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頭翼思想時代の到来
第4章 - フリーセックス時代の終焉
冷戦時代の終了とともに、世界は大混乱の時代を迎えたのであるが、その混乱の中で、性秩序の崩壊と性の解放がとどめることのできない勢いで展開している。このようなフリーセックスの風潮の中で、人格と家庭の破壊がもたらされていく。そしてその結果、深刻な社会問題が増大している。このような淪落の嵐は、特にアメリカをはじめとする先進国で著しいが、今や世界的な問題となっている。このような性解放の風潮を導いている思想的背景は何であろうか。その思想的背景を分析し、克服することが緊急の課題である。それと同時に、真なる愛の実現を目指す新しい結婚観、家庭観が提示されなくてはならない。
一 性の解放をもたらしたフロイト主義
十九世紀の欧米では禁欲主義的なキリスト教倫理が支配していたが、表面では性を罪悪視しながらも、陰で性的快楽をむさぼるという偽善が横行していた。それに対して反旗を翻したのがフロイト(Sigmund Freud, 1856--1939)であった。すなわちフロイトは、キリスト教の精神主義に反発し、人間は本来、リビドー(libido)という性的エネルギーによって動かされている存在であると見たのである。
医学を学び、医者として出発したフロイトは、身体に原因がないのに病気になる神経症(ヒステリー)に強い関心をもつようになった。そしてこの病気の原因は心の奥底の傷であって、それは幼児期に受けた性的な傷によってもたらされると考えた。人間の心を根底から揺り動かしているのが性的エネルギーだからである。
それでは神経症はいかにしたら治療できるのであろうか。精神分析によって、その原因を突き止めて、患者が無意識の中で恐れていたその原因に立ち向かうようになるとき、神経症は治るとフロイトは考えた。しかし、果たして幼児期の性的な傷を意識化すれば、それだけで問題は解決するのであろうか。フロイトのリビドー理論を受け継いで、それを性欲理論として極めたのがライヒ(W.Reich, 1897--1957)であった。ライヒは、人間が性的に抑圧されることによって神経症が生じるのであり、それは性的な満足(オルガスム、orgasm)を得ることによって治ると考えた。彼はマスターベーションを指導することによって、患者を治療しようとした。
フロイトは、弟子ライヒのこのようなオルガスム理論に不安を覚え、ライヒに背を向けるようになった。そして人間の心には、イド(id, 独語 Es)という動物的、本能的な衝動の宿る部分があるが、それだけではなく、イドのエネルギーをコントロールする自我(エゴ、ego)があり、さらには自我の核心として超自我(良心)があると反論した。しかし人間は本来、性的衝動に操られた動物的存在だと主張したのは当のフロイトであり、ライヒはフロイトの本来の主張に忠実に従ったまでだった。
マルクーゼ(H.Marcuse, 1898--1979)も、ライヒと同様に、リビドーの抑圧を取り除いてエロスを解放しようとした。フロイトによれば、エロスとは生の欲動であるが、その本質は性的欲動すなわち性欲であった(欲動 Trieb とは、人間の中にある動物の本能 Instinkt に相当するものをいう)。そしてエロスを揺り動かす原動力がリビドーであった。マルクーゼは、エロスの開花した抑圧的でない文明を「エロス的文明」と呼び、その実現を目指した。そしてそのような文明を実現するためには、「原罪はふたたびおかされねばならない」、「もう一度知恵の木の実を食べなくてはならない」と言った。エデンの園でアダムとエバに与えられた「食べてはならない」という神の戒めを破れ、というのである。このようなフロイトを元祖とするフロイト左派の性解放理論の背景のもとで、今日のフリーセックス時代がもたらされたのである。
二 マルクス、ダーウィン、フロイトの共通性
ダーウィン(Charles Darwin, 1809--82)は、自然選択によって生物は進化すると述べたが、自らの主張が唯物論に基づいたものであり、神の存在を否定することが明らかになることを恐れた。しかしダーウィンの進化論のもつ破壊的な力は明らかであった。マルクスは素早く、ダーウィンの進化論の意味するところを理解し、強力な味方として受け入れた。「ダーウィンが生物界の発展法則を発見したように、マルクスは人間の歴史の発展法則を発見しました(3)」とエンゲルスが語っているように、マルクス主義とダーウィニズムは、進む方向を同じくしていたのである。
フロイトのリビドー説は、生命力の強いものが生き残るというダーウィンの進化論に影響されたものであった。そしてダーウィンが自己の主張が及ぼす結果を恐れたように、フロイトも「人間は性的な本能に操られた動物」であるという自分の洞察が破壊的な結果をもたらすことを恐れた。そしてライヒのような性解放理論が生まれるや、それに背を向けたのである。しかしフロイトの理論からライヒやマルクーゼが生まれるのは当然の帰結であった。人間を動物的存在、本能的存在と見るフロイトの思想は生理学的唯物論というべきものであった。そのようなフロイトの立場はダーウィンやマルクスと軌を一にしていたのである。
実際、ポール・ロビンソン(P.A.Robinson)は、「フロイトはヨーロッパ社会思想における批判的推進力の相続人、カール・マルクスのあの系譜にぞくする予言者としてその真姿をあらわにしている(4)」と言い、さらに「マルクスが十九世紀に担った役割に匹敵する役割を二十世紀に担ったフロイトなる人物(5)」と言って、フロイトはマルクスの使命を受け継いだ人物であると見ているのである。
フロイトはやがて、「イド」に対する「自我」や「超自我」の理論を打ち立てて、初期の汎性欲理論から脱脚していったように見える。しかし、コリン・ウィルソン(C.Wilson)が指摘しているように、「フロイトは一度たりとも、神経症が性欲の充足、満足のゆくオルガスムによって治癒しうることを否定していない(6)」のであり、初期の性欲理論を否定したことはなかった。
マルクス主義は神を否定し、宗教を敵視する思想であったが、ダーウィン主義がそうであったように、フロイト主義もやはり、マルクス主義と手を結ぶか、あるいはマルクス主義の行く道を開く思想であった。マルクスは、人間は経済的利益を求める飽くなき欲望によって、互いに敵意を燃やす、支配するか支配される存在であると見た。ダーウィンは、適者生存の原理によって、生命力の強い者が弱い者を押しのけて生きると考えた。そしてフロイトは、「人間はすべての女性を征服しようとする果てしのない願望によって操られるもの(7)」と見た。すなわち、人間は互いに敵意を抱く、性の衝動にかられた存在である。そのようにマルクスも、ダーウィンも、フロイトも、等しく唯物論という土壌の上にあっただけでなく、人間同士は互いに闘争する存在であると見たという点でも共通していたのである。
三 性解放理論とマルクス主義の類似性
マルクスによれば、歴史を動かし、発展させている原動力は生産力であったが、フロイトによれば、リビドーが文化の原動力であった。「文化はその必要とする心的エネルギーの大部分を性欲から持ってくる(8)」というのである。またマルクスによれば、人類の歴史は「階級闘争の歴史」であり、階級闘争を通じながら、生産力の発展にしたがって歴史は発展しているのであった。それに対してフロイトは、人類の歴史は「抑圧の歴史」であり、リビドーの抑圧を通じながら、リビドーによって歴史は発展しているというのであった。
両者共に、歴史を動かしているのは力またはエネルギーと見る点で同じであり、闘争または対立を通じて発展するという点でも同じであった。しかしフロイトの場合、リビドーが原動力でありながら、リビドーを抑圧することによって文明が生まれるという主張には無理があった。そこでマルクーゼは、エロスを抑圧するのではなく、自発的に昇華させ、解放することによって文明が構築されると説いた。そして彼はエロスの解放された新しい文明である「エロス的文明」を人類の未来のユートピアとして掲げたのである。エロスを動かすエネルギーであるリビドーが、人間存在の第一義的なものと見る限り、ライヒのような人間観、そしてマルクーゼのような文明観が出てくるのは当然のことであった。
次に、マルクスの、労働者の解放による共産主義ユートピアの建設理論と、フロイト左派の、性解放によるエロス的文明の構築理論の類似性を見てみよう。マルクスによれば、資本主義社会は生産力の発展を抑圧するものであった。そして労働者が資本家によって、労働生産物を奪われ、労働を疎外されていることが、人間疎外の本質であった。したがって資本主義社会を打倒し、労働者が労働生産物を奪い返し、労働を自分のものとして取り戻すことが経済発展の道であり、人間解放の道であった。すなわち、人類のユートピアである共産主義社会の実現の道であった。
それに対して、ライヒやマルクーゼは、資本主義社会は性を抑圧していると見た。マルクーゼによれば、資本主義のもとで、ブルジョア・イデオロギーによってエロスは窒息しており、文明は自己破壊に向かっている。そこで資本主義社会を打倒して、エロスを解放すれば、人間は解放され、人類のユートピアであるエロス的文明が実現されるというのである。彼らの主張は、資本主義社会において人間が抑圧されていると見る点で、そして資本主義を否定する点で、マルクス主義と同じであった。
マルクス主義とフロイト主義(左派)の思考パターンは正に同じ軌跡を描いていたのである。すなわち、両者は同じ土壌から育ち、同じ思考方式をもっていたのである。したがってマルクス主義者は容易に性解放論者になり得るのであり、また性解放論者は容易にマルクス主義に傾いていくのである。
今日、ソ連の崩壊により、共産主義の理想は地に落ちたが、マルクス主義の思考方式は根強く生き続けている。かつての共産主義者が性解放論者として装いを新たに登場する例も少なくない。彼らが共産主義者であることを自認しようが、否定しようがそれは問題ではない。性解放理論と共産主義は互いに通じているのである。マルクス主義とフロイト主義の共通性、そしてダーウィン主義まで含めた三者の共通性をまとめると、図4―1のようになる。
四 共産主義の結婚観、家庭観の虚構性
一八八四年に出版されたエンゲルス(Friedrich Engels, 1820--95)の『家族、私有財産および国家の起源』は、モーガン(L.H.Morgan, 1818--81)の『古代社会』(一八七七年)の研究をマルクスが評価して、それを唯物論的に叙述したマルクスのノートを基礎として書かれたものである。したがって、それは文字どおり、マルクスとエンゲルスの共同の著作といえるのであり、そこに述べられている結論は、マルクス主義本来のものである。
モーガン=エンゲルスによれば、原始状態は、部族内で男女の性関係に何の制限もない「無規律性交」の状態であったという。すなわち「禁制の障壁がかつてはおこなわれていなかった(9)」という。それは正にフリーセックスにほかならなかった。エンゲルスは、このような見解が伝統的な考え方に反するものであり、社会主義者取繹法に引っかかるかもしれないとの懸念を表明しつつ、自らの見解を明らかにしたのである。それではフリーセックスの状態から、いかにして一夫一婦制の家族制度が成立したのであろうか。
エンゲルスによれば、集団婚の原始共産主義社会は母権制であった。それは無規律性交の社会では、子供の父がだれであるかは確かでないが、その母がだれであるかは確かだからであった。そのような母権制のもとでは、子は父の氏族に属していないため、父は財産を子に相続させることができなかった。ところが富が家族の私有となり、増大するにつれて、富の生産に直接従事する男が、家族内で女よりも重要な位置を占めるようになった。その結果、母権が覆されることになった。そのことをエンゲルスは「母権の転覆は女性の世界史的な敗北であった(10)」という。母権の転覆とともに、無規律性交の社会は崩壊し、一夫一婦制の家族制度が現れることになった。それは自分の財産を自分の子供に相続させるために、「父親の確かさについて議論の余地のない子をうむ(11)」という経済的な条件から生まれたものであり、「男の支配のうえにきずかれた(12)」ものであったという。
エンゲルスは次のように言う。「歴史にあらわれる最初の階級対立は一夫一婦制における男女の敵対の発展と一致し、また最初の階級抑圧は男性による女性の抑圧と一致する(13)」。「家族のなかでは夫がブルジョアであり、妻がプロレタリアを代表する(14)」。すなわち、私有財産の発生にしたがい、家長を中心とする搾取と支配の体制を維持する目的で、一夫一婦制の家父長制家族が成立したという。家庭は愛によって成立したのではなく、経済的な搾取基盤として成立したというのである。
それでは階級社会において成立した一夫一婦制の結婚は、社会主義革命によって、どのようになるのであろうか。エンゲルスは「[一夫一婦制は]消滅するどころか、かえってはじめて完全に実現されるであろう(15)」といい、それは「相互の愛着以外にはどんな動機ももう残らない(16)」ような婚姻、つまり愛のみに基づく婚姻であるという。日本共産党は、一九四六年に発表した「日本人民共和国憲法草案」において、「婚姻は両性の合意によってのみ成立し、かつ男女が平等の権利をもつ完全な一夫一婦を基本とし、純潔な家族生活の建設を目的とする(17)」と規定している。すなわち、共産主義の提示する未来の結婚観は、真に夫婦の愛に基づいた家庭、純潔なる家庭の建設を目指すものであるという。
これはまことに結構な結論であり、統一思想から見て全く異論はない。しかし問題は、果たしてそのような理想がマルクス主義によって実現され得るかということである。「富のあふれる、自由な、階級のない社会」を目指した社会主義革命が「富の枯渇した、自由の抑圧された、新しい階級社会」を生み出したように、結婚と家庭観においても、その理想とは逆の結果をもたらすのではないだろうか。ソ連社会が、アメリカ社会と同じく、フリーセックスが蔓延し、家庭崩壊が日常茶飯事になったことは、何よりもそのことを証明しているのである。
エンゲルスの主張も日本共産党の「草案」も、根のない木であり、絵に書いたもちにすぎない。原始共産主義社会は無規律性交の行われていたフリーセックス社会であったという立場、そして一夫一婦制が経済的な搾取の体制として成立したという立場から、真なる愛を中心とした一夫一婦制が成立するはずはないのである。エンゲルスは、フォイエルバッハが唯物論の立場から人間愛を強調したことに対して、「かれは哲学者としてもまた中途半端であって、下半身は唯物論者で上半身は観念論者であった(18)」と批判したが、それと同じことがエンゲルスに対しても言えよう。すなわち「エンゲルスは下半身ではフリーセックス論者であるが、上半身では一夫一婦制論者である」と。
人類の始元が無規律性交の社会であるとするならば、原始共産主義社会の高次な形態であるという共産主義社会は、より洗練されたフリーセックス社会になるというのが、必然的な結論ではないか。唯物弁証法の「否定の否定の法則」によれば、古い最初の段階(原始共産主義社会)が否定されて、新しい第二の段階(階級社会)になり、それがさらに否定されて第三の段階(共産主義社会)になるが、その時、第三の段階は、高次元的に、最初の段階に復帰するからである。性解放論者たちが、モーガン=エンゲルスの主張を受け入れながら、性の解放を叫んでいるが、その結論はともあれ、彼らは理論的に首尾一貫しているのである。真の夫婦の愛に基づいた一夫一婦制の家庭を目指すのであれば、それにふさわしい愛の思想が提示されなくてはならないであろう。
五 愛の規範の起源
人類学者によれば、三万五千年前にヨーロッパに現れたクロマニヨン人は、抽象的な思考能力をもち、壁画を描くというような創造力を発揮しただけでなく、性と愛について規範をもっていたという。それは近親婚のタブーであって、母と息子、父と娘、兄弟姉妹の婚姻を禁じるというものであった。それは性をめぐる集団内での紛争を避けるためであり、また近親婚による退化を防ぐためであったという。
ダーウィンは「人間と下等な動物の違いのなかでも、もっとも重要なのは倫理感あるいは良心である」と言い、良心について、「これは短いが決定的な言葉、ねばならぬでいい尽くされている」と定義した。ねばならぬとは「規範」であり「戒め」であり、人間社会において道徳や倫理と呼ばれるものである。ところが彼は、道徳や倫理がいかにして生じたのか説明できないまま、進化によって生じたと強弁した。ダーウィンの進化論を強力に擁護して「ダーウィンのブルドッグ」と呼ばれたハクスリー(T.H.Huxley, 1825--95)もこの問題で悩み、結局、道徳や倫理は進化によって説明されるものではないと結論した。そしてそれは進化とは別の原理によって説明されなくてはならないと言ったが、その起源を明らかにすることはできなかった。
近世を代表する哲学者カント(I.Kant, 1724--1804)は、『実践理性批判』において、「ますます新たな、かつますます強い感嘆と崇拝の念をもって、心をみたすものが二つある。それは、わが上なる星空と、わが内なる倫理法則である」と述べた。カントは自然法則と倫理法則が我々を導いていると確信していたのである。そして「義務の法則は、ひとりでに心に入ってきて、いやでも尊敬させずにはおかない」と述べた。義務の法則すなわち倫理法則は、どこから来るのか分からないが、我々の心の中にあるというのである。このように人間は本来、倫理・道徳に従って生きる存在、規範的存在であった。しかしそのような規範が、どこから来るのか、いかにして生じたのかは大きな謎であった。
この問題に関して、フロイトは、次のような「原父殺害」の仮説を立てた。原始的遊牧民において、父親(原父)は絶対的な権力をもち、女たちを独占し、息子たちを排除し、従属させていた。そこで息子たちは父を憎み、殺して食べてしまった。その後、父を殺したことを悔い改めた息子たちは、このような行為を再び繰り返さないようにするために規約をつくった。すなわち、殺害した父を神として崇めて、父を象徴するトーテム獣を殺すことを禁じたことと、同族の女たちをめぐって争うことのないように近親相姦を禁じたことである。それは「一種の社会契約」であって、それが「道徳と法のはじめ」であったという。原罪といわれる罪の意識や宗教や倫理の起源も、この原父殺害にあるという。
フロイトによれば、恐れられ、憎まれ、尊敬され、うらやまれていた父が、神として崇められるようになったのであり、宗教とは「父コンプレックス」の土台の上に成立したものであった。このようなフロイトの解釈によれば、神は架空の存在であり、規範とは、親と子、兄弟同士が争わないようにするための便宜的なものにすぎない。しかし、このようなフロイトの「原父殺害」仮説は、単なるフィクション以外の何ものでもないのである。
モーガン説に基づいたマルクス=エンゲルスは、原始状態は「禁制の障壁のない無規律性交」の社会であり、「私的所有の勝利にもとづく最初の家族形態」として一夫一婦制の婚姻が生まれたという。したがってマルクス主義において、倫理や道徳というものは、家長を中心とした経済的な支配体制を支えるために生まれた便宜的なものであった。
性解放論者たちも、マルクス主義と同様に、一夫一婦制の家父長制家族による支配と搾取体制を維持するために規範が生じたと見ている。そして性を抑圧することによって人間は本来の姿を失っていると見るのである。したがって、性を抑圧する規範は余計なものであり、排除すべきものであった。そのような立場から、ライヒは「性器性欲にかけられている禁止を解く」ことによって神経症は治ると主張した。そしてマルクーゼは、ブルジョア・イデオロギーからエロスを解放し、エロス的文明を実現することを説いたのである。
性解放理論は、人格の破壊、家庭の破壊をもたらす理論であり、再び禁断の木の実を食べよと勧めるサタンの理論にほかならない。マルクス主義も、原始状態は禁制(戒め)のない無規律性交であったと見ているが、「[真なる]男女の愛情だけを、唯一の道徳的基準とする一夫一婦婚(19)」の実現を看板に掲げている。しかし、すでに述べたように、それは根のない木に期待する実でしかなかった。男女が真の愛で結ばれた、ゆるぎない一夫一婦制の家庭をつくるということが、人間の行くべき道であるとするならば、人類歴史の出発から、そのような方向を目指していたことが示されなくてはならないのである。
「統一思想」から見れば、人間は規範を守りながら、人格を完成し、真の愛の夫婦となり、万物と社会を治めるようになっていた。したがって、人間は本来、規範的存在である。規範には、人格を完成させるための個人的規範と、家庭生活や社会生活における縦的規範および横的規範がある。個人的規範とは、心と体が統一した状態に成長していくために守るべき規範であり、縦的規範とは、父母と子女、先生と生徒、上司と下司等の間で守るべき規範であり、横的規範とは、兄弟姉妹間、隣人間、夫婦間において守るべき規範である。そしてこれらの規範の基礎になっているのが、子女の愛、兄弟姉妹の愛、夫婦の愛、父母の愛を実現するための愛の規範である。そして愛の規範の中でも、結婚するまでは純潔を守ること、結婚後は不倫をしてはならないことが、最も重要な規範なのである。
宇宙は自然法則に従って運行し、秩序体系をなしているが、人間の守るべき個人的規範、縦的規範、横的規範は、それぞれ宇宙の個別性、縦的秩序、横的秩序に対応するものである。宇宙の個別性とは、各天体の固有な特性をいい、縦的秩序とは、月―地球―太陽―銀河の中心核―宇宙の中心核のような、中心の系列からなる秩序をいい、横的秩序とは、例えば太陽系における太陽を中心とした九つの惑星の間の秩序をいう。
宇宙の法則は神の言(ロゴス)が宇宙に作用したものであって、宇宙の運行を導いているが、規範は神の言(ロゴス)が人間の心に作用したものであって、人間の行動を導いているのである。したがって、規範は進化によって生じたものではなく、便宜的につくられたものでもなく、余計なものでもない。宇宙の法則と秩序が絶対的であるように、人間の守るべき規範も絶対的なのである。
六 人間の堕落
男女の愛は、一面においては純粋で甘美なものであるが、もう一面においては自己中心的であり、冷酷さを秘めている。それは古今東西の恋愛をテーマにした思想や文芸作品によく表されている
デンマークの生んだ哲学者キルケゴール(S.Kierkegaard, 1813--55)は、自らの体験を通じて男女の愛の問題に立ち向かった。二十四歳になった時、彼は社交界で出会った十四歳の美しい少女レギーネ(Regine Olsen, 1822--1904)に夢中になり、彼女に接近し、三年後には婚約にまでこぎつけた。ところがその直後、自分の愛は誘惑者の愛であったことに気づき、その愛でもってレギーネを真に幸福にすることはできないと悟った。そして真なる愛で結ばれるためには、誘惑の愛を清算しなくてはならないと決意して、婚約からおよそ一年後に、一方的に婚約を破棄した。キルケゴールの真意は、神の前に正しく立つことのできる人間になってから、真の愛でレギーネと再び結ばれたいということであった。しかしキルケゴールの真意はだれにも理解されず、人々から非難されるばかりだった。その後、レギーネは他の男性と結婚し、キルケゴールは真なる男女の愛を願いつつ、その理想を実現し得なかった。
キルケゴールは次のように語っている。「自然的な愛[恋愛]は自身の内部に毒素を有っています。(それは利己の愛の毒素であります)。それは必ず醗酵をひき起し、その醗酵の中に陥ち入らざるをえません(20)」。キルケゴールは、恋愛の中に潜む利己の愛の毒素を精算して、真の愛を実現すべく格闘したのであった。
今日、恋愛結婚は当たり前のこととなり、結婚の最も自然な形態と見なされているが、ロマンチックな恋愛による結婚を賛美するようになったのは、つい最近のことである。しかしロマンチックな恋愛による結婚は不安定であり、長続きしない場合が多い。恋愛を最も賛美するアメリカにおいて、離婚が最も多いという事実がそのことを証明している。ロマンチックな恋愛は一瞬の情熱であって、やがてそれは雲散霧消していく運命にあるからである。フランスの思想家ドニ・ド・ルージュモン(Denis de Rougemont, 1906--85)は次のように語っている。
[人びとは]情熱恋愛がいかなるものであるか、どこから来て、どこへ行くものなのかを正確に知らない……[そこには]何か憂慮すべきものがあるという予感は持ちながらも、情熱恋愛に楯つくことによって、不粋者のごとくに語るのがこわいのである。こんなわけで、彼らはついうっかりした振りをして、根本問題を素通りしてしまう(21)。
このように今日まで多くの思想家たちが、男女の愛の背後に潜む黒い影に気づいて、それに立ち向かったのである。しかしその黒い影が一体、何であり、いかにして、それを追い払うことができるのかを、明らかにすることはできなかった。これは宗教的には、人間の堕落の問題であり、キリスト教ではエデンの園の物語として象徴的に語られている問題である。「統一原理」はこの問題を「堕落論」として解明している。その骨子は次のようである。
エデンの園において、アダムとエバは兄と妹のような関係であったが、彼らはやがて神の祝福を受けて幸せな家庭を築くようになっていた。アダムとエバは成長して、神が祝福するまでは、善悪を知る木の実を絶対に食べてはならないという戒めを与えられていた。それは勝手に性愛の行為をしてはならないということであった。勝手に性愛を結ぶということは、本能に従って生きる動物的な存在になってしまうからであった。
ところがアダムとエバを養育する立場にあった天使長ルーシェルがエバを誘惑し、天使長とエバが霊的に不倫の愛の関係を結んでしまった。ついでエバはアダムを誘惑し、アダムとエバは時ならぬ時に、神の祝福されない愛で結ばれてしまったのである。ここに非原理的な不倫の愛が生じることになった。「堕落論」は愛の中に潜む罪の根を根本的に解明したのである。
七 統一思想の結婚観、家庭観
思春期を迎えて男女が愛し合うようになるのは自然のことであって、恋愛そのものを否定するのではない。しかし、そこには必ず黒い影が潜んでいるのであり、そのままでは真なる愛、永遠なる愛で結ばれた夫婦とはなり得ないのである。「堕落論」で説明されているように、人間の堕落によって、愛は非原理的な、不倫の愛となった。それに対して堕落しない本然の愛は原理的な愛であり、真の愛である。
それでは真の愛と偽りの愛とは、いかなるものであろうか。文先生の愛に関する教えによれば、真の愛は「投入してもまた投入し、与えてもまた与える愛」、「相手のために生きようとする愛」、「最短距離を直行する愛」、「始めは小さいが次第に大きくなる愛」、「永遠、不変、絶対なる愛」、「無条件の愛」、「地球規模の愛」、「怨讐をも愛する愛」などである。それに対して、偽りの愛は「奪う愛」、「自己中心的な愛」、「屈折した、よこしまな愛」、「始めは大きいが次第に小さくなる愛」、「衝動的な愛」、「条件つきの愛」、「塀で区切られた愛、分派をつくる愛」、「憎悪心・復讐心を抱く愛」などである。
情熱的に一瞬のうちに燃えさかる愛は、やがて情熱の炎が消えて小さくしぼんでいく。今日の恋愛「市場」主義の愛は、自己中心的な奪い合いの愛である。家庭を破壊する不倫の愛は、屈折した、よこしまな愛である。これらはみな偽りの愛である。すべての男女の愛が、このような偽りの愛一色であるというのではないが、いかに美しく見える男女の愛の中にも、必ずこのような偽りの愛の要素が内在しているのである。
愛が真なる愛であるか、そうでないかについて、社会心理学者のエーリッヒ・フロム(Erich Fromm, 1900--80)は、次のように言っている。
もし人が他のひとりの人のみを愛し、そしてほかの仲間には冷淡であるとすれば、その愛は愛ではなく、共棲的な愛着であるか、あるいは拡大された自己中心主義にすぎないのである。しかし大部分の人びとは、愛とはその能力によってではなく対象によって[つまり良い人に出会うことによって]成り立つものであると信じている。……[それは]誤謬である。……もしも私が、真にひとりの人を愛するならば、私はすべての人を愛し、世界を愛し、生命を愛するのである(22)。
神学者であり、哲学者であり、人類学者でもあったティヤール・ド・シャルダン(P.Teihard de Chardin, 1881--1955)は、愛について次のように言っている。
一対の男女は、彼らの前方にある第三者[神]の中にのみその均衡を見出す。……愛は三つの項、すなわち、男性と女性と神を有する働きである。その完成と成就のすべては、この三つの要素の調和的均衡にかかっている(23)。
このようなフロムやシャルダンの見解は統一思想の立場と一致するものである。真なる男女の愛は、二人だけの幸せを求めるような小さな愛ではなく、人種の壁、文化の壁、社会の様々の壁を越えた、全人類を包容する地球規模の愛である。また男女がお互いに相手のために生きながら、築きあげる愛である。それは垂直的な神の愛を中心として、水平的、横的に展開される愛である。
堕落した男女の愛は人種、民族、家柄、学歴、財産、容貌、社会的偏見などで測られ、様々の壁で区切られている。そしてそれが社会の分裂、世界の分裂の原点となっているのである。そのような壁を越えていくのが、文先生御夫妻が主礼をなさる世界平和統一家庭連合の祝福(合同結婚式)である。接ぎ木によって渋柿を甘柿に変えていくように、人類の真の父母であるメシヤを通じて、偽りの愛を払拭して真の愛を実現していくのである。
家庭において実現される子女の愛、兄弟の愛(姉妹の愛)、夫婦の愛、父母の愛を四大心情圏の愛という。我々は、幼い時には垂直の関係において、父母から父母の愛を受けて子女の愛を体験する。成長するにしたがって子女の愛は横的に兄弟姉妹の愛として展開する。そこには父母の愛が反映される。すなわち、子女は父母が自分を愛しているのと同じように、兄弟姉妹を愛していることを知り、兄弟姉妹を愛するようになるのである。やがて思春期に至ると男と女は男女の愛に目覚めていく。そして一人の男性と一人の女性が垂直の神の愛を中心としてカップルになる。そこに横的な夫婦の愛が展開する。そして子女が生まれる時、夫婦は父母の位置に立ち、垂直的な父母の愛が展開するのである。
夫婦の愛が、神の愛を中心として、真の愛として展開されるとき、その愛はすべての人々を包容し得る限りなく広く深いものとなる。そして、そのような夫婦の愛を基盤として成立する父母の愛は、自分の子女のみならず、すべての人々を愛するようになる。このように見るとき、真なる夫婦の愛がすべての問題を説く鍵となることが分かる。そのことを文先生は、「真の男性と真なる女性が神様の真の愛を中心として完全に一つに統一されるところに私たちの人生観、宇宙観、神観など、あらゆる問題の解決の糸口を見いだすことができる (24)」と語られているのである。