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毎日新聞 2021/3/30 10:00(最終更新 3/30 10:00) 有料記事 5410文字
磯野真穂 医療人類学者
新型コロナウイルスのワクチンは、医療関係者への先行接種に続き、いよいよ4月から高齢者への接種が始まる。今やワクチンの存在はコロナ禍における最大の「希望」に見える。しかし、医療人類学者の磯野真穂さんは「コロナ禍があぶりだした社会のさまざまな問題はワクチン接種だけでは解決しない」と語るのだ。私たちは疫病と、そしてワクチンと、どんなふうに向き合っていけばよいのだろう。【小国綾子/オピニオングループ】
「社会的責任」としての接種
――医療従事者へのワクチン接種が始まりました。コロナ収束に向けて「希望」が見えてきたと感じます。
◆データを見ると、新型コロナウイルスのワクチンは感染率や重症化率、死亡率を下げる点でかなり効果があるようです。複合的な意味で、人々の安心につながっていくと思います。
ただ、ワクチンを打ったところで、人に感染させる恐れや自分がかかる恐れがゼロになるわけではありません。また、打たなくとも感染しない人も大勢います。それらの事実を踏まえると、ワクチン接種は、その生物学的効果を超えて、「社会的責任を果たした人物」という意味を強く帯びていくはずです。
そういった象徴的な効果が、ある種の護符のように人々の間に安心を生み出してゆくのでしょう。
――ワクチン接種が「社会的責任」という意味を帯びてくる、というのには、はっとさせられます。
◆ワクチンの接種機会を拒んでコロナにかかった人に対し、マスクをしていない人に向けられるような冷ややかな視線が注がれる可能性は、存在すると思うのです。その意味で、ワクチン接種はマスク着用と同様に新しい「マナー」となるのではないでしょうか。
ここまで人々の目がコロナに注がれている現実を踏まえると、接種を受けたことを証明するワクチンパスポートのようなものの導入も絵空事ではないかもしれませんね。
「ワクチン警察」は現れるか
――マスクをしない人を批判する「マスク警察」が現れたように、ワクチン接種を控える人に対して、「ワクチン警察」が現れたりするんでしょうか? 私は順番が来たらワクチンを打つつもりですが、接種が社会の「踏み絵」になるようなことは嫌です。
マスクを着けて足早に駅に向かう人たち=東京都新宿区で2021年1月7日、宮武祐希撮影
◆私も、そんなことは起こらないでほしいと思っています。ただ「自分だけでなく他人の命を守るためにもワクチンの接種を受けるべきだ」という価値観は広がっていくと思います。接種を受けない人が後ろめたい気分を抱えることもあるでしょう。十分に間隔が空いていても、マスクをせずに道を歩いているだけで批判されることもある社会なのですから。
ワクチンというのは、周囲が接種を受けてくれれば自分は受けなくてもその恩恵にあずかれる。だからワクチンの接種を受けない人に対して「他人の命を大切にしていない」などと批判が起こることはあるかもしれません。
インフルエンザ、受けていましたか?
――それは、今の社会の空気だとありえますよね。
◆でも、「コロナワクチンの接種を受けない人は他人の命を大事にしない、社会を大事にしない人だ」などと批判する人がいたら、あなたはインフルエンザのワクチンを毎年受けてきましたか、と尋ねてみたいです。
私は科学の力を信じているので、ワクチンは接種するほうです。インフルエンザの予防接種も去年以外は毎年受けています。もっとも、その理由は、「感染した時に軽く済むように」という自分のためですが。
インフルエンザワクチンの場合も、たくさんの人に接種すればするほど、インフルエンザの流行を抑えられ、他の人の感染も防ぐ可能性が高くなるでしょう。その点は、コロナのワクチンと同じですし、インフルエンザにかかって重症化する人、亡くなる人もいます。でも、インフルエンザの予防接種を受けないからといって、「他人の命を大事にしない人」という批判は起こりませんでした。
道徳観と罪悪感
――コロナ禍が始まってとうとう1年が経過しました。磯野さんはコロナ禍の社会で何が気になりますか。
◆東京都内では感染者が多いため、コロナにかかったことを不運と捉えて受け入れるような空気が醸成されつつあります。でも感染者の少ない地方ではまだ、感染することが村八分のような状態を作り出すため、とても言い出せるような雰囲気ではないと聞きます。
福岡大学病院(福岡市城南区)の救命救急センターに併設されたエクモセンターでケアにあたる看護師ら=2020年12月24日、矢頭智剛撮影
――そういえばつい最近、地方に暮らす友人から、感染者の出た業者の社屋に石が投げ込まれ、近所の人がびくびくしている、という話を聞いたばかりです。東京と随分と温度差があるなあと感じました。「感染すること=悪」という雰囲気がまだまだあるのですね。
◆専門家たちは「あなたの行動があなたの大切な人の命を奪うかも」といいます。統計を示し「このままでは医療現場の崩壊は避けられない」と。感染者数や死者数という匿名化された数字の上がり下がりが、「市民としての自覚」や「気の緩み」といった一人一人の道徳観と結びつけられています。テレビで目にする、繁華街にいるモザイクをかけられた人々の映像は、私たちに新たな罪悪感を植え付けています。
「不要不急」と人生の糧
――磯野さんは昨年の春、「感染リスクを下げる行動は善」「感染リスクを上げる行動は悪」という強力な道徳が社会に立ち上がってきていることを指摘されました。また、「不要不急」という言葉について、他人の目には「不要不急」に映ることでも、その人にとっては「人生の糧」だ、ということもある、と。私自身、そんな磯野さんの言葉に救われました。
◆そうなんですか? 何が「人生の糧」かは、人それぞれ違うと思うのです。専門家や政治家が「不要不急の外出をするな」とメッセージを出した時、比較的リベラルな人までが「私権を制限しろ」といわんばかりに、攻撃的な言葉とともにその流れに同調したのは気になりました。
――実は私、趣味で合唱をしています。
◆ああ、合唱はコロナ禍で随分と問題視されてしまいましたね。
――「不要不急」と言われれば、きっとそう。でも誰かと一緒にアンサンブルすることが人生の糧になることだってあるのです。「こんな時に合唱なんて」という夫に、「あなたの妻がコロナで死ぬのと、ストレスで死ぬのとどっちがいい?」って真顔で聞いたこともあります。そしたら理解してくれましたけど。昨年1年間、私は体の健康と心の健康のバランスを図りながら、どの程度自粛するかを一つ一つ選んでいたように思います。
ただ、感染予防策をきちんとした上で歌っていても、どこかで後ろめたい気持ちがありました。まさに磯野さんのおっしゃる「罪悪感」です。歌い続けることが巡り巡って、医療現場の方々に迷惑をかけたらどうしよう、って……。
「いのちの現場」は病院だけか?
◆でも、合唱することと、医療現場が大変な思いをすることを、そこまで直接的に結びつけてしまうこと自体、どうなんでしょうか。
医療現場の逼迫(ひっぱく)の背景には、極めて限られた医療施設しか患者を受け入れていないというボトルネックが存在します。それに対する取り組みが不十分なまま、社会活動を過度に止めにかかってはいないでしょうか。
確かに、コロナ患者さんを受け入れている施設で働く医療関係者の皆さんはとても大変な思いをしています。ただ、「いのちの現場」は病院だけなのでしょうか?
――えっ……。
◆例えば、私の身近な友人にシステムエンジニア(SE)がいます。帰りが毎日深夜0時近いといった働き方をしています。社会制度、あるいは人々の利便性を守るために作られた24時間稼働のシステムを構築するためです。それで過労死する人も、途中で体を壊して退職する人もいる。彼らだって社会を守るために必死に働いているわけです。でも誰も「SEの皆さんの負担を減らすため、Wi-Fiを自粛しよう」とか、「不便さを引き受けよう」とかは言わない。さらなる利便性を求める社会のために、もっと追い込まれている人たちだっているわけです。
なぜ医療関係者だけが「第一線で必死にみんなの命を守ってくれている」と聖職視されるのでしょう。
「いのちの現場」は、病院だけではありません。コロナ禍では、病院以外の場所でもたくさんの犠牲が払われています。失業者はすでに大量に出ています。若者の就職一つとっても、将来にわたって大きな影を落としそうです。
社会の中に置き場を
――確かに。海外旅行も留学もできない。新しい場所に出掛け、偶然の出会いに導かれ、可能性が開かれる……そういった学びや成長の機会が今やほとんどない。若者へのダメージは大きいですね。
◆知り合いの大学生は「まるで牢屋(ろうや)に入っているみたいだ」と言っていました。一日中、外出を控えて部屋に閉じこもり、オンライン授業のためにパソコン画面を見続けて……。
そういった個々人の損失を、「コロナ禍だから仕方ない」「今は我慢すべきこと」とすべて片付けてしまっていいのでしょうか。
――都市部を中心に、感染者数の下げ止まりや増加が指摘されています。「気の緩み」が原因、とも言われています。
高齢者が参加して行われた新型コロナウイルスのワクチン集団接種訓練=大阪府羽曳野市で2月27日、木葉健二撮影
◆「気の緩み」と言われますが、見方を変えれば、昨年に比べて、人々が随分と落ち着いてコロナ禍と向き合い始めた、とも言えるのかもしれません。新型コロナウイルスを社会から完全に排除することは難しいと人々が理解し、なんとか社会の中に置き場を見いだそうと模索しているようにも感じます。
「普通の風邪」になるか
――なるほど。では、ワクチン接種が進めばコロナも「普通の風邪」のようになるのでしょうか。そもそも重症化率や死亡率は決して高くないわけですから。
◆どうでしょうか。今なお、コロナに感染したことを言いづらい雰囲気が、社会にはあります。「こないだコロナになっちゃってさ」と、インフルエンザ感染を語るようにはまだ話せない人が多いでしょう?
あるいは、コロナに感染したことを正直に語ると、どこか「勇気ある告白」みたいな扱いを受けたり、「正直に話してくれてありがとう」なんて反応が出たりする。「インフルエンザになっちゃった」と誰が言っても、そんなふうには扱われないのに。
それくらいにはまだ、コロナはタブー視されている。スティグマ(社会的な負のレッテル)なんです。
コロナ禍の収束は、街のクリニックで普通に治療を受けられ、感染したことを「大変だったわねえ」とお互いに気軽に言い合えるようになってようやく訪れるのではないでしょうか。ワクチンばかりが切り札ではないと思います。
「感染は一番不幸」なのか
――なるほど。私は、ワクチン接種が広まれば、感染者差別や「マスク警察」など、社会のいろいろな問題がすべて解決する、と過度な期待を抱いていたのかもしれません。
◆「コロナに感染することが人生で一番不幸」というような物語を社会が作ってしまっているように感じます。感染者が出たある高齢者施設では、その時点から入居者の方が居室から一歩も出られなくなったそうです。施設は責任を負っていますし、一度クラスター(感染者集団)が出るとひどいバッシングもありますから、これは施設という全体を守るためには致し方ないのでしょう。ですが、入居するご本人ひとりひとりにとっては何が幸せなのでしょうか。
――まさにそれを悩んでいます。私にとっては、大切な人と会えないことの方がずっとつらいことだから。実は大阪で1人暮らしをしている80代の父親となかなか会えなくて。昨年秋、感染が落ち着いている時期に旅行をしました。父に「コロナが怖かったら、やめるよ」と伝えたら、「それでも行きたい」と言いました。さらに妹にも相談しました。「旅行に行くことで父が感染するかもしれない。命に関わるかもしれない」と。妹も「一緒に旅行に行くことはお父さんの幸せにつながると思う」と答えてくれました。逆に言えば、そこまで家族で話し合わないと、旅行を実行に移せなかったんです。
宿命として引き受けること
◆「コロナに感染しない」という目的を達成するために、本来得られたかもしれないたくさんの出会いの可能性が失われた、と言えると思います。
病気もそれによる死も、社会の中に常に存在します。人間は、これらにあらがいながらも、どこかでそれらを避けられない宿命として引き受けながら生きてきました。コロナをきっかけに、人間はその宿命を、自分たちの思うままにコントロールしようとしています。
それができると思う人間の欲望こそ恐ろしいです。
――このコロナ禍において、ワクチンに何を期待しますか。
◆ワクチンを接種した人が増えた、という事実が人々の間に安心感を生むことをまず期待します。そして、その結果、この病気が日常に存在することを、嫌だけれども生きる限り仕方のないこととして引き受ける、いい意味での諦観が社会に広がり、社会のパニック状態が少しずつ緩和されていくことを、何より願っています。
共著「急に具合が悪くなる」
人物紹介いその・まほ
1976年生まれ。早稲田大博士後期課程修了。博士(文学)。著書に「医療者が語る答えなき世界――『いのちの守り人』の人類学」「ダイエット幻想」など。共著に、2019年にがんで死去した同世代の哲学者、宮野真生子さんと、彼女の死の直前まで交わした往復書簡をまとめた「急に具合が悪くなる」がある。