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● 命さえ 20~24) (在日作家 朴慶南 1950年生)
五「愛のムチ」のうそ
1 これは人権侵害
「殺されたくないなあ」と、痛烈に思う。殺人の最たるもの“戦争”は言うまでもない が、日常生活のなかで、他者によって命を奪われたりすると、どえらい目に遭うことを、 テレビの画面、雑誌などで思い知るからだ。
一九九四年の十月、茨城県のつくば市で、母親と子ども二人が殺され、海に投げ捨てら れていたという痛ましい事件があった。夫であり父親でもある医師が、まもなく逮捕され た。裁判が重ねられ、先日の高裁の判決では無期懲役が言い渡された。
センセーショナル な事件であっただけに、事件発生の直後から、すごい勢いでテレビのワイド・ショーに取 り上げられた。しかし私は、被害者の扱われ方があまりにひどいことに問題を感じずにいられなかった。そのことを振り返ってみたい。 犯人は誰か、またその動機は何か。
ワイド・ショーは各局ごとに徹底取材を競う。「エリート医師の妻」「美人」「夜中にア ルバイト」……などなど、興味(好奇心)をひくキーワードがいくつもあるせいか、トップ で大々的に取り扱われていた(被害者にとって運が悪いことに、芸能界でちょうど、とり たててビッグ・ニュースがなかったということもあった)。
もちろん、事件を報道すること、詳しい状況を解き明かしていくことは公的な部分で必 要なことではあろうが、あそこまで私的な部分に、ズカズカと立ち入る必然性があるのだ ろうかと、首をひねってしまう。人に---ましてや、まったく関係のない人たちに---知られたくないことって、誰にでもあるはずだ。
普段は、そういうことが白日の下にさらけ出されるなんてことは滅多にない。ところが いったん事件に巻き込まれるや、よってたかって身ぐるみ はがされるかのごとく、"プラ イバシ"がいとも簡単に侵されてしまうのだ。
「これは事件なのだから」という大義のもとに、それいけドンドンと報じ立て、それを 受けとめる側も(私もその中の一人なのだけれど)、人サマの「人生」がしっかり覗けてしまうのだから、これほどオイシイことはないのであろう。
たとえば、被害者の女性、A子さんの離婚歴。離婚したもと夫の、「幸せに暮らしていると思っていたのに…」というインタビューが流される。A子さんが家業のおソバ屋さ んを手伝わないで、幼児二人を預けたまま外へ仕事に行っていたことがワイド・ショーの 中で取り沙汰され、「エッ? おソバ屋さん」と耳を傾けたら、最初の結婚のときの話だ ったりする。
レポーターが、もう廃業してしまっているおソバ屋さん近くの住人に、「どんな人でしたか?」「夫婦仲は?」等々、お決まりの聞き込みをして歩いている。 私は前から、コレがすごく怖い。人間一寸先は闇。いつ、何が起きるのかわからないのが世の常である。絶対に自分だけは大丈夫ということはないのだ。
一度、運悪く何かの事件の渦中に投げ出されたりすると、レポーター諸氏がたちまち自 宅周辺に現われる(1)かもしれない。 「そうねえ、帰りはいつも夜遅かったみたいだわね」「洗濯物を午後三時くらいに干し て、取り込まないこともあったみたいよ」…。
近所のオバちゃんたち、いろいろ言うんだろうなあ。そう、なんだって人ゴトだと思ってはいけない。いつ、自分の身に降りかかってくることかもしれないのだ(ホントに、み なさんもそうなんですよ)。
A子さんがミシンをローンで購入しようとしていたということまで、ワイド・ショーの 中で話題にされていた。セールスマンの談話が入っていて、「子どもの服を縫いたいからっ て言ってらしたんですけど、結局ローンが組めなかったんですよ」というくだりがあった。 それに対するゲストの女性のコメント。
「今どきねえ、子どもの服を手作りする人なんていないでしょ。買った方が安いし…」 私は、言い返すことのできないA子さんに代わって、「そんなの人の勝手でしょ。アン タにそんなこと言われる筋合いはないよ」とテレビの画面に向かい言葉を投げつけた。
A子さんがランジェリー・パブで働いていたことを映像化したときもすごかった。 "医者の奥サマ"である彼女が、こんなあられもない格好で酔客の相手をしていたんだという ことを改めて確認したいのか、お店でのきわどい下着姿の女性たちをローアングルから撮 ったり、ある部分だけをアップにした画面を幾度も、しつこいほど映していた。
事件の本筋とはまったく関係ないのに、刺激的な画面で、よりセンセーショナルに視聴者を引きつけたい下心が見え見えだ。こういう撮り方をすれば、きっと観る側が喜ぶにちがいないと制作者が思っている(思い込んでいる)のか、それとも、単純にカメラマン(きっと男性でしょう)の好みの問題なのであろうか。
男性の視点といえば、なぜ、いつも"美人…”が形容詞につくのかも、よくわからな い("美人"かそうでないかの基準がどこにあるのかも)。これだって本筋には関係ない。 男性の場合に、"美男サラリーマン" "美男教師"…なんていうふうに表現されることはまずないものね 。
つくづく、なんだかんだと言っても、この地がやっぱり“男社会”であることを痛感する。そういうモノサシで測ったら、おかしなことっていっぱいあるものだ。 さて、「観る側が喜ぶにちがいない」という制作する側の思い込みに対して、こちらにも多々思うことがある。
以前、某テレビ局のワイド・ショーのトーク・コーナーを、構成作家として担当してい た。テレビ局は、報道、ドラマ、情報・・・・・と各分野に分かれているのだが、社会情報局に 所属する「ワイド・ショー」は、どこか軽んじられているような雰囲気があった。
本当はドキュメンタリーをやりたいと思っている担当プロデューサー氏は、「誇りをも てないから、こんな仕事(ワイド・ショー)嫌だ! 気分悪くなるから、番組観たことないよ(オイ、オイ、それを作っているのはアナタじゃないの)」と、よくぼやいていた。 下請けの制作会社のディレクターも、私に向かって、こうアドバイス(?)してくれた。
「いい加減にやればいいですよ。こんなの観てるヤツは、どうせ暇で程度の低い主婦たち なんですから、それに合わせなきゃね(そんなアンタの頭に合わせたら、えらいこっち ゃ)」(あくまで、そういう人もいたという話なので、念のため)。 興味を煽ることのみに力を注いでいるような放送内容に、二人の投げやりな口調が思い 出され、重なり合ってしまうのである。
A子さんの話にもどろう。 「A子さんの数奇な三十一年」と銘打った番組まであったが、A子さんの容姿からはじ まり、今に至るまでの略歴、日常生活の枝葉末節まで、あらゆることを"知る”権利が私 たちにあるのだろうか。 A子さんには人権がないの? A子さんが亡くなってしまっているのだから、何をどう あばいても傷つかないと思っているの?
加害者には人権がないという意味ではないけれど、A子さんは、あくまで被害者なので ある。被害者をもう一度「被害者」にしてしまう残酷さ、無神経さ、傲慢さを私たち(自身と社会)がもっていることを考えてみなければならない。
露骨で極端な人権蹂躙は言うまでもないが、見えにくい人権侵害をキャッチできるシャ ―プさを身につけておきたい。自分の人権が目に見える形でハッキリ犯されたときに、や っと気づくのでは遅すぎるからだ。これは、かくいう私自身が、加害者になり得るという 意味でも、表現者としていちばん気をつけなければいけない点だと思う。
この事件を通して、ワイド・ショーを作る制作者側のそのあまりのはなはだしい人権無視と、品性のなさ、無責任ぶりに強い危惧の念を覚えたのだが、案の定、水面下でとんで もない事件がひき起こされていた。 TBSのワイド・ショーのスタッフは、坂本弁護士のインタビュー・ビデオを、放映前 にオウム真理教の幹部たちに観せ、それが発端となって坂本弁護士一家が殺されていた。
しかも、失跡事件が報じられたあともこの一件を隠し、明るみにされてからもなお、否 定しつづけたという最悪さであった。まったく、社会人という以前の、人間としての良心 というものをどこへ置き忘れてきてしまったのだろうか。
坂本さん一家の尊い人命を失わせたばかりでなく(早い通報でオウム真理教の犯行を立証していたら、そのあとのサリン事件なども防げたであろうに)、それ以外にもマスメデ ィアは、大きな人権侵害をやってしまった。
松本サリン事件の第一通報者、河野義行さん に対する容疑者扱いである。オウムの新たな犯罪(地下鉄サリン事件)で汚名はようやく晴 れたけれど、もし事態が動かなかったのなら、ずっと人権は踏みにじられたままだったろう。
自分が河野さんだったら、犯人と決めつけてあることないことを書き散らす憶測記事や、 心ない周囲の態度や視線などに、耐えられたかどうか自信がない。 ワイド・ショーの方は一応"自粛”したのか、TBSは打ち切りを決め(消滅とともに、 事件を起こした体質(病集)をも、うやむやに雲散霧消させてしまったような感じがする)、 他の局でも、露骨な人権侵害になりかねない取り上げ方はナリをひそめている(ように見 える)。
しかし、視聴率がとれるとなれば、またいつ暴走するかわからない危うさを、体 内に抱え込んでいるような気がしてならない。 また、あまりに目立ったのでワイド・ショーを中心に焦点を当てたが、新聞や雑誌など あらゆるマス・メディアも、同じく人権侵害の危険性を常にもっていることに変わりはない。
(最近起きた東京電力の女性社員絞殺事件。マス・メディアによる、死者をムチ打つかのような私生活の暴露報道は、A子さんのときとまったく変わっていない。人権感覚の欠 如は果てしないものがある。それでも、おかしいことには「おかしい!」と声をあげつづけていくことが大切だと思う)。
「自分がその立場におかれたらどうだろうか」その発想を、絶えずもっていたいものだ。そして、「されていやなことはしない、させ ない」。まるで標語のようだが、しっかり頭の中にたたき込んでおきたいものである。
● 命さえ 21 (在日作家 朴慶南 1950年生)
五「愛のムチ」のうそ
2 「愛のムチ」のうそ
ああ、たまらない。どうしてこういうことが起きるのだろう。 その場にいたわけではないから詳しい事情はわからないけれど、教師の体罰に対して栃 木県の中学三年生が抗議の自殺をしたというニュースに、暗意たる気持ちになった。
心にこうむった傷の深さを、自らの命を絶つことでしか表わせなかったその中学生の心 情が痛ましい。力をもつ側が一方的に行う体罰は、“教育的指導」という名目がつこうと つくまいと、暴力であることは確かだ。
愚息が中学三年生だったときのこと、普段あまり口をきかない彼が、珍しく興奮きみに 話しかけてきた。「あの先生はいったい何を考えているんだか。もしも死んだり、怪我を してしまってたらどうしたんだろうね」 穏やかならざる内容に、「ナンダ、ナンダ」と私は身を乗り出して話の続きを聞いた。
廊下で先生がある生徒に注意をしているところを通りかかった男子生徒が、「おっ、や られてるな」といった程度の軽いヤジを飛ばしたらしい。すると先生はそのヤジった生徒 のところへ行き、激しく往復ビンタを浴びせるや、ちょうど階段の上にいた彼をドーンと 一気に突き落としたという。
幸い怪我もなく済んだというが、一歩間違えたら・・・・・・という危険極まりない行為である (福岡県の女子高校生が、先生に殴られて死亡するという許しがたい事件もあった)。有無 を言わさず突き落とされた生徒にしてみれば、「こんな目にあうほど、自分は悪いことを したのだろうか」と、とても納得がいかなかったであろう。
息子が言うには、その先生は普段から気分にムラがあり、そうした体罰は日常茶飯事に 行われているということだった(なんてこった)。三十代半ばくらいのその教師は、常々、 生徒の気持ちのわかる「金八先生」のような先生になりたいと言っていたが、あにはからんや、どの生徒も不信感とシラケた思いしか先生に抱いていなかったようだ。
教課だけを淡々と教え、生徒に深く関わろうとしないサラリーマン先生も味気ないけれ ど、"かくありたい”という観念を頭の中でふくらませ、自己陶酔(錯覚)した自分を押し つけてくる先生も、生徒たちの言葉を借りるなら"うざったい”存在であろう。
この先生の場合は、やや精神的な不安定さが加味される。学校で会ったときにも、ひっ きりなしにまばたきを繰り返し、こちらの目を決して見ようとはしないその先生の態度に は、「大丈夫かな」と不安がよぎったものだった。
学校、そして教室という、ある意味では社会から離れた特殊な空間で絶対的権力をもつ 教師は、なかなか自分を客観的に見られない。問題ありの先生を周りがチェックするのも、 現実には難しい。黄門様の印籠のごとく、「これが、見えぬのかあ!」と、内申書をちら つかされると、親も子も口を閉じるしかないのだ。
以前、中学生数人に体罰についてインタビューしたことがある。体罰を受けたときの気 持ちを、それぞれ率直にこう語ってくれた。 「むかつく。口ではハイッて言っても、内心このヤロウと思うよね」 「殴られたら余計にムカッとくる。自分が悪いと思ってもね」
「太刀打ちできないから、ここは仕方がないし、こう言っておこうと思うだけ。殴られたら頭にくるだけ」 体罰については、どう思うか質問してみた。 「先生のそのときの気分によって違うから、ただ先生のうっぷん晴らしだよね」 「口で言えばわかるのに、ヤツ当たりされてる感じ」 「バカじゃないかと思う。殴らなくてもわかるよ。繰り返して言われればね。軍隊じゃ ないんだから」
中学生たちのホンネからも、体罰に教育的効果がないことは明らかのような気がする。 体罰を受けた側は、表面上は神妙さを装い、内心では反感を覚えることが多い。一方的に腕力でわからせようとする態度に、体も痛みを感じるが、心もきっとプライドを傷つけ られるにちがいない。たまたま幸いにも、私は教師から体罰を受けたという経験はないけれど、想像しただけでも身がすくむ。
悪いことをしたから、教育的指導(?)で体罰を加えるといいながら、生徒たちの言葉に もあるように、感情的なイラ立ちをぶつけてしまってるだけということが多いのではないか。殴られる方は、それを敏感に感じとる。いじめが高じて事件になったとき、原因を探っていくと、加害者の子どもが親や教師か ら理不尽な体罰を受けた体験が浮かび上がってくることがある。
鬱屈したストレスは、よ り弱い者へとぶつけられてしまうのだ。 私の場合、子どもが小さいころ、幾度となく手を上げた。悪いことをしたときに体罰を しよう、と心がけていたつもりだったが、ついイライラしているときに当たってしまった り、同じことをしても、そのときの自分の気分で怒ったり怒らなかったりということがあったと思う。
そんなふうに体罰をしてしまったときだったのだろう。長男に、「たたかれるほどの悪 いことをしたとは思えない」と、キチッと抗議されてしまい、ドキッとした。まったく、 そのとおりだったからだ。素直に反省した。
人間は、先生だって親だって神様ではないから、あやまちを犯す。殴るべきじゃないと ころで手を上げてしまい、シマッタ、やり過ぎたと内心後悔することもあるだろう。 その場合、もちろんバツは悪いし、威信はガクッと落ちてしまうかもしれないけれど、 やはり心を柔らかくして謝ったほうが、双方の精神衛生上はるかにいいと思う。
思い出す女の子がいる。仮にYちゃんとしよう。Yちゃんは愛敬があって純朴で、誰か らも愛されるタイプなのに、拒食症、過食症、登校拒否を繰り返していた。「いい子」を 無理してやっているようで、疲れがたまると、それを癒すために、自分の中に閉じこもら ざるをえないという感じだった。
中学はなんとか卒業したものの、せっかく入った高校には通うことができず、家にこも ったり、家出を繰り返していた。手紙をもらったことがキッカケで、時々彼女と会うよう になった。あるとき、ずっと胸につかえていた塊りを吐き出すように、Yちゃんは自分の 内に抱え込んでいた暗部のようなものを話しはじめた。口に出すのは、そのときが初めて とのことであった。
教育関係の仕事をやっているお父さんに、幼いころからよく体罰という名の暴力をふる われたというのだ。それもただ、お父さんのストレスをはらすためだったり、教育者とし ての世間体をとりつくろうためだったりした。お父さんがもつ表と裏の顔のギャップが彼 女を苦しめてきたという。
また、お父さんが口では娘を愛しているようなことを言うけれど、それはうそで、欺瞞としか思えないと、不信感をあらわにした。 心優しい彼女はお父さんを憎むより(ストレートに憎んだ方が、精神的には楽なのに)、自分自身の中にすべてを封じ込めてしまってきた。そのため心身のバランスが、時々とれ なくなってしまうのであろう。自分を責める次の言葉が痛々しかった。
「まだ小さかったときに、妹がインクを畳にこぼしたの。それを見つけたお父さんが妹 のことをすごく殴って、押入れに閉じ込めてしまったんだよね。私は怖くて怖くて震えて たんだけど、
'よかった、私じゃなくて'って思いながらその光景を見てたの。そんな自 分が嫌いで許せなくて・・・」
彼女の目から涙が溢れてきた。誰にも言えなくて、心の底でずっと抱えつづけてきた痛 みを外に吐き出したことで、重荷からやや解放されたようだった。
体罰--- “愛情" "教育" "しつけ"という言葉(場合)に置き換えてもよい---が本当に相手を思ってなされたものであるかどうかは、すぐ見破られる。自分の感情ががばっでの 体罰であることが見え見えなのに、表面だけとりつくろうと、いっそう心に傷を深く負わせてしまう。
親や教師(上役、先輩…)だってフツーの人間で、発展途上人だ。不完全な自分を生き ている。それぞれに、違った形でボロボロ破れていることもある。間違えることだって多い。そんな自分のありのままを、フッと息を抜いて率直に出していけば、体罰を受ける側 は、案外、大目にほころびを許容してくれるような気がするのだ。
Yちゃんのお父さん自身も、自分にはめている「かく、あらねば」というカセを外して、 リラックスするのが何より必要なのだろう。それが結局、自分のためにも丫ちゃんのため にもなっていくはずだ。 体罰をテーマに、生徒たちへインタビューした中で、一人の子どもの言葉が印象深かった。
「体罰が「愛のムチ」なんてうそだと思うよ。だって本当に愛があれば、ムチなんてふるうわけないもん」 教育に限らず、もったいぶった理由づけや美名でカムフラージュされてしまうことほど 怖いものはないと思う。 ところで私は、恵まれていたなあと親に感謝していることがある。それは何かというと、体罰を受けないで育ってきたということだ。
前の章で書いたけれど、父は毎日のように母に対してひどい暴力をふるっていた(今でもそれらの光景を思い出すと、胸はキリリと痛み、暗い穴に落ちていくような感覚に襲わ れる)。また暴力だけでなく、身勝手さ、非道さで、母の心を徹底的に踏みにじる日常でもあった。
そのやり場のないくやしさや憤りを、身近にいる私にぶつけてもよさそうなものなのに、 母はまったくそういうことをしなかった。どんなときでも、母から当たり散らされたとい う記憶がない。 もし大なり小なり母のつらさが私にぶつかってきていたとするなら、私は大人や周りのものに対してウラミツラミをもったにちがいない。
母の性格が穏やかということもあるの だろうが、そうされた場合に、私がどういう気持ちになるかを思いやってくれたのであろう。 一方、父も私には決して手を上げなかった。父は、しっかり自分で物事が判断できるく らいの年齢になるまでは、子どもに手を出すのはいけないという持論をもっていた。
特に 幼少のころに殴ったりすると、気持ちが萎縮してしまって、大きな(伸びやかな)人間に育 たないという理由からであった(じゃあ、母は大人だからいいのかという理屈は通らない と思うが、暴力はいつも母にだけ向けられるのだから、娘の私から見ても不公平だった)。
暴れている最中は感情も激しているはずなのに、子どもに対しては抑制が利くというの は、冷静さを常にどこかに父はもっていたということであろうか。 基本的に、体罰はよくないと思っている。しかし、これはどうしても許せない、正した いとギリギリのところで強く思ったとき、その気持ちを相手に痛みを感じさせることでわ からせるということもあるだろうと思う。
切実な気持ちや愛情は、何かしら伝わっていく。本当に案じてくれているということを、 体罰を受ける側が実感できれば、痛みも滋養となって身に沁みる。 また、殴られることに「仕方がない、それほどの悪いことをしたのだから」と納得でき る場合も、体罰が効果的に生かされることになろう。 私は父に一度だけ、バーンと、思いっきり(と言っても加減していたと思うが)頬をぶた れたことがある。
学生時代、京都に下宿していた私は、親には告げないで金沢の大学に通う親友のところ へ遊びに行った。そこで不注意から車にはねられて、救急車で病院に運ばれた。幸い命を 忘れることにはならなかったが、全身打撲で右足は骨折、全治二カ月の重傷だった。
友だちから連絡を受けた両親は、翌日まで待って、電車や飛行機でという方法をとらず、すぐそのまま、夜通しかけて鳥取から金沢まで自動車を飛ばして駆けつけた。数日後、私 の状態がやや安定し、医師から許可をとると、車の後部座席にフトンを敷いてその上に私 を寝かせ、父は時速三、四○キロぐらいのスピードで鳥取へとゆっくり車を走らせた。 鳥取で再入院したあと、無事に退院。しばらく家で療養し、私はすっかり元気になった。
もうそろそろ京都にもどろうかと思っていたある日、父に呼ばれた私は、バーンと体罰を 受けた。 親にだまって旅行したこと、不注意から事故に遭い体を痛めてしまったこと(儒教の教 えなのか、親からもらった体に傷をつけるのは親不孝と、小さなころからよく言われてい た)、そのため大変な心配をかけてしまったことが怒られた理由であろう。殴られて当然 だと、右頬のヒリヒリした感覚を手で押さえながら、まさに痛感じた。
(母にはぶたれたことがないと、私は最近までずっと思い込んでいた。ところがつい先日、「一度思いっきり殴ったことがあるのを憶えていないの?」と母に言われた。私の記憶からは消えていたが、大学を卒業して家にいたとき、私は母に向かって父のことをかなりひどく悪しざまにののしった らしい。それに対して母は、父が厳しくするのは私を思ってのことだと説きながら手をあげたのだという。改めて体罰の在りようを感じた)。
学校の現場でも、そういうことってあると思う。しかしそれはやはり、前述したように ギリギリのところでの、愛情のこもった選択であってほしい。 体罰が原因で事件(イジメ、自殺、怪我、死亡等々)が起きたとき、当事者の周囲の反応 でいつも私がビックリすることがある。
親の側から、体罰をつづけてやってほしいという声があがることだ。体罰がなくなると、 規律や秩序が乱れるという意見が出される。 でもそれは、子どもを信じていないからではなかろうか。このことに関して、私が身近 で体験したとっておきの話を紹介したい。
● 命さえ 22 (在日作家 朴慶南 1950年生)
五「愛のムチ」のうそ
3. T式マジックとは?
愚息の一人が小学校に入学したとき、三十代の女性教師が担任となった。入学式で初めて見たその先生は口をへの字に曲げて、生徒たちを睨みつけるように見渡していた。笑顔 なんて片鱗すらない。イヤな予感がした。そして、それは見事に的中してしまった。
アーア。 体罰がひっきりなしに行われた。その成果か、先生の号令どおり動く子どもたちになったが、一人ひとりの顔から表情が消え、脅え切っていた。授業参観に行くと、子どもたち は、ちょっとした音も立てないようにと緊張している。先生は腕を後ろに組んで、机の間 を縫って子どもたちを威嚇するように歩いていく。まるで軍隊のようだと思った。
授業が終わったあと、子どもたちの片付けが始まった。少し手間取っていた一人の女の 子に向かって、先生の怒声が飛んだ。 「いつもノロくて困るんだから、まったく。お母さんは来てるんですか? アナタの子 どもが遅くて迷惑してるん ですよ。出てきて一緒に片付けてください!」
突然、呼びつけられたお母さんは、父母たちが立っていた教室の後ろから顔を真っ赤に して子どもの席まで駆け寄ると、手伝い出した。私たち(父母)はその光景を、ただ呆然と見つめるだけ だった。
初めての懇談会が開かれたとき、大勢の父母が集まった。子どもの口から、それぞれ暴 力のひどさを聞いていたからだった。不安そうな、不信感に満ちた表情が多かった。
頭は殴らないでほしいという一人の父親からの申し入れに、その先生は少し照れた表情 で、「わかりました」と答えた。すると別の父親が、すかさず声をあげた。 「いえ、どんどん殴ってくださいよ。殴らなきゃね、ちゃんとした人間にはなりませんからね。先生、これからもビシバシと・・・」 その声に励まされたのか、先生の体罰は、それからも一向に止む気配がなかった。
ある日、同級生のお母さんから電話がかかってきた。「息子さん、大丈夫ですか」というお見舞いだった。子どもから聞いた話として、ウチの愚息が先生に往復ビンタをくらい、 そのあと額を机に強く打ちつけられたとのこと。 愚息を呼んで見てみると、確かにタンコブが出ている(ノンキな母です)。自分が騒いだ のだから仕方がないと、彼。
しかし電話をくれた同級生のウチでは、夜寝ていて、子どもがうなされたり、ひきつけ を起こすのだという。自分じゃなくても、教室で他の子どもが殴られている光景が恐怖と なって残るのであろう。
愚息のように当人が納得できればともかく、理由も聞かず一方的にというのが多かった。 たまたま押されて列が乱れ、その釈明も聞いてもらえずにビンタを浴びた子は、たいそう憤慨していた。
そんな腹立ちは、弱いものへと向けられていく。クラスに一人、体に障害をもった男の 子Mクンがいた。分娩時のトラブルで脳に酸素が行き渡らなかったためだとMクンのお母さんは語っていた。なんとか普通学級へというご両親の希望が実り、クラスメートになっていたのである。 その子のぎこちないしゃべり方を笑ったり、からかったり、仲間外れにする雰囲気がクラス中に充満していた。
しかし、何より先生がひどかったのだ! 一年生だから、うっかり粗相をする子も他にいたと思うのだが、クラスのピリピリした 雰囲気がMクンを情緒不安定にしていたのか、よく粗相をしていた。 すると先生は、Mクンをみんなの前でののしり、なんと蹴飛ばしていたという。片付け は、クラスの子を指名してやらせたりもしていたそうだ。
本来ならば、一年生は無邪気でハツラツとしているはずなのに、殺伐とした空気がそのクラスを覆っていた。 通常、二年生まで担任もクラスも持ち上がりだ。コレハ困ッタナと思っていたら、二年 になって先生が変わった。
洩れ伝わってきた話によると、このまま二年間もあの先生だっ たら子どもがヘンになってしまうと、あるお母さんが教育委員会に直訴したらしい(それ が効を奏したのかどうかはわからないけれど)。 他校から赴任して来た新しい担任は、やはり三十代の女の先生だった。
前担任とは対照 的に温和な顔立ちで、どんなときもその柔らかい表情が崩れることはない。名前をT先生とする。 T先生は、子どもたちの声があまりに小さいことに、まず驚いた。廊下に先生が出て、 そこまで声が届くように練習させることからはじめた。
体罰は消えた。そのうち、これが同じクラスかと思うほど子どもたちは生き生きし、そ れぞれの長所を伸ばして和気あいあいとしたクラスになった。 メデタシ、メデタシとつづけると、絵に描いたようなお伽噺の世界になってしまうが、 その変わりようは、商品の宣伝によく使われる、“使用前”“使用後”のごとく明快で、まさにお伽噺と言ってもいいくらいの見事な転回なのである。
授業参観に行ってみると、活気に満ちた授業もさることながら、展示物にビックリした。 貼ってあるどの絵も伸び伸びとしており、色使いもカラフルで、構図も独創的なものばか りだ。一人ひとりの個性がそのまま画用紙の上に表現されていて、目を奪われる。
作文や詩も、行間がら子どもらしい弾むような感性が溢れている。愚息も、彼の今まで の人生の中で絵や作文や詩の才能がいちばん開花していたのは、おそらくこの二年生のときだったにちがいない(と断言できるほど、どの作品も光っていた)。
愚息いわく、製作中に先生がよく声をかけてくれた。「よくできてるね。ここを、もう 少し描き込んでみたらどうかな。そしたら、もっと良くなるよ…」と励ましつつ、助言をしてくれたのだという。
授業でビックリした(感動した)のは、勢いよく手を上げる子どもたちの中に、あのMク ンがいたことだ。指されたMクンは、たどたどしいけれど、しっかりと答えていた。答え の正否は忘れてしまったけれど、Mクンはクラスメートの一人として、ごく自然にふるまっていた。Mクンの顔も他の子どもたちの顔も、みんな明るくてハツラツとしているのが印象的だった。
Mクンが粗相をまったくしなくなったということも愚息から聞いた。さらに感動的なシ ーンが、このあとにあった。 学年の終わりに、子どもたちがお別れ会と称して劇を観せてくれることになった。演目 は忘れたが、民話をアレンジしたものだったような気がする。
セリフをとちったり、もたついたりしながらも、子どもたちはお互いを仲良くフォロー し合って、楽しそうに演じていた。 そして、なんと言ってもこの日の主人公はMクンだった。
頭に紙製のカツラを被り、ユカタ姿に扮装したMクンはセリフ回しも達者で、その名演 技ぶりにヤンヤの喝采が飛んだ。そのときの、Mクンに寄せるクラスメートたちの親しみ のこもった視線、Mクンの自信に満ちて高揚した瞳が、今でも忘れられない。
忘れられないと言えば、最後のクラス懇談会の席で、Mクンのお母さんがしみじみと語 った話も胸に刻みつけられている。 「ずっと暗闇だったんです。でもおかげさまで、ようやく長いトンネルの向こうに、な んだか光が見えてきたような気がします」 ハンカチを目に当てながら、万感を込めたといった言葉だった。
Mクンが一年生だったとき、件の先生に、なんとか将来、Mクンが普通の生活ができるようになるのが目標だとお母さんが言ったら、言下に、「そんなの、無理ですよ!」とケ ンもホロロに一蹴されたという。 さぞ、くやしく気落ちしてしまったことであろう。それだけに、Mクンのお母さんにと ってT先生との一年間は、希望を与えてくれるものだったにちがいない。
担任はわずか一年だけだったが、きっと子どもたちの中でT先生の存在は、消えることがないのではと思う。 実際そのあとも、他の学年の担任をもったT先生の評判は素晴らしかった。T先生のク ラスの生徒たちは個性豊かに自分を表現し、クラスの行事には積極的にみんなで取り組ん で成果が上がる。
クラスの雰囲気は明るくて生き生きし、イジメのような陰湿なものが発 生しない。愚息たちのときと同じである。 高学年になれば、それぞれ男子と女子が意識しはじめて、線が引かれていくのだが、T 先生のクラスは、男子と女子の仲がいいのでも有名だった。
男子はT先生が女性の理想像となり、女子は、大きくなったらT先生のようになりたい と言う。 ワンパク坊主からガリ勉生まで、T先生を嫌いという生徒はいなかった(もちろ ん、父母もである)。まさしく稀有な先生と言える。
T先生は熱血先生タイプではなく、自分を生徒たちに押し出したりはしない。だからと いって、冷めて一歩引いているといった感じでもない。どこにでも居そうなきわめて常識 的で、ノーマルな対応をする先生だ。
体罰なんて、もとよりない。それでも生徒たちは、よく言うことを聞く。それどころか、 まさに理想的といった教育内容だ。 どうしてだろう? 不思議だった。野球の仰木・マジックならぬ特別なT式マジックな るものでも駆使しているのであろうか。その奥義を知りたいと思っていた。
T先生に、満を持してという感じで、一度その秘密(秘訣)を尋ねてみた。T先生は、少し恥ずかしそうにしながら、小首をかしげた。 「何も特別なことはしてないですよ」そんなわけはない。何かがあるはずと、再度私は追求してみた。T先生はしばらく考え てから、言葉を付け足した。
「ただどの生徒にも、同じように接しているだけです」 "T式マジック"の種あかしは、拍子抜けするほどシンプルなものだった。しかし噛めば噛むほど味が出るスルメのごとく、噛みしめてみれば、こんなに含蓄のある言葉はない。
どの生徒にも同じように接するというのは、簡単なようでいて難しい。大雑把に分けて も、いろいろな生徒がいる。活発で目立つ子、引っこみ思案でおとなしい子。勉強ができ る子、できない子、スポーツの得意な子、苦手な子。エコひいきとまではいかないま でも、先生も人間だから、どうしても好みや相性によって、対応に差がでてしまうことだ じなんってあるだろう。
さらに、平等に目配りするのも相当な注意力が必要となりそうだ。T先生はきっと生徒 への心配り、目配りが丁寧に行き届いているんだろうと推測する。 もう一歩踏み込んで推測をすれば、一人ひとりを受けとめ、受け容れているところにこ そ、"T式マジック”の、いちばんの極意があるのではなかろうか。
受けとめるというのは、その存在を認めるということだ。受けとめられると、人は精神 的な安定感を得ることができる。教育の場だけでなく、家庭でも職場でも、友人の間にお いても、人間関係を結ぶときの基本ではないかと思う。
また、受け容れるというのは、その人間のあるがままを文字どおり受容するということ であろう。不出来でも不完全でも(人間は誰でもそうであるが)、そのまま受け容れてもら うと、安心感が生まれるものだ。
このままの私でいいんだ、という安心感があれば、自分をまっすぐに外に向かって出し ていけるのである。 受けとめる(安定感)、受け容れる(安心感)が、人と人の交わりのキーワードだと思うが、 他者に対してそうである前に、なにより自分自身を受けとめ、受け容れることが大切にな る。
T先生が生徒たちにそういうふうに接することができるのは、自分を認めて受容しているからこそと言えよう。 イジメをはじめ、さまざまな問題が起きる背景には、心の不安定さ、不安感がストレス となって渦巻いているように思える。
叱り、反省させることも重要だけれど、“外”と"内”から、自分を受けとめ、受け容 れるということをさせる(する)ことが、実は、根本的な解決方法ではあるまいか。 私自身も、愚息をはじめ周りの人たちに対するとき、T先生から学んだこの方法(姿勢) を忘れないようにしようと、心がけている。
● 命さえ 23 (在日作家 朴慶南 1950年生)
エピローグ 命を輝かせて
“命”があるかないか。 いつでもどんなときでも、この一点をモノサシにさえしていれば、たいがいのことはな んとかなる。ギリギリまで追いつめられてどうしようもなくなったときでも、命があるん だから大丈夫、あとは野となれ、山となれと、力を抜いてしまえばいい。不思議となるよ うになって、気がつくと大丈夫なのだ。
また、“命”が大切にされているかどうかという一点をモノサシにすると、国家や体制、 主義主張、もろもろの集団(会社、学校、病院・・・)など、社会のあらゆる場の正否を、ち ゃんと測ることができる。絶えず、そのモノサシを忘れないようにしていたい。
“命さえ忘れなきゃ"をテーマにして話を進めてきたが、その肝心な命は、言うまでも なく自分の命を大切に思うことが基になっている。それがあってこそ、他の命の重さがわかる。
親に愛されなかった(自分を受けとめてもらえ なかった)から、あるいは祝福された命じ ゃないから大切に思えない(感じられない)という人がいるかもしれない。それならなおの こと、その命を、自分の力でいとおしみ抱きしめてあげればいい。
せっかく生まれてきた(きてしまった)のだから、命を輝がせたい。それが生きることの 意味ではないかと思う。 そして、それも自分だけではなく、縁あって今をともに生きているたくさんの人たちと 一緒に輝き合えたら、その輝きはいっそう素敵なものになるのではあるまいか。
どうほう 東本願寺で発行している『同朋』という小さな月刊誌で、インタビューを受けた。タイ トルは「'いのち'さえ忘れなきゃ」。兵庫大学の教授で僧侶でもいらっしゃる中村了権さ んが聞き書きをしてくださった。「いのち」について、本文中では語れなかった部分も含 めて私の思いが集約されているので、終わりに、その抜粋を転載させていただく。
----「いのち」というものは、「自然界の一つの物体であり、自然に包まれて在る」("ポッカリ月が出ましたら" 三五館刊)というふうに実感され、その「自然のいのち」にも感応していらっしゃる。 私たちが生きるエネルギーの供給源は、その自然の中から得ています。
そのさまざまな 自然の「いのち」、たとえばそれが一本の樹だったり、草花だったり、小さな虫であった としても、それらの「いのち」に上下はありませんよね。つまり、自分の命と同じ重さを 持っているという感覚があるんです。それは学習したんじゃなくて、小さいときから感覚 的に身についていました。
----「いのち」を敏感に意識しておられた?「いのち」ってみんな同じなのに、たとえば自分は、いろいろな生き物の「いのち」を 食べるということで、それを犠牲にして成り立っています。
私の感覚では、この事実に罪悪感というか、いけないことだという思いが強くあったん です。自分が歩いているときにも、気がつかないうちに小さな虫の命を踏んだり、草の命 を踏みつぶしたりしているんだな、という感覚。
私は仏教徒でもないし、信仰している宗教もないんですけど、「殺生」をしてしまって いるというような、特に私一人の命が生きるということは、ほかのたくさんの「いのち」の上に成り立っているんだという感覚が強くあった。そういう自分がすごく嫌だったとき もあったんですよ。
----それはかなり宗教的な志向性ですね。 そのときに自分で結論づけたことは、でも、生きていくためには、いろいろな生き物を 犠牲にしていく。だから、たとえば魚をいただくときは、ありがたいと思い、とてもおい しくいただこう。いただいたからには、その魚の「いのち」は私の中で血となり肉となっ ていく。だから「お魚さんのためにも、ちゃんと生きなきゃ申しわけない」----そういう 思いがずっとつづいていたんです。
----なるほど、犠牲になる側に許しを請うという心情ですか。 それから、私は歴史の流れの中に生きているという感じが強いんです。 つまり、今自分たちが生きていられるのは、多くの人たちが今の社会を一生懸命に築き 上げてきたおかげですよね。その間には悲惨な戦争もあったし、亡くなった方もたくさん います。そういう歴史の上に立った「いのち」であるということです。
自分もそういう歴 史的立場の人間であるから、その事実をきちっと自覚して、よりよい未来のために、何か 役に立つことをしたい。たとえば在日朝鮮・韓国人が日本にいることの歴史的事実や背景なども含め、いろいろなことを伝えていきたいって思うんです。
----「いのち」と言えばもう一つ、非人工的なものという実相が見えてきますね。 自然界にはたくさんの「いのち」が生息していて、人間の目に見えないような小さな虫 たちも生きていますよね。その小さな虫をつぶすことはとても簡単なんです。でも、すご く精巧な科学でも、その小さな虫の命すら産みだすことはできない。そのことへの畏れというか、自然への謙虚さを持たなければいけないという気がします。
----「いのち」への畏敬の念深まれ、ですか。人間って、やっぱり決定的にしてはならないことは、人の肉体的な命を奪わないこと、そして精神的な命を踏みにじらないこと、この二点だと思います。
これは人の尊厳であるし、誇りでもあるし、とても大切なことです。最低、この二点を 守れる自分でありたい。それ以外は、多少はみ出したり、欠点がいろいろあってもいいん じゃないか、あるがままの自分を生きてもと思うのです。
そういう価値基準を自分の中へ受容していきたいということは、つまり、「あるがまま の自分を愛していこう」、「あるがままの精神的な命も肉体的な命も愛していこう」という 気持ちが私の中に基本的にあるからだと思います。
だから、私が仕事を通して伝えたいメッセージというのも、「あなたはあなたで素敵よ、 生まれてきてよかったね。いろんな「いのち」を犠牲にしてあなたの命が成り立ってて、 せっかくいただいたありがたい「いのち」だから、ありがたく生きたいし、感謝して生き たいし、私もその素敵な「いのち」を輝かせるから、あなたの「いのち」も輝かせてくだ さいね」ということなんですよ。
---- いま、自然の「いのち」そのものと素直に向き合える環境というものは、人びとのまわりからどんどん減っていますね。「いのち」が自分の側に、近くにないんでしょう。だから平気で人を殺せちゃうし、いじめちゃうんじゃないでしょうか。
大地から生えてきた草などを、見たり抜いたりするときにふと感じるんですが、その一本の草は、いろんな自然の「いのち」と連なって成り立っている。つまり「いのち」は全部、連鎖反応的に連なってきているんだよ、ということが実感できる、今そういったことを感得できるような学習が望まれる時代ですね。
――人間関係においても、その人たちの「いのち」とちゃんと向き合って生きていこうという ような、つまり「共生」という感覚が希薄になりつつあるのではないでしょうか。
その「共生」というのは、いろんな人間たちが共に生きるということもそうだし、いろんな自然とも共に生きる、性が違う男女においても、体にいろんなハンディをもった人た ちとも、みんな一緒に、分け隔てなく、この地球上でありがたく生かしていただけるということ。それが共に生きるという、当たり前のことだと思うんですが・・・。
私は宗教というものは、これはやっちゃいけない、これは大事にしなきゃいけない、と いう規範というか、そういうものの核をきちんと自分の中につくる運動だと思うんです。
これは私の中の宗教観なんですが、人びとの中には「宗教性」というものがある。それ は自然に対する謙虚さであるし、自然の「いのち」に対する畏れであるし、そういう「い のち」への畏敬の感情そのものである、と実感しているんです。
――そのおっしゃる「宗教性」というのは?
根源的に「いのち」の中に感じる、自然の恵みからいただいた「いのち」は、なんてす ごいものなのかという実感です。その「いのち」のありがたさや謙虚さ、「いのち」への 畏敬の心情ですよね。
ひとつひとつの「いのち」は、果てしない宇宙の中に抱かれてあり、然久のはたらきの 中で育てられているんじゃないでしょうか。一人ひとりの中にそういう宗教性を持ってもらいたいと思うのです。
それぞれの宗教にはそれなりの真理はあるのだけれども、ひとつの教団・宗派となると排他的になって、宗教戦争さえ起こして殺し合ったりするでしょ。こういうことの解決も、 まず「いのち」を基本におく宗教性さえあれば、みんな、ゆるやかにつながり合っていけ るし、お互いに認め合っていけるということで可能だと思うんですけど。
いろいろな考え方や宗教があっていいと思う。でも、その中でみんながつながり合える のは「宗教性」であって、「いのち」を根底に連なっていけば、そこにいろんな争いごと は起きないんじゃないでしょうか。
私はこれからも生きている限り、“命”にこだわりつづけていきたいと思う。そして、「命の大切さ」を言いつづけたい。これこそ、国籍、民族、人種、宗教、性別、年齢等を問わず、世界中すべての人たちに受け入れられる共通のものだと思うからだ。
「二つの命(肉体と精神)」をテーマにして話を進めてきたが、最後はやはりこの言葉で締めくくりたい。 「命さえ忘れなきゃ!」
● 命さえ 24 (在日作家 朴慶南 1950年生)
あとがき
“命”をテーマにした本をまとめることをお約束したのは、三年ほど前のことだった。 他に悩えていた仕事がようやく一段落し、「さあ!」と鉛筆を握りしめた矢先、プロローグで記したように、肝心の命を忘れそうになった。
その、実感のこもった命がけの体験談が、結果的にこの本の導入になったのだから、う まくつじつまが合ったということになるのだろうか。
しかし、そう思えるのも命があればこそ。もしあのまま命を忘れてしまっていたなら、 この本は生まれなかった。いわば、私が生きてここに在る証のような一冊といっていい。まさに感無量である。
原稿用紙に自分の思いを綴っているとき、その先に読者のみなさんの存在が常にあった。 本を手に取って読んでくださったことが、ありがたくうれしい。心からの感謝をおくります。
本編には、雑誌『世界』(一九九三年一月号~九四年十二月号)に連載した「キョンナムのおしゃべり箱」、そして「週刊金曜日』(一九九四年七月八日号~九五年八月十一日号)に同じく連載した「キョンナムのいのちの歌」の一部に加筆したものも含まれている。
そのため、時 事的なものは現在をやや遡ることになってしまうが、ご了解いただきたい。 『世界』の連載の一回目に、アメリカで暮らす十三歳の日本人少女のことにふれた。本文の中では紹介できなかったが、拙著(『クミヨ!』)をかの地で読んで長い手紙をくれた。
日本と朝鮮半島の過去の歴史をふまえ、未来を切り拓いていこうとする姿勢、そしてつ らい立場にある人たちへの痛みと共感が胸に響いた。 その少女、酒井悠里ちゃんが一昨年帰国し、大学生になった。在日韓国人学生が主催す るサークルにも入り、将来はジャーナリストを目指し、生き生きと頑張っている。
本当にありがたいことに、書いたり話したりすることで、悠里ちゃんをはじめとして若 い人たちから非常にたくさんの手紙をいただく。 励まされる。何より未来へと希望が湧く。同時に、自分が投げかけたものへの責任感で身が引き締まる。 命を忘れそうになっている場合じゃないと、つくづく思う。
「私はイジメをやらない」と文中で広言しておきながら、随分ひどい目にあわせた編集の高村幸治さん、校正の奥様子さん、ゴメンナサイ。おかげさまで本ができました。お詫びと謝意を最後に。
一九九七年五月. 朴慶男