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ルネサンスのあだ花 梅毒はコロンブスの「おみやげ」なのか濱田篤郎・東京医科大学特任教授
2023年9月23日
新大陸に到達したコロンブス
ここ数年、国内で梅毒の患者数が増加を続けており、昨年は1万人を超えました。今年もすでに1万人を突破しています。
現代は梅毒の検査や治療法が確立されており、早期に発見し治療を受ければ完治しますが、16世紀にこの病気がヨーロッパで流行を始めた頃は、症状が激烈で、多くの死亡者が出ました。
この流行が始まった時期は、コロンブスの新大陸到達と一致するため、彼らが新大陸から運んできたとする説が有力になっています。今回は梅毒がヨーロッパで拡大した経緯をたどるとともに、それが当時のルネサンス社会に与えた影響について紹介します。
フランス兵の悲惨な姿
1494年秋、フランス国王シャルル8世が、ルネサンス最盛期のイタリアに侵入しました。彼の目的は半島の先端で栄華を誇るナポリ王国の征服にありました。この王国はフランス王家の古い領地でしたが、当時はスペインの支配を受けていたのです。
イタリアでの行軍は難なく進み、1495年2月にはナポリの占領に成功します。フランス兵たちはこの町でしばらく酒色に明け暮れるのですが、兵士の間に原因不明の病気が流行したため、シャルル8世は同年5月に突如撤退を命じました。この撤退途上のフランス兵の悲惨な姿を、ベネチアの軍医が目撃しています。多くの兵士の体は醜い発疹に覆われ、そこから膿汁(のうじゅう)が吹き出していたのです。これが梅毒の最初の記録でした。
この後、母国に帰還した兵士たちは、フランス国内で梅毒を大流行させる起爆剤になりました。シャルル8世のイタリア遠征は、ルネサンス文化をフランスに導入する契機になったといわれますが、同時に梅毒も持ち帰ってしまったのです。
当時の梅毒は急性感染症だった
梅毒はトレポネーマと呼ばれる細菌で起こり、性行為によりまん延します。現在の梅毒はゆっくり進行する感染症で、最初は陰部などに潰瘍が形成されますが、その後は皮膚に発疹や結節が時にみられる程度で、あまり激烈な症状になることはありません。ただし、そのまま放置すると内臓や神経系の強い障害が生じます。
一方、ヨーロッパで流行が始まったばかりの梅毒は、急速に進行する致死性の感染症でした。感染すると全身に発疹が出現し、やがてその部分は膿汁を放つ潰瘍に変化します。この潰瘍は皮膚を深くえぐり、顔にできると鼻が欠けることもありました。さらに骨にはコブが形成され、強い痛みを伴いました。患者は無残な形相になりながら、全身の激痛にあえぎ、死を迎えるのでした。
梅毒によって首にできた潰瘍どこから持ち込まれたか
ヨーロッパでは梅毒がそれまでに流行した記録がなく、1495年から流行し始めたと考えられています。
では、この感染症はどこから持ち込まれたのでしょうか。これには、いくつかの説がありますが、1492年に新大陸に到達したコロンブス一行が、新大陸からヨーロッパに運んだとする説が有力です。
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コロンブスは1492年8月に90人の船員とともにスペインを出発し、10月にカリブ海のバハマ諸島に初めて上陸します。その後、現在のハイチとドミニカ共和国のあるエスパニョーラ島に拠点を建設し、翌年の1月、一部の船員を残しスペインに一時帰国します。スペイン王宮で新大陸到達を報告してから後は、ヨーロッパと新大陸の間を、多くの人々が行き来するようになりました。こうした中で、1495年にナポリで梅毒がまん延し始めたのです。
この時間的な経緯からすると、コロンブスとともに新大陸に渡ったヨーロッパ人たちが、新大陸で先住民の持つ梅毒に感染し、それをスペインに持ち帰ったという説が考えられます。最初の流行が確認されたナポリはスペインの支配下にあったことから、そこで働く傭兵(ようへい)や娼婦(しょうふ)の中にも梅毒の感染者がいたことは十分に考えられます。その渦中にシャルル8世の軍隊が侵入したのです。
新大陸でもともと流行していたのか
では、梅毒は新大陸でコロンブスが上陸する以前から流行していたのでしょうか。これに関しては、いくつかの医学的な検証が行われています。
コロンブス以前に新大陸で生活していた先住民の骨には、梅毒による変化を認めるものもあり、古くから流行していた可能性は高いと考えられています。一方、こうした骨の変化は、コロンブス以前のヨーロッパの人骨には認められていません。
しかし、新大陸の先住民の間で、当時のヨーロッパで流行した梅毒のように、激烈な症状を来す病気は記録されていません。これは、当時の新大陸の先住民にとって、梅毒は現在のように、ゆっくり進行する病気だったからかもしれません。
梅毒流行の起源については、これ以外にもいくつかの説がありますが、現時点で可能性が高いのは、コロンブスたちによって新大陸から運ばれたという説になるようです。
ルネサンスの時代に急拡大
梅毒がヨーロッパで流行を始めた15~16世紀は、ルネサンスの時代の真っただ中で、性的解放が謳歌(おうか)された時代でもありました。こうした風潮の中で、性行為という快楽に仲介される感染症は、瞬く間にヨーロッパ全土にまん延していきました。
ルネサンスはヨーロッパの各国に広まった
さらに梅毒の流行はアジアにも波及し、1498年にはインド、1505年には中国の広東に到達しています。そして、日本でも1512年に京都周辺で、梅毒を疑う患者の発生が記録されています。これはポルトガル人が日本に初上陸する30年以上も前のことでした。
16世紀中ごろになると、梅毒の症状も変化し、現在のようにゆっくりと進行する病気になっていきました。感染経路についても、患者との性行為により感染することが次第に明らかになり、ルネサンスの性的解放を味わう風潮に、大きな歯止めがかかることになります。この時代に発祥したイギリスのピューリタニズムは清純な生活を信条にしており、その成立には梅毒の流行が大きな影響を及ぼしているのです。
各国の王朝が断絶
梅毒は感染した本人だけでなく子孫にも影響を及ぼす病気です。妊婦が梅毒にかかると、多くは流産や死産となりますが、出生しても、子どもに先天性梅毒の重篤な障害を残します。
このことは16世紀のヨーロッパの王朝存続にも影響しました。君主たちの中にも女性との情事から梅毒に感染する者は多く、16世紀後半にはフランスのバロア朝、ロシアのリューリク朝、17世紀早々にはイギリスのテューダー朝が次々と断絶し、新しい王朝が誕生しています。
このように、梅毒の流行はヨーロッパのルネサンス期という不安定な社会状況の中に発生しました。この流行を経て、不安定だったヨーロッパ社会は政治的、倫理的にも秩序を回復し、近世の幕開けを迎えるのです。
現代の梅毒は、流行当初のように急速に進む病気ではありませんが、治療が遅れると内臓や神経が障害されるだけでなく、生まれてくる子どもにも影響を及ぼす恐れがあります。現代社会でも十分な予防と早期発見、早期治療が必要なのです。
写真はゲッティ
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はまだ・あつお 1981年、東京慈恵会医科大学卒業。84~86年に米国Case Western Reserve大学に留学し、熱帯感染症学と渡航医学を修得する。帰国後、東京慈恵会医科大学・熱帯医学教室講師を経て、2005年9月~10年3月は労働者健康福祉機構・海外勤務健康管理センター所長代理を務めた。10年7月から東京医科大学教授、東京医科大学病院渡航者医療センター部長に就任。海外勤務者や海外旅行者の診療にあたりながら、国や東京都などの感染症対策事業に携わる。11年8月~16年7月には日本渡航医学会理事長を務めた。著書に「旅と病の三千年史」(文春新書)、「世界一病気に狙われている日本人」(講談社+α新書)、「歴史を変えた旅と病」(講談社+α文庫)、「新疫病流行記」(バジリコ)、「海外健康生活Q&A」(経団連出版)など。19年3月まで「旅と病の歴史地図」を執筆した。