣書記官長が関与している雑誌であり、閣議ではこの雑誌の発行禁止措置を巡って議論が起きた[89]。大隈は発禁に反対したが、閣議の大勢は発禁を主張する声が高く、結局『二十六世紀』は発禁となった[90]。
明治30年(1897年)3月29日には足尾銅山鉱毒事件で批判を受けていた榎本武揚農商務大臣が辞職し、大隈は農商務相を兼ねることとなった[91]。大隈は次官に大石正巳を就任させるなど進歩党員を農商務省に送り込み、また古河鉱業に対して鉱害対策の徹底を求める一方で、操業は継続させた[91]。10月、松方首相が地租の増徴を図る方針をとると、大隈と進歩党はこれに反対し、10月31日に大隈は辞表を提出した[92]。松方内閣は12月25日に倒れ、後継首相は伊藤博文となった。伊藤は大隈に農商務大臣、板垣に司法大臣の地位を提示して入閣を求めたが、進歩党は大隈を内務大臣とし、更に重要大臣のポストを三つ要求するなど強気の対応を行った[93]。板垣の入閣も行われず、第3次伊藤内閣は政党の支援を得られない形となった。
隈板内閣
詳細は「第1次大隈内閣」を参照
アカデミックドレスを着用した大隈
明治31年(1898年)3月の第5回衆議院議員総選挙で進歩党は第一党となったが、過半数を抑えることはできなかった[94]。6月22日、進歩党は板垣退助の率いる自由党と合同して憲政党を結成した[95]。6月24日、伊藤首相は大隈と板垣に政権を委ねるよう上奏するが、明治天皇は伊藤内閣が存続し、大隈と板垣が入閣するものと勘違いして裁可を行った[96]。明治天皇は勘違いに気がついたが、6月27日に大隈と板垣二人に対して組閣の大命が降下した[97]。板垣が内務大臣の地位を望んだため、大隈が内閣総理大臣兼外相となり、6月30日に大隈内閣が発足した[98]。佐賀県出身の総理大臣は大隈が初めてで、現在まで他に例がない。陸海軍大臣を除く大臣はすべて憲政党員であり、進歩党系からは大隈の他に松田正久大蔵大臣、大東義徹司法大臣、尾崎行雄文部大臣、大石正巳農商務大臣が入閣し、旧自由党系からは板垣を含む3人の大臣が入閣する、日本初の政党内閣であった[98]。大隈と板垣が主導する体制であったため、「隈板内閣」と呼ばれる。しかし、明治天皇も過去の経緯から大隈に対して不信感を持っていたほか、外務大臣職をはじめとするポストの配分を巡って旧自由党と旧進歩党の間に対立が生じているなど前途は多難であった[99]。特に旧自由党の星亨は駐米公使を辞任して帰国し、野合に過ぎない憲政党内閣では本格的な政党内閣とならないとみており、倒閣にむけて動き出すことになる[100]。
このような不安定な情勢であったため、内閣は成果をほとんど挙げられなかった。
星は文相・尾崎行雄の共和演説事件を執拗に攻撃し、板垣内相も明治天皇に上奏して尾崎の罷免を求めた[101]。10月22日、大隈と尾崎に不信感を持っていた天皇は、辞任の是非を問うこともなく大隈に勅使を派遣し、尾崎に辞表を提出させるよう命じた[102]。後任の文部大臣を巡っては進歩党系と自由党系の協議がまとまらず、大隈は首相の職権を使って犬養毅を後継に選んだ[103]。自由党系は大隈に反発し、星を中心として自由党系の三閣僚を辞任させることで倒閣に追い込む工作を開始した[104]。10月29日、自由党系は一方的に憲政党の解党を宣言、新たな憲政党を結成し、進歩党系の三閣僚は辞表を提出した[104]。大隈は進歩党系で閣僚を補充しようとしたが、天皇は大隈と板垣に対して大命を下していたことからこれを認めなかった[104]。すでに各新聞からも内閣は見放されており、10月31日に大隈らは辞表を提出した[105]。
憲政本党総理
「憲政本党」も参照
11月3日、旧進歩党は憲政本党を結成した[106]。大隈は党の中心的人物であったが、内紛のため党首を置くことはできなかった[106]。明治32年(1899年)8月、伊藤は旧自由党派とともに立憲政友会を結成した[107]。このとき、大隈の側近であった尾崎行雄は脱党し、政友会に参加している[107]。明治33年(1900年)12月18日、大隈は憲政本党の党首である総理に就任した[108]。しかし憲政本党は政友会に押されて振るわず、翌年3月までに33名の議員が離脱した[108]。また桂園時代には裏面で桂太郎首相と連携しようと動いたが、与党にもなりきれなかった[109]。 明治35年(1902年)には伊藤と大隈が会談し、憲政本党と立憲政友会の合同、大隈の蔵相就任も噂されたが幻に終わった[110]。
議員の中からは党体制の改革を求める声が高まった。明治39年(1906年)3月には東北地方選出の議員が執行部の公選制を要求し、裏面で大隈の引退ないし元老化を求める動きが活発となった[111]。この動きには大隈の側近であった大石正巳も加わっていた[112]。11月には大隈側近の犬養毅が院内総務に選出されず、大石のみが選ばれ、改革派の伸長が示された[113]。改革派は児玉源太郎、清浦奎吾、大浦兼武ら外部から党首を迎え、桂太郎首相に接近しようとする動きも見せていた[113]。このため大隈は明治40年(1907年)1月20日の党大会で、憲政本党の総理を辞任することを発表した[113]。ただし完全に憲政本党との関係を絶ったわけではなく、明治42年(1906年)には大石派と犬養派の仲裁を求められている[114]。
在野活動
和服を着用した大隈
憲政本党総理を辞して後の大隈は、早稲田大学総長への就任、大日本文明協会会長としてのヨーロッパ文献の日本語翻訳事業、南極探検隊後援会長への就任など、精力的に文化事業を展開した。
明治41年(1908年)米国バプテスト教会の宣教師であったH・B・ベニンホフ博士に依頼し、キリスト教主義の学生寮「友愛学舎」(現在の早稲田奉仕園)を開く。
明治41年(1908年)11月22日に戸塚球場で開催された米大リーグ選抜チーム:リーチ・オール・アメリカンチーム 対 早稲田大学野球部の国際親善試合[115]における大隈重信の始球式は日本野球史上、記録に残っている最古の始球式とされている。大隈重信の投球はストライクゾーンから大きく逸れてしまったが、早稲田大学の創設者にして総長であり、かつ内閣総理大臣を務めた大政治家である大隈の投球をボール球にしては失礼になってしまうと考え、早稲田大学の1番打者で当時の主将だった山脇正治がわざと空振りをしてストライクにした[116]。これ以降、1番打者は投手役に敬意を表すために、始球式の投球をボール球でも絶好球でも空振りをすることが慣例となった[117]。
このころ大隈自身が製作に関わった、明治45年(1912年)6月公開の記録映画『日本南極探検』には、探検隊を自邸に招いた際に撮影されたと見られる、カメラに向かって帽子を取って挨拶する大隈の姿が映像として記録されている[118]。
また新聞などで政治評論を行うことも継続した。明治43年(1910年)2月には憲政本党議員に招待され、事実上の党復帰を果たした[119]。この年以降、大隈は大規模な遊説旅行を行い、政治活動再開への動きを見せていた[119]。明治45年(1912年)、橋本徹馬、加藤勘十の結成した立憲青年党の発会式に大隈は、松村介石、山田三七郎と共に招かれる。
第二次大隈内閣
詳細は「第2次大隈内閣」を参照
大正3年(1914年)にはシーメンス事件で山本権兵衛首相が辞職すると、大隈が首相候補として大きくクローズアップされることとなる。元老山縣有朋が最初に推した徳川家達が辞退すると、元老井上馨の秘書望月小太郎は大隈と接触し、立憲同志会の加藤高明を協力させたうえで、大隈に組閣する気がないかと打診した[120]。大隈は井上の意見と全く同意見であると答えている。山縣が次いで推薦した清浦奎吾が辞退に追い込まれた後(鰻香内閣)、元老会議は大隈しかいないという空気になった[121]。4月10日の元老会議で山縣は大隈を推薦し、井上、大山巌、松方正義も同意した[121]。この日、井上から組閣の打診を受けた大隈は、加藤高明を首相としてはどうかと返答したが断られ、結局自らが首相となることを承諾している[122]。
4月16日、76歳で2度目の内閣を組織した。再び首相に就任するまでの16年というブランクは歴代最長記録である。大隈は首相と内務大臣を兼ねた[123]。与党は立憲同志会、中正会であった。同志会からは加藤高明が外務大臣、若槻礼次郎が大蔵大臣、大浦兼武が農商務大臣、武富時敏が逓信大臣として入閣し、中正会からはかつての側近尾崎行雄が司法大臣として入閣した[124]。立憲国民党はかつての側近であった犬養毅が党首を務めていたが、党を分裂させた加藤を嫌っており、参加しなかった[125]。海軍大臣には非薩摩閥の八代六郎、陸軍大臣は山縣系の岡市之助が就任した[126]。大隈内閣は成立後まもなく、従来薩摩閥が握っていた警視総監に非薩摩閥の伊沢多喜男を就け、また19人の知事と29人の道府県部長を移動させるなど地方人事も大幅な変更を行った[127]。更に海軍でも薩摩閥の有力者を閑職においやり、山本権兵衛・斎藤実といった大物を予備役に編入するなどの粛軍を行った[128]。また文政一元化の名のもとに内務省の所管であった伝染病研究所の文部省移管を強行、北里柴三郎所長以下部長・研究員は抗議し、全員辞職した(伝染病研究所移管事件)。大正5年(1916年)には、伝染病研究所は東京帝国大学医学部附置研究所となり、野に下った北里の北里研究所としのぎを削ることになった[129]。
7月、第一次世界大戦が起こると、中国大陸での権益確保のためにも連合国側に立っての参戦を求める声が高まった[130]。加藤高明外務大臣は元老の介入を嫌い、元老との協議なしに閣議のみで参戦決定を行い、山縣を激怒させた[131]。ただし、参戦自体は元老も支持していたため決定は覆ることはなく8月23日に対独宣戦布告を行った。大隈は加藤をイギリス流の政治を行う後継者として考えていたが、加藤は独善的であり、大隈も外交に関してはほとんど口出しができなかった[132]。しかし強硬一辺倒の外交方針は山縣など元老の不興も買い、大隈は辞任を求める声から加藤を守る役目を果たさなくてはならなくなる[133]。12月までに日本軍はドイツの拠点である青島要塞や南洋諸島を攻略し、日本は戦勝ムードに湧いた[134]。
12月には二個師団増設問題に反対する政友会と国民党が法案を否決し、大隈は12月25日に衆議院解散に踏み切った[135]。当時、日露戦争以来の不況に国民が苦しんでおり、政友会や藩閥、軍に対する不信も高まっていた[136]。大隈は組閣まもなくから選挙を意識して元老と協議し、また資金集めも重ねてきた[137]。更に大きな武器となったのが大隈個人の人気だった。大隈は全国を鉄道で大規模な遊説旅行を行い、駅ごとに演説を行った[138]。さらに大隈は同志会と中正会に続く第三の与党として、組閣以来全国に成立していた大隈伯後援会を利用した[139]。特に選挙直前に大浦兼武を内務大臣に転任させ、政権の力を利用した激しい選挙干渉は、大隈内閣を支持していた吉野作造をも失望させるほどのものであった[140]。こうして大正4年(1915年)3月25日に行われた第12回衆議院議員総選挙は大隈与党が65%を占める大勝利となった[141]。
対華21カ条要求
詳細は「対華21カ条要求」を参照
1月18日、中華民国政府に対し、権益の継続や譲渡などを求める対華21カ条要求を行う。大隈や井上馨は膠州湾租借地の返還の代償として満州に権益を得ることは考えていたものの、列強にも利権を提供して軋轢を防ぐことを考えていた[142]。しかし加藤外相は陸軍などの強硬な意見をすべて要求に盛り込み、元老との最終的な協議もしないまま中華民国側に提示した[143]。日本人を中華民国政府の官吏として登用させる第5号は、他の要求とは異なり希望条項とされたものの、中国の内政を支配しかねないものであり、加藤外相は同盟国イギリスにも秘匿していた上に、中華民国側にもこれを公表しないように求めていた[144]。しかし中華民国からのリークで英米が知ることとなり、第5号は削除されることとなる[145][146]。
5月9日、中華民国政府は主要な要求を受諾したものの、列強の不信を買い、中国の反植民地運動を高める結果となった[147]。大隈は加藤を後継者として考えており、また外交からも離れて久しかったため、加藤の行動を黙認することになった[148]。大隈は後に雑誌で「要求は侵略的なものではなく当然の権利」「日本は永遠の平和を築こうと誠意を持って交渉したのに、中華民国は外国を介入させて有利に運ぼうとした」と説明している[149]。この後、衆議院では加藤外相弾劾案が提出されるも、大隈系の与党が多数を占めていたため否決された[150]。交渉の詳しい状況や列強の介入については国民に知られていなかったため、大きな政治問題とはならなかった[151]。
改造内閣
大正天皇の即位大礼における大隈重信・綾子夫妻
7月下旬、大浦兼武内相が二個師団増設問題の決議の際、野党議員を買収したという疑惑が明らかになった(大浦事件)[152]。大隈は、大浦による買収工作を知らなかったと平沼騏一郎検事総長に告げているが、その様子を平沼は「狡い」と表現している[153]。7月30日に大浦は辞任し、大隈も監督責任を取るとして辞表を提出したが、これは天皇から留任の沙汰が下ると計算してものであった[152]。大隈の想像通り、大隈に好意を持っていた大正天皇は元老に諮ることなく辞表を却下した[154][注釈 9]。内閣基盤が弱いと感じていた加藤外相を始めとするほとんどの閣僚が辞任するべきと訴えていた[152]。しかし元老らは大正天皇の即位大礼を目前として政変は望ましくないと強く慰留し、また大隈も政権継続の強い意志を持っていたため、8月10日には自身が外務大臣を兼任した改造内閣を発足させた[156]。11月10日には即位大礼が行われたが、義足の身でありながら猛練習を積んだ大隈は、階段上り下りを伴う儀式を遂行した[157]。
後継首相をめぐる暗闘
大正5年(1916年)1月12日、大隈が乗車していた馬車に福田和五郎らの一味8人が爆弾を投げる事件が発生しているが、不発だったために事なきを得ている[158]。このころ井上馨が没し、山縣有朋は元老の強化を図るため、大隈を元老に加えることを考慮し始める[159]。大隈も高齢であり、いつまでも首相を続けるつもりはなかったが、後継に加藤高明を就けようとしたため、山縣との交渉が続くこととなる[160]。6月24日、大隈は大正天皇に辞意を示し、後継に加藤と寺内正毅大将を推薦し、隈板内閣のような両者共同の内閣を作ろうとした[161]。しかしこれは寺内に拒否され、山縣も西園寺公望や政友会とともに単独の寺内内閣を作るために運動を開始する[162]。7月14日に侯爵に陞爵し、貴族院侯爵議員となる[163]。
9月26日、大隈は辞意を内奏し、後継者として加藤を指名した[164]。大隈は大山巌内大臣に、元老会議を開かずに加藤に組閣の大命が下るよう要請したが、大山はこれを拒否し、大山から話を聞いた山縣も激怒した[164]。山縣は「大隈には一年半も欺かれた」と吐き捨てている[165]。10月4日、大隈は辞表を提出したが、辞表の中でも加藤を後継者として指名する異様な形式であった[166]。しかし山縣の運動により、大正天皇は元老への諮問を行い、山縣・松方・大山の三元老と西園寺は寺内を一致して推薦し、寺内内閣が成立した[166]。
退任時の年齢は満78歳6か月で、これは歴代総理大臣中最高齢の記録である。
「準元老」
首相を退任した大隈は、同志会・中正会・大隈伯後援会を合同させた政党の総裁就任を依頼されたが断っている[167]。以降は演説などは行わず、新聞上での評論活動を主な活動としている。大正7年(1918年)9月19日には、寺内首相の後継首相について天皇から下問があり、大隈は西園寺公望を推薦した。しかし西園寺が辞退したため、加藤高明を推薦した。しかし山縣有朋、松方正義、西園寺公望が原敬を奏薦したため、原が首相となった[168]。山縣は大隈を元老に加えることを模索していたが、大隈自身が元老集団に入りたがらなかったことと、松方と西園寺が反対したため正式な元老とならなかった[169]。しかしこのころの新聞報道では大隈を元老視したり、「準元老」として扱った報道も見られる[170]。
死去と「国民葬」
大隈は大正10年(1921年)9月4日から風邪気味となって静養を始めたが、腎臓炎と膀胱カタルを併発して衰弱していった[171]。このころから早稲田大学や憲政会など関係の深い者らにより大隈の顕彰運動が盛んとなり、「国葬」実現や公爵への陞爵[172]、位階・勲等の陞叙を目指して、当時の高橋内閣や元老など政府関係者への工作や、大隈系新聞紙上での顕彰が展開されたが、すでに大勲位菊花章頸飾の授与が決定されていたため、元老である山縣、西園寺、松方、そして宮内大臣の一木喜徳郎も公爵陞爵は過分であると判断した[173]。また、公爵陞爵より重大事であると見られていた国葬については協議も行われなかった[174]。結果的に大隈への栄典は従一位への昇階と菊花章頸飾という形で決着し、大隈関係者が望んだ国葬の開催や陞爵は実現しなかった[175][176]。大正11年(1922年)1月10日4時38分、大隈は早稲田の私邸で死去した[177]。死因は腹部の癌と萎縮腎と発表された[177]。満83歳で亡くなった。
しかし死去当日、大隈の側近で前衆議院議員であった市島謙吉が、「世界的デモクラシーの政治家である大隈」は、「国民葬」の礼を持って送ることがふさわしいと発表した[174]。大隈家は同日、東京市に対して日比谷公園を告別式場として貸与することを申請し、認められている[174]。前宮内大臣の波多野敬直を委員長とした葬儀委員会が、一定の儀式が定められており、一般人の参列ができない国葬ではなく、面識のないものでも参加できる「国民葬」の演出とその成功をねらった準備活動を進めた[178]。1月17日に私邸で神式の告別祭が執り行われたのち[179]、日比谷公園で「国民葬」が挙行された[175]。その名が示すように、式には約30万人の一般市民が参列し、会場だけでなく沿道にも多数の市民が並んで大隈との別れを惜しんだ。大隈・憲政会系の新聞である『報知新聞』は100万人が沿道に並んだと報じている[178]。その後、6時50分より東京都文京区の護国寺にある大隈家墓所で埋葬式が行われ、7時30分に墓標が建てられ、埋葬された[180]。また大阪市・札幌市・京城・北京などの各都市でも告別式が行われている[180]。佐賀市の龍泰寺にも大隈の墓所はある。