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宇宙の根本
第一章 宇宙の根本秩序
三、宇宙の根本は愛である
1.宇宙の中心は愛である
この宇宙全体、天国全体の中心軸は何ですか。愛です。愛は、生命の根本であり、血統の根本です。それは、愛を中心として成されているので、愛の軸に従って運動します。運動とは、ただするのではないのです。運動は、必ず主体と対象を中心とするので、それ自体の位置において、愛を中心として関係を結んで行動するのです。永遠の愛の実績として存続したいというのが、すべての運動するものの目的になっているというのです。作用とは、ただするのではないというのです。
宇宙の根本は、愛から始まりました。神様はどのようにして生まれたのでしょうか。愛が中心です。ですから結論は、絶対的な神様も絶対的に服従したい理想郷をもたなければならないということです。完全に服従するところに完全な幸福があり、完全な解放があるところに完全な幸福があるのです。
宇宙の根本の動機は、何を中心として動くのでしょうか。男性を中心として動くのではありません。女性を中心として動くのではありません。神様御自身を中心として動くのでもありません。神様が動くことができる動機は何かというと、愛です。
それゆえに、愛は、始まりであり終わりだというのです。コリント人への第一の手紙第十三章を見れば、信仰と希望と愛はいつまでもあるが、このうちで一番は愛だ、といいました。それは、なぜそのようにいったのでしょうか。それを解くことができなかったのです。
なぜ真の愛で愛さなければならないのでしょうか。宇宙の根本が真の愛の原則から生じたからです。したがって、それに通じれば、宇宙のすべてと関係を結ぶことができるのです。理論的なのです。それで、一つが上ならば一つは下であり、一つが右側ならば一つは左側になるのです。鉱物世界、植物世界、動物世界がすべてそうです。お互いに与えようとするそのような世界が起源となって出発したので、お互いに与えようとしながら暮らすのが宇宙です。
このような論理で、より次元の高い大きな存在にすべて吸収されようとするのです。このように思う時に、宇宙存続の源泉はどこでしょうか。より高い愛を中心として与えようとする運動圏内で作用するものが宇宙的な存在です。
宇宙の存続する原則とは、理想的な根本の愛と接続することができる環境的条件であり、縦的、横的、すべての球形的な全体方向性の運動圏内に所属した属性だったというのです。それでは、その父母の前に皆さんはどうでなければなりませんか。そこに報いなければなりません。相対にならなければならないでしょう? 一つになろうとするなら、父母のように相対にならなければならないという結論です。真の愛の相対になる時に統一が展開されるのです。真の愛がなくては完全に統一することができないのです。結論を出しました。
神様を中心とした人間は、神様の体と同じであり、体と同様の実体を、象徴型として影のように送ってくださったものがこの宇宙万象です。この宇宙万象は、何を標榜して造られたのかといえば、神様御自身を標榜して造られたというのです。それが形象的、象徴的な位置にいるだけであって、その根本主体は神様を中心として造られたというのです。
宇宙の根本は、どこから始まったのですか。進化論でもなく、創造論でもありません。進化より先に、創造の概念がある前に、雄と雌がいたということを知らなければなりません。では、雄と雌はなぜ生まれたのでしょうか。愛のゆえにです。愛、これが公式です。
神様は、神様よりもっと立派な愛のパートナーを願われます。皆さんも、愛の相対が皆さんよりも優秀なことを願うでしょう? 同じです。神様御自身が主体と対象として完全に一つになっているのですが、それが創造の根本です。愛を中心として二つが完成するのです。そこで神様が解放されるのです。愛の位置で歌って踊ってごろごろ転がって、すべての被造世界が一つになるのです。そのような世界は、どれほど楽しい世界でしょうか。
家を建てる時は、水平が合わなければならず、垂直が合わなければなりません。合わなければすべて倒れるでしょう? 宇宙がどのように存在するか、という根本問題に入っていくというのです。
それで、神様御自身も愛が必要です。神様御自身が天の玉座において、「ああ! 私は愛が好きだ」と歌いますか。文総裁が一人で踊ってこのように汗を流すようになれば、狂った人ではないでしょうか。ハンカチ一枚見ながら踊ってこのようになれば、狂ったのではありません。これの十分の一、百分の一くらいのものを見て踊って笑ったとしても、それは気違いではありません。
創造は、相対価値の絶対基準に該当する価値的内容をもっている、という事実を認めなければなりません。
アダムとエバが完成すれば、神様が結婚させてあげることによって、アダムとエバの体の中に、性相と形状、男性と女性の形状をもった神様が入っていき、私たちの心の位置に創造主、お父様の体の位置に創造物、お父様が愛によって一つになるのです。他のものではないのです。知識でもなく、権力でもなく、お金でもありません。真の愛によってここで一つになることによって、真の愛を中心として形状が成され、家庭が成されるようになるというのです。真の愛が重要なのです。これがはっきり分からなければ宇宙の根本を知らないというのです。
世の中の人たちが考えるのは、お金をもって世界で一番の代表者になる、権力をもって一番の代表者になる、知識をもって一番の代表者になる等の様々な考えをしています。
しかし、宇宙の根本である神様から関係しているすべてのものは、真の愛を中心とした代表者になることを願うのです。それが、人間が願い、神様が願われる道だということを知らなければなりません。
皆さんは、愛が良いと言うでしょう? 愛を求めていくでしょう? どのように求めていくことが、宇宙の根本であるその公式に合う愛の直線の道、近道なのかというのです。これが問題です。
この宇宙の根本は何ですか。神様は絶対者です。力があります。力が根本ではありません。知識が根本ではありません。それでは、お金ですか。これは、あの世から見れば退廃的な何というのでしょうか。廃物を拾って歩き回るのです。廃品を回収して歩き回る人々は、お金を集めようという人です。私たちのような人は金があるといいますが、私はそのようなお金を使わないのです。
神様が天地を創造される時、どのようにされたのでしょうか。神様の相対になることができるのは人しかいないのです。それで、自分を一〇〇パーセント投入されました。それでは、知恵の王なのに、なぜ投入されたのでしょうか。完全に投入して神様はゼロの位置、無になり、あそこは百二十になるので、気圧でいえば、ここは低気圧中の低気圧である真空状態になり、あちらは高気圧になるので、ひゅーと循環作用が起きて自動的な発展原則、自動的な運動原則を追求します。
それで、絶えず押し込めばこちらは巻き込むでしょう。自分を包囲するそのようなことが展開するのです。それは何をもってですか。愛をもってするのです。宇宙の根本が愛なので、このような原則によってこのように展開されるのです。
根本は個人です。個人で連結するのです。家庭も、氏族もすべてです。根本は、いくら小さくても同じです。角度は同じだというのです。九〇度です。それで、これを茎にして真の愛、真の愛、真の愛、真の愛、真の愛、このようになって地球星全体が真の愛で一つになり、宇宙でもどこでも真の愛でぎっしりいっぱいになるのです。そのようになれば、いつでも「良い! あなたは私と似ている!」と言うようになり、どこに行っても、縦的でも横的でも全く同じになるのです。
人間は、歴史を通じて宇宙を越えていっても愛を必要とし、昼でも夜でもどこに行こうとも、若くても年老いても死んでも、いつでも愛の観念を離れることができない存在です。なぜそうなのでしょうか。根本がそのようになっているので仕方がないというのです。愛だけが今でも創造の能力を行使することができるのであって、愛がなくては行使することができないのです。発電所のような愛の原動力を中心として、すべて行くのです。
愛も、もちろん神様がつくることができると思いますが、その愛を所有するということは一人ではできません。二人が所有しなければなりません。神様も愛を一人で探すことはできません。ですから、その基準の測定原器は何でしょうか。宇宙万象、存在世界、永遠世界で測定することができる絶対的に一つしかない原器、それは何でしょうか。根本問題です。それが愛だというのです。ですからこれは、春夏秋冬、季節の変化に影響を受けません。受けてはならないのです。
なぜ愛のひもに結ばれて生きるようになっているのですか。神様の本物の愛に、神様も喜ばれ、宇宙も喜び、この世界も和合することができる愛のひもに人間が結ばれて生きるようになっているのですが、そのような愛のひもに結ばれずに幸福になり得る心の基台がないのに、生活が幸福になり得ますか。なり得ません。根本が違っているのに、結果が幸福であり得ますか。歴史はこのような関係になっています。
心と体が一つになったその場に入っていくようになれば、その場は、釈迦が経験した位置です。「天上天下唯我独尊」というその境地に入っていきます。その中に入っていくようになれば、愛の球形内のすべての力は、この中心を通じることなしには作用することができないのです。これを通じない作用は存在できません。宇宙のすべての作用は、これを基本として定めて拡大しました。
ところが、愛を中心とした軸が生まれなかったのです。それはすなわち、核心が生まれなかったのと同じです。人間だけではありません。今日、人間同士で連結された愛、家庭を中心とした愛、家庭を中心として拡大された氏族、民族、国家の愛、あるいは聖人が教えてくれた愛をもっては、その根本を悟ることができなかったというのです。
宇宙根本において、生命が先ですか、愛が先ですか。このように思う時、それを突き詰めて入っていくようになると、生命が先にはなり得ないのです。神様は生命の源泉ですが、生命の源泉であられる神様が存続するには、どのような基盤の上で暮らすことを願われるのでしょうか。何の基盤の上で暮らすことを願われるのでしょうか。神様は、平和の基盤の上で暮らすことを願われるはずです。平和の基盤設定は何がするのですか。生命がするのか、他の何かがするのですか。それがまた問題です。それは、生命がするのではありません。主体と対象が高低を超越して、共通的価値を認めることができる秩序的段階を超越したその何かです。それは何ですか。真の愛です。
皆さん、細胞繁殖というものを知っているでしょう。これ一つを取ってみても、その位置に再び目が出て鼻が出てくるのです。髪の毛も出てきて、足も出てきて、すべて出てきます。すべてのものが全く同じなのです。真の愛と連結した細胞は宇宙と同等な価値をもつことができるのです。なぜ真の愛がそうでなければならないのですか。真の愛は原因であると同時に結果であり、根本であると同時に目的だからです。
愛は、宇宙をはじめ、どのような存在でも因縁をもたない存在がありません。小さな草一本でも、必ず愛を中心として生きているというのです。鉱物もプラスイオンとマイナスイオンを中心として生まれ、すべて愛ゆえに動いています。
真の愛で成された心情圏は、いくら小さくても宇宙と連結され、その中で起きる出来事の波長は万象と霊界まで波及するのです。霊界を含む天宙は、すべて同じ神様の真の愛の原理のもとに存在するからです。神様と人間との間の縦横、前後的真の愛の関係は、人間相互間の理想的真の愛の関係の根本であり、その完成は四大心情圏を成した理想家庭においてのみなされます。
愛の本質は何ですか。どのような愛ですか。愛とはどのような愛ですか。今日のアメリカに蔓延しているフリーセックス、一夜の愛が愛ですか。それは、根本の愛とは関係がありません。それでは、根本の愛、真の愛はどのようなものですか。愛とは、始めであり終わりです。この宇宙が生まれたのは何のために生まれたのかといえば、愛のために生まれたというのです。愛を訪ねていくというのです。神様に対して聖書には「私が最初であり最後である。始めであり終わりである」とありますが、それはどういうことですか。これは、愛をおいていう言葉です。
なぜ「ため」に生きなければならないのですか。なぜそのようにしなければならないのですか。それを願わないのに、なぜそうでなければならないかというのです。愛のひもが結ばれているというのです。愛のひもが万物に連結しているといのです。愛のひもが私の体を結んでいるというのです。このような時、すべてが手を差し出して早く早く巻いてくれというというのです。早く早く大きくなろうというのです。愛の宇宙を占領しようというのです。愛の宇宙も宇宙であり、それはパートナーの世界ですが、愛の根本が神様まで占領しようとするのです。
神様は、いつでもうれしいでしょうか。皆さんは、いつでもうれしいですか。うれしくありません。しかし、真の愛をもった時には、悲しみもその愛によってすべて消化されるのです。これを見る時、愛の絶対権限が、この宇宙のある個別的権力や知識や何かをもって第一主義を主張する、それ以上のものとして残したいのが人間の本性の欲求だったというのです。それがどこから来たのでしょうか。根本から来ました。その根本のどこからですか。神様の愛からです。神様もそのような愛を願うために、そこから来たのです。
最初から私たち人間は、近ごろの共産主義のように闘争概念から始まったのでしょうか、融合概念から始まったのでしょうか。どちらなのですか。電気でいえば、プラスとマイナスが闘争するというのですか。それでは、どのようになっていたのでしょうか。調和と融合から始まったのです。それで、お母さんとお父さんの愛を通してお互いに調和して、融合して私が生まれたのです。それは否定できません。このように思う時に、宇宙の根本は、本性とは、調和にもなり融合される内容から出発した、ということを私たちは知ることができます。
すべての宇宙の中で、借金だらけの人間にならずに借金を負わせて暮らすことができる方法とは何でしょうか。それでは、私の根本がないのでしょうか。違います。心にいくらでももっています。「ごめんなさい」、「ありがとう」と言うことのできる心、水を見て、山野を見つめて、野原を見つめて、三千里の山川、さらには大地球星を見つめて「ありがとう!」と言うことができる心、神様の前に有り難いと考え、環境に有り難いと考え、不平を言わないで侍って暮らすことができる、このような主人の心をもちなさいというのです。真の主人には、そのような人々がなるのです。
2.人間は万宇宙の愛の中心
(1) 神様の愛の対象として造られた
人の価値は、どれほど大きいでしょうか。神様が杖をついて千年、万年慕うことのできる存在が人です。統一教会の文先生が見るとき、これが宇宙の根本だというのです。これが、内外関係になったので縦横の愛の世界観が成立するのです。上下関係と左右関係になるので、縦横の愛の世界観が展開されるのです。その中心には神様が臨在されるのです。
心の深い谷間の位置に、一つにしっかりと結ぶことができるその場は、縦横の中心位置です。これを結んでおかなければ、縦横の基準が愛の理想型から出てこないのです。縦的なものがどんなにあるとしても、横的なものは出てこないのです。それで、人をこのように造らざるを得なかった、ということを皆さんは知らなければなりません。
神様は、絶対的な創造の観を所有した絶対者なので、絶対的な対象価値の存在を追求するのです。これは、この地上の被造万物の中で、何をもってしても取り替えることができないものです。価値として見れば、相対的存在とは、神様を与えても取り替えることができない存在です。「相対的価値」という言葉は少し難しい言葉ですが、相対的価値というものは、相対という言葉を中心として、その対象の価値というものは、神様を与えても取り替えることができないのです。神様を与えてみれば、神様一人になるのです。神様が残るのです。それゆえに、神様御自身を投入して、神様御自身の力を、エネルギーを消耗するのです。消耗戦をするのです。
それで、神様を与えても、取り替えることができない対象の価値的存在として造られたものが人間です。このように、絶対的な価値の存在が人間であることを皆さんは知らなければなりません。神様がそのような観をもって、価値的な存在として人間を造ってくださったのです。
神様は、人間を愛ゆえに造られました。人間はなぜ造られたのですか。愛ゆえに造られたのです。人間が万物と異なるのは、神様の息子、娘として造られたからです。神様の直系の愛を受けることができる対象者として造られたというのです。これが人間の特権です。
人は、誰に似たのでしょうか。神様に似ました。ですから、神様が愛を願うのも、結局は人と同じだ、このように思うのです。愛を中心とした理想の創造世界というものは、実体を中心とした愛の表示が形状によって現れ、形状の表示が象徴として現れるというのです。
統一教会の「原理」ではそのようにいっているのです。何を中心としてですか。愛を中心としてです。その実体が喜べば、その形状である存在が喜べば、象徴的なものも自動的に喜ぶことができるというのです。そのような作用を何がするのですか。愛だけがするというのです。
「万物之衆 唯人最貴(万物の中で人が最も貴い)」と言いました。万物の中で人間が中心だというのです。何を中心として中心ですか。愛を中心としてです。知識とか、お金とか、権力というものは問題ではありません。
神様は創造主なので、そのようなものはいつでも造ることができ、もつことができます。しかし、愛というものは、一人では探し出すことができません。愛は一人ではもつことができません。愛は、必ず相対を通して現れて成されるようになっているのであって、一人では神様でも成し遂げることができないというのです。
神様が天地を創造される時、誰のために造られたのですか。神様のために造られたのではありません。愛の対象のためにです。それでは、神様の愛の対象とは誰ですか。「万物之衆 唯人最貴」と言いました。人だけが神様の愛の対象として造られたというのです。愛の本質的内容を分析してみる時、属性には相続権があり、同位権、同参権があるために、愛に接すれば、いくら気高い神様、いくら偉大な神様、いくら宇宙的な神様といっても愛に乗せられるというのです。
今日の統一教会の教えは、神様も愛が必要だというものです。いくら全知全能で遍在する全権の神様でも、愛は相対的に訪ねてくるのが原則なので、愛の相対圏を備えなければなりません。その相対がアダムとエバです。
神様がいくら立派で、絶対者で、全知全能の方であっても、一人では良いことがあり得ないのです。「幸福」という名詞は、あるいは「良い」という形容詞は、一人で設定される言葉ではありません。必ず相対的関係を備えた位置にいてこそ、「良い」、「幸福だ」という言葉があり得るのです。一人でいながら「幸福だ」と言う人はいないのです。
したがって、いくら全知全能の神様でも、一人では幸福になることはできません。例を挙げれば、歌を上手に歌う音楽家がいて、一人で歌を歌ったとしましょう。幸福でしょうか。相対がいなければなりません。授け受けしてこそ良いのです。同じように神様も、「良い」と言うためには、必ず神様一人でいてはいけないのです。
(2) 人間成長の道は神様御自身の展開過程
人間創造とは、神様御自身が成長してきたことを実際に再度展開させてきたものです。ここで神様が興味を感じられ、刺激を感じられるのです。人も同じです。画家が傑作品をつくるために絵を描くのは、自分の内的な素性をすべて実際に形状に展開させることです。自分の骨髄の奥深くまで絞り出して投入するのです。
人間の完成はどこにあるのでしょうか。男性なら男性自体で完成する道はなく、女性なら女性自体で完成する道はありません。それは、すべて半製品だからです。したがって、男性と女性が完全に一つになった愛を中心としてのみ完成するというのです。アダムが完成するには誰が絶対に必要でしょうか。神様が絶対に必要なのですが、神様は縦的に絶対必要です。アダムが完成しようとするなら、縦横の因縁をもたなければなりません。縦横の愛の因縁をもたなければ回転運動、球形運動が不可能です。それゆえに、横的にアダムに絶対必要とするのはエバです。同じように、エバにも絶対必要なのがアダムです。
アダムとエバをおいて神様が愛したのは何ですか。アダムとエバが息子、娘として育ってきたということは、神様もそのように育ってきたということを意味します。神様も赤ん坊のような時があり、兄弟のような時があり、夫婦のような時があり、父母のような時があったので、そのように創造されたのです。
神様は、無形の神様です。無形の神様がそのように大きくなってこられたというのです。それで、兄弟のように、夫婦のように、また息子、娘のように創造してこられたというのです。
アダムとエバを神様が造られたとすれば、どのような段階から造られたのでしょうか。アダムとエバを成人した人として造ったと考えることはできません。赤ん坊から造られたというのです。神様は、赤ん坊を身ごもった母が抱いて育てるのと同様の過程を経て造られたという論理を立てなくては、この三段階の秩序に通じた存在の形成ということを説明する道理がないのです。幼児期があったというのです。それから長成期があり、完成期がありました。これは天理の道理です。
アダムとエバに幼児期があったのですが、その幼児期はどのような幼児期だったのでしょうか。無形の神様が無形の世界から有形への過程を経てくることができ、赤ん坊の存在を抱いて育てたという論理から始めなければなりません。
それでは、赤ん坊から生まれ育ち、成熟して結婚することができる位置まで、父母になることができる位置までどのようにして行くのでしょうか。神様が青年期、壮年期、老年期のような過程を経てきたという事実を、神様が育った無形の過程を実体として見るための存在が子女だというのです。このような論理が形成されてこそ、父子一身という論理が出てくるのです。一つは縦的で一つは横的なので、縦横一身の理論を立てることができます。
愛する夫婦、アダムとエバが子女を生むということは、神様の無形実体の性相と形状が、愛をもって一つになって創造され、父母の立場に立ったのと同じです。第一の見えない神様が見える第二の創造主としてアダムとエバを造られ、実体の第二の神様の立場に立ったアダムとエバが、再び息子、娘を生むことによって父母の立場に上がっていくのです。そして、その幼い子女を通して、実体のアダムとエバの乳児時代、兄弟時代、夫婦時代、父母時代等、神様が経た過去を再び実体として展示するのです。それで、それを触ってみたいと思われ、愛してみたいと思われるのです。子女は第二の自分自身です。
結婚した夫婦の立場は、途方もない立場です。歴史時代に人類が望んだ子女としての希望峰が花咲く立場であり、兄弟として花咲く立場であり、夫婦として花咲く立場です。このようにして夫婦として愛した神様が創造を始められたように、息子、娘を生んだそこからアダムとエバが創造するのです。実体的創造主の立場となり、自分を中心として平面的創造主の立場で息子、娘を生むのです。第三の創造主を造るのです。それが子女です。
それゆえに、父母は、子女を神様の代身の実体父母の立場で神様の子女を養育するのです。そのようにしてこそ、見えない無形の神様が子女を養育したということを自分の実体で感じるのです。神様もそのように大きくなられたというのです。神様も子女時代、兄弟時代、夫婦時代、父母時代として発展してこられました。見えない神様の過去史を中心として、自分の息子、娘を生んで育てながら、神様の見えない赤ん坊時代の第一の創造主、無形の創造主の姿を見るのです。
第二の創造主、見ることができる創造主の立場で赤ん坊を育て、兄弟として育て、夫婦を成すようにすることは、神様がアダムとエバを息子、娘として、兄弟として育てられたように、無形の内的要求の実相をすべて実体的にアダムとエバを通して平面途上から見るためなのです。これが息子、娘だというのです。
神様が創造主として歴史的、内情的原則を中心として、存在の起源から今まで成長した過程を実体的に展開してくる過程がアダムとエバの創造過程です。それでは、どこから始まるのですか。完全に小さな細胞が一つとなって大きな細胞になるのと同じように、赤ん坊が十カ月間で育つ過程を経ていきながら、男性と女性の形態に分かれて出てくるのです。なぜそのようになるのでしょうか。そうでなければ、生命遺伝をどのようにするかという論理に対して解釈する方法がありません。遺伝的内容をどのように展開させるのかという論理を立てることができないというのです。それゆえに、一つの本質的な無形の形態と有形的な形態の本質が、一体的内容の因縁を中心として横的に展開することを必要とするのです。
別の言い方をすれば、主体の前に相対圏が必要だというのです。内的性相は外的形状とすべての根源的な面において、一致することもでき、通じることもできる内縁があります。それゆえに、人が生まれて育つその過程は、見えない無形の神様が実体を見るためのものだったのです。ですから、神様の内的なすべての存在が表現されて現れるので愛さざるを得ないというのです。それが私であり、私が現れた実体だというのです。無形の実体が有形の実体として展開される以上、そこにすべてを投入しなければなりません。
神様が愛を見いだす対象を造ろうとされる時、誰に似るように造られるでしょうか。神様に似るように造られます。その神様に似るように造られるなら、神様の中にあるように男性性稟がなければならず、女性性稟がなければなりません。自分に似ているのですが、自分の本性相からすべて抜いて、見えない性相、見えない思考の形態を実体として展開させたものが人間だというのです。それゆえに、聖書の創世記に出てくる、神様が自分の形に人間を創造されたというのは正しいというのです。
神様と人間の拍子が合って和動することができる喜びの拍子の前に、すべてのものが自分の姿どおりに音律を合わせることができ、自分の姿どおりにすべてが象徴的、形状的に踊り、すべてがこのようにすることができる、そのような喜びの世界が本然の園です。そのようになれば、万物も「ああ、私が生まれたかいがあるなあ」と言うでしょう。例えば、神様と人間が愛の祝宴をするその日に同参することができる因縁をもって、その喜びをお互いに分かち合うことができる存在になったという事実が、被造世界の限りなく小さな万物が願う所願ではないだろうかというのです。
いくら真理だとしても、真理の核心とは何でしょうか。お金でもなく、権力でもなく、知識でもありません。愛です。本質的愛は縦的なところにあるのであり、真理的愛は横的に連結しているのです。それゆえに、万物を見て神様を知り、アダムとエバが神様の形状なので、アダムとエバを見て神様を知るというのです。なぜですか。アダムとエバは、縦的な真の愛の対象的主体なので、これを二人とも完全にぴたっと男性と女性の愛を、東西南北を通して世界の軸に合わせるようになる時は、神様と霊界が通じて万世界がすべて通じるというのです。
(3) 人間は被造万物の中心
神様は誰に似ているというのですか。私たち男性と女性に似ています。皆さんの心は見えないでしょう? 心を見たいですか、見たくないですか。神様も同じです。神様が霊的な立場で見れば同じなのです。神様には体がありません。今まで体がありませんでした。アダム完成が成されていないので、今まで体がなかったというのです。体がありません。心のような宇宙に心のような主人、心のような先生、あるいは管理者、心のような父母でいらっしゃいます。
すべての万物は、神様の息子、娘を造ることができる土台だというのです。関係して連結することができる土台です。動物もそうであり、鉱物もそうです。鉱物世界にもプラス・マイナスがあります。植物世界もすべて雄しべと雌しべがあり、動物世界も雄と雌がいます。すべてに橋を架け、すべてのものが結集して創造された最高の傑作品が人間の内的形状と外的形状です。それを実体化させ、男性と女性の性相、そのすべてに形状を付与し、象徴的に、形象的に、実体的にすべて表して橋渡しするようにし、すべて連結するように、関係を結ぶようにしたのです。
神様が被造物の中心である人間を必要とされるのは、お金のために必要とするのではなく、知識のために必要とするのでもなく、権力のために必要とするのでもありません。ただ愛ゆえに必要とされます。そうではなく、神様一人で愛を受けるという立場に立つようになれば、愛してくれる何の存在もありません。結論がそうなので、神様は、必ずこの世界に自分が愛することができるそのような対象者を造らないといけません。このように思う時、被造世界においてその愛の対象になることができる、そのような度胸の大きな存在とは誰ですか。全宇宙を創造された神様の前に相対的な条件を備えることができる存在は、人間しかいないのです。したがって、皆さんは、「私は宇宙の主人です。宇宙で第一である」と言うことができる度胸をもたなければなりません。
神様は、喜びを加えて、喜びの刺激を連続させるために万物をつくられました。瞬間的な喜びを感じるためにつくられたのではなく、被造物に対するたびごとに胸深く入り込んでくる喜びの刺激と幸福を感じるために、最高の心情を注いでつくられたのです。神様は五日間万物をつくられたのち、六日目の日に喜びの心情で人間を造られました。自身の形状を型として造った私たち人類の先祖は、限りなく美しい存在であり、限りなく貴い存在であり、限りなく誇らしい存在であり、限りなくうれしい存在であり、限りなく光栄の存在であり、限りなく愛したい存在でした。
神様は、全知全能の方であられるがゆえに、知識も必要なく、能力も権力も必要なく、金銭も必要ないのです。それでは、神様において必要なものとは何でしょうか。それは、神様が愛することができる一つの対象です。その対象は、被造万物の中で最も貴く、最も霊長である人間以外にはいません。「神様が最も好まれるものが人間だ」と言ったのですが、神様はなぜ人間を好まれるのでしょうか。神様も愛が必要なためです。愛というものは、一人では、あるのかないのか知ることができないのです。
見えない神様の形状を、私たちの体に象徴的にすべて投入したというのです。目は誰に似たというのですか。神様です。それゆえに、顔の中で見れば、目は深い所にあるというのです。それで、すべてのものを観察するというのです。それから鼻は、アダムとエバを象徴します。これが中心でありセンターです。その次に、口は万物です。横的です。それゆえに、四掛ける八で三十二(四×八=三十二)、三十二の歯をもっているというのです。世の中の万物を中心として、四数を中心としてです。それから、耳は四方を象徴します。この首から上は天国です。天国の情報の場があります。
皆さんの生命の根はどこにあるのですか。堕落していない父母にあります。それでは、堕落していない善の父母の位置は、どのような位置ですか。神様が二性性相の主体であられるので、神様が自らの二性性相を展開して、神様の形状どおりに万宇宙を造って人間を造られたのです。
アダムは、神様の男性的性稟を展開させたものであり、エバは、神様の女性的性稟を展開させたものです。このように思う時、私たち一般の人々が普通「天のお父様!」というのは、一人のお方なのでそのように言うのですが、その一人のお方という概念の中には「天のお父様、お母様」という概念が含まれているのです。
もし人間先祖アダムとエバが堕落しなかったならば、どのようになっていたでしょうか。アダムとエバは神様と一体となり、神様と同じ位置に立って、神様の創造の偉業を受け継ぎ、神様が創造後に喜ばれたのと同様の位置に立つようになっていたのです。神様と人間との間にそのような関係を結ぶようになるのです。堕落していない本然の人は、神様の聖殿になるのです。
神様がお父様になり、人間は神様の息子になったとしても、お父様は上にいて息子は下にいる、上下関係のような気分がするというのです。その時に、私たち人間はどのように考えるのでしょうか。「お父様、お父様が座っていらっしゃるその席を私に一度下さい。私もお父様の位置に座ってみたいのです」という欲望が私たち人間にはあるというのです。
ここで神様が「なんだこいつ、駄目だ」と言えば、すべて壊れるのです。しかし、神様は、そのようにはできないのです。むしろ神様は、私たち人間がそのような欲望をもっているということを知っているので、「早くそう言いなさい、早くそう言いなさい」と言われながら、その席までも私たち人間に下さるのです。その席まで人間に与えて、神様は、私たちの心に臨在なされ、私たちの心を聖殿として定めていらっしゃるというのです。
心身一体になれば、宇宙の力が保護してくれます。宇宙の力が保護してくれる心と体になれば、父母も宇宙の因縁をもった父母、兄弟もそのような因縁をもった兄弟、このようにすべてが因縁を結んでいます。民族、国が因縁を結ばなければならないのです。素晴らしい結論です。ですから、国を越えて他の国に行っても、そのような一体圏を成すようになれば、そこでも通じるのです。どこにでも通じるのです。
サッカーをする時、ボールが転がっていって途中で止まれば、どのようになりますか。その表面全体が一つになることができる所は、垂直線に通じるのです。それで、球形体を理想的な存在だといいます。表面のどのような所でもその垂直線が安着することができます。それで、転がり回るのです。どこでもすべて良いために、そうなるというのです。それで、心身一体圏、九〇度になれば、どこでもすべて合います。西洋人と東洋人、過去の人と現在の人、未来の人を問わず、どこでもすべて合うのです。
本性の心が行くべき道を行けば、宇宙が一つになるのです。そのような何かがなければなりません。そのような位置に入っていけば、自分の心と話すようになるのです。そのような境地では心と話をします。何かをしようと考えれば、すぐに答えが出てきます。そのような境地まで行くのです。そのような境地にいる人が、自分の行くべき道を知らないでしょうか。既に行くべき道が明確で、宇宙のすべての作用の力が助けるようになります。手を引っ張っていって試験場に入っていくようになれば、すぐにすべてのものが協助します。それでこそ大きなことができるのです。
私たちが自然を見て、「ああ、私には四季は必要ない。私は春だけが必要だ、夏や秋や冬は嫌いだ」と言うことができますが、神様に尋ねてみれば、「私は四季のすべてが好きだ」と答えるというのです。それゆえに、嫌いでも夏を好むことを学ばなければなりませんし、秋と冬を好むことを学ばなければなりません。雪が降る冬になれば、神様は、白い雪が世界的に積ったのを見る時に喜ばれるのです。「ああ、私も良い」と言うのです。そのように言わなければなりません。
神様のような心で自然を見ることができなければなりません。そのような心をもたなければなりません。洪水が起き、雷が鳴る時は、「ああ、私はあれが嫌いだ」と言うなというのです。
神様は、「ハハー、あれはキスして結婚しているのだなあ」とこのように考えるというのです。そして、嫌いだという人々に「ハハハハ、こいつめ! 悪いやつめ!」と言われるのです。
知恵の王であられ、全体の中心であられる神様が、真の愛や、真の理想や、真の幸福や、真の平和の起源を、主体と対象、この両者の間のどちらに置かれるでしょうか。これが問題にならざるを得ないのです。主体がいる反面、対象がいるのですが、主体のために生きる道と対象のために生きる道、この二つの道の中で、理想の要件をどこに置くのかということが、創造主であられる神様として問題にならざるを得ないのです。
それで、真の理想、真の愛、真の平和において、主体を中心にして対象が主体のために生きるところに理想的起源を置くべきか、対象を中心にして主体が対象のために生きるところに理想的起源を置くべきかという問題を考えられた神様が、主体の前に対象が「ため」に生きなさいと言う立場にその理想的起源を立てるならば、神様がそのようにすると同時に、すべての人も、自分がある対象をもつことができる立場に立つならば、同じようにするというのです。それでは、一つになる道がふさがってしまいます。これを知らなければなりません。
一つになることができ、平和の起源になることができるその道はどこにあるのでしょうか。神様御自身だけでなく、真の人間は、「ため」に生きる存在だという原則を立てざるを得なかったのです。それゆえに、真の愛は「ため」に生きるところから、真の理想も「ため」に生きるところから、真の平和、真の幸福も「ため」に生きる位置で成立するのであって、「ため」に生きる位置を離れては探すことができないのです。これが、天地創造の根本だということを私たち人間は知りませんでした。
男性と女性が生まれたのは、男性は男性のために生まれたのではなく、女性のために生まれたのであり、女性は女性のために生まれたのではなく、男性のために生まれたのです。生まれたのは、自分のために生まれたのではないのです。自分のために生まれたのではないのに、自分を主張します。「私」というこの思想を壊してしまわなければなりません。これさえ壊してしまえば、統一の世界は展開するのです。
自らの価値を自分から追及するよりも、相対から、すなわち相対的基準でその価値を追及できる道を探求する人は、不孝な人ではありません。いつでもどこでも、心情の基台は相対圏をもつので、孤独ではなく、幸福になることができるのです。
調和というものは、一人で展開する道理がありません。楽しいということも、一人で展開する道理がありません。幸福もまた、一人で展開する道理がありません。絶対者だとしても、一人ではできないのです。必ず、自分に対応することができる相対的な条件がなければなりません。絶対者の前には絶対的な相対者がいなければならず、絶対的な主体の前には絶対的な対象がいてこそ、幸福や、調和や、喜びや、踊りや、歌というものがあるのです。
今日の既成教徒たちは、「全知全能の神様は元から栄光の中の栄光の主体であり、幸福の中の幸福の主体であり、すべての愛と生命の主体なので、それによらないものがない」と大声を張り上げています。しかし、いくら絶対者だとしても、絶対的な対象をもたなければ、仕方なく不幸になるのです。神様も絶対的な立場に立つことができる一つの対象を探せなければ、滅びるしかないのです。いくら絶対者だとしても、絶対的な対象をもたなければ、やむを得ず不幸だというのです。したがって、神様が滅びないためには、仕方なく相対的な存在を造らなければなりません。
3.被造世界は人間のための愛の博物館
(1) 被造世界を造られた意味
被造世界のすべてのものは、神様が愛する息子、娘が愛の理想を探し求めていくことができるように教材として造っておいたものです。それで、相対的構造なのです。鉱物も主体と対象の関係で作用し、原子も陽子と電子が主体と対象の関係で作用するのです。作用しなければ存続できないというのです。運動しなければ永続と存続はできません。それゆえに、宇宙は、人間を中心としてその中心点に到達することができるように創造された世界だというのです。
神様は万物をつくられ、その万物の主人公として人間始祖をエデンの園に造っておかれました。人間を造られる時は、神様が何かふざけて造られたのではありません。趣味で造られたのでもありません。人間を造られ、万物を代表する中心として立てるようになる時までの神様の苦労と精誠は、到底言い表すことができなかったという事実を私たちは知らなければなりません。
神様が人間を造られる時、あらゆる精誠をすべて尽くされ、また心血と御自身の生命の核心をすべて注いで造られ、ありったけの愛と愛情を降り注いで造られました。どのような力を用いて離そうとしても離すことができず、分けようとしても分けることのできない因縁の中で造られたのです。このように造られた人間なので、その人間を御覧になる神様には、平和が宿ることができ、すべての情と幸福は、その人間を通してこそ宿ることができるのです。
神様は人間のお父様であり、人間は神様の息子、娘です。神様が骨の中の骨、肉の中の肉、骨髄の中の骨髄をありったけ施して造られた人間なので、このような人間が神様を引けば、引かれざるを得ないのであり、また神様が人間を引き寄せてくだされば、引き寄せられざるを得ないのです。
神様は、このような因縁の中で、内容と目的が一致する人間に造られたのです。もしそのように造っておかれた人間を御覧になって、神様が称賛することができるあるみ言や詩があるならば、それは世の中のどのような詩人も、文人も表現できない最高の作品になるはずです。その対象は、神様でもなく、万物でもない、唯一、万物を代表した人間なのです。
宇宙は何ですか。神様の体と同じです。見える体と同じです。神様の分身です。それゆえに、私が本当に愛することができるという観念が成立します。宇宙を愛するということが実感できるというのです。自身の頭もこのようになでてあげたりします。服も何かがつけばはたきます。それは、なぜそのようにするのですか。私のものだからです。私と共にあるので、そのような観念があるというのです。皆さんが今後どのようにしなければならないかといえば、心の中に神様をお迎えして、心が一つになり、体が一つになり、万物が一つになって、このような統一の世界を成し遂げなければなりません。
宇宙がどれほど大きいかというと何億光年です。光が一秒間に三十万キロメートル進むのですが、三十万キロメートルとは、地球を七周半回ることができる距離です。その距離を一秒間で走る光が一年かかって行く距離を天文学では一光年といいます。そのような光年を単位として出発した光が、何億光年になってもまだ到達できないほど大きいのです。グリニッジ天文台では、今まで百億光年向こうの世界の星まですべて発見したのですが、今ではもう百五十億光年向こうの世界の星も見ることができる時代が来て、それ以上の時代に入っていっているというのです。
この宇宙がどれほど大きいかといえば百億、大体二百十億光年です。これは、原理的な数です。そのように大きいというのです。それがどういうことかというと、光がここから出発し、それが一日かかるのを一光日、一カ月ならが一光月、このように出発して一秒間で三億メートル、光の速度で三億メートル行きます。距離で言えば、地球を七周半回る距離です。七周半にもなる距離です。ぱっといったら、既に七周半を回るというのです。そのように早い光が一日でも腰が曲がって、考えが鈍って「私は分からない」というはずなのに、百年でもない百の何万倍にもなる一億光年です。出発してから一億光年たってもまだ進んでいるのですが、人が百歳生きるとすれば、合わせて百万人が死んでいきます。一億光年のうちにです。一億光年なので、人が生まれて百年生きて死んでいくのを続けて、百万人目が死ぬその時になっても、まだ進んでいるのです。
では、二百十億光年といえばどのくらいですか。その人々が続いて生きて死んで、また生きて、百歳まで生きて、このように二億一千万人が生きて、それほどたっても、まだ進み続けるというのです。その遠い距離は、直線で行くのではありません。これがぐるぐると回っているのです。このような宇宙だというのです。
(2) 万物世界は人間のための愛の教材
真の愛の基準から見れば、アダムとエバは、ペア・システムで造られた愛の自然園を見ながら、学び成長するようになっていました。育ってどのようにしなければならないかということは、つくっておいた万物を見れば、すべて分かるようになっていました。万物が正に神様の博物館です。アダムとエバを教育する愛の博物館です。鳥も雄と雌、蝶々も雄と雌、すべてがペアで生まれて、愛し合いながら繁殖して生きていくのを見て育つようになっています。
このように成熟して神様の愛を代表したプラス的王子が男性であり、マイナスを代表した愛の王女が女性であるということを悟るようになっていました。女性が考えるに、「あの男性が正に私に必要な男性なのだなあ!」と信じるようになり、男性もやはり女性に対して「本当に私に必要な女性だなあ!」と思うのです。
真の愛の基準から見れば、アダムとエバは、ペア・システムで造っておいた愛の自然の園を見ながら学び、成長するようになっていました。鳥も雄と雌、蝶々も雄と雌、すべてがペアで生まれて、愛し合いながら繁殖して生きていくのを見て、人間は成長するようになっています。
少年時代から育って、青少年時代に行くのです。思春期になってここから学び始めるのです。皆さんもそうです。赤ん坊の時は何も分からないので、「お母さん、これは何ですか」「お父さん、これが何ですか」、このようにして知っていかなければなりません。そして、男性は男性に対してすべて知ってみると、世上万事がペア・システムになっています。「やあ、動物世界もペアがあって、昆虫世界もペアがあって、ああすべてがそうなのだな! 花の世界もそうで、鉱物世界もそうだ」。それをすべて学ぶのです。「そうだ、主体と対象になり、このようになって、このようになるのだなあ! 気がついてみると、私が行くべき道はこのように求めていかなければならないのだなあ! ああ、これではないな!」と知るようになるというのです。
アダムとエバは、成長しながら世の中を学んでいきます。二人の息子、娘が大きくなりながらじっと見てみると、世の中はペア・システムで造られた博物館です。愛の博物館です。これを見ながら学ぶのです。「やあ! 彼らがあのように愛し合っている。はえも雄と雌、蝶々も雄と雌、すべてペアが戯れている。それから、愛し合って繁殖している!」、それを学んだでしょうか、学ばなかったでしょうか。
天地をペア・システムで造ったのは何のためですか。これは、愛の博物館です。それ以上に、あなたは鳥よりももっと幸福に、昆虫よりももっと幸福に、あなたはこの世の何よりももっと幸福に生きなさいというのです。
この世の中のすべての被造物は、ペア・システムになっています。ペア・システムになっているこの環境は、人間のための理想的愛の博物館です。それゆえに、鉱物世界が作用するのもペアを求めてするのです。また、草木もペアを求めて運動するのです! 繁殖するのです! 鳥もそうで、昆虫の中でうまおいむしもそうです。うまおいむしも歌いますね。
神様が万物世界を造られる時にペア・システムで造られたので、男性と女性を中心として、そこにすべての要素を抱いてもっています。自然は何ですか。男性と女性が愛することができるように、愛を教示するために造った博物館です。
それゆえに、男性が愛する妻を慕わしく思いながら歌うようになる時、何の歌を歌うにしても罪ではありません。堕落すれば罪になるのです。愛の問題によって家庭が破綻して天理原則がすべて壊れていったがゆえに罪なのであって、天理原則の基盤の上でお互いに愛して、「私はあなたを真に愛する。永遠に愛する。あなたは私の永遠の相対である」と言うのは罪ではありません。これをはっきりと知らなければなりません。
ペア・システムで造られたこの宇宙は、愛の神様が創造された博物館です。生きた博物館です。国立博物館にある骨董品のように死んでいる、主人のいない記念物ではありません。生きた記念物です。
真の神様がいらっしゃるのですが、その方を通して造られたすべてのものは、理想的愛の条件を備えることができるように主体と対象関係になっているのです。それゆえに、この宇宙のすべての被造物は、ペア・システムになっています。鉱石も夫婦同士になっています。夫がいて妻がいます。
それゆえに、二つがお互いに引き合うではないですか。そのような話を初めて聞いたでしょう? 実験室の先生が完全に暴君となり、自分に合わない元素をいくら激しくくっつけようとしてもくっつきません。神様が「しなさい」と言われてもしません。しかし、相対が合えば、「くっつかず一つになるな」と言ってもくっついてしまうというのです。ですから、すべてがペア・システムになっているというのは、神様の愛のためだというのです。
小さな昆虫も、愛を中心としてペア・システムになっているということを知らなければなりません。鉱物世界も同じです。何のためにですか。愛ゆえにです。級が低ければ低いなりに愛を中心として繁殖し、この人間とこの宇宙が人を通して神様の理想を完成することができるように、すべての体制にギアが連動して回るようになっているのです。
エデンの園に展開しているすべてがペア・システムになっているので、アダムも自然にそれを見て、「やあ! 私も雄のような男性だが、私も雄のようにできているが、雌のようなものがどこにいるのか」と探すと「エバだ!」、このようにして二人が結婚式をするのです。「雄、雌があのようにすれば子を産むのだなあ」というのです。女性は、嫁に行くことは嫌でも、赤ん坊は好きな女性が多いのです。
エデンの園のすべてのものがペア・システムになっていたので、動物が繁殖して「雄と雌が楽しい環境をつくっているな」、このようにして愛というものを学んだというのです。ですから、アダムとエバも「二人が会わなければならないな」と考えるのです。昔、アダムとエバが育つ時、どれほど複雑ですか。男性はワイルドで山に登って飛び回るのに、女性は毎日座って見物して、おもちゃで遊んでいたのです。このように性格が違うのですが、このような環境から学んで自然的に相対を訪ねていくようになっています。
気がついてみると、世の中がペア・システムになっているのですが、アダムとエバも一人ではいけないというのです。動物世界のしかも牛もすべて雄と雌がいて、お互いに好んで子を産むのを見るようになります。それで、アダムとエバも動物世界の昆虫から鳥と蜂と花までもそのことをしているので、教えてあげなくても知っているというのです。
皆さん夫婦は、双子で生まれた兄と妹です。エデンの園のアダムとエバと同じです。そこでは妹一人しかいないのです。世の中に友人もいなくて一人娘です。エデンの園に女性一人しかいなくて、男性一人しかいないので、間違いなくアダムがエバの友達になってあげなければなりません。兄と妹だというのです。
それで、大きくなって万物のすべてのペア・システムがどのように繁殖して育つのかということを知り、世上万事をすべて知るようになったので、自分たちも歴史の伝統を残すためにこのように愛を行わないといけないとして夫婦になるのです。歴史のために、人類のために夫婦になるのです。
アダムとエバが生まれた時は、相対に、子女になっていましたが、兄弟の因縁の中には相対がいませんでした。相対がいないでしょう? 女性は女性一人で教育を受けて女性完成しなければならず、男性は男性一人で教育を受けて男性完成をしなければなりません。その教育を受ける材料は、天地間にいくらでもあります。すべてのものがペア・システムになっているので、男性はそれを見て、「あのように大きくならなければならないのだなあ!」ということを知り、女性もそれを見て、「あのように大きくならなければならないなあ!」と自ら知るようになるのです。愛に対するすべての教材を、すべての自然が博物館のようにそのまま見せてくれています。自然はすべてペアになっているというのです。
縦的な基準には相対性が移されてこなければなりません。この縦的な基準には相対がいるのです。そして、この息子、娘が大きくならなければなりません。成熟しなければなりません。万物世界を見れば、すべてペア・システムになっています。鉱物世界も同じであり、植物世界も同じであり、動物世界も同じです。人間世界もすべて男性と女性のペア・システムになっています。自然世界というものは、級は低いのですが、ペア・システムになった愛の博物館です。それでは、愛の博物館をなぜ造りましたか。誰のために造ったのかというのです。人のために造り、神様のために造ったのです。それゆえに、神様は、万物のすべての愛の感触、鉱物世界や植物世界や動物世界の愛の感触というものをすべて感じることができるのです。
男性と女性がこの道を行くにおいて、この時までは相対がいないのです。それで、男性として女性をもらわなければなりません。すべてペア・システムで子を産んで暮らすことを見るのです。春になれば、牛もそのようにし、豚もそのようにし、犬もそのようにし、猫もそのようにし、ねずみもそのようにし、いなごもそのようにするのをすべて見るのです。「ああ、そのようになるのだなあ! 一人はいけないのだなあ!」、このように目覚めることを目が開くといいます。その方向が、今までこのように四五度で、「ああ、私が必要なのはアダムだな!」と思い、「私が必要なのはエバだな!」と思うのです。そうですか、そうではありませんか。
環境には、必ず主体と対象があり、ペア・システムになっています。この宇宙は、愛を核にした博物館です。ペアの博物館になるのです。それゆえに、二羽の鳥がお互いに喜びながら一生懸命に巣を作り、子を産んで、食べさせるのを見ながら学ばなければなりません。「自分の子のためにそれ以上、何百倍しないと」、このように思わなければなりません。虫たちも雄雌二匹が愛して子を産むのです。彼らも自分の命を懸けて子を育てようとします。教育です。
アダムとエバが成熟するにしたがい、ここで横的に回ってアダムが自分の相対だと思い、エバが自分の相対と思うようになるのです。そうではないですか。女性として言うならばどうですか。アダムは、外交的に歩き回ろうとします。ハンティングもして、どこに行っても握ってつかまなければなりません。エバはどうですか。エバは、根本の性格が違います。このようにしながら大きくなり、女性として知るべきこと、男性として知るべきことを知るようになるのです。すべて世上万事全体がそのようになっています。鉱物世界も植物世界も動物世界も、すべてペア・システムになっているでしょう? それを学ぶのです。大きくなりながらじっと見てみると、何を見てもすべて相対的です。ですから、我知らず学ぶのです。
誰が愛を教えてくれるのでしょうか。自然が教えてくれるのです。園に走る動物を見ても雄と雌、蝶々を見ても雄と雌、すべてペア・システムになっているというのです。花が咲けば、美しい園には鳥がピーチクパーチクしきりに鳴いています。鳥がなぜしきりに鳴きますか。雄の鳥と雌の鳥がしきりに鳴くのは何のためですか。何を呼ぶためなのですか。鳥がしきりに鳴くのには三つの理由があります。一つは空腹で鳴くのであり、一つは愛ゆえに鳴くのであり、一つは子を呼んでいるのです。その三つの理由です。それは愛ゆえにそうなのです。
標準的なアダムとエバの相対圏に立つために、自分たちもその形態として準備されなければならないので、この宇宙の創造物はペア・システムになっているというのです。ペア・システムで存在しているというのです。アダムは大きなプラスであり、万物は東西南北に広がった小さなプラスです。それゆえに、すべて相対的になっているのは人間も万物も同じです。人間と万物が、共通した絶対的主体圏を中心とした基準において平面を成すようになれば、神様が垂直に臨在されるようになるのです。
すずめがちゅんちゅん鳴いて目を覚まさせてくれることが、自分で起きるよりどれほど素晴らしいですか。どれほど詩的ですか。皆さんは、自分が歌うのが良いですか、歌を聞くのが良いですか。それは、またどれほど詩的ですか。自分がちゅんちゅん、ちゅんちゅん鳴くよりも、第三者がちゅんちゅん、自分で起きるより愛する人が目を覚まさせてくれるということです。そのように、調和の音律によって声を変えながら目を覚まさせてくれるのが理想的ではないかというのです。ですから、すずめも私の友人です。友人であるそれは、何がそのようにさせるのですか。ペア・システムから見る時、それが私の友人になるのです。男性と女性ともペアです。友人だと考える時、どれほど詩的ですか。
世の中のすべてのものがペア・システムとして繁殖するようになっているのを見る時、アダムとエバも成熟すればそのようにしなければならないことを知るのです。成熟する前は、アダムとエバはそれを知りませんでした。アダムとエバが二人で暮らしているのですが、この二人の性格を見れば、アダムは男性的で外交的です。朝起きれば飛び出していき、山に行ってうさぎを捕まえたくて、きじを捕まえたくて、しかを捕まえたくて、蛇を捕まえて割いてみたいというのです。今後、主人となり管理しようとするなら、すべて管理できる責任者になるためにはすべて知らなければならないというのです。山に何がいるのか知りたくて、動物は何がいるのか知りたくて、水にはどのような魚がいるのかすべて調べてみようとするのです。男性なので、主人になろうとすれば、何でも調べなければならないというのです。
今日、歴史を開拓した人々は男性たちです。くまなく探して、ときめくためです。男性は神様の代身なので、すべての自然万物の博物館の館長です。男性は、愛を中心として展開したペア・システムの世界、博物館の館長です。館長なので、すべてくまなく探さなければなりません。ですから、女性が嫌うのです。「ああ、兄さん! 私を捨ててどうして。私を連れていってちょうだい。私は脚が痛くていけない!」と言って、ついていきながら、エバがどれほどアダムの心をめいらせたでしょうか。そのように、エバに黙って歩き回るので事故が生じたのです。
主人が子犬にひもを付けて連れて歩き回るように、エバをそうしなければならないのに、あまりにも泣くので投げ飛ばしたのです。その時、孤独だったので、天使が来て慰労したのです。「あのアダムは暴れん坊だ。何が楽しくて一緒に暮らしているのか。私と遊ぼう!」、このようにして問題が生じたのです。
神様が喜びを感じながら創造されました。それは、どれほど楽しかったでしょうか。ペア・システムをつくったので、細胞までもペアになって喜んでいるのを見る時、どれほど楽しかったでしょうか。写真に撮ったものだけでも、よく写っていればのぞき込んで「良い」と言うのに、写真がしゃべって踊っているのですから、どれほど良いだろうかというのです。
男性と女性を神様が造られ、抱いて育てていくにおいて、僕である天使長をつくって彼らを保護して育てるようにしました。それで、彼らがすべて育って成熟すれば、神様が結婚させてあげようとしたのです。その時までは成熟しなければなりません。
そのために、生まれてから分かれて、男性は男性として育ち、女性は女性として大きくなっていくのです。大きくなって成熟した男性と女性になり、世の中をじっと見てみると、鉱物世界も動物世界も植物世界も、すべて相対理想、ペア・システムになっているというのです。「あ! 動物たちも二つが一つになってあのように子を産んで幸福に生きている。やあ、お母さんは子を育てるために自分の命を捧げてでも保護する。私たちもあのようにしなければならない」、このようにすべて見て学ぶのです。それで、アダムとエバの理想的発達のための展示的博物館だというのです。
真の愛圏の深い境地に入っていくようになれば万物と通じるのです。岩にも通じるのです。真の愛の世界は、通じないものがないのです。なぜですか。ペア・システムになっているのは、神様に属することができる愛と因縁をもって、一つになるための作用をするためです。
真の愛は共鳴するようになっています。そのような真の愛圏内に入っていくようになれば、神様の内的な世界と外的な世界を感じることができるのです。それゆえに、誰が教えてくれなくても霊界を知ることができ、神様が分かって、この地で父母にどのように侍らなければならなくて、また国にいかに仕えなければならないかということなど、すべてのことを自然に知るようになるのです。愛が行く道は、いい加減に行くようにはなっていません。公式になっています。愛が行く道は一つの道しかありません。真の愛が行く道には、二つの道はないのです。人間として行く真の愛の道や天の世界、神様として訪ねてくる真の愛の道は、いつも一つの道です。天が降りてくる時は、人間が上がっていってこのようになります。
それでは、これがどこで会わなければならないのですか。ここでしか会うことができないのです。最高に成人した位置がこの位置です。この位置は同じ位置です。この二人が一つになろうとするなら、どこで会わなければならないのですか。この位置で会わなければなりません。この位置しかないのです。この点で会わなければなりません。
愛の理論を話してみると、それが解けない理論がありません。知識の中の王の知識です。愛を探してみると、このすべての被造世界がペア・システムになっていることを知りました。鉱物世界もプラスイオンとマイナスイオンによって成っているでしょう。ペアです。それは何のための相対ですか。その級に該当する愛を中心として、愛ゆえにそのように生まれるのです。それでこそ繁殖が展開するのです。
動物世界もすべて雄と雌、人も男性と女性です。それはなぜ生まれたのですか。女性のために愛が生まれたのでもなく、男性のために生まれたのでもありません。「男性と女性が愛ゆえに生まれた!」このようにならなければなりません。その命題を否定する邪悪な者たちは、地獄の一族であり、破壊の一族です。