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ために生きる世界
日付:一九七五年一月十六日
場所:韓国、ソウル、朝鮮ホテル
行事:「希望の日」韓国晩餐会
今晩、各界各層の著名な先生方がこのように多数参席され、私のために祝賀の夕べを盛況のうちに開いてくださり、心から感謝申し上げます。ここに立っている者は、皆様も御存じのように、韓国やアメリカで、物議を醸している張本人ですから、「いったい、あの文某はどんな人か」という思いで、この場に参席された方も多いことと思います。
1. 愛と理想と幸福は独りで築き上げることはできない
人にとって、食べること、見ること、聞くことは、大きな満足と刺激になるものと思います。おいしいものを、より一層おいしく食べられるようにと、私たちのために音楽でお力添えいただく金康燮(キムカンソプ)KBS軽音楽団団長とその団員の皆様に、拍手で感謝の意を表しましょう。また今晩、お客様をもてなすために御苦労される朝鮮ホテルの係りの皆様にも、心から感謝申し上げます。
今晩、このようにお集まりになった皆様の前で、いったい私はどのような話をしようかと考えてみました。しばらく挨拶を申し上げて終えればよいのかもしれませんが、そのまま座ってしまえば、皆様が「文某に会ったら何か話をすると思っていたのに何も話さなかった」と、物足りなさを感じられるのではないかと思いますので、今から私の所見をしばらくお話ししようと思います。
昔から人類は、永遠にして不変の真の愛と理想と幸福と平和を思い描いてきたことを、私たちは知っております。しかし、今日私たちが生きているこの世の中とこの時代は、不信の世の中であり、混乱した時代です。このような中で、人間が願う要件を求めて成就することは、既に不可能な段階に直面していることを、私たちは直視しているのです。
人間は、できる限りの努力をしてみましたが、このような要件を充足させられない現在において、私たち人間によってはこれが成就できないとすれば、人間を超えた、永遠不変で真の絶対者を探し求め、そのお方に依存する以外にないのです。そのお方が、真の愛、真の理想、真の平和、真の幸福を念願されるなら、そのお方を通してこそ、それが可能になる道があると、私たちは考えざるを得ません。そのような立場で考えるとき、そのようなお方がおられるとすれば、そのお方は神様でないはずはありません。
神様は、愛の王となるお方であり、理想の王となるお方であり、平和と幸福の王となるお方です。そのお方を通して、このように人類が追求してきた理想的な要件を成就するためには、そのお方が提示する内容を私たちが知って、それに従っていかなければならない、という結論を下すことができるのです。これは当然の結論です。
私たちが考えてみても、愛や理想、幸福、平和というものは、独りで成立するものではないことを知っています。それは必ず、相対的な関係において成立するものなので、いくら神様が絶対者としておられたとしても、その神様が望む愛と理想と幸福と平和は、神様お独りでは築くことができないのです。神様御自身にも、必ず相対が必要だということは、必然的な帰結なのです。
それでは、「いったいこの被造万物の中で、神様の対象になるそのような存在がどこにあるのか」と反問すれば、それは言うまでもなく、人間以外にはないと結論を下すことができます。神様の理想を成就することができ、神様の愛を完成することができ、神様の幸福と神様の平和を完結できる対象が人間であるという事実を、私たちは想像もできなかったのです。神様お独りで愛そうとしても何にもならず、神様お独りで理想を得ようとしても何にもならず、神様お独りで平和で幸福に暮らしたからといって、それで何だというのでしょうか。必ず相対となる人間を通さなければ、このような要件を成就できないことは当然の結論です。
2. 対象的存在がより一層よくなることを願う神様
このように考えてみるとき、私が皆様に一つ尋ねてみたいことは、ここに著名な方々がたくさん来ておられますが、皆様が若い頃、自分の結婚相手を選ぶ時に、劣った人を願ったのか、それとも優れた人を願ったのかということです。このように尋ねれば、皆様は誰もが、「優れた人を願った」と答えるでしょう。また、ある美男と美女が結婚して赤ん坊を生んでみると、両親の顔に比べて不器量な赤ん坊だったとしても、その赤ん坊を眺めながら、「この赤ちゃんは、お父さんやお母さんよりも良い顔立ちをしている」と言えば、その父母は、耳の下まで口が裂けそうになるほど満面の笑みで喜ぶのです。
このような事実を考えてみると、「いったい人間は誰に似てこのようになったのか」ということを、私たちは考えざるを得ません。人はあくまでも結果的な存在であって、原因的な存在ではありません。結果的な存在がそうだとすれば、原因的な存在がそのような内容をもっているために、そのような結果になったというのは当然の結論です。ですから、私たち人間が神様に似たために、そのようになっているという結論が出るのです。
神様に「あなたの対象である存在が、神様よりも立派であることを願いますか、劣ることを願いますか」と質問すれば、神様もやはり「対象的な存在が自分よりも立派になることを願う」と答えざるを得ないでしょう。したがって、私たち人間も、自分の息子、娘が、自分よりも立派になることを願わざるを得ないというのは、当然の結論なのです。私たちが単に人間自体を見るときには何でもないようですが、このような原則を通して見るとき、私たち人間自身は、本来、神様よりも立派になることを願われ、神様よりも価値あることを願われた存在であるという事実を、私たちは今まで知らなかったのです。
今日の既成の神学では、創造主と被造物は対等な立場に立てないと言います。もしそうであるとすれば、その創造主の前に、愛の実現、平和の実現、理想の実現、幸福の実現は不可能なものになってしまうのです。
このような立場から見るとき、本然の人間は、神様よりも価値があり、より立派になる、そのような対象の資格をもった存在であり、子女の価値と資格をもった存在であることを、今日の私たち人類はついぞ考えたこともないのです。
このような観点から、今晩ここに参席された皆様は、私たち自身が今から神様のみ前に対象として立つのはもちろんですが、神様の対象として高い価値をもっており、より高い子女の価値をもっているという事実を、肝に銘じなければなりません。
ですから、もし神様が永遠であるとすれば、私たち人間も、地上で一時存在したのちに無になってしまう、そのような存在ではありません。地上で暮らす私たち人間も、愛する対象に対しては、一時いたのちに無になってしまうことを願う人は誰もいないことを知っています。愛する子女と離れて暮らすことを望む人はいません。このように見るとき、神様が永遠であり、唯一であり、絶対的であられる以上、神様の対象である私たち人間自体も、永遠であり、絶対的であり、唯一の価値ある存在でなければならないのです。これは極めて理論的な結論であると言わざるを得ません。
ここに参席された多くの先生方の中には、宗教を信じず、信仰生活をしない方々がいらっしゃるかもしれませんが、このような理想的要件を中心として、神様がおられ、その前に私たちは対象の価値をもった存在なので、神様がそうであられるなら、私たちも神様のように永遠の存在にならなければならないのです。ですから、永生するという言葉は妥当な結論です。今晩ここに参席された皆様が、このことさえ記憶されるならば、皆様の生涯において、より生き甲斐のある人生が始まると思います。
3. 理想的な存在の起源はために生きるところにある
そうだとすれば、知恵の王であられ、全体の中心であられる神様は、真の理想や真の幸福や真の平和といったものの起源を、主体と対象、この両者の間のどこに置くのでしょうか。これが問題にならざるを得ません。主体がある一方で対象があるのですが、主体のために生きる道と対象のために生きる道、この二つの道の中で、神様は理想の要件をどこに置くのかということが問題にならざるを得ないのです。ですから神様は、真の理想、真の愛、真の平和を築くに当たって、対象が主体のために生きるところにその理想的な起源を置くのか、反対に主体が対象のために生きるところにその起源を置くのか、という問題を考えられたのです。もし神様がその理想的な起源を「主体である自分のために対象が生きよ」というところに立てたならば、すべての人も、「私のために生きなさい」という立場に立ったでしょう。
そのようになれば、一つになる道が塞がれ、分裂してしまうのです。一つになることができ、平和の起源となる道は、神様御自身のみならず、真の人間は、ために存在しなければならないという原則を立てるところにあるのです。ですから、真の愛、真の理想、真の平和、真の幸福などは、ために生きるところから離れては見いだすことができません。これが、天地創造の根本原則だったという事実を、私たち人間は知りませんでした。
真の父母とはどのような人かというと、子女のために生まれ、子女のために生き、子女のために死ぬ人であると言うことができます。そのようになってこそ、真の父母の愛が成立するのであり、真の子女の前に理想的な父母として登場できるのです。さらには、子女の前に平和の中心になるのであり、幸福の基準になることを私たちは知ることができます。
一方で、真の孝の道は、どこに基準を立てなければならないのでしょうか。その反対の立場です。父母のために生まれ、父母のために生き、父母のために命を懸けて尽くす人が真の孝子になれるのです。このようにしてこそ、父母の前に理想的な子女となり、心から愛することのできる子女になり、幸福と平和の対象になることができるのです。このような基準から見ると、私たちがここで一つの公式を提示すれば、ために存在するところでのみ、このような理想的な要件、すなわち真の愛、真の幸福、真の平和を見いだせることが分かると思います。
4. 宇宙創造の原則と人間の幸福の起源
それでは、真の夫とはどのような人でしょうか。生まれるのも妻のために生まれ、生きるのも妻のために生き、死ぬのも妻のために死ぬという立場に立った夫がいれば、その妻は、「夫は真の愛の主人であり、真の理想の夫であり、真の平和と幸福の主体としての夫に間違いない」とたたえざるを得ないのです。その妻の場合も同じです。この公式を大韓民国に適用してみれば、大韓民国の真の愛国者とはどのような人でしょうか。このように質問をしたならば、国のために生まれ、国のために生き、国のために困難な環境をものともせず、上は王のために、下は民のために生き、黙々と命を捧げた李舜臣(イスンシン)将軍のような方を挙げざるを得ないのです。
また、範囲を世界に広げ、歴史路程において、聖人の中で誰が最も偉大な聖人かと尋ねれば、私たちはこの公式を適用して、その人をすぐに探し出すことができます。その方は、誰よりも人類のために生きた人でなければなりません。ここにキリスト教を信奉しない方も参席されていると思いますが、私の知るところでは、人類のために来て、人類のために死ぬだけでなく、自分が憎んで当然の怨讐、自分の命を奪う怨讐のためにまで祈ってあげたイエス・キリストこそ、歴史上にない聖人の中の聖人と見ざるを得ないことを、この公式を通して結論づけることができるのです。このように、宇宙創造の原則と人間の幸福の起源が、ために存在するところから始まったことを、私たちは考えなければなりません。
例をもう一つ挙げると、異性がなぜ生まれたかと尋ねてみれば、きょうここに著名な方々が大勢集まりましたが、多くの男性の方々は、「私自身のために生まれた」と考えやすいのです。自分は自分のために生まれたと、今まで考えてきたはずです。本来、男性が生まれた本意がどこにあるかというと、実は、女性のために生まれたのです。女性のために生まれたという事実は、誰も否定できません。
相対的な立場から見ると、男性は肩幅が広く、女性は腰のほうが広くなっています。ニューヨークのような所に行ってみると、地下鉄が満員の時に窮屈な椅子に座っても、上が広い男性と下が広い女性が座れば、ぴったりと収まるのを見掛けるのです。そのようなことを見ても、互いがために生きる相対的関係を形成するためにこのように生まれたことを、私たちは否定できません。男性は男性のために生まれたのではなく、女性のために生まれました。また、その反対に、女性も女性のために生まれたのではなく、女性も男性のために生まれたのです。
このような事実を自らが確信できないところで問題が勃発することを、私たちは知らなければなりません。これを天地創造の大主宰であられる神様が、創造の原則として立てたので、その原則に従っていかなければ、善で、真で、幸福で、平和な世界、愛と理想の世界に入ることはできないことを私は知っています。
5. 宗教の教えは本然の世界の法度に合わせたもの
皆様はよく知らないと思いますが、私は霊的体験、すなわち、霊界に関する内容を体験する機会がたくさんありました。神様がいらっしゃる本然の世界、今日、宗教で言う天国や極楽といった所の構造が、何を基準としてできているのかと尋ねるならば、答えは簡単です。神様のために存在する人たちだけが入る所であり、ために生まれ、ために生き、ために死んでいった人々が入っていく所です。それが私たちの本郷の理想的な構造なので、神様は、人間がその世界に訪ねてくることができるように、歴史過程で数多くの宗教を立てて訓練してこられたのです。
なぜ、宗教人は温柔、謙遜でなければならず、犠牲にならなければならないかといえば、本郷の法度がそのようになっているからです。本郷に入っていく時に備えて、その本郷に適合するように、地上生活の過程で訓練させざるを得ないので、高次元の宗教であるほど、より次元の高い犠牲を強調し、奉仕を強調するのです。その世界に一致させるという理由から、そのように強調せざるを得ないのです。
このような事実から推測してみるとき、歴史の進行過程で神様が摂理してこられたことを是認せざるを得なくなります。聖書がどんなに膨大な経典から成り立っているといっても、たった一言、「ために存在する」というこの原則にすべて一致するのです。
イエス様は「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」(マタイ二三・一二)と語られました。このような逆説的な話をされたのも、結局は、本然の世界の「ために存在する」という原則に一致させるための方便にすぎないことを、私たちは気づくのです。
それでは、神様は、なぜ「ために存在せよ」という原則を立てざるを得なかったのでしょうか。そのいくつかの要因を挙げてみます。私たちの本心を推し量ってみるとき、ある方が自分のために心から命を懸けて尽くしてくれた事実があるとすれば、皆様の本心はそれに報いるときにどのように言うでしょうか。一〇〇パーセント世話になったとすれば、「およそ五〇パーセントはポケットに入れて、残りの五〇パーセントだけお返ししなさいと言うでしょうか、それとも、「一〇〇パーセント以上お返ししなさい」と言うでしょうか。そのように問うならば私たちの本心ははっきりと答えるでしょう。一〇〇パーセント以上お返ししなさい」と言うのです。
言い換えると、Aという人にBという人が、一〇〇パーセントだけお世話になったとすれば、Bはこれに報いるのに一〇〇パーセント以上を返すのです。そうするとAは、一〇〇パーセント以上返してくれたBに対して、パーセンテージをもっと高めて返したいと思うのです。このように与えて受けるところにおいて、与えて受ける度合が高まれば高まるほど、だんだんと多くなるので、そこから永遠という概念が設定されるのです。
永遠という概念、これは自分のために生きるところでは不可能です。運動するのを見ても、押してあげ、引いてあげるそのような相対的な方向が大きければ大きいほど、早く回ることが分かります。知恵の王であられる神様が、「ために生きよ」という法度を立てたのは、永遠に発展させるためなのです。その原則を知っておられるので、「ために存在せよ」という原則を立てざるを得なかったことを、私たちは考えなければなりません。
それのみならず、永遠の概念が成立すると同時に、そのようになれば永遠に発展し、永遠に繁栄するのです。現在の位置から前進し、発展するのです。現在の位置で発展的な刺激を感じることができてこそ、幸福になるのです。そのような要件をもっているので、神様は「ために存在せよ」という原則を立てざるを得ませんでした。
もう一つ、要因を挙げてみましょう。ある家庭で一番下の弟が、その十人の家族のために誰よりもために生きるなら、幼い弟であっても、父母も彼を前に立たせるようになり、兄弟も彼を前に立たせるようになるのです。そのようになることによって、日が経てば経つほど、家庭のために存在するその弟は、自動的にその家の中心存在として登場するようになるのです。
6. 理想的統一を成就する立場
神様がこの宇宙を創造されて以来、神様御自身が、ために存在するがゆえに万宇宙の中心として存在するように、ために存在する神様に似たそのような人が、いくら幼い弟であっても、いくら小さな息子であっても、彼は間違いなくその家系を中心として、中心的な立場に出るのです。今日、私たちはこれを知りませんでした。
ために生きるところから自分自らが後退するのではなく、ために生きれば生きるほど、その人は中心存在として決定されるのです。神様がそうなので、そのような立場に立った人は、神様が中心存在として立てざるを得ないのです。それだけではなく、そのような立場でのみ、理想的統一、完全統一を成就させることができるのです。
今日、他人から主管されることは死んでも耐えられない、そのような人たちが多いことを、私たちは知っています。特に高名な有識者の人たちに、そのような姿を多く見掛けます。しかし、一つ知らなければならないのは、ために存在するその方に主管されて生きることが、どれほど幸福なのかという事実を、夢にも思わなかったということです。千年、万年、支配されても感謝するそのような理想的統一圏が、その場で成立することを知っているので、神様は「ために存在せよ」という原則を立てざるを得なかったのです。
もう一つの要因は、今日、皆様は「愛は私の愛である。理想は私の理想である」と思っています。しかし、そうではありません。愛は自分から始まるものではなく、理想も自分から始まるものではありません。生命よりも貴い愛と理想は、もっぱら対象から得ることができるのです。今日、私たちは、そのようなことを思ってもみませんでした。
この高貴な愛と理想を受けることができ、それを得ることのできる存在が対象です。ですから、私たちが謙遜にその高貴な愛と理想を受け入れようとすれば、最もために生きる立場に立たなければなりません。そうしなければ、それを受けることができないので、神様は「ために存在せよ」という原則を立てざるを得なかったというこの一つの事実を、今晩ここに参席された皆様は記憶してくださるようにお願いします。
よく世の中では、「ああ! 人生とは何か」と言います。このように私たち人間には、人生観の確立、国家観の確立、世界観の確立、さらには宇宙観の確立、神観の確立が問題になるのです。それがどのようになっているのかということです。系統的な段階の秩序をどこに置くべきであり、その次元的系列をどのように連結させるのかという問題は、最も深刻な問題なのです。
7. ために存在するという新しい価値観が確立されなければならない
ために存在するというこの原則に立脚して、私たちの一生について見るとき、最も価値ある人生観は、自分が全人類のためにあり、全世界のためにあり、国家のためにあり、社会のためにあり、家庭のためにあり、夫のためにあり、妻のためにあり、子女のためにあるという人生観なのです。そのような立場で幸福な自我を発見できるなら、これ以上の人生観はないと思うのです。国家自体についても同じです。理想的国家はどのようにならなければならないのでしょうか。「国のためにだけ存在せよ」という国は、悪い国として指弾されてきたことを、私たちは歴史を通してよく知っています。しかし現在、全世界の国家の中で、世界のための政策を展開している国は一つもありません。
皆様もよく御存じのように、今日の共産主義世界は決裂する状況になりつつあります。
一九五七年を一つの起点として、共産主義世界が分かれた原因はどこにあるのでしょうか。それはソ連を第一とした共産主義が、スラブ単一民族を中心として世界制覇を夢見たからです。自分の民族だけのために生きる共産主義として登場したので、決裂が起こったことを私たちは知っています。
今日のアメリカも、民主主義の主導国家の立場から没落しつつある実情を私たちは直視しています。なぜそのようになったのでしょうか。世界のために生きる民主国家になるべきアメリカであるにもかかわらず、世界を捨てて自国だけのために生きようとするアメリカになったからです。今や後退の一途に立ったアメリカは、自らの力だけでは収拾する道がないと思われます。
このような問題について見てみるとき、今日、韓国でも一つの国家観の確立を提唱しているのを見ますが、アジアにおいて韓国だけを第一とした国家観を確立すれば、それは歴史の一時代と共に流れていってしまうのです。ソ連共産党がそうであり、アメリカ自体がそうです。今日、大韓民国はこのように国は小さく、少数の民族ではありますが、世界のために生きる民族思想をもつならば、万一、国の形態がなくなったとしても、二十一世紀や二十五世紀、あるいは三十世紀になって、韓国はきっと世界を指導するでしょう。このような公式的帰結によって、私たちは結論づけることができるのです。
真の国家とは、世界のために生きる国家です。また、真の世界とは、世界のためだけに生きるのではありません。その世界自体は結果的な位置にあるので、動機の起源となる絶対的な神様がいるとすれば、その神様の観点と一致する思想的体系をもたなければならないのです。自分のために生きる内容の思想をもっていては、世界を指導し、解決していくことはできないと見るのです。家庭の天国とは、どのようなものでしょうか。妻が夫のために一〇〇パーセント存在し、夫が妻のために生き、彼女のために死ぬという立場に立つとき、その家庭こそが天国に違いないのです。
格言に「家和万事成」という言葉があります。国が栄えるのも同じです。国を治める主権者は、自分の存在の価値が、自分の主権を行使するところにあるのではなく、国民のために生きるところにあり、その国民は、国民自体のためよりも国のために生きるところにあるのです。そのようになった場合には、その国は天国になります。このような公式的な原則を拡大していくことによって、国家と民族を超越し、互いにために生き合う世界を築くならば、その世界が正に私たち人間の願うユートピア的な愛の世界であり、理想の世界であり、平和の世界であり、幸福の世界であることは間違いありません。ために存在するというこの原則をもって進んでいくならば、どこにも通じない所はないのです。
私がアメリカに行って、短い期間で問題を提起し得た動機はどこにあったと思いますか。私は韓国人ではありますが、アメリカ人以上にアメリカを愛したところにあるのです。私は夜も昼もこの国のために血と汗を流し、アメリカの若者たちが崇高な思想をもてるようにするにはどうすべきかと考えながら努力したこと以外にはありません。私はために食べ、ために活動し、ために生きてきました。そのように生きてみると、個人とぶつかればその個人と一つとなり、団体とぶつかればその団体と和合するようになるのを見てきたのです。
8. 国連総会で韓国案が可決されるまでの事情
皆様はよく知らないと思いますが、今回の国連総会を中心として、韓国の問題がかなりの苦境に陥ったことを、私は知りました。私が知るすべての組織を動員して情報を得たのです。国連総会の議長からその補佐官、それから、そこに参席した各国の大使とオブザーバーたちが評価するのを総括的に見てみると、韓国の問題は既に希望がないということが決定的だったのです。
私は今まで個人的に見るとき、宗教指導者として、あるいは統一教会を創設し、指導してきた責任者として、「統一教会自体は統一教会のためにある教会になってはならない。
統一教会は国家のためになければならない。国家のみならず、世界をリードできる国家となるように導かなければならない」と思ったのです。説明も必要なく、宣伝も必要ないと思いました。
私は三十数カ国の宣教師を集め、三十四人の各国の代表者を選出しました。そして、日本の女性三十四人を彼らに付けて、六十八人のメンバーを国連総会に投入しました。一対一で、一人一人を捕まえて説得作業をしたのです。その内容とは何でしょうか。ほかでもありません。言葉が達者だからでもありません。「あなたたちは精誠の限りを尽くして彼らのために生きなさい! 会えば食べることから、話すことから、彼らのために努力しなさい」と言ったのです。
そのようにして、四十日の峠を越えると、彼らは私たちの活動に感服するようになりました。私が宗教を指導する一人の責任者として、韓国に対する世界の世論がどんなに不利だとしても、五十カ国の大使たちから北朝鮮の日本人妻の自由往来を推進するこの問題にサインさえもらうことができれば、間違いなく韓国の問題は勝利すると見たのです。そのような話をしても、彼らは信じませんでした。
国連総会には、世界の知性ある人たちが集まります。私たちの若者たちが行って、畏れ多くも彼らに対して口を開く自信がありませんでした。しかし、真心からために生きる立場で、そこをどこかの国の事務所ではなく、自分の事務所と思って、そこに行けば掃除をしてあげ、夜遅くまで、彼らを手伝えることなら夜の一時、二時でも意に介さずに車を動員する、そのような活動を背後で展開したのです。
皆様は御存じだと思いますが、テリータウンという所に私たちのみ迎賓館があります。ベルベディアという所を中心として、夜には七十カ国の大使たちを招待しました。そのように活動したところ、結局、彼らは完全に私たちの側へと引き込まれ始めたのです。そのような過程で明らかになったことですが、北朝鮮は既に第三世界圏、アフリカ地域の低開発国である国々に対して、国連総会でサインすることをすべて決定してきたというのです。彼らが秘密裏に語った内容を総合してみると、北朝鮮は既に五万ドルから十五万ドルに相当するお金をすべて支払い、決定した上で来たので、北朝鮮は、国連に派遣する代表団に対して勝利の祝杯を挙げて、派遣したことを知りました。
しかし、世界のために奉仕し、涙を流し、夜を明かしながら切実に事情を通告したあとの結果は、韓国の問題において、韓国の提案が六十一対四十二、北朝鮮の提案が四十八対四十八で、私たち韓国に勝利がもたらされたのです。私が、このような事実をお話しするのは、皆様に自慢しようというわけではありません。想像もできない奇跡が、この原則の基準に立脚して起こることを、私は生涯を通してたくさん体験してきました。
皆様。いったい統一教会とは何でしょうか。多くの神学者たちが歴史時代を経ながら、ローマ・カトリックとギリシャ正教を糾合しようと努力しましたが、全く糾合できませんでした。また、たくさんのプロテスタントが統合しようとしましたが、四百以上の教派に分かれました。このような実情にあるのですが、統一教会がいかにして宗教を一つにできるのでしょうか。
9. 統一教会が世界的に発展する理由
このようなことについて考えてみれば、文某という人は頭が少し足りないのではないかと考えるかもしれませんが、問題は簡単だと思います。統一教会員がキリスト教の牧師よりもキリスト教信徒を愛し、信徒たち以上にその牧師を愛することができれば、宗教を統一することが可能なのです。
今日まで、統一教会は二十年の歴史を過ごしてきました。皆様は、統一教会に関する様々なうわさと論難の言葉を聞いていることと思います。統一教会は、地で踏みつけられましたが、そこから世界的発展をしてきました。どのようにして発展したのでしょうか。民族が背反するときに、世界に向かっていく道があることを知りました。民族が行くべき正道は世界のために行く道なので、この道が間違いなく天理の原則であり、万民が行くべき共通の公式であれば、世界がそれを理解するようになるとき、この民族が自動的に理解するようになるという、このような原則に基づいて、血のにじむ迫害の中で、私たちは海外宣教を展開してきたのです。
例を挙げて話すならば、日本を開拓するようになったのは、今から十七年前の自由党の時でした。しばらく、梨花(イファ)女子大事件によって、文某という人間の評価は地に落ち、どうしようもない時でしたが、私は、日本の情勢が今後どのように回っていくのかを知り、アジアの情勢がどのように回っていくのか、私なりに感じたところがありました。
ですから、法治国家の一国民として、当時においては違法になるかもしれませんが、十年ないし五年のちには必ず大韓民国が、私たちを必要とする時が来ることが分かったので、私が犯罪人の烙印を押されたとしても、この道を断行する以外にはないと考えたのです。正に一九五六年、皆様も御存じのように、西大門(ソデムン)刑務所から釈放され、忠清南道(チュンチョンナムド)の甲寺(カプサ)に休養に行っているとき、そこに来ていた若い青年を呼んで、「あなたは日本のために密航するのだ。男が決めた道は、死を覚悟して行かなければならない」と訓戒したのです。
一九五五年十月に私が監獄から出てきてみると、その当時の統一教会の拠点はなくなり、一間の家までなくなってしまった立場でしたが、私は、国のため、アジアのために借金をして、一九五八年七月に宣教師を出発させました。そのような出来事がついきのうのことのようです。日本の統一教会は、そのような状況から出発しました。宣教師は逮捕され、収容所に拘禁されました。その人も大変なことになったのです。先生と固く約束をしたのに、基盤を築くどころか、牢屋の身になってしまったのですから、誰に哀訴するというのでしょうか。哀訴するところがないので、わざと体調を悪くさせたのです。そうして入院手続きをして、入院したのちに病院から脱出し、東京に行って始めたのが、今の日本統一教会です。
今では、日本の主要な政党が、私たちに諮問を要請する段階に入ってきました。彼らは国家の重要なことがあると訪ねてきますが、そのようになる段階にまで引っ張り上げたのです。そうしながら、この原則は天理が立てた原則であり、この原則どおりに押し進めていけば滅びないと教えました。この原則を知ったので、日本統一教会の若い青年男女の信徒たちは全国に広がり、「国家のための統一教会にならなければならない。アジアのための統一教会にならなければならない。さらには世界のための統一教会にならなければならない」と言って活動していくと、今日においては、日本国肉でも知られるようになったのです。
きょう、私が公式の席上で皆様にお会いして、このようなお話をするのは、統一教会の二十年の歴史において初めてです。私は、北米大陸を駆け回りながら残念に思いました。「この孤児のようなかわいそうな男は、信じない自分の国に後輩たちを残したまま、異国の国民の前に来て、信仰を願わなければならない哀れな立場にいるが、神様はこのような者を立てて役事されたのだから、私に協助される神様は御存じだろう」と思い、ひたすら神様にしがみついて力を尽くしてきました。結果は、名実共に新しい創造の歴史を招来するようになったことを体験したのです。
10. ために生きるところでのみ天国実現が可能
今晩ここに参席されている皆様も、「どのような人が悪の人であり、どのような人が善の人か」、これを何で測定するかということが問題だと思います。しかし、それは簡単なことです。その人がいくら宗教人であっても、「その人は天国に行くか、地獄に行くか」ということを何で測定できるのでしょうか。自分のために生きてきた生涯が多ければ、彼は地獄行きです。他のために生きた生涯が、自分のために生きた生涯よりも一パーセントでも多ければ、彼は地獄を越えて天国に向かう道に立つのです。ところが、自分のために生きた比率が高い場合は地獄に行くのです。
御高名な諸先生方。今まで私たちは大韓民国の国民の一員として、この国のために貢献してきました。各自、自分の置かれている位置で貢献してきましたが、それは誰のためのものだったのでしょうか。全国民が各分野において、このような思想で革命をした場合には、いくら大韓民国が悲惨だったとしても、希望があるのです。家庭でそうであり、社会でそうであり、為政者から、あるいは、団体の指導者から、この民族の精神風潮がこのような思想からなった場合には、この民族は絶対に滅びないのです。必ずこの民族はアジアに影響を及ぼすはずであり、世界に影響を及ぼすと思います。
このような観点から、私たちがいかにして理想的な体制を、一つの公式を通して探し出すことができるのかということを、結論的にお話しすれば、夫は妻のために生き、妻は夫のために生き、その夫婦は子女のために生き、家庭は氏族のために生き、その氏族は民族のために生き、その民族は国のために生き、その国は世界のために生きる、そのような国になった場合には、この国は滅びません。
神様がいらっしゃるならば、そのような人を求めるのです。神様は、世界万民を子女にしたいと思うのです。ですから、神様の目的は世界の人類を救うことです。さらには、宇宙を救うことです。国家や単一民族圏の枠を超えることのできないような宗教は、神様の全体のみ旨の前に立つことはできないでしょう。
神様は世界を救うことが主目的なので、それが可能な段階へといかに次元を高めて発展させるかという問題を考えてみるとき、原則は簡単です。家庭は氏族のためにあり、氏族は民族のためにあり、民族は国家のためにあり、国家は世界のためにあり、世界は神様のためにあればよいのです。そして、世界のために生きる人間でなければ、全宇宙を創造された全知全能であられる神様の子女となる資格はないのです。世界が神様のために生きる立場に立つならば、神様は世界のために生きる立場に立つのであり、国のために生きる立場に立つのであり、民族のために生きる立場に立つのであり、氏族のために生きる立場に立つのであり、家庭のために生きる立場に立つのです。
この話を別の言葉に言い換えると、自分のものは妻のものであり、その夫婦のものは家庭のものであり、家庭のものは氏族のものであり、氏族のものは民族のものであり、民族のものは国家のものであり、国家のものは世界のものだという観念をもったその世界は、結局、神様のものになるのです。神様のものであれば、それは誰のものでしょうか。「私」のものになるのです。そのような立場に立ってこそ、皆様の欲望を最高度に達成する立場に立つようになります。
皆様。そうではないでしょうか。人は誰しもが、「世界一になりたい」という欲望をもっています。そのような価値のある存在となるので、万有の中心である神様のものが、初めて「私」のものになり、そのような栄光の立場に人間は立つことができるのです。このように見るとき、ために生きるところでのみ、家庭天国の実現が可能であり、国家天国の実現が可能であり、世界天国の実現が可能なのです。それだけではなく、神様も人類と共に、「幸福で、理想的な園だ」と言いながら、踊って歌うことのできる世界へと連結されるのです。そのようなものが、正に宗教が目的とする天国であり、そのような天国が地上で築かれるので、そこが正に地上天国であるという結論が出るのです。
皆様。きょう、このような晩餐会を通して「ために存在する」というこの原則を心に刻んで、今からお帰りになりましたら、家庭や職場から、そのように実践する皆様になってくださることを願います。そのように暮らす自分を発見した場合には、皆様はより満ち足りたあすの希望をもつことになり、あすの開拓者としての中心的な責任を堂々と果たす自分を発見するでしょう。 どうか、そのような皆様になってくださることを願いながら、皆様の家庭と皆様の社会とこの国に、より一層の神様の祝福があることを願います。「ために存在する」というテーマについて、今晩の挨拶に代えて皆様にお話ししました。これで私のお話を終えようと思います。