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毎日新聞 2022/5/13 東京朝刊 有料記事 6411文字
よい場所戻らないまま 玉城氏課題が顕在化した基地 宮城氏
司会 復帰から50年をどう評価するかを聞きたい。
真喜屋氏 米国統治の基本姿勢は全て軍事優先で、軍に関係することは優先的にインフラを整備するが、それ以外はほとんど整備されなかった。基地建設が始まると、生活の糧を求めて人が集まり急速に基地周辺の人口密度が上がった。那覇市、沖縄市、浦添市では、都市計画が追いつかず、衛生問題や住宅環境で深刻な都市問題が起きた。復帰後も基地は撤去されず、沖縄は今も米軍基地の隙間(すきま)でいびつな都市形成をしている。さらに、復帰後の経済発展の中心となるべき中南部の開発空間は基地に奪われたままで、発展の種となる場所がなくなった。これが、現在も続く沖縄の貧困の原因だ。
琉球政府は、建議書で復帰後の経済開発について3原則を掲げた。第1は平和、第2は住民福祉を向上させる豊かな沖縄、第3は地方自治の確立で、これらは「沖縄のこころ」と言われた。基地のない沖縄で総合的な都市計画を行うことこそが、県民福祉の実現だろう。「沖縄のこころ」は達成していない。
米軍基地を巡っては、普天間飛行場に代表されるように多くは県内移設が前提で、相変わらず良い空間は米軍に占有されている。
司会 知事には今後の展望を含めてお願いしたい。
玉城氏 真喜屋さんが言うように一番良い場所を押さえられたままだ。(日米両政府が沖縄県内の米軍施設11カ所を日本側に返還するとした)SACO(日米特別行動委員会)合意で返還が確定しているが、返還時期はいずれも「またはその後」と留保がつけられ、非常に曖昧だ。返還後の土地利用計画はもっと時間がかかる。今ある沖縄の振興についてプッシュアップしていくことも重要だ。
今沖縄で一番可能性があるのは観光関連産業だ。新型コロナウイルスの影響で打撃を受けているが、しっかりとサポートする。沖縄全体で働きながらバケーションもできる新しい旅行や働き方の展開を図る。沖縄のポテンシャルと、それぞれの島の個性を発信しながら、世界とつながっていきたい。
司会 基地問題は過剰に政治化されてしまうと取り扱いが難しくなる問題だと思うが、宮城さんにこの50年の評価を。
宮城氏 長い年月だが、95年、96年あたりで物事が大きく変わった。中央の政治や世論は、復帰が実現したことで何か成就した感覚だった。復帰後も沖縄が広大な基地の負担にあえいでいることへの認識があまりにも希薄だった。
95年に不幸な少女暴行事件があり、それと前後して大田昌秀知事の、代理署名拒否があった。沖縄の基地は民有地が多く、軍用地に貸したくない地主もいる。そのとき知事が代理で署名して、強制使用を可能にする法律があった。大田知事は基地を固定化されかねないとして、基地縮小を日本政府に繰り返し要請したが、受け流されるばかりだったので重い決意で代理署名を拒んだ。その結果、米軍基地は不法占拠状態となりかねない。流れを変えようと、当時の橋本龍太郎首相は普天間返還合意を電撃発表した(代理署名拒否の権限はその後、法改正で知事からは奪われた)。
これ以降、沖縄の基地は国政の重要課題になる。辺野古に基地を作る話に焦点があたっているが、普天間飛行場の危険性の除去が本来の課題だ。辺野古の基地ができるまでに政府側の試算で十数年。そこから普天間の移設作業で、ようやく普天間の運用停止に行き着く。下手すると20年を超える。これは普天間の危険性の除去の回答にはならない。一時期は官房長官だった菅義偉氏が普天間飛行場の5年以内の運用停止に最大限努力すると言っていた。しかし本気で最大限の努力をしただろうか。どういう方策があるのか、辺野古ではなく、そこに政府の知恵とリソースを注ぎ込んでほしい。
この25年でアジアは豊かになった。今は新型コロナウイルスの影響があるものの、東シナ海は中国や香港、台湾から沖縄へクルーズ船が行き交う観光の海でもある。軍事的に緊張もしているが、平和産業である観光は、ア ジア太平洋地域の秩序を映し出す鏡だ。
司会 90年代の橋本龍太郎政権と大田昌秀県政は基地問題で少なくとも話し合いはできていたが。
宮城氏 東京で「沖縄の政治指導者は日米安保の重要性を理解しているのか?」と問われる。だが、日米安保では日本に基地提供義務があり、その7割が沖縄で提供されている。それは沖縄が望んだことではない。そのうえで、歴代知事は「重要性を理解している」と言ってきた。この言葉の重みを踏まえれば、沖縄と対話しつつ、粘り強く負担軽減の道を探るしかない。近年の政府による強硬策が本土と沖縄、そして沖縄内部でも対立を引き起こしているのは、残念でならない。
東アジアでは安全保障上の緊張が高まっており、抑止力の議論は当然だと思う。しかし、近隣諸国と政治レベルで意思疎通を欠くようでは、単なる軍拡競争に陥りかねない。冷戦終結後の96年、日米安保は「アジア太平洋における繁栄と安定の基盤」と再定義された。繁栄と安定のため何ができるかから逆算して考える発想が大事だ。
地域振興の障害明らか 真喜屋氏「一緒に未来」意思重要 五百旗頭氏
司会 今後の展望は?
真喜屋氏 沖縄の基地を維持しているのは、沖縄振興計画だという指摘がある。沖縄の人間として自省を込めて述べると、振興計画に依存してきた沖縄も努力が足りなかった。他方、地域振興の一番の障害は基地だ。主要な基地が人口と産業の8割が集中する本島中南部にあり、発展の限界は明らかだ。
基地返還後の跡地利用とは、大規模な再開発のようなものだ。沖縄の基地は民有地が多い。返還まで時間がかかるほど遺産相続などで所有者が増え続け、合意形成が困難になり、跡地利用が難しくなる。近年返還された土地の多くでは、大型商業施設などを誘致してきた。「脱炭素社会」が唱えられる今、跡地利用では再生可能エネルギーを利用した先進的まちづくりを一刻も早く進めるべきだ。
最後に近隣アジア諸国から見た沖縄は、かつては軍事の要石(キーストーン)だった。今後は平和のキーストーンになれるのか。これは日本の未来にとっても重要だろう。次の世代に「希望のバトン」を渡したい。
司会 五百旗頭さんから復帰50年の評価と今後について。
五百旗頭氏 沖縄が日本に復帰した後も大きな基地負担は残った。それを申し訳ないと思ったのが、橋本龍太郎首相であり、その後の小渕恵三首相も沖縄でサミットを開き、クリントン米大統領を沖縄に呼んだ。さらに、中国の江沢民主席と韓国の金大中大統領を沖縄に招いて握手しようとまで考えた。当時は、元外交官の岡本行夫さんらが何十回も沖縄の市町村を回っては声を聞き、政府に提言できるものを探した。辺野古移設への怒りはもっともだが、半歩でも一歩でも前進ではないか。一緒に未来を作ろうという人が、本土にも沖縄にもいることが大事だ。
基地は合理化、効率化である程度は県外へ移せるが、すべて撤去できる情勢ではない。中国は冷戦後、軍事費を激増させた。十数年前の東シナ海は日本が優勢だったが、形勢は逆転した。尖閣奪取を公言する中国は中距離ミサイルを大量配備しているが、日米同盟にはない。冷戦後、米国がフィリピンに米軍基地を返還すると、中国は南シナ海のミスチーフ環礁に手を出した。戦後日本は自分から戦争をしかけなければ大丈夫だと信じてきたが、これが現実だ。安全保障の負担が続くにしても、沖縄には平和的な交流の拠点としての役割を伸ばしてもらいたいと思う。
司会 復帰時の屋良朝苗知事は「沖縄が背負っている十字架は、全国民が負うべきだ」と言いました。この言葉をかみしめ、考え続けたいと思います。
来場者 地位協定を改定する手法を政府は本当に考えているか。
五百旗頭氏 考えていたらいいが日本政府はお役所。地位協定改定は、どこの管轄にもなっていない。大事なことは二つある。一つは首相自身が米大統領に向かって毅然(きぜん)として要求する。向こうは動かざるを得なくなる。ただその前には研究が大事だ。何をどうするのか。容易ではないができることは結構ある。タスクフォースのようなものを作り、煮詰まったら首相が大統領に面と向かって伝える。どの首相がやれるかはわからないが、ぜひやらなければいけない。
司会 長野県の女性からウェブで質問です。本土に住む人たちが協力できることは何ですか。
玉城氏 今までは沖縄でも、基地負担の軽減となると、基地をなくす、撤去する、米国に持って行かせるが主な論調だった。ところが、このところ沖縄だけの問題にせず、沖縄の基地を引き取ろうと行動している方々が全国にいる。基地があることを自分の事として考えて、どういう形であれば自分たちが引き取れるか、政府がどのような法律を作り、米国とどう話し合うべきかなど、考えようという取り組みだ。もし私たちの街に基地があったら、騒音の被害があったら、川の水が有害物質で汚染されたら、と置き換えて考えてみてほしい。国を動かす権利は国民にある。我々の考え方で政治を動かしていくという基本的なことを、思い返し取り組んでほしい。
◆基調講演
基地整理縮小は当然 玉城デニー氏
沖縄は日本本土に復帰後、目覚ましい発展を遂げた。人口は復帰当時から1・5倍となり、社会インフラの整備も進んだ。県民総所得は名目上で1972年度の5000億円から、2018年度には4兆7000億円と約10倍に増加した。
だが、米軍基地は沖縄経済をフリーズ(凍結)させている要因だ。沖縄の経済的発展を目指す上でも、米軍基地のさらなる整理縮小は当然だ。
復帰50年がたっても、県民が最も望んでいた「基地のない平和な沖縄」はいまだ実現されていない。米軍専用施設の面積は全国の70・3%が沖縄に集中し、沖縄本島の面積の14・6%を占める。米軍人・軍属による犯罪、訓練や演習に伴う事故、日常的な航空機騒音による健康被害など現在でもさまざまな問題が発生している。
復帰50年という長い時間が経過しても、基地が県民の安全安心を脅かす状況は変わっていない。この状況を変えていきたい。取り組むべき課題には、日米地位協定の抜本的な見直しも含まれている。
米軍普天間飛行場(宜野湾市)の名護市辺野古への移設について、沖縄県は反対を続けている。19年2月の県民投票で投票総数の71・7%が「埋め立て反対」と明確に示されたが、日米両政府は「辺野古移設が唯一の解決策」との姿勢を変えず、県民の思いを顧みることなく工事が強行されている。辺野古移設では普天間飛行場の一日も早い危険性の除去にはつながらない。
中国の軍事力強化、台湾海峡を巡る緊張、ロシアのウクライナ侵攻など、日米安全保障体制の必要性や日本の安保環境が厳しさを増していることは十分に理解している。それでもなお、米軍基地負担の沖縄への集中は異常だと言わなければならない。
沖縄は地理的特性を生かして、琉球王国の時代からアジア各地と交流し、国々との懸け橋となることを目指してきた。米中の対立が続き、台湾海峡の緊張が注目される現在、緊張緩和や信頼醸成は待ったなしで取り組むべき喫緊の課題であり、その積極的な役割を担いたい。アジア太平洋地域の安保環境を改善することで在沖米軍基地の整理縮小が可能な環境を作り出し、沖縄がさらに発展し、地域全体の安定や発展にも貢献し、日本経済にも寄与する好循環をつくる。これが我々が目指す道だ。
琉球新報編集局長 松元剛氏
不条理に深い関心を 琉球新報編集局長・松元剛氏
日本が1952年にサンフランシスコ講和条約によって主権を回復したのと引き換えに、沖縄や奄美、小笠原は米軍統治下に差し出された。ここが今に続く沖縄の基地固定化と、本土と沖縄の分断が形成される源になったと感じている。
復帰50年を迎えるが、基地問題については「それほど変わっていない」という感覚を沖縄の人たちは持たざるを得ない。普天間飛行場と嘉手納基地の距離は10キロしか離れていない。海兵隊と空軍の拠点基地がこれだけ近接し、日々訓練が実施されているのは世界中で沖縄だけではないか。
「沖縄は基地がないとやっていけないよね」という誤解やフェイクの前に、大多数の国民が思考停止している状態の中、戦後77年、復帰50年を迎えても、国土面積0・6%の沖縄に全国の米軍専用施設の70%が集中する現実が続いている。
日米地位協定は改定されず、騒音は悪化し、米軍基地だけでなく自衛隊の基地も強化されている。沖縄がいつまでも日本の民主主義が成熟しているかを問うリトマス試験紙のような存在であり続けていいのか。復帰50年を機に沖縄に横たわるさまざまな不条理により深い関心を寄せてほしい。
BS-TBSキャスター 松原耕二氏
安保再議論の機会 BS-TBSキャスター・松原耕二氏
沖縄にある米軍基地の中と外を取材し、「フェンス」というドキュメンタリーを制作した。取材の中で最も感じたのは、沖縄の人と本土との間に横たわる「フェンス」の深刻さだった。
例えば、米海兵隊の副司令官に「なぜ沖縄に基地が集中する必要があるのか」と聞いた時、戦略上の必要性の最後に「でも、これは日本政府と合意の上なんですよ。あなたがた本土の人間が認めているでしょ」と突きつけられた。沖縄の若い人に聞いても「本土が基地を押しつけている」と言われ、本土の沖縄への無関心さへの失望も耳にした。
今、南西諸島に自衛隊の拠点が次々と作られている。中国の脅威を押しとどめることが目的だが、このまま米軍基地の負担が変わらないとしたら、さらに沖縄は自衛隊の基地の島になってしまう。それで本当にいいのだろうか、という復帰50年の問いが生まれてくる。
沖縄に基地が集中しすぎれば、日米安保の安定性を損ないかねない。復帰50年の節目は、日米安保のあり方をトータルでもう一度考える好機だと思う。本土の記者の一人として、沖縄と本土の間にある「フェンス」がなくなる日を夢見て、取材を続けていきたい。
■ことば
普天間飛行場移設
米軍普天間飛行場は市街地に囲まれ「世界一危険な飛行場」と言われる。1995年に起きた米兵による女子小学生暴行事件に抗議する県民大会には約8万5000人(主催者発表)が参加。反基地世論の高まりを受けた日米両政府による特別行動委員会(SACO)は96年、県内移設を条件に普天間飛行場の「5~7年以内の全面返還」などを決めた。名護市辺野古への代替新基地建設が決まると、同市長選や県知事選の争点となる。2014年には自民党県連幹事長も務めた翁長雄志氏が新基地反対を掲げて知事に当選。17年に埋め立て工事が始まったが、普天間飛行場返還は進んでいない。
■ことば
沖縄戦
米軍は1945年3月26日に沖縄本島に近い慶良間諸島に上陸し、住民の集団自決が初めて起きた。4月1日には本島に上陸。6月23日に日本軍司令官が自決して組織的戦闘は終わるが、局地的な抵抗が続き、降伏文書調印は9月7日となった。犠牲者約20万人のうち、日本兵は約6万6000人、米兵は約1万2500人。県民は一般住民約9万4000人、軍人・軍属約2万8000人の計約12万2000人が犠牲になった。沖縄の一般住民の中から14~45歳の男性が兵士、15歳~40代の女性が軍属として動員された。
■人物略歴
松元剛(まつもと・つよし)氏
1965年沖縄県生まれ。89年に琉球新報社入社。政治部長などを経て現職。通算9年間基地問題を追う。
■人物略歴
松原耕二(まつばら・こうじ)氏
1960年山口県生まれ。TBSニューヨーク支局長、「NEWS23クロス」キャスターなどを経てフリー。