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8月に公開したコラム「総合診療医が診るコロナ感染症」では、新型コロナウイルスが登場した2020年初頭、発熱患者を断る医療機関が多い中、大半の総合診療医がコロナ疑いの患者さんを診ていたこと、早い段階からコロナ後遺症やワクチン後遺症を積極的に受け入れていたことなどを取り上げました。コロナウイルス感染症は広義の「風邪」ですから、内科系の診療所であれば本来診なければならない疾患のはずです。少なくともコロナウイルス流行前にインフルエンザを診ていた医師であれば診療を拒否すべきではありませんでした。では総合診療医と一般の医師はどこが違うのか。今回は私が総合診療医を目指したきっかけを紹介し、私見を述べたいと思います。
エイズホスピスでの出会い
私が医学部を卒業した2002年には総合診療医という言葉さえほとんど知られておらず、総合診療医を目指す研修医はほぼ皆無でした。私が総合診療医に初めて出会ったのは研修医時代の夏休みを利用して訪れたタイのエイズ施設です。まだ抗HIV薬が使われていなかった当時のタイでのHIV感染は「死へのモラトリアム」と同義であり、医療機関からも治療を拒否される事態が相次いでいました。行き場をなくした感染者たちは、タイ中部のある寺に集まり始めました。その後通称「エイズホスピス」と呼ばれるようになったその寺(パバナプ寺)には全世界からボランティアが集まるようになりました。なお、パバナプ寺と当時の私の体験は2016年のコラム「差別される病 2002年タイにて」で紹介しました。
世界中から集まっていたボランティアのなかにベルギー人の総合診療医ドクターEがいました。私が「3日しか滞在できない」と言うとドクターEは一瞬不服そうな表情を見せましたが、「学べることは学んでいけ」と不愛想ながらも私の見学を認めてくれました。その数日間、ドクターEの診察を早朝から夜遅くまで見学させてもらいました。まだ20代だというのに既に死が間近に迫っている患者さんも少なくなく、訴える症状は多岐にわたりました。せき、呼吸苦、喀血(かっけつ)、発熱、下痢、下血、吐血、嘔吐(おうと)、膣(ちつ)からの出血、腹痛、関節痛、皮疹、皮膚潰瘍、眼痛、視力低下、抑うつ状態、夜間徘徊(はいかい)など、ありとあらゆる症状を呈します。
2004年8月、タイのエイズ施設で活動中の35歳の筆者(中央奥)=筆者提供
ドクターEはそれぞれの患者から話を聞き(彼は特別タイ語が上手だったわけではなくタイ人の看護師に通訳をしてもらっていました)、丁寧に診察をした上で対症療法の薬を出したり説明したり、あるいは手を握ったりしていました。私はそれまでそんな医師、つまり、あらゆる症状を聞き出して、どのような疾患に対しても診察する医師に出会ったことがありませんでした。「あなたの専門は何なのですか?」と尋ねると「general practitioner(総合診療医)」という答えが返ってきたのですが、当時の私は恥ずかしながらその言葉すら知りませんでした。
社会人を経験してから医学部に進学
ここで私自身の経歴について述べておきます。大学社会学部を卒業し会社勤めをしていた私は母校の社会学部の大学院進学を考えていました。教わりたい教授の元にも通い論文や教科書を紹介してもらっていました。しかし、私が取り組みたかったテーマである「人間の行動、感情、思考」に関する社会学的文献を読み進めるうちに、脳生理学、免疫学、分子生物学、精神分析学といった生命科学への興味が芽生え、そして次第に強くなっていきました。さんざん悩んだ揚げ句、医学部でこういった学問を学び、そして将来は(社会学者でも医者でもなく)医学の研究者になりたいと考えるようになったのです。
ところが、研究者の道はそんなに甘くありません。医学部入学後の最初の3年間、自分ではかなり勉強したつもりなのですが、私には研究者としてのセンスも実力もないことを思い知ることになります。他方、ちょうどその頃、友人や知人から健康相談が次々と寄せられるようになり、医療機関や医療者への不満を聞く機会が増えていました。そんなに頻繁に健康相談を受ける医学生はそう多くないと思いますが、私の場合は4年間の社会人経験があり医学部入学時はすでに27歳でしたからいろんな方面に知人が多かったのです。
友人知人から聞いた不満の声のなかで最も多かったのが「医者から見放された」というものでした。常識的に考えて、その医療機関で診られないのであれば診てもらえるところを紹介するのがマナーではないでしょうか。また「きちんと説明してもらえない」という声も目立ちました。私が医学生だった当時は、「がん告知」も普及しておらず、「インフォームドコンセント」という言葉は存在はしていましたが、治療や予後(その病気の今後の見通し)の説明に満足していない患者さんは少なくありませんでした。もしかすると、私が進むべき道はこれではないか。つまり、研究者ではなく、患者さんに「見放された」などとは決して言わせない医者を目指すべきではないか……。このように考えるようになったのです。
「専門」に縛られない医者を目指す
誰が言い出したのかは知りませんが「医者の常識は世間の非常識」という言葉があります。当時の私には医師が非常識かどうかは分かりませんでしたが、医療者と世間の間に大きなギャップがあることは確信していました。病気の不安を医師に相談したとき「専門外なので他を探してください」などといって突き放すのがおかしいのは自明です。「専門外なので……」、診察を断るこの常とう句をもう何度聞いたか分かりません。では、なぜ医師は、自分が診られないなら他の医療機関を紹介しないのか、そして「専門外」と判断した時点で患者との対話を断ち切るのか。最大の原因は「縦割り医療」という医学界の構造にあります。医学部を卒業すれば、何らかの専門分野を専攻しその道のスペシャリストをひたすら目指す以外の選択肢は当時は(ほぼ)なかったのです。
ところが研修医時代の夏休みに訪れたタイのエイズ施設でその日本の”常識”が覆りました。ドクターEの存在が私を奮い立たせたのです。研修医を修了した後、他の医師と同じようにスペシャリストを目指す道に進むのではなく、私は再度タイのその施設を訪れました。ドクターEはタイ国内の他のエイズ施設に移動していたのですが、ドクターEの役割を引き継いだ米国人の総合診療医ドクターJがいました。その後数カ月、私はドクターJと朝から晩まで行動を共にし、総合診療を学びました。そして、それまで日本で研修医として学んできた診療とドクターJの米国流の診療に大きな隔たりがあることに気付きました。
総合診療医になるには豊富な知識と経験が必要
例えば、「痛いから痛み止め」「眠れないから睡眠薬」といった短絡的な処方はしません。日本では患者さんから鎮痛薬や睡眠薬を求められればそのまま応じることが多いのですが、ドクターJのポリシーは「薬はいつも最小限」です。水分補給の点滴すら簡単にはおこないません。「自分で水分を取れないなら、単なる水分補給の点滴は延命治療に過ぎない」と言うのです。代わりに、つらい症状を訴える患者さんの話はとことん聞きます。決して「専門外」とは言いません。
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2004年7月、タイの「エイズホスピス」でエイズ患者の治療に当たるドクターJ(右から2人目)=筆者提供
しかし私が最も驚いたのはそういった治療方針の日米差ではなく、ドクターJの「知識と経験の量」でした。議論好きのドクターJは患者さんの診察をした後、私に「どう思うか」と意見を尋ねます。私の回答はいつも不十分なため毎回補足してくれるのですが、私の知識と経験ではとてもついていけず、たいていは「後で勉強しておきます」と答えるしかありませんでした。「総合診療医への道のりはかなり険しく、私には知識も経験もまったく足らない。各領域の専門医と同じレベルを目指すくらいの努力をしなければとても総合診療医にはなれない」と思い知らされました。
帰国後、母校の総合診療部の医局の門をたたきました。ちょうどその頃、大学に総合診療部が必要だという考えが全国的に広がり、我が母校の大阪市立大学(現・大阪公立大学)にも総合診療部の医局ができていたのです。ただし、上述したように若い医師たちは(ほぼ)全員が専門医志向で総合診療などには興味がありません。実際、総合診療部の医局に所属する若い医師は私以外にはほとんどいませんでした(社会人経験を経て入学した私は既に若くありませんでしたが)。
また、教育体制が整っているとも言えませんでした。そこで私は大学に出向くのは週に2~3日にとどめ、残りの日は他の医療機関で勉強させてもらうことにしました(勉強させてもらう身ですから、大学にも他の医療機関にも「無給」を希望し、生活費は夜間と週末の救急外来のアルバイトでしのいでいました)。
2005年夏、大阪市大医学部付属病院総合診療センターで医局メンバーとの記念写真に納まる筆者(後列左端)=筆者提供
ところで、当時の私が「総合診療医を目指します」と言うと、ほとんどの先輩医師たちからは「やめておけ。『何でも診る』は『何も診られない』と同じことだ。専門分野を持たなければ医者としてやっていけない」と言われました。もちろん専門分野に特化したスペシャリストがそろっていなければ日本の医療は成り立ちません。ですが、どんなときも訴えを聞いて「専門外」などいう言葉で診察を断らない総合診療医もいなければ路頭に迷う人が生まれてしまうのもまた事実なのです。
特記のない写真はゲッティ
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谷口恭
谷口医院院長
たにぐち・やすし 1968年三重県上野市(現・伊賀市)生まれ。91年関西学院大学社会学部卒業。4年間の商社勤務を経た後、大阪市立大学医学部入学。研修医を終了後、タイ国のエイズホスピスで医療ボランティアに従事。同ホスピスでボランティア医師として活躍していた欧米の総合診療医(プライマリ・ケア医)に影響を受け、帰国後大阪市立大学医学部総合診療センターに所属。その後現職。大阪市立大学医学部附属病院総合診療センター非常勤講師、主にタイ国のエイズ孤児やエイズ患者を支援するNPO法人GINA(ジーナ)代表も務める。日本プライマリ・ケア連合学会指導医。日本医師会認定産業医。労働衛生コンサルタント。主な書籍に、「今そこにあるタイのエイズ日本のエイズ」(文芸社)、「偏差値40からの医学部再受験」(エール出版社)、「医学部六年間の真実」(エール出版社)など。谷口医院ウェブサイト 無料メルマガ<谷口恭の「その質問にホンネで答えます」>を配信中。