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東福寺(とうふくじ)は、京都市東山区本町十五丁目にある臨済宗東福寺派の大本山の寺院。山号は慧日山(えにちさん)。本尊は釈迦如来。京都五山の第四位の禅寺として中世、近世を通じて栄えた。近代に入って規模が縮小されたとはいえ、今なお25か寺の塔頭(山内寺院)を有する大寺院である。かつては身の丈五丈の釈迦如来座像を有し、山城国(現在の京都府の一部)では雲居寺大仏・方広寺大仏(京の大仏)に次ぐ高さを有する大仏として、威容を誇っていた。中世においては「南都(東大寺)の半仏雲居(雲居寺)、雲居の半仏東福(東福寺)」「南都の四半仏[1]」と謳われるなど、身の丈十六丈の東大寺大仏・身の丈八丈の雲居寺大仏と並び称されていた(公称高寸法が実寸の高さでないことは後述)。
東福寺は宗派の雲水たちが修行する専門道場である一方で、紅葉の名所として著名な観光スポットであり、秋には数十万もの観光客が訪れる。域内には多くの国宝、重要文化財に指定された名建築を有し「東福寺の伽藍面(がらんづら)」とも呼ばれる。
歴史
東福寺は京都市東山区の東南端、伏見区と境を接するあたりにあり、東には泉涌寺がある。この地には延長2年(924年)に藤原忠平によって建てられた藤原氏の氏寺・法性寺の巨大な伽藍があった(法性寺は、JR・京阪東福寺駅近くに小寺院として存続している)。嘉禎2年(1236年)、摂政九条道家は、九条家の菩提寺として、この地に身の丈五丈(約15メートル)の釈迦如来像を安置する大寺院を建立することを発願し、寺名は奈良の東大寺、興福寺の二大寺から1字ずつ取って「東福寺」とした。建長元年(1249年)に完成した身の丈五丈の釈迦如来像を安置する仏殿の建設工事は延応元年(1239年)から始めて、完成したのは建長7年(1255年)であった。
九条道家は開山(初代住職)として、当時宋での修行を終えて帰国していた禅僧・円爾(諡号は聖一国師)を迎えた。円爾は駿河国栃沢(現・静岡市葵区)の人で、嘉禎元年(1235年)、宋に渡って径山(きんざん)興聖万寿禅寺の高僧・無準師範に入門、印可(師匠の法を受け継いだというお墨付き)を得て仁治2年(1241年)、日本へ帰国した。円爾ははじめ九州博多の承天寺に住したが、同寺が天台宗徒の迫害を受けて焼き討ちされたため、九条道家の援助で上洛、寛元元年(1243年)に東福寺の開山に迎えられた。
こうして当寺は天台・真言・禅宗の三宗兼学の寺院として建設が行われたが、工事は30年以上に亘って続き、法堂(顕教寺院の「講堂」にあたる)が完成したのは文永10年(1273年)であった。こうして五重塔をも備えた大伽藍が完成したが、元応元年(1319年)2月、大火災で伽藍は全焼し、身の丈五丈の本尊・釈迦如来像も焼失した。
1976年(昭和51年)韓国の全羅南道新安郡智島邑道徳島沖の海底から、大量の荷を積んだジャンク船(新安沈船)が発見されて引き揚げられた。積荷木簡の中には「東福寺」「十貫公用」などの字が見られることから、この船は焼失した東福寺の造営料を名目として、鎌倉幕府公認で派遣された唐船(寺社造営料唐船)であることが推測されている。
こうして再建が行われたが、建武元年(1334年)1月に方丈が焼失した。しかし、この年に当寺は京都五山に列せられる。延元元年(1336年)8月には兵火にあって仮仏殿が焼失するもこの8月のうちに再建に着手する。身の丈五丈の本尊・釈迦如来像も再び造立し、室町幕府の支援もあって貞和3年(1346年)6月には前関白一条経道により仏殿の上棟式が行われている。この際、東福寺は兼学寺院ではなく禅寺として復興が行われた。
観応2年(1351年)には南朝・後村上天皇の祈願所となっている。
当寺は「新大仏寺」とも呼ばれて栄えた。至徳3年(1386年)、法堂が再建される。享徳3年(1454年)には三重塔が建立された。室町時代には足利義持によって修理が行われている。
文明2年(1470年)、応仁の乱の戦火にあっていくつかの塔頭が焼失する。大永6年(1526年)にも焼失するが、天正年間(1573年 - 1593年)に豊臣秀吉によって寺領1854石が安堵されて再興される。
江戸時代になると徳川家康や徳川家光によって修理がなされている。
明治時代となり神仏分離令が出されると、70か院近くあった塔頭が25か院になった。1881年(明治14年)12月16日午後8時に失火のため出火し[2]、それが大火となり仏殿、身の丈五丈の本尊・釈迦如来像、法堂、方丈、庫裏などの主要な建物が焼失してしまった。なお、東福寺には巨大な「仏手」(現存部分の長さ2メートル)が保管されており、旧本尊像の左手部分のみが明治の火災の際に救い出されたものと推定されている[3]。
日露戦争の際には寺域が接収され、ロシア軍捕虜を入れる捕虜収容所となった。
1917年(大正6年)より仏殿と法堂を兼ねた本堂が建てられ、塔頭の万寿寺から釈迦如来像を移して本尊とし、1934年(昭和9年)に完成している。現在の本堂、方丈、庫裏などは明治以降の再建だが、国宝の三門をはじめ、東司(便所)、浴室、禅堂などは焼け残り、中世の建物が現存している。
東福寺からは歴代多くの名僧を輩出しており、『元亨釈書』の著者である虎関師錬、室町時代に画僧として活躍し、その後の仏画や水墨画に多大な影響を及ぼした吉山明兆などが著名である。
境内には宋から伝わった「通天モミジ」と呼ばれる三葉楓(葉先が3つに分かれている)など楓の木が多い。もとは桜の木が植えられていたが「後世に遊興の場になる」という理由で伐採され、楓の木が植えられたものである。周辺は歴史的風土特別保存地区に指定されている。
三門、本堂、方丈、庫裏などからなる主要伽藍を中心に25の塔頭寺院がある。主要伽藍の北には洗玉澗(せんぎょくかん)という渓谷があり、西から東へ臥雲橋、通天橋、偃月橋という3本の橋(東福寺三名橋)が架かる。通天橋は、本堂から通じる廊下がそのまま屋根付きの橋となったもので、この付近は特に紅葉の名所として知られる。橋を渡ると、開山円爾を祀る常楽庵がある。応仁の乱の戦火を免れた貴重な文化財が数多く存在する。
本堂(仏殿兼法堂) - 1881年(明治14年)に仏殿と法堂が焼けた後、1917年(大正6年)から再建工事にかかり、1934年(昭和9年)に完成した。入母屋造、裳階付き。高さ25.5メートル、間口41.4メートルの大規模な堂で、昭和期の木造建築としては最大級のもの。天井の「蒼龍図」は堂本印象筆である。本尊釈迦三尊像(中尊は立像、脇侍は阿難と迦葉)は、明治14年の火災後に塔頭万寿寺から移されたもので、鎌倉時代の作である[13]。
方丈 - 1890年(明治23年)再建。
本坊庭園「八相の庭」(国の名勝) - 庭園は近代の造園家、重森三玲によって1939年(昭和14年)に作庭され、方丈を囲んで四方に配される。釈迦成道を表現し、八相の庭と命名されている。鎌倉期庭園の質実剛健な風格を基本とし、これに近代芸術の抽象的構成をとり入れた枯山水庭園である[14]。方丈の四周に庭園を巡らせたものはこの庭園のみである。庭園は2014年(平成26年)10月、国の名勝に指定された[15]、造園当時の砂紋が復元された[16]。
南庭 - 荒海の砂紋の中に蓬莱、方丈、瀛洲(えいじゅう)、壺梁の四仙島を表現した配石で、右方には五山が築山として表現されている。
北庭 - 南の恩賜門内にあった敷石を利用し、石と苔を幾何学的な市松模様に配している。
西庭 - サツキの刈込みと砂地が大きく市松模様に入り、くず石を方形に組んで井田を意図している。
東庭 - 東司の柱石の余材を利用して北斗七星を構成し、雲文様の地割に配している。
方丈唐門 - 正面前庭にある。1909年(明治42年)に造営され、昭憲皇太后より下賜されたもの。
書院
庫裏 - 1910年(明治43年)再建。方丈唐門とともに昭憲皇太后の恩賜建築である。切妻を正面とする禅宗式寺院の典型。
通天橋 - 仏殿から常楽庵に至る渓谷・洗玉澗に架けられた橋廊で、天授6年(1380年)に春屋妙葩が谷を渡る労苦から僧を救うため架けたと伝えられる。1959年(昭和34年)台風で崩壊したが2年後に再建、その際橋脚部分は鉄筋コンクリート造となった。
常楽庵 - 主要伽藍の北側に位置する。開山堂と昭堂を中心とした一画。文政2年(1819年)焼失後、文政9年(1826年)までに再建された。
開山堂(重要文化財) - 開山円爾像を安置する。
昭堂(重要文化財) - 中央部分は2階建の楼閣となっており、伝衣閣(でんねかく)と称する。金閣(鹿苑寺)、銀閣(慈照寺)、飛雲閣(西本願寺)、呑湖閣(大徳寺塔頭芳春院)と並び「京の五閣」といわれている。
普門院 - 文政9年(1826年)再建。客殿(重要文化財)と庫裏(重要文化財)からなる。かつて京都十刹の一つに数えられていた名刹普門寺の名残を残している。
枯山水庭園
庭園
塔司寮(書院、重要文化財)
鐘楼(重要文化財)
裏門(重要文化財)
楼門(重要文化財)
愛染堂(重要文化財) - もとは東福寺塔頭三聖寺の愛染堂であったが、1873年(明治6年)に万寿寺が三聖寺を併合し、万寿寺の堂となった。その万寿寺が1886年(明治19年)に東福寺の塔頭となった後の1937年(昭和12年)、愛染堂は万寿寺より移された。
光明宝殿 - 本堂東側にある文化財収蔵施設で、1981年(昭和56年)に完成。東福寺および塔頭寺院の文化財を収蔵するが非公開である。
大慧殿(宗務本院)
偃月橋(えんげつきょう、重要文化財) - 庫裏より塔頭龍吟庵・即宗院に至る三ノ橋渓谷に架かる単層切妻造・桟瓦葺きの木造橋廊である。慶長8年(1603年)に再建、1967年(昭和42年)に重要文化財に指定され、日本百名橋にも選ばれている。
三門(国宝[17]) - 現存する禅寺の三門としては日本最古のもの[17]。三門は至徳元年(1384年)から再建が始まったが、完成したのは応永32年(1425年)のことである[17]。五間三戸二階二重門、入母屋造、本瓦葺、南面[17]。「五間三戸」とは正面の柱間が5つ、うち中央3間が通路になっているという意味、「二重門」は2階建ての門だが、「楼門」と違い、1階と2階の境目にも軒の出を作るものをいう。上層に釈迦如来と十六羅漢を安置する。
最勝金剛院 - 特別由緒寺院。
八角堂 - 九条兼実の廟所。
九条家歴代の墓
十三重石塔(重要文化財) - 康永2年(1343年)に九条道家が造立。
魔王石堂 - 鞍馬寺で祀られている魔王の石像を祀る。別の説では比良山の魔王であるという。
鐘楼(京都府指定有形文化財)
五社成就宮(京都府指定有形文化財) - 祭神:八幡神、賀茂神、稲荷神、春日神、日吉神。寛元元年(1243年)に法性寺成就宮を東福寺の鎮守とした。
浴室(重要文化財) - 前面を入母屋造、後方を切妻造にした単層本瓦葺の建物で、国内では最大。東大寺の湯屋に次いで古く、長禄3年(1459年)に建てられた京都最古の浴室建築の遺構として知られる。内部は正面板敷きの上に2つの蒸し風呂が並び、後方に釜と焚き口がある。
禅堂(重要文化財) - 貞和3年(1347年)再建。豪壮な姿に往時の隆盛がしのばれる単層・裳階(もこし)付切妻造の建物で、中世期より現存する最大最古の禅堂である。
東司(とうす、重要文化財) - 室町時代唯一、日本最大最古の禅宗式の東司(便所)の遺構で、多くの修行僧が一斉に用を足すことから百雪隠(ひゃくせっちん)とも呼ばれる。内部は中央通路をはさんで左右両側に円筒の壺を埋める。2022年10月17日午前9時半頃、運転操作を誤った乗用車が東司に突っ込み木製扉が大破し、建物内部にまで入ったところで止まる事故が発生した[18]。
思遠池
勅使門(京都府指定有形文化財)
六波羅門(重要文化財) - 南正面に立つ伽藍の最南端にある鎌倉時代前期の門で、鎌倉幕府の六波羅探題にあったものを移したことから、この名で呼ばれている。
日下門(京都府指定有形文化財)
殿鐘楼(京都府指定有形文化財) - 吊るされていた梵鐘(重要文化財)は西寺の遺物だとされる。
経蔵(京都府指定有形文化財) - 寛政6年(1794年)再建。
臥雲橋(京都府指定有形文化財)
月下門(月華門、重要文化財) - 板蟇股(かえるまた)など細部にわたり鎌倉時代の特色をよく残す切妻造・檜皮葺の四脚門で、文永5年(1268年)に一条実経が常楽庵を建立した際に亀山天皇から京都御所の月華門を下賜されたと伝えられる。
南大門(京都府指定有形文化財)
中大門(京都府指定有形文化財)
北大門(京都府指定有形文化財)
仁王門(重要文化財) - もとは塔頭三聖寺の建物で慶長2年(1597年)の建立。
塔頭
龍吟庵 東庭
(珍しい赤砂の枯山水 重森三玲作)
霊雲院の遺愛石(書院より)
善慧院
龍吟庵 - 庫裏の背後、偃月橋を渡ったところの山裾の平坦地に位置する塔頭で、東福寺第3世で南禅寺の開山である無関普門の塔所(墓所)として、入寂直前に創建された。現存最古の方丈があり、また重森三玲の手による枯山水の庭園が「無の庭」「龍門の庭」「不離の庭」の三つある。毎年11月に一般公開。
即宗院 - 元中4年(1387年)、薩摩国の島津氏久の菩提を弔うため、剛中玄柔和尚を開山として創設された。幕末期、当院の茶亭にて西郷隆盛が僧月照と倒幕計画を話し合った。
南明院 - 徳川家康の正室・朝日(旭)姫(法名・南明院)の菩提寺として実兄豊臣秀吉により創建された。徳川家が将軍家となるにおよび歴代将軍の位牌を収める臨済宗での塔頭となり繁栄を極めた。
永明院(ようめいいん)
光明院 - 明徳2年(1391年)に金山明昶(きんざんみょうしょう)により創建された塔頭で、重森三玲による「波心の庭」がある。別名「虹の苔寺」とも称され、とくに苔の美しい新緑や紅葉時には、ひそやかな禅寺も華やぎを増す。公開塔頭。
正覚庵 - 正応3年(1200年)に奥州伊達家4代目当主伊達政依により創建される。毎年11月に古くなった筆の供養を行うことから「筆の寺」の通称で知られる。拝観には予約が必要。
願成寺 - 延暦11年(792年) - 承和9年(842年)に平城天皇の長子で歌人、在原業平の父である阿保親王による創建といわれ、当時は天台宗寺院であった。戦乱により荒廃したが乾元2年(1303年)に禅僧・宏海南州により再興され臨済宗に改宗する。しかし、応仁の乱により再び荒廃。三度復興を遂げたのは寛延年間(1748年 - 1751年)である。11月3日のみ一般公開。
東光寺 - 東福寺第7世無為昭元禅師が創建した寺で、禅師が応長元年(1311年)に相模国宝福寺で示寂し、同院に葬った。創建時は現在地よりも少し北の地に在ったが、1868年(明治元年)に現在地に移転した。
桂昌院
荘厳院
芬陀院 - 元亨年間(1321年 - 1324年)に当時の関白であった一条内経が父の菩提を弔うために創建した塔頭で、水墨画を大成した雪舟の作と伝えられる名庭があることから雪舟寺とも呼ばれている。公開塔頭。
天得院 - 正平年間(1346年 - 1370年)に東福寺第30世無夢一清禅師が開いた塔頭で、びっしりと杉苔に覆われた枯山水の庭園に凛と咲く桔梗の青や白の花が美しい。6月中旬から7月上旬、11月1日から11月30日の間のみ一般公開。
一華院 - 永徳2年(1382年)に一華庵として創建。後に東福第67世東漸健易を開山にむかえた。本尊は白衣観音坐像で室町時代の作、脇仏は達磨坐像と阿弥陀如来坐像でいずれも江戸時代作と伝わっている[19]。
霊雲院 - 明徳元年(1390年)に岐陽方秀が開いた塔頭で、肥後国細川家の信仰をうけ、寛永年間(1624年 - 1644年)に「遺愛石」と銘をつけた須弥台と石船を寄贈されたという。公開塔頭。
同聚院 (どうじゅいん) - 室町時代中期の文安年間(1444年 - 1448年)に東福寺第129世琴江令薫が開山した塔頭で、定朝の父・康尚の作といわれる本尊・不動明王坐像(重要文化財)は、寛弘3年(1006年)に藤原道長が法性寺に建立した五大堂の中尊と伝える。公開塔頭。
モルガンお雪の墓
大機院
善慧院(ぜんねいん) - 大永年間(1521年 - 1528年)に東福寺第207世彭叔守仙が開いた塔頭。普化正宗総本山明暗寺が間借りで尺八根本道場としており、和尚(善慧院住職)と明暗尺八の法系を継ぐ尺八看首がいる。
栗棘庵(りっきょくあん) - 建長7年(1255年)東福寺の創建から経つこと39年後の永仁2年(1294年)に、東福寺第4世白雲慧暁によって創建された。当初は洛北西陣、白雲村にあり応仁の乱後に東福寺山内に移る。本尊は千手観音。
退耕庵 - 貞和2年(1346年)に東福寺第43世性海霊見(しょうかいれいけん)によって創建された塔頭で、応仁の乱により一時荒廃したが、慶長4年(1599年)に安国寺恵瓊によって再興された。拝観には予約が必要。
勝林寺 - 室町時代末期の天文19年(1550年)に東福寺第205世高岳令松(こうがくれいしょう)によって創建された。本堂は近衛家の大玄関を移して建立。東福寺の鬼門に位置し、本尊として仏法と北方の守護神として知られる毘沙門天を祀ることから「東福寺の毘沙門天」と呼ばれている。本尊である秘仏の毘沙門天立像は平安時代の作。春は桜が咲き乱れ、秋は秘仏の吉祥天のように美しい吉祥紅葉が有名。定期的に新しい限定御朱印を発行している。春季は予約制・秋季は11月上旬から12月上旬まで一般公開。
海蔵院
龍眠庵
霊源院
盛光院
万寿寺 - かつては下京区万寿寺高倉にあったとされ、東福寺と並び京都五山の第五位として大いに栄えていた。天正年間(1573年 - 1592年)に現在地に移される。1886年(明治19年)に東福寺の塔頭となる。