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宇宙の根本
第二章 人間創造と愛の理想の完成
三、神人一体と愛の理想完成
1.神様と人間が出会う愛の決着点
宇宙の愛の根本はどこでしょうか。神様です。神様の愛がどこに行って結合するかというときには、ここで論理的整理をどのようにするのかが問題です。神様がアダムとエバを造られて、二性性相を分立し、中和的存在になろうとするなら、何を中心として中和的存在になるのでしょうか。愛を中心として中和的存在になるのです。格位においては、男性的主体格をもったというのです。何を中心としてですか。愛を中心としてです。それを知らなければなりません。
それでは、神様はどのようになっていますか。アダムとエバは、二性性相の主体なので、体は蘇生であり、心は長成です。そして、この心の中に神様が臨在しようとされます。それでは、アダムとエバの体と体が一つになり、心と心が一つになり、そうなれば心の一番底にあるものが一つになるでしょうか、ならないでしょうか。それは何ですか。神様が一つになるでしょうか、ならないでしょうか。神様は、どこで一つになるのですか。愛のために造られたのなら、神様がどこで人間と共に結合されるのですか。その場はどこですか。愛の場所だというのです。
統一教会の「原理」では、神様は無形の絶対的主体として、二性性相の中和的主体としていらっしゃる方だといいます。二性性相でいらっしゃる神様御自身の分性的実体としてアダムとエバを造っておかれ、彼らが成人して愛を中心として横的に連結するようになる時、縦的な立場で中心になろうとされたのです。それは何の話かといえば、アダムとエバが成熟すれば、神様の男性性稟はアダムの心の中に、神様の女性性稟はエバの心の中に入っていくというのです。かといって、神様が分かれるのではありません。そのような二性性相の主体としていらっしゃる神様なので、アダムとエバの心の中に臨在することができるというのです。
成熟したアダムとエバが、お互いに愛の因縁を結ぶことができるその時になれば、神様は二性性相になっているために、男性性相はアダムに臨在し、女性性相はエバに臨在するのです。神様が私たちの心と体の中に臨まれ、神様が結婚式をするのです。
中央線は、その距離がすべて同じであり、角度がすべて同じです。長さがすべて同じです。そのようになれる中央の水平線は一つしかないのです。二つではありません。垂直も一つであり、垂直の中心点も一つであり、水平線が交差する中心点も一つです。その一つの位置に初めて神様の愛、軸の愛が連結するのです。
そこで一つになってぶつかる日には、三六〇度、四方に行くすべての力の作用がこの点を経るのです。このような愛の力が爆発すれば、男性と女性は完全に一つとなり、その中に神様が入っていかれるのです。神様は二性性相になっているでしょう? 「原理」で論じている二性性相の主体としていらっしゃる神様は、どのような方ですか。二性性相の神様であると同時に、二性性相の中和的主体としていらっしゃいます。その主体の本質は何ですか。愛だというのです。絶対的愛だというのです。
二性性相の実体圏は、真の愛により、神様の相対として立って神様に帰るのです。正、分、合です。一つだった性相と形状が分かれたのち、実体として再び会う、それがアダムとエバの祝福です。ここに神様も来て一つとなり、男性と女性も一つとなって、ここですべて統一されるのです。これが先生の偉大なみ言です。神様がこのように近いというのです。自分の心の底にいた神様を知るようになった、それ以上のことはありません。何の話か分かりますか。神様のその命令に従って、生涯、間違いない勝利の道を行かなければなりません。
神様は、二性性相なので、神様の男性性相がアダムの心に入ってくるのです。それで、神様が内的な父になられるのです。神様が内的な父の位置に入ってこられるのです。コリント人への手紙を見れば、「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか」(コリントⅠ三・一六)とあります。私たちの体は「神の宮」と言っています。私たちの体は神様が臨在することのできる「神の宮」だと言ったのです。その「神の宮」という言葉は正しいというのです。神様が二性性相の主体としていらっしゃるために、アダムは神様の男性性格、見えない性格を見える性格として現した存在です。ですから、アダムは実体として現れた神様の体です。無形の実体が有形に実体化して、人類の父として立っているアダムの背後で、内的な父の立場に立つべき方が神様でした。何の話か分かりますか。
本来、堕落していなければ、神様はアダムとエバの中に臨在することができたのです。二性性相の形状と性相の本体であられる神様は、その性相と形状の相対がアダムとエバなので、その心の中に入っていくようになっていたのです。入っていって、神様とアダムとエバが心身一体圏を成すのです。神様が、堕落せずに完成した人間の心のような立場になり、人間は神様の完成した体のような立場になって心身一体圏に立ち、アダムとエバと共に結婚式をするのです。その結婚式は、実体的、平面的で、横的にはアダムとエバの結婚式ですが、それが縦的には神様の結婚式になるのです。
アダムとエバは、いったい誰ですか。その位置が私たち人類の横的な理想の愛を中心として和合する位置であり、九〇度を合わせる位置であり、焦点を設定する位置です。その位置もまた、この前後、左右、上下、どこに合わせても合います。そのことは何を意味するのでしょうか。神様は、二性性相の主体であられるので、その愛の焦点を合わせたアダムとエバの心の中に神様が入ってこられ、堕落していない人間の先祖の結婚式が神様の結婚式になるのです。
アダムとエバは、見えない神様の二性性相として来たのです。見えないお二人が、一人の方のような位置に立っているのです。真の愛を中心として一つになっているというのです。そのようになっているものが男性格位と同じようになっているので、その男性格位に対して相対的立場に立った息子、娘を再現させて、彼らが成長し、愛を中心として夫婦になる時、上にいらっしゃった神様がその位置に共に降りてこられるのです。それは、一つは見えない父母の位置に立ち、一つは見える父母の位置に立って、愛して一つになるためなのです。
神様は何をもっているかといえば、男性的性稟と女性的性稟をもっていらっしゃるというのです。二性性相の主体という言葉が出てくるのです。それで、統一教会は、「二性性相の主体が神様である」という素晴らしい結論を下すのです。見えないものがプラスであり、見えるものがマイナス的父母です。見えない父母が原因的であり、見える父母は結果的です。ゆえに、愛を中心として一つになるのが父母の位置ですが、神様は見えない父母であり、これは見える父母です。これは何かというと横的父母であり、これは縦的父母です。
一つになった男性と女性は、神様の愛と和して一つになった統一的な立場であり、一つは東方、一つは西方です。この宇宙を代表した一人の男性と女性は、二性性相の総性です。それは避けられないのです。彼らが統合するという事実は、この宇宙に神様の愛が結合できる中心軸が生まれるということです。
神様を発見できるところとはどこでしょうか。今日、祈祷をして修行に励み、いくら宗教を信じてみたところで、神様を発見することはできません。真の神様の愛を発見できないというのです。神様なら神様も、男性なら男性も二性性相になっています。内的・外的、二性性相だというのです。プラス・マイナスになっているのです。そのような意味で、ここには完成した男性と神様が関係しているのであって、それ以外には、息子もなく、何もないというのです。
エバは、霊的な面において神様の妻です。アダムの中に入っていき、エバの中に入っていって神様が愛そうとされるというのです。二性性相に分立し、愛を中心として一つにして、四方をすべて愛だけが連結させることができるのです。神様と人間関係は、そのようになっています。神様は、内的な私です。ところが、二性性相の分立的な立場にいるために別々の存在だというのです。それは、なぜ分立したのでしょうか。愛をより刺激的に感じるためなのです。刺激的でありながら、位置を移動するためであり、また環境を変更させるためなのです。位置を変化させるので、繁殖が展開するのです。縦的な神様だけでは繁殖することができません。縦的な位置は一箇所であって、二箇所あり得るでしょうか。
女性をよく見れば、そこに新郎が一緒に存在します。一体となるというのです。神様がそうでしょう? すべてのものは、二性性相をもっているのと同様に、二性性相が成されるのと同じように、結局は神様に帰るのです。真の愛を中心に一体になれば、神様の友達になります。神様が彼らの中へ入っていくのです。女性の中心は男性です。女性は男性の相対圏に立っているために、男性を中心に回るのです。女性が男性を中心に回るというのです。女性を中心に回るのではありません。男性が中心に立つようになれば、女性は自然に男性を中心とするようになるのです。
神様が父になるためには、血筋が関係しなければならず、生命が関係しなければならず、愛が関係しなければなりません。二性性相の神様が、愛を中心として一人で心で喜んでいたことを別々に分け、東西南北、自然全体がペアで和動する世界において中心的主人の形態を備えるために展開したものがこの世界です。それで統一教会では、「正反合」ではなく「正分合」だというのです。
神様は二性性相になっているでしょう? 結婚式をすればどのようになるのかといえば、神様の女性性相はエバに入ってき、男性性相はアダムに入っていって一つになるのです。別の言い方をすれば、アダムとエバは実体をもった神様の体であるということを知らなければなりません。そのようになれば、神様は、アダムとエバの内的な二性性相に入っていかれて愛で一つになるのです。そのようになれば、そこから神様の血統を受けるようになります。
神様は、どこに入っていかれるのですか。神様は、アダムの心の中に入っていき、エバの心の中に入っていかれるのです。二性性相でしょう? この二つが一つの根を中心として入っていって打ち込まれるのです。そして、息子、娘で連結されるのです。愛で連結して、心と体を中心として、霊を中心として根を合わせて、ここから生まれた愛の息子、娘が地獄に行くでしょうか。誰かが勝手にできません。絶対的な体、絶対的な心、絶対的な霊、絶対的な男性、絶対的な女性が、絶対的な神様の愛を中心として、生命の起源であり、愛の起源であり、血筋の起源である生殖器を中心として統一が展開するのです。
神様とアダムとエバは、いったい何でしょうか。アダムは何であり、エバは何でしょうか。堕落せずにアダムが完成すれば、神様がアダムの中に入られ、エバが完成すれば、神様がエバの中に入られ、神様の二性性相が分立された分立実体相に入っていかれて、分かれたものを再び一つにするのです。何を中心として一つになりますか。力をもって一つになるのではありません。愛をもって一つになるのです。そこから刺激が起き、そこから繁殖が展開されるのです。理想世界の繁殖が展開されるのです。
はっきりと知らなければなりません。このようなことは図書館にもない話です。これは、初めて文総裁によって天国の図書館に記録されて保管されるというのです。うそではありません。妄想的な話ではありません。神様は誰かといえば、縦的な父です。堕落していないアダムとエバは横的な父母です。神様は、二性性相で存在するすべてのものの縦的な父母です。そして、アダムとエバは横的な父母になるのです。それでは、彼らはどこで出会うべきでしょうか。真の愛は直短距離を通るのです。
2.神人愛理想の根本原理
(1) 神人一体をどのように解明するのか
先生が最も苦心したこととは何でしょうか。神人一体をどのように形成するのかという問題です。理論的にどのように説明するのかというのです。これが解明されなければ、理論的体制が定着できません。人間の愛の根本的位置が設定されなければ、すべてのものがずれていくのです。
神様の愛と人間の愛が問題になります。神様の愛と人間の愛は、色が同じか違うかという問題です。大きな問題です。神様の愛と人間の愛がどこで結びつくのでしょうか。これが結びつかなければ、神人愛一体の拠点を見いださなければ、神様も人間も共に定着できないのです。神様が喜ばれるので人間も愛を通じて喜ぶ、そのような場が異なる場合には大変なことになるというのです。
先生が根本問題を追及する時、神人一体圏はいったいどこなのかを、ずーっと考えました。これは重大な問題です。これを解決せずには、出発点と終結点が合わないのです。そのような中で、雷のようにぴかっと悟りがありました。真の愛は直短距離を通るというのです。その一声がすべてを解決しました。天地が真の愛で連結するならば、直短距離を通るというのです。言い換えれば、垂直は一つです。水平に対して九〇度以外にはありません。これは最高の直短距離です。
結婚は、なぜするのですか。愛を完成するためにするのです。横的に左右、東側と西側を男性と女性だとすれば、その男性と女性の真の理想というものは直短距離を通るので、直面に対して横的な愛の直短距離というものは中央に一点しかありません。これは、九〇度以外にはありません。これがこのように横になれば、楕円形になるのでいけません。すべて同じではありません。平等な位置にすべてが同じ基準として立つのは、九〇度以外にはありません。神人一体にする愛の結集場所というものは、九〇度以外にはないのです。
「神様は縦的な父」という言葉が出てきます。真の愛を中心として神様は縦的な父であり、アダムとエバは真の愛を中心として横的な父母です。縦横が九〇度で定着するのです。これが宇宙の根本です。結局は、神様が結婚式をするために人間を造られたというのです。神様の愛のために創造されたというのです。このように解明することによって、すべての根本的な難問題が解決されるのです。
文総裁が宇宙の根本を追求していくときに最も苦心したのは、愛がどのように動き、どのように定着するのか、という問題でした。愛は直短距離を通るという、この一点を解明することによって、すべてのことが解決されるのです。愛が上から来るとすれば、天が高くて地が低いので、真の愛が天から地に訪ねてくる時にどのような道を通ってくるでしょうか。最大の直短距離なので垂直です。これは垂直一つしかありません。直短距離です。愛が一番早く、直短距離を通るという時に、天上世界と地上世界の接着地は、完全水平の中の一点しかないというのです。二つではありません。絶対的に一つです。
アダムとエバは、見えない神様の二性性相として来たのです。見えない二人が一人の方のような位置に立っているのです。真の愛を中心として一つになっているというのです。そのようになっているものが男性格位と同じようになっているので、その男性格位に対して相対的立場に立った息子、娘を再現させて、彼らが成長し、愛を中心として夫婦になる時、上にいらっしゃった神様がその位置に共に降りてこられるのです。それは、一つは見えない父母の位置に立ち、一つは見える父母の位置に立って、愛して一つになるためなのです。
人間が完成すれば神性をなして、天のお父様が完全なように完全で、神様的価値をもつのです。神様は絶対者ですが、真の愛の理想は一人で成し遂げることはできません。愛の理想は必ず相対を要求するためです。
私たちはここで、神様の真の愛と人間の真の愛の出発と完成が、お互いにどのような関連をもっているのかを知らなければなりません。万一、神様が真の愛の絶対的な対象体として人間を立てず、ほかの方法を通じて御自分の真の愛の出発と完成をなそうとされたなら、どうなるでしょうか。神様と人間の真の愛の理想は、各々動機が異なるようになり、二つの愛の方向と目的は異ならざるを得なくなります。
アダムとエバは、いったい誰ですか。その位置は、人類の横的な理想の愛を中心として和合する位置であり、九〇度を合わせる位置であり、焦点を設定する位置です。その位置もまた、この前後、左右、上下、どこに合わせても合います。それは何を意味するのでしょうか。神様は、二性性相の主体であられるので、その愛の焦点を合わせたアダムとエバの心の中に神様が入ってこられ、堕落していない人間の先祖の結婚式は、神様の結婚式になるのです。
人間完成の出発点はどこですか。これは、神様にも最も貴く、人間にも最も貴く、この宇宙のすべての存続の根源になることができるのです。創造当時のあらゆる要因の根本になることができるのです。それは愛です。愛のために生まれたというのです。その愛はどのような愛ですか。真の愛です。その真の愛には、目や口や五官が離れることはできないのです。それを中心として回るようになっていて、それに従って往来し、上がっていくにもそれに従って上がっていき、降りてくるにもそれに続いて降りてくるようになっているというのです。それゆえに、私たちの五官を一つの焦点に結びつけることができるのです。その力とは何ですか。お金でもなく、知識でもなく、権力でもないのです。それはただ愛しかありません。そうではないですか。
縦横がどこで一つにならなければなりませんか。天地合徳がどこで展開するのでしょうか。縦的な基準の前で展開するのです。愛が行く道は直短距離を通ります。これがどこで定着するのかという問題が、非常に苦心した問題でした。宇宙の根本を解明するときに、縦的な愛と横的な愛があるということを知りました。
なぜ知ったのでしょうか。垂直にさっと上がっていくことができません。そのようになれば、私が全く身動きせずにぴたっとここに立たなければなりません。そこを離れて縦的に愛すれば、私がぴたっとこのようにならなければなりません。これがどこに行って回るのかというのです。回ることができないのです。このような問題、どのように連結させるのかという問題、天地の愛があれば、その愛はどのように合徳するのかという問題が、大きな問題でした。しかし、一つ知ったこととは何かというと、愛は直短距離を通るということでした。
神様が願われることも、真の愛による神人一体です。神人一体、神様と人との一体圏です。神様が喜ばれる理想の基準と人間が願う基準がずれれば、大変なことになるのです。真正面で一体にならなければなりません。水平に一体になり、垂直に一体にならなければなりません。これを前後左右九〇度に合わせれば、上弦と下弦と右弦と左弦、十二箇所をすべて九〇度の角度で、どこに合わせてもぴったり合うのです。
神様の愛と人間の愛がどこで一つになるのかという論理を、今まで誰も分かりませんでした。これが分からなくては、天のお父様という言葉は荒唐無稽です。関係ない言葉です。アダムとエバは神様の何ですか。体です。それゆえに、アダムとエバが名づけるとおりになるというのは、どのような意味ですか。その体に神様が入っていってつけられるのです。完成すれば、男性の心の中には神様の性相が入り、女性の心の中には神様の形状が入っていくのです。アダムとエバの実体結婚式は、神様の結婚式なのです。霊界に行ってみれば、それをはっきりと知ることができます。知ることができないこのような理論が、すべてあてはまるのです。それゆえに、皆さんが神様の愛を占領してこそ、その欲心がいっぱいに満たされ、「もう、いっぱいだ」と言うのです。
神様は、愛の根であり、生命の根であり、血統の根であり、地上天国と天上天国の根です。アダムとエバが結婚する時には、神様がアダムとエバの心に入っていって一体的愛をなすのです。神様は縦的な真の父母であり、アダムとエバは横的な真の父母です。そのような二つの父母の血肉を受けて生まれたので、心は縦的な私になり、体は横的な私になるのです。
このようにして神人愛一体圏を形成するので、心身一体愛を完成した者は、神様の息子、娘になるのです。神様の王子、王女になれば、神様と父子の関係になって、神様のすべてを相続することができるのです。このような子女が真の愛を中心とした夫婦一体を完成すれば、神様に侍って暮らす家庭になることができ、その家庭は、平和と理想の基地になるのです。半分である男性と女性は、一体となり、神様の相対として神様の理想の愛を完成させるようになるのです。すなわち神様は、真の愛を中心として、人間を無限の価値者として完成させることによって、神様も真の愛の完成をなし、永遠の理想の愛が宿る創造理想世界を完成されるのです。
真の愛の主体者であられる神様は、その真の愛の相対者として人間を立てました。神様の愛の理想は、人間を通じてのみ完成するのです。神様の創造目的は、神人愛一体の絶対的愛の理想世界です。人間は、神様の最高、最善の愛の対象として造られました。それゆえに、人間は、創造物の中で唯一神様の実体をもった対象です。無形の神様の前に見える体として生まれました。人間は、完成すれば神様の聖殿になります。神様が自由に、また安らかに、いつでも入ってきてお住みになることができる有形の実体です。神様の絶対的な真の愛の全体的理想は、人間を通じた父母と子女の縦的関係によって実現し、完成します。
神様はどこに入っていかれるのですか。神様は、アダムの心の中に入っていき、エバの心の中に入っていかれるのです。二性性相でしょう? この二つが一つの根を中心として入っていって打ち込まれるのです。そして、息子、娘で連結されるのです。愛で連結して、心と体を中心として、霊を中心として根を合わせて、ここから生まれた愛の息子、娘が地獄に行くでしょうか。誰かが勝手にできません。絶対的な体、絶対的な心、絶対的な霊、絶対的な男性、絶対的な女性が、絶対的な神様の愛を中心として、生命の起源であり、愛の起源であり、血筋の起源である生殖器を中心として統一が展開するのです。
(2) 神人一体の拠点
神様の愛と人間の愛がどこで会うのですか。その結着点は、愛の結着点、生命の結着点、血統の結着点になるのです。そこでなければ、愛と生命と血統を連結できる道がないのです。その場所はいったいどこですか。どのような生殖器で、どこに使う生殖器ですか。男性と女性の生命が連結されるところです。男性と女性の血統、血が交差するところです。神様の生命、神様の愛、神様の血統、そして男性と女性の生命、男性と女性の愛、男性と女性の血統が、この一点を中心として連結されるのです。これを中心として子孫が生まれるのです。
神様の絶対愛と人間の絶対愛が出会う点とはどこでしょうか。一点です。それはどこですか。結婚して初夜、生殖器が一つになる場です。そうです、神様に会うと考えてみましたか。どこで一つになるのかというのです。絶対的な神様が定着できる一つの起点と、人間のアダムとエバが理想として願う愛の起点が、一つになることのできる点が、一点ではなく二つの点になる時には、愛の方向と目的が二つになり、永遠に神様の絶対愛とは関係を結べない人間になるので、愛のために造られたというのは偽りだということになります。
そこから私が生まれるのではないですか。男性と女性がそこから生まれるのであって、キスするところから生まれるのですか。そこから男性と女性の生殖器が絶対的に一つになることを願うでしょう? 夫婦間で絶対的に一つになってみたいですか、適当に一つになってみたいですか。その場は何かというと、女性が愛を受けるためには、夫だけではなく、霊的に神様に侍る位置に立たなければならないのです。見えるアダムの生殖器は、内的には見えない神様の生殖器だというのです。女性の生殖器も、見えない神様の生殖器であり、見える生殖器はエバの生殖器です。見えないものは縦的であり、見えるものは横的に一つになるのです。それで、縦的な父母、横的な父母が一つになるのです。
アダムとエバの結婚式の日が、その場を中心として神様の結婚式の日になるのです。一つの縦的な結婚式であり、一つの横的な結婚式になるというのです。すべて生殖器を中心として、男性と女性が絶対愛に着地すると同時に着地の中心に来るので、神様の愛を中心として一つになるのです。そのようになったならば、神様のように心を中心として統一がなされたはずです。
絶対的に変わらない、そのような愛の位置に神様が臨在されるのです。神様が生殖器に臨在されるのです。神様が愛の根源であり、生命の起源です。男性の生命、女性の生命、血統の起源ですが、神様と人間は、どこで愛と生命と血統が結集しますか。この場所しかないのです。
アダムとエバの結婚式は、内的には神様の結婚式です。二重の結婚式の場だというのです。それを結束させるものが、男性と女性の生殖器です。それがなければ、自分の生命も生まれないというのです。それによって一族も、人類の歴史も続いてきたというのです。神様の理想世界も、その門を通過した子供たちが、愛された子供たちが連結させていくのです。そのようにして神様の国もつくられていくのです。
アダムとエバの結婚式とは何ですか。誰の結婚式なのですか。神様の結婚式です。もし、そのようにしていればどのようになりますか。そうなれば、どのような結果になったでしょうか。そのセクシュアル・オーガン(生殖器)が第一に何になるのかということです。神様の愛の王宮になるのです。愛の本宮になるのです。そうです、家庭は王宮だというのです。これが愛の本宮です。一般家庭は王宮であり、これは縦的な愛の本宮です。どれほど貴いところなのかというのです。
アダムとは何でしょうか。堕落しないで完成していたならば、神様の体になるのです。エバも、やはり神様の体になるのです。神様の体になるのですが、男性はプラス側の体になり、女性はマイナス側の体になるのです。そして、二人が何を中心として結ばれますか。愛を中心として、生殖器を中心として結ばれるのです。内的な心の中に神様が入ってきているアダムとエバは神様の実体ですが、彼らが生殖器を中心として愛するようになれば、どのようになりますか。神様は誰を通じて愛するのですか。心は何を通じて愛しますか。体を通じて愛するでしょう? 同じように、神様が堕落していない完成したアダムに入られ、神様の家のようになったところで、神様が主人となった中で、二人が愛するのです。分かりますか。
神様とは、いったい誰ですか。神様は創造主でありながら、縦的な真の愛の父母です。真の愛を中心とした、縦的な父母だというのです。完成したアダムとエバは、真の愛を中心として横的な父母です。その二つの父母が一体となるのです。愛するその場所で、縦横が一体になるのです。そこは愛の本宮であり、生命の本宮であり、血統の本宮です。それが男女の生殖器です。
それによって、神様御自身が神様の息子、娘を生むのです。神様の子女です。皆さんは、二つの父母から生まれたのです。その縦的な父母の相対的な立場に立ったのが良心です。そのような面から見るとき、良心は縦的な自分自身です。肉身は横的な自分自身です。縦横が何によって一つになりますか。真の父母の愛、創造主の真の愛によって一つになれば、心と体は絶対に闘わずに一つになるのです。
神様を「お父様」と言う、それはいったい何のことかというのです。創造理想の根源を知らなければなりません。神様は誰ですか。お父様です。皆さんは誰ですか。子女です。皆さんは子女ですが、それでは、皆さんは神様に似ましたか、誰に似ましたか。神様に似ました。神様には目がありますか、ありませんか。鼻がありますか、ありませんか。口がありますか、ありませんか。耳がありますか、ありませんか。あります。その次には体がありますか、ありませんか。神様に生殖器がありますか、ありませんか。そのようなことがすべて問題になるのです。このようなことを、すべて理論的に解決しておかなければなりません。
夫婦が愛する器官とは、どのようなものですか。神様の愛と人間の愛がどこで一つになるのですか。この一つになる出発点が二つになれば、方向も二つであり、目的も二つなので、神様と人間は喜ぶことができないという結論に到達します。神様が人間を愛の対象として造られたならば、神様の愛と人間の愛が接触できる出発点が同じでなければなりません。その同じ点とは、どこですか。心情ではありません。女性や男性に一番重要な器官とは何ですか。生殖器です。神様が創造される時、最も精誠を尽くしてつくられた器官です。
アダムとエバの結婚式は、神様の結婚式だというのです。そうあるべきではないですか。愛の対象を自分より高く造ろうとされた神様が、どこに行ってお会いになるのでしょうか。どこに行って一つになられるのでしょうか。鼻で一つになるのでしょうか。どこでしょうか。問題が大きいというのです。ですから、女性がもっていて、男性たちがもっている生殖器というものは、神様が臨在できる本然の園です。神様の愛が初めてそこで完成するというのです。凹凸が一つになるその場で人間完成、すなわち女性完成、男性完成と神様完成が、愛を中心として展開するというのです。
心と体が一つになって、その生殖器を中心として一つにならなければなりません。出発地は一点であるべきであって、二点になれば方向も二つになります。人間の愛と神様の愛が接触して定着することができる寄着地(経由地)はどこかといえば、内的夫と外的夫が愛によって結ばれる生殖器だというのです。あの凹凸で結ばれるのです。
人間が成熟して結婚するということは、神様の愛と人間の愛が関係を結ぶことを意味するのです。何を中心としてですか。愛の器官を中心としてです。霊的に見るとき、アダムの生殖器は神様の内的な生殖器であり、エバの生殖器も神様の内的な生殖器です。そして、相対的に女性の生殖器と一つになるのです。
神様の結婚式が、アダムとエバの結婚式です。それゆえに、地上天国と天上天国が同時に生まれるのです。愛のすみかから出発するのです。男性と女性の生殖器を中心として、堕落しないで出会うその時間が、地上天国と天上天国出発の起源地です。三大王権を樹立すべき基地がそこです。その場でなければ、愛のすみかを成すことができません。
アダムの結婚式は、神様の結婚式です。これが天の最大の秘密です。気がついてみると、統一教会の文教主が生殖器解剖学の代表者になりました。生殖器ですべて一つになるのです。それなくしては愛が分からないのです。それ以外には、男性の生命と女性の生命が結ばれる場所がありません。そこで女性の血と男性の血が出会います。そこから歴史が連結します。そこから良心が出発します。そのようになっているのです。
神様が御覧になるときに、女性は本来誰でしょうか。女性は、神様とどのような関係ですか。神様は、愛のために人を造られたのです。愛のために造られたのに、その神様の愛と人間の愛が相反しなければならないでしょうか、一つにならなければならないでしょうか。それでは、一つになるとすれば、どこで一つにならなければなりませんか。どこですか、考えてみましたか。それを考えなければなりません。セクシュアル・パート(sexual part)だというのです。
「絶対セックス」です! 絶対的に心と体が一つになっていない人が、絶対セックスになれますか。生殖器も二重です。絶対セックスなので、私の生殖器は神様の生殖器であり、完成したアダムの生殖器です。神様に生殖器があるでしょうか、ないでしょうか。なぜ笑うのですか! 分からなければ「分からない」と言い、あれば「ある」と言ってみなさい。あるでしょうか、ないでしょうか。動機がないのに結果が現れることはできません。人間は結果的存在なので、結果がそのようになるためには、動機的内容がなくてはならないのです。理論的です。
神様も生殖器があります。その生殖器がどこかに行って、二重的人格である神様も二重的なものが必要なので、内的人格の神様の位置、外的人格の体の位置が必要です。体の立場は誰ですか。完成したアダムです。心の立場は誰ですか。神様です。結婚式をして二人が一つの家で爆発するのです。初愛のアダムとエバが生殖器を合わせる初夜に、精子と卵子が泳いでキスし始めるときは、神様とアダムとエバは別々でしょうか、同一でしょうか。
神様と真の父母を中心とした愛の伝統が、すべての出発点であることを知らなければなりません。神様の愛と人間の愛のトゥルー・ラブが、どこで一つになって出発するのでしょうか。生殖器です。どのような種類の生殖器ですか。真の生殖器です。神様が願われる生殖器です。そのような結論が出てきます。
神様と人間の愛が連結されるところを本郷の地にして帰ろうとするのです。そこがどこかといえば、男性と女性の生殖器です。神様の愛と人間の愛がどこで始まるのでしょうか。アダムとエバの生命と愛と良心と血統の根である神様は、間違いなく縦的な立場から横的な位置のアダムとエバ、彼らの性相と形状が一つになったその中にすっと入っていかれるのです。ですから、アダムとエバの結婚式は、神様の結婚式なのです。男性と女性がもっている生殖器は、神様を解放して神様を完成させる器官です。ですから、神様がお父様になるのです。縦的なお父様、横的なお父様は完成したアダムです。
皆さんがその長い棒をいい加減に扱ってはいけません。それに侍って生きなければなりません。それが最も貴いのです。神様が見下ろしているのです。神様がそこに臨むのです。そして、皆さんの妻のものは神様の夫人、女王のものであり、皆さんの夫のものは神様のスティック(棒)と言いましょうか。神様と一緒にぶらさがっていると考えなければならないのです。それは二重ではありません。心と体のように、神様が心ならば、皆さんは体になるのです。神様は見えませんが、その生殖器と一緒にいらっしゃるのです。私たちの体にそれがぶらさがっていますが、それは二つが一つになってぶらさがっているのだと考えなければなりません。
夫の生殖器が神様の生殖器だと考えてみましたか。どれほど近づきますか。神様をどこか天のてっぺんに置いて信じるのではありません。自分の心の中に入ってきているのです。一つになっているから分からないのです。
堕落することによって、男女の生殖器がこのよこしまな死亡の波、死亡の法、滅亡の地獄を開門させた本宮になったために、天道を破綻させた魔物になったために悪いものになりました。これが今まで歴史に隠された秘密でした。堕落していなければ、男性と女性の生殖器は、愛の根本であり、愛の本宮であり、生命の本宮であり、血統の本宮になるのです。そこで縦的な神様の愛、横的な真の父母の愛が一つにならなければなりません。
真の愛は直短距離を通るために、横的な人間、アダムとエバの愛も直短距離を通る道は、九〇度の道しかないのです。そして、ここで一つにならなければなりません。ここで爆発して、アダムとエバが神様と生命一体、愛一体、血統一体、このように和合した喜びとともに爆発して、蘇生するところから生まれるべきなのが私たち人類です。これがアダムとエバの子女になることであり、神様の孫になることです。そうなっていれば、なぜ地獄に行くのですか。宗教に何の必要性がありますか。そのままそのように生きれば、すべて天国に行くのです。
神様は縦的な位置、中央なので縦的であり、アダムとエバは横的なので、二人がどこで一つになるのかといえば、生殖器という基準を中心として一つになるのです。それゆえに、愛の源泉である神様がその場に臨むことができ、生命の源泉である神様がその場に臨むことができ、血統的根源が神様なので、その場からすべてのものが始まるのです。
それゆえに、生命の根源地であり、愛の根源地であり、血筋の根源地である、これをつかんで引っ張れば、すなわち血筋をつかんで引っ張れば、先祖の血筋がすべて出てくるのです。ここで生命をつかんで引っ張れば、先祖の生命がつられて出てきますか、出てきませんか。また、愛のひもをつかんで引っ張れば、つられて出てきますか、出てきませんか。そのように造化を集約させて、それを連結させることができる本部とはどこかといえば、最も貴いところだというのです。男性になれる性格、女性になれる性格、何がそれを分けるのかといえば、生殖器です。
それでは、男性の生殖器と女性の生殖器を、誰が先にこれと因縁を結ぶためにつくったのでしょうか。アダムでもなく、エバでもありません。神様です。聖書に、悪魔は淫乱の神だとあります。なぜ神様がそこまで嫌ったのですか。自らの理想的本基台を完全に破壊させてしまったからです。ですから、これは全宇宙からの追放を予告しているのです。
男性と女性の生殖器は、どれほど貴いでしょうか。これで堕落したために、この人類の全体の理想を破綻させてしまいました。その主人は二人ではありません。絶対的に一人です。女性が結婚して一人の夫に三角地帯を許すようになれば永遠です。それゆえに、男性の生殖器、女性の生殖器は貴いのです。神様の愛と人間の愛は、どこで会うのですか。
神様が創造理想の愛のために天地を造られたのですが、その愛の対象が人間です。皆さんは、愛の対象が自分より優れていることを願うでしょう? そう願うでしょう? 何千倍ですか。「千倍を願うか、万倍を願うか」と尋ねれば、「万倍を願います」と言うのです。「万倍、十万倍か」と尋ねれば、「十万倍です。億万倍です」と答えるのです。
神様も、被造世界の誰が愛のパートナーになると思いますか。そのパートナーとは何ですか。男性一人だけでパートナーになりますか。女性一人だけでパートナーになりますか。神様は何のパートナーを願われるのでしょうか。お金のパートナーではなく、知識のパートナーではなく、権力のパートナーではありません。愛のパートナーを願われるので、男性と女性の生殖器が一つになったその場を中心として神様に会うことができるのです。
(3) 真の血統の根は神様
人間が堕落していなければ、神様は内的な父と母になり、アダムとエバは外的な父と母になります。内的な父母の息子、娘として愛の種を受けて生まれた人間になるはずだったのですが、悪魔の愛を中心として堕落することによって、悪魔の血筋を受け継ぎ、悪魔の愛、悪魔の生命、悪魔の血筋を受けた人間になりました。
神様は、見えない内的なアダムの位置にいらっしゃり、また見えない内的なエバの位置にいらっしゃいます。アダムは、人類の前において、内的なお父様に侍る実体の父として立とうというのであり、またエバは、内的な母の神様に侍る実体の母として立とうというのです。このようにして縦的な基準から横的基盤へ拡大させようというのです。
エバは、未来における神様の愛の夫人です。神様自体は縦的ですが、横的な相対がいません。縦横を結んで、もたなくては生産できないのです。神様は縦的にいらっしゃいます。縦は垂直で、垂直は一つしかありません。垂直の世界は生産できません。生産できる環境は横的な基盤です。ここには四方、三六〇度があるので、面積があって生産圏が展開されるのです。神様は、一人でいてはいけないので、天国を成す民族を生産するためにアダムとエバという体を造られたのです。
本来、堕落していなければ、エバは神様の夫人になり、アダムは神様の体になるのです。神様の体になったアダムと神様の体になったエバが愛することによって、神様と人の天地合徳が展開し、男性と女性、陰陽の合徳が展開して初めて縦横に結びつき、愛によって新しい生命、新しい血筋が絡み合わなければなりませんでした。
アダムとは誰ですか。神様が根ならば、アダムは新しく出てくる枝と同じであり、芽と同じです。神様とアダムは一つの体です。生命の根も神様であり、愛の根も神様であり、血統の根も神様であり、良心の根も神様なので、神様が先に愛を感じなければなりません。根が先に感じて、幹が愛を感じなければならないのが原理です。
アダムとエバは相対的愛の位置にいて、主体は神様です。神様の愛は、アダムとエバが結婚して初日に愛するその時間、出発地から一つになっています。ところが、一つになると感じられないのです。一つになっているために感じられないだけであって、既に神様は、愛と生命と血統の因縁を中心として、創造理想の喜びを感じるというのです。その喜びに反応して男性と女性が愛しながら喜ぶのです。これは、アダムとエバが結婚して夫婦が合徳することをいうのです。
神様は、愛の源泉であり、生命の源泉であり、血筋の源泉です。このように思うとき、男性の愛と女性の愛が合徳し、男性の生命と女性の生命が合徳し、男性の血と女性の血が合徳するところとはどこでしょうか。男性と女性の秘密の場所、生殖器です。それで、人間世界における大礼の中の大礼が結婚です。
神様と私たち人類の始祖であるアダムとエバの関係について考えれば、私たちの生命の起源は神様です。私たちの愛の主体も神様で、私たち一切の生活的な標準も神様です。
アダムとエバの結婚は、神様と人間が結婚することです。同じように、皆さんも人間として神様と結婚するようになっています。それでは、神様はどこにいらっしゃるのでしょうか。私の中にいらっしゃいます。
アダムとエバの結婚式は、神様の結婚式です。アダムは誰ですか。神様の長男です。平面の中の平面で横的です。神様は縦的です。その一家で横的に発展することができるのは、長男から始まります。神様とアダムは、愛を中心として父子一身です。それでは、愛はどこで一つになるのでしょうか。縦的なアダムとエバの結婚式で一つになります。成熟してお互いに思い慕うのは、縦的なものを取り戻すためなのです。
愛を中心として、アダムとエバに神様が入ってこられて内的な父になり、アダムとエバは神様の体になって内外の神様になるのです。神様は、宇宙を創造された内的な神様であり、人間は外的な神様になるのです。彼らが夫婦になって天国の王宮を創設することが創造の遺業です。宇宙の王権を中心とした王宮を設定して、アダムとエバを中心とした皇族編成がなされれば、地獄はあり得ないのです。
神様とアダムが内外に一つになれば、神様は内的な神様であり、アダムは外的な神様になります。内にいる神様は内的な神様であり、外にいるアダムは外的な神様になるのです。
神様は創造主でありながら、縦的な真の愛の父母です。真の愛を中心とした縦的な父母だというのです。そして完成したアダムとエバは、真の愛を中心とした横的な父母です。この二つの父母が一体になるのです。愛するその場所で縦横が一体になるのです。そこは愛の本宮であり、生命の本宮であり、血統の本宮です。そこが男性と女性の生殖器です。そのようにすることによって、神様自体が神様の息子、娘を生むのです。
皆さんは二つの父母から生まれました。その縦的な父母の相対的な立場に立ったものが良心です。そのような面から見るとき、良心は縦的な自分自身であり、肉身は横的な自分自身です。それでは、縦横が何によって一つになるのでしょうか。真の父母の愛、創造主の真の愛によってです。真の父母の愛、創造主の真の愛によって一つになれば、心と体は絶対に闘いません。
神様が創造当時、理想として願われた真の愛、偉大な真の愛を中心として、人間との真の愛の関係を結んで一つになることのできる、このような神人愛一体の家庭を築いたならば、今日私たちは、天国だ、地獄だと心配することもなく、そのまま天国にみな入っていくようになるのです。ここで問題になることは、神様の真の愛と真の人間の真の愛が、主体的真の愛と相対的真の愛で一つになって一点から出発しなくては、神様の真の愛と人間の真の愛が異なった二つの愛の出発になってしまうので、二つの愛の方向と目的地になるということです。このようになる時は、神様と人間が願う絶対的理想世界は探し出すことができないのです。
既成教会と統一教会が違うのは、統一教会は、愛を中心として神人一体を定着させるということです。既成神学では、神様は神聖なもので人間は俗なるもの、罪なるものとして定義しています。そうであるなら、神様の愛と人間の愛がどのようにして一つになることができるでしょうか。それは話にならないというのです。絶対的な神様は何でもできると考えているのが問題です。したがってキリスト教の行く所には、たくさんの血が流れてきました。神様の命令を名目に侵略し、奪取したのです。独裁者を出したのです。世界はそのようにはなりません。神様の本性から見るとき、そのようにはならないのです。
3.なぜ結婚が重要なのか
(1) 結婚の目的は神様に似ること
宇宙の根本がそうです。神様の完成も、やはり同じです。アダムとエバが二性性相になって縦的に一つになるのです。それで、神様を完成させて解放させるのが人間だというのです。また、人間を完成させて解放させるのが神様だというのです。離れることができません。その場で生きなければなりません。
アダムとエバは、神様の二性性相がそのまま出てきたので、一つのふろしきから出てきたのと同じです。双子で生まれた兄と妹のようなものです。その兄妹の双子がおっぱいを片方ずつ分けて飲み、お互いに触って、母親のおっぱいを飲む愛を中心として考えるのです。すべて母の懐に抱かれて愛するのです。
神様が二性性相に分立されるので、その本性がそのように分立されるのではないですか。男性は何ですか。男性は性相的な神様であり、女性は形象的な神様です。この二人が一つになり、分立されたもの一つになることによって、愛を中心として愛の軸が生じるのです。愛の軸は誰もタッチできません。神様も愛の軸の前に絶対服従するという論理がここから展開するのです。すべて理論的です。
統一的基準の内容があるところとはどこでしょうか。垂直線です。人間が堕落していなければ、神様と人間はどこで会いますか。なぜ結婚するのですか。神様に会おうとするのです。神様の愛の前に接ぎ木をするためなのです。愛のために生まれたので、その愛は宇宙と同参して、神様のような愛の理想相対を探さなければならないのです。それは一人ではできません。神様が二性性相に分立したのです。
なぜ結婚するのですか。神様の姿に似るためです。神様は二性性相でいらっしゃる方として、各々の一性が合体化した一律的な存在であられ、その神様の分性的人格自体が男性と女性なので、彼らが合性一体化して種のようになり、神様の本性の位置に帰らなければならないのです。その種を連結させるためには、愛の道理の道を通らなければならないので、生まれるときも愛を受け、育つときも愛を目標として育ち、生きるにも愛を中心として生きて、逝くときも愛に帰るために逝かなければならないのです。その道は、「ため」に生きる目標を中心として訪ねていかなければ、方向がずれるという事実を皆さんは知らなければなりません。「ため」に生きて愛するという心を先頭に立てれば、いくらこっちに行くといっても、南極と北極の方向を探し当てるように正しく行くというのです。
私が結婚をするのは、私だけのためではなく、相対のためでもあります。結婚が自分自身より相対のために行われるということはどういうことでしょうか。天地間のすべての道理が主体と対象で成り立っているように、男性と女性が結婚するのも天地間の道理です。
男性が右側ならば女性は左側になりますが、それは、宇宙間の横的な関係をなすためであり、男性が主体ならば女性はその対象になりますが、それは、神様との縦的な上下関係をなすためなのです。したがって、結婚とは男性だけのためではなく、また女性だけのためでもない、天理の法度を合わせるためにするのです。それゆえに、男性と女性がお互いに異なる形を備えています。天理法度に合わせられるようにできているのです。
なぜ結婚するのですか。神様を愛するためです。神様を愛して何をするのですか。神様の軸と一致するためです。一致して何をしようとするのですか。一致すればどのようになるのですか。なぜ一致しようとしますか。絶対的な神様の愛を中心として、永遠であられる愛を中心として、永生が展開するのです。それだけではありません。そのように接触したところから宇宙の相続権が伝授される、ということを知らなければなりません。愛を中心として造られた被造世界は神様のものですが、私のものとして相続権を与えられるのです。
なぜ結婚するのですか。アダムとエバが自らの愛を求めていくためではありません。縦的な神様の愛を核として、その核を中心として、客体として一つのバランスをなすためなのです。それが理想です、
神様の創造理想もそのような愛を中心として結びつくことであり、人間の男性と女性も成熟してそこで愛の結着点が展開して、生命が連結されるのです。ですから、生命によって連結されるのではありません。愛によって連結されるのです。縦的な父の愛と横的な夫婦の愛を中心として、本然の愛の種が初めて連結されるというのです。
結婚とは何かといえば、創造理想完成の場です。神様の子女完成の場であり、兄弟完成の場であり、男性と女性の理想的完成の場です。男性と女性が理想の場で一つになることは、創造前にアダムとエバが二性性相の性相と形状でいたものが実体として一つになることです。
神様の無形の二性性相がアダムとエバの実体として分かれたのですが、これが再び縦的に会うのが結婚式です。結婚して一つになる瞬間は、未完成の半分が完成する瞬間であり、完成品として合格する瞬間であり、相対の世界を抱く瞬間です。愛の力以外にはそのようにできるものがありません。それだけではなく、神様を占領するのです。結婚は、相対を占領して神様を占領するのです。それが正に結婚です。でたらめにするのではありません
結婚とは何ですか。男性は女性の世界を占領しようというのです。女性の世界を知りません。また、女性は男性の世界を占領しようというのです。結婚する前は、女性は男性が神秘的です。男性には女性が神秘的なのです。同じです。結婚して神秘的な男性・女性世界をお互いに占領して二つとも備えることによって、神様の二性性相の主体の前に一つになる、その姿を備えるのです。このようにして神様と一つになるのです。
男性は女性のために生まれて、女性は男性のために生まれたのです。結婚は何かというと、片側の身分が完成することです。男性半分、女性半分が一つになることであり、その次には神様を占領するためです。二性性相の男性と女性が二性性相になったので、愛で一つになることによって、正から分かれたものが合わさっていくのです。
アダムとエバの結婚は誰の結婚かといえば、神様の結婚式です。愛の根、生命の根、血統の根、良心の根であるその根が、先に愛を体恤しなければならないのです。結婚するその場には、神様をお迎えしておいて夫を迎えなければなりません。神様の二性性相がアダムの心とエバの心に入っていかなければなりません。正から分立して入っていくのです。これで正分合になるのです。したがって、プラスとマイナスがすべて一つになるのです。
結婚はなぜするのですか。神様の姿に似るためです。神様は、二性性相でいらっしゃる方として各一性が合体化した一体的な存在であられ、その神様の分性的な人格自体が男性と女性なので、彼らが合性一体化して種のようになり、神様の本性の位置に帰らなければならないのです。結婚は、神様と一つになることができる位置に行くということです。
結婚とは何ですか。男性を通じて愛を結ぶことによって、半品存在である女性が完品存在になることです。男性も同じです。結婚を通じて完成するのです。何によってですか。愛で一つになることによってです。ですから、男性と女性の生殖器は絶対に必要なのです。ですから、男性の生殖器は女性のためにできたのであり、女性の生殖器は男性のためにできたのです。自分のものではありません。
結婚初夜の愛というのは偉大なものです。初愛です。皆さんが女性として生まれて一生保護してきた自分の体、その一身を男性に捧げるのです。男性もそうです。自分一身を備えて純潔な体を女性に一〇〇パーセント捧げるのです。そのためのものが男性としての結婚前の生活です。
男性と女性が出会って愛が芽生えれば、絶対的に一つにならなければならないといいますか、絶対的に分立されなければならないといいますか。絶対的に一つにするとは、どうなることですか。男性と女性がキスすることですか。どこが一つになりますか。何のために結婚するのかと言えば、生殖器理想の完成のためです。結婚とは何かといえば、生殖器官の理想を満たすためのものが結婚だというのです。それは間違っていますか、合っていますか。俗的な結論のようですが、俗的な結論ではないというのです。俗的な人間の世の中で話すので俗的なのであって、神様の創造本然の世界では神聖なのです。神様が願われる至聖所はどこかというのです。愛が永遠に宿ることができるところが至聖所だというのです。そのとおりでしょう?
女性が男性を訪ねていく時は、「神様よりもっと貴いものを訪ねていきます。一生を大切に装って貴く思い、何よりも貴いものをもってあなたを訪ねていきます。あなたを愛します」こうでなければなりません。そのように女性が男性を慕えば、生殖器が息をします。
結婚して男女が初めて愛する瞬間、関係する時間は、子女の愛の完成なのです。兄弟の心情の完成場、夫婦の心情の完成場、未来の父母の心情の完成の出発点です。それで、女性の生殖器というのは愛の本宮です。愛の根源です。そこから愛が始まるのです。空中から始まるのではありません。何ですか。愛の本宮です。
男性と女性が完成するのは何ですか。それが結婚生活です。男性と女性の凹凸、これを一つにするのです。何を中心として一つにするのかというのです。男性と女性の凹凸が何のためにそのようになったのかといえば、愛のためにそのようになりました。愛で一つにすることを知らなければなりません。人間のすべてを構造的に見るとき、この生殖器のように全体の核的な内容をもって生まれたものはありません。神様が創造されたなら、ここにすべての精力を込めてつくられたという話になることを知らなければなりません。
結婚とは何かといえば、半分の男性と女性が生殖器を一つにすることによってお互いに完成するのです。男性は、女性の愛を中心として完成するのです。男性は女性を完成させ、女性は男性を完成させるのです。それは、真の愛を中心として完成させるのであり、真の生命の結合が展開するのです。真の愛で一つになるのです。愛が中心になって生命が活性化され、二つが一つになる位置がその場です。男性の血、女性の血が一つのるつぼで一つになることのできる位置がその場だというのです。その場から息子、娘が生まれます。その場は、息子、娘より貴いということを知らなければなりません。夫よりも、神様よりも貴いということを知らなければなりません。
男性と女性がお互いに愛して抱擁する、それ自体が、宇宙が一体をなす場になります。神様の理想の中でなされる創造本然の姿は、そうです。
福の中で最も貴い福は、神様の愛です。その次には、神様の創造の権限を引き継ぐことです。神様がアダムとエバを創造されたように、創造的権限を与えられるのが子女なのです。皆さんは、なぜ子女を愛するのでしょうか。神様の創造の業績を横的に実体圏で受け継いだのと同じなので、アダムとエバを造って神様が喜ばれた、その喜びを代わりに感じるためです。
その次には、神様が天地万物を主管されたように、万物を主管するために私たちに主管権を賦与されました。したがって、結婚するその時間には、神様の愛を相続して、再創造の権限と主管権を完成圏に立って受け継ぐようになる、ということを皆さんは知らなければなりません。それゆえに、結婚式というものは、愛の顕現を意味すると同時に、創造権と主管権を賦与されることです。
世間で盛んに行っている自由結婚は、サタンが人々を堕落させて神様の前に出ていけないようにするためにつくっておいたわななのです。そのわなに引っ掛かれば死に、サタンの支配を受けてえじきになるしかないのです。今日、西欧社会、特にアメリカは、自由結婚が盛んに行われることによって、真なる家庭を築くことができなくなっており、家庭生活に失敗した人々が日増しに多くなって、いくらもたたないうちに家庭をもたない人が多数を占めるようになるでしょう。
そのようになれば、アメリカ社会は愛が干からびた社会になり、不信によって不安と恐怖が支配する地獄のような社会になるだろうと、自信をもって確言することができるのです。このような時点に立っている皆さんには、このような社会風潮を一掃して、アメリカ社会に愛が満ちあふれ、神様の願われる社会を建設しなければならない義務と使命が賦与されていることを知らなければなりません。
私たち統一教会は、結婚観が違います。結婚というのは根本に帰るためのものです。
(2) 夫婦の愛と絶対性
夫婦が、神様を愛して人類を愛する心の基台の上で爆発するようにお互いに愛するならば、その家庭によって神様が酔い、宇宙が酔うことができるようになるのです。その愛は、神様のための愛であり、人類のための愛です。その愛の根は、自分にあるのではありません。神様が愛の根源であり、人類の愛が根源なのです。
結婚したなら、既に平面的ではありません。平面的な基盤しかありませんが、高いものが低いものと連結される時には、垂直的概念が生じます。平面的な歴史は宇宙を収拾し、天宙を収拾することができません。垂直と水平が出会って九〇度をなす時、それは天を地にしても、地を天にしても、前を後ろにしても、後ろを前にしても、右弦左弦、上弦下弦、前弦後弦、どの面をくっつけてもぴったり合うのです。地上完成基準は、霊界のすべての完成へ続くのです。
結婚して夫婦が真の愛をなす位置は、神様と人間の愛と生命と血統の根源である王宮の位置であり、理想のための地上天国・天上天国の出発地なのです。このような真の愛によって結実した子女が真の愛を中心とした夫婦一体を完成し、神様に侍って暮らす家庭となり、平和と理想の出発基地になるのであり、半分である男性と女性は、一体となって、神様の相対として神の理想愛を完成させるようになるのです。
男性と女性が祝福を受けて、完全な愛を授け受けして喜びを享受する時、神様が地上に咲いた花のように御覧になるというのです。また、彼らの愛によってなされるすべての調和万象は、神様にとって良い香りと同じです。このような美しい香りの中で神様は暮らしてみたいと思って訪ねてこられるというのです。神様の愛が訪ねてくることのできる基台が、すなわち夫婦の愛の場です。その場は、万物と宇宙が和動する場になるはずです。
男性と女性の生殖器の主人とは誰ですか。縦的な神様です。どこで神様の理想的愛と人間の理想的愛が一つになりますか。生殖器です。神様に出会うために結婚するのです。驚くべき話です。神様がほかにいるのではありません。その場に入っていくようになれば、神様が生きていらっしゃいます。三大主体思想がどこで結合して根を打ち込むのですか。愛です。神様の愛と人間の愛が生殖器を中心として…‥。結婚は、神様の縦的な愛に接ぎ木をするためのものです。
曇った日に陰電気と陽電気が合わさって雷が鳴ったり稲光がするのは、宇宙結婚の象徴です。大声で叫ぶでしょう? はとも愛する時、大声で叫ぶでしょう? 皆さんも愛する時、大声で叫びますか。声が出てきそうなのに両親に聞こえるかもしれないと思って、ただもう死ぬほど心配でしょう。率直であるべきです。なにもそのようなことを隠す必要はありません。これからは、窓ガラスが一度にガッシャーンと音がするくらい叫んでも罪ではありません。雷鳴がとどろき、稲光がするかのように、火が出なければなりません。聖女に侍って生き、聖男に侍って生き、神様に侍って生きる境地に入っていかなければならないのです。そのような愛の世界があります。ですから僧侶たちには、いくら修行に励んでもその世界を知るすべがないのです。
皆さんが夫婦関係をするのを神様が見ないと思いますか。公開的なのです。これは宇宙的に公開するのです。それを知らないということは大きな間違いです。皆さんの先祖がすべて見ているというのです。霊界でも、すぐ目の前に見えます。手のひらに立ってするかのように、すべて見えるのです。ですから、それを恥ずかしいと考えれば大きな間違いです。
愛は永遠です。そのような愛は二つではなくて一つです。男性と女性の間が愛によって結ばれれば、地上で偕老(共に年を取ること)しなければならず、死んでも永遠に共に生きていくようになっています。体は二つですが、一つになって回ることによって一体になるのです。二つの体が一つになれば、神様と回るようになって愛の四位基台を成し遂げるようになりますが、それが正に理想世界なのです。そこには偽りの愛が侵犯できず、ただ真の愛だけが臨在するようになるのです。
理想的夫婦とは、どのような夫婦ですか。最高の芸術を実体として展開させることができる夫婦、最高の文学を展開させることができる夫婦なのです。最高の理想、最高の文化世界に接する前に、最高の愛によって夫婦が授け受けする、その甘い愛が世界最高の芸術作品にならなければならないのです。夫婦生活自体が最高の文学作品であり、それ自体が文学の実体にならなければならないのです。
家庭を芸術化させなければなりません。おもしろい夫、芸術的な夫にならなければなりません。何かの雑誌などに良いものがあれば、さっととっておいて、寝ようとする夫人の前で素晴らしい声で読んであげるのです。感動して寝る妻の姿を夢に描けば、それが再現されるのです。霊界と連結するのです。それはどれほど素晴らしいことでしょうか。そのように暮らしたいですか。でなければ、そのまま野暮な夫婦同士で暮らしたいですか。素晴らしく生きたければ、素晴らしくなれる姿勢から、素晴らしくなれる方向をとらなければなりません。それが第一条件です。
赤ん坊を生む位置は、神様の上弦世界を占領するのです。神様の位置に上がっていくことによって、子女を愛することで、神様が創造以降に人間をどれほど愛されたのか、その内縁を体恤させるのです。
このように、夫婦が息子、娘を生んで父母の立場に上がっていくことで、神様の立場で神様が人間を創造される時、どれほど喜ばれたかを体恤するようになるのです。天地の大主体であられる神様のすべての権限を相続できる立場に入っていくことができる体恤的環境において、体恤的内容として伝授させてあげるのが息子、娘の生産です。息子、娘を生産して大切に育てて結婚させるまでが父母の責任です。神様がアダムとエバを育てて結婚させるはずでしたが、できなかったのです。アダムとエバも、息子、娘を生んで結婚させることができませんでした。この恨を解かなければなりません。これが教育の原論になるのです。結論は簡単です。
夫婦が一つになって息子、娘を生むことによって永続することができます。それで、創造した創造主の位置に上がっていき、息子、娘を生んでみることによって、神様が創造された喜びを平面世界で感じることができるのです。それゆえに、自分の妻は、息子、娘と同じでなければなりません。息子、娘と兄弟の位置を合わせたものです。ですから、別れることができないというのです。愛はいい加減になっていません。息子、娘を生もうとするなら、このようなすべての伝統を踏まえて経ていったのちに息子、娘を生んでこそ、神様が本来創造理想として願われた本然的基準に到達するのです。それゆえに、家庭が天国基盤です。
神様を中心として一つになる時、千態万状に回るようになるのです。したがって、兄弟間で愛するのも、父母が子女を愛するのを見習って兄は弟を愛さなければならないのです。そのように愛しながら一元化した家庭は、家庭愛が花開くことができます。これはまた、社会愛になることができます。これがさらには、民族を愛する民族愛になります。このように愛すれば世界になるのです。ところが、今日これが漠然としているというのです。神様は、真の愛の本体なので、真の愛と連結すればすべてが同じ体になります。父母は、神様を身代わりした生きている神様であり、夫と妻は、お互いがもう片方の神様であり、息子、娘はもう一人の小さな神様です。
このように、三代が真の愛を中心として成された家庭組織が天国の基盤です。そのような基盤を築かなければ、天国を成すことはできないのです。家庭とは宇宙の中心です。家庭完成は宇宙完成の基礎になるために、家庭で愛して宇宙を愛すれば、どこでも無事通過です。このような場合、神様は、全体宇宙の父母として愛の複合的な中心の位置にいらっしゃいます。
平和の立て札、碑石を立てるのが、女性の節操と男性の志操です。そのようになれば、男性でも女性でも絶対に信じます。これが水平にならなければなりません。永遠に水平になるのです。そうなれば幸福でしょう? なぜですか。自分たちの宝物の中の宝物が何かといえば、半分のかけらだった女性が夫を占領することです。夫も占領しましたが、天地が半分のかけらだったものが一つになるのです。上弦の神様側に下弦の息子、娘が生まれるのです。上下関係が生じるのです。
その次には夫婦関係です。これを中心として四方に広がっていきます。そのようにして、前後を中心として初めて家庭が定着するのです。前後関係は兄弟です。兄弟をもたないといけません。上下関係、左右関係、前後関係です。その器官を完全に定着させなければなりません。それゆえに、唯一私にあるものは何ですか。男性には妻一人しかいません。財産でも何でも、全部捨てるとしても、これは取り替えることができないのです。ただ一つの宝物は妻だというのです。