人間の暴力性や弱さ、痛みを見つめ、叙情的な文体で表現する。混乱と喪失の時代に、その作品は多くの読者の心を揺さぶる。
韓国のハン・ガン(韓江)さんにノーベル文学賞が贈られる。アジアの女性作家として初の受賞だ。
作品には弱い立場の人々や虐げられた者への共感、人を愛することの切なさが通底する。
2016年にブッカー国際賞を受けた「菜食主義者」は、肉食を拒否するようになった女性が周囲とのあつれきに直面する姿を通して、抑圧的な社会の病理を撃つ。問題意識は、現代韓国史の暗部にも向かう。「少年が来る」は、民主化を求める市民を軍が弾圧した1980年の光州事件で犠牲になった少年たちに寄り添う。
「別れを告げない」は、48年の民衆蜂起を契機に多数の住民が殺害された「済州島4・3事件」を題材に取り上げた。
生者と死者の魂が響き合う作品世界は、独創性だけでなく普遍性を持ち、読み手の胸をえぐる。選考にあたったスウェーデン・アカデミーは「歴史のトラウマに向き合い、人の命のもろさをあらわにした強烈な詩的散文」と評する。
欧州や日本でも多くの翻訳が出版され、ファンが増えている。韓国では受賞発表以来、作品の売り上げが急増し、日本でも品切れとなる書店が相次いでいる。
ハングルで書かれた作品が国境を超え、世界文学の仲間入りをした。背景に、繊細な言葉のニュアンスを届けることに腐心した翻訳者の熱意があったことは間違いない。文学によって異文化理解の促進に取り組む出版社が果たした役割も大きい。
文学賞は、受賞者が欧州中心で男性に偏っているとの批判にさらされてきた。これまでの120人のうち、英・仏・独語で執筆する作家が約半数を占める。女性やアジア圏はまだ少数派だ。
世界で多様性を重視する流れが広がる中で、ハン・ガンさんが受賞する意義を考えたい。
物語には、社会の片隅で抑圧されてきた小さな声を伝える力がある。追体験することで、読者は新たな視点を自分のものにすることができる。きしむ世界で他者を思いやる心を取り戻すきっかけにもなるはずだ。/毎日新聞 2024/10/18東京朝刊, 社說/