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[ちょっとおかしいぞ、日本人 (1988年 千葉敦子 著 新潮社 刊) ]
目次
01. はじめに. 9
02. 何もかも袋に. 12
03. 小物に凝る男たち. 16
04. おじぎ測定器. 21
05. 名刺とラベル. 27
06. カラオケ・コミュニケイション. 33
07. 毎度、お騒がせしています. 37
08. メニュー要らず. 42
09. スリッパのルール. 47
10. ライオンのポーズ. 51
11. 男も女も、すぐ僻む. 55
12. 散らかし自慢. 62
13. 決まり文句「ガンバッテ!」 67
14. なぜ、トシを聞くの. 72
15. 隣りのビルへ歯を磨きに. 76
16. 五七五と季節感. 82
17. 男が...男が...88
18. 自己主張よりも技術. 92
19. 喫煙と立小便. 97
20. 来週、また電話してよ. 101
21. 他人には手を貸さない. 105
22. ローマ字多用の怪. 109
23. 外国人にはわからない? 112
24. もじもじする女たち. 117
25. 釣り合いと減点主義. 122
26. ベビーパウダー. 126
27. 二枚舌. 131
28. お世辞ではなく. 135
29. 酒に飲まれる. 141
30. 対決嫌い. 145
31. 贈答天国. 151
32. 民主主義ごっこ. 155
33. 純血主義がお好き. 159
34. 歓迎されない批判精神. 165
35. 集団的サディスト. 169
36. 女ものは、なぜ小さい. 173
37. 風呂好きとピカピカ車. 177
38. ハチの一刺し. 180
39. 現金とカード. 184
40. 方向オンチ. 189
41. 両手のマナー. 193
42. ものぐさ専業主婦. 197
43. 買いもの大好き. 203
44. 記者会見. 207
45. あとがき. 212
46解説: 中山千夏. 213
(昭和63年3月 作家)
[ちょっとおかしいぞ、日本人 (1988年 千葉敦子 著 新潮社 刊) ]
●01. はじめに. 9p
ニューヨークのグリニッチ・ヴィレッジにあるワシントン広場では、気候のいい時期の週末になりますと、コメディアンの卵が大勢の散歩客を集めて一人芝居を披露しているのを、 よく見かけます。
スターのものまねをやったり、ニューヨークの暮らしにつきものの、つっけんどんな店員とのやりとりなどを再現して、観客の拍手を浴びたりしています。彼らの出し物の中で一番ニューヨーカーに人気のあるのが「エスニック物」と呼ばれる、各人種のものまねです。ある黒人の男性が演じたのをよく覚えています。
太極拳をやる中国人の男性や、小さなショルダーバッグを肩からかけて、気取って歩き、 気取った腰かけ方をするレズビアンの女性(これも一人種とみられています)や、バタンと地べたに寝そべって日光浴をし、ときどき薄目を開けて周囲を見回すユダヤ人の女性などを演じたあと、彼は腰を落とし、両手をズボンのポケットに突っ込んで、上唇を内側に折り込み歯をむき出しにしてニヤニヤ笑いながら肩をゆすって歩き出しました。
取り囲んだ人々の間からクスクス笑いが始まると、彼は胸にカメラを提げているふりをし、それを笑っている人々に向けて、盛んにシャッターを切るまねをしました。爆笑と、「ア・ジャパニーズ・マン!」という合唱。あこがいまあ、ヴィジュアルな日本人像としては、こんなのがいちばん一般的なのでしょう。
こういうのに出会うと「ばかにしている」と本気になって怒る日本人紳士がおられますが、別に怒ることはありません。日本人の男性の中にも外国人女性の憧れの対象になっている人たちが随分いますし、外国人に尊敬されている日本人女性も少なくありません。ただ日本人を集合体で見れば、ワシントン広場のコメディアンが見せてくれたカタチがよく当てはまるということでしょう。
いずれの国民もそれぞれにいろいろなクセを持っていますが、日本人はクセの多い国民だといわれます。そのクセの中には、中国人や韓国人も持っている、東洋人に共通したクセもあれば、中国人や韓国人には絶対に見られない、日本人独特のクセもあります。
日本の気候や風土が生み出した古来のクセもあれば、近代国家になってからのクセ、敗戦後に身につけたクセ、あるいはごく最近のクセというのもあるようです。私の友人と、親しい同業ジャーナリストの約半数がたまたま非日本人であるため、「典型的な日本人的対応だな」とか「日本人らしくないじゃない」とか「それが日本人のやり方なんだ」とかいったコメントをしょっちゅう聞かされています。
それで、ほかの国民にはあまり見られない、日本人の行動様式や、習慣や、最近起きている現象や、一般的になっている態度や、外国人に非難されている言動をいくつか拾ってみました。この本にはそのうち四十三を収めました。国際社会で今後生きていくためには改めなければならない日本人の態度もあれば、ずっと保存していくことが望まれる日本人の特質というものもありましょう。
私はアメリカのジャーナリスト、ゲイ・タリーズのいう「多くのジャーナリストは、世の中の汚点や、人々と場所の不完全さを見ないと気がすまない観淫症患者である」(『力の王国』)という記者の特質を十二分に備えている人間であるため、「ちょっとおかしいんじゃない」と思われる点に目が行きがちです。あなたは、どうごらんになるでしょう。
[ちょっとおかしいぞ、日本人 (1988年 千葉敦子 著 新潮社 刊) ]
●02. 何もかも袋に. 12
郵便局で葉書を数枚、あるいは切手を何枚か、または両方を買うと、それを入れる薄いビニール製の袋をくれますね。この袋には「郵便はがき・切手袋」と印刷されています。こんな袋にまでちゃんとした名前があるのですから驚きです。
そこには次のようなことばが印刷されています。毎月23日は「ふみの日」です。手紙で心のふれあいを! 郵便は心のこもった贈りもの. あて名は正しくはっきりと. 郵便番号は住所の一部です。 郵便局. そしてさらに下の方に、その地域の店の広告なんかがはいっています。
これがみんな横書きなのも面白い。「切手袋」という名前がついているなら、縦書きの方がふさわしいのじゃないかと思いますけどね。それはともかく、葉書や切手のためにいちいち袋を郵便局が用意してくれる国は、ほかにもあるのでしょうか。ニューヨークでは、たくさん切手を買ったときなど「袋下さい」と頼めばもらえますけれど。
郵便局に限りません。日本という国は、やたらと袋をくれる国ですね。それもただの袋じゃなくて、何かしら印刷されているのが特徴みたいです。もうひとつ例を挙げましょうか。デパートでもなんでもいいのですが、クレディットカードを使って買いものをするとき。
普通三枚綴りになっている伝票に署名をすると、店員が最後のペイジを切り取って、小さく折りたたみ、ちっちゃな袋に入れて「お待たせ致しました」と差し出します。本当に待たされるものですから、急ぐ場合は「袋、要りません。そのまま下さい」と頼まなければなりません。このちっちゃな袋には「伝票お控袋」という名前がついていて、そう印刷されています。
もちろんデパートの名前と共に、です。ほかの国ではですね、たいていの場合、署名した人が最後、あるいは最初のペイジをピッと破り取って「サンキュー」と残りの伝票を店員に渡し、控えの方を自分のポケットやバッグの中に入れていますね。このやり方の方が、時間と袋の節約になるのですが、日本でこれをすると叱られることがあるのです。
先日も日本橋の丸善で輸入書を買い込み、その間英語でものを考えていたからでしょうか、無意識に署名(私はクレディットカードなどの署名はローマ字にしています。 漢字より速く書けるものですから)したあと、伝票の最後のペイジを切り取って残りを店員に渡したら、「切り取らないで下さいッ。こちらで致しますからッ」 と、抗議をしたのですが、
「こちらで切ることになっております」と威張っています。「なっております」というのもおかしな話ですよね。あちらが切り取らなければならない理由はひとつもないのですから。私は時間をむだにしたくなかったし、 もしかして袋に入れられるのではないかと心配したのです。むだな紙の使用に荷担したくありませんのでね。
袋には入れられずにすみましたが、伝票は四つ折りにされてしまいました。 これもいやなんですね。私は控えをそのままファイルしておくので、たたまれては困るのです。日本人はすぐ「たたみたがる」んですよね。本にはカヴァーをかけちゃうし。下円をすそれにしても、なぜ伝票の控えを「伝票お控袋」なる小袋に入れなくちゃならないのでしようかねえ。
現金で買いものをしたときの領収書は、決して袋なんかに入れずに、そのまま渡してもらえますのに。むき出しにして渡さず、袋に入れた方が丁寧、と思われているのでしょうか。 まくら日本人が袋に入れず、西洋人が袋に入れるものは、たった一つ。枕です。ウッソー、ホント?
箸袋なんてふつうの中国人は使わないし、傘の袋なんて、よほどの高級傘でない限りよその国ではないんじゃないかな。外国では、大学生というのは、部厚い本を脇に抱えて歩いているのがふつうの姿なんですが、日本では、本をハダカで抱えている大学生って、あんまり見ませんねえ。あのローマ字が並んでいるボストンバッグという袋に本ははいっているのかしら。それとも?
[ちょっとおかしいぞ、日本人 (1988年 千葉敦子 著 新潮社 刊) ]
●03. 小物に凝る男たち. 16
日本の男性ほど小物に凝る男たちは、地球上にいないんじゃないでしょうかね。昼食をざるそばですますようなサラリーマンでも、スーツの胸ポケットには、モンブランのボールペンを差しているのが、そんなに特別の光景ではないんですから。
外国人の重役をインタヴィューに行きますとね、何かを説明するために紙に図を書いて下さるなんていうことが、よくあります。そういうときに胸ポケットやアタッシェケイスから出てくる筆記用具なんですが、本当にたいていの場合、百円もしないようなボールペンやフエルトペンなんですね。
それも黒とか紺なんかじゃなくて、緑色とか橙色などを使っている人が非常に多い。多分新聞や雑誌の記事とか、コピーされた書類などに印をつけたりするのに目立つ色の方が便利だからなのでしょう。ちょっとしたメモなどには、ピンクや茶色のフェルトペンを使う人が多いようです。
多くの国で、正式な手紙はタイプライターで打つものですから、筆記用具は署名だけにしか使いません。そして署名にはさすがに黒や紺のインクのボールペンや万年筆が使われることが多いのですが、ときには緑や赤のボールペンが使われたりもしています。いずれにしても、よほど凝り性の人を除いて、ふつうの人は筆記用具に凝ったりはしないみたいです。
記者仲間をみても、タイプライターを買うときは、何台も試してみて念入りに選んでいますし、ワードプロセッサーならなおさらですが、筆記用具に凝っている記者に会ったことはありません。ところが日本人はすごいんですよね。あんまり文字を書くとも思えない方が、何千円もするボールペンや何万円もする万年筆を持っていらっしゃる。
万年筆の場合ですと、インクにも凝って、国産品じゃなくて、米国製や西独製のものをお使いになる方も多いんですってね。 筆記具に始まって、メモ用紙を入れるケイス、手帳、定期入れ、名刺入れ、キーホウルダ ―。それからネクタイピンやカフリンクスやベルト、時計。そうそう、財布や小銭入れもありましたっけ。こういう小物に凝っている男たちがいかに多いことか。
男、男っていうけど、女はどうかですって? 女は日本人も外国人も共に細かいことに凝る人は多くて、日本女性だけの特徴とはいえないのですよ。しかし日本男性の方は、明らかに外国人の男性とは違うと思いますね。日本の男性は、世界の政治情勢がどちらを向いているかに関心を持つ人よりも、しゃれた小物を持つことに興味を抱いている人の方がずっと多いのは間違いなさそうですね。
かれらこうせい日本男性の小物愛好へキは、彼等の細部拘泥主義の表れでしょう。細かいところにばかり目が行くものですから、たとえば住宅事情の改善とか都市の再開発のような大きな事業はちっとも進まないのです。ホントに。
町全体や国全体、さらに世界全体への関心はひどく低くて、自分の家族と自分の会社のことしか頭にない。それで、ご自分の持ちものには、異常といっていいほど凝っていらっしゃる。ゴルフを始めるまえに高価なゴルフ用具を買い求めるとか、テニスを始めるまえに高価なラケットはもちろん、テニスウェアまで買い揃えてしまうとか。
こういう悪口をいっているのは、私ばかりではありません。高山研究所長の原真さんという方が、毎日新聞一九八三年一月十四日付に「ピッケルと日本刀」と題して、こういう日本人の傾向を批判していらっしゃいます。
刀が武士の魂であるように、ピッケルも登山家の魂である――とは、日本の登山家の間でよくいわれる言葉である。外国の登山家は、そんなことはいわない。おそらく、殺人の道具であるはずの刀を、持ち主の魂としてあがめたてまつったりする風習も、 にはあるまい。(中略)
細事拘泥主義におちいりやすい日本人は、戦争であれ登山であれ(あるいは平和運動であれ)戦略的に事をすすめる能力にとぼしい。戦略に価値をみとめるところまで成長していない。ないしは、戦略的行動にたえる精神力に不足する。(中略)
日本の登山家がピッケルにしめす執着の度合いは、侍が刀にしめした執着ににて、非戦略性のバロメーターといえそうである。それは未熟さやよわさの徴候ではあっても、 精神力の象徴などでは、けっして、ありえない。(後略)
いつか、香港の既製服輸出業者がこぼしていたのを思い出しました。欧米の買いつけ業者は、デザインや色や材質を見て気に入ればすぐ値段の交渉にはいる。ところが日本の買いつけ業者は、服を裏返して、ミシンの縫い目が不均等ではないか、つれているところがないか、 を徹底的に調べ、少しでも問題があったら商品は突き返されてしまう、というのです。
これは日本人からみれば当たりまえの態度ですよね。日本の消費者は、そういう点はうるさくて、 ミシンの目がとんでいるような服は買いませんから。米国の消費者だったら「誰が裏なんか気にするの?」と、平気で着てしまいます。
こういう日本の消費者の細かさ”が、製品輸入の非関税障壁になっているのは確かだと思いますね。ですから消費物資の輸入はなかなかふえないのです。そして将来もふえないでしょう。ところが、この細部にこだわるクセが、日本人の強味でもあるのですね。
日本製の自動車であれ電気製品であれ、時計であれカメラであれ、世界市場でこれだけ信用を得ているのは、 その徹底した品質管理に負っているのでしょう。細かいところに神経がゆきとどいていることこそ、日本製品の強味なのです。
外国人は、よく日本人のこうした meticulousness を嫌ったり、恐れたりしますが、よくも悪くもこのクセはとても日本的なんでしょうね。日本語には「重箱の隅をつつく」という表現があって、日本人自身、自分たちのそういうクセが陥りやすい欠点をよく心得ているようです。英語になりますと nit-pick(シラミの卵を拾う)という表現になり、いかにも軽蔑し切った感じが出ていますね。
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● 04. おじぎ測定器. 21
「おじぎ測定器」には参りましたね。これは、近鉄百貨店の社長さんがもともと考案したものだそうです。この社長さんは、店員の礼儀作法が、どうも感心しないので、おじぎのよしあしを「客観的に」測る方法を考えました。
最初に考案された器具は、簡単な金属の枠に木製の板をとりつけてあり、この板がおじぎの深さに応じて動くというものだったそうです。そして十五度のおじぎは同僚との挨拶に、 三十度のおじぎはお客さん向き、四十五度のおじぎは、目上や地位の上の人に「特別の敬意を払う」ために用いられることになったのだそうです。
しかし、この測定器はあまりにも原始的で、腰から上の角度だけを測ったのでは、実際の売り場でのおじぎは、あまりよくならないことがわかりました。それで、近鉄では電動式の機械を考案したのです。
今度の機械は、横向きの全身像に赤外線ランプが七つついていて、またほかの『電気じかけの眼”が脚や背中の位置を見張るようになっています。たとえばスウィッチを三十度のおじぎに合わせると、パネルのランプが、おじぎの深さが正しいかどうかを知らせるようになっているのです。何度もこの機械で練習をすると、十五度、三十度、四十五度のおじぎが自然にできるように身につくんだそうであります。
日本人は昔から「かたち」を大切にしてきました。かたちを整えることによって精神を引き締めたり、精神の高まりをかたちに表したりしてきました。ところが、それがゆき過ぎて形式主義に堕している場面が少なくありません。
百貨店員のおじぎ訓練にしても、そんなことに時間をかけるくらいなら、商品知識をつめ込む方に力を入れて欲しいと私なら考えます。店員がいないスーパーマーケットでの買いものとは違って、デパートで買う場合には、手入れの仕方とか、壊れた場合の修理の条件とか、 いろいろたずねたいことがありますからね。そういう質問にテキパキ答えて下さる方が、三十度のおじぎをしていただくよりもずっと消費者にとっては重要なんです。
それに、おじぎは三十度くらいにしている店員が、客に聞こえる場所で大声で私的な会話をしていることも多く、それを見れば客の方は自分が大切にされてなんかいないことがはっきりするわけです。深いおじぎというのは大体ウソの表現とみた方がいいんじゃないんでしょうか。うしろを向いたとたんにその人は舌を出しているような・・・。「頭だけ下げておけばすむことじゃないか」といった言草が使われるような・・・。
だって、本当に相手に敬意を抱いているなら、その気持は眼に現れるはずで、頭を下げてしまったら、相手はその人の表情が読めなくなってしまいますもの。社会に固定的な階級が存在した時代には、下位の者が上位の人間の眼を真直ぐに見ることは許されなかったのかも 知れませんが、現代の日本は「すべての人間は平等」という精神を標榜しているはずでしょう。
封建時代の名残りのような深いおじぎを強制するのは無理というものでしょうね。軽い会釈こそ現代的なおじぎなのではないでしょうか。
日本人のこうした「かたちを崇めるクセ」について外国人と話すと、次から次へと例を話してくれます。このクセは、国際的にもよく知られているようです。
アメリカ人の記者は、暦で夏になるまえに半袖の服を着て仕事に出かけると、会う日本人十人中八人は「寒くありませんか」と聞くと話してくれました。「暑く感じるか寒く感じるかは個人個人で違うはずなのに、日本人はいまも、ある日いっせいに衣替えをするみたい」 と彼女はいいます。確かにアメリカに行きますと、夏の夜など、若い人たちはが着だかドレスだかわからないような格好をしているかと思えば、年配の女性の中には毛皮をはおっている人もいたりして、各自がそれぞれの体温に合わせて着るものを選んでいるのがよくわかります。
アメリカ人のあるエグゼキュティヴは、次のような話をしてくれました。日本人の顧客のために東京でカクテルパーティーを開いたときのことです。パーティーのまえに彼の会社の日本人の代表者と打ち合わせをし、パーティーは六時から始めて、六時四十五分に彼が挨拶をし、八時に閉会ということにしてありました。
そのアメリカ人が驚いたのは、まだあまり客が到着していないのに、六時四十五分になる一分まえに、日本人代表者がマイクのまえに立って彼の紹介を始めたというのです。アメリカのパーティーだったら、客が早目に着くか、それとも遅目にくるかを見て、大方の客が会場にはいったころを見はからってスピーチをするのがふつうだと彼はいうのです。さらに彼がびっくりしたのは、確かにパーティーへの招待状に「六時から八時まで」と書いておいたけれど、八時一分まえになったら、会場にいた客が全員帰ってしまった! 「どうしてあんなに時間どおりに会話を終らせることができるのだろう」と彼はしきりに不思議がっていました。
それで私も思い出したのですが、誰かと話しながら道の曲り角まできたとします。相手が外国人なら、そこに立ちどまって話しかけの話題の終りまで話し、それから別れます。それが日本人ですと、何を話していても話をやめて別れの挨拶にはいる人が大半です。「曲り角にきたら別れる」という形式の方が話の中身に優先するのでしょう。
アメリカ人の友人たちが聞かせてくれた袖の話も時間の話も共に、個人の好みや気分よりも「季節ごとの着もの」とか「時間厳守」という形式が優先していることを示しているのだと思います。
一九八三年一月七日と八日付の朝日新聞に載った「水子供養、異様な活況」「鋳型にはめ次々量産(地蔵)」という記事を見て、日本人の「かたちを崇めるクセ」を商売にした金もうけのうまい人がいるもんだと感心致しました。
妊娠中絶をした女性やそのパートナーが自分たちの行為を悔いて、というよりは、供養をしないとたたりがある、といういわれに恐れおののいて、供養に出かけるらしいのです。ふだんは全く宗教的な生活を送っていない男女が、こういうときになると、とたんに仏教に入門しちゃうのもおかしいのですが、水子供養を宣伝文句にうたった寺は大変な繁盛だというのです。高さ三十三メートルの純金の大観音とか、話がすごいんですよね。
こういう寺の住職というのが、貸しビル業が本職で、高野山に一ヵ月こもって資格を取ったというのですから、なんだか安直ですね。
供養に地蔵を納めさせる寺もあって、そのための地蔵が、木製、金属製、プラスティック製と、工場で鋳型にはめて次々と大量生産されているのだそうな。
インスタント住職に供養してもらって、工場で大量生産された地蔵をそなえれば、たたりがなくなる、と本当に信じているならば、これはまた随分素朴な信仰心ですねえ。まあ、それよりは「一応型通り”にしておけば安心」という形式崇拝主義の表れではないでしょうか。
このように、何事につけても形式が好きな日本人は、法律の解釈なども得てして「杓子定規」という形容がぴったりということになりがちです。人間のために法律をつくったはずなのに、法律に縛られてしまうというケイスがよくあります。一九八三年二月十七日ニューヨーク発の時事電を読んだときは、ちょっと羨ましくなりました。
ニューヨーク州裁判所のオーエンス判事が、人種的偏見から黒人少年を襲撃した白人少年二人に対して、黒人の歴史に関する論文を提出すれば刑を軽いものにする、といい渡したというのです。重い刑を課すよりもこの方が効果があると判断したわけですね。論文のタイトルは「独立戦争前から公民権運動に至るまでの米国における悲惨な体験」というもので、期限は約一カ月。日本の判事さんもこのくらい弾力的だと、裁判記事を読むのも楽しくなるでしょうね。
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● 05. 名刺とラベル. 27
人との出会いに効果を発揮するものに「名刺」という代物があります。初対面のとき、たいていの日本人は、相手の名前に関心を払わず、名刺に印刷された会社の名前と肩書にのみ注意を向けるようですね。ですから、別れたあと、その人を話題にする場合も、 「ほら、先週、君が紹介してくれた○○銀行の人ね」
という具合に、組織の名前の方が覚えられていて、ご本人の名前は記憶されないのがふつうです。山田道夫とか竹下洋子とかいう個人の名称よりも、○○商事営業部長とか、××百貨店新宿支店長とかいった肩書の方が重要視されるわけですね。
日本経済新聞一九八三年三月九日付の文化欄に杉原民剛さんという名刺屋さんが「名刺のつくる名士の風格」と題する随筆を寄せておられます。その中に、例えば、四、五人の客がどかどかと来店し、名刺に印刷するネーミングまで考えてくれという。
おれが社長になるからお前が専務になれ、いやおれは営業部長のほうがよい、 などとガヤガヤ話し合い、一時間コースでできた名刺を持ち帰る。というくだりがありますが、日本では何事を企てるにも名刺が必要ですから「一時間コース」なども大はやりなのでしょうね。この方は、かつて肩書が「農業」の二文字のみという名刺があった。
後で知ったことだが、ある地方の名士で、いくつもの団体役員をなさっている方であった。なにかこの人の人柄がしのばれてほのぼのした思いになったことがある。商売柄、あまりにも肩書にこだわる人たちとばかり接しているためであろうか。と書いておられます。
私の場合、外国人の同業者ですと「ライダー」とか「ジャーナリスト」とだけ書いて、あと自分の名前と仕事場の住所と電話番号を印刷した名刺を使っている人も少なくないのですが、日本で「ジャーナリスト」という名刺を出すと、たいていいかがわしい目つきで見られます。
これは実際に私が八年ほどまえにやってみたことなんですから確かです。まさか総会屋と間違われたわけでもないんでしょうけれども。それで仕方なく、定期的に寄稿している新聞と雑誌の名前を端の方に並べて、肩書を「コレスポンデント」(特派員)として使っていますが、今度名刺をつくるときは、裏にズラッと著書名を並べてやろうかしら、と考えています。
日本人のビジネスマンが、会うとまず名刺を差し出すという習慣を輸出し、外国のビジネスマンも日本人と会う場合はそうすることが一般的になりました。世界の主要都市の名刺屋さんは、注文に従って日本語を片側に刷った名刺をつくるようになりました。それでも紹介されてすぐ名刺入れをまさぐる習慣はまだ外国では採用されず、まず握手が先です。
日本ではどうしてそんなに名刺が重要なのでしょうか。外国人同士ですと、自分がどういう人間であり、どういう仕事をしているのかを「ことば」で説明し、相手はそれを聞きながら、話し手の話し振りを観察し、途中で質問を挟んだりして、お互いの人物を知り合おうとします。名刺はあくまでもreminder (忘れないようにするための手助け)でしかありません。
ところが日本人の多くは、大変固苦しい話し方をするし、表情も変化に乏しく、服装にも個性が感じられないから、「個人の発する情報」が少ないといえるのかも知れません。いきおい名刺という「印刷された情報」に頼らざるを得ないのかも知れません。理由がなんであれ、日本人には人間の中身よりも外側のラベルを重視する傾向が強いことは否めないでしょう。
相手と自分との関係を、名刺を媒介とした情報で設定してのちに初めて話ができるというわけです。ビジネスを離れたパーティーでもいきなり名刺を出す人がいてうんざりします。受験戦争をひき起こしているのも、まさに人間を出身校というラベルで判断する日本人のクセが原因なのであります。
日本人の男性の中には鈴木健二さんのように、受験戦争の元凶は、高等教育を受けてヒマをもて余している教育ママと、「女性独特の見栄と打算と狭いものの見方」にある(「気くばりのすすめ」講談社、一九八二年)と、女のせいにしたがる人も多いようですが、男性が牛耳っている企業の新人採用試験官が応募者の出身校を問題にし過ぎるから、母親たちは「いい学校」に子どもを入れることに躍起になるのですよ。
企業にはいるときばかりでなく、出身校は一生つきまとうんですよね。社会に出てから何年経っても、たった四年間を過ごした大学がどこであったかが、重大な項目として、その人間の評価を決める基準に使われるのです。
随分不公平な話だと思いませんか。十七、八歳のときの、たった一種の能力がその人の一生を左右するなんて。つまり、日本人は、個々人の能力を自分で判断せず、出身校というものさしに頼ってしまい、個々人の人物を自分で見きわめようとせず、名刺の肩書に頼ってしまう。
もうちょっと別の話をしましょうか。人の容姿を褒めるときに、日本人は「○○さんに似ていらっしゃる」 という表現を使い、 芸能人を引き合いに出すことが多いですよね。これ、外国人にはとてもいやがる人が多い。 比較する相手がポール・ニューマンのような美男でも、ラクウェル・ウェルチのようにセクシーな女性でも「似ている」といわれるのをいやがります。
自分の容姿は自分のものであって、ほかの人と似ているなんて、とんでもない、と彼等は考えるようです。 考えてみれば、誰かに似ている、という表現は随分安直なものですよね。本人の魅力を表現することばを探さず、手軽に通用するラベルを持ってきちゃうのですから。日本人はちょっと怠慢なのかな。
日本人の「個人を軽視する性癖」のもう一つの例。またまた日本経済新聞ですが、一面の「春秋」というコラムが、アメリカでの日本食の普及をとり上げた(一九八三年二月四日付)のですけれど、その話の情報源として、キッコーマンの出版物に言及し、その筆者である砂田登志子さんというフード・ライターの名前には触れていないのです。
たまたま私はその出版物に目を通していたので、その報告の筆者が砂田さんであることを知っていたのですが、報告を書いたのは砂田さんであって、キッコーマンではないのに、個人は無視され、報告を依頼した組織の方が重視されてしまうのですね。もちろん、すべての日本人がラベル好きなのではなく、磯村懋さんという私塾経営者のように、五人の子どもを、ラベルを貼らせない方針で育てておられる日本人もいます。
朝日新聞一九八三年三月二十五日付「ひと」の欄によりますと、磯村さんの長男が中学にはいったとき、本人の希望で紺のダブルの上着を買い与えたのだそうです。ところがこの学校には詰襟の制服があって入学式で叱られた。
磯村さんは、長男に自分で考えて決めるようにいったところ、長男は「服装は人格の象徴だから自由であるべきだ」といい「髪形やカバンでも独自性を発揮、小学生も含めた弟妹全員がこれを見習い、いずれも学校で問題扱いされ」たそうです。
そして長男は高校に行かず自宅で独学して大学入学資格を検定で取り、弟妹もそれにならう由。こういう話読んで「いいなあ」と思うのは私だけかしら。 建築家の丹下健三さんは日本経済新聞の「私の履歴書」の連載の中で、 そのころ小学生は、ヒザ小僧が出るくらいの寸足らずの着物を着て、ゾウリかゲタをはいていた。
ところが私は、上海からの帰りたてで、詰めえりに半ズボン、時にはネクタイを着け、革の編み上げぐつというスタイル。学校に行ってもみんなからジロジロ見つめられて、相当、異端視されたものである。(一九八三年九月十一日付)とお書きで、私はこれを読んでからますます丹下さんのファンになりました。私は異端視されるような人が好きです。
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● 06 カラオケ・コミュニケイション
名刺が日本社会でこんなに幅をきかせるのは、日本人が自分について語るのが下手だからでしょうね。お酒がはいると、ご自分が地球を回しているくらいの勢いで自慢話をとうとうとなさる方もありますけれど、真昼間、ごくふつうの声音で、手短かに自分が何者かを語る---これができる人は少ない。
自己紹介だけでなく、日本人は一般的にことばによる表現が苦手のようですね。多くのことばを費して相手の理解を求めようとはせずに相手が「察する」ことを求めます。そして、 察して貰えない場合には、かなりあっさりと諦めるのが一種の美学となっているようです。 「しつこい」のは嫌われます。
論理的な議論は終ってないので「私の議論に対する反論を聞かせてよ」というと「いや、 もういいよ」なんていわれてしまいます。これが気持悪いんだな。私は日本人だけど、話は論理で進めたいし、感情的に同感しなくても相手の論理に整合性があれば落ち着きますが、 議論を詰めずに途中でやめるのは非常に気持が悪い。ちょっと議論を追いかけると「しつこいなあ」といわれてしまいます。
とくに一つの話題が詰められずに終って、ほかの話に移ってから暫くして元の話に議論を戻そうとすると、抵抗を示す人が多い。西洋の習慣なら、仕事が終ってからわざわざ着替えて職場では会わない人たちに会いに行ったり自宅へ招いたりするのは、自分とは違う畑の人、違う文化で育った人と自分の論理をぶつけ合ってみることに楽しみがあるからだと思います。
ところが日本では、陽が落ちてから少々論理的な話をすると「まあいいじゃないですか、 一杯どうぞ」なんてごまかされてしまうんですよね。そして、もてはやされるのが、みなさんご存じのカラオケなるものです。ほかの流行と違って、これは続いてますねえ。国内ばかりでなく、東南アジアやアメリカの大都市でも、日本人ビジネスマン専用のカラオケ・バーが繁盛しているようです。
なぜあんなものがはやるのか。それも、日中はしかつめらしい顔をしていらっしゃる方に限ってカラオケ・ファンでおいでのようで。日本楽器が東京証券取引所に株を上場する企業五十社に勤める部課長二百五十人に対して調査したところ、カラオケで「週に一回以上」歌う人が一割もいたそうです。そして七割の人がカラオケの効用を「同僚・部下・得意先とのコミュニケイションに役立つ」と考えているんだそうです。
どうも日本人のコミュニケイションというのは、とことん議論を詰めることなどは絶対にせず、半分酒に酔って大声で歌い「なんとなくいい気持になる」ことで、「相手もいい気分になっているはず」と安心する---という形態が一般的なようですね。
朝日新聞の一九八三年一月十日付によりますと、東京郊外のある市では「住民の要望」で、 十台のカラオケ・セットを買うことになり、その費用約二百万円が昭和五十八年度予算に計 「上されたとのことです。市長の発言は、「とにかく、何も考えたくないんだ、市民は。わずらわしいんだよ、みんな。カラオケで騒ぎたいんだ。
それに行政が、ちょっと手を貸してやっただけさ」となっていますが、これが本当なら、ちょっと恐ろしくなりますね。カラオケで歌いたがるのは、遊びたい盛りの子どもたちではなく、分別盛りのサラリーマンや、育児を卒業した主婦が圧倒的に多いというんですから。
大きな声で歌を歌わないと発散できないほど、うっ屈した気持をみなさん抱えておいでなのでしょうか。それとも、ほかに自己を表現する手段を持たない人々の、最低限の自己主張をあそこに読みとるべきなのでしょうか。
一番わからないのは、デイトをしている女性をカラオケ・バーに誘う男性のいることです。 それはね、大勢でお祝いの会なんかしたあと、ビアホールなりカラオケ・バーなりで歌うという気分は、わからなくもないですよ。でもせっかく男女二人で会っているのに、わざわざ話もできないような場所に出かけるのは・・・。
二人でいるときさえ、話ができない男性が多いということでしょうか。初めてのデイトでアガッている十代の少年なら、それもほほえましいけれど、それでもカラオケなんかに頼らず、相手が楽しくなるような場所を選んで欲しいものですねえ。ましてや、いい大人の男が、大人の女を相手に、夜の貴重な時間を、カラオケ・バーで過ごすなんて、どうかしてると思いませんか。
日本人のカラオケ好きは、海外にも知れ渡っていて、中曽根首相が一九八三年一月に韓国のソウルを訪問したとき、二回目の会合は、全大統領がカラオケ大会を催して中曽根さんを歓迎したそうです。朝日新聞の小林特派員によると、場所は青瓦台近くの貴賓迎接館で、タレントや映画女優など女性八人を招き、全大統領は韓国歌謡「金笠」を歌い、これに対して中曽根首相も「黄色いシャツを着た男」を韓国語で歌ってこたえた、とのことです。
外交には、リラックスするためのもてなしがつきものですが、一時間四十分にわたって、 献杯の応酬とカラオケに終始する首脳の会合というのは、いかがなものでしょうか。日本人の夫婦の間に会話がないのも、もはやよく知られた事実で、夫たちは「メシ、フロ、 ネル」の三語しか発しない、といわれています。そんなことまでわかっているのに、結婚に幻想を抱く女性が跡を絶たないというのも不思議な話ですねえ。
[ちょっとおかしいぞ、日本人 (1988年 千葉敦子 著 新潮社 刊) ]
● 07. 毎度、お騒がせしています
日頃、日本で暮らしていて、私が一番「イヤだな」と思うのが、わきから覗き込まれることなんですよね。たとえば、銀行の預金を自動的に出し入れできる機械がありますね。あの機械を操作しているときに、うしろの人がやたら私のからだに接近することが多い。ぴったりうしろにくっつくようなヤツもいる。
もっとひどいのになると、斜めうしろにきて私の手もとを覗き込む。 たとえばアメリカでは、一番近い機械から一メートル半ほど離れたところから待つ人の列ができて、列が長くなれば、うしろの人は建物の外に並ぶことになりますが、それでも機械を操作している人との間にはきちんと距離が保たれています。列の先頭の人は、空いた機械の前に進むわけで、列は一本です。
あるいは、郵便局の窓口で用をすませていると、次の人が私のうしろに並ばずに横にきてしまい、終始私の用件を覗き込んだりします。先日、米国大使館でヴィザを貰うために並んでいたときも、次の人が私の横にきてしまうので、不愉快だな、とその人をにらんでも全く通じません。大使館の係官の方が私の視線に気づいて、「うしろに並んで下さい」といってくれました。
成田空港で税関を通過するときも、まえの人が荷物を検査されているのに、すぐ隣りに立って、その人の荷物を眺めている人がいます。離れて待つのが常識でしょうに。毎日、地下鉄の切符を買うたびに、このイヤな気分を味わわされるのは、私がコインを入れて切符が出てくるのを待つ間に、もう斜めうしろから手が伸びてコインを入れようとしている人がいることを知るときです。
いろいろ例を出しましたが、まえの人との間にある距離を保つ、ということが日本人はできないようですね。他人のプライヴァシーを尊重する、という基本的な認識に欠けているのでしょう。「プライヴァシー」 ソー」に相当する日本語がないことからもわかるように、日本人は他人のブライヴァシーに鈍感です。他人の身の廻り数十センチ以内には近づかないというのが、ブライヴァシーの原則だと思うのですが、日本人は平気で他人のからだに触れますよね。
毎朝、毎夕、通勤電車で他人との接触を余儀なくされるために、そういう方面の神経がズサンになってしまうのでしょうか。話はずれますが、この通勤地獄が解消されない限り、日本は先進国だとか、豊かな国だとか所することはできないと思います。他人のからだに触れずに乗物に乗っていられる、というのは基本的人権に属するんじゃないでしょうか。
こういう通勤地獄を経験して、国土の狭さと人口の過大さとを十分に認識している男女が、なお子どもをつくりたがるというのも私の理解を越えますねえ。人口がいまの十分の一であったら、日本は素晴らしい国になるはずですのに。
けれど、プライヴァシーの軽視は、何も人口過剰によってもたらされたのではなく、日本が西欧流のルネサンスを経ないで近代国家になってしまったことによるものでしょう。個の確立なしに装いだけ近代国家になってしまったため、人々は都市に住んでいながら、封建時代の村民と同じ行動様式をとる、ということがままあります。
たとえばチリ紙交換。あれは極めて原始的な方法によるリサイクリング事業なのですが、 プライヴァシー観念がないから成り立っているのでしょう。日曜日の朝、早くから拡声機で 「毎度お騒がせしております」とやられても、おとなしく黙っている住民(私は何度か警察に電話をしましたが、あの騒音を取り締まる「法律」はないとのこと)によって成り立っているわけです。
ほかの先進国でしたら、日曜日の朝の静寂を破る権利は認められないと思いますけれども。昔の豆腐屋の笛とか、竿売り、金魚売りの声と違って、チリ紙交換は拡声機を使うから、 静寂を破り、日曜日の朝のプライヴェイト・タイムを奪うことになるわけです。ところが都市住民に、日曜日の静寂を守るという権利意識がないんですよね。
何故、チリ紙交換業者や焼きいも屋だけにあの暴力が許されるのでしょうか。すべての販売員がマイクロフォンを使い出したらどうなるでしょう。
たとえば週刊誌のセールスウーマンがかん高い声で、「毎度お騒がせしておりまーす。『週刊○○』の宣伝カーでございまーす。×月△日号は 「P夫妻いよいよ離婚か」の特集で、噂のステュワーデスQ子さんの独占インタビューなど特別記事が満載でーす。そのほか、告白記事…」とやったらどうなるか。
もし、これがいけないなら、どうしてチリ紙交換はいいのでしょうか。他人のプライヴァシーをおかさない販売方法を考えるべきではないでしょうか。そうでなくても、都会に住む人間は騒音に悩まされているのです。そして都会を逃げ出しても騒音からは逃れにくいのが現状です。
温泉などに行っても、団体客の宴会がひと晩中うるさくて、静かに楽しもうという旅人のブライヴァシーは無視されてしまう。観光地ではガンガンと音楽を鳴らしていて、ゆっくり景色を眺める気分も壊されてしまう。
これは明らかな暴力だと思いませんか。そして抗議する人は必ず「変わっている」「うるさいオバンだな」「ペンスなんじゃない」と悪口の限りを浴びせられるのです。
こういうときに「おとなしくしている」というのも日本人のクセでしょうね。「おとなしい」ということば自体、考えてみると面白いですよね。
「従順である」ことが「おとなびている」と同義に使われているわけで、こういう場合に、うるさくいい立てないのが、おとなの態度とみなされるのでしょう。消費者運動や環境保護運動などは、日本ではなぜか「女子どもの騒ぎ立てること」と見られがちで、大の男はこれをバカにする風潮があると思いませんか。
[ちょっとおかしいぞ、日本人 (1988年 千葉敦子 著 新潮社 刊) ]
● 08. メニュー要らず
ちょっと高級なレストランに行った場合、一体どんな料理をたべさせてくれるのか、メニューを眺め渡すのは、食事の楽しみのうちの大きな部分を占めますし、ふつうのレストランなら、限られたメニューの中で一番おいしそうなものを探すのが、ひと仕事となります。
ところが、日本人の男性の中には、メニューを読まない人が多いんですねえ。もちろん、 なじみの店で、こちらの好みがよくわかっているなら「委せるよ」という手もありますが、はじめてはいった店でもメニューを開くことさえしない方もあります。こちらが、「もうカキはおいしい季節になったのかしら」とか、
「当店特製パテっていうのは、どんなものでしょう」とか話しかけても一向に関心を示さず、注文をとりにきた人に私があれこれ聞いて、たべるものを選ぶと、
「それ二つ」とか、「同じものでいいや」なんておっしゃる。途端に食事の楽しみが半減してしまいます。何も通ぶってなんのかのと講釈して下さるには及ばないけれど、ご自分が召し上がるものくらい、もう少し"自主的に”選んでいただけませんかしら。
メニューを読まず、お仕着せの給食をたべるみたいに食事をなさる方をみると、人生でも何事も『選択しない”人なのだろうな、と推察したくなります。世間がいいという学校に行き、名前が通っているというだけの理由で会社にはいり、上役の奨める女性と結婚をし、会社が決める人事異動に従い…。
給食といいましたけれど、欧米では、学校給食でもふつうメニューがあり、最低ふた通りはメイン・ディッシュがあります。子どもでも自分の好きな方を選ぶ”習慣を身につけています。日本のように教室でたべたりはせず、ちゃんと食堂に行って食事をします。
病院の食事も欧米では選べるようになっているのがふつうです。飛行機内のようにスペイスの限られた場所でも、一等ならふた通りのコースから選べますし、エコノミークラスでも料理は均一なことが多いのですが、食後のコーヒーと紅茶は好きな方を選べます。欧米のレストランでは、つけ合わせの野菜も選べるのがふつうです。
お酒の注文の仕方をみても、多分九十パーセント以上の日本人は、ビールか水割りか日本酒を飲み、ビールやウィスキーや日本酒の銘柄は指定しないようですね。 このような、自分で選択をしないクセというのは、何を意味しているのでしょうか。
お上カら与えられたものを従順に受け取る性格を表しているのでしょうか。米の銘柄を廃止しようという農林水産省の案はつぶれましたが、米の銘柄といったって、 日本ではコシヒカリとササニシキくらいしか知られていませんよね。米を主食とする国なのに。アメリカでは十種類以上の銘柄が知られています。
食品問題研究家の砂田登志子さんの話によると「ミニッツ・ライス」「サクセス」「マハトマ」「ウォーター・メイド」といった有名ブランドのほか、各地の中小業者の製品も次々にマーケットに進出しているそうです。 銘柄を選ばないというクセが、日本人の単純なブランド嗜好につながり、大量の宣伝費を使う企業が消費財市場を寡占する状況を生み出しているのだと思います。
テレヴィジョンという媒体を使って、繰り返し繰り返し同じ商品名を訴えるという宣伝方法は、米国で発達したものですが、そういう方法がもたらす危険性について最初に気づいて力強い消費者運動を発達させたのも米国です。ところが日本では、企業の側のTV媒体活用は大幅に進みながら、その濫用をチェックする方の機能はあまり発達してこなかったようにみえます。
生産財の市場では、競争は非常に激しく、一社の製品がマーケットを独占するのは大変難かしいというのに、消費財市場では驚くべき寡占化がみられます。これは、たとえば日米のスーパーマーケットの商品構成をみれば明らかでしょう。
日常誰もが使う商品の多様さは、比較になりません。たとえば、シャンプー。日本のスーパーや化粧品店で売っているものに、いったい何種類あるでしょう。マ いるものに、いったい何種類あるでしょう。アメリカでしたら、たとえば油っぽい髪用だけでざっと十種類、パサパサしやすい髪用のもの十種類はあります。
それに、蛋白質入りとか 蛋白質入りとかヴィタミン入りとか、香草入りとか、とくに問題のある髪のための特殊なシャンプーとか、コンディショナーの役目も果たすものとか、多くのヴァライェティ ―がみられます。もちろん値段の面からいっても、一般大衆品から高級品まで。サイズも小さい瓶入りから徳用大型容器入りまで。
そして、これが重要ですが、メイカーがそれぞれに違い、メイカーの国籍も異なるのですね。 日本のスーパーで、いくつの醤油メイカーを数えることができるでしょう。醤油のように日本食の基本的調味料が、これほど寡占されているのは驚くべきことです。近年になって減塩醤油もつくられるようになりましたが、当然過ぎる話でしょう。
日本人の塩分のとり過ぎが多くの病気の原因になっているのですからね。 醤油やシャンプーの選択に幅がないということが、人生の選択の幅のなさにまでつながっているのではないでしょうか。どうして誰もかもが大学と名のつく場所に行かなければならないのか。子どもを塾なるものに通わさなければならないのか。
誰も彼もがサラリーマンになりたがるのはなぜか。二十歳前後で「安定性」を第一の価値基準として職業を選ぶ日本人が圧倒的に多いのはなぜなのじゅくか。 こういう保守性、体制肯定主義は、日常生活の、子どものときからなじんだ「おとなしさ」から育ってくるものじゃないでしょうか。
人生はたった一度しかなく、人生のコースを選ぶのは、本人に与えられた最大のチャンスですのに。ボリス・レオニードヴィチ・パステルナークの「自由でない人は常に自己の不くどう由を理想化する」(オリガ・イヴィンスカヤ著、工藤正広訳『パステルナーク詩人の愛』新潮社、 一九八二年)ということばを味わっていただきたいものです。
[ちょっとおかしいぞ、日本人 (1988年 千葉敦子 著 新潮社 刊) ]
● 09. スリッパのルール
和洋折衷の日本人の暮らしが生み出したおかしな習慣はいろいろありますが、その一つがスリッパの履き替えです。初めて日本人の家へ招かれたり、日本旅館に泊まる外国人がとまどうのが、このスリッパのルールであります。
まず、日本の家や建物にはいる場合に靴を脱ぐというルールは、多くの外国人が知るところとなっています。しかし玄関で、なぜ本来寝室で履くべきスリッパを出され、「どうぞ」といわれるのかは、わかりません。まして病院とか、旅館とかで、誰が履いたかわからないようなスリッパを履かされるのには、抵抗を感じる人が少なくありません。
そして、日本人の家の中では、靴からスリッパに履きかえるものだと覚えた外国人が、畳の部屋にスリッパのままはいろうとすると、「あ、そこで脱いで下さい」なんて、いわれちゃう。どうして? これは全くわからない。それに、スリッパの向きを反対側にする。そういえば靴もそうだった。
辞去するまえに手を洗いたいと思っておうとすると、 畳の部屋から出てそのままを玄関脇の方へ向かおうとすると、「スリッパどうぞ」といわれる。そして! トイレにスリッパのままはいろうとすると、もう一組のスリッパが中に置いてある。これは、なんのことかいな、と思って、その家の人にたずねると、トイレ用のスリッパに履き替えなければならないという。どうして? わかんないよ。
このルールは難しいし、狭い家の中で何度も脱いだり履いたりめんどうくさいねえ。 と、外国人は嘆くのですが、スリッパのルールは、すごくカッチリと守られているようで
난 すね。
スリッパの話からテイブルマナーに話が移るのは、ちょっとおかしいかも知れませんけれど、日本人は西洋料理をたべるときは、“正式”といわれているマナーに、大変神経質ですね。魚料理には白ワインを、肉料理には赤ワインを、と、ふつうの食事にもいちいちワインを変えたりしてタイヘン。西洋料理を常食としている国々の庶民は、白か赤かどちらかの安ワインを一本頼んで、食事の間ずっと同じものを飲んでますけどね。
それでいて、和食のたべ方のルールは、もう忘れられちゃったみたいですね。お椀は右に、 ご飯は左に置かれるべきなのに、料理屋で逆に出してくるところさえあります。そして、ひと口吸物を飲んでから、ご飯をひと口たべ、それから料理へ・・・というように私などは躾られて育ちましたが、最近では、料理に初めから箸をつける人もいて、びっくりです。
移り箸とか返し箸など「お行儀が悪い」と、私の子どものころは叱られましたけれど、もう誰もそういうことを気にしなくなったのでしょうね。まるで外国人のような箸の持ち方をする人もいますが、日本食が国際化するにつれ、日本本来のテイブルマナーも廃れていくのだろうと思います。
そして、万国共通の、音を立てて汁物を吸わない、口にたべものを入れて話さない、食卓で病気の話をしない、テイブルにひじをつかない、といったマナーだけが残っていくのでしよう。
一時期、欧米のビジネスマンたちは、日本にくると、日本人の真似をして、コーヒーをズズズーッと音を立てて飲んだりしたものですが、だんだんそんな真似もやめるようになりました。とくに難しいルールは廃れて然るべきですが、誰から見ても感じのいいマナーというのはあるもので、音を立てずに飲むのもその一つです。
和風の食事作法は廃れてしまいましたが、日本人というのは概して、きまりを“正式に” 学ぶのが好きですよね。たとえば寿司屋では、 口から始めて巻きもので終るように注文するのがきまりになっていますから、いきなり「紫蘇巻」なんかを注文すると、軽蔑のマナコで見られます。
また箪笥は衣類を入れるもの、と決められていますので、外国人が箪笥を靴入れに使っているのを見ると、イヤな顔をする日本人が多いようです。それなのに、本来寝室で履くべきスリッパは、玄関や客間にお出ましになっている。ビジネス・スーツ姿の男性やドレスを着た女性がスリッパをつっかけている姿というのは、視覚的にもオカシイですよね。
先日、ホテル・オークラで、夕食に出かけるところ、といった様子の金髪の女性を見かけました。エナメルのハイヒールにゆらゆら揺れるイヤリングを下げ・・・華やかな柄のキモノを着ていましたよ。
米国のカリフォルニアあたりでは、街中で裸足の若者を随分見かけますけど、日本ではハダシの人、見ないですねえ。一九八三年五月二十九日付の朝日新聞によりますと、八十二年前のこの日、警視庁は、ペスト予防のため東京市内でのハダシ歩行を厳禁することにしたんだそうです。スリッパからハダシの話になりました。
[ちょっとおかしいぞ、日本人 (1988年 千葉敦子 著 新潮社 刊) ]
● 10. ライオンのポーズ
どうも、ほかの日本人のクセばかりとり上げてきて、笑ってばかりいるのも気がひけるので、ここで私のクセをこっそりお教えします。ほかの人にはいわないでね。まず、寝るときは、仰向けに寝ず、横向きに寝るのがクセ。
右を向いたり、左を向いたり、 ひと晩中に何度も動くらしい。上を向いて寝ると苦しいのです。からだの割にお尻が出っぱっているので、上を向いて寝るとお尻がつぶれるような気分になるのです。腰も痛くなる。
手術のとき、何時間も手術台の上で仰向けに寝ているのは辛いな、と思いましたが、全身麻酔をかけられたので、苦しさを味わわずにすみました。それから、朝、眼が覚めたときに、、眼をカッと見開いて、アゴを引き、舌を力いっぱい長く出すというクセ。
驚いちゃいけません。これはヨガの「ライオンのポーズ」を寝てやっているだけなのです。広池秋子著『奇跡の生活ヨーガ』(海竜社、一九八一年)によりますと、このポーズの刺激するツボは「大迎、人迎、四白、印堂」とあり、効用は、大きく口を開けて舌を出すので、舌のツケ根が引っぱられ、唾液腺ホルモンの分泌をうながし、目尻のシワをとり、胃の働きも活発にします。
のどの奥の入迎のツボを刺激し血行をよくするので、扁桃炎の腫れや痛みをとります。 ふだんはほとんど動かさない眼筋や視神経を働かせ、ツボを刺激するので目をすっきりさせます。舌ガンの予防にもなります。となっていて「低血圧やかぜで朝起きにくいときは、寝たまま顔だけでしても効果があります」と書いてあるんです。
私は夜型人間で、朝は起きるのが辛いので、効果あるといわれるものは、なんでも試しているのです。いい方法があったら教えて下さい。眼が覚めても、横の状態から縦の状態になるのが辛いので、寝覚めに本を読むというクセも持っています。前夜眠りにはいるまえに読んでいた本の続きを読むのです。
やっと起き上がる気になったら、次に毎朝髪を洗うクセ。髪を洗わないと、本当に完全に眼が覚めて仕事にかかれるという態勢になりません。シャワーから出たあとは、すごくヴォリュームのある朝食をたべるクセ。ひどく忙しい日は朝からステーキをたべます。
ふつうの日は野菜サラダと卵にマフィンなど。たっぷりのヨーグルトかギネス・ピールにコーヒー。随分変な朝食だとお思いになりますか。炭水化物と糖分を極力減らして、蛋白質を十分に摂っているのです。ギネス・ビールは蛋白質に富み、またアルコールが精神高揚に役立ちます。
朝、いやにのんびりしていると思われるかも知れませんが、これで八時半には仕事を始めています。朝も昼も夜も食事にはたっぷり時間をかけますが、そのほかのことは超特急で片づけます。男友達が「家の中でまで走ることないじゃない」といいますが、走り廻らないと間に合わない。家の中を走るのも私のクセでしょうね。
午前中は原稿を打つことが多いのですが、タイプライターに向かって精神を集中します。窓の向こう側の汚ないビルはなるべく見ないようにして、わずかばかり見える空を眺め、精神統一を図ろうとするのですが、こういうときに限って、いままで気にしなかった窓ガラスの汚れなんかが気になり出したりするんですよね。
この汚れを気にしながら仕事をするのと、 きれいにしてしまって仕事の能率を上げるのと、どちらが賢いか、なんて都合のいい設問をして、結局ガラス磨きにかかる。ガラス磨きをしながら、原稿の出だしの文句がパッと浮かんだりして、タイプライターに戻ったりすることも稀れにはあります。
でもたいていは、ガラスがピカピカになっても原稿にとりかかる気分になれなくて、 上を雑巾がけしたり、なんやかやと家事をやって、仕事の開始を引き延ばすのです。そう、仕事が忙しいときに限って掃除をよくするというのが、私のもうひとつのクセ。
原稿の出だしの文章が書けなくて唸るというのは、多くのもの書きに共通した病気ですが、私は「時間をムダにしてはいけない」という考えにとり憑かれているので、タイプライターのまえに坐って、文章が出てこない場合は、「ただ坐っていても仕様がない。からだを動かせば少しは頭も働くんじゃないか」と空しい希望を毎度抱くのです。このように、私もいろんな、おかしなクセを持った人間です。ご安心下さい。
[ちょっとおかしいぞ、日本人 (1988年 千葉敦子 著 新潮社 刊) ]
● 11. 男も女も、すぐ僻む
僻み根性というのは、日本人の最も得意とする“根性”ではないでしょうか。日本はこれだけ一生懸命にやっているのに、欧米はちっとも理解してくれないと僻む。自分なりに最大限努力しているつもりなのに、課長は全然評価してくれないと悩む。私の方が彼女よりよく働いているのに、彼女ほど美人じゃないから認められないんだわと僻む。
「僻む」に相当する英語ってないんですよね。研究社の「大和英辞典」(一九七四年版)では、become jaundiced (prejudiced); be biased; regard with suspicion; take a jaundiced viewと出ていますが、これらは「偏見を持つ」「疑いのまなこで見る」という感じで「僻む」にぴったりとはきません。
朝日出版社の「日米口語辞典」(一九七七年版)は、be so (overly) sensitive を使っていますが、これも「気に病む」という感じですねえ。両方共もちろん場合によっては、その訳語でいい場合もありましょうが、「僻む」をドンピシャリとは表していません。 しかし、日本人の間では僻みは氾濫しているようにみえます。
とくにマスメディアは、出演者や執筆者が僻んでみせることによって、一般大衆と同じ位置にいることを誇示する傾向が強い。いやらしいなあ、とつくづく思うのは、著書がミリオン・セラーとなって、所得が七千万円を越えたと報道されているあるアナウンサーが、その最も売れた著書の中で、貧乏な会社員には娘のための三百万円の貯金ができないでいる、と嘆いてみせているんです。
その本が売れるまえは本当に安月給で喘いでいたというならいいですよ。そうではなくて、彼の本はまえから随分売れていて、決して三百万円の貯金ができない状態なんかじゃないのです。でもサラリーマンは辛いからね、と自分も辛いフリをして、僻んでみせることによって、 この人はTVでも本でも、視聴者や読者の共感を得ようとしているのです。
日本では「私にはこういう能力があります」「こんなに成功しました」「私は強い」といったら、だいたい嫌われます。視聴者や読者に好かれようと思ったら、僻んでみせるのがいいのです。その一例。一九八三年四月十三日付、日本経済新聞の「春秋」コラム。
先ごろ日本で始まった募金目当ての行進、ラブ・ウォークは大変結構。老いも若きもある距離を歩き通して家族や友人から小遣い銭を集めて慈善事業に寄付する仕組み。本場の英国では、スポンサード・ウォークと言う。こちらでは『愛の行進”とでも言うつもりだろうが、俗耳には男女ピッタリ寄り添わねばダメか、とひがんで聞こえる。良い試みだけに、命名にいま一工夫あってほしい. というのです。
随分僻みっぽいですねえ。“愛”というと男女の間の愛しか思い浮かばないのも、かわいそう。それにしても「俗耳にはひがんで聞こえる」といういい方、日本人はよくやりますが、読者に媚びていていやですね。
『ジャパン・アズ・ナンバーワン』の著者エズラ・ヴォーゲルが嫌いだというヨーロッパ人に会ったので、理由を聞いたら、「だって、彼の本には頻繁に『もし私の述べてきたことが正しいならば』という但し書きが出てくるんだよ。 ああいうcoyness(純情ぶり、控え目にしてみせる姿勢、遠慮した格好)は我慢ならないね」といっていました。日本人の本はcoyness だらけじゃないでしょうか。僻み根性は、男にも女にもありますが、男が女に対して僻むときは、大分ヒネクレタ形になって現れます。
一九八三年六月一日付、朝日新聞の日曜版に桐島洋子著『家族になるものこの指とまれ」 (文藝春秋、一九八三年)の紹介記事が「酒」なる署名の執筆者によって書かれていますが、 この記事を書いた人も、「『華麗な生活』紹介」という見出しをつけた整理部記者も、共に男性だろうと想像させられます。
文中に、「第一線で活躍するキャリア・ウーマンの華麗な生活』は、いま雑誌のグラビアを飾る」と出てくるのですが、この""(チョンチョンガッコ)というのは、曲者なんでという形容詞も曲者。共に、橋島洋子の仕事と生活をちょっと茶化しているわけです。
気が向けばさっとアメリカに友だちを訪ね、夏ごとに家族もろとも海外で休暇をとる--そんな優雅な暮らしぶり ある時は、豪勢な中国料理を一日がかりで食べる名士たちの集いに招かれたり---ゼイタクを絵に描いたような著者の暮らしぶりは、真似ができそうもない。
そんな著者の暮らしに、なみの人間が突き当たるような家族の問題など初めからありはしないのだ。著者の口真似をすれば、「ゼイタクの意味を知りたいものこの本にとまれ」。と、まあ、この僻み振り、どうでしょう。
テキサスに住む女友達へ、高校時代の恩返しをするために、桐島さんは飛んで行くのですが、たった三日しかいられない。「気が向けばさっと」と酒さんは書かれるけれど、行かなければならなかった重要な動機については触れていらっしゃらない。豪勢な中国料理の集いに招かれた、ほかの名士はみな男なのに、そういうところへ女が招かれると、すごく僻まれちゃう。
「ゼイタクを絵に描いた」というのは、随分大袈裟ですねえ。写真を拝見したって'豪邸'とはお見受けできませんし、そのくらいの暮らしをしている男はたくさんいるじゃありませんか。それに桐島さんの努力と才能を無視して、暮らしぶりだけ「真似する」のもずうずしいヨ。「家族もろとも海外で休暇をとる」ことを桐島さんができるのは、いろいろ工夫し、 原稿を持って行ったりしているからでしょう。
女が成功するとだいたいこの手でケチをつけられるのです。それから「家族の問題」についていうなら、桐島さんは、この本の中で何度も、子どもとの世代ギャップに触れ、心配しながらも、子どもの人格を認めようと努力されています。また物質的に恵まれ過ぎて育つ子どもたちに懸念も抱いておられます。
「家族の問題など初めからありはしないのだ」という読み方はどこから出てきたのでしょう。酒さんのいう「なみの人間が・・・」という表現はcoyness の典型であります。どういうわけか、この同じ本が、同じ日の朝日新聞の家庭面の「本だな」でも扱われています。こちらは女性記者が書いたのか、それとも女の読者を意識してなのか、翔んでる女の代表のようにいわれている著者だが、生活者としての確かな目をそこここに感じさせる。
という評になっているのです。もちろん僻み根性は男子専科ではなく、女も大いに持っています。私の本の読者にも多いんですよ。もらった手紙の一部。
「あなたは非常に幸運だと存じます。むろん努力はあり、才能もズバ抜けておいでですが---」
「私は専業主婦です。すべての女性が職業を持ったとしても、すべての女性があなたのようなキャリア・ウーマンになれるわけではないでしょう」
「遺伝として能力が与えられ、家庭環境に恵まれたあなた---個人の努力は認めますけれど---」
冗談じゃありませんよ。両親の能力をそのまま受け継ぐ子どもなんてありませんよね。私の場合など、父のアルコールに対する抑制力のなさと母の頭の回転の遅さを組み合わせて受け継いでいたらどうなったことかと思いますよ。それでなくても父の短気と母の低血圧体質を受け継いでいるのですからね。父からもらった整理能力と母からもらった小マメさには感謝していますけれども。
家庭環境だって同様に、いい面もあったけれど悪い面もあったわけですよ、当然ながら。僻み根性が社会に強くなると「出る杭は打たれ」、「ドングリの背比べ」が多く見られて、 活気に乏しい状態が生まれてきます。
[ちょっとおかしいぞ、日本人 (1988年 千葉敦子 著 新潮社 刊) ]
● 12. 散らかし自慢
日本の会社と欧米の会社をたずねてみますと、いろいろな違いが目につきますが、最も顕著なのが、机上の状況なのではないかと思います。はいざらかたっぱうすいがらあふゆのみじゃわんむろん例外はあるのですが、片方は机の上に何冊も読まない本が並べてあって、書類が山積みになっている。
灰皿にはタバコの吸殻が溢れ、茶樹のついた湯呑茶碗とヴィタミン剤の肌が同居している。書きものをするスペイスもほとんどないくらいに、各種の雑誌や読みかけの新聞が机を占領している・・・。むろん例外はあるのですが、もう一方の机の上には家族の写真を入れた額と、面白い形をした小さな置物しかない。書類はすべて分類され、ファイルされて机上から姿を消している。
仕事をしようと思えば札いっぱいに資料を拡げることもできる・・・。 どちらがどちらであるか、説明の要もないでしょうね。おかしなことに、日本人の中には散らかした机を自慢し、片づけようとする人を怒鳴りつけるクセをお持ちの方が相当多いみたいですね。会社ばかりでなく、ご自宅の机も同様のようです。
日本人はスペイスのせいもあるのでしょうが、机を窓や壁にくっつけてしまいますね。あれが物を積み上げる原因をつくっているのだとあるアメリカ人が指摘していました。欧米人は、かなり狭い部屋でも、机を部屋の真中に置いたり、斜めに置いたりして、決して(というのはどうかと思いますが)壁や窓に向かってなんか置かない、と彼はいいます。
本当にその通りで、どこのオフィスをたずねても家を訪問しても、机は部屋の中央を向いているのですね。これは、入口に背を向けて敵に急襲されかねないような姿勢をとらないため、と解釈した人もいますけれど。いずれにしても日本人はファイリングがまだまだ下手なようです。
いつか読むかも知れないと思って雑誌をいつまでもとっておいたり、返事を書かなければならない手紙を机の上に置きっぱなしにしたため見つからなくなってしまったり、レポートを書こうと思ったら引用すべき資料が紛失していたり・・・というようなことを始終繰り返している方々がたくさんおいでのようです。
雑誌が到着したら目次にさっと目を通して、読みたい記事の分だけ破り取り、あとはその場で捨ててしまう、というのが、欧米のビジネスマンの一般的習慣になっているのと対照的ですね。彼等は返事を書くべき手紙は専用のトレイに入れ、その日のうちとかその週のうちとか、自分で締切を決めて処理しているようです。資料も机の上に積み上げず、直ちに適当な見出しのファイルの中にがり込んでしまいます。
日本ではあまり使われていないようですが、三十!の袋をつなげてアコーディオン型にしたファイルがあります。これは大変便利なもので、欧米には愛用者が多いのです。二日に行く音楽会の切符は二の袋に、十五日のカクテルパーティーの招待状は十五の袋に入れます。 今日が八日なら、八日以後は今月の予定、「七日は来月の予定とします。たいていの予定は一ヵ月以内のものとみていいので。
また毎週金曜日の午前中を手紙の返事を書く日と決めているなら、その日の袋に返事の必要な手紙を入れておきます。月末に出費を整理するなら、領収書はすべて三十か三十一の袋に入れておく、という具合です。毎朝その日の袋の中にはいっているものをすべて出してから一日を始めるようにするのです。
とにかく机の上に、その時点でとりかかっている仕事以外のものを一切置かない、というのが能率的に仕事をする大原則だと私は思うんですけれどね。私の父は日本人ですが、大変整理の上手な人で、私は子どものときに彼から随分いろいろとその点では学びました。
アルバムには写真を日付順に貼って、撮影場所と撮影年月日、それに短いキャプションを添える。花の散ったあと、球根は小さく区切った木箱に保存し、花の名前を書いた札を入れておく。 釘も釘箱の小さな小間の中に、それぞれの長さに応じて分類する。
等々。要するに「分類して見出しをつける」というだけのことなんですが、これを何事につけても常にするクセを子どものうちに身につけたことは幸運だったと思っています。
机に象徴されますが、日本の家庭は、狭いのにやたら物が出ているといううちが多くなってしまいましたね。伝統的な簡素美は忘れ去られたのでしょうか。そうではなくて、物のない時代は美しく家の中を整えることができたけれど、物がふえてくるとファイリングが下手なためゴタゴタになってしまうのかな。
日本の家で汚れが目立つのは、ガスレインジ。どうして調理のあとガスレインジを掃除なさらないのか不思議です。流しは洗うんでしょうに。レインジに敷くためのアルミ箔の皿まで売っていて、どうなっているのかと思います。
家の中もそうなら、病院の病室にしても役所にしても、日本ではどういうわけかゴタゴタとしてスッキリしていませんね。それに、なぜこういう場所の家具にグレイのスティールばかりが使われるのか。同じ中間色にしても、クリーム色とか薄緑とか、もう少しきれいな色を使っていただけないでしょうかねえ。
それと驚くのは、銀行や百貨店のオフィスの乱織ぶりです。銀行もデパートも、お店の方、 は素晴らしい建物でインテリアにも凝っていますが、従業員が「日働く場所は、なんとか小屋同様のことが多い。取材に行って、その対照には、何度もびっくりさせられます。目の覚めている時間のうち最も長い時間を過ごす仕事場をもう少し快適な場所になさったらどうなのか、とひとごとながら、よく思います。
[ちょっとおかしいぞ、日本人 (1988年 千葉敦子 著 新潮社 刊) ]
● 13 決まり文句「ガンバッテ!」
がんばガンバッテ! という挨拶、いつからこんなに多用されるようになったのでしょう。「さようなら」の代わりに「じゃあね、頑張ってね」といい、「では、ごめん下さい」の代わりに「頑張って下さい」という。
いわれた方は何を頑張るのかしらと一瞬とまどってしまいますが、そういうことを一々詮索しないのが、日本人の粋というものらしい。そりゃあ、頑張って、といわれるたびに頑張っていたら疲れちゃいますよね。
もう一つ、最近気になるのは、会社などに電話をかけて、「○○さん、おいでですか」とたずねると、「失礼ですが」と答える人が多い。「失礼ですが、どちら様ですか」の略なのです。こういう略し方は失礼だと思うので、私は返事をせず、相手に「失礼ですが、どなたですか」と全文をいわせることにしています。
でも、私一人が頑張って(こういうときは本当に頑張るわけです)も、 みなさんがこういう略し方を容認なさってしまうと、それがふつうのいい方になってしまうんですよね。みなさんもガンバッテ!それにしても、日本人の挨拶はあまりにも型にはまっていると思いませんか。日本に長く住む一米国人ビジネスマンが流暢な日本語でこういっています。
「日本人の女性はとても魅力的だけど、結婚となると考えてしまいますね。なぜって、毎朝『行ってらっしゃい』で送り出されて、毎夕『お帰りなさい』で迎えられると思うとゾッとしますからね。どうして、その人らしい挨拶のことば、そのときどきの気持を表すことばを使わないんでしょうね」
アメリカでも、たとえば店で何か買ったりすれば、売り子は判で押したように、「サンキュー。ハヴ・ア・ナイス・デイ」といいますが、これは不特定の相手に対する挨拶であり、配偶者問などではもっと個人的な表現が使われます。
相手のその日の予定を頭に置いて、「会議がうまくいくように祈るよ」とか、「うまくあなた好みの上着がみつかるといいわね」とか、「金曜日に観る映画選んでおいてね」といった会話を交わします。この程度の会話は誰でもしますが、もう少し『解放された”夫婦になると、妻「リチャード、少しはスローダウンなさったら」夫「ダーリン、そうはいかないよ。
僕たちは二人ともスローダウンするわけにはいかないんだ。だからこそ、僕たちはお互いにとってこれほど価値があるんだからね」これはジェフリー・アーチャーの『ロスノフスキ家の娘』(Jeffrey Archer "The Prodigal Daughter" Pocket Books, 1982) に出てくる会話ですが、この小説のテーマを象徴していると思います。
この小説の女主人公はアメリカの豊かな家庭に生まれ育ち、女に対する差別と闘いながらアメリカ合衆国初の女性大統領になるという話なのですが、夫のビジネスマンも彼女に劣らぬ働き者なんですね。この夫婦はお互いに相手の職業上の能力を評価し、人間としての成長を讃え合っているわけです。
友達同士の会話でも、日本人は本当に決まり文句を多く使いますね。「夏休みは?」「うん、 金曜日から」「どっか行くの?」「一応、 信州へ」何が「一応」なのか知りませんが、こういう話し方する人多いでしょ。
同じ話題でも外国人と話すと、大分違いますよ。「夏休みの計画は?」「北日本を自転車で旅してみようと思っているんだ」「それは楽しそうね。いつから?」「When you are ready. あなたの都合のいいときに」「Oh, I was ready last year. まあ、去年だったら都合よかったのに」
別にこの会話の相手はとくに私に気があるわけではありません。お互いに名前を知っていて、ときどき会合で顔を合わせる程度の知り合いです。でもこういう会話の遊びは楽しいもの。一日中一人きりで仕事をしたあとなど、ビールの一杯も傾けながら、こういう会話の遊びを十五分もすると疲れがとれます。
もうひとつ、日本人がよくいう決まり文句。「どうぞ、お遊びに・・・」というもの。「お遊びに」というからには、家に招いて下さるのだと早合点して、「まあ、ありがとうございます。お住まいはどちらですか」とたずねれば、
「うちは所沢ですけれど・・・。あの、おヒマなときに会社の方へお遊びにおいで下さい」なんていわれちゃう。冗談じゃないヨ、おヒマなときなんかないし、「会社にお遊びに」 なんか行けますか。
[ちょっとおかしいぞ、日本人 (1988年 千葉敦子 著 新潮社 刊) ]
● 14. なぜ、トシを聞くの
大分まえになりますが、フランスの作家フランソワーズ・サガンが日本にきたとき、誰に会っても歳をきかれるので、一遍に百年も歳をとった気がする、といっていましたね。ホント、日本人はすぐトシをききたがり、いいたがり、年齢でものごとを判断する傾向がありますね。
ラジオのリクウェスト曲をかける番組で、聴取者からの葉書を読むことがあるでしょう。 そういうとき、「神戸市に住む二十三歳の主婦の方から」なんていうふうに、必ず年齢をいいますよね。曲の希望をいうのに、なぜ年齢をいわなくちゃならないんでしょうね。
私のところにくる読者からの手紙も、判で押したように、「二十二歳の女の子」「二十六歳の専業主婦」「三十四歳の地方公務員」というふうに、年齢を入れて自己紹介が書かれています。
二十二歳にもなって、自分のことを「女の子」と呼ぶ神経も不思議ですが、こちらからたずねているわけでもないのに、いちいちおトシを知らせて下さるのは、どういうことなのでしょう。
歳のようなプライヴェイトなことをどうしてもいいたいのなら、身長とか、体重とか、バスト・ウェイスト・ヒップの寸法でも書いて下さる方が、読み手の想像を刺激していいんじゃないでしょうか。あるいはベッドのどちら側に寝るのがお好きか、とか、きらいなたべもの、とか、夏休みの計画、とか、なんでもいいけど、こういう個人的な情報の方が、まだ面白い。年齢なんか聞かせていただいても、ちっとも面白くありません。
ところが日本人は何でも年齢で判断したがる。先日も、七十五歳の父親が俳句の会で知り合った女性と結婚したいといい出したのだが「世間体が悪くて困る」という新聞の投書がありました。七十五歳の花婿なんてすてきじゃありませんか。○歳で三歳トシ下の女と結婚し、×歳で第一子、△歳で第二子をもうけ、□歳で課長になり、☆歳で退職して、七十歳で死ななきゃならないとでも思っておいでなのでしょうか。四十歳で大学生になってもいいし、 七十五歳で結婚するのもいいじゃありませんか。
工藤和雄さんというニューヨーク在住の広告マンが『マディソン・アベニュー』(サイマル出版会、一九八一年)の中で、(日本は)年齢許容度がはなはだしく低いのである。そしてお互いに世間を、人生を狭くしている。まったく損な話である。・・・(アメリカは)年齢以前に人間があるのである。と書いておいでですが、本当ですねえ。
ほかの国では三十代の閣僚なんて珍しくもありませんが、日本では五十歳くらいでも「若手」、極端な場合は「小僧」といわれて、若い人たちが社会でリーダーシップをとることは、 絶対といっていいほど見られない。最も創造力に富み、行動力に溢れ、失敗にも挫けないですむ年齢を、ただ上司の機嫌とりか、ひたすら耐えて待つことに費しているのは、社会の損失じゃないでしょうか。
それから、教育というのは、年齢にかかわらず、必要なとき、受けたいときに受けるべきものだと思うんですが、三十歳くらいになると、もう「若い人たちと一緒じゃとても・・・」 なんていい始める。若い方が『絶対的に”秀れているのは記憶力ぐらいのものじゃないでしょうか。学校へ行くというと受験勉強の丸暗記を思い出す人が多いようですが、本当の勉強は全然違うものだと思いますけどね。
日本ではよく求人広告に「二十九歳以下」などと年齢制限を書き入れていますが、これ、 先進国ではあまり見かけないことですね。求人広告欄を「男」「女」と分けているのも日本ぐらいなもの。社説で女にも平等な雇用機会を、と訴えている新聞が、自分のところの広告欄で男女を差別しているのですから、おかしな話ですよね。求人会社に「男女の差別をはっきりしなさい」と求めているようなものです。少々話がずれました。
雑誌でも「二十五、六歳から三十四歳までの女性向け」などと謳い文句に年齢が使われます。「二十四歳半の人も三十五歳の人もターゲットにはいっていませんよ」というわけね。 日本人は年齢でアイデンティティーを感じるのかしら。「男が三十代にやっておくこと」式の本や記事も多いですねえ。もっとも、日本人の中にも、周囲の「トシなんだから、もうちょっと考えたら?」という声を聞き流して、自分の信ずるところを行っていらっしゃる方もおいでです。
一九八二年八月三日付朝日新聞「ひととき」欄にあてた投書に、こんな話がありました。 投稿者の六十三歳になる母親が二年間の看護協力のためにタイに旅立つという話です。この母親は五人の子どもを育てながら夜学で教えたりもしつつ、看護の仕事に専念し、子育てを終えてからはこのように外国へも出かける仕事を引き受けるようになったというのです。すてきなお母さんですね。
もう一つの話も朝日新聞に載っていたもの。一九八二年四月二十三日付の「談話室」で、 今度は投稿者の九十七歳になる義父の話です。この人は前年まで現役の眼科医として、休日もなしに診療に従事していたのですが、このときは脳血栓で入院加療中。リハビリテイショルンの訓練センターで、ずっと歳下の患者たちを激励しているそうです。
