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耳にかけるタイプの補聴器=東京都千代田区で2023年1月26日、渡辺諒撮影
高齢になると耳が遠くなる。多くの人が当然のように受け入れている老化の一つだが、実は加齢性難聴と呼ばれる病気の一つだ。近年、高齢者の難聴が認知症のリスク因子であることが明らかになった。一方で、補聴器などを使って適切に聴覚を矯正すれば認知症予防につながると示唆する研究結果も報告されている。しかし国内の補聴器の使用率は低い。こうした状況を受け、日本耳鼻咽喉(いんこう)科頭頸部(けいぶ)外科学会が「80歳で30dB(デシベル)の聴力を保とう」という「8030運動」を始めた。聞こえを巡る現状と課題について取材した。
加齢により音を伝える有毛細胞が減少
そもそもなぜ高齢になると耳が遠くなるのだろうか。それを知るには、まず聞こえる仕組みを理解する必要がある。
顔の両側にある耳(外耳)を介して集められた音(空気の振動)は鼓膜を通じて中耳にある耳小骨(じしょうこつ)に伝えられ、耳小骨で増幅された後、さらに内側の内耳にある蝸牛(かぎゅう)の中のリンパ液を振動させる。リンパ液の振動で有毛細胞が刺激されると、振動が電気信号に変えられ神経を通って脳に伝わる。
難聴には、外耳や鼓膜などの中耳に障害があって起こる伝音難聴と、内耳などの音を感じる部位が障害されて起こる感音難聴、さらに両者が合併した混合難聴があるが、加齢性難聴はこのうちの感音難聴にあたる。蝸牛の中の有毛細胞が加齢のために減ってしまい、音を正常に脳に送ることができなくなった状態だ。残念ながら、現状では加齢性難聴を治療する方法はない。
難聴があると認知症リスクは37%増
今年7月、英医学誌ランセットに、中年期以降の難聴が認知症の発症リスクの最大要因の一つとする報告が掲載された。「認知症の予防、介入、ケア:ランセット常設委員会の2024年報告書」と題する、認知症のリスクに関する先行研究を総合的に検証した論文で、20年に発表した報告書をアップデートした内容だ。
20年報告書では「予防しうる認知症」の割合を40%とし(60%は遺伝などで予防が難しい認知症)、そのリスク因子を12挙げた中で「難聴」(8%)を1位としていた。24年版では予防しうる認知症の割合を45%と改めた上で14のリスク因子を挙げた。その中で「難聴」は「高脂血症」とともに7%で1位とされた。高脂血症が新たなリスク因子に加わっても、難聴が依然として高い認知症のリスク因子であることが示された。
この論文によると、難聴の人は難聴ではない人に比べて認知症リスクが37%高いという。岐阜大の下畑享良(たかよし)教授(脳神経内科)は「なぜ難聴が認知症リスクを高めるのかははっきりとはわかっていないが、聞こえにくくなることにより人とのコミュニケーションがとりにくくなり社会的孤立やうつ状態に陥りやすいことや、聴覚刺激の減少により脳の構造的変化が起きる可能性などが指摘されている」と説明する。
ランセットの論文では
・難聴は環境からの刺激が減少するため、脳の認知予備力(脳が神経病理学的な変化に耐える能力)が低下し、結果として認知症リスクが増加する
・難聴によってコミュニケーションが困難になり、社会的な孤立やうつ病を引き起こすことがある
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・難聴のため、音を理解するのにより大きな負担が脳にかかり長期的には認知症の発症リスクが増加する
といった仮説が挙げられている。
蓄積しつつある「補聴器が認知症抑制につながる」エビデンス
加齢性難聴の治療が困難な現状で、頼りにしたいのが補聴器の使用だ。愛知医科大の内田育恵特任教授(耳鼻咽喉科)は「補聴器で認知症が予防できると明言したエビデンスはまだないが、使用によって効果が得られた、とする研究結果が複数報告されている」と話す。
加齢性難聴の問題についてパネルディスカッションを行う医師ら=東京都千代田区で2024年9月2日、高野聡撮影
デンマークでは03~17年に、南デンマークの全住民57万人以上を対象に難聴が認知症発症に与える影響を調べる研究が実施された。その結果、難聴の補聴器使用者の方が、難聴の補聴器非使用者に比べて14%認知症になりにくい、という結果が出た。
また米国では、難聴のある健康な高齢者が補聴器を使用することで、認知機能の低下を抑えられるかどうかを調べる多施設ランダム化比較試験「ACHIEVE研究」が実施された。70〜84歳の認知機能障害がない難聴者が参加し、補聴器使用群と補聴器は使用せず健康教育のみ行う群に分けて、3年間の認知機能の変化をみたところ、補聴器使用群と健康教育群の間で有意な差は見られなかった。しかし高齢や喫煙率、教育水準、糖尿病などの認知機能を低下させやすい因子を多く持つ(認知症リスクが高い)集団と、それらの因子が少ない(認知症リスクが低い)集団では異なる傾向が示された。認知症リスクが低い集団では、補聴器使用の効果は確認できなかったが、リスクが高い集団では、補聴器使用が認知機能の低下を抑制する可能性が示唆された。
日本でも、国立長寿医療研究センター(愛知県大府市)などによる研究が実施されている。同センターが、60歳以上で中等度難聴の407人を補聴器使用と非使用の2群に分けて00年から2年ごとに知的機能の推移を調べたところ、12年の時点で補聴器使用群の方が非使用群よりも「知識」の機能低下の傾きが緩やかだった。
他にも米国で認知機能健常者が認知症の前段階である軽度認知機能障害(MCI)に進むのに補聴器使用の有無で差が出るかどうかや、MCIと診断された人が認知症と診断されるまでに要する期間を調べる研究が実施された。前者では補聴器使用者のMCI発症リスクは非使用者に比べて53%低かった。後者では補聴器使用者の場合は認知症に進むのに中央値4年だったが、非使用者では中央値2年と短くなった――という結果だった。
下畑教授は「補聴器も片耳数十万円するが、認知症治療薬と比較すれば安価で副作用の心配がない。適切に使用できれば、認知症リスクを減らせる可能性がある」と強調する。
低迷する補聴器使用率 課題は
しかし国内では補聴器の使用率は高くない。国内の加齢性難聴者は約1500万人以上と推計されるが、一般社団法人「日本補聴器工業会」などが実施した調査「JAPAN TRAK2022」よると、聞こえにくさを自覚している人で医師に相談したのは38%、補聴器所有者は15.2%にとどまった。
東海大の和佐野浩一郎教授(耳鼻咽喉科・頭頸部外科)は、国内で補聴器が普及しない背景に三つの理由を挙げる。
一つは補聴器に対するネガティブなイメージだ。「加齢性難聴が老化のスティグマ(烙印=らくいん)になっており、高齢者が『補聴器をつけると年寄り臭い』と避ける傾向がある。そのために医師に相談する機会が少ない」と話す。和佐野さんは患者に補聴器を勧める際に、生活上のメリットを伝えるという。「周囲の言葉が聞きとりにくくなっても、笑ってごまかしたりしてその場しのぎをしている高齢者が多い。それよりも補聴器を使って周りと円滑にコミュニケーションがとれた方がいいでしょうなどと話している」
販売体制も課題だ。「JAPAN TRAK2022」の調査では、補聴器所有者の約5割しか満足していない実態が明らかになった。和佐野さんは「補聴器は購入して終わりではなく、その人に合わせた細かな調整が必要。しかし現在は補聴器専門ではない販売店から購入する人が多く、個人に合わせた調整が不十分」と指摘し、補聴器の調整体制が整った販売店からの購入を勧める。国内では公益財団法人テクノエイド協会が「認定補聴器専門店」や「認定補聴器技能者」を公開しており、販売店選びの参考になる。「地方ではこれらの店がない地域もある。その場合は購入前に聴力測定をしてくれるか、2週間~1カ月の補聴器貸し出しがあるか、という2点を目安にいい販売店を選んで購入してほしい」と和佐野さんは助言する。
9月13日に閣議決定された政府の「高齢社会対策大綱」でも「加齢による難聴等への対応」の項目が設けられ、「補聴器については、その購入に際して消費者トラブルが報告されていることを踏まえ、質の高い補聴器販売者の養成等を図る取組を推進する」という一文が明記された。
また医療体制にも課題がある。補聴器に関して、日本耳鼻咽喉科頭頸部外科学会では補聴器相談医の制度を設けており、学会員の約半数にあたる5000人超が認定されている。しかし耳鼻科医の中でも患者に補聴器使用を勧めるタイミングにばらつきがあり、これまでは難聴が進行してから補聴器を勧めるケースも多かったという。和佐野さんは「学会では今年5月に補聴器相談医向けに、患者の聴力に応じた対応をまとめた統一マニュアルを作成した。今後は改善されるだろう」と期待する。
「80歳で30デシベルの聴力を保とう」
こうした現状を受け、「80歳で30dB(デシベル)の聴力を保とう」という意味を込めて始まったのが「聴(き)こえ8030運動」と名付けたキャンペーンだ。dBは音の大きさの単位で、数値が大きくなるほど聴力が低い。30dBはささやき声の大きさ、60dBが日常会話の大きさ、70dBが掃除機の音――に当たる。和佐野さんの調査では80歳での30dB達成率は約3割。この現状に対して、補聴器の適切な使用や予防啓発の推進によって20年後に「達成率50%」を目指そうという運動だ。
難聴予防には若い頃からヘッドホンで大音量を聞いたりしない、などの音への対策や、禁煙や適度な運動などの生活習慣の見直しが推奨される。大音量で聞き続けると、聴覚に重要な働きをする有毛細胞の減少につながる。生活習慣の見直しは、糖尿病や高脂血症などの生活習慣病の予防策と共通するので意外に思える。和佐野さんは「聴覚は電気信号で伝わるため、きちんと聞こえるためには、耳の中の『電池』が正常に働く必要がある。耳の中の『電池』は血流によって維持されているので動脈硬化があると難聴が進みやすい。つまり難聴は生活習慣病と同じ原因を持っている。特に禁煙の効果は非常に高い」と説明する。
キャンペーンでは▽難聴の自覚がなくても65歳になったら耳鼻科医の聴力検査を受ける▽30dBの聴力が保たれていれば80歳まで難聴進行予防を心掛け、年1回の聴力検査を受ける▽難聴がわかったら補聴器を使用する――といった内容を呼び掛けている。和佐野さんは「難聴というと直ちに最悪の事態を考えがちだが、最初は聞き違いや聞き逃しなどの小さな変化から始まる。『ハサミ』を『ササミ』と間違えるなど子音の聞き違いに気づいたら、まずは耳鼻科医に相談して聴力検査を受けてほしい」と話している。
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高野聡
毎日新聞 医療プレミア編集部
1989年入社、メディア情報部、船橋支局、千葉支局などを経て96年、東京本社科学環境部。埼玉医科大の性別適合手術、茨城県東海村臨界事故など科学環境分野のニュースを取材。2009年より大阪本社科学環境部で新型インフルエンザパンデミックなど取材。10年10月より医学誌MMJ(毎日メディカルジャーナル)編集長、東京本社医療福祉部編集委員、福井支局長などを歴任。