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毎日新聞 2022/9/15 東京朝刊 有料記事 2542文字
大都市圏のぜんそく患者たちが、国や自動車メーカーに、医療費助成の救済措置を求める活動を続けている。過去には、自動車の排ガスによる大気汚染が発症の原因と認める司法判断が相次いだ。それを受け、一部で救済措置が取られたものの、認定の打ち切りに伴って取り残された人たちがいる。現在も症状に苦しんでいる患者は多く、新たな仕組みの創設が急務だ。国やメーカーの対応が問われている。
苦しみ続く患者たち
東京都目黒区の寺崎吉輝さん(77)は約20年前、ぜんそくと診断された。
31歳で妻の実家の総菜店を継ぎ、中目黒駅前で営んでいた。目の前の山手通りを頻繁にトラックが行き交い、排ガスが漂った。ショーケースを1時間おきに拭かなければならないほどだった。
ある日、せきが止まらなくなり、発作で眠れない夜が続いた。症状は悪化し、何度も救急車で運ばれた。苦しさのあまり、死を意識したこともある。
あちこちの病院を回った。今は吸入薬の効果で状態は落ち着いている。医療費はかさむが、都の助成制度の対象になっている。「公害は国の責任。全ての患者が救済されるようにしてほしい」と語る。
都の医療費助成制度は、2007年に和解が成立した東京大気汚染訴訟の成果だ。国や自動車メーカーなどの資金拠出を受け、翌年から患者の自己負担分を全額賄った。
しかし、15年に対象者の新規認定は打ち切られた。国やメーカーなどが追加拠出に応じなかったためだ。それまでに認定されていた人も18年から、月6000円までは自己負担することになった。
成人のぜんそくは完治が難しいとされる。放置すると、重症化する恐れがある。発作を防ぐためには、吸入薬が欠かせない。
「東京公害患者と家族の会」会長で、自身もぜんそくに苦しんできた石川牧子さん(66)は「制度を利用できなくなった人から医療費の相談を受けるのはつらい」と話す。
川崎市も独自の助成制度を設けており、対象者は年々増えている。ただ、過去に見直しの動きがあったため、制度存続に不安の声が出ている。
そもそも、こうした制度を持つ自治体は限られている。助成を受けられない患者には、医療費の負担が重くのしかかる。「全国公害患者の会連合会」によると、通院の頻度や、処方された薬の服用を減らす人が少なくない。
千葉市緑区の田中博子さん(79)は、18歳で建設会社に勤めて程なく、ぜんそくの症状が出始めた。粉じんや、トラックの排ガスにさらされる職場だった。
それ以降、時折、発作に襲われた。今も、マスクが手放せない。
最近は薬で症状を抑えられているが、高血圧などの治療もあり、医療費の負担は月1万円近くになる。娘、孫との3人暮らしの家計に響く。「ぜんそく患者の苦しみを分かってほしい」と訴える。
田中さんら患者たちは19年、国による新たな医療費助成制度の創設を求め、公害等調整委員会に調停を申し立てた。自動車メーカー7社に財源の負担を要請した。だが昨年、「合意の見込みがない」として打ち切られた。
改めて今年6月、国とメーカーに1人当たり100万円の賠償を求める責任裁定を公害等調整委員会に申請した。賠償責任を明確にして、制度創設につなげる狙いだ。
重いメーカーの責任
国は大気汚染被害者を救済する仕組みとして、1974年に公害健康被害補償制度を始めた。三重県の「四日市ぜんそく」で、コンビナートを構成する企業に賠償を命じた判決がきっかけだ。
主要な工業地帯など41の指定地域で、医療費を助成し、一定の補償にも応じた。工場の排煙だけでなく、自動車の排ガスも想定した制度だった。排煙は改善されたとの産業界の強い主張により、88年に新たな対象者の認定が打ち切られた。
だが、その後、排ガスによる汚染が深刻化した。オイルショックを受け、割安な軽油を燃料とするディーゼル車が急増した。その排ガスに多く含まれる粒子状物質(PM)は健康に悪影響を及ぼすが、国が規制を強化したのは2000年代になってからだ。
排ガスを巡る訴訟では、ぜんそく発症の原因と認める判決が相次いだ。道路管理者の国などに賠償を命じるだけでなく、汚染物質の排出を差し止めるものもあった。
環境省が05~09年度に実施した調査では、小学生や喫煙していない成人で因果関係が認められた。
しかし、国は一貫して「因果関係は明確になっていない」との立場だ。大気汚染は改善しているとも主張し、新たな医療費助成制度の創設を拒んでいる。
これに対し、大気汚染と健康被害の疫学調査に携わってきた島正之・兵庫医科大教授(公衆衛生学)は「因果関係はあるとみるのが妥当だ」と指摘する。大気中の汚染物質は環境基準を達成しつつあるとしながらも、「人体へのリスクが十分に解明されておらず、現状で良しとすべきではない」と語る。
疑問なのは、自動車メーカーが助成制度の財源負担に応じようとしないことだ。患者たちの代理人を務める西村隆雄弁護士は「排ガスの危険性を認識しながら、経済性をうたってディーゼル車を製造、販売したメーカーには、救済に協力する責任がある」と批判する。
国が医療費助成制度を新設する場合に必要な予算について、専門家は年100億~120億円と試算している。
尾崎寛直・東京経済大教授(環境福祉政策)は、都から助成を受けた患者へのアンケートで、「積極的に治療しようと思えるようになった」との回答が多かったことに着目する。「費用を心配せず早期に適切な治療を受けられれば、症状をコントロールしながら働ける。社会にとってもプラスになる」と指摘する。
空気がきれいになったとしても、患者たちが負った理不尽な苦しみは癒えない。国やメーカーには、その訴えに、真摯(しんし)に応える責任がある。
■ことば
公害等調整委員会
大気汚染や水質汚濁、騒音などの公害を巡る争いについて、解決を図る国の機関。裁判に似た手続きを取るが、委員会側が資料収集や調査を行えるなど、より迅速な救済に向けた仕組みがある。委員は7人で、元裁判官や学者、医師らが選ばれている。「責任裁定」は当事者が公開の場で主張し合い、3人または5人の委員で構成する裁定委員会が賠償責任の有無や賠償額を判断する。