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遺伝性乳がん卵巣がん症候群(HBOC)の発症リスクについて、依頼者に会わずに伝えるゲノムクリニックの遺伝子検査事業は、費用が安いのも特徴だ。代表取締役の曽根原弘樹医師(36)は「いわばジェネリックとして安くできた。検診にも組み込んでもらえるようにしたい」と話す。
発症リスク判定に使うBRCA1、BRCA2の二つの遺伝子は、解析・判定法の特許を米国の企業が独占していた。日本での特許が最近切れ、1人3万9500円で提供できるようになったという。
一方、医療機関で同様の検査を受ける場合、まだ参入企業が少ないこともあり、自費診療で10万~20万円ほどかかる。
厚生労働省などによると、医療機関での検査は基本的に患者本人や、母親や祖母ら家族が発症した人に限られ、保険適用は発症者の一部に限定される。ゲノムクリニックの検査は、家族の病歴による疑いが濃くない未発症者を対象にしている。前者は医療行為、後者は医療行為ではないとされる。
毎日新聞が同社の事業について厚労省にたずねたところ、遺伝子を調べて統計上のリスクを示すだけでは診断にはあたらないとの説明だった。曽根原医師が保健所に聞くと(1)利用者が発症前(2)検体が唾液(3)自動的に判定され、医師の見解ではない――ことから、医療行為ではないと判断されたという。
気になるのは、重大な結果を知らされた利用者への対応だ。医療機関では日本医学会などの指針に基づき、臨床遺伝専門医の資格を持つ医師や認定遺伝カウンセラーらが検査の前後に対面でカウンセリングする。
ゲノムクリニックも電話などでカウンセリングする計画で、陽性なら提携病院を紹介するといった対応をとる。だが、遺伝カウンセリングに詳しい川崎医療福祉大の山内泰子教授は「変異が検出されて不安に陥ったり、家族にも言えなくて独り悩んだりすることを防ぐため、発症前の検査では特に、遺伝カウンセリングが必要になる。検査結果を生かすためには対面での対応が望ましい」と懸念する。
HBOC当事者の会「クラヴィスアルクス」の太宰牧子理事長は、8年前に約25万円を負担して検査を受けた経験から、ゲノムクリニックの事業を「安価で、遠方の人にとっても負担軽減になる」と期待するが、「家族歴からHBOCの疑いの濃い人たちは受けられない。医療として実現してほしい。きちんと病院に引き継がれるかも分からない」と不安も示す。
東京大医科学研究所の武藤香織教授(社会学)は、同社の試みを「専門病院に行けない人の選択肢になり得る」としつつ、同様のビジネスが広がると、「(カウンセリングをしないなど)検査の品質管理が不十分な、悪質な事業者が横行する可能性も危惧される」と指摘する。その上で、利用者へのフォローなども念頭に「『医療』に限りなく近い遺伝子検査の質をどう担保するか、議論のきっかけになるのではないか」と言う。
診断介さず 市場拡大
遺伝子検査は、大きく2通りに分かれる。一つはHBOCのように、遺伝子の変異が原因で発症する遺伝性疾患の可能性や、がん治療薬の効き方を調べる医療目的の検査。もう一つは、体質を調べることが多く、疾患でも特定の遺伝子に強く影響される病気は調べない一般的な「DTC遺伝子検査」だ。
ゲノムクリニックもDTC検査だが、発症に強く影響する特定の遺伝子を調べ、がんリスクを判定する点が従来の同検査とは異なっている。
DTCとは、事業者が医療機関を介さずに直接(Direct)、消費者に向けて(To Consumer)行うという意味。かつての検査は重い遺伝病を調べる目的で、医療機関で一部の対象者に「医療」として行われた。1990年代ごろから医療とは無関係の事業者が、体質などを調べるビジネスでDTC検査を始めるようになった。経済産業省の2015年度の報告書によると国内で当時53社がDTC検査を実施。手軽さから10年代には大手IT企業も参入し、市場は拡大した。
検査では、利用者が送った唾液や口内の粘膜などから一部の遺伝子を調べ、過去の統計データと比較、生活習慣病などのなりやすさや、太りやすさといった体質などを判定する。運動や知的、芸術的な能力、血縁関係や先祖を調べる検査もある。インターネットや検査業者が提携しているエステ店などで申し込み、郵送やメールなどで結果を受け取るのが一般的だ。
DTC検査は、利用者の健康意識が高まるなどの利点があるとされるが、科学的な裏付けや説明が不十分なサービスが多いとの指摘もある。国は「統計データと検査結果を比較しているにすぎない」として医療には当たらないという立場だ。医師の診断は不要で、医師法上の規制もない。経産省が個人の遺伝情報の保護などを指針で定め、業者に自主規制を求めているが、厚労省研究班の17年の調査では、それすらも業者の5割ほどしか守っていない。
米国では検査ビジネスの草分け「23アンド・ミー」の体質や疾患に関する検査が科学的妥当性を欠くとして13年、政府からサービスの中止命令を受けた。ドイツなどでは消費者に直接、結果を提供する遺伝子検査が法的に禁止されている。
武藤教授は「消費者から見て、医療とDTC検査の違いが非常に分かりにくくなっている。検査の質を担保した上で、分かりにくさを解消できるような体制を構築すべきだ」と主張する。
統計的な傾向を判定 DTC検査
遺伝子検査とは何を調べるのか。
生物の全遺伝情報を担うDNAはA、T、G、Cの4種類の塩基で構成され、ヒトのDNAは約30億塩基対で書かれている。生物の重要な構成成分のたんぱく質を作り出す「司令塔」の塩基配列は数%ほどで、これを遺伝子と呼ぶ。検査は通常、この遺伝子に該当する塩基配列を調べる。
遺伝性疾患の検査では、まず原因遺伝子の塩基の並び順を正確に読み取る。HBOCの原因遺伝子はBRCA1とBRCA2の二つで、並び順を正常な遺伝子と比較し、どの塩基が書き換わっているかを特定して病原性の有無を判定する。
一方、一般的なDTC検査は遺伝子の中でA、T、G、Cの並び順が通常と違っていても、それ自体が遺伝性疾患の原因にはならない「遺伝子の個性」を調べる。全ての人がDNAの約0・1%の割合でそうした違いを持つ。この「個性」は、統計的に体質や病気の発症のしやすさに関係することが分かっている。ただし発症には通常、複数の遺伝子が関わり、生活習慣や環境も影響する。この「遺伝子の個性」を持つ人の集団は、持たない人の集団より、疾患のかかりやすさの確率がやや変わる。一般的なDTC検査の結果は、この統計的な傾向を示す。しかし、この「遺伝子の個性」を持つ個人について、その確率で疾患にかかりやすいといった決定的なことは言えない。=つづく(この連載は池田知広、柳楽未来、須田桃子が担当します)
■ことば
遺伝性乳がん卵巣がん症候群(HBOC)
「BRCA1」「BRCA2」という遺伝子の変異が原因で発症する遺伝性のがん。乳がん患者の3~5%、卵巣がん患者の10~15%がHBOCとみられる。この検査を受けた米俳優のアンジェリーナ・ジョリーさんが予防的に両乳房などを切除したと公表して話題になった。検査は基本的に医療機関で実施され、患者や親族の病歴から疑いのある人が受けるケースが増えている。