+神をたたえよう。わたしたちは神の民、その牧場の羊。
おはようございます。
今日は待降節第1金曜日です。
救い主・イエス・キリストと教会の母聖マリア、聖母の配偶者聖ヨゼフの大いなる祝福がありますように!
また、大天使とすべての天使、私たちの守護の天使が今日も皆さまを見守り平和でありますようお祈りします。
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マタイによる福音
<イエスを信じる二人の盲人の目が見えるようになった。>
〔そのとき、〕イエスがそこからお出かけになると、二人の盲人が叫んで、「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と言いながらついて来た。イエスが家に入ると、盲人たちがそばに寄って来たので、「わたしにできると信じるのか」と言われた。二人は、「はい、主よ」と言った。そこで、イエスが二人の目に触り、「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われると、二人は目が見えるようになった。イエスは、「このことは、だれにも知らせてはいけない」と彼らに厳しくお命じになった。しかし、二人は外へ出ると、その地方一帯にイエスのことを言い広めた。(マタイ 9・27−31)
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バン・ヨンオク神父様の文「彼らの目が見えるようになった。」です。
人によって違いますが、必ず叶えたい願いがあります。 その願いを叶えるためにはそれだけの努力が必要です。 思いがけず願いが叶うこともありますが、真心と愛を注いだ時、より大きな喜びを享受するようになり、やりがいを持つようになります。 最善を尽くせばそれで十分です。 それが幸せです。 ところが、ついつい他の人と比べてしまうと、幸せは消えてしまいます。
ある目の見えない人が二人いました。 彼らの望みは何でしょうか。 目が見えるようになることでした。 目を開けるには、目を治療する能力のある人に出会う必要があります。 彼らはちょうど道を通っているイエス様に出会いました。 彼らはその機会を逃さず、「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」(マタイ9・27)と叫びました。 そして憐れみを受けて目が見えるようになりました。 彼らには目が見えるようになりたいという願いがあり、それを叶えてくださるイエス様に対する信頼がありました。 そして主はその信仰を認めました。 彼らは信じることで神の能力を体験しました。 信じることで神様からすべてを受けるようになりました。 私たちも毎日の黙想を通して、主に向けた信頼と愛の成長を成し遂げていることに、主の力に感謝しなければなりません。
レオナルド·ダ·ヴィンチの「最後の晩餐」の絵は、ミラノのある伯爵の要請により3年間かけて完成したそうです。 その絵はイエス様が中央に座っていて弟子たちが両側に座って一緒に最後の食事をする場面です。 ところで、最初の絵はイエス様が右手にグラスを持っていたそうです。 しかし、私たちが見ることができる絵はそうではありません。 そこには一つのわけがあります。 ダヴィンチは作品が完成する頃に友達に絵を見せました。 ところが、その友人が突然「ダ·ヴィンチ、ここイエス様が持っている杯はまるで本物のようだが」と言いました。 この話を聞いてダヴィンチは絵を修正しました。 本物のように見える杯を消してしまい、イエス様の腕がじっとテーブルの上に上がっている今の姿のままにしました。 それは彼の信仰がそうさせました。 決してイエス様よりもっと重要に現れる部分があってはならなかったからです。 彼はこの時43歳でした。 私は同じ年でいったい何をしていたのだろうか。。。
私たちの人生においては、イエス様よりも重要に思うことが多すぎます。 お金も稼がなければなりませんし、趣味も楽しまなければなりません。 友達にも会わなければなりません。 季節に合わせて旅行もしなければならず、お酒も飲まなければならないし、やるべきことが多すぎます。 食べて、飲んで楽しんでいたいです。 そうしていると、祈りはもちろんミサも疎かにする時があります。 神様よりも世の中を楽しんで探しているので、ある意味私たちは目を開いた盲人です。 肉的な目だけでなく、霊的な目、信仰の目を開かなければなりません。
主がおっしゃっています。「わたしがこの世にきたのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」(ヨハネ9・39)。「(主よ) 見ていると勘違いしている(私の)目に触れて、本当に見えるようにしてください。 主よ、私たちをあわれんでください!」
主に対する信頼によって、霊的な視覚を回復できることを望み、祈ります。
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イエス様が来られるのを見ることができる霊の目が開くように聖霊、きてください。