世界経典 Ⅱ
第1部 神様と創造
第2章 真理と宇宙の法則
3) 黄金律
黄金律は、ほぼすべての宗教の経典で発見される。その多くは最も簡潔で普遍的な倫理的原理とみなされる。時として“相互性”と呼ばれたりもする黄金律は、報復をするのではなく、主導的に先に行うことである。それは、ある無礼な行いに対して、同じ無礼な行いで反応するのではなく、他人に対してまず親切を施し、配慮しなさいと教える。したがって黄金律は、それを実践に移すためには、かなりの道徳的努力を傾けなければならない倫理である。
黄金律の倫理には3種類の次元がある。第1に、「あなたが願わないことを人にしてはいけない」という消極的表現は、私達が人から傷つけられることを願わないように、私達も人を傷つけてはいけないということを教えている。次に、「人からもてなしてもらいたければ、まず人をもてなしなさい」、または「あなたの隣人をあなたの体のように愛しなさい」という積極的な表現は、私達がほかの人たちの欲求と気分を察し、彼らに慈愛深く対することを求めている。最後に、文鮮明先生の教えは、黄金律を「ために生きなさい」というそのみ言の根本原理を包含して、その意味を高揚させる。その教えの倫理は、私達に犠牲と奉仕を絶えず促す。それは、縦的な関係の神様とその限りない愛を伝授され、常に利他的に生きていくことを求めている。
― 宗教経典 ―
人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。
マタイによる福音書7.12 (キリスト教)
子貢がおたずねしていった、「ひとことだけで一生行なっていけるということがありましょうか。」先生はいわれた、「まあ恕(思いやり)だね。自分の望まないことは人にしむけないことだ。」
論語15.24 (儒教)
自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。(注6)
レビ記19.18 (キリスト教)
自分自身を愛するように兄弟を愛すまでは、誰一人信者ということはできない。
ナワウィー40 のハディース13(イスラーム)
大いに努力して思いやりの真心を他人に推し及ぼしてゆけば、……これこそ、仁を求める一番手近かな方法である。
孟子Ⅶ、A.4、(儒教)
自分自身にとって不愉快なやり方で人に対して振る舞ってはならない。これが道徳の本質である。他の全ての行いは利己的な欲望によるものである。
マハバーラタ、教訓の巻113.8 (ヒンドゥー教)
幸福である時も、苦痛の中にいる時も、楽しい時も、悲しい時も、一切衆生をあなた自身のように思わなければならず、ほかの存在を傷つけてはならない。ほかの存在を傷つけることは、すなわちあなた自身を傷つけることである。
ヨーガシャーストラ2.20 (ジャイナ教)
かれらもわたくしと同様であり、わたくしもかれらと同様である」と思って、わが身に引きくらべて、生きものを殺してはならぬ。また他人をして殺させてはならぬ。
スッタニパータ705(仏教)
尖った棒切れで幼い鳥を切ろうとする者は、まず自分を切ってどのくらい痛いか感じてみなければならない。
ヨルバ族の格言(アフリカ伝統宗教)
ある異教徒がシャーマイのところに来て言った。「私を伝道してみなさい。私が一方の足で立っているあいだ、あなたが私にトーラを教えるという条件で」。するとシャーマイが手にしていた細い木の枝で彼を退けた。彼がヒレルのところに行くと、ヒレルが言った。「あなたが嫌うことを人にも強要してはいけない。これがトーラの教えです。それ以外のほかのところは、すべて敷衍して説明したものにすぎない。さあ、もう一度行って学びなさい」。
タルムード、シャッバト31a (ユダヤ教)
「我は生を欲し死を欲せず楽を欲し苦を厭ふ。…若し我命を奪ふ者あらば我可愛可意にあらじ。他も生を欲し死を欲せず楽を欲し苦を厭ふに、若し我、その命を奪はば可愛可意にあらじ。我に於て不可愛不可意の法は他に於ても不可愛不可意の法なり。我に於て不可愛不可意の法を我、云何ぞ他に加へんや」と。
サンユッタ・ニカーヤ5.353 (仏教)
あなたの意志の準則が、同時に普遍的立法の原理として妥当たり得るよう行いなさい。
イマヌエル・カント人倫の形而上学
― み言選集 ―
今日、人倫道徳やこの社会の道徳基準を中心として見るとき原理原則があるのですが、この原理はどのような基準によって成立するのかというと、「私のために生きなさい」というところから成立するのではありません。ために生きようとするところから原則が成立するのです。
(71-125、1974.4.29)
真の人生が行く道とは何でしょうか。一つの公理として立てるべきことはために生きよということです。孔子やイエス様や釈迦牟尼やムハンマドのようなすべての聖者の前に神様が現れて、「あなた方はどう思うか」と言われれば「正しい」と言います。それが宇宙の法則です。それが、人間が人生において真の姿で生きる一つの法だということを知るべきです。
(133-18、1984.7.1)
もてなしてもらおうとすれば、まず人をもてなさなければなりません。私がもてなしてもらってから人をもてなそうと考えてはいけません。「人にもてなしてもらおうとすれば、先にもてなしなさい」と言いました。先にもてなすことが原則です。統一教会の文先生はどうでしょうか。皆さんをもてなそうとしましたか、そうでなければ私がもてなしてもらおうとしたかというのです。皆さんにもてなしてもらおうとは少しも考えませんでした。人に負債を負ってはいけないというのです。
(50-339、1971.11.8)
真の愛の生活とはどのようなものでしょうか。一言で言えば「ために生きる生活」です。人が自分のために生きてくれることを願う前に、先に人のために生きる生活です。ために生きてあげたことを忘れてしまう生活です。ために生きであげたからといって、何かを期待する生活ではありません。ために生きてあげても、もっとために生きてあげることができずにもどかしく思う生活です。ために生きても、謙遜に頭を下げてために生きる生活です。それで、イエス様も、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と言い、「高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と言われたのです。
(433-179、2004.1.27)
첫댓글 감사합니다.
아주