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毎日新聞 2023/1/11 06:00(最終更新 1/11 06:00) 有料記事 2579文字
死の10日前、記者が最後に会った際の西部邁さん=東京都千代田区永田町2で2018年1月11日午後10時28分、鈴木英生撮影
「朝まで生テレビ!」での激論ぶりを覚えている方もいるでしょう。保守派論客として知られた評論家で社会経済学者、故西部邁(すすむ)さん。21日で、東京都大田区の多摩川で入水し亡くなってから丸5年になります。私は、おそらく最後に彼と会った新聞記者です。【オピニオングループ・鈴木英生】
2018年の1月21日は、晴天の日曜日だった。記憶では昼ごろ、自宅居間のテレビに、西部さんとおぼしき遺体が発見されたとのテロップが流れた。とっさに西部さんの家へ電話すると、秘書役だった娘さんが号泣した。電話を切ってすぐ、こたつから出るのももどかしく訃報原稿を書き始めた。
西部さんと初めて会ったのは、07年4月。中島岳志・現東京工業大教授との対談を頼んだ。毎日新聞東京本社最上階のレストランで、初対面の中島さんを見るなり「おっ、いい顔をしているねえ」。約3時間の対談後は、西部さん行きつけのバーへ。
この日以来、西部さんを取材すると必ず飲みに誘われた。昼に突然、社に電話をもらい1階の喫茶店で話したことも、人に誘われて家へお邪魔したこともある。が、バーの印象は強い。お開きは未明か明け方で、知性の塊のような人物を前に下手な合いの手を入れるのが精いっぱい。それでも、高校生のとき著書「六〇年安保センチメンタル・ジャーニー」で出会って以来の憧れと同席できて、うれしかった。
西部さんは、学生運動の元活動家だ。東京大在学中の1960年、日米安保条約改定の反対運動「60年安保闘争」を先導した。「六〇年安保~」は、その回想記だった。
39年北海道生まれ。幼い頃、戦後の民主主義礼賛に強い違和を覚えて以来、孤独感や虚無感にさいなまれつつ育った。吃音(きつおん)に悩み、自分は非行者でアウトサイダー、社会の少数派だと感じてきた。数少ない高校時代の親友は貧しい在日コリアンで、暴力団組員となり、後年、自裁する。過激な、熱狂的なものに、いや応もなく引き寄せられた。「世の中、革命しかやることないですからねえ」と、学生運動に参加。自分の情念をアジ演説に乗せると、吃音が収まったという。
西部邁さんの著書「六〇年安保センチメンタル・ジャーニー」(文芸春秋、1986年)の初版本=2023年1月3日、鈴木英生撮影
闘争は激化し、国会敷地内にデモ隊が突っ込む。仲間が死ぬ。それでも安保条約は改定され、運動は潰れた。「同志」のある者は、敵だったはずの米国へ留学し、ある者は、より過激な新左翼党派へ移った。変わらない現実にぬかずくか、果てのない理想に身を委ねるか。どちらも拒否した末に、たどり着いた立場が保守だ。
西部さん流の保守とは、相反する価値の間で平衡をとる、いわば構えのこと。たとえば、理想と現実、自由と規制、平等と格差、博愛と競合……。判断の基準は、人々の慣習の奥底にある歴史の知恵、つまり伝統である。伝統を綱渡りのバランス棒に例えた。保守は中庸を歩む。「体制派に転向した」といった上っ面の批判には激怒した。
10年からは寄稿連載をお願いし、12年春まで直接担当した。1回だけ、どうしても納得できない内容の原稿を受け取り、電話越しで口論になった。が、翌朝は、けろっと気持ちよく話してくれた。私の父とほぼ同い年だが、安心して怒鳴らせてもらえる。そんな識者は西部さんしかいない。つまり、私は甘えていたのだ。
亡くなる10日前、新刊「保守の真髄」について取材した。久しぶりの西部さんは、病で右腕が不自由になっていた。ポケットからものを出すにも難儀し、グラスは両手で持ち上げる。同書も口述筆記だ。ものを書くことで平衡を保ってきた人にとっての、その重みは察するに余りあった。
取材後は、いつものバーへ。娘さんらが合流し、話題は西部さんの大学時代の親友、唐牛健太郎・元全日本学生自治会総連合委員長に及んだ。黙って聞いていると、突然、「うんとかなんとか言ったらどうだ!」と雷が落ちた。「唐牛さんが亡くなって、もう30年以上ですね……」。思っていたことをそのまま口にした瞬間、西部さんの表情がさっと変わり、黙り込んだ。おそらく、私が彼に発した、なにがしかの意味を持つ唯一の言葉だったと思う。
唐牛さんは、西部さんにとって「親友というよりも、信友の関係とよぶのがふさわしい」(「六〇年安保~」)人物だ。60年安保闘争時の全学連委員長という肩書の重さが、生涯ついて回った。昔の仲間が各界で出世するなか、一人、土木労働者、飲食店主、漁師と流浪し、84年に47歳で死ぬ。単著はない。西部さんは「語り得ぬこと伝え得ぬことがあると骨の髄から知ってしまった人間」と評した。東大教授などを歴任した西部さんとは社会的立場こそ違う。が、アウトサイダーを自認する西部さんは、自分だけが唐牛さんの孤独と絶望を理解している、唐牛さんこそが自分のそれを理解していると思っていたのだろう。
東京都大田区の岸から見た多摩川。対岸は川崎市=2023年1月4日午後2時49分、鈴木英生撮影
西部さんは、07年の中島さんとの対談で、こう言った。「自分の書いたことや考えたことは誰からも理解されない、と不安になるときがある。しかし本当にそうならば、自分は滅びている。どこかの誰かが分かってくれているから、生きている」。既に唐牛さんを失って久しく、著作で将来の自殺をほのめかしていた。それでも、自分の絶望は誰かに伝わるとまだ信じられたのではないか。
この対談から約11年後の晩は、取材中も飲みながらも、「数週間後には(自分は)生きていない」と繰り返した。相変わらず他の酔客に表層的な批判を受け、相変わらず口論になった。次の店へはしごする夜道で、「俺の絶望の深さが分かったでしょ」。私は、娘さんに「これだけお元気ならば、大丈夫ですね」と軽口をたたいた。私にも、自殺したり、限りなく自殺に近い死を選んだりした友人・知人はいた。なのに、西部さんのような人が死ぬと想像できないほど浅はかだった。
「私は言葉を自由に使ってみたかったのである。言葉の河で泳いでみたかったのである」(同書)。19歳の青年が学生運動に飛び込んで約60年。「保守の真髄」は、83冊目にして生前最後の単著となった。そこに、哲学者、オルテガの言葉を引いている。「絶望するものの数が増えることだけが希望である」
西部さんは、最期まで己の言葉を、絶望を信頼して生きた。没後5年。ここまで書けた今、やっと分かった。だから私も、自らの言葉を書き続けたいのだ。
<※1月12日のコラムは論説室の野口武則記者が執筆します>