+きょう、神の声を聞くなら、神に心を閉じてはならない。
今日は四旬節第4主日(レターレの主日)です。
主・イエス・キリストと神の母聖マリア、聖母の配偶者聖ヨゼフ、諸聖人の大いなる祝福がありますように!
また、大天使とすべての天使、私たちの守護の天使が今日も皆さまを見守り平和でありますようお祈りします。
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ヨハネによる福音
<彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。>
〔そのとき、〕イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。
≪弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。」こう言ってから、≫
イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。
≪そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。≫
人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。
≪それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。ついに、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、尋ねた。「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」両親は答えて言った。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。両親が、「もう大人ですから、本人にお聞きください」と言ったのは、そのためである。
さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」すると、彼らは言った。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」彼は答えた。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」そこで、彼らはののしって言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」≫
彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。
イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」彼〔は、〕「主よ、信じます」と言って、ひざまず〔いた。〕
≪イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」
イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」≫(ヨハネ 9・1−41)
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ホ・ギュ・ベネディクト神父様の「今日の黙想」です。
病気に対するユダヤ人の考えは、今とは違いました。 彼らは病気が罪の結果だと考え、病気の程度がひどいほど罪が大きいと考えました。 では、今日の福音のように、生まれつき目が見えなかった人はどんな罪を犯したのでしょうか? このような疑問とともに福音の話が始まります。 生まれてから目が見えない人をイエス様が癒し、イエス様によって目が見えるようになったのです。 ヨハネ福音の表現によると「しるし」であり、私たちがよく知っている表現としては「奇跡」です。 すべての福音書がそうであるように、イエス様が病人を治癒してくださった奇跡の話は長々と書いてはありません。 しかし、「しるし」があった後に起こることが関心を集めます。
ファリサイ派の人々は、イエス様が「しるし」、すなわち奇跡を起こしたことを否定します。 盲人だった人の両親を呼び、彼が本当に生まれつき目が見えていなかったのか問い、本人にもどうやって見るようになったのか問い詰めます。 これらすべてが問題になる理由は、その日が安息日だったからです。
今日の福音は、イエス様が起こした「しるし」と共に、目が見えるようになった人と、ファリサイ派の人の間を対照的に見せてくれます。 生まれた時から盲人だった人は、しるし(奇跡)を体験し、自分を治した方が誰なのか知るようになります。 しかし、ファリサイ派の人々は、起こったことすべてに頑なに否定的に振る舞います。 彼らはイエス様が誰なのかについては関心がなく、安息日に病人を治したということだけに執着し糾弾します。
福音は私たちにこのように話します。 目の見えない人は、目が開いてイエス様を探しますが、ファリサイ派の人々は、目の見えない人のようにイエス様に気づきません。 実際、神様の業を見ずに、(心の)目が暗い人はファリサイ派の人々と同じなのです。
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主に裁かれないように、本当にイエス様のことが見える人になれますように聖霊、きてください。