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[ちょっとおかしいぞ、日本人 (1988年 千葉敦子 著 新潮社 刊) ]
● 15. 隣りのビルへ歯を磨きに
一体どうして、日本人はそう他人の目ばかり気にしていなくちゃならないんでしょうねえ。 他人がどう思おうと構わないじゃありませんか。たとえば、一九八三年二月一日付の日本経済新聞の次の記事。
(前略)ところが中年紳士が昼食後、職場の洗面所で歯を磨いていようものなら「これからデートか」と冷やかしの声がかかる。おかげで、一念発起して昼休みの歯磨きを始めても周囲の目が気になり、すぐやめてしまう人がほとんどだ。そこでA氏は昼食後、同僚の目を避けるために歯ブラシを持って、わざわざ隣りのビルまで遠征する。というのです。
食後に歯を磨くことに決めたのなら、ほかの人がなんといおうと磨けばいいではありませんか。(私も携帯用ブラシを持ち歩き、どこで食事をとっても必ず磨くことにしておりますよ)。そんなことをはずかしがる人の気が知れませんねえ。歯を磨くために、いちいち隣りのビルに遠征するなんて、自分に対してはずかしくないんでしょうか。自分がどう思うかよりも、他人がどう思うかの方が大切なんでしょうか。
こういうのも、日本人の付和雷同性の表れなんでしょうね。みんなが洗面所で昼食後に歯を磨くなら自分もやるけれど、ほかの人がしないのに自分だけするのは、はずかしい、らしいんですね。まあ、こういう方は、ほかの人が歯槽膿漏になるなら私もなりましょう、というんでしょうね。
嫌煙権の問題を見ましても、日本では人の集まっている場所で嫌煙権を主張すると、変わり者に見られますよね。アメリカなどでは逆で、タバコを取り出すと眉をしかめる人がふえておりますけれども。そういえば、森英恵さんが日本経済新聞(一九八三年八月二十九日付) に書いていらっしゃいました。
いまや、国際男性社会では、タバコをのむ、のまない、やめたといったことが人間の質や生活態度をチェックするポイントにさえなっている。語学ができること、グローバルな視野でものを考えられることばかりが国際派の条件ではない。
森さんによりますと、ヘヴィースモーカーだった夫君とニューヨークのレストランで食事をなさったときのこと。彼がポケットからタバコの箱を出したところ、隣りのテイブルに坐っていた女性がバッグから小型の扇風機をとり出して組み立て、煙が自分たちの方向にこないようにしたそうです。
森さんは「さすがニューヨークっ子は手ごわい」と書いておいでで日本でこういうことやる人、いないでしょうね。話を戻しまして。自分がどう思うか、よりも、他人がどう思うか、の方が大切な方、たくさんいらっしゃるんでしょうか。これも日経の記事(一九八三年四月二十六日付)なんですが、 独身者がスーパーマーケットで買いものをするとき。
「周囲の主婦たちが、いそいそと家族のお総菜を買っている隣で三十の坂を越えた女が 『ロールキャベツ一個』なんて注文するのは勇気がいるわ。わびしい一人暮らしを公表しているみたいで」。気のせいか売り子の視線にも哀れみを感じ、必要もないのにハンバーグも二個、うなぎのかば焼きも二人前ずつ買って所帯持ちのようなふりをするとか。
というのですが、いまどきそんな人いるんでしょうかねえ。「わびしい一人暮らし」というのは一昔まえのイメージで、独身者は自由になるお金も多いから、食生活も所帯持ちより豊かなのが実態じゃないでしょうか。
ひょっとすると、この「女性かわらばん」というコラムの筆者が、他人の目をひどく気になさる方なのかも知れませんね。日本人は外国語が苦手な民族として知られていますが、なぜ上達しないかというと、はずかしがってばかりいるからではないかと思います。
(外国語のできない民族としてよく引きかれら合いに出されるのは米国人ですが、彼等の場合は、英語が国際語になってしまったために、 外国語を練習する必要性が一般的に低いわけで、日本人とは置かれた状況が違います。日本人は外国語を話さなければならない環境にあって、語学産業は大繁盛なのに、全般的に外国語が下手なのですから)。
文法的な間違いを犯しはしないかと、そればかり気にしていらっしゃる方が多いんですよね。問題はいわんとする内容であって、少々の発音のまずさや文法の不正確さは問題ではありませんのに。ジャーナリストの世界を見ますと、記者会見という席で日本人のクセがあらわになります。
外国人の記者は、会見の席でも非常に自由な発想で質問をしますが、日本人の記者は、"その席にふさわしい”質問をします。どんなに鋭い質問であっても、答える側が全く予期しなかった質問というのは、まず出てこないんです。それに、十中八、九、前置きがあって、なぜこの質問をするか、という背景を説明する。ところがその背景なんてものは、大して珍しい話じゃないし、会見にのぞんでいる人にとっては説明してもらう必要のないようなものなのです。たとえば、外国人なら、
「日本の景気回復が他の先進諸国より遅れているのは、なぜだとお思いですか」と聞くような場合、日本人の記者ですと、 「アメリカは住宅建設が伸びているようですし、西独は輸出が回復し、英国では個人消費が...」といった前置きが必ずくっつくのです。答える方にいわせれば、「そんなこと知っているよ」といいたいところでしょうが、そこは礼儀正しい日本人、黙っています。外国人が答える人であるときは、「それで、質問は?」と、さえぎる人もいますけど。
そして、質問の範囲というものが無言のルールに基いて決まっているのですね。これは 「これ以外の質問をしてはいけない」というルールではなくて「こういう質問をしては、はずかしい」という形になっているのです。外国人記者と一緒に会見に出ますと、本当にとてつもない質問が出てきます。ときには「そんなことも知らないの?」と呆れてしまうような初歩的な質問も出ますが、彼等は決してはずかしがりません。
「たまたまこれについては知らないけれど、ほかに知ってることはたくさんあるんだ」と自信を持っていますし、ほかの記者も、初歩的な質問をバカにすることは決してありません。日本人は「知りません」と認めるのも苦手で、なんだかそわそわした、居心地の悪そうな様子をしがちです。ひどい人になると、知らないのに知ったかぶりをしたりしてね。
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● 16. 五七五と季節感
これはまあ好ましい性癖のうちにはいりましょうかね。一億総俳人とまではいかないにしても、余暇センターの調べでは、俳句と短歌の創作人口は七百七十万人で、詩(俳句・短歌以外の)の創作人口は九百八十万人にのぼるそうです。ちょっとしたもんですね。
日本では、入院などすれば一句ひねらなくてはならないし、何か賞でももらえば一首ものさなくてはなりません。職場などでのコンテストも盛んですし、もちろん全国的な歌会始なんていう行事も結構廃れないで続いています。
数百万の読者を持つ全国紙の第一面に毎日詩が載るんですから、日本人はなかなか文学的人種ではありませんか。むろん、あのコラムは選評者に人を得たに死が決定的ですけどね。 どういうわけか、五、七、五、というシラブルは日本人をしびれさすようですね。
どんなにおいしいものをたべたあとでも、醤油味のするもの、ラーメンか何かをたべないと落ち着かないのが日本人の大半らしいのですが、醤油の味と香りに似たものが、五七五の音節なんじゃないでしょうか。気持よくさせて、ダラッとさせる効果を持つという点で。
もちろん俳句にしても短歌にしても、つくる側は緊張するはずですが、読む側は生理的快感をもって読むんじゃないですか。そうでないならば、詩でもなんでもない交通安全の標語まで五七五になるのはなぜか。
'とびだすな車はすぐにとまれない
狭い日本そんなに急いでどこへ行く'
なんていうのがそうです。私はヘソ曲りなのか、五、七、五、というリズムを聞くと、なんだかお尻がむずいずして気持が悪い。五七五を破ってしまった尾崎放哉の一行詩などに、 より惹かれます。
'いれものがない両手で受ける
落葉へらへら顔をゆがめて笑ふ事
沈黙の池に亀一つ浮き上る
たつた一人になりきつて夕空
かぎ穴暮れて居るがちがちあはす
雀のあたたかさを握るはなしてやる
うつろの心に眼が二つあいてゐる
心をまとめる鉛とがらす
ころりと横になる今日が終つて居る
死にもしないで風邪ひいてゐる
白々あけて来る生きてゐた'
これはすごいでしょう。とても五七五のリズムに身をゆだねてうっとりするというわけにたけおはいきません。奥野健男さんが一九七四年六月二十八日付の日本経済新聞で、これは一種の思考停止の呪文ではないか。日本人は七五調の文章を聞くと、調子よさに乗せられ、その内容を考えない。感覚的、気分的に、条件反射的に個性をうしない、 集団行動をしてしまうのではないか。
七五調は定着、安定した平和ののどけさの音数律のように思える。それは個性をなくさせ、集団のやすらぎ、たのしさを表現する。と、きびしく七五調を批判し、ぼくらは七五調と日本人の思想、感性との関係を究明しながら、感性において七五調をいかし、理性において七五調をこわさなければならないのではないだろうか。
そして新しい理性と感性の統合したもっとも現代に適した調子を発見する必要があるように思える。 と提案しておいでです。俳句が日本人の心情や習慣に与えている影響は絶大です。いつでも季節感を探そうとするクセ、言外に余情を持たせようとするクセなどは、俳句から生まれたんじゃないでしょうか?
新聞の報道記事の中にも突然、記事の内容と関係のない季節の叙述なんかが出てきて、よしびっくりします。たとえば、朝日新聞の家庭面に「妻たちの離陸」という連載がありましが、その一九八三年四月十八日付の記事に、「夫と、お互いの体験も含めて、性を語り合える様な間柄になれたら…なんて、夢の様なことを考えたりするの」。
取りこんだ洗濯物を、ひざの上でたたみながら、そう言った。しかし、ややもして、「やっぱり、無理でしょうね」。夕暮れの窓に、サクラが白く見える。という箇所があるのです。なんでこんなところに「サクラ」が出てこなくちゃならないんでしょうね。私はこれまでに、アメリカ、イギリス、アイルランド、オーストラリア、香港、 西ドイツの新聞や雑誌に記事を書いたことがありますが、どこの国の出版物でも、記事にこんなムダは許しません。
日本は新聞紙の材料を輸入に頼り、紙面にムダを許すゆとりはないはずですのに、こうした、どうでもいいセンディメンタリズムが、よく見られます。限られた紙面なのですから、 できる限り情報をびっしりと掲載し、つまらぬ感傷は排して欲しいものです。
季節感を大切にする、 にする、というのはそんなに悪いことではないかも知れませんが、毎年梅雨の季節になればカサをさした人たちの写真を平気で掲載する新聞を見ると「十年一日のように同じ紙面つくってて飽きないのかな」と思います。見る方は飽き飽きです。
もうひとつ、俳句が典型だと思いますが、日本人の表現方法として「全部をいわず途中でとめて言外に余情をただよわせる」というのがありますね。週刊誌に非常に多く、新聞にもかなり頻繁に出てきますが、「もしかしたら・・・」「あるいは・・・」「そうかも知れないが・・・」という形で、文章を途中までしかいわない。日本語ではわざわざ最後までキチッといわない方が美しい、と感じる人が多いからでしょう。
でもね、外国語で話す場合は、きちんと最後までいって下さいね。センテンスを終らせない人、というのはとても感じが悪いものです。マーガレット・サッチャー英国首相について、 記者たちは彼女の政策をよく批判しますが、「彼女は文章をきちんと最後までいう」という点では高く評価しています。
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● 17. 男が...男が...
そうですねえ。まず中曽根首相に出ていただきましょうか。中川一郎氏の死去の報に接して、「男らしい堂々たる政治家で、見識をもって世論にこびず、信念を貫いた」と述べられたそうです。見識をもって世論にこびず、信念を貫いた堂々たる政治家には、市川房枝さんのような女性もいるのでして『男らしい”という表現を、
こんなところで持ち出す必要は全くありません。こういう表現を使うことによって、中曽根さんは、多分無意識なんでしょうが、ご自分の心の底にある女性蔑視の本音を露呈しておいでなのです。だいたい、男が男らしく、女が女らしいのは、あたりまえなのであって、何も特別に褒めるべきことではありません。
それをわざわざ褒めことばとして『男らしい”を持ち出す人は、 心の底で女を軽蔑し、「女とは違い、一段高い種族なのだ」といいたいのですね。でも、その人が本当に秀れているのなら、何もほかの人をけなす必要はなく、その人は独立して優秀なはずです。まして男に生まれたか、女に生まれたか、といった偶然性などに寄りかかることなく、その人の優秀性を証明できるはずです。
やたら男が、男が・・・という人は、自信がないんだろうと思いますね。そして今日、これほどに「男の書斎」「男の料理」「男のウィスキー」といった具合に「男」を振り廻さなくてはならないのは、日本の男が総体的に自信喪失に陥っているとしか考えられませんね。
たとえば旺文社の広告は「男は帰ってきた」と墨で大書されています。旺文社の現代視点「戦国・幕末の群像」全100冊。価値観が多様化し、指針を見つけにくい現代だからこそ、この動乱の世に傑出した男たちの生きざまを問う意味がある。価値がある。
徹底した取材、新史料をもとに新しいアングルで男たちが20世紀に甦る。何もそんなに力まなくったっていいのに。また建元正弘大阪大学教授が金森久雄著「日本経済の基礎知識」を評して、こう書いておられます。(日本経済新聞、一九八三年一月九日付)
問題を発見し、それらの解決に正々堂々と立ち向かい、運命を積極的に開拓していくという〈男の気持ち〉に同感し広く推薦したい。どうしてわざわざ人口の半分に反感をよび起こしたがるんでしょうね。「問題を発見し、 それらの解決に正々堂々と立ち向かい、運命を積極的に開拓していく」女もたくさんおりますよ。
この書評などは初めから女の読者など頭数に入れていないつもりなのでしょう。こういう学者には南北問題と呼ばれる発展途上国の問題などはきっと理解できないでしょうね。 人種問題でも、南北問題でも、女の問題でも、人間はすべて平等であり、人間同士の間に上下関係はないのだ、という基本的認識から出発しない限り、これらの問題を把握することはできませんからね。
一見リベラル風な発言をする学者、評論家、ジャーナリストが、彼等の胸の底に潜んでいる抜き難い差別意識をポロッとこぼすことがよくあります。最初から女性蔑視を正面から押し出している著名人も少なくありません。漫画のフジ三太郎を見る外国人はたいていびっくりします。進歩的とみなされる新聞に堂堂と女性蔑視もいいところといった漫画が掲載されているからです。
三太郎には一九八三年になって初めて女部長、女係長が登場しますが、それまでは、この漫画に登場する女は、しわくちゃのおばあさんか、頭がからっぽの女の子と相場が決まっていました。もっぱら若い女性は、スカートが風でまくれてパンティーをのぞかせる動物として描かれていました。
さすがに、そんな女の子ばかりでは面白くなくなって、まず女部長が登場するようになったわけですが、この女部長は例の日本人男性の僻み根性を描くのにすばらしい役割を果たしていますね。まあ、大体フジ三太郎は僻みの塊みたいな男で、よく日本人の心情をとらえていると思いますね。それはそれとして、男であることは、なんだか知らないけれど悲壮なものであるようですね。
男ならやってみろ
男でござる
やっと男になれました
どうか私を男にして下さい
男がすたる
男じゃないよ
男子の本懐'
とかね。大変なんですねえ。
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● 18. 自己主張よりも技術
一九八三年九月の半ばに、二科展の審査員である新潟大学教授が、モロッコの写真を模写した油絵を出品していたことがわかり、問題になりました。ちょうどタレントの朝比奈マリアの盗作騒ぎの直後でしたが、朝日新聞九月十三日付の紙面に載った美術評論家の瀬木慎一さんの談話が印象的でした。
「絵は描く人のイマジネーションの世界であり、それ故にオリジナリティーが求められる。最近の絵描きは、イマジネーションではなく技術に頼ろうとするから、こういう問題がおきるのではないか」
日本人の作品は、それが絵であれ、作曲であれ、演奏であれ、技術偏重が目立ちますね。 自分の内から訴えるもの、自己主張が非常に少ない。そして細かい技術的なことに全神経を集中しているといった作品が多過ぎるように思います。
ニューヨークのソーホー地区などを歩けば、前衛的絵画とは、こういうものか、と発想の転換を迫られるような作品に出会います。技術面は二の次といっていい力強いメッセージがグイグイと訴えてきて、見る者は口もきけなくなるくらい圧倒されることがあります。
音楽評論家の吉田秀和さんが、大分まえに書いていらしたのですが、音楽の世界でも、日、 本人は外から吸収することに関しては、とてつもなく勤勉で、これはという師を求めて懸命に修業する。技術的にはかなりうまい。ところが、そうして学んだもの、磨いた技術で何を表現するかという段になると、日本人は急に消極的になってしまうというんですね。自分の内から主張するものがないのです。
これは、少年少女の演奏などを比べてみるときに、私のようなしろうとでも、うなずける点です。日本人の子どもたちは、独奏でも合奏でも、非常にうまい。技術的な水準は高い。 けれど、外国の子どもたちは、もっと楽しそうに演奏し、演奏する喜びを伝えようとしているのがよくわかる、というケイスが多いんですよね。
両方の子どもが混じったコンサートに行ったりしますと、その対比があまりはっきりしているので、びっくりします。日本の子どもたちは技術を競うことにしか興味がないように見えるのです。大体、日本人の芸術に対する態度は、新しさを試みるよりは、 は、どこまで手本を忠実に真似するかに時間をうんとかけますよね。
たとえば書道。何度も何度も手本を真似て、そっくりもそう、日本意してからでなくては、独自の書体を試してみることも許されません。華道もそう、日本舞踊もそう、長唄も琴もそう。そこには何を表現しようかという心よりも、技術ときまりを「正しく覚える」ことに力点を置く態度が表れています。
まさおよ >これは芸術ばかりではありませんね。学問の世界も同じようです。大木雅夫著『日本人の 「法観念」(東京大学出版会、一九八三年)の中で著者は、「西洋における学問的方法の基礎には批判精神があり、祖述よりも独創を尚ぶ気風がある」と書かれていますが、つまり日本人は逆に「独創よりも祖述を」尊重する傾向が圧倒的に強いのですね。
ところで「自己主張」ということば、日本ではイメージが悪いようですね。とくに「自己主張の強い女」というのは、ひどくイメージが悪いらしい。「自己主張」ということばが、 本来の、「自分自身の内から訴えるもの」を離れて「他人のことは顧ず、自分のことだけを訴える」とか「責任は十分に果たさず自分の権利だけを主張する」ことを指すようになっているみたいです。
本来の意味の自己主張は、人間存在の基本のひとつであり、一人一人の人間が他の人から彼(女)自身を区別する重要な手がかりであるはずですよね。自己主張のない人間なんて、 顔のないのっぺらぼうみたいじゃありませんか。
私はジャーナリストとして、各国の何千人という人をインタヴィューしてきましたが、日本人というのは、本当に自己主張の少ない人種なんですね。一つの会社の社長をインタヴィューしても、平社員をインタヴィューしても、全くおんなじことを聞かされたりする。「それ、こないだ日経がいっていたことじゃありませんか」と、しょっちゅういわなくちゃならない。
「•••といわれていますけど」「○○さんなんかもいっていますが」といういい方をする人が多い。「あなたはどうお考えですか」とたずねると、「まあ、そんなところじゃないですか」なんて、自分の意見を出すよりは、すでに世間に知られている人の見方の方へ自分を同化させておしまいになる。
イですから、たまに自己主張の強い日本人に出会うと、記者はついつい嬉しくなって、少々ヘンな主張でも記事の中に引用したくなるのです。私などのように外国の新聞・雑誌に記事を書いておりますと、よく編集者から、「もう少しカラフルな人物を書いて下さい。あなたの原稿は正確で構成もしっかりしているけれど、登場人物が個性に乏しい」
と文句をいわれます。たとえばオーストラリアの銀行家を取材したりすれば、蝶の模様のついたネクタイをしてピンクのシボレーを運転してきたりするから、見た目にもカラフルで、 彼の発言もケタ外れみたいなところがあって面白い。それにひきかえ、日本の銀行家なら、 灰色から紺色までのスーツに柄も覚えていないようなネクタイといういでたちですから、カラフルに書くのも容易じゃないんですよ。
びっくりするような発言はまずないし、趣味の話をしても決まってゴルフですから、記事の助けにはなりません。日本政府は、日本人の代表として、自己主張しないクセをよく体現していますね。ソ連に対する制裁などを決めるとき、必ずほかの先進国がどういう態度をとるかを眺め廻して、おずおずとそれに従う。
絶対に真っ先に制裁措置を発表したり、「日本は事情が違うから制裁措置をとらない」と他国と違う道を選んだりはしません。前任者よりは確かにはっきりものをいう中曽根首相ですが、国際政治の舞台で自己主張をしているようには見えません。ですが、政府を批判するのは当たらないでしょうね。国民全体に自己主張が乏しいのですから。
アメリカの世論調査機関のダニエル・ヤンケロヴィッチが朝日新聞の下村満子編集委員のインタヴィューに応えて、唯一の被爆国である日本がどうして反核運動のイニシアティヴをとれないのか、とたずねていましたが、日本の反核運動も自己主張が弱いのですね。
広島や長崎の惨事を感傷的に嘆くことは四十年も続けているけれど、ヨーロッパやアメリカでの運動のように積極的な手順を示す核廃絶への動きに育っていません。日本には秀れた政治学者・平和学者が、坂本義和東京大学教授をはじめ何人もいるのに、 運動家の理論武装や一般市民の思考の道具として、これら学者の打ち立てた理論や主張が十二分に活用されていないのは残念だと思います。
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● 19. 喫煙と立小便
これ、なんの話だと思います? 日本人の男性が海外でひどく評判を落としている件なのですけれど、まあ読み進んで下さい。一九八三年の九月にアイルランドのヒラリー大統領が来日、宮中て天皇が夕食会を催したのですが、なんと首相を除く二十人の閣僚のうち十四人が欠席しました。その理由なんですが、ある閣僚は朝日新聞の記者に、「まわりが外国人だらけで、西洋料理も口に合わない。 居心地が悪いんだよ」と語ったそうです。(朝日新聞九月十四日付記者席)
この閣僚の名前ちゃんと書いていただきたいですね。外国人と食事も楽しめず、日本のための政治活動をするのに絶好の機会を活用もできないような人は早速閣僚をやめていただき、 外国人と接する機会のない過疎地域の村長でもしていただいた方がいいんですから。アメリカの大統領が出る席なら用もないのに出席したがるヤツばかりいるのですが、アイルランドくらいになると小国扱いして振り向きもしない政治家が多いんですよね。 ところで、朝日の記者は続けて、
宮中夕食会の出席者は、タキシードにブラックタイをつけ、料理が出ている間はエチケットとして、たばこも吸わないのがしきたり。ヘビースモーカーが多い閣僚にはこれもも苦痛のようだ。と書いています。喫煙については前にも書きましたが、森英恵さんのいわれる通り、タバコをのまないことが国際派人間の条件の一つとなってきていますから、こういう閣僚はその面でも非国際派というわけでしょう。
それにしても、食事中にタバコを喫わないというのは、西洋では万国共通のエティケットですが、日本人と中国人はこらえ性がないんですね。韓国人もそうかな。コースの途中でお皿が下げられ、次の料理が出てくるまでの間がもてないらしい。
よく食通といわれ、自分でしゃべしゃべあぜんも食通ぶりを書いたり喋ったりしている人が食事中にタバコを喫うのを見て啞然とさせられ、 ます。日本に住んだことのあるアメリカ人ヒラリー・キタセイは、「食事中にタバコを喫うのは、畳の上を土足で歩くようなもの」と、みごとな表現をしました。
ところで、こらえ性のない点をもう一つ。これは男性だけにみられるクセです。 ホアンチュンミンツアイチエンひろしけいじ台湾の作家、黄春明の『さよなら・再見」(田中宏・福田桂二訳、文遊社、一九七九年)という小説の中に、次のような場面が出てきます。少し長いのですが引用しますと、馬場が後ろから私の肩を叩き、私が振り向くのを待って話しかけた。
「黄さん、運転手にいって車を止めさせてくれませんか。俺たちちょっと、小便、小便」我々の車は停車し、後ろから佐々木たちの乗った車が追いついてきた。彼らは嬉々として、まるで申し合わせでもしていたようにみんな下車し、道端に一列になって小便を始めた。私は車の中に坐ったまま、それを眺めていたが、二台の遊覧バスが走ってくるのが見えたので、彼らはどうするのだろうと少し心配になった。
しかし、男女の観光客を満載した遊覧バスがすぐそばをすり抜けて通過した時も、彼らはまだ悠々と談笑していたし、小便をしながら遊覧バスの乗客を見て笑っている男もいた。以前ある先輩が日本人のことを話すたびに、日本の男は道端で小便をするのが大好きだという話が出たが、その頃、私は、そんなことは大したことではないと思っていた。
しかし、今、彼らが一列になって、まわりを気にもせず、やりたい時に小便するのを見て、私はあの先輩がどうしてこんなことにこだわっていたのかよくわかった。中国人が日本人を犬と呼び、あるいは四つ足と名づけたわけもわかった。このクセは広く世界に知られ、とくに途上国ではその現場を見られているので、ここに書かれているような蔑視を産み出しています。
首相候補として立っていた国会議員が国会の中庭で立小便をしても、国内では「イッチャン、メッ!」という程度ですまされますが、海外ではそうはいかない。別の国会議員が酔って新幹線の車中で放尿し、国鉄職員が「先生、先生」といいながら掃除しているのを目撃された黒柳徹子さんが、それを新聞に書かれて問題になったこともありましたね。
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● 20. 来週、また電話してよ
この性癖は、身に覚えのある人が多いでしょう。私はですね、「日本人は働き者だ」というのは伝説であって、忙しがるのが好きなんだと思っています。そして、ほかの国の人のように、計画的にくつろぐ時間や遊びに行く時間をつくろうとしないで、なりゆきまかせで日々を過ごしている人が非常に多いのに気づいています。 この計画性のなさにはびっくりします。
毎朝目が覚めてからその日のことを考える人が本当に多いんですよね。これは温帯地方以北に住む民族としては、随分珍しい習性ではないでしょうか。ほかの国の人なら、来年は何月の何週から何日間の休暇をとろうというくらいの計画は、 誰でも持っています。
ふだんの暮らしでも、「いつか昼食一緒にしない?」「来週の火曜日に何人かうちに集まるんだけれど、夕食たべにこない?」「ちょっとご相談に乗っていただきたい件があるんですが、朝食をご一緒させていただける日はありませんか」というような相談は、すぐにまとまります。大体三ヵ月以内の予定なら、たいていの人が自分の予定表を見てすぐに時間と場所を決めることができます。
ところが、日本人の多くはそういきません。「来週の後半なら都合つくと思うから、また来週の半ばごろ電話してよ」「来週の火曜日は大丈夫と思うけど、一応出席ということにしておいてよ」「今週は忙しくてダメだから、来週もう一度ご連絡下さいませんか」てなことになる。長くても一週間以内の約束しかできない人が大半のようです。サラリーマンになると、その日の夕方の約束さえ難しい。
いつ仕事を終えるかを自分で決められない人が多いらしいのです。相手が外国人だと一本の電話で、会う日時、場所を決めることができるのに、日本人だと何度も電話をかけ合わなければならない。私は自宅や仕事場にいつもいるわけではないので、留守番電話を入れていますが、留守番電話に吹き込む伝言も、外国人なら、
「私は水曜日の午後五時半か、木曜日の午前八時が都合がいいので、帝国ホテルのメイン・ ロビーで待ち合わせたいと思いますが、いかがでしょう。私の秘書にご都合のいい方をお伝え下さい」などと、こちらから電話一本入れればいいような形で残されています。ところが日本人は、 ほとんどの場合、「お戻りになりましたらお電話を下さい」という伝言なんですね。
こちらからかけると、今度は相手が席にいなくて、きちんと伝言を受け取ってもらえそうもないような頼りない声の人が電話口に出ていたりする。こういうわけで、簡単な連絡が不必要に繁雑になっているのです。やたら忙しがっている人が多いけど、もう少し計画的に、ものごとを整理して、要領よく片づければ、大したことはないのですよ。
もちろん本当に忙しい人もいないわけではありませんが、私の見る限り、時間の使い方がなってない人が多過ぎますね。会う約束をしたのちに、予定を変更しなくてはならなくなった場合も、相手が外国人なら実に簡単です。「申しわけないのですが、急用がはいってしまって、この間のお約束、変更をお願いしなくてはならなくなりました。
一週間後の同じ時刻、同じ場所にしていただけますか」 といった具合。日本人はクダクダといいわけをいう人が多い。そして、長期的計画を持っている日本人は、本当に少ないですね。五年後、十年後にどういう人間になっていたいか、という目標を持っている人は珍しい。
私が「八四年と八八年のアメリカ大統領選挙をアメリカに住んで取材し、八九年に中南米か、もし可能ならソ連に引っ越したいと考えている」と話すと、「そんな先のことまで考えているんですか」と驚く人が多いのです。ところで、私自身は、英語でニュース記事とコラムを書きながら、年に二、三冊の本を日本語で書いているのですから、どこから見たって多忙な人種にはいろと思いますが、くつろぐ時間や遊ぶ時間は、ちゃんととってありますよ。
年に四一六週間の休暇をとり、毎週一回音楽会か芝居か映画を観に行き、週一回は美術館をたずね、週に一度客を招いて自宅でもてなしています。たとえば、友達と映画を観に行って、そのあと食事を共にして話が弾んだとしますね。食事が終わって、相手が私の気持を探りながら、「どこかで軽く一杯いきますか」とたずねる。
ここで一緒に飲みに行ったら楽しいだろうな、と思いつつも、「今晩、仕上げなければならない原稿があるのよ」と打ち明けます。そして帰宅すると深夜近く。そこで気を引き締めてタイプライターのまえに坐り、全速力で原稿を打ちます。タクシーを拾って原稿を出しに行き、帰りのタクシーで心地よい疲れを感ずるときが最高なのです。
夕食後の誘いに負けないため、出かけるまえに新聞社あてに「今日中にヴェンチャー・キャピタルについて千二百語送る」などとテレックスを打って自分を縛っておくのです。相手にも「ちょっと残念だな」と思わせるくらいの時間に別れた方が結局はいいのですからね。
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● 21. 他人には手を貸さない
「こんなにひどい国はないと思うわよ」と憤慨していったのは、英国人の記者、アン・ナカノでした。彼女は生まれたばかりの息子を、肩からぶら下げた網の中に入れて取材に駆け廻るという、たくましい女ですが、片手におしめやミルクの瓶を入れた手提げを持ち、もう片方の手に取材のための資料を入れたアタッシェケイスを持った上に、あいにくの天気なので傘も小脇に抱えて、駅の階段をふうふういいながら昇っていても、日本では誰一人手を貸そうとする人はいない、というのです。
ほかの国ならば、どんなにグレた男の子であっても、妊婦とか乳呑み児を抱えた母親に対しては手を差しのべるのが当たりまえ、と彼女はいいます。この、他人に冷たい日本人の態度は、外国人を驚かせるようですよ。だって、日本人は 「親切な国民」としても知られていて、日本を旅行して親切にされなかった外国人というのはめったにないくらいなんですから。
日本で難民救済の奉仕活動をしているアメリカ人のアニー・ガウが朝日新聞の岡田幹治記 50着に、この日本人の二面性について、こう語っています。(朝日新聞一九八三年三月二十一日付「ひと」欄)「欧米には、どんな国の人であろうと、困っていれば助けようという伝統があるが、家族や村で助け合うのが日本の習慣」「大量のインドシナ難民の出た時も、日本人の多くは無関心でした。アメリカでは、こどもたちまで小銭をためていたのに」
また、朝日新聞の松井やより特派員のバングラデッシュ報告によりますと、たとえば人口三百五十万のアイルランドが本国で援助のためのキャンペインをして集めてきた金が九億円。 ほかの国も億単位のカンパをつぎ込んでいるというのに、日本の民間の援助は微々たるもので「ヘルプ・バングラデッシュ・コミティー」の年間予算は五百万円だというのです。
とはいえ、このコミティーのような奉仕活動が日本にないわけではなく、またすべての日本人が「他人に手を貸さないクセ」を持っているわけでもありません。たとえば、犬養道子さんも『アウトサイダーからの手紙』(中央公論社、一九八三年)に書いておられる、上智大学が一九八○年から始めて、ほかの大学の学生やその他の人も加わるようになったインドシナ難民キャンプでの奉仕活動があります。
犬養さんは上智大で講演をし、現地での活動の困難さを学生たちに話されたのだそうです。そうしましたら、「つらいと知らされたとき、参加希望の学生の数は飛躍的に増えたのだ」と犬養さんは書いておいでです。「さらに、今までは見向きもしなかった、インドシナ半島の言語を、みなで学びはじめた」とも。日本人も、そんなに捨てたものでもないんですよね。
さらに、宗教関係者の活動があります。日本カトリック移住協議会編『世界に生きる』を読みますと、電気も水道もトイレットもないような国で、結核やハンセン氏病の患者の世話する女医や看護婦の修道女たちのことばが胸を打ちます。こうして最も貧しく、苦しんでいる人々のために働けることをほんとうに喜んでおります。
ここに各自が、自分の生活習慣を持ちこんで生きるなら、それは苦しいことでしょうが、周囲にあるもので満足すれば、物質的な不足も喜びに変わります。私自身の恵まれていることが心の痛みとなって、なんともいたたまれない。といったことばが語られています。
群れたがる多くの日本人たちと違い、たいていの修道女はたった一人で最貧国へ出かけて行き、短時日のうちに土地のことばを覚えて、他の国から派遣された宗教者と共に働いています。ただこういう人たちの人数も、他の国々と比べると少ないし、何よりも一般市民の「困っている人への援助」という行為が少な過ぎるのですね。
死後の臓器提供の問題などもそうですね。命が終わったあとで、眼球とか腎臓とかを必要としている人のために役立てるというのは、すばらしいことだと思うんですが、日本人の登録はとても少なくて、アメリカやスリランカから空輸したりしています。
[ちょっとおかしいぞ、日本人 (1988年 千葉敦子 著 新潮社 刊) ]
● 22. ローマ字多用の怪
もういまさら私が指摘をするまでもないでしょうけれど、「FREE」「LEE」「SAY」「BILLION」「WILL」「ANAN」「NONNO」「CANCAM」「WITH」「M ORE」「JJ」「BRUTUS」「FOCUS」「FRIDAY」「VOICE」「BOX」というのが、全部日本語の雑誌の名前なんですから、びっくりしますよね。
意味不明のものもあるし、たとえば英語を解し、英語文化を多少とも知る者にとっては「BOX」が雑誌名というのは異様な感じを受けます。英語圏の人は一様に、「ボックスって、あのビー、オー、エックスの箱のこと? どうして?」とたずねます。
そてから、九九パーセントの日本人が発音できない「LEE」なんていうのを雑誌名にするのも、どういうつもりなんでしょうね。編集者も正確に発音してやしません。こういうのに比べたら「諸君!」とか「暮しの手帖」とか「思想」とかは、わかりやすいし、発音も誰にでもできるし、雑誌名としてどこもおかしくありません。
まあ、雑誌だけではありませんけどね。車から始まって、音響製品、化粧品、子どものおもちゃに至るまで、たいていの商品名はローマ字で表されます。ちゃんとした英語とかフランス語が使われる場合もあれば、なんとも奇妙な国籍不明語や、間違った意味に使われていることばもあります。 集合住宅に「マンション」や「パレス」や「キャッスル」という名前がつけられ、いっこうに誰もいやがらずに住んでいるのですから、おかしなものです。
オーストラリア人のビジネスマン、ジョージ・フィールズ氏が『フィールズ氏が見た不可思議な日本人』(山手書房、一九八二年)の中で書いておいでですが、「カルピス」は、英語圏の人には「カウ・ピス」つまり「牛のおしっこ」に聞こえるというんですね。「クリープ」 は「最低にいやな奴」という意味だし、「ファコム」も日本人が発音すると、例の四文字語にMがついたように聞こえるそうですよ。こういうのに比べれば、森永製菓の「ぬかよろこび」というネイミングは抜群ですね。
否定的なことばを敢えて商品名にするセンスも嬉しい。文字ばかりではありません。TVのコマーシャルを見れば、日本人に日本・製品を売り込むのに、どういうわけか西洋人のモデルが使われていますし、百貨店に行けば、マネキン人形は全員外国人です。呉服売り場に行って初めて黒い髪で眼の小さい、日本人ふうの人形に出会うというわけです。
まあね、コマーシャルに国際級のスターを使うというのは、わからないでもありません。 「ウッディー・アレンがはいったこともあるらしいデパートで買いものをしよう」とか「ソフィア・ローレンがちょっと乗ったかも知れないバイクと同じものを買おう」というような選択をする人もいなくはないようですから。でも、どこから見てもハンサムでもなんでもない白人の男を、西洋人だというだけで使う気持は、わかりませんねえ。
そんなに西洋人がお好きなんですか。それでいて、日本人で西洋人と同じように英語やドイツ語を話したり、同じような歩き方をしたりする人は「日本人らしくない」と軽蔑されます。日本人が同じことをいっても振り向きもしないのに、外国人がいうことには、いちいち感心するという習性もありますね。ですから外国人の書く日本人論はだいたいよく売れます。
それも日本人の勤勉さとか、経済成長の高さとかを褒めたものほど、日本を持ち上げたものほど、よく売れるようですね。日本人の「外国人がいうことを、ありがたく拝聴する」というクセを利用して、日本人なのにイザヤ・ペンダサンとか、ポール・ボネといった外国人の名前をペンネイムとする方までおいでです。
あるイスラム教徒のアジア人が日本で本を出版したところ、なんと一年半に四万通のファンレターがきたそうです。その中には若い女性からのものも多く、 「イスラム教は四人まで妻帯を許すそうですが、私をあなたの妻の一人にいかがでしょう」という手紙も随分あったと彼はいいました。
[ちょっとおかしいぞ、日本人 (1988年 千葉敦子 著 新潮社 刊) ]
● 23. 外国人にはわからない?
どの国だって、それぞれに特殊であり、日本も確かに、ほかの国とは違った特色をいろいろ持った国ではあります。ですが、日本人は「日本はどこの国とも違うから、ガイジンは日本や日本人や日本文化を理解できない」と考えるクセがあるんですね。コロンビア大学教授、ドナルド・キーンが 『日本人の質問』(朝日新聞社、一九八三年)でこのクセについて面白おかしく、しかも鋭く書おもしろいておいでです。
その中で一番面白いのが、日本人の中学二年生の手紙です。キーン氏は朝日新聞に「日本人の質問」について連載しておられたのですが、それを読んだ中学生が「あなたは日本をまだ理解していない」といって、日本を理解するために信頼できる本を推薦したというのです!
「四十年前から日本語や日本学を勉強してきた私がまだ理解していないのに、十四歳の中学生が理解しているのが事実とすれば、国際相互理解は不可能かも知れない」とキーン氏は皮肉たっぷりに書いておられるのですが、私もこれに似たことを随分見聞きしております。
日本研究の専門家のアメリカ人に、本当に初歩的な歌舞伎の知識をトクトクとお話になる方、日本に数十年も住んでいるドイツ人記者に日本の四季の行事をクダクダと説明なさる方、 「無担保債」とか「協調融資」といった金融用語を駆使して日本語で話しているイギリス人銀行家に「漢字読めますか」と質問なさる方、などなど。
ひどいのになると、ナスやキュウリは米国にないと思っている人や、ゴキブリは日本にだけ住んでいると信じている人までいます。「俳句のよさは外国人にはわからない」とか「ウナギの味は日本人しかわからない」と思っている日本人も多いようです。俳句にとりつかれている外国人はたくさんいますし、ウナギが大好物の非日本人もいくらでもいるんですけれどね。
日本人の中にアフリカのそれこそ相当に特殊な音楽を研究している人もいれば、ほかの国の人はめったにたべないヨーロッパのある地方の匂いの強いチーズを愛好する人もいるのですから、逆も同じですよ。日本人でも俳句なんてどこがいいのかわからないという人もいれば、ウナギの匂いを嗅ぐだけで気持悪くなる人もいます。国籍の問題じゃあないのよ。
日本人の特殊性過信は、いろいろ危険な面を持っていると思います。その典型は「日本民族は格別に優秀なんだ」という意識です。敗戦後日本の経済が発展した理由は、軍事費が少なくてすんだことや、朝鮮動乱が景気に火をつけてくれたことや、長いこと日本が外国の技術を模倣して小器用に安い製品をつくっても先進国が大目に見てくれたことや、多くの要素がからみ合っているのでしょう。
それを「日本人は優秀だから」世界でGNP三位の国になれたんだ、と無邪気に考えている人が多いんですよね。そして国全体の経済規模が大きくなれば、それだけで一人前の先進国だと思うらしいけど、一人あたりの国民所得はまだ北ヨーロッパ諸国より下だし、一般市民の「お上」に対する従順さなど、日本社会の内実は先進国とはとても呼べないところがいっぱいあります。
それからね、「日本人の舌は世界一で日本食は最高」と思っている人も多いようですが、 これもモンダイですね。日本人の舌は醤油味にマヒしているのではないかと思うことがよくあります。なにしろ、ナマものにも焼きものにも醤油をかけ、煮ものには必ず醤油がはいり、 吸いものまで醤油味でもたいていの人は平気でたべてるんですからね。私の知る限り、ほとんどの中国人は刺身を「味のないまずいもの」といって嫌います。
生醤油とわさびだけでたべるなんて料理のうちにもはいらないと彼等は軽蔑します。でも中国人を味オンチという人はいないでしょ。 日本料理は盛りつけの美しさと低カロリーのため、最近は各国でもてはやされるようになりましたが、おいしさの点でいえば、もっともっとおいしいものが世界中にたくさんあります。
もうひとつの危険は、自分たちのユニークさを強調するあまり、すべての人間に備わる普遍性や共通の「人間同士」という意識が薄いという点です。この点をゲアハルト・ダンプマンが『孤立する大国ニッポン』(塚本哲也訳、TBSブリタニカ、一九八一年)に次のように書いているのは、当を得ているのではないでしょうか。
ㅡ 日本人は自分の特殊性について、ほかの国民より強い確信を持っているが、同時に一方でこれを補完するもの、つまり、ㅡ 世界に広がる一つの共同体に属しているということを感じる心が欠けているのだ。見知らぬ人々の苦しみを自らの存在と結びつけ、遠い国の不幸を自らの人間的悲劇の一部にするような内的結合ができることはきわめて稀れである。ㅡ
ね、日本人が遠い国の不幸に対していかに冷たいか、遠くにいる他人には手を貸さないか、 はよく知られているのですよ。もともと日本で発達した文化がいまでは外国の方で盛んになっている例もあります。たとえば柔道。とくに女子の柔道は、ヨーロッパ、アメリカ、オーストラリアの方が日本よりずっと盛んで腕もずっと上です。
日本の講道館が女子の入門を許したのは一八九三年だそうですが、長いこと試合は禁じられていたんですってね。型ばかり練習していたらしい。外国ではどんどん試合をして腕を磨いてきましたから、いまでも世界選手権で金メダルを獲得するのは外国人選手と決まっています。
尺八や三味線といった日本の楽器も、演奏者、愛好者ともに外国で急速にふえています。尺八はジョン・ネプチューンという若手の奏者が西洋音楽に演奏をとり入れたりして海外に広めています。
「琴の調べは日本のこころ」と題するレコード会社の広告で市丸さんが「わたくしたち日本人の心に限りない郷愁の思いをよびおこす琴の音色」と語っておられますが、琴を日本人だけにしかわからない音色と思ったら大間違い。こういう国粋調の広告コピーはどうかと思いますね。
フランス人は、フランス料理やシャンソンはすばらしいものだから、世界中の誰もが好きになるはずだと信じているし、イタリア人は、オペラやパスタについて同じ思いを抱いているでしょう。どうして日本人は、日本のよいものは外国人にはわからない、と決めつけるのでしょうか。
[ちょっとおかしいぞ、日本人 (1988年 千葉敦子 著 新潮社 刊) ]
● 24. もじもじする女たち
これは残念ながら圧倒的に日本女性に多い傾向で、ほかのアジア諸国の女性にも見られます。他人のまえで自分の考えをきちんと述べることができず、会合で指名されたりすると、 俯いてスカートにさわったりする、というアレです。
「女の子はおとなしく」と躾られて育つ社会では、俯いてもじもじすることが「かわいらしい」と賞讃されたりもしますが、国際社会では、これは最低です。ある時、オランダからきた手品師の芸を百人くらいの子どもたちと一緒に見る機会がありました。
子どもたちの大半は日本に住む外国人で、日本人も混じっていたのですが、五歳くらいの子ども同士でも際立った態度の違いがみられて印象的でした。欧米の子どもは概して活発で、手品師が「誰かに手伝ってもらいたいんだけれど」などといえば「ボクにやらせて」「アタシ、アタシ」と手を上げる子が多過ぎて選ぶのが大変。
アジア人の子どもは大きい声を出さないけれど、手は上げて指名されれば舞台にさっさと歩いて行く。ところが日本人の子どもは、男も女も、手品師から「そこにいる、あなた」と指されても、もじもじして答えない。やっと促されて舞台に出て行っても、いわれたことをやるだけで精一杯。
アメリカ人の男の子なんか、愛敬たっぷりに場内を見廻して、名前を聞かれれば大きな声で答えて、自己の存在をみんなに知らせようとします。日本人の子どもは、いわれたことをよく理解してちゃんとやるという集中力には秀れているのですが、自己を表現する力は目立って低い。五、六歳の年齢でこのくらい違ってくるのですから、おとなになれば大変です。
大分前のことですが、東京のプレスクラブ(外国人特派員協会)で、夕方のカクテルパーティーに日本の著名人を招いて歓談しようという企画が持たれました。私も何度か出席しましたけれど、 たとえばゲストが、カナダで大学教授をしておられた加藤周一さんの場合などは、みんなにとり囲まれて次々に話題が発展し、とても楽しいひとときとなるのでした。
それにひきかえ、ある高名な女流作家のAさんは、挨拶を求められてももじもじなさって、 結局なにもおっしゃらずじまい。女流ピアニストのEさんも同じで、一緒に招かれた実業家の父上が日本的発音の英語で挨拶され拍手を受けました。
AさんもEさんも、作家としてピアニストとして一流の方々であり、海外にも名が聞こえていますのに、挨拶ひとつなさらないので、特派員たちは啞然としてしまいました。外国人の前でも、もじもじしない日本女性ももちろんいます。中山千夏さんとか、黒柳徹子さんとか。
もっともTVタレントとか政治家になる人は「ものおじ」なんかしていられないでしょうから、これは当たりまえのことでしょうね。ところが日本では、とくに女性がものをハッキリいうと嫌われます。私なども、しょっちゅう日本人の編集者から、「もう少し表現をやわらげて下さい」といわれています。さきほどのダンプマンも、
ㅡ 西欧では理想として非常に尊敬される、人々に抜きんでて自分の信念をはっきりと断固として主張し、また遂行する際立って個性のある人物は、日本人には不快感を催させる。ㅡと書いておいでです。ですから、中山さんや黒柳さんのように、自分の個性を大切に育て 「保っているだけでも、日本では大変なことなのだと思います。
「ものおじ」などというものが全く通用しないのが、アメリカのビジネス社会でしょう。そうですね、「フォーブス」誌一九八一年三月十六日号に載っていた話をご紹介しますが、もし同姓の人の手紙が間違ってあなたのところに配達されたら、どうなさいますか。日本人なら、黙って郵便局に戻すのがふつうでしょう。もしその同姓の人が名の知れた人だったら、 丁寧な手紙をつけて送る人がいるかも知れませんね。
「フォーブス」の記事によりますと、キャピタル・シティーズというTV会社の会長トーマス・ソーヤー・マーフィーは、GMという自動車会社の会長トーマス・アクイナス・マーフィー宛ての手紙が間違って配達されるのに業をにやして、手紙をひとまとめにし、GMのマーフィーに送ったのですが、そのときにつけたメモが次のようなものでした。
「私は忙しくて重要な人間なんだ。あなたの紙屑同様の郵便物を受け取らなくてすむようにして欲しい」アメリカ人同士の会話としては、ジャンク・メイルがこっちに届かないようにしてくれ、 というのは軽い調子のいい方で、別に高飛車なもののいい方ではありません。でも、日本人だったらこういういい方は恐らくしないでしょうね。まして つね。
まして「自分は忙しくて重要な人間なんだ」という日本人はめったにいないでしょう。それどころか、ものをハッキリいうだけで、なんのかのと批判されるのが、日本のビジネス社会のようです。大賀典雄さんがソニーの社長になられたとき、日本経済新聞の「経済人」のコラムでK記者は大賀さんについて、
ㅡ 合理主義者。思ったことをズバズバ言うため、誤解を受けやすいという内外の評もある。また『自信満々居士』の名で呼ばれるほどの自信が、時として「相手の意見を聞かないワンマン」との批判にもつながる。(中略)関係者の間では、このあたりをどう変えていくかが大賀氏の課題という声も多い。と書いています。
「思ったことをズバズバ言うため、誤解を受けやすい」という文章は、 論理的に意味が通らないので、外国語に訳すことができません。また、自信満々の人は、ひとの意見をよく聞くのがふつうで、自信のない人は恐がってひとの意見を聞かないものなんですけれどね。
「意見を聞く」のと「賛成する」のは別もので、 意見を聞いてもやたらに賛成はしない、というのが自信家の態度だと思います。「関係者の間では・・・という声も多い」という表現、日本の新聞や雑誌にはよく出てきますが、私が九年近く海外の出版物に記事を書いてきた経験では、こんな曖昧な表現を使ったら直ちに原稿はボツになりますね。
いずれにせよ、「合理主義者でものをハッキリいい自信家である」という、外国のビジネス社会でなら、経営者の必須条件ともいうべき特質が、日本では嫌われるのです。
[ちょっとおかしいぞ、日本人 (1988年 千葉敦子 著 新潮社 刊) ]
● 25. 釣り合いと減点主義
誰もが指摘する通り、欧米の個人主義に対して日本では集団主義が、社会の規範として幅をきかせています。多くの日本人は集団に帰属すると安心し、ひとりぼっちでいる人を気の毒がります。また集団内では、みんなと同じ行動をしない人間には意地悪をします。
修学旅行とか、社員旅行が大嫌いで、私は一度も行ったことがないんですが、みなさんお好きでしょ。ひとり旅が好きな日本人は数が限られているみたい。こういう社会では、人間の協調性という性質が破格に重んじられるのですね。日本経済新開一九八三年一月十日付の「サラリーマン」の欄に、在米日本企業の『悩み”が報じられていました。
話題は社員の人事考課。「サラリーマンとしての『優秀さ”の尺度が日本と米国でかなり違う」ため、日本人の管理職者は、部下の若い米人社員から「私の考課はなぜこんなによくないのか」と聞かれる。遅刻、早退が多いか少ないか、口のきき方はどうか、といった細かな点から、仕事に対する誠実さ、信頼性などという抽象的な評価まで、日本の人事考課では大きな柱となる。
ころが、米国での人事考課で大きなポイントとなるのは、与えられた目標への達成率と仕事の遂行能力(スピード)だ。「やることは遅いが、人間はいいという男と、生意気で態度もよくないが仕事は早いという男がいるとします。米国は確実に後者をとる社会です。だから日本人のわれわれが行う考課に、現地社員から不満がでてくる要素は十分あるんです」
と記事はなっています。「人間はいい」とか「生意気で態度もよくない」といった極めて主観的な評価がサラリーや昇進に影響を与えるわけで、だから日本人のサラリーマンがみんなおとなしくて礼儀正しいけれど、野性味に富んだ人や個性豊かな人はすごく少ないということになってしまうのでしょうか。
みなが決して、自分の思っていることをストレイトには表現せず、いった場合の周囲の反応を慎重に予測してから、あたりさわりのないいい方で表現する。失敗は減点だから、失敗をしないよう細心の注意を払い、大胆な行動や発言を慎しむ。
こういう社会は西欧人の最も恐れるものでしょう。アルヴィン・トフラーが朝日新聞の下山村満子編集委員のインタヴィューに応えて、「間違いを犯す自由のないところに、新しい創造は生まれない。ソ連のように失敗を罰するような社会では、人々は決して新しい発想や創造に挑戦しない」と語っていますが、日本のサラリーマン社会もその意味ではソ連に近いのではないでしょうか。
外国人のビジネスマンにインタヴィューを申し込んだ場合、「その問題は自分の責任範囲ではない」といった理由で断わられることはありますが、そうでもなければ時間の都合のつく限りOKとなるのがふつうです。
ところが日本の場合は、必ずといっていいほど、「ほかにはどなたにお会いになりますか」「他社はどのレヴェルの方がお会いになるんでしょうか」と聞かれます。広報担当というのが、この種の横並びがお好きなんですよね。
自分の会社をどのように正確に報道してもらおうかとか、いかにこの記者をうまく利用して自分の会社のPRに役立てようか、と頭をひねるよりは、他社との釣り合いを気になさいます。得点主義じゃなくて減点主義なんですよね。
欧米の学者たちは、社会のコンピュータリゼイションに伴って、国家や大企業が個人の情報を管理するようになり、「個性」社会が生まれるのではないかと、大変懸念しています。 コロンビア大学法学部大学院のケント・グリーンワルト教授はホワイトハウスに提出した報杏の中で次のように述べています。
自分の過去を棄てることができないとわかれば、出世がほかのものでなく「よい記録」に依るということがわかれば、それは体制順応的な行動への相当な圧力を生み出すことになるだろう。多くのアメリカ人はいまよりももっと記録をきれいにすることに一生懸命になり、問題になるような行動や常軌を逸した行動を慎しむようになるだろう。
傑等の個人的な考えや好みに関係なく。多様性や社会の活力は確実に損われ、長期的には、独立した個人的な思考は減少するだろう。アメリカでは州ごとの法律が異るので、小さな犯罪を犯しても別の州に行けば過去の記録は消され、一からやり直すことも可能です。ところがコンピューターの発達で、個人に関するデータが州を越えてツーツーになりそうになってきました。
グリーンワルト教授は、コンピューターによる管理の進行が、個人の「問題になるような」「常軌を逸した」行為を制限するようになることを恐れ、多様性や活力や個人的な思考の減少を懸念しているのです。
彼から見れば、コンピューターの管理を待つまでもなく「問題になるような」「常軌を逸した」行為を慎しむ日本人の社会は地獄にみえることでしょう。
[ちょっとおかしいぞ、日本人 (1988年 千葉敦子 著 新潮社 刊) ]
● 26. ベビーパウダー
前に書きましたジョージ・フィールズ著『不可思議な日本人』に、とても面白いベビーパウダーの話が出ています。日本の赤ちゃんのおむつ交換頻度は欧米に比べて圧倒的に高いのだそうですが、それにしてはベビーパウダーの消費量が極端に少ないというのですね。しかも、日本で売れる容器が欧米とは違うんだそうです。
欧米では、ベビーパウダーは上に穴の開いた筒状の容器に入っていて、その穴から体にパウダーを振りかけるようにできている。ところが、これが日本では売れなくて、一番売れている容器は丸い平たい紙の箱か罐で、パウダーは中に入っているパフで直接赤ちゃんのお尻にそっと叩きながらつけられる。欧米の振りかけに比べたら無駄は少なく、 したがって消費量も減る。というのです。
何故こういう違いが出てくるのか。フィールズ氏の謎解きは、 日本では、おむつを換える場所がいろいろなものに接近している。むやみに筒を振ったらパウダーは飛び散って、極端な場合は食器にまでもかかりかねない。したがって平たい箱とパフが一番合理的な応用の仕方である。となっています。おみごと。
ただし、パウダーの使用量が少ないのは、これだけの理由からではないとして、著者は、「日本人は標題とか分類には非常に几帳面で、ベビーとつくものを成人にはやすやすとは使わない」と書いています。この点を私はとり上げてみたいのです。欧米ではベビーパウダーとかベビーシャンプーとか、ベビーとつくものを、おとなが平気で使っています。名前よりもモノが何かの方が重要なんですね。
日本では、とてもこうはいきません。何を売るにしても、子どもには子ども向き、若い女性には若い女性向き、中年男性には中年男性向きのネイミングが必要であり、それにふさわしいデザインが必要なのです。どういうわけかコミック・ブックだけは、少年少女向きに書かれたものを大のおとなが喜んで読んでいますけれどね。
たとえば、ぶどう酒という飲みものは、男も女も飲んで構わないはずなんですが、女に飲んでもらおうと思う場合は、女っぽいインテリアの部屋に女のモデルを配した広告をつくらなければならない。そして味よりも「ワインを飲むカッコよさ」に重点を置いたコピーがこれにつきます。こういうムードづくりにやすやすと乗っかる女がいるんでしょうかね。
ムードに弱いのは女ばかりではありません。男も同じ。このごろやたらと「男の料理」 「オトコの料理」とつく記事や本が多いでしょ。カタカナで書くのはどういうわけかしら。 料理する男をちゃかしているのかな。それとも、料理する男は外国人みたい、という意味でしょうか。
いずれにしても、料理は男がしたって女がしたって同じ(料理に使うのは手と眼と舌と鼻と頭であり、ペニスやワギナではないのですよ)なのに「男の」とつくと、「ではやってみるか」と思っちゃう男が多いらしいのです。「ほのぼの」という雑誌の一九八二年十月号に、東京都の渡辺則之さんという方の投書が載っていました。
たまには両親を驚かせてやろうと、八月号に載った「デコレーションカレー」を松葉ツェに頼りながら、材料をそろえ味付けをやりましたが、母はもちろんのこと、おやじさんもただ感心するばかり。このカレー特集は三種類でしたが、どれも男性が料理に励むイラストでしたので、やる気が起きたと思うのです。
というもの。この投書の主は二十七歳だそうですが、このくらい若くても、イラストレイションが男か女かということにこれだけ左右されるのです。「掃除や洗濯や料理について記事を載せる場合は、イラストレイションに必ず男を使うこと」という運動でも始めようかな。
私などが、ことあるごとに「男も家事を」と書きまくっても、男のイラストレイションがつかなくては全然効果がないんですよね。でも、いったん「男の」というラベルが貼られれば問題はないのです。その気になってもらえますから。とにかく日本人は分類にこだわります。
人間の性格は「信長型」「秀吉型」「家康型」に分ける。外国人に例のほととぎすの句を教えると、
鳴かぬなら鳴かなくてもよいほととぎす鳴かぬなら酒でも飲まそうほととぎす
鳴かぬなら抱いてあげようほととぎす
鳴かぬなら僕が鳴こうよほととぎす
鳴かぬならテイプでもいいほととぎす
鳴かぬなら踊ってくれよほととぎす
と、矢継ぎ早に新作を並べてくれて、とても人間を三つのタイプに分けることはムリと知らだれます。日本人は血液型で性格を分けるのも好きですね。外国人には自分の血液型を知らない人もたくさんいます。
[ちょっとおかしいぞ、日本人 (1988年 千葉敦子 著 新潮社 刊) ]
● 27. 二枚舌
内で言ったりしたりしたことは外に洩れず、外で言ったりしたりしたことは内には聞こえない、と思い込んでいるために、内外で違うことを言ったりしたりする日本人がたくさんいます。
有名な件としては、中曽根首相の「不沈空母」発言がありますね。一九八三年一月十九日 1 付のワシントン・ポスト紙が中曽根さんの発言として、
私は防衛庁長官を務めたことがあり、日本の防衛については私自身の見解を持っている。全日本列島を不沈空母のようにし、ソ連のバックファイアー爆撃機の侵入に対する巨大な防壁を築くことだ。(訳文は朝日新聞一月二十二日付による)
と報じたのを、ワシントンで翌日行われた会見で、日本人の記者団がただしました。それに対し首相は「不沈空母とはいっていない」といったん否定したものの、ポスト側が録音テイプも残っていると反論したため、二十一日になって肯定するというもたつきぶりを見せたあの件です。通訳が不正確だったという説が出たりして大騒ぎでしたが、明らかなのは中曽根さんの内外使い分けの態度でしょう。
どうやらポストの記者と話している間、中曽根さんの頭の中には、ポストの記事は日本国民の眼には触れまい、という思い込みがあったようです。そんなバカなことないよ、一国の総理の発言が、どこで行われようと本国にはね返らないはずがないじゃない、と反論なさるでしょうね。
ところがどうして、日本人は外国人に話したことは日本に伝わらないし、日本語で日本人に話したことは外国に伝わらないと思い込むクセがあるんですよ。中曽根さんも例外じゃないようです。
もう一人例を挙げましょうか。富士通会長の小林大祐さん。
一九八二年九月号の「文藝春秋」に、同誌と小林さんのインタヴィュー記事が載りまして、
ワシントン・ポストはその記事を英訳して転載したいと考えました。
ウォールストリート・ジャーナル紙一九八三年一月十八日付のアーバン・レイナー記者の記事によりますと、ポストの申し込みに対して文春はOKといったのですが、富士通は拒否したというのですね。それでポストはインタヴィューを転載する代わりに、インタヴィューについて記事を書かざるを得なくなりました。
なぜポストがこのインタヴィューに興味を持ったかといいますと、小林さんは驚くべき率直さで、アメリカ企業のビジネスのやり方を批判し、ときにはほとんど嘲笑しておられるからなのです。
それから富士通の戦略や日本の産業と政府との結びつきなどについても述べておいでです。この官民一体の産業育成というのは、自由主義を信奉する諸国から、非難のやり玉に上げられている点なんですけどね。
小林さんはこのインタヴィューの中で、かつて車や鉄鋼がそうであったように、世界の巨人IBMに対抗する国産のコンピューター会社を育成するために、いかに通産省が手を貸したかを語っておられるのです。
さて、この件で富士通は、「富士通のいわんとしたことが反映されていないから、ポストに転載権を与えないで欲しい」と文春に申し入れたというんですね。でも富士通は別に文春に対して記事の訂正も何も求めていないのです。つまり国内向けにしゃべった話をアメリカに流しちゃ困る、ということでしょう。
まあ、こういう二枚舌は、中曽根さんや小林さんに限った話ではありません。“国際派” といわれるソニーの盛田昭夫さんも朝日新聞記者にアメリカ人を批判することばを語って、 あとで広報担当者が、あれは英訳されるはずではなかったのだと主張したとか。これもレイナー記者が書いていることです。
よく日本人同士がエレヴェイターの中などで外国人がいるのに、「毛唐はシブいからね」
などと喋り合っていますね。乗り合わせた外国人が日本語を理解するとはツユほども思わないらしい。
それで思い出したのですが、先日あるパーティーでのできごと。海外特派員を務めたこともある『国際派”で通る日本人の新聞記者が私のそばへやってきて、
「さっき君と話していた毛唐の女は誰?」 とかなり大きな声でたずねました。私たちのすぐうしろに彼女の夫君である日本人の雑誌編集長がいましたから、「○○の編集長の××さんの奥さんよ」と教えてあげましたけれど、国際派もたちまち化けの皮が剥がれたわけです。
[ちょっとおかしいぞ、日本人 (1988年 千葉敦子 著 新潮社 刊) ]
● 28. お世辞ではなく・・・
日本人は、どうもひとを褒めるのが下手ですねえ。私が褒められるような人間でないのかも知れませんけれど、日本人に褒められるという経験はとても少ない。
たまに褒められる場合は、「お世辞ではなく、いい本だと思いました」
というように、何か前置きやいいわけがつくんですね。こっちは別に「お世辞いっているんでしょう」と疑っているわけでもないのに、「お世辞抜きにして」とか、「お世辞いうわけじゃないんですが」などと先廻りされちゃうのです。つまりふだんはお世辞ばかりいっているということになるのでしょうか。
「仲間褒めと思われそうなので何回かためらったが、やはり書いておきたい」などという出だしの記事もよくありますが、そんないいわけなしに、率直に褒めたらいいと思いますけどね。本当に仲間うちの話なら外部に話すべきではないのだし、外に話してもいい話なら「仲間褒め」を遠慮することはないじゃありませんか。
褒められる経験を持たない人間は、ひとを褒めることをしない、というわけで、日本社会は、お世辞はあっても、賞識のことばが日常的に聞かれない社会になっているんではないでしょうか。
妻がおしゃれをしても、褒めことばのひとつも与えない夫。夫がゴルフ大会で優勝して帰ってきても全く無関心の妻。母親が用意した料理を一度も褒めたことのない子どもたち。 そして、さりげなく、気がついたらすぐに褒める、というのはやらず、褒めるとなるとべ夕褒めになる。褒められた方がきまり悪くなるような褒め方をする。
これも結局、わざわざことばに出して褒めなくても感心しているのは、わかるはずだ、という態度が基本になっているんでしょうね。ふだん褒め慣れていないから、いざ褒めようとなると、さりげなく、なんてできやしません。大仰なことばになっちゃって、いった方も聞かされた方も気まずくなったりね。
こういう日本人の失語症現象は、ほかのところにもいろいろ出ています。たとえば宮川和幸さんという産婦人科医が朝日新聞一九八三年二月二十一日付夕刊で、最近の若い母親の赤ん坊に対する知識不足について、次のように語っておいでです。
医師との対話が難しくなっているのは、若い親たちの国語力、つまり表現力と理解力の貧しさのせいだ、という気がします。この問題は、もちろん、若い医師の側にも共通しているのでしょうがね。赤ちゃんの症状をたずねる。指示をする。もどかしいほど時間がかかり、指示が伝わらない。(中略)
人間は言葉で考えます。観察だって言葉を通じて行うのです。その言葉を使う力が弱いと、観察も、自分では気付かないでお座なりになる。三日も四日も続いていた赤ちゃんの高熱や便秘を、こちらがみるまで親は気づかなかった、などという例が、いくらでもあるんです。
宮川医師は「TVを見ながら、黙って授乳する」ことの危険を訴えておいでですが、テレヴィジョンというものが家庭にはいってから、家族の会話が減ったのは、世界各国共通の現象だといえましょう。ただ日本人の場合は、TVが普及するまえから、日常茶飯事として議論をするとか、考え方の異る人を理論詰めで説得するという習慣を持っていなかったので、 TVという便利な機械ができてからは、ますます自分の頭を使って自分のことばで表現するという作業をサボるようになったものとみえます。
私自身は大変 verbal(言語で表現する)な人間なので、ことばによる表現を曖昧にされるととても気持が悪い。たとえば高校時代の友人からの年賀状に「進む道は異っても、いまも同じことを考えていると思います」というのがあって、私には「同じこと」の意味がわからない。差し出し人と私とが同じことを考えている、というつもりなのでしょうが、何を指しているのか、私にはさっぱりわかりません。少なくとも私は高校生時代よりは大分成長したつもりですから、あのころ考えていたことと、いま考えていることは全く違うという気がしています。
それで「同じこと、とは何のことですか」とたずねる葉書を出したのですが、この返事は遂にきませんでした。何年も経ってから電話で、「あのとき喧嘩して、そのままになってしまったけれど・・・」といわれて、もうびっくり。こちらはただ相手のいわんとしたことをハッキリと理解したいと思っただけなんですが、相手は私が怒っていると思った、というんですね。
同じように私の著書をお読みいただいて感想を送って下さる方に対して、私が、「あなたの○○に関するご指摘については、私は違う考え方をしています」「あなたのおっしゃるのと全く逆の例もあります」などと書き送りますと、「私の手紙にお怒りになったようですが」などというお手紙をいただきます。世の中には考え方の違う人がいるからこそ面白いのであって、私は異見大歓迎なのですが、意見を主張し合うのを日本人は好まないようですね。
それに、ある人の意見に反論を述べると、私がその人を尊敬していないとか、嫌っているととられてしまうこともしばしばです。どうして議論と感情を一緒にしちゃうのでしょうね。
本の読み方でも日本人は、ある人の作品の一つに違和感を持つとその人全体を嫌いになってしまう。これはもったいないと思うんですね。人間は多面的な存在であって、人間としての作者とは肌が合わないけれども、作品のあるものからは学ぶべき点が多い、ということはよくあるはずだと思います。ちょっと話が脇道にはいってしまいましたけれども。 話を元に戻しまして、言語による表現についてもう少し。
ま、私は自分の職業がもの書きですから、当たりまえのことですが、非常に複雑な社会現象や、極めて技術的な情報や、あるいは自分自身の思いがけない感情を、ことばで表さなければならない状況に日々立たされています。職業的な訓練の意味もあって、たとえば、ふつうの旅行にはカメラを持って行きません。カメラに頼らず、自分の眼でよく観察し、印象をことばに置き換え、メモをとる、ということを毎日やらなければ、言語表現力はすぐ錆びついてしまうからです。
テレヴィジョンを持たず、ニュースや報道番組は新聞や雑誌や本で読み、あるいはラジオで聞きます。NHKの「日本の条件」という報道番組などはTVで観てはいないのですが、 本で読んでいます。
映画館にまいりますと、せりふは耳で聞いたり字幕を読んだりするわけですが、画面に現れた俳優の表情や服装、風景などは自分でことばに置き換えながら観ています。ひとつには映画評を書いたりするからですが、別に仕事で観ているわけではないときでも、この作業をやっています。
もの書きでない方々は、こんなことをなさる必要はもちろんないのですけれども。
[ちょっとおかしいぞ、日本人 (1988年 千葉敦子 著 新潮社 刊) ]
● 29. 酒に飲まれる
近年各国の人々の飲みっぷりを拝見していますと、先進国では所得が高くなるほど酒を飲まなくなる、という傾向がみられます。全く飲まなくなるのではなくて、いい酒を少量飲む、 といった方が正確かも知れません。カクテルパーティーでも大の男が平気でジュースやミネラル・ウォーターなんか飲んでいるという光景がザラになってきました。
フルコースの料理が次々に出てくるテイブルで食前酒、食中酒、食後酒に酔うのがよい生活である、というのはもう時代遅れの感覚なんですね。 食後の葉巻というのも“肺ガン誘発剤』になって廃れつつあります。さて、日本人の酒の飲み方は、西洋人とは随分違うのですね。まず酒の種類がとても少ない。ふつうの日本人が飲む酒は、日本酒とビールとウィスキーの三種でしょう。
食事中にウィスキーを飲むなんて、ほかの国では考えられませんが、日本のレストランではウィスキーを飲んでいる人をよく見かけます。ただしウィスキーをそのままとかオン・ ザ・ロックスで飲むのではなく、水割りにして薄めるから食事と一緒でも飲めるというわけなのでしょうね。 ところで、なぜ「ミズワリ」という飲みものがこんなに日本で人気があるのか。わざわざウィスキーのおいしさを薄めてしまうのはなぜか。
どうやら日本人にとっては、「酒を飲むということは酌をし、されることなり」となっているらしいのですね。日本酒でもビールでも水割りでも、自分の好きなペイスで飲むことは日本では許されません。酌をする人は共に酒を飲みつつ語り合っている相手であることもありますが、多くはそのバーのカウンターの向こう側に立っている人か、座席の横に坐りたがる女性であります。
日本酒なら盃が空になることは二秒以上はあり得ないし、ビールのグラスも同様。ウィスキーを飲みたいと思えば、やたらと氷を入れた上にウィスキーをちょっぴり注いで水をジャボジャボ入れられちゃう。そのウィスキーの香りつき水も、ちょっと飲むとまた氷と香りと水を足されてしまいます。
こうやって、せかされながらジャンジャン飲むというのが日本人の飲み方です。たいていの日本人は飲んだあとまた電車に乗って帰宅するので、飲み終わるのは案外早い。ロレツが娜らなくなって、足元がフラフラし始めたらもう遅過ぎるというくらいです。
را こういう飲み方をするため、日本語は「酔い」に関する語彙が貧困だといわれています。 「ほろ酔い」か「泥酔」「二日酔い」などのように「酔」という字がはいったことばしかありません。西洋のことばでは各国とも二十種くらいはあるそうです。英語もmellow & tipsy から始まって stoned や leglessまで、たくさんの表現があります
日本人は飲み始めてから酔っ払うまでに二時間くらいしかかかりませんが、外国人はゆっくりと会話を楽しみながら時間をかけて飲む人が多い。西洋ではクリスマス休暇直前の金曜日とか犬曜日の夜は明方まで飲む人も少なくありませんから、かなりご機嫌になる人もいますが、ふだん酔って歩いている人はあまり見かけません。
何も失うものを持たない本当の下層階級の人は昼間から泥酔して道路に寝ていたりしますが、ちょっと上の暮らしをしている人たちは、酔って地下鉄の中で眠り込んだりしたら、どんな目に遭うか知れないので、ほろ酔い程度でやめる、ということもありましょう。日本は治安がいいから、お祭りの日でなくても安心して酔っ払っていられるのでしょうね。
日本人は酔っ払いに寛容ですけれども、酔っ払いが多い割りにはアルコール中毒患者はそんなに多くないようですね。昼間から酒を飲む習慣が一般的でないからでしょうか。私の父はアルコール中毒患者だったので、私もその素質があるのですが、大酒飲みにはなり損ねました。それでも親の家に住んでいたころは、帰宅時間を遅らせるために誰かから声がかかれば一、二軒寄るのがふつうでした。
別に私は両親と特に仲が悪かったわけではありませんが、一刻も早く家に帰ろうとは思いませんでしたから。それがアパートに自分の住まいを持つようになってからは、一刻も早く家に帰って、自分の好きな酒を自分のテンポで飲みたいと思うようになりました。
自宅で飲む場合は、売り上げをふやそうと矢継ぎ早に酌をする人がいないので、大酒を飲む結果にはならないのです。もちろん、いまも誰かと外で会って一杯、というのはやりますけれど、たいていは話の方が忙しいので、酒はあまり飲むヒマがありません。
[ちょっとおかしいぞ、日本人 (1988年 千葉敦子 著 新潮社 刊) ]
● 30. 対決嫌い
日本語がわからず、日本のことをあまりよく知らずに初めて日本をおとずれた外国人は、 たいてい日本人の礼儀正しさや丁寧な態度に感激し、白人ならばよそでは考えられないほどいの親切に出会って日本びいきになります。
多くの日本人は、外国人の話を聞きながら「イエス、イエス」「アイ・シー」を連発するので、知らない外国人は、この日本人が自分のいうことを非常に熱心に聞き、自分の意見に賛成し、尊敬してくれているものと誤解します。もちろん日本人は相づちの「はい」「ええ」 「うん」「なるほど」ということばの代わりに「イエス、イエス」と「アイ・シー」を使っているのであって、必ずしも相手の言に賛成しているわけではありません。
先日、二十年近く日本に住んでいて日本語もペラペラの米国人ビジネスマンがこういっていました。日本で商売をしていて、ふだん日本語で話をしているものだから、相手の話に相づちを打つクセがついてしまった。それでこの間米国へ打ち合わせに行ったとき、相手の米国人が話すのを聞きながら知らず知らずのうちに「アー」とか「ウン」とかいう声を発している。相手が聞きとがめて、「そのアーとかウンというのはなんだね」
というので、初めて英語で話しているときも日本流の相づちを打っていたことに気づいたというんですね。彼は「これは日本流のマナーなんだ」と説明したそうですが、相手は、 「話している途中に変な声を入れられたんじゃ、うるさくて仕方がないよ」 と文句をいったそうです。
相づちと同時に日本人は話を聞きながら「うなずく」というクセを持っています。これも 「同意」と間違えられます。米国人ジャーナリスト、ジョン・ウォロノフが「ビジネス・ヴイュー」一九八三年九月号に寄せた記事で次のように書いています。
彼は日本経済の病弊についてある講演会で話をしたのだそうです。会場にいた、ひとりの日本人のビジネスマンが大変に熱心に彼の話を聞き、盛んにうなずき、会の終わりにはウォロノフ記者のところにわざわざきて講演を褒めたというんですね。
ところが暫くあとで、別の外国人のエコノミストが日本経済について極めて肯定的な見方を披露した講演会にウォロノフ氏は出かけ、例の熱心な日本人を見かけます。なんとこのビジネスマンは講演の間中、熱心に聞き入り、何度もうなずき、そのあと講師のところへ行って講演を褒めたのです。ウォロノフ記者はびっくり。相反することを述べた二人の話の両方に賛成することは、いくらなんでも不可能ですからね。
滞日経験の長いウォロノフ記者は、「あのうなずきは、ただの礼儀だったのだ。日本流に礼儀正しくやっていただけなのだ」と気づきます。そして猛然と腹を立て始めるのです。「礼儀上賛成するくらいなら、賛成してくれないほうがよっぽどましだ」
このように、賛成・不賛成にかかわらず、とりあえず、うなずいておく、というのは、多くの日本人が『対決嫌い”という性格を備えているからではないでしょうか。日本人以外の人たちは、同意もしていないのにうなずくということはまずあり得ないし、 だからめったにうなずいたりしません。少しでも相手のいうことに賛成できないときは、
「ちょっと待って」「そこは賛成しないな」「そんなことないよ」と相手の発言にチャレンジします。ところが日本人相手にこれをやると、「あの人は何をいっても反対する」と嫌われてしまいます。たいていの人は、ですから賛成できないときは「黙り込む」か 「話題を変える」という手をとります。従って、日本人同士で深い議論を楽しむチャンスは非常に限られ、とくに会ったばかりの人とはしにくくなっています。
論理の上での対決をせず、意見が合わないと、その人全体を嫌いになるという感情的な性向も日本人には強く見られます。外国人の場合は激しく議論し合って、相手をこてんぱんにやっつけ合っても、議論が終われば仲よしというのは当たりまえの態度なんですが、日本人が相手だと議論から喧嘩に発展することもよくあります。
隣人の子どもを預かって水死事故を招いた件がありましたね。預けた側が訴訟を起こし、 一部勝訴したところ、全国から匿名の脅迫状と電話が原告夫婦を襲い、、訴えをとり下げるに至った件です。
この件なども、ほかの国で起こったのでしたら、争点そのものについては大いにパーティ ―や街角の話題となるかと思いますが、被告・原告どちら側の立場に賛成しようとも、その相手側にいやがらせの電話をかけるという行動には結びつかないでしょう。一昼夜で百本を越える電話、というのですからスゴイですね。子どもでなくおとながこういうふうに感情的な行動をとるのは、やはり珍しいと思います。
日本人の対決嫌いは、相手の論理との対決ばかりでなく、自己との対決、あるいは困難との対決にも見られるようです。たとえばガン患者に医師が病名を告げないという習慣は、患者の対決嫌いへの思いやりを含んでいるのですね。(基本的には、患者や家族の医学知識がふえると、実験動物である患者にさまざまなテストをしてみることができなくなるという医療側のつごうが最大の要因でしょうけれども)。
日本人のガン患者の中には自分の病状を知りたがらない人がたくさんいるということです。しばらくまえの新聞の投書に、自分のかかっていた医師からガン専門医へ渡すようにいわれた封筒が完全に糊づけされていなかったので覗いてみたところ、自分の病名がガンであることがわかった、というのがありました。投書の主は完全に糊づけしなかった医師を恨んでいるのですね。
そのような方法で知らせることが、医師の心づかいだったかも知れないのに。 前述のゲアハルト・ダンプマンは次のように書いています。彼ら(日本人)は、予期できない状況に出会うと、自分の力を試すための歓迎すべき試練としてでなく、むしろ運命の打撃として感ずる。(『孤立する大国ニッポン』)
心理学者の南博さんは、その著『日本的自我』(岩波新書、一九八三年)の中で「自己の責任においてする自己決定の回避」を日本人の意志の弱さの表れと見て、それ(意志の弱さ)は行動にあたって、何を目的とするかを選ぶ選択力、選択の結果ある目標を決める決定力、決定したことを実際の行動に移す実行力、実行する行動を持続する持続力、さらに持続が困難、不可能になったとき他の目標に切り換える転換力、 実行を中止する中止力がふくまれる。
と書いておいでです。このような意志の弱さと対決嫌いのクセが結合し、ものごとを曖昧なままにしておくという習慣を育ててきたのでしょう。「ガンかもしれないけれども、お医者様がそういわないのだから、そうでないのかも知れない。ハッキリと知ってしまうより知らない方が幸せだ」と考える人が多いということでしょう。事実を知らなければ始終疑念に襲われて、本当に『幸せ”になれるはずはないのですがね。
좀 별난, 일본인의 습관 (1985년 치바 아츠코 저, 千葉敦子 著 新潮社 刊)
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