カチューシャのうた [Katyusha]
류지미 2022. 6. 25. 15:31
[Катюша] カチューシャ [Katyusha]
레프 톨스토이의 「부활」의 여주인공. 예카테리나(Ekaterina)의 애칭.
소련의 대표적 가곡.
국경 경비대인 애인을 생각하는 처녀의 마음을 노래함.
1938년 마트베이 이사코비치 블란테르(М. И. Блантер 1903~1990) 작곡,
미하일 바실리예비치 이사코프스키(М. В. Исаковский 1900~1973) 작사.
https://www.youtube.com/watch?v=nl0eMOGRW8E
Katyusha dance War Army solo Военный танец Катюша сольный
https://www.youtube.com/watch?v=YoB4Vkvceo0
Katyusha's song
From Wikipedia, the free encyclopedia
For the Russian song, see Katyusha (song).
Published 1914, Composer(s)Shinpei Nakayama
Katyusha's Song, or "Song of Katyusha" (Japanese language:カチューシャの唄, Kachūsha no Uta) is a Japanese song, which was highly popular in early 20th century Japan. It was composed in the major pentatonic scale by Shinpei Nakayama. The song was sung by Matsui Sumako in a dramatization of Leo Tolstoy's 1899 novel Resurrection, first put on stage in 1914 in Tokyo.
Influences
Katyusha's song became a national hit in Japan from 1913 onwards, selling 27,000 copies and was taken on by street corner musicians throughout the Japanese empire. It is considered by some music historians as the first example of modern Japanese popular music.
『カチューシャの唄』(カチューシャのうた)は、1914年(大正3年)に発表された日本の歌謡曲、ならびに同楽曲を題材にした同年製作・公開の日本の短篇映画である。
楽曲の作詞は島村抱月と相馬御風、作曲は中山晋平。劇団芸術座の第3回目の公演である『復活』の劇中歌として、主演女優の松井須磨子などが歌唱した。また、『復活唱歌』の題名で、松井の歌唱によるレコードが発売された。歌詞の「カチューシャかわいや わかれのつらさ」は爆発的な流行語となった。
*カチューシャ
大正(たいしょう) 3年, 1914年 상영한 극 「부활(復活 ふっかつ」 여주인공 예카테리나(Ekaterina) 애칭
カチューシャの唄
https://www.youtube.com/watch?v=fbbrot0eN3Q
「カチューシャの唄」
島村抱月 (しまむらほうげつ) /相馬御風(そうまぎょふう)作詞・中山晋平(なかやましんぺい) 作曲
극 「부활」에서 카추샤(松井須磨子;まついすまこ)가 노래하여 유행함.
カチューシャかわいや わかれのつらさ
카츄샤 가여워라 이별의 쓰라림
せめて淡雪 とけぬ間と
적어도 쌓인 눈 녹기 전에
神に願いを(ララ)かけましょか
하느님께 소원을 (라라) 빌어볼까
カチューシャかわいや わかれのつらさ
카츄샤 가여워라 이별의 쓰라림
今宵一夜に 降る雪の
오늘 하룻밤 내리는 눈에
明日は野山の(ララ)路かくせ
내일은 산과 들의 (라라) 길이 파묻혀
カチューシャかわいや わかれのつらさ
카츄샤 가여워라 이별의 쓰라림
せめて又逢う それまでは
적어도 다시 만날 그때까지는
おなじ姿で(ララ)いてたもれ
변함없는 모습으로 (라라) 있어주어요
カチューシャかわいや わかれのつらさ
카츄샤 가여워라 이별의 쓰라림
つらいわかれの 涙のひまに
쓰라린 이별의 눈물 흘리는 동안
風は野を吹く(ララ)日はくれる
바람은 들판을 불고 (라라) 날은 저무네
カチューシャかわいや わかれのつらさ
카츄샤 가여워라 이별의 쓰라림
ひろい野原を とぼとぼと
넓은 들판을 터벅터벅
ひとり出ていく(ララ)あすの旅
홀로 떠나갈 (라라) 내일의 여로
カチュ- シャ かわいや 別れの つらさ 카츄샤 가여워라 이별의 쓰라림
せめて 淡雪 とけぬ 間に 적어도 쌓인 눈 녹기 전에
神に 願いを (ララ) かけましょか 하느님께 소원을 (라라) 빌어볼까
カチュ- シャ かわいや 別れの つらさ 카츄샤 가여워라 이별의 쓰라림
今宵 一夜に ふる 雪の 오늘 하룻밤 내리는 눈에
明日は 野山の (ララ) 路 かくせ 내일은 산과 들의 (라라) 길이 파묻혀
カチュ- シャ かわいや 別れの つらさ 카츄샤 가여워라 이별의 쓰라림
せめて また 逢う それまでは 적어도 다시 만날 그때까지는
おなじ 姿で (ララ) いてたもれ 변함없는 모습으로 (라라) 있어주오
カチュ- シャ かわいや 別れの つらさ 카츄샤 가여워라 이별의 쓰라림
つらい 別れの 涙のひまに 쓰라린 이별의 눈물 흘리는 동안
風は 野を 吹く (ララ) 日は 暮れる 바람은 들판을 불고 (라라) 날은 저무네
カチュ- シャ かわいや 別れの つらさ 카츄샤 가여워라 이별의 쓰라림
広い 野原を とぼとぼと 넓은 들판을 터벅터벅
独り 出て行く (ララ) あすの旅 홀로 떠나갈 (라라) 내일의 여정
世界の民謡・童謡
カチューシャの唄 流行歌の歌詞トルストイ『復活』を題材とした劇中歌が大流行
「カチューシャかわいや わかれのつらさ」が歌い出しの『カチューシャの唄(歌)』は、トルストイの長編小説『復活』を題材とした演劇の劇中歌として1913年(大正3年)に作曲された歌謡曲。『復活唱歌』とも呼ばれる。
曲名が似ているロシア歌曲『カチューシャ』はこちら。下の挿絵は原作のトルストイ『復活 Resurrection』表紙画像/出典:ペンギンブックス Penguin Books)。
「カチューシャ」とは、小説『復活』主人公の女性の名前。劇団芸術座による公演では、主演女優の松井須磨子が『カチューシャの唄』を歌唱し、人気を博した。
特に、歌いだしの歌詞である「カチューシャかわいや わかれのつらさ」は当時の流行語にもなったという。
中山 晋平のプロデビュー作
作曲は、『シャボン玉』や『証城寺の狸囃子』など数多くの有名な童謡を手掛けた中山 晋平(なかやま しんぺい/1887-1952)。
当時、中山は劇団芸術座の座長・島村抱月(しまむら ほうげつ/1871-1918)の書生として寄宿しており、『カチューシャの唄』は島村からの依頼で作曲された。
まだ東京音楽学校を卒業したばかりの中山にとって、『カチューシャの唄』はプロデビュー作であり、当時からその才能は遺憾なく発揮されていたようだ。
他にも芸術座時代には、中山 晋平の作曲により『ゴンドラの唄(いのち短し 恋せよ少女)』、『さすらいの唄』などのヒット曲が生まれている。
作詞者について
『カチューシャの唄』作詞者については、当初は芸術座・座長の島村抱月がすべて作詞したが、2番以降がうまくまとまらなかったため、早稲田大学の後輩である相馬 御風(そうま ぎょふう/1883-1950)に2番以降の歌詞を任せたようだ。
『カチューシャの唄』以外の相馬 御風の作品としては、『春よこい』、『早稲田大学校歌(都の西北)』などが有名。
トルストイ『復活』あらすじ・ストーリー
若い貴族ネフリュードフ公爵は、殺人事件の裁判に陪審員として出廷した。
驚くことに、被告人の一人である若い女は、かつて彼が弄んで捨てた女中のカチューシャだった。
カチューシャは、彼の子供を産んだあと、身を落とした生活の末に犯罪の嫌疑をかけられていた。
彼女にはシベリアへの徒刑が宣告されてしまうが、ネフリュードフは過去の過ちを悔い改め、カチューシャの恩赦を求めて奔走。
ついには彼女とともに旅して、彼女の更生に人生を捧げる決意をするのだった…
젊은 귀족 네휴류도후 공작은 살인 사건의 재판에 배심원으로 출정했다.
놀랍게도 피고인의 한사람인 젊은 여자는 그가 한번 농락하고 버린 여자 카츄샤였다.
카츄샤는 그의 아이를 출산한 후 아이를 떨어뜨려 살인미수범죄의 혐의를 받고 있었다.
그녀는 시베리아 도형이 선고되어 버려지지만 네후류도후는 과거의 잘못을 회개하고 카츄샤의 사면을 구하기 분주했다.
마침내 그녀와 함께 여행을 떠나면서 그녀의 갱갱에 인생을 바칠 결의를 하는 것이었다.
부활 Voskreseniye
大流行の背景好評を博した「復活」上演
不倫関係が表面化したことで、文芸協会を脱退して芸術座を結成した島村と松井であったが、「わがままでヒステリック」と評されたこともある看板女優の松井の言動がもとで、芸術座は『復活』の公演の前にたびたび分裂騒動を起こしていた。『復活』の公演は1914年の3月に帝国劇場で始まったが、興行成績は芳しくなかった。興行成績次第では一座を解散するとも噂されていたが、4月以降に大阪や京都での公演には、観客が連日大挙し、人気を博した。
その後に行われた長野や富山や金沢や広島、横浜や東京の歌舞伎座・東京座などでの公演も成功を収め、4年間で上演回数は440回を越えたが、この背景には、当時世界中で注目を集めていたトルストイの思想を目にしようという目的の学生や、新しく変わった大正時代を肌で感じようとした大衆の心理があった。
劇場公演から流行歌が生まれた前例としては、1910年(明治43年)に自由劇場で、1913年(大正2年)10月に帝国劇場で公演されたゴーリキーの『夜の宿』挿入歌である「どん底の歌」(ロシア民謡、作詞:ゴーリキー、訳詞:小山内薫)が流行したケースがあるが、「カチューシャの唄」ほど大規模に流行した例はなかった。
大衆への影響歌本・楽譜
この曲の流行には楽譜や書生節の影響を受けた演歌師による歌本も大いに貢献した。
楽譜は1914年6月1日、敬文堂書店から定価5銭で出版された。表紙は竹久夢二である。
楽譜や歌本はレコードよりも安価であったことから、1914年9月段階で楽譜は7万8000部売れ『鉄道唱歌』以来の売れ行きとなり、赤本や歌本も含めると総発行部数は14〜5万部に達する勢いであると『読売新聞』1914年9月13日付で報じられた。
学生への観劇・歌唱禁止令
この流行は、全国の高等女学校・中学校・女子専門学校・高等学校の学生までにも及んだ。そして、生徒たちに『復活』の観劇を禁じる学校が相次いだ。当時は第一次世界大戦が開戦するかどうかであった時代背景も影響している。
さらに第三高等学校では生徒たちが頻繁に歌っていたために歌唱の禁止令が出たと、『読売新聞』1914年6月17日付、『九州日日新聞』1914年6月27日付で報じられた。また、『萬朝報』1914年8月11日付でも、東京の女子専門学校で歌唱禁止令が出たと報じている。
이 유행은 전국 각급 학교의 학생에 까지 이르렀다. 학생들의 '부활' 관람을 금지하는 학교가 잇달았다. 당시는 제1차세계 대전이 발발할지도 모르는 시대 배경도 영향을 끼쳤다.
또한 제3고등학교는 학생들이 자주 부르는 노래에 대한 가창금지령이 나왔다고 요미우리신문 1914년 6월 17일자, 큐슈일일신문 1914년 6월 27일자 보도다. 萬朝報 1914년 8월 11일자도 도쿄여자전문학교의 가창금지령을 보도했다.