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正常と認知症の境界状態のことを「軽度認知障害」といいます。記憶力をはじめとする認知機能は、年齢不相応に低下しているものの、日常生活に支障が出ない程度にとどまっている状態です。「忘れっぽい」「言葉が出にくい」「物事の段取りがしにくい」などのさまざまな症状が出るものの、その症状は比較的軽く、正常範囲ではありませんが認知症でもありません。軽度認知障害と認知症との違いは(1)日常生活に支障がないこと(2)必ずしも進行しないこと――です。進行するどころか逆に正常範囲に復帰する人も珍しくありません。従って軽度認知障害と診断されたからといっても特別に心配しすぎたりふさぎ込んだりしないのが重要です。今回はこの軽度認知障害について述べます。
認知症研究の進展で分かった「途中経過」
以前の記事で「一口に『認知症』といってもさまざまで、60種類以上もの病気がある」と書きました(見逃さないで「治るかもしれない認知症」)。ということは、認知症との境界状態である軽度認知障害も、原因にはいろいろな病気があるわけです。その中でまず「アルツハイマー病による軽度認知障害」について説明しましょう。
アルツハイマー型認知症の研究が進展するにつれ、脳内に病変があっても症状が出現する人とそうでない人がいることが分かってきました。すなわち、アルツハイマー型認知症は脳に「アミロイドベータ(Aβ)」というたんぱく質と「タウ」というたんぱく質の塊が徐々にたまっていくことによって発症しますが、たまり始めてからただちに発症するのではなく、20年以上たってから発症することが最近の頭部画像検査研究で明らかになったのです。これらのたんぱく質が相当量たまった後でも、認知機能は正常のままの期間、すなわち無症状期が10~20年の間続き、その後記憶障害はあるものの日常生活に支障がない期間、すなわち軽度認知障害の時期が数年続いた後に、アルツハイマー型認知症に進展すると現在のところ考えられています。
現在、研究者は脳に上述の異常なたんぱく質がたまっている状態を「アルツハイマー病」と定義し、図1のように分類しています。
図1【研究の世界におけるアルツハイマー病の分類】 「無症状期アルツハイマー病」の時期が10~20年続いたあとに「アルツハイマー病による軽度認知障害」の時期が数年続き、その後に「アルツハイマー病による認知症」にいたる。軽度認知障害は無症状期と認知症の中間に位置する。
上の図でいう「アルツハイマー病による認知症」とは、脳内に異常なたんぱく質がたまっているのが頭部画像検査で明らかにされ、それが原因で認知症を起こしていると証明されている状態のことです。一方、今までの連載で述べてきた「アルツハイマー型認知症」は、症状などの臨床的特徴から診断されたものです。通常、症状からアルツハイマー型だとみられても、脳内の異常なたんぱく質の有無を検査で確認することはしませんので、図でいう「アルツハイマー病による認知症」だとは断言できません。
苦労してまで精密検査をしない理由
ここでちょっと脇道にそれて、異常なたんぱく質を確認するための検査と、確認する意義について説明します。
まず、確認するための検査は「アミロイドPET(陽電子放射断層撮影)検査」という名前です。この検査は、頭部CT(コンピューター断層撮影)や頭部MRI(磁気共鳴画像化装置)や脳血流シンチといった他の検査と比べると費用が非常に高額で、検査にかかる時間が長いのです。その上、検査ができる病院も限られています。
さて、苦労してこの検査を行い、異常なたんぱく質の存在を確認したとします。その場合でも、患者さんへの治療薬は、確認していない場合と変わりません。今のところ、このたんぱく質に働きかけて、認知症の発症を防いだり、進行を止めたりする治療薬はないからです。たんぱく質を確認した場合に「アルツハイマー病による認知症」を予防ないし治療できる新薬が誕生しない限り、通常医療でアミロイドPET検査が行われる日はこないでしょう。
なお「アルツハイマー病による認知症」に対する薬は、現在開発中で、製薬会社が米国や日本で承認を申請しています。この薬は、脳内にたまったAβを人工的な抗体で排除する点滴薬で、投与した患者のAβがアルツハイマー病と診断されていない人と同じ程度にまで減ることまではアミロイドPET検査で確認されています。
しかし、肝心の認知症症状については進行する速度を2~4割程度遅らせることができるにとどまり、進行を完全に止められるという根拠は発表されていません。また、承認申請を受けた米食品医薬品局(FDA)諮問委員会の委員たちは有効性の評価について「根拠が不十分だ」という否定的な見解を示したそうです。症状進行の速度を遅らせる抗認知症薬はすでにあるのですが、この既存薬と開発中の薬との間で効果にどれだけの差があるのかも発表されていません。画期的な新薬が誕生するかもしれないのは事実ですが、それはアミロイドPET検査の結果を画期的によくする新薬が誕生するかもしれないという意味であり、新薬が誕生したとしてもそれで認知症症状が画期的によくなるかどうかは不明です。仮に規制当局がこの新薬を承認したとしても「認知症を完全に治す薬がついに出た」などと過剰な期待をかけるのは禁物です。
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「アルツハイマー」以外の原因も多数
話を軽度認知障害に戻します。先ほど説明したように、軽度認知障害にはいろいろな種類があります。アルツハイマー病によるもののほかに、脳の血管の障害が原因でおこる「血管性軽度認知障害」もあります。さらに、神経にレビー小体という異常なたんぱく質の塊がたまることによって起こる「レビー小体を伴う軽度認知障害」も、脳の中の前頭葉や側頭葉の神経細胞が徐々に活動しなくなることによって起こる「前頭側頭型軽度認知障害」もあります。その他、頭部外傷や物質・医薬品によって誘発される軽度認知障害があります。以下の表に分類をまとめます。
診断が難しい
軽度認知障害は症状が軽いので、認知症よりも、原因の診断が難しいです。アミロイドPET検査のような精密検査をしなければ、軽度認知障害の原因がアルツハイマー病なのかそれ以外なのかを調べることは困難です。ただ、原因を調べることはできなくとも、その人が認知症なのか軽度認知障害なのか正常範囲なのかは精密検査なしで判断することができます。すなわち、認知機能を調べる心理検査や本人の日常生活に関する情報などに基づき、どの状態なのかを判断することは可能です。
経過
軽度認知障害の人が認知症に進展する割合は1年あたりおよそ5~15%程度と考えられています。つまり、8割以上の人は1年以内に進行することはないということになります。アルツハイマー型認知症やレビー小体型認知症には認知症症状の進行を抑制する薬、すなわち抗認知症薬があるのですが、軽度認知障害の人が抗認知症薬を飲んでも認知症に進展する割合は減らないことが今までの研究で分かっています。要するに、診断されても、進行を止める薬はないわけです。ただ、後で説明しますが「認知症になる率を下げる生活」を実践することはできます。
一方、軽度認知障害の人は1年あたりおよそ16~41%の割合で、認知機能が正常範囲にまで復帰すると考えられています。放っておいても自然によくなることが多いということは、早期発見・早期治療が必ずしも重要ではないことを意味します。なぜこれだけ多くの人が回復するのか、悪化する人と正常に戻る人の間にどんな違いがあるのかは、これまでの研究では明らかになっていません。
運転免許
75歳以上の人が自動車運転免許を更新する際には認知機能検査を受ける必要があります。認知機能検査の内容や採点基準は警察庁が公開しています。
さて、認知機能検査の成績が悪かった場合は認知症の疑いがあると認定され、当局から診断書提出命令を受けます。免許更新には「この人は認知症ではありません」という診断書が必要なのです。命令に応じなかった場合、免許の更新はできません。逆に言えば、免許の更新をしないのであれば診断書を提出する必要はありません。成績が悪かったのを契機に免許を自主返納する人もいるようです。
診断書は医師に書いてもらうのですが、その際、認知症の有無をみるための心理検査や頭部画像検査、血液検査などを受けるよう指示されます。自分は認知症ではないと思う人にとっては心外な指示かもしれませんが、指示を断ると診断書を書いてもらえなくなります。
仮に診察の結果、認知症と診断されたら、「この人は認知症です」と診断書を書いてもらう必要はありません。その診断書を当局に提出しても問答無用で免許を取り上げられるのは必至です。自分にとって不利益になる法的効果しかもたらさない診断書を、わざわざ診断書代を払って書いてもらうのはばかげています。
この場合は、免許を自主返納すればよいのです。認知症と診断された後でも自主返納した人は、身分証明書的な機能を持ち合わせた「運転経歴証明書」の交付を申請することができます。
さて、ここで軽度認知障害と診断された場合ですが、医師は診断書に「認知症ではないが認知機能の低下がみられ、今後認知症となるおそれがある」と書きます。その診断書を当局に提出すれば無事に免許を更新できます。ただし、軽度認知障害の人は正常範囲の人よりも認知症を発症しやすいと考えられていることから、半年後に再び診断書提出命令を受けます。そこで再び医師の診察を受け、正常範囲に復帰していると診断されればそこで診断書を提出して終わりなのですが、軽度認知障害のままと診断されればさらに半年後に診断書提出命令を受けることになります。軽度認知障害の人の運転は法律で禁止はされていないものの、認知機能が年齢不相応に低下しているのは間違いないので、運転するにしても近所だけにして遠出は避ける、晴れた日の昼間だけにする、人通りや交通量の多いところはさけるといった工夫が望ましいと思います。
軽度認知障害の人ができること
軽度認知障害と診断されたということは、「認知症ではない」と診断されたということでもあります。確かに正常範囲ではなく「軽い」認知機能低下はあるのですが、肝心なのは「進行しない人の方が多い」という事実です。あまり心配しすぎないようにしましょう。
自治体によっては、軽度認知障害の人を対象にした支援事業を行っています。何か困りごとのある人は、自治体独自の支援事業がないかどうか、近所の地域包括支援センターに相談してみるといいかもしれません。例えば、私が勤務する病院がある神戸市は、認知症の人や介護保険の認定を受けるまでに至らない軽度認知障害の人を対象に、在宅生活への支援として、自宅に訪問し、見守りや話し相手、外出の付き添い等を行うヘルパーサービスをKOBEみまもりヘルパーとして展開しています(図2)。
図2 【KOBEみまもりヘルパーの案内】 「KOBEみまもりヘルパー」の制度を案内するチラシから抜粋。引用元:https://www.city.kobe.lg.jp/documents/36473/mh_chirashi.pdf
どうしても認知症のことが心配な人は、前回の連載(認知症予防 鍵は運動と食事 サプリは非推奨)で述べた通り、認知症になる確率を減らす方法を実践してみましょう。すなわち、たばこを吸っている人は禁煙し、お酒はほどほどにしておきましょう。さらに、有酸素運動(ジョギングや水泳、サイクリングなど)や健康的な食事を楽しむようにしましょう。認知症専門医の定期的な診察を受ければ、認知症の早期発見につながったり、正常範囲に復帰していることが分かって安心できたり、認知症に関する有益な助言が得られたりするかもしれません。不安があれば一人で悩まないのが第一です。近くの認知症疾患医療センターに電話等で相談してみましょう。
今回でこの連載は終了です。認知症に関する情報はだいたい書き尽くしました。2年間、ご愛読ありがとうございました。
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