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わたしの釜山(1968 川村 湊)
Ⅲ 韓国で考えたこと
● 08-1 蔚山の〈チノギ・クッ〉
安寧でいらっしゃいますか? ソウルの漢江の水を溢れさせた集中豪雨が、忠清道、全羅道、慶尚道と南下してついに釜山に至り、朝鮮半島の南半分を水びたしにして通りすぎていってしまったあとは、爽やかな秋の気配が感じられるようになりました。
水害と秋夕(陰曆八月十五日の先祖をお祀りする日。日本のお盆にあたります)とで、生鮮野菜類が高騰し、晩秋のキムジャンの季節(秋の終わり頃に、越冬用のキムチを漬ける習慣があるのです)に、今年ははたして道路のわきまで白菜の山を築き、アジュモニたちがせっせとキムチを漬ける光景が見られるかどうか、いささか心配な秋でもあります。
市場へ買い物に行って来た妻は、しなびたような大根を一本下げて帰り、これが一本四百ウォン(約百三十円)、白菜は一個三千ウォン(約九百八十円)よとグチリながら、即製カクテギをつくりました。白菜キムチが食卓にのぼらなくなってから、かなり久しくなったような気がします。
ところで、こちらの国の大統領が日本へ行き、日本天皇と初めて公式に会って来たということですが、日本での反応はどうだったでしょうか。こちらの新聞・テレビは連日、日本での大統領の歓迎ぶりや日本側の反響を逐一伝えるといった報道ぶりで、大袈裟にいえば固唾を呑んで大統領と天皇との "歴史的会見”を見守っていたという感じでした。
もっとも、ほんとうのところ日本天皇の“お言葉” は韓国人にとっては期待はずれで、公式的な「世論」はともかくとして、「遺憾」程度のことではまこと遺憾だといった式の、皮肉なコラムやら辛辣な諷刺漫画などが目につきました。新聞などの一般的な論調では“お言葉"を謝罪表現として前向きに受けとめ、"韓日新時代の幕開け" として大統領訪日の成果を強調していたようですが、どうもお仕着せの世論といった感じは否めません。
もっと現実的で冷静な向きは、「謝った・謝らなかった」と声高に言いたてる発想自体が、もはや不毛なんだと指摘する人もいるのですが、こうした声は「日本が謝った。これからは対等なパートナーだ」といったかけ声に消されがちです。
とはいうものの、韓国の元首が初めて日本を公式訪問し、日本側からかなり鄭重なもてなしを受けたということは、一般的な韓国人には好ましい印象を与えたようです。どうもこちらでは日本での”在日韓国・朝鮮人”への差別ということがやや増幅されて伝わっているようで、「日本ではまだ韓国人のことを『チョーセンジン”といってバカにするのですか?」と聞かれてドギマギしたことなどもありました。
そういった具合いですから、『韓国の元首』に対する日本人の対応はどうかということで、テレビの中継放送に見入る人も多かったようです。日本天皇が"お言葉”の中で、古代の朝鮮半島から日本への圧倒的な文化伝達のことについて触れたり、ロス・オリンピックでの韓国選手の活躍をはさみこんだりしたことは、韓国人の素朴な〈愛国心〉をくすぐったようで、「遺憾」表現以外では日本天皇と日本とについて、肯定的に評価する向きも出て来たようなのです。
ちょっとガラにもなく、高所大局的な問題をしゃべりすぎたようです。前口上はこれぐらいまでとすることとして、この手紙で僕が書きたかったのは、実はこの前蔚山へ見に行った"チノギ(鎮誤鬼)クッ"のことなのです。
韓国に住みついてから、アレを見た、コレを見たと吹聴して回るクセがついたなと前に友人に笑われたことがあったのですが、これも・・・まあ、その一例ということなのですが。たまたま日本から文化人類学専攻という大学院生が釜山に来て僕のところに泊り、翌日彼が、釜山に住んでいる韓国の「巫堂」(シャーマンのこと。
ただしこの言葉には蔑称の響きがあります)のグル ―プの長の一人である金石出氏の案内でヘチノギ・クッ〉を見学に行くというのを聞き、それに便乗して見に行くことにしたのです。金石出氏とは前に一度お目にかかったこともあるし、釜山近辺で行われる'巫堂のクッ'(シャーマンの儀式のことで、普通、巫儀・祭儀などの訳語があてられます)では何度か見かけたこともあります。
また、韓国シャーマニズムの研究者・崔吉城氏からは個人的な談話や著書で、あるいは「アリラン峠の旅人たち」という題名で邦訳された本などで(申瓚均「金石出氏聞き書・民衆の中のシャーマンたち」)その人となりや経歴をおぼろげには知っていたので、こういう人に案内してもらえるのはもっけの幸いと思ったわけです。
東萊温泉の喫茶店で待ち合わせた金氏は、"クッ”の時に見かけるのとは違って、六十二歳という実際の年よりかなり若々しく、ダンディに見えました。雨に濡れた髪の毛を櫛でさっとさばきあげるところなど、お洒落な若い男性と同じく手慣れたしぐさで、いかにも自然に身についた身だしなみへの心くばりのようでした。
「アリラン峠の旅人たち」の中で、金氏が多彩で情熱的な過去の私生活を語っている部分がありましたが、なるほどなとうなずける思いがしたのです。蔚山までは田舎道まわりの市外バスで、蔚山のバス・ターミナルから"クッ”の現場まではタクシーで行きました。車が蔚山の郊外の村落を通りすぎるとき、金氏が「私はこのへんで生まれたんですよ」と問わず語りに話し出しました。
「お母さんがこの蔚山の近くの人で、小さい頃はここに住んでいたんです。そう、三歳ぐらいまでかな。お母さんがやっぱり"巫子さん”で、いろいろなところをウロウロしたんですが、私が五つのときに亡くなり、そのあとはお父さんに従いて"クッ”を回ったんですね。それでも子どものとき一番長く住んでいたのがここなんです」と。
巫堂のグループ(一族)が、ある意味ではまったく旅から旅への放浪の家族であることを、僕はこの国の"シャーマン”たちのことを書いたたくさんの本から教わっていました。この村での"チノギ・ クッ"、あの村での"センチノギ(生鎮誤鬼)クッ" (生きているうちに行うチノギ・クッ)、こちらの海岸の村では海難事故で死んだ人の慰霊のための"スサル(水殺)クッ"を行い、また別の村では財運隆盛のためのヘジェス(財数)クッンを行わなければならない。
さらに季節ごとにやって来る〈端午祭〉 や〈別神祭〉の主役を演じるのも巫堂たちなのです。金氏のグループの巫業範囲は、嶺東・嶺南地方と呼ばれる韓国の東海(日本海)ぞいの一帯で、道別でいえば江原道、慶尚北道、慶尚南道の三道。 もっともこの地域は、釜山から江原道の中心都市・江陵まででも太白山脈にそって汽車で十時間という遠さなのです。
〈チノギ・クッ〉というのは、簡単にいえば日本の法事供養のようなもので、死んだ先祖の霊を慰め、祀るために子孫が行うクッなのです。もちろん主役は巫堂であり、そのときのクッはこれから三日三晩をかけて行われるということでした。その間、クッを行う一家族だけではなく、近所の人や同じ村落の人、あるいは通りがかりの人までもが見物に来たり、飯を食いあったり酒を飲みあったりということで、そのあたり一帯がちょっとした"お祭り”気分となるわけです。
その日のクッの依頼主は不動産業者。このあたりの所有地は一坪八十万ウォンで、それだけでも七千万ウォンになるというかなりハブリのよさそうなご主人と、いかにも韓国のアジュモニといったオカミさん。それから親戚一同が寄り集まっているらしく、これが長兄、あれは次兄の嫁さん、それが弟の嫁の妹などといわれても、こちらには一ぺんでは頭に入りません。
巫堂グループのほうは、地元蔚山の"ハルモニ”巫堂と、金石出氏の一番目の娘さんとその旦那さんで、つまりこちらは夫婦で巫堂とその“お囃し”というコンビとなるわけです。あとの囃し方には金氏の亡くなった弟さんの息子という若い二人が来ていて、彼らは中学中退で巫業修業中ということでした。
「巫堂の仕事だって、これからは大学ぐらい出ていなくては」と金氏は言っているのですが。 金氏の四番目の娘さんもやはり巫堂で、その現場に小さな可愛い女の子を連れて手伝いに来ていました。朝から晩遅くまで『クッ”は続くわけで、巫堂と相方の長鼓、それに銅鼓という最低限の役柄をそれぞれ交代しながら勤めないと体がもたないのです。
巫堂の子は巫堂に、というのが一般人からは職業視されて来た彼らのやむをえない巫業の世襲制なのですが、もちろん巫堂には歌と語りと踊りとの資質が要求されるし、囃し方のほうも楽器の扱いの巧拙、そして"グッ”に欠かすことのできない紙花造りと、いずれも才能と熟練した技術とが必要なわけです。
それで金氏の五人の娘さんのうち、巫堂になったのは二人だけで、あとの娘さんはそれぞれタクシーの運転手、船員などと結婚して普通の暮しをしているということです。もっとも最近五番目の娘さんが巫堂をすると言い出し、踊りも歌もうまいのだが、さてどうしようかと金氏は思案中だということです。巫業を継がすにも継がさないのにも、いろいろ思いわずらうことは多いようなのです。
この日はクッの初日ですから、まず"プジョン(不浄)クッ"から始まりました。これはクッを行う場所を浄めるための巫儀で、むろんクッの順序としては必ず最初に行われるものです。三代・四代・五代の祖先名を書いた紙の位牌はまだ祭壇にあげられずに、敷居の外にお膳を据えて、豚のしそい
頭やら干し鱈やら果実やら餅などの供え物といっしょに置かれています。巫堂はときおりヤカンに入った濁酒を銃にうつし、祭場の地面に撒き散らします。『天王台”と呼ばれる紙の織をあげた竿を軒に立て、開けはなした部屋の中に色とりどりの紙花で飾られた祭壇を設け、軒から歩道へかけてテントを張り、見物人たちはそのテントの陰で思い思いに椅子に坐ってクッを眺められるのです。
不浄クッの次が'コルメギ・クッ'。コルメギというのは金氏の説明によると城隍神と同じくその集落、村落の守り神(産土神)で、この神を祀らないことには、せっかく招き寄せた先祖霊もこの村の今境界からは入って来れないわけで、この許しを乞うのがコルメギ・クッなのです。
ハルモニ巫堂が唱えごとをしながら紙と竹とで出来た飾りものを頭の上に振りあげたり、左右に動かしているので、あれは何かと金氏に聞くと、先祖の霊があの世から乗ってやって来る船だということでした。巫堂がそうした“演技”を行っているうち、依頼主一家の兄弟やら姉妹やら、一族の人たちは位牌を置いた膳の前へ進み出て、千ウォン札を供え、線香をたてて濁酒を少し銃に注ぐのです。
それから手を合わせ、上体を大きく前へ投げ出すようにして、ひざまずいて礼拝を行います。終わった人は壁ざわに戻り、そこに坐りこんで巫堂の演技を見物するのです。右と左の壁側にはそれぞれ三身仏と五方仏、大王殿の神々が勧請され、紙花に飾られた紐に、「北方無憂世界不動尊仏」とか「奉清第二初江大王」といった仏名、神名が墨書きされた紙が下がっているのです。
小降りだった雨が大粒に変わり、テントの屋根をたたき始めました。それをシオにコルメギ・クッは終わり、先祖たちの紙牌は部屋の奥にしつらえられた祭壇にあらためて奉置されました。御飯が炊きあがり、女性たちが五代の先祖夫婦、十名のアポジとオモニたちのために御飯をよそい、生者と同じように箸と匙を一組ずつそれぞれの飯銃に添えて供えるのです。果物や餅などのお供え物もあらためて祭壇に供えられ、代々の『家族”たちのにぎやかな食事がそこで始まるはずなのです。
コルメギ・クッが終わると次は〈招亡者クッ〉です。 これが初めて先祖たちの霊をこの祭壇に招いて行われるクッなのです。ハルモニ巫堂に霊が降りて来て、長い間クッをしてもらえなかったうらみ言、あの世でこの世に残っている子孫への心配ゆえの苦労を語ると、そこに居並ぶハルモニやアジュモニたちは「アイゴ!」の声をあげて悲しむのです。
お金のための心労を語れば、「私がお金をあげるから」と長姉のハルモニが、チマの裾をからげて腰紐にゆわえつけた巾着の中から真新しい千ウォン札をとり出して、巫堂の鉢巻、胸もとに押しこむのです。紙の船型に金を入れ、沙山い揺らしていく人もいます。
"天王台”の紙飾りに紙幣を結びつけていく人、そして祭壇に向かって礼拝し、そこに千ウォン札を重ねていく人。"別費”と呼ばれるこうしたチップをも含めたら、今回のこのチノギ・クッで三百五十万から四百万ウォン(約百十七万円)かかるという話もまんざら誇張ではないように思えます。
こうしたクッを見ているうち、僕は「先祖崇拝」ということの意味が少しずつわかって来たような気がしました。これらのハルモニやアジュモニたちの胸に浮かんでいるのは、遠い昔からの〈〉とと、近付いてくうへ巻いたちの姿であって、それが暗い世界の向こうからだんだんに大きく、はっきりと、 るのが見えてくるような気がしたのです。
つまり、それは自分たちの胸の中に蔵われている"翁"と"媼”の二つの像であって、自分もまたいつかその像の姿に重ねあわされることがあるのだという実感が、彼女らの中にいきいきと息づいているのであり、それが少しずつ僕の心の中にも浸みわたってくるような気持になってきたのでした。
もうハルモニといってよいほどのアジュモニが「オモニ!」 と呼んで泣きくずれるとき、彼女は自分がその“好”の系列にしっかりと結びつけられ、未来にも過去にもつながる道の上で、一人きりではなく存在させられていることを、ほんとうは甘い快さの中で確信しているのではないでしょうか。
柳田国男が「先祖崇拝」のことを語り、今まで生まれて来たすべての人間と、これから生まれて来る人間とをあわせて「国民」と呼んだことなどが思い起こされ、歌い続け、語り続ける巫堂の声と姿の中に、エキゾチシズムではない、ノスタルジーの思いがふつふつと湧いてくることを僕は禁じえませんでした。
Mさん、この手紙のまとまりが悪く、やや感傷的に終わってしまうことをお許しください。これはたぶん僕が、韓国という国でようやくその"心根”の一端に触れえたという記念的な理解、あるいは誤解の日の記録なのですから。
僕がこれまで韓国の各地で見、聞き、味わい、感じたすべての光景の底に、死者たちと生者たち、回想と現実とがいつも擦れあい、行き交っていたことを、僕は今さらのように思い至ったのです。それは、まさに人の中に神を見、人の中に仏を見るアジア東端の精神世界の根にあるものではないでしょうか。では、またお目にかかれるときまで。安寧。 (一九八四年十一月)
わたしの釜山(1968 川村 湊)
Ⅲ 韓国で考えたこと
● 08-2 内なる美国、アメリカへの見果てぬ夢 ―韓国から見たアメリカ像―
韓国でのアメリカ合衆国の略称は「美国」である。中国語の「美国」は亜美利加(アメリカ)のメの音をとったものだが、韓国語の漢字音で読むと何の関連もない語音となってしまう。亜米利加を 「米国」と呼ぶ日本式と同様である。
この「美国」あるいは「美」という語の使用頻度は「アメリカ」よりもやや高いようだ。外国語学校の広告によく出てくる「美人会話」は美しい女性との会話という意味ではなく、アメリカ人講師がミジエミグンハンミクアング英会話を教えてくれることだし、「美製」「美軍」「韓美関係」といった語は、新聞・雑誌などにかぎらず、日常の会話でもひんぱんに登場するのである。
どれほど暮しよい国ということで、U・S・Aを指して「美国」という美しい名前で呼んだのでしょうか。 大韓民国に関して何ごとかあれば、無条件で一肌ぬいで助けてくれる「美国」としてだけ知っていた私は、少しずつ世の中のことに目が開かれてゆくうち、美国も結局は自分の利益のために存在する「普通の国」ということを知るようになりました。
どんな国でも、その規模の大小に違いがあるだけで、一国として存在する価値はまったく同じなのです。韓国の代表的な総合雑誌「月刊朝鮮」が、一九八五年七月号で行った「二十代に見えた美国」というアンケート特集の中で、ある大企業に勤めるOLはこんなふうに自分の「アメリカ観」を語っている。
自由と民主主義の国、世界で最高の繁栄と発展を成し遂げた国、自由主義陣営のリーダーとして、 『北”と向かいあっている韓国を庇護し、援助、支持してくれる最大の友邦であり同盟国であるアメリカー――こうした従来の韓国の中でのアメリカ観が、揺らぎ、変質しつつある状況が、こんな「普通」 の若い女性の言葉によって最も鮮やかに語られているような気がするのだ。
この「月刊朝鮮」のアンケートには、二十代の男女百名が回答を寄せており、「アメリカは私たちにとって何なのか」という問いかけに対し、「アメリカは韓国の敵」であり「学生たちの対アメリカ意識は根源的には強者に対する抵抗意識に基づいている」と“反米”的な意見を吐いているソウル大生もいれば、「アメリカはわが国の最も親しい友邦」であり「ことに駐韓美軍がわが国に駐屯しているとい ・うことに一層の感謝を感じる」と伝統的な"親米”観を述べる食堂従業員もいるといった具合いで、韓国の若い世代といってもむろんその対アメリカ観は多様だ。
しかし、一九八五年の五月にソウルで起こった学生たちによるアメリカ文化院占拠、籠城事件からも推測できるように、全体としてこれまでの手放しでアメリカ文明を讃美し、アメリカ的民主主義を信頼・期待するという「アメリカ観」をもう一度考え直してみようというトーンが濃く感じられた。
先にあげたOLの回答はその中で最も一般的、集約的なものといえるかもしれない。アメリカ像の変容、アメリカ観の変質――こうした現象は現在韓国社会の底流で深く進行しつつあるように思える。それはさまざまな現象と複雑に絡みあったものなのだが、そのひとつの要素に〈反日〉の風化といったことも関連があるように思われるのだ。
つまり大雑把にいってしまえば、「日帝」 の朝鮮半島支配からの解放者としてのアメリカというイメージが残存しているうちは、〈反日〉とへ親米〉とはちょうど反比例していたのであり、韓国社会に投げかけられた"アメリカの影”のうち、かなりの部分がその底流として〈反日〉という動機を持っていたのである。
文化の面からこのことを見てみれば、直接的にアメリカ的文化が韓国の中に入りこみ、定着しているという例はわりあいと少ない。よく目につくのはミスター金、ミス李といった呼称と握手の習慣だが、これは従来の韓国語の呼称では社会的に水平な位置での呼び方がなかったこと、スキンシップの度合いが日本人などより高いといった受容の下地が推測されるのである。
それ以外の、たとえば教育制度、パトカーや警察官のスタイル、街角のポストといったものなどは、日帝支配時代の“倭色”(日本色)を排斥するために『アメリカ色” に“アメリカ色”と取り換えたわけで、それは大あわてで塗り変えられたペンキ塀のように、どこかまわりの景物とちぐはぐなところが見られたのだ。
むろん“借り着”としてのそうしたアメリカ文化を、うまく着こなしている例も少なくないのだが、韓国社会の内在的な理由による受容というよりも、強制的な移植という感は否めないのである(たとえば、ソウルの中の“アメリカの街”梨泰院や、テキサス村と呼ばれる青線地帯などに、そうした《移植されたアメリカ〉の影を見つけることができるだろう)。
しかし、一九四五年の日帝支配からの「解放」以降これまでの時間的推移の中で、〈反日〉とそれの精神的対応物であった〈親米〉(むろんこれには『北の脅威」という要素も強く働いているのだが)との双方が色褪せ、風化し、逆にそうした固定観念を脱け出した"リアル”な認識が芽ばえはじめ、それがアメリカを特別の「美しい国」としてではなく、「普通の国」として見ようという若い世代の主張となってあらわれてきたと思えるのだ。
それは「漢江の奇蹟」といわれる経済の高度成長を経て、中進国へと飛躍してきた韓国の国民的な 「自信」を物語るものかもしれない。「克日」のスローガン(単なる〈反日〉ではなく、日本を凌駕するためにも日本の先進性を学び、知ろうという主張)と、これまでほとんどタブー視されてきた反米的な言辞・行動が表面化してきたこと(米州、 しきたこと(米州、釜山でのアメリカ文化院放火事件、今回のソウルでの占拠事件など)とは、そうした脈絡の中で関連しあった精神傾向としてとらえることができるのである。
もちろん、五月(一九八五年)のアメリカ文化院占拠事件などの一連のアメリカにまつわる事件の思想的背景を、「反米」とだけ言い切ってしまったら、おそらく『リアル』な認識とはならないだろう。
現政権の頭越しに「アメリカ」との対話をもとめ、光州事態についての謝罪要求を行った学生たちに対し、アメリカに対しての〈事大思想〉があるのではないかという指摘が韓国内でもあった(日本では田中明氏が「韓国政治にとってのアメリカ――学生の米文化院占拠事件に寄せて」(「海外事情」 八五年七・八月合併号)でこのような問題に触れている)。
それは、 それは、体制派、反体制派のいずれもが「アメリカ」を最後の切り札として使おうとしている韓国の政治風土に、学生たちがそのまま染まり、アメリカの国会議員に庇護されて韓国への帰国をはたした現体制批判派の大物政治家のように、政治的とうしゅうプラグマティズムと民主主義実現という「理想」とを奇妙に癒着させていることを踏襲したもののように思える。
だから、それがアメリカへの“依存的抗議”であり、大きな目から見れば、韓国におけるアメリカの影の枠内に、すっぽり収まるような反米的なようなものでしかないという指摘は、首肯せざるをえないのである。 韓国では金持ちであればあるほど、知識人などとして社会的地位が高ければ高いほど、アメリカ行きの願望が強いように思われる。
多額の外貨を隠し持ち、アメリカへ脱出しようとして失敗した高名なキリスト教会の牧師、一億ウォンでアメリカの市民権を買ってやるといわれて詐欺にあった中年婦人、ある大学では教授の三割が「外国籍」であり、そのほとんどが外国での永住権を取得した元・韓国人であることなど、新聞を眺めているだけでも、この国の「アメリカへの脱出」の熱気を垣間みることができる。しかし、それは富裕層だけの問題ではない。
私が日本人であることを知ったスナック・バーのアカシ(若い女性)は、半ば本気で偽装結婚でもして日本へ渡りたいこと、そこで英語を勉強してさらにアメリカへ行きたいことなどを熱っぽく語ったし、韓国で博士号を持つ学者がアメリカへ行ってビルの窓ふきの仕事にしかありつけなかったこと、それでも韓国よりアメリカのほうがいいといって帰国しないなどといった噂が、まことしやかに韓国庶民の間で流布されているのである。
これらを単純に〈夢の国・アメリカ〉への憧憬であるととらえるだけでは、韓国での実感と少しすれ違う。庶民層から体制側の最上層部に至るまで、"この国”から脱出しようという「脱出願望」は日本で想像するよりはるかに強く、それが日本、北朝鮮、中国、ソ連といった周辺国への斥力から美国 ――美しい国・アメリカへの幻想へと収斂されてゆくのである。このような意味で先頃評判となった韓国映画『深くて青い夜」(裵昶浩監督)は、興味深い作品だった。
全篇アメリカ・ロケというこの映画は、アメリカ社会で市民権をとろうとする韓国人移民の青年と、偽装結婚 ―市民権獲得― 離婚という手口で東洋人相手に“婚姻証明”を売る韓国系アメリカ人女性(黒人兵と結婚し、一人の女の子をもうけるが離婚した―― 人気女優・張美姫が好演)との複雑に屈折した愛情物語なのだが、この当代切っての人気男優・安聖基演じるところの韓国人青年は、 朴という韓国名を'グレゴリー・ペック'と"創氏改名”して、アメリカ市民になろうとするはなはだ非愛国的な人物で、それが韓国人のヘアメリカ熱を皮肉っぽく際立せているのである。
青年は韓国から妻子をアメリカに呼び寄せようとするが、妻は一人息子を死なせ、アメリカへ渡ったきりの夫と離れる決意をする。最後のシーンで、青年は女に撃たれ、女はそのピストルをこめかみにあてて自殺する...。
やや唐突なこのラスト・シーンに、何を見るかは受け手によって様ざまだろうが、韓国の普通の人ならば〈内なる美国〉への幻滅、あるいは国家(民族)を棄てようとすることへの当然の罰、そしてアメリカが韓国系、日系などの東洋系をも含めた多民族が軋みあう"人種のルツボ"の国であることを、あらためて認識する契機となるだろう。
この映画と同時期に公開された在米韓国人が作った「チャイナ・タウン」(祐箱監督)という映画(ロサンゼルスを舞台とした韓国系移民のチンピラグループが抗争するバイオレンス映画)などを見ると、韓国人たちがまず「観念」より先に「肉体的」にアメリカを体験してしまい、その後から"美しい国――美国”のイメージが後追いしているようにも思われる。
その"アメリカ"と"美国"とのずれの中で、韓国人のアメリカ像は、いま揺らぎ、問われなおされようとしていると思われる。
(一九八五年九月)
わたしの釜山(1968 川村 湊)
Ⅲ 韓国で考えたこと
● 08-3「日本語教育」というイデオロギー
―韓国での日本語教師体験から―
<韓国の日本語教育の問題点>
ひょんなことから韓国で『日本語教師」を始めてから四年たった。教師になることも、日本語教育に深入りすることも、それ以前にはまったく考えていなかったので、この四年間、とまどいと試行錯誤、困惑と混乱、恥掻きと不貞腐れ、そして惰性と諦観とで明け暮れしたような気がする。
語学の不得意な人間が、語学教師をやるという『内的な葛藤もさりながら、韓国での日本語教育については内外ともに、その環境が芳しくないのである。ひとつはその歴史的な経緯だ。日本が朝鮮半島を侵略し、「大韓帝国」を植民地として併合したことは、私にとっては苔の生したような昔の話だが、韓国人にとってはつい昨日のことのように、生々しい屈辱の記憶であるらしい(若い世代も基本的にはそういう教育を受けている)。
「国語」(日本語)教育を、「内地人」(日本人)の教師から受けた五十代後半、六十代の人たちがまだ教育の現場にいるわけで、これらの人の日本語への敵視は、いまだ根強いものがあるのだ(というのも実は一面的で、これらの世代の人の日本語や日本の歌に対する『郷愁”もまたなかなかのもので、宴席で元日本軍の軍歌や、昭和初年代の流行歌が出てくることも珍しくないのだが)。
私たちの父・祖父・曾祖父の世代が、厄介なことをしでかしておいてくれたものだと思うのだが、 彼らの子・孫・貧孫としてこうした“日本の侵略”に対して知らぬ顔もできず、日本人として肩身の狭い立場に置かれることも少なくないのだ。
おじいさんやおじさんが、日本に強制連行されたり、日本軍にひどい目にあわされた話、日本語ではなく朝鮮語を使って「国民学校」で殴られた話、日本語を陰で『ゲタの声”と呼んでひそかに溜飲を下げたなどの話を聞かされれば、その当の日本語を、いかに正しく、いかに美しく教えるかなどという気苦労が、何とも空しく思えてくることがあるのも、いたしかたのないことだろう。
'日帝三十六年間'の話だけではない。授業時間に当てられて、返答に窮したある男子学生は、「独島はわれらの土地」と一言叫んで席に着いた。独島とは日本と領有問題がこじれている竹島のことで、こういう題名のキャンペーン歌謡が流行っていたのである。あるいは、歴史教科書の歪曲批判がかまびすしかった頃には、日本語科の学生までが、〈克日〉(日本に打ち恵とう、というスロガーン)の講演会を催したりした。
韓国で日本語を教えるということは、 やはり単なる語学教育の範囲を最初から踏み破っていることなのだ。これは、台湾や中国、シンガポールやインドネシアなど、かつての“大東亜共栄圏”構想の被害を蒙った地域では、多かれ少なかれ存在する問題であると思う。
問題点のふたつ目は、現状の教育環境についてである。韓国では高等教育に関しては、日本以上の過熱ぶりを示していて、「大学に行かずんば、人にあらず」といわんばかりの風潮となっているのが現状だから、その教育環境の過渡的な混乱状態は、否定できないのである。
各大学における日本語・日本文学科の新増設と定員の増大は、必然的に教師不足、一人あたりの教師の仕事量の過重化、マス・ プロ教育化、そして卒業後の就職難という弊害をひき起こしており、韓国の大学での日本語教育についての見通しに、暗い影を投げかけている。
特に就職難問題は深刻で、これは別段日語科に限った話ではないが(独語、仏語などに比べたらまだマシという話もある)、それでも「就職に有利な日本語」「実用的な日本語」というイメージと現実との落差は、日語科学生に動揺をひき起こすことだろう。
もちろん、学生の側にも問題がある。単に「日本語」はやさしいということで、入りやすい日本語科を選んだという動機薄弱型、他の志望学科がダメで流れついたという挫折型、日本語の通訳になりそせいがたたい、貿易関係の仕事につきたいと、もっぱら実用語学一本槍で、あげくは大学では実用会話は教われないと不平をのべる『ビジネス派”型など、必ずしも真面目・純情な学生ばかりではないのである。
そして、一般的にいえることは、彼らの、「日本」「日本文化」全般についての無関心(したがって無知)ということだ(これは学生だけの問題ではなく、韓国社会が概してそうなのだが)。日文科の学生に、日本の文学を読んだことがあるかと聞いてみた(むろん、翻訳版で)。
川端康成の「雪国」、三島由紀夫の「金閣寺」まではかろうじて出るものの、次に「大望」(山岡荘八の「徳川ピンチヨム家康」の訳題)、三浦綾子の「氷点」(これは韓国で二度も映画化されている)、新しいものでは「おしん」「トットちゃん」ぐらいしか出てこないのである。
日本文学の古典や名作が、全然翻訳されていないわけではない。新書版で「徒然草」や「近代小説選』(龍之介や漱石など)が出ているし、安部公房、大江健三郎、倉橋由美子などの現代小説、さらにベネディクトの「菊と刀」、ライシャワーの「日本の歴史」などの、日本文化論が翻訳出版されている。
しかし、彼らにはもともと、教科書、参考書以外の本を読むという習慣があまりついていないと思われるのだ。中学、高校、大学と受験戦争をくぐりぬけ、大学でも徴兵とともに、学事警告、卒業定員制でがっちりと机にしがみつかされ、馬車馬のように一点、二点を争い、席次を争う彼らに、読書の余裕などないというのが実情だろう。
(図書館での席を確保するために早朝五時に家を出るという女子学生、弁当を二食分持ってきて夜十一時まで図書館にこもる男子学生。むろん彼らは図書館の蔵書を利用するのではなく、自ら持ち込んだ教科書、参考書で勉強しているのだ)
三つ目は、さらに日本語教育の内部に関する問題点だが、はっきりいって現場の教師の能力不足(これは内国人教師、日本人教師ともに)、教材不足、カリキュラムの貧弱さ、そして教師、関係者など担当者側の『不熱心”ということになるだろう。
戦前の「国語」教育を踏襲したような、「読み」の偏重、発音・聴音教育の不在、学校文法の墨守などは、年輩の教師にはかなり普遍的に見られる傾向であり、また教材に関しては、韓国での特殊性、文法面での類似性、漢字使用の共通性)を無視して、主に英語を母語とする外国人向けに作られた日本製の教科書をそのまま流用したり、翻案した程度のものを堂々と"自著”として出版し、学生たちに使わせているという現実がある。
誤字・誤文・誤用例、そして誤植の目立つ教科書が、数の上からは数十点も出されているのだがい互いに切磋琢磨してよりよい教科書を作りあげていこうという意志はあまり感じられない。
教材採用によって業者からリベートを受ける悪習の噂は時折耳にすることだし、校正、索引作りはもとより、執筆、例文作製まで大学院生、大学生にやらせて教材をしたてあげている教師、副業として教材作りに励む教師などの存在も否定できないのであり、 教材開発の名に価する地道な努力がどれだけ払われているのかいささか疑問なのである。
さらに、大学内の"教授”評価の実績主義は、日本の国語学・国文学の論文を"翻訳” “翻案”した程度のものを多数輩出させるばかりで、現場の日本語教育に関する地道な語学教育的成果や体験の蓄積を有効に活用、評価しないようなシステムになっていると思わざるをえないのだ(むろん、そうしたシステムの中でも日本人の視点ではとらえられないようなユニークな視角からの論文が書かれているということはいっておかなければならないのだが)。
「日本語」「日本文学」が学問として成立するのか、という他学科の保守的、〈反日〉的学者たちの不審の目、日本語学科の新設ブームを「困ったことだ」と表現した某国立大の文学部長(その大学にも日語日文学科があるのだ!)の感性など、周囲からの風当たりもまた強いのである。
わたしの釜山(1968 川村 湊)
Ⅲ 韓国で考えたこと
● 08-4 日本語の論理と非論理
いささか四年間に鬱積した愚痴めいたものを吐き出す形となってしまったが、これらの問題点が韓国の『日本語教育”についてだけの特有なものだとは、私にはどうしても思えないのである。日本のマスコミなどで時どき報道される〈海外での日本語ブーム〉の記事。
それは日本人の"ナショナリズム"をくすぐり、また"やりがいのある” "カッコウのいい”仕事としての〈日本語教師〉をクローズ・アップさせたわけだが、そこには昨今の日本語論ブームと同じように、日本語あるいは日本語を教えるということについての本当の内省的な考究も、また「外部」からの批評的な眼ざしもないままに、ブーム”として流通しているように思えるのだ。
たとえば、日本語論の方では、「日本語特殊論」「日本語無文法―非論理論」からの脱却が盛んに論じられているように見えるが、それがGNP世界第二位という経済力に裏打ちされた、日本語(日本人)の自信回復という現象と見合っていることは、否定できないことだろう。
「日本語は使用人口から見れば世界第何位の大言語だ」といった言いがば、国連の分担金の額を背景とした「日本語を国連の公用語に」といった主張と容易に結びつきやすい性質のものだろう。
英語やフランス語やドイツ語が、 それ自体明晰であり、論理的であるわけではない。同様に日本語自体が『非論理”的であり、曖昧であるということもありえない。日本語には日本語としての論理があって、その体系の中では十分に明晰である...。
こうした『正論』に異論を唱えるつもりはない。だが、まず日本語の文法論、日本語学の内部で本当に日本語の論理が討究され、それを日本語を母語としない人間にも、"論理的”に納得させるような形で提出されているのだろうか。
日本語が論理的であることは自明であるとしても、西欧近代語がその論理を世界的に普遍的なものとして提出したような意味で、朝鮮語・モンゴル語などの近接言語との比較対照の中から、『汎日本語の論理』を構築しようという努力はなされているのだろうか。
そうでなければ、「日本語特殊論」「日本語非論理論」からの脱却も、結局は英語やフランス語やスペイン語が「力」によって世界共通語となったのと同じように、日本語も「経済力」によって国際化しようという日本語ナショナリズムの道を切り開く役割をはたしてしまうことになるのではないか。
別の側面から見つめなおしてみよう。本多勝一氏の「日本語の作文技術」は、類書のないすぐれた日本語作文論であると思うが、その中で森有正氏の文章をドメニコラガナ氏が批判的に引用している文章を、さらに本多氏が引いて森氏風の考え方を批判している個所がある。それは次のようだ。(二字下げの中で「」内はラガナ氏の文、 「」は森氏の文、一字下げの部分が本多氏の文である)
「"フランスの大学生に日本語を教えることは非常に困難である。(中略)私は、一番大きい困難は、日本語は、文法的言語、すなわちそれ自体に自己を組織する原理をもっている言語ではないという事実にあると考えている" (以上、森氏の文)
ろくにテニヲハのつかい方も心得ていない私がこんなことを言うと、あつかましく聞こえるだろうが、森氏の主張は独断のように思われてならない。・・・森氏には失礼だが、そのような断定のうらには、日本人をユニークな人間とする心理が働いているように思われてならない。私の考えでは、どの言語でもそれ自体の中に自己を組織する原理、法則をもっていると思う。」(以上、ラガナ氏の文)
まことに"それ自体の中に自己を組織する原理をもっていない"のは、森有正氏自身であろう。 (中略)いったい森有正氏には、日本語をフランス語に訳す初歩的な力が果たしてあるのだろうか。 (中略)そのような森有正氏がパリ大学で長く日本語を教えていたというのだから、ことは一学者の無知にとどまらず、日仏両国の公的文化接触での重大なミス=キャストでもある。これもまた植民地型知識人の一人なのであろう。(以上、本多氏の文)
別に森有正氏の肩を持とうというわけではないが、私には森氏の"気持”がわかるような気がするのである。むろん、ラガナ氏一本多氏のいうように、「日本語は・・・それ自体に自己を組織する原理をもっていない」という森氏の言葉は誤りだろう。
しかし、「植民地型知識人」として、フランス語を学び、憧れのパリに住んで、フランス語という外国語にとりかこまれて、そこで「日本語」を教えるという状態になったとき、森氏が「日本語」を「それ自体に自己を組織する原理をもっていない」言語であると、ののしりたくなる気持は、わからなくもないのだ。
私も何度教壇の上で立往生したことだろう。別段、難しい問題ではない。たとえば「閉めています」 と「閉めてあります」の違いについて。「いる」「ある」の違いを存在の主体が生物であるか無生物であるかによって使いわけるだけで意味の違いはないと、便宜上教えたため、両文とも意味上は同じではないか、と質問されてしまったのだ。
ちなみに韓国語ではこの両文は「閉めています」「閉められています」というように、「閉める」のほうの形を変える。だから、韓国人の学生には、この「います」 と「あります」の違いによる意味の変化が理解できない。こういう場合、頼りとするのは、私の場合「日本語教育事典」と三上章氏と奥津敬一郎氏の文法書なのだが、残念ながら学生たちにうまく説明するような方法は見つけられなかった。
こうした場合、 私は自らの中の日本語の『論理的なもの”がガタガタと音をたてて崩れてゆくような気がするのである。むろん、こうした事例は私の「無知」と「不勉強」によるものにしかすぎないのだが、それにしてむ、日本語は日本人同士で語り、論じるときは論理的であっても、外国語にとりまかれる環境では、・ その論理性を証明し、説明することは難しいのだ。
つまり、それは私たち日本人が、日本語の論理をはっきりとはとらえていないからにほかならない。その原因はたぶん次のようなものだろう。ひとつは、私たちがすでに「植民地型知識」に毒されているわけで、主語・述語、動詞・形容詞, 名詞、自動詞・他動詞、過去・現在・未来、といった文法用語を使ってしか自らの言語構造を説明する手段を持たないからだろう(ほとんどの人が)。
もうひとつは、「日本語それ自体」の問題ではなく、それを使う日本人、あるいは“日本文化”の間題である(結局は、"日本語”に帰着するかもしれないのだが)。本多氏はさきほど引用した個所の近くで、「世人はフランス語の明晰とフランス的明晰を混同しているのだ」というシャルル=バイイ氏の言葉を共感的に引用している。
それに倣っていえば、『世人”は「日本的非論理」を「日本語の非論理」 と混同しているだけであり、「日本語」自体は論理的であっても、それを使う日本人が「非論理的」なのである、ともいうことができるのだ。そして、この日本的非論理が、さまざまの場面で「国際的摩擦」を引き起こしていることは事実なのではないだろうか。
森有正氏の『悲劇』は、日本文化の持つ、他の文化への“同化傾向”がもたらしたものではないだろうか。外国文化、外国語にとりまかれたとき、日本人の対応は、二つの極端な方向に分化するように思われる。すなわち、無限に外国文化を受容し、吸収し、いわゆる主体性を失ってまったく同化してしまうタイプ。
もうひとつは、外国文化に対する反発を、「日本文化」「日本語」という"イデオロギー”にしたててひたすら身構えて、 ひたすら身構えて自閉してしまうタイプ。そして、この中間に位置する"ほどほど”の、“中庸の道”をたどってバランスよく外国とつき合ってゆける日本人は、案外少ないと思われるのだ。
森氏がこのどちらのタイプであったかは、私にはよくわからない。意外と彼はパリの中の異邦人として、日本語、日本文化というイデオロギーを身にまとって生活していたのではないか、という気もする。
いずれにしても、彼のような人物が「パリ大学で長く日本語を教えていた」ということが問題 (日仏両国の文化接触でのミスのキャストという意味で)なのではなく、「パリ大学で長く日本語を教えていた」ことが、彼をそのようにしてしまったのだと私は思うのである。
わたしの釜山(1968 川村 湊)
Ⅲ 韓国で考えたこと
● 08-5 “日本語”というイデオロギー
外国で日本語教育に携わる日本人教師は、たいてい“孤立”している。外国で、外国人の中に住んでいるから、あたりまえといえばあたりまえだが、それ以外に、彼にはまず頼りになるテキストがなく、メゾッドがなく、自分の行った授業についてのアドバイス、あるいは慰めや批評すらもほとんど期待できない。
さらに大きな心理負担となっているのは、「なぜ学生たちは日本語を勉強するのか」「なぜ自分は日本語を教えているのか」という哲学的な問いに、うまく答えられないもどかしさではないだろうか。
最近では「日本語教育」に対する関心も高まっており、国語学者、文法学者、言語学者などが参加して、さまざまな問題に取り組んだ日本語教育に関する専門雑誌、専門書なども少なくない。しかし、 それらの論文は私にはいたずらに文法的迷路や難問の森にさまよい込んだものであるとしか見えない。
国際交流基金が年に一度、海外日本語教師(外国人のみ)を日本に招いて研修会を開いているが、 それに参加したある初老の韓国人の先生は、専門書や雑誌で名前を見るような高名な先生の講義を聞かされたが、自分たちが実際教壇に立って学生たちに日本語を教えるうえで、困っている問題や疑問に思っている点はひとつも教えてもらわなかったと語っていた。
"現場”の日本語教育と、“理論"レベルでの日本語教育との乗離――。ありふれたテーマであるといってしまえばそれまでの話だが、そのへんにも『日本語教育』の問題点は露呈している。つまり、そこでは肝心の問題はいつでも逸らされ続けているということなのだ。
学生たちは、なぜ日本語をうまくおぼえられないのだろう。こうした日本語教師の日常的で平凡な問いは、次に彼らがなぜ、日本語を勉強するのかという問いに突き当たらざるをえない。そして、こうした問い”に対する答えは、どんな日本語教育の参考書や論文を読んでも書かれてはいないのである。
さて、こういった彼らは一体なぜ日本語を続けるか? わたしは彼らに何を教えようとしているのか? ここで仕事を始めて一年。この根本的な問いにそろそろ答えを出してもいいころのように思う。・・・・・・「なぜ、なんのために日本語を勉強するのか?」という問いに対して、「将来のため」、 「日本は経済大国です。われわれはそれを見習わねば、そのために・・・」とか、「日本語を生かして仕事をしたい」とかの答えをこの国で期待してはいけない。
ここを訪れる日本の教育関係者やマスコミの人たちが、必ずといっていいほど発するこの種の質問に、口の達者な彼らはタテマエとして優等生的答えをする。が、日本企業もまだまだ少なく、彼らを雇うことは不可能といったこの国の現実の中で、大学側にふりまわされて日本語を勉強するべく運命づけられた彼らを、四年間支えつづけるものは何かと言えば、"まったくの異文化を知るおもしろさ" "いつの日か日本へ行けるかもしれない”というささやかな夢だけである。
ただそれだけのために大学の四年間を!と思う方もおられるだろう。しかし私はこの"知的好奇心” “夢”というものをそう過小評価しない。これはチュニジアのチュニスで青年海外協力隊員として、大学で日本語を教えた北川エリ氏の書かれた文章の一節である(パナリンガ学院編「日本語教師奮戦記』)。
それほど数多く読んだわけではないが、いくつか参照してみた日本語教育関係の本、雑誌特集、論文の中で、こうした「根本的な問い」 に触れていたのは、この北川氏の一文だけだった。いかに教えるかが問題であって、なぜ教えるか、なぜ教わるかという問いなど、教師失格ど、あるいは落第生(落ちこぼれ学生)の考える「不健全」な疑問にしかすぎない。私の見た日本語教育の文章は、みな異口同音にそう語っているようだった。
だが、「国際交流」「文化交流」といったお題目だけで、何かが始まると思ったら、そちらのほうこそむしろ「不健全」だろう。「知的好奇心」「夢」――これはチュニジアの『教わる”ほうの学生の「なぜ」に対する答えだが、 『教える”ほうについても、たぶん答えは似たものとなってしまうような気がする。
実益に関していえば、私の経験からすれば外国での日本語教師という職業は、決してワリのよい商売ではない(特に国際交流基金派遣ではない個人契約教師の場合はそうだ。円高などの為替変動で収入がいっぺんに二 ~三割減となったこともある)。
キリスト教を世界に広めた宣教師たちのように、日本語を世界に普及させるために使命感に燃えた日本人教師というのもちょっと考えにくい。すると、落ち着く先は、海外生活、外国人との接触などについての「知的好奇心」、そして「夢」ということになるだろう。
だが、現在国家的意志をもって繰り広げられようとしている『日本語教育』(『国文学解釈と鑑賞」の「日本語特集」八五年三月号では、いみじくも〈国際化社会への飛翔〉という副題がつけられていた)に対して、それを荷う日本語教師の側が、単に「好奇心」と「夢」にだけしか、根拠―定点を持たないというのは、何ともわびしい話ではないだろうか。
いや、単にわびしいだけではなく、「国際」 的に「飛翔」しようという『日本語教育”というイデオロギーに対して、そうした個人幻想的な根拠だけでは、結局、そういう『イデオロギー』に吸引されてしまうだけであって、日本語教師は戦前のように、国家のショービニズム的海外進出のお先棒をかつがされるということになりはしないだろうか。
これが杞憂であれば幸いなのだが、私には日本語という言語が、日本人が自分の身にまといつけている『イデオロギー”となっているのであり、日本語教育が、日本的論理を内省することなく、海外 〈輸出しようとするイデオロギー的意志を代弁しつつあるように思えるのである。いささか大げさな物言いだろうか。
だが、"閉ざされた言語”から“開かれた言語”へ、さらに"美しい日本語" "正しい日本語”といった方向へと流れつつある動きを見てゆけば、そこに日本語というイデオロギーの方向が見通される気がするのだ。
それは、私が韓国で四年間、悪戦苦闘した〈私の日本語〉と、それを浸蝕しようという外国語のイデオロギーとの闘い(これもかなり大げさな物言いだが)を、ほとんど無化するような形で実現されてしまう「日本語教育」の進む方向でもあるように思える。
言語自体がイデオロギーである。韓国人にとりかこまれ、韓国語でとり突される座談の場所にいて、 いつも私はそんなふうに感じていたようだ。そのことが、私の日本語もまたイデオロギーであることを白省させた。
相手に日本語で話してもらいたい。日本語の微妙なニュアンス、この感情の陰影を受けとめてもらいたい。私はいく度か、そう大声で叫んでみたい衝動にかられた。そして、そのたびに、 そのことをこらえることが、日本語というイデオロギーに相手を引きこむことも、自らも溺れることのない方法であると思っていた。
さて、それがはたして私の日本語にいかなる変化を与えたか、与えなかったのかは、自分ではよくわからない。わかったのは、自国語と外国語というイデオロギー同士の働きあう磁場にあって、私もまた森氏の『悲劇”を別の形で演じることになったかもしれないということだけである。
わたしの釜山(1968 川村 湊)
Ⅲ 韓国で考えたこと
● 08-6-0 巫堂・妓生・広大
昔からひとつだけ金言を胸に刻んで持っている。それは「人は旅に出ても、持って行ったものしか持ち帰らない」というものだ。ゲーテの言葉だそうだが、高校生の時に名言集の中で見つけ、今まで忘れずに憶えている。言葉そのものはずいぶん変形してしまっていると思うが。 韓国に渡り、釜山の町で四年間暮して帰って来た今も、またこのゲーテの言葉を繰り返さざるをえない心境だ。
結局、人は「持って行ったものしか持ち帰らない」のだと。もちろん、所用時間、費用の面からいって、韓国は東京から札幌や沖縄へ行くより、むしろ気軽に行ける「外国」であり、夏や冬の休みには何度も往復を繰り返しているので、もはやあまり「行った」「帰った」という感覚がないことも確かである。だから、韓国での日本語教師という仕事をやめ、日本へ帰ってきても帰国したという感慨には乏しいのだ。
タクシーに左側から乗ることも、バスが来ても走らずに待っていればいいことも、道ばたにむやみとタンやツバを吐いてはいけないこともすぐに馴れるだろう。だが、この国の社会のテンポの早さや、余裕のない画一的な生活のパターンからはちょっと「ズレ」てしまった感があることは否めない。もっとも、これも本当はこちらから「持って帰ってきたもの」かもしれないのだが。
韓国での見聞をここで一言で語ることはできない。だが、その国で自分が何にもっともひかれ、何を見ようと欲していたかは語ることができる。「巫堂」「妓生」「広大」と、三題噺のように並べてみたものがそれである。
わたしの釜山(1968 川村 湊)
Ⅲ 韓国で考えたこと
● 08-6-1 巫堂
「巫堂」とは民間信仰におけるシャーマンのことで、日本でいえば“梓巫子”や"イタコ”のように霊媒的託宣や加持祈禱を業とする人たちだ(このムーダンという言葉にはやや差別的なニュアンスがある)。
降神巫、世襲巫の違い、あるいはソウルを中心とした京畿道、湖南(全羅道)、東海岸(慶尚道、江原道)といった地方的分化はあるが、基本的には韓国の庶民層の精神の底流に流れるシャーマニズム(現世利益、先祖崇拝、死者への供養などに、儒・仏・道教的要素もまじった混淆的な信仰といえるだろう)を中核とした、かなりの程度芸能化した職能集団としてとらえることができるだろう。
私が知り会った「巫堂」のグループは、釜山を中心にして、東海(=日本海)沿いに三十八度線近くの江陵、束草まで「クッ=巫祭、巫儀」を巡業して歩く人たちで、家長のK氏をリーダーに奥さんと娘さんが巫堂、娘婿と甥とが合の手として楽器 (杖鼓〈チャンゴ〉、銅鑼、鉦など)を演奏するという一団だった。
何度かいっしょにクッの現場に連れていってもらい、死者の鎮魂祭であるチノギ・クツを見物したり、控えの部屋で飾り物としての切り紙細工の紙花をつくったりするのを見せてもらった。
結婚や就職などで今でも“被差別”はなくなっていないといわれる巫堂の人たちだが、彼らの大らかで飾りのない生活の一端に触れて目を洗われるおもいがした。どこかに心の垣があって、そこからは私のような人間ははじき返されるだろうと思っていたからだ。
杖鼓をたたき、ドラをならし、パンソりの源流といわれる巫歌を唱いながら、東海岸の漁村や農村を回って歩く人たち、そしてテントの下に坐りこみ、その杖鼓のリズムや巫歌にひたりこんでいる老人たち...そんなときに私は、自分がこの人たちのことを知的にとらえようとしたことの思い上がりと誤りを認めざるをえなかった。
私の心の奥深くにあって、感情の源から湧き上がり、まわりの熱気といっしょに揺らぎ出すような思いをそのまま味わえばいいのだ。それが私の韓国体験のもっとも基層をなす部分になるはずなのだから。
わたしの釜山(1968 川村 湊)
Ⅲ 韓国で考えたこと
● 08-6-2. 妓生
「妓生」という言葉には誤解がつきまとうだろう。私はここで日本人風の発音でいわれる"キーヤン”のことを思い浮かべている。韓国で接待婦といわれたり、酒場女と呼ばれている女性たちのことだ。
旅先などでふらりと酒を飲みに行きたくなったとき、私はよくこんな女性たちのいる店へ行った。 カーテンで仕切ったボックス席でスルメをかじりながらビールを飲んでいると、暇を持て余した彼女たちが何人も入れ替わり立ち替わりする。
私は自分の韓国語の能力を総動員して彼女たちの日常について尋ねる。何時起きるのか、休みはいつか、何が楽しいか、収入はどれくらいか、故郷は、親は、 この前の職業は…と。彼女たちの率直さは比類がない。
もちろん、すべてが本当のことだとは思わない。しかし、定まった休日がないこと、月に一、二度の休みには洗濯をしたり買い物をすること、 田舎に金を送っていること、楽しいのは友達とおしゃべりをしたり、花札をすること、などがすべてウソだとは思えない。
彼女たちは地方出身で、兄弟が多い。長女である割合が多く、まだ学生の弟や妹が必ずいる。収入は客からのチップだけで、いわゆる店からの給料はない。住込みで、ほとんど身一つで家から出て、なるべく故郷から遠い町で働く。
こんな紋切り型の「女給物語」を聞いているうちに、私はこの国がやはり以前の日本のように、『妹”や“姉”の非力な力で半分以上がささえられていることを実感するのだ。彼女たちもまた社会の下層を構成する人たちだ。
“淪落女性”という脅迫的な名称と、スルチプ・アガシという呼び方とは、すれすれのところでこずがあっている。普通の家庭の息子が彼女たちと結婚することはありえないと、私の知人は断言した。それはどちらにとっても不幸な結果をもたらすからだ、と。
けれども、彼女たちはその男まさりの激しさと、心根のやさしさとで十分に魅力的だ。そして、おそらくその“魅力”には自分たちもまわりの男たちも気づいていないのであり、やがて棄てられた花のように萎れてしまうのである・・・。
わたしの釜山(1968 川村 湊)
Ⅲ 韓国で考えたこと
● 08-6-3. 広大
「広大」のもともとの語義は放浪する旅芸人のことで、仮面劇をしたり、綱渡り、人形芝居を演じたり、パンソリを唱いながら各地を回った人たちである。もちろん現在の韓国では、この広大という古称にふさわしい芸能をする人はほとんど滅んでいる。
仮面劇をささえているのは、学生であったり、 有志の市民たちであるし、パンソリの名唱者は『人間文化財”として名士となっている。
しかし、いかにも広大の末裔と呼びたいような人たちを私は何人か韓国で見かけた。たとえば、それは、"病身チュム"の孔玉振のような芸人だったり、寒々としたテントの中で綱渡りをする、うらぶれたサーカスまつえコンオクチンの芸人だったり、また地方のお祭りで小屋がけする民俗舞踊団の舞い子だったりした。
あるいは大道の香具師の口上に耳を傾けたり、乞食の親子の歌う好好とした流行歌に聞きほれたりした。現代の広大たち、ともいえるこれらの人たちの芸は、決して洗練されたものでも、芸術的に価値の高いものでもないだろう。だが、そこには私を魅惑する“根の深さ”があった。
この"根の深さ”という言葉を、私は朝鮮の古典歌謡集「龍飛御天歌」の中の、〈根の深い木は風に倒れず、源の深い泉は干あがることがない〉という歌詩からとっている。「先進祖国創造」をスローガンに、近代化へ真っしぐらに進む現代韓国で、ことさら"遅れたもの” “取り残されたもの” “消えてゆくべきもの”に私がこだわってみようとしたのも、この〈根の深い木〉〈源の深い泉〉を韓国の中で見つけたいと思ったからにほかならない。
それは私たちの国が近代化、先進国化の途上であっさりと棄ててしまったものである。それを再び見出そうとすることは、単なるノスタルジーや失われた共同体の夢の追憶ではない。どこかで踏み迷った道をたどりかえし、自分の精神の基盤をさがし出そうとすることと同じなのだ。
磨かれず、粗野でありながらぬくもりのあるもの...現代の広大たちの芸をいい古された言葉だが、 こんなふうに表現してみよう。それは私をもう一度人びとの肌がこすれあう市場のざわめきや、おつんりの人込みのにぎわいの中へ還してくれる。そこから私は言葉を拾い集め、批評の言葉を紡ぎ出そうとする.. 。
わたしの釜山(1968 川村 湊)
Ⅲ 韓国で考えたこと
● 08-7 日韓文学の架橋
フアンソギヨンシ先ごろ来日した韓国の気鋭の小説家・黄皙暎氏が、李恢成氏との対談でこんなことを言っていた。「七十年代に入ってから日本文学にときどき接するようになるんですが、そのときはもうなんの興味もわきませんでしたね。
それでいまでは別に読んでいません。推理小説とか流行小説などが時折、女学生やOLに海賊版として読まれていますが、韓国の知識人の間では振り向かれもしていません」(「故郷喪失と民族文学」『群像』・八六年四月号)
四十代の現役の作家として旺盛な活躍を続ける黄氏のこの言葉に接して、私は現在の日本文学と韓国文学の接点のなさについて、あらためて考えざるをえなかった。韓国で日本文学が話題になるとき、 それが山岡荘八の「徳川家康」(韓国での訳題は「大望」)であり、三浦綾子の「氷点」であって、決して島尾敏雄や大江健三郎や古井田吉でないことを私は経験上知っていたからである。
もちろん、私は「徳川家康」や「氷点」をおとしめるためにこんなことを言っているわけではない。韓国で映画化までされた「おしん」なども含めて、それらの作品が東アジア世界に通底する社会の因習性と、それからの脱出を求める社会層の感情を表現したものとして受けとめられており、文学としての一つの機能をはたしていることは事実であるのだから。
しかし、文学の最先端の部分で火花を散らしあうような接触が、日本語と韓国語という隣り合った言語間にあって、むしろ当然というべきではないだろうか。だが、実情は先の黄氏の言葉にあったように、ほとんどお互いの無関心、無関係という形で推移しているように思われる。時折、「なんとなく、クリスタル」とか「佐川君からの手紙」といった作品が「一定した編集方針のもとで出版されない」(黄氏)で、気まぐれに、商業主義的に出版されることをのぞけば。
在日韓国人文学についても事情はさほど変わらないだろう。最近の例でいえば、金鶴泳の「凍える口」、李良枝の「かずきめ」(訳題は「海女」)、「刻」、李起昇の「ゼロはん」などが韓国で訳出されたのだが、李良枝の「かずきめ」を除けば、韓国の文学界にも一般読者にもさほどアッピールしなかったようだ。
李良枝の「ナビ・タリョン」や「かずきめ」は、日本で民族差別にあっている“同胞の娘” が、民族的アイデンティティを取り戻しに韓国に帰ってきたという定型的な「物語」として読まれ、 ベストセラーにもなったわけだが、次の“母国”での生活の違和感を描いた「刻」があまり評判にならなかったのは、韓国での在日韓国人文学に対する「読み方」が、かなり偏ったものであることの例証となりうるだろう。むろん、金石範、李恢成の政治色の濃い作品などは刊行不可能だろう。
ひるがえって、日本での韓国文学の紹介について見ても、問題は多い。先の黄・李両氏の対談でも 、触れられていたが、一部の日本文学者が「文化的ショービニズム」 (李氏)によって日韓の"文学交流”を画策したり、また韓国の反体制文学の紹介のときに見られたように、政治的意図が先行して文学的な評価や価値判断が置き去りにされた例も少なくないのだ。
具体的な例として、七十年代の韓国文学を詩人の金芝河とともに代表するといわれる黄氏の小説作品が、アンソロジー中の一篇として短、中篇が翻訳出版されているだけで、独立した単行本としてわが国では紹介されていないということをあげてみるだけでたりるだろう。
黄氏の著作としては"光州事態”についてのルポルタージュ"死を越え、時代の闇を越えて"が訳出されているが、この著作の翻訳を異なった版で二種類出すだけの力が日本の出版界にあるのなら、黄氏の「暗がりの子供たち」、『張吉山』、『武器の陰』といった長編が訳出されることを望みたいのは私だけではないだろう。
また、黄氏の来日、氏の指導した『マダン・クツ”の上演などを機に『群像』「世界」「新日本文学」などの雑誌がそれぞれ対談、インタビュー、特集などの企画を組んだが、一誌も氏の小説作品の翻訳紹介の労をとろうとしなかったことは、私の目には異様に見える。これは小説家を遇する態度としてはやはりおかしなことではないだろうか。
日本と韓国(朝鮮)の近代文学が、互いに密接な関わり合いを持って出発したことは、文学史的にみて明らかである。李光洙、金東仁、李箱といった近代文学者の日本との関わりは、韓国の近代文学成立の過程を解くためにも避けて通ることのできない問題だろう。たとえ、現在の韓国文学が李光洙から始まる近代文学を否定的な媒介として乗り越えようとしているとしても、文学史の問題として残ることは確かである。
こうした近代文学成立時の問題と、日本帝国主義が朝鮮半島を植民地支配した時期(日帝時代)の「親日文学」(一部の朝鮮人文学者が日本軍国主義、皇国主義に協力して書いた文学。日本人文学者がそれを強制、 )の問題が、日・韓の『文学交流”の間に暗礁のように横たわっていることは、まぎれもない事実なのだ。
私はこのような「文学史」的な問題を片付けることから、互いの「文学」の交流を始めなければならないと思う。それは日本文学にとって、近代文学百年が欠落させてきたものを考えることにもつながると思うのだ。
わたしの釜山(1968 川村 湊)
Ⅲ 韓国で考えたこと
● 09 釜山への手紙...あとがきにかえて
S先生、お元気ですか。釜山を離れ、はや半年という時が過ぎました。朝、まだうつらうつらと夢見心地の布団の中で、「ソグム、サイッソオ!(塩、買わんかねえ)」という塩売りのおばさんの声や、 「コグマ、サグァ、トマド(サツマイモ、リンゴ、トマト)」といった物売りの声をさぐりあてようとしている自分に気がつくということもしだいに少なくなり、キムチやニンニクの匂いが自分の休のうちから、だんだん消えてゆくようで、少し寂しい気もします。
この前、家内といっしょに有楽町に申相玉の「春香歌」を見にいきました。あの拉致だの亡命だのと新聞にも大きく取り上げられていた申相玉監督が北で作ったもので、久々の北の映画ということで、 かなり期待を持っていったわけです。その中に出てくる農民や庶民のおじさんやおばさんの顔を見て、 まぼろしああやっぱり半島の人の顔だなあ、と懐かしい気持になりました。
映画はこれが幻の巨匠・申相玉の作品かとやや期待はずれという感もあったのですが、こうした人々や緑の野、つきぬけるように背い空などを見て、十分に見に行った甲斐はあったと思いました。春香役の女優の清潔さと美しさ、香丹のほのかな色気など、胸がキュッとしめつけられるような感じを覚えたのは、単なる好色ではないと、あわてて自分に言いわけしたのですが。
その上映会の会場で申相玉が企画、総監督で崔銀姫が監督をしたという「帰らざる密使」のビデオ・ 「テープを買いました。南では決して手に入らないフィルムだろうなと思うと、ちょっとした感慨も湧クツジエシジャントンデムンムジャンいてきました。帰国間際に、釜山の国際市場やソウルの東大門市場で買い漁ってきた映画のビデオ・ テープにまた一本、コレクションが増えたわけです。
映画のほうは、楽しみにとっておいたままで、まだ見ていません。『英子の全盛時代」など、たて続けに二回ほど見て、ちょっと飽きてしまったので、ゆっくりと見ようと思うのです。なにしろ、こっちでは気軽に韓国映画を見にゆくわけにもいかないのですから。
韓国で買い集めた流行歌のテープも、ずいぶん揃えたつもりでしたが、いざ聞き出してみると、すぐに終わってしまい、仕方なく同じテープばかりを何度も聞いています。
これもその時の気分で聞きたい曲が違っていて、ウィスキーでもちびちびとやりながら、南浦洞の裏通りを思い出すような時は、 やはり金秀姫です。「モンエ」や「ノムハムニダ」、「南浦洞ブルース」で、しんみりと感傷的になるにはちょうどよいバックグラウンド・ミュージックです。
秋賢美の「雨降る永登橋」などは、酔って帰る夜道で、あたりの迷惑もかえりみず、大声で歌いながら歩くのにちょうどよく、午前中の気持のよい時には、李仙姫などをかけて、仕事をしています。
恵銀姫、楊姫銀の声が聞こえると、ワープロを打つ手を休めて(言い忘れましたが、日本に帰ってきてからは、文明化の波に遅れまいとワープロで原稿を書くことにしました)聞き惚れる始末です。半島ホテルや釜山ホテルの上のカラオケ・バーで、 もっと歌を練習しておくんだったと、いまさら少し後悔しています。
日本ではソウル・オリンピックの前景気ということか、韓国ブームといった現象が起こっており、 私たちが釜山へでかけたころの、何となく暗い、影のある国という印象は一掃され、逆に変なふうに韓国を持ち上げるといった傾向もあって、はてさて、日本人の韓国認識はよくよく平常心というものを持ちにくくなっているものだなと、逆に感心せざるをえません。
韓国で韓国人の日本認識のステレオ・タイプに対してS先生と議論したようなことを、こんどはわが日本に対して言わざるをえなくなり、ちょっと気恥ずかしくなっています。
この韓国ブームのおかげでか、韓国では会えなかったような“有名な人”にいく人かお会いしました。小説家でジャーナリストの鮮于輝氏(日本から帰国直後、釜山でなくなられたそうですね)、同じキムヨンジヤシムクソンコンオクチンく黄皙暎氏、公演の時にあいさつした沈雨晟氏、孔玉振氏・・・。
また、日本のテレビの歌謡番組に羅勲児、金秀姫、金逐子などが出てきて、それぞれ日本語で歌をうたったときは仰天しました。そして、何でもかんでも自分のほうへ引き込んでくる日本のマス・ジャーナリズムにちょっとした色がさを感じました。
それは釜山の光復洞あたりを群れになって横広がりに歩いている、あの日本人団体客と同じように、"マス”の力だけをたのみにしているようなのですから。
日本の国際貿易黒字、つまり「円高」でやむなく韓国を出なければならなかったようなぼくたちなので、半年か一年の間で手持ちのウォンの価値が半減する(円に対して)ような、日本の対外的な経済政策には強く不満を持っていましたが、日本では「円高差益」で、ほぼ日本中が浮きあがっているという状態で、その裏にある「円高差損」には誰も注意を払わないようで、二度の驚き、というところです。
日本人はよくよく、自分勝手で他人の痛みのわからない民族になってしまったのだと、腹立たしく思いました。むろん自戒をこめてですが。それにしても、あの国民学校裏のアジュマ・チプで飲んだトンドン酒とナクチ・ポックムの味は忘れられません。回春荘のバージョン、「イルカ屋」の海産物のチョンゴルも、もう一度、「真露」か「鮮」 を片手に味わいたいものです。
なんだか、自分の分身をあの東大新洞の迷路のような路地に置き去りにしてきたような、そんな淋しさと懐かしさとを感じています。もし、そんなことがあれば、いまごろぼくの分身は、さしずめ南浦洞の「ざくろ」のカウンターに腰かけてビールを飲んでいるころでしょう。
マダムとおしゃべりをしながらS先生を待っているという図を思い浮かべるわけですが、でも考えてみれば約束の時間には、 いつもぼくの方が遅れていましたね。想像の中では、人間は自分に都合のいいように考えてしまうものです。さて、らちもない話を続けてしまいました。今夜は韓国歌曲の「待てる心」や「去り行く舟」を聞きながら、眠ることにします。
日本と韓国には時差はないけれど、実際的には日本のほうが、三十分ほど夜の更けるのが早いようで、釜山でなら、子供たちの声がまだ通りで聞こえる(もっとも十時、 十一時まで聞こえてるってのは、なぜなのだろう?)うちに眠たくなってしまうです。
明日の朝は、丁秀羅の「ああ大韓民国」でも聞きながらさわやかに目覚めるつもりです。アンニョンヒ・チュムシプシオ(お休みなさい)
一九八六年十月 S先生ニム 川村 湊
● 初出一覧
I アンニョン・ハシムニカ
01 釜山で出会った人びと・書き下ろし
02 ソウルのコカコーラ. すばる1986.6月号
03 先駆者の歌が聞こえる. 宝石1986.8月号
04 ソウルの"通過儀礼”・書き下ろし
II 釜山通信・一九八二~一九八六
05 韓国の中の日本語. 南海日日新聞820526
06 市場と言語. 南海日日新聞820717
07 河口の人びと. 南海日日新聞821120
08 巫と儒. 早稲田文学1983.1月号
09 銀幕の美女たち. 早稲田文学1983.2月号
10 見つけれない鳶. 早稲田文学1983.3月号
11 空と風と星と詩. 早稲田文学1983.4月号
12 飲む・食べる・酔う. 早稲田文学 83.7月号
13 カモメとヒマワリ 早稲田文学 83.8月号
14 子供たちのいる風景. 同 1983.10月号
15 釜山の昼と夜. 同 1983.11月号
16 流れゆく歌. 同 1983.12月号
17 黒山島にて. 同 1984.1月号
18 洛東江の冬. 同 1984. 3月号
19 'ついに'あるいは'しかし,まだ' 同.5月号
20 韓国の日語科学生. 読売新聞1983 09 08
21 ハングル世代. 朝日新聞 1984 03 22
22 韓国映画に新しい波.無署名記事84년4月
23 江陵端午祭. すばる 1984. 7月号
24 教養としての日本語. 朝日新聞 84 08 03
25 金芝河の'おはなし集' 'めし' 無署名84 06
26 韓国の映画事情. 読売新聞1984 08 29
27 韓国の大河小説'張吉山'完成. 無名 84 10
28 街の底へ. 現代コリア 1985年 3月号
29 わが街釜山. 柿の葉 1985年 秋季号NO52
30 金鶴泳'凍える口'韓国語版出版. 未発表
31 韓国からの焼酎通信. 焼酎通信84-8月号
32 韓国映画はなぜ面白くないか. 現コ85-5
33 韓国、強まる文化面の自由化. 無名85-5
34 韓国の祭り. 共同通新系 各紙 85年9月
35 消えた街. 現代コリア 1985年 11月号
36 伝統芸能. 基礎ハングル1985年12月号
37 市場. 基礎ハングル1986年1月号
38 東新国民学校一学年七班. 現コ86-1月号
II 韓国で考えたこと.
39 蔚山のチノギ・クッ. 群像 84年11月号
40 内なる美国,アメリカへの見果てぬ夢. 翻訳の世界 1985年9月号
41 '日本語教育'というイデオロギー. 翻訳の世界 1985年12月号
42 巫堂・妓生・広大. 図書新聞1986 03 22
43 日韓文学の架橋. 毎日新聞1986 04 21
44 釜山への手紙. 未発表
※(本文中に使用した写真は特別な註記がないかぎり著者撮影のものです)
[著者略歴】川村 湊(かわむら みんなと)
1951年2月23日 北海道 網走市生れ。
法政大学法学部政治学科卒業。1982~1986年 韓国釜山市の東亜大学校 文科大学日語日文学科で講師・助教授として勤務。
著書・「異様の領域」「批評という物語」(国文社)「酔いどれ船の青春」(講談社)「韓国という鏡」(鄭大均と共編 東洋書院)
現住所・千葉県浦安市当代島1-23-14
[わたしの釜山]
1986年12月15日 第1刷発行 定価1,500円
著者 川村 湊. 発行者 稲垣喜代志
発行所 名古屋市中区上前津2-9-14 久野ビル 電話052-331-0008
