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平賀源内の肖像
奈良時代から、日本人にとって夏の滋養強壮食といえば鰻(うなぎ)であった。土用の丑の日に鰻を食べる習慣も江戸中期には確立していたといわれる。通説では、この丑の日のプロモーションをしたのが平賀源内だった。教科書的には「エレキテルの復元家」として知られるが、一方で戯作や浄瑠璃を書き、西洋絵画を描き、鉱山開発を行うなど、活躍の幅はあまりに広い。その常人ならざる原動力の源には、今で言う発達障害の存在が疑われる。
鰻が夏に食べられる理由
研究室の裏においしい鰻屋がある。昨今は値段が高騰し、なかなか食べられなくなったが、昼時は比較的すいているので、学外から大事なお客様がある時には必ずこの店から出前を取ることにしている。
「万葉集」にも<石麻呂(いはまろ)に 吾物申す 夏痩に 良しといふ物ぞ 鰻(むなぎ)漁(と)り食(め)せ>(大伴家持)とあるように、鰻は奈良時代から日本人にとって欠かせない夏の滋養強壮食だった。
土用丑の日には鰻を食べる習慣もある。そもそも土用とは、陰陽五行説(万物は対立する陰と陽、二つの原理によって成り立ち、それらが相互に作用して変化するという考え方)の五つの季節(木・火・土・金・水すなわち春、夏、土用=盛夏、秋、冬)に十二支を掛け合わせたもので、今年は7月24日と8月5日の2回。文政5(1822)年刊行の「明和誌」には、この習慣が安永・天明の頃(1772~89年)に始まったとあるので、土用丑の日は江戸中期には確立していたとみられる。通説では、平賀源内が売れない鰻屋のプロモーションのために「本日土用丑の日」という看板を提案したところ大繁盛し、他の鰻屋もこれに倣ったということになっているが、彼の親友だった文人・大田蜀山人の発案という説もある。
いずれにせよ土用丑の日は暑さの頂点なので、高たんぱく高ビタミンの鰻を食べるのは理にかなっていたのだろう。
エレキテル、浄瑠璃、鉱山、蘭画…”規格外”の活躍
平賀源内は享保13(1728)年、讃岐国寒川郡志度浦に、讃岐高松藩の蔵番を務める下級武士・白石茂左衛門の子として生まれた。先祖は武田信玄に滅ぼされた信濃源氏の佐久城主・平賀玄信であるというが、源内自らが唱えているだけで真偽は不明である。
幼少の頃より才覚にあふれ、酒を飲むと顔色が赤くなる「お神酒天神」の掛け軸を作成。13歳から藩医の元で本草学と儒学を学んでいたが、20歳の時に父の死により家督を相続した。24歳の時には非凡な才能を藩主・松平頼恭(まつだいら・よりたか)に認められ1年間長崎へ遊学し、本草学とオランダ語、医学、油絵などを学ぶが、帰国後に藩の役目を辞し、家督を妹婿に譲って隠居してしまう。そして大坂、京、江戸に遊学して本草学と漢学を学んだ。
薬学に詳しかった源内ゆかりの薬草園も=香川県さぬき市
当時の本草学は植物学のほかに動物学や鉱物学も含む西洋の博物学に近い学際的な先端科学であり、実地調査を好んだ源内は宝暦11(1761)年に伊豆で鉱床を発見し、物産博覧会を繰り返し開催するうちに後の老中・田沼意次の知遇を得る。この年には、かねて離藩を申し出ていた高松藩から正式に許可されるが、奉公構(ほうこうかまい)の処分となり、他の大藩や幕府直参への道は断たれてしまった。
フリーランスとなった源内は江戸でたびたび物産会を開くだけでなく戯作や浄瑠璃本の執筆に西洋絵画の作成もした。また、川越藩の依頼を受けて奥秩父で鉱山開発を行い、同地で発見した石綿から火浣布(かかんぷ)という不燃性の布を作って販売したり、秋田でも藩主・佐竹義敦に招かれて鉱山開発の指導を行うとともに秋田藩士・小田野直武に蘭画(らんが)の技法を伝授したりしたという。
そして安永5(1776)年には、長崎で入手していた壊れたオランダ製のエレキテルを6年半がかりで修理復元し、さらに同じ機能を有する国産エレキテルを制作した。エレキテルとは静電気を発生させる装置で、当時の西洋医学では最先端の医療機器であった。
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本草学を通じて医学にも興味のあった源内は、これを電気治療に応用しようとしたのだが、電気生理学以前に電気の性質が分からなかった当時では触った人が”ビリビリする見せ物”として注目されるだけであったろう。とはいえ江戸の街はエレキテルブームに沸き、偽エレキテル騒動まで起こったほどだから、相当注目を集めたことは疑いがない。
平賀源内が手がけたエレキテル(レプリカ)
3年後の安永8(1779)年夏には東京・浅草近くの橋本町の邸へ移り大名屋敷の修理を請け負ったが、仕事仲間の大工棟梁(とうりょう)2人に秘密文書を盗まれたと勘違いし、酔って刀を振り回した揚げ句に殺傷してしまう。酔いがさめた源内は切腹しようとしたが果たせず、11月21日奉行所に自首、投獄され取り調べを受けていた最中の12月18日に破傷風により獄死した。享年52。
ADHDが時代を変革する
洋の東西を問わず、時代の変革期には複数の領域で活躍する天才が現れる。西洋ではかのレオナルド・ダビンチやゲーテ、わが国では本阿弥光悦であろうか。平賀源内もまた、この系列にあるように思われる。
こういった天才の特徴は、自らの興味の赴くまま多方面に手を出し、一方では興味のないことには全く手を付けず、興味のあることについては並外れた集中によって優れた結果を残すことだという。
彼の特徴を考えると今で言う注意欠陥多動性障害(ADHD)に当てはまるだろうか。
ADHDは発達障害の一つで、話を集中して聞けない、作業が不正確、忘れ物やなくし物が多い、片付けが苦手といった「不注意」、体を絶えず動かし離席する、おしゃべりで順番を待てないといった「多動性」「衝動性」の特性が見られるとされる。
精神科医の岩波明・元昭和大医学部教授は、新しい発明発見や世の常識を覆す新概念、新規事業を開拓する先駆者にはADHDの患者が、一方、非常に緻密な研究や芸術作品を世に出す科学者や芸術家には、コミュニケーションの苦手な自閉症スペクトラム障害(ASD)の患者が、それぞれ少なからず含まれるのではないかと指摘している。
好奇心の赴くまま、さまざまな領域に手を伸ばし、興味が湧くと不眠不休で取り込む源内の過集中は、まさにADHDの特徴である。
大体、学校のクラスに数人は落ち着きのない子どもや人の話を聞いていない子どもがいるものだが、それは現在取り組むべき課題から注意がそれて過去や未来に心がさまようマインドワンダリングによって、「心ここにあらず」といった状態になっているからだという。しかし、これが拡散的思考の源となり、柔軟な発想から創造性につながることもある。だからこそ興味ある事象については比較的短時間で高い完成度を伴う結果を出すのだが、他方、しばらくすると飽きてしまう。
岩波氏はその例として、野口英世、南方熊楠(みなかた・くまぐす)、モーツァルト、マーク・トウェイン、フレディ・マーキュリーらを挙げているが、彼らに共通する衝動性、放浪癖、浪費癖、暴言癖は、源内先生にもそのまま当てはまる。
さらにADHDをトリックスターのイメージ――<道化を演じるとともに、現世の秩序を否定し、価値の逆転を引き起こす。(中略)自らが王として君臨するようにもなるが、急激な没落に至る運命にある>に重ね合わせた。
実際、野口英世は異郷の地で黄熱病研究中、まさに黄熱病感染に斃(たお)れ、モーツァルトは短期間に大曲「魔笛」や「三大交響曲」を完成し、最後の大曲「レクイエム」を作曲中の35歳でシェーンラインヘノッホ症候群(異説あり。血管性紫斑病の一つで、紫斑やむくみ、関節炎などを発症する)で急逝、フレディ・マーキュリーは45歳でエイズに続発するニューモシスチス肺炎で亡くなっている。南方熊楠とマーク・トウェインは若死にはしなかったが、晩年には経済的苦境に見舞われた。
人殺しの後、破傷風で絶命
源内はどうか。命取りとなった殺傷事件と入牢(にゅうろう)、そして1カ月後の獄死にはよく分からない点が多い。そもそもどういう経緯で刃傷沙汰となったのか、被害者となった大工2人の素性も不明である。ただ、いかに天下の名士で田沼意次の知り合いであっても、法治主義が原則の江戸では人を殺せば死罪を含む厳罰に処せられるのは当然である。しかし、源内は詳しい取り調べが行われる前に破傷風で命を落としてしまった。
そのせいか田沼意次の政敵による陰謀だったとか、逆に意次がこっそり逃して市井でひっそりと余生を送らせた――とかさまざまな珍説が出てくるわけだが、源義経が大陸に逃げてチンギス・ハンになったという類の話であろう。もし永らえたとしても、彼ほどの才人かつ承認欲求の強い人物が無名の市井人として余生を過ごすとは考えられない。
平賀源内の銅像=香川県さぬき市
破傷風とは破傷風菌による感染で、菌が産生する毒素により強直性の痙攣(けいれん)を来す。芽胞(がほう)という固い殻に包まれている破傷風菌は土の中に存在し、傷口から入りこむ。現在ではワクチンの定期接種化と衛生環境の整備によって患者数、死者数ともに激減したが、それでも世界では年間20万人以上の死者が出ているともいわれ、うち大半は新生児や幼児である。
歴史的にはエジプトのパピルスや古代ギリシャのヒポクラテスの著書に記載があるが、ドイツの内科医ニコライエによって菌が発見されたのも、破傷風菌の純粋培養に成功した北里柴三郎による血清治療が始まったのも19世紀末になってからである。源内の死後20年ほどたって始まったナポレオン戦争でも、敵の砲弾に当たって戦死するより汚染した外傷から破傷風などに感染して死亡することが多かったとされている。戦場同様、江戸時代の牢獄も不潔であり、源内も取り調べ時にどこかに負った外傷から感染を来したのであろう。
浅草近くにある源内の碑には親友だった杉田玄白による<嗟非常人、好非常事、行是非常、何死非常>(ああ非常の人、非常の事を好み、行ひこれ非常、何ぞ非常に死するや)という一文が刻まれている。先述した通り、ADHDの奇才は非業に斃れることが多いものだが、源内がもう少し長生きして、さらにいろいろなことに触手を伸ばしていたら――という想像は禁じ得ないのである。
<参考文献>
岩波明「天才と発達障害」(文春新書)
写真は平賀源内記念館提供
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早川智
日本大学総合科学研究所教授
1958年、岐阜県関市生まれ。83年日本大学医学部卒業、87年同大大学院修了。同大医学部助手、助教授、教授を歴任し、2024年4月より現職。著書に「ミューズの病跡学Ⅰ音楽家編」、「ミューズの病跡学Ⅱ美術家編」「源頼朝の歯周病―歴史を変えた偉人たちの疾患」(診断と治療社)など。専攻は、産婦人科感染症、感染免疫、粘膜免疫、医学史。