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毎日新聞 2023/2/18 東京朝刊 有料記事 1030文字
<do-ki>
歴史って何? これは悪魔の問いである。大河ドラマや三国志やローマ人の物語に夢中になっている最中、この疑問は浮かばない。楽しむ自分に疑いが兆すと、悪魔がささやく。答えはない。私って誰? 答えられますか。
E・H・カー「歴史とは何か」の新訳が昨年、60年ぶりに出た。昭和の大学受験生が一度は手に取り、ほぼ挫折したアレだ。再挑戦しても答えは変わらない。歴史とは「現在と過去との尽きることを知らぬ対話」「過去は現在の光に照らして初めて理解できる」。ふむ。でもそれって、現在とは何か、の言い換えじゃないの。
英国の外交官だったカーは40代で学者に転身。第二次大戦が始まると、情報省対外広報局長、次に名門紙「タイムズ」論説委員として論陣を張る。同時代史を大胆に論評し、影響力はあるが敵も多いお騒がせ言論人だった。
間違いも少なくない。国際政治学の必読書「危機の二十年」は、二つの世界大戦の「戦間期」を分析する。19世紀的な自由主義・道義主義をユートピアニズム(空想的理想主義)と批判し、秩序を作る力重視のリアリズム(現実主義)を説くが、勢い余ってヒトラーやスターリンに理解を示した部分もあり、晩年誤りを認めた。
矛盾多き知の巨人が、いま気にかかる。冷戦後30年余の世界が「新たな戦間期」「危機の30年」を連想させるからだ。ウクライナ支援・米中対立の大義は「民主主義対権威主義」。カーの視角を用いるなら、米国流の民主主義・新自由主義・法治主義を普遍的価値と奉じる側に、20世紀的ユートピアニズムにとらわれている恐れはないのか。それは偽善の仮面で、膨大な兵器消尽・経済覇権のリアリズムが裏の大義なのか。
カーの異名は「赤い教授」。若手外交官の時、19世紀ロシア文学にとりつかれ、ドストエフスキー、ゲルツェン、マルクス、バクーニンの伝記を次々執筆。直後に「危機の二十年」を書いた。自分が育った西欧社会の価値観に抵抗、挑戦する別世界の思想に可能性を見いだしたと回顧している。戦後は30年かけて「ソビエト・ロシア史」全14巻の執筆に没頭した。
現実主義者の内面には、途方もない理想主義が燃えていた。その複雑な相貌を、早世したカー研究者の山中仁美は「国際関係論、歴史研究、ロシア史家という3人のカーがいた」と説明し、3人は絡み合っているので1人に統合してとらえる必要があるという。
大国指導者の歴史観が世界を動かす時代。さて、あなたにとって歴史とは。(専門編集委員)