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パリ・オリンピックの女子ボクシングで金メダルを獲得した2選手に対し「出場資格がない」とする声が上がり世界中で話題となりました。2人は比較的まれな「性分化疾患」を有するとみられます。この疾患の場合、身体的な発達は定型女性と大きく異なり、女性としてのスポーツ参加には複雑な問題が伴います。他方、トランスジェンダーの女性が女子の競技に参加できるかという問題はまったく別のものです。ところが、インターネットやネット交流サービス(SNS)上ではこれらが明確に区別されないまま議論され、まるで話がかみ合っていないことがあります。そこで今回はパリ・オリンピック、さらに東京オリンピックで物議を醸した女子選手を振り返り、性分化疾患とトランスジェンダーの違いを明らかにしたいと思います。
生まれた時の診断は「女性」
パリ・オリンピックで金メダルを獲得した2人のボクシング選手、アルジェリアのイマネ・ヘリフ選手(66キロ級)と台湾の林郁婷(りん・いくてい)選手(57キロ級)は共に性分化疾患を持っていると報道されています。性分化疾患はさまざまな疾患を総称したものであり、それぞれの疾患により特徴が異なりますが、2人が有しているのは「5α還元酵素欠損症(以下『5ARD』)ではないか」と推測するメディアがあります。もし2人の疾患が5ARDであれば、身体能力は定型女性よりも発達します。外性器は女性であることから出生時に「女性」と診断され、たいていは「女子」として育てられます。出生届は「女性」、国際オリンピック委員会(IOC)が記者会見で述べたように2人のパスポート上の性別も「女性」です。
5ARDではなぜこのような現象が起こるのかというと、病名が示す通り特定の酵素が欠損していることが原因です。男性ホルモンとして有名なテストステロンは、体内で「5α還元酵素」と呼ばれる酵素によりジヒドロテストステロンという別の男性ホルモンに代謝され、これが男性の外性器(陰茎や陰のう)をつくります。つまり、5ARDであれば性染色体は定型男性と同じXYであるものの、ジヒドロテストステロンが合成されず外性器が十分につくられないために出生時に女性と認識されてしまうことがあるのです。
思春期になり、声が変わり、筋肉量が増え、俊敏さが際立つようになるのはテストステロンの作用によります。それまで女性として育ってきた5ARDの”女子”は男子と同じように身体が発達していくことに気付きます。男子並みの筋力やスピードを持って定型女子とスポーツで競えばがぜん有利となります。
高すぎるテストステロン値
ここでテストステロンの”威力”について補足しておきます。最近この手の議論はかなり慎重にしてもバッシングを受けるのですが、政治的には(ポリティカルコレクトネス的には)「不都合な真実」であったとしても、定型男性と定型女性には身体的に明らかな「差」があります。その理由はテストステロンの分泌量で説明できます。一般に、男性の血中テストステロン値は10~30nmol/L(年齢や計測時間により差がでます)で、若くて健康な男性なら通常20~30nmol/Lとなります。他方、女性の基準値は0.7~2.8nmol/Lです。定型男性は定型女性の10~30倍ものテストステロンを使って競技しているわけです。学問、政治、ビジネスなどの世界では男女間の差がないことにほとんどの人が同意するでしょうが、身体能力での差はなくしようがないのです。実際、ラジカルなフェミニストですら「定型男性と定型女性を同じ種目で競わせよ」という主張はしません。
5ARDなどの性分化疾患を有している”女性”は定型男性並みのテストステロンを分泌しているわけですからボクシングのようなフィジカルで勝負する競技では圧倒的に有利となります。だから、国際ボクシング協会(IBA)は昨年(2023年)、両選手を世界女子選手権の出場資格の検査で不合格としたのです。ところがIOCは前述したように「パスポートが女性だから」という単純な理由で女性枠での出場を認めました。この決定に対しIBAはIOCを記者会見で非難しました。https://www.iba.sport/news/iba-clarifies-the-facts-the-letter-to-the-ioc-regarding-two-ineligible-boxers-was-sent-and-acknowledged/
薬で下げるよう求めた世界陸連
5ARDを有している女子アスリートで有名なひとりが、東京オリンピックに出場できなかったことで話題になった南アフリカの中距離ランナー、キャスター・セメンヤ選手です。セメンヤ選手は12年のロンドン・オリンピック、16年のリオデジャネイロ・オリンピックの陸上女子800メートルで金メダルを獲得しました。16年の陸上女子800メートルは金メダルのセメンヤ選手だけでなく、銀メダル、銅メダルの選手も性分化疾患を有していると報じられています。
リオデジャネイロ・オリンピック陸上女子800メートル決勝で優勝した南アフリカのキャスター・セメンヤ(左端)=リオデジャネイロの五輪スタジアムで2016年8月20日、三浦博之撮影
https://www.binary.org.au/world_athletics_must_protect_female_athletes https://journals.sagepub.com/doi/full/10.1177/09646639221086595
このような結果になれば、すべての競技とまでは言えないにせよ、いくつかの女子陸上競技では5ARDなどの性分化疾患を持っていれば圧倒的に有利で、公正でないという意見が出てきます。そこで、19年に世界陸上競技連盟(World Athletics)は「5ARDなどの性分化疾患をもつ女性選手が400メートル、800メートル、1500メートルの女子競技に参加するにはテストステロン値を抑制する薬の服用を義務付ける」とする新しい規則をつくり、IOCはこの基準を採用しました。
その結果、ロンドン、リオデジャネイロで金メダルを獲得したセメンヤ選手が東京オリンピックには出場できなかったのです。セメンヤ選手はそのような治療を受けることを拒否し、テストステロンの制限のない200メートル及び5000メートルでの出場を目指しましたがかないませんでした。なお、報道によると、セメンヤ選手はテストステロン値を下げるために10年から15年まで経口避妊薬を服用したものの、体重増加、発熱、絶え間ない吐き気や腹痛など、数え切れないほどの望ましくない副作用があったそうです。
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トランスジェンダーの選手たち
ここで病名を整理しておきます。先に紹介した女子アスリートらが保有している5ARDは「性分化疾患」(Difference of Sex Development=DSD)の一種で、性分化疾患とは「生まれつき性染色体や酵素に関連する遺伝子に異常があり、定型的な性の発達が起こらずに、外性器やホルモン分泌に異常が生じる疾患」と考えればいいと思います。5ARDは性分化疾患の代表疾患とは言えるでしょうが、頻度でいえばおそらく先天性副腎皮質過形成症の方が多いと思われます。しかし、この疾患の女子アスリートの話は5ARDのようには聞きません。「オリンピックや世界選手権で最も話題になる性分化疾患は5ARD」と理解して差し支えないと思われます。
一方、トランスジェンダーの女性は出生時の性染色体はXY、外性器は男子であり出生時の届け出は「男性」です。女性としてスポーツ競技の出場資格を得るためには、性自認を公言し、手術を受けたり、女性ホルモンを使用するなどの治療を受けたりして、テストステロン値を規定まで下げなければなりません。
東京五輪・女子87キロ超級、2回目の試技でバーベルを頭上まで持ち上げるも失敗。思わずガッツポーズを見せるニュージーランドのローレル・ハバード。トランスジェンダー女性として史上初めて五輪に出場した=東京国際フォーラムで2021年8月2日、佐々木順一撮影
世界で初めてオリンピックに出場したトランスジェンダーの女性は21年の東京オリンピックで話題になったニュージーランドの重量挙げのローレル・ハバード選手です。ハバード選手は過去に国内「男子」大会で合計300kgを持ち上げた記録を保持し、01年に23歳で引退しています。そして12年に33歳でトランスジェンダー女性としてカミングアウトし、スポーツ選手としてのキャリアを再開しました。東京オリンピックでは上記のIOCの基準を満たすためテストステロンを抑える薬物を服用していたと報道されています。https://www.bbc.com/sport/olympics/58054891
ハバード選手の出場には否定的な意見も少なくありませんでした。そういった事情があったからなのか、パリ・オリンピックではトランスジェンダー選手の出場資格が厳格化されました。性別適合手術を12歳までに完了しなければならないという制限が設けられたのです。これによりハバード選手は(性別適合手術をしたのは30代ですから)自動的に出場資格をなくしました。
パリ・オリンピックに出場したセクシュアルマイノリティーで有名なのが1994年生まれの米国人中距離ランナー、ニッキー・ヒルツ選手です。ヒルツ選手はパリ・オリンピックの女子1500メートル決勝で7位に入りました。SNS上で「男性ではないのか」などと書き込まれましたが、Reuterによると、ヒルツ選手は、出生時は女性のトランスジェンダーでかつノンバイナリーです。5ARDなどの性分化疾患があるわけではありません。
なお、「トランスジェンダーかつノンバイナリー」という表現が分かりにくいかもしれません。トランスジェンダーの定義は「出生証明書に記載されている『男性』『女性』と異なる性自認」で、ノンバイナリーとは「性自認が男性・女性という二元的な性別に当てはまらない場合」を指します。ノンバイナリーだけでじゅうぶんな気がしますが、「トランスジェンダーかつノンバイナリー」という表現が好まれることが多いようです。ヒルツ選手は「出生時に女性で現在の戸籍も女性のままだから女性競技に参加する。だけど自身の性自認は女性とは違うように感じている」というわけです。
以上みてきたように、定型女性(女性として生まれ性分化疾患がなく性自認も女性)とは異なるいわば「非定型女性」にはさまざまなケースがあり、スポーツにおいてはテストステロンの分泌量を考慮しなければ不平等となる可能性があるのです。非常に複雑なこの問題を簡単に解決する方法は見当たらず、今後もさまざまな意見が出てくるでしょう。
特記のない写真はゲッティ
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谷口恭
谷口医院院長
たにぐち・やすし 1968年三重県上野市(現・伊賀市)生まれ。91年関西学院大学社会学部卒業。4年間の商社勤務を経た後、大阪市立大学医学部入学。研修医を終了後、タイ国のエイズホスピスで医療ボランティアに従事。同ホスピスでボランティア医師として活躍していた欧米の総合診療医(プライマリ・ケア医)に影響を受け、帰国後大阪市立大学医学部総合診療センターに所属。その後現職。大阪市立大学医学部附属病院総合診療センター非常勤講師、主にタイ国のエイズ孤児やエイズ患者を支援するNPO法人GINA(ジーナ)代表も務める。日本プライマリ・ケア連合学会指導医。日本医師会認定産業医。労働衛生コンサルタント。主な書籍に、「今そこにあるタイのエイズ日本のエイズ」(文芸社)、「偏差値40からの医学部再受験」(エール出版社)、「医学部六年間の真実」(エール出版社)など。谷口医院ウェブサイト 月額110円メルマガ<谷口恭の「その質問にホンネで答えます」>を配信中。