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ソウルは今日も快晴(1998戶田郁子)
●10. 唐がらしは男の子のしるし-韓国のお産事情
予定日になったが陣痛はまだ来ない。かかりつけの先生が困った顔で言う。「実はあなたの予定日の一週間後に大田で産婦人科医の学会があって、三日間出張しなきゃいけないんです。でもあなたの場合は初産だから、もう少し遅れるでしょうね。多分私が帰ってくるまで大丈夫でしょう」
そりゃあ先生は、どうせ他人事だから呑気なのである。何時間も待たされながら定期検診に通い続けたのは、いざという時のためだったのに、どうやらそのいざという時になって先生に見放されたようだった。多分先生の留守中に陣痛が来る、と私は直感した。こんなことなら、近所の個人病院に通ってればよかったと後悔してみたが、もう遅い。
突然飛び込みで個人病院で出産しようとしても受け付けてくれなくて、陣痛に苦しみながら病。 院をたらい回しにされたという体験談も聞いたことがある。人工的に出産の日を調整するつもりは全くない。なるようになれ、と覚悟を決めた。私の隣で待っている人も予定日が近いらしい。「塾の講師をしているので、日曜日に産めるようにして下さい」なんて言っている。
そんなふうに親の都合で産む日を勝手に決めてしまってもいいのか、と私は驚く。しかし巫堂に占ってもらったりして無理に「いい日」に産もうとする人も多いらしい。あるいは病院側の都合で、分娩促進剤を打たれたり、帝王切開を強要されるケースも多いと聞いた。九一年の調査では、五人に一人が帝王切開だったという。私も急に不安になる。
その病院には助産婦さんという存在がいないらしいということに、私は薄々気付いていた。診察中に時々先生が看護婦に呼ばれて、「出産が始まるんでちょっと待っててくださいね」と席を外すことがあったからだ。出産の時には是非夫に立ち会ってもらおうと思っていた。それも事前に先生に頼んでおいた。同じ時間帯に出産する人がいなければ、夫の立会いも可能だということだった。
しかしその先生が留守だったら、それもどうなるかわからない。すごい! 私の直感は当たるのだ。やっぱり、担当医の出張中に陣痛が始まってしまった。夜中の十二時過ぎだった。姑に電話するとすぐに飛んで来た。出産後どれくらいで仕事に復帰できるか未知数だったので、私は片づけておきたい原稿があった。まだ痛みが不定期なので、つれあいと姑には先に休んでもらって、私は一人ワープ口に向かう。
午前四時。やっと原稿が終わるころには、痛みが規則的になっていた。しかしまだ耐えられる。とにかく寝ておこうと横になったが、約十分間隔で痛みが来るので眠れない。朝六時。病院へ行くことにする。出産まではまだまだ時間がかかるから、食べられるうちに栄養のあるものを食べておけと、姑が牛の内蔵を煮込んだスープを温めてくれた。あまり食欲はないが、とにかく食べる。
外はもう明るくなり始めていた。こんな時間に起きることなどない生活をしていたので、 朝の空気が新鮮だ。病院までは車で十分弱。ところがその場にいた若い女性の先生は、無情にもこう言い放った。「初産だからまだまだ。たぶん明日の夜になるでしょう。家も近いんだから、三分間隔になったら入院するように」仕方なくすごすごと帰宅する。
家に戻ってしばらくすると、校正しなきゃならない原稿がファックスで送られてきた。これも今のうちに片づけておいたほうが後が楽だと、姑にはとりあえず帰ってもらって、机に向かう。内容を確認しなきゃならないことがあって、陣痛の合間に何とか電話もした。 仕事を終えて横になっていると、だんだん痛みが激しくなってくる。しかし間隔はまだ七 ~九分。まだ病院には行けない。
「こんなの本当の陣痛じゃない。もっともっと痛くなるはずだ」本の出産に関する部分を繰り返し読みながら、痛みに耐える。夕方になるにつれて、かなり痛くなってきた。つれあいに背中と腰をさすってもらいながら氷を口に含んで耐える。それでも間隔はまだ五分。こんな痛みが翌日の夕方まで続くのかと思うと、もうげんなり。
いっそこのまま気絶でもしてしまいたいと正直思う。何も食べられず、氷ばかり口に入れていた。夜七時過ぎ。もうこれ以上我慢できない。とにかく病院へ行こうと決心。体は汗でグッショリしていて気持ち悪い。まだシャワーする余裕はあるはず。痛さで時折しゃがみ込みながらも、なんとかシャワーを終えて、服を着替えた。
再び姑が駆けつけて来た。出発の前にトイレに行ったら、ドロリとした赤い粘液が出た。 痛くてもう立ち上がれない。姑に支えられて何とか歩こうとした途端に、バシャッという感じで破水した。それでも病院では、明日の夜だと言ってたから、まだまだだろうと本人は思っていた。
午後八時十五分。病院に到着して診察台に乗った途端、看護婦さんは大騒ぎ。「ああっ、もう頭が見えてるっ」「ここでいきまないで! 早く分娩台に移さないと」「なんでこんなになるまで我慢してたんですか! 準備する時間もないじゃないですか」 私はぼんやりとした頭で、「なんだ、明日の夜じゃなかったのか」と考えていた。
移動ベッドに乗せられて分娩室に移されながら服を着替えさせられた。すぐに分娩台に移されて、「さあ、いきんで」と言われた。若い男の先生と、看護婦が五人いるのが見える。私はもうクタクタになりながら、何とか「つれあいを呼んで下さい」と頼んだが、どうも事態はそれどころじゃあないらしい。
陣痛に合わせて三~四回いきむと、もう頭が出た。あとは短促呼吸でつるりと体が出た。「オギャー」という泣き声。「男の子ですよ」と告げられ、「当ったり前よ」と思う。だから私の直感は当たるんだから! 紫がかった赤ん坊が、手足を動かしているのが見えた。
四月十六日午後八時四十五分、私はこうして無事男児を出産した。病院到着三十分後だった。もうちょっと遅かったら、車の中で産んでたよっ! 不思議なほど感動がない。とにかくあの痛みから解放されたことにホッとする。赤ん坊はあんな紫色してて大丈夫かなあ、と思う。ところでその間つれあいはどこで何をしていたのか。
分娩に立ち会いたいと看護婦に申し出ると、早く入院の手続きをしておかないと、午後九時過ぎると入院できなくなると言われて、すぐに一階の急患受付窓口で書類に記入してお金を払って戻って来て、私がどこにいるのかあちこち聞き回っていたところ、別の看護婦から「もう産まれましたよ」と言われてびっくり。
姑と二人で廊下で待っていたら、だいぶたって看護婦がやって来て、赤ちゃんに対面しろと言う。ガラス越しに産まれたばかりの赤ん坊を見せられて、元気な様子に思わず涙が出たと言っていた。それでも私の姿が見えないのが心配で、廊下をウロウロしていたのだという。
後産が終わった後のことは、私も覚えていない。その場で熟睡してしまったようだ。なにしろ昨晩は徹夜だったんだから。気が付くと、移動ベッドの上に一人いた。私の横にも移動ベッドがズラリと並んでいるが、寝ているのは私だけ。首を起こすと時計が見えて、十時半だった。
ぼんやりと周りを見回してみると、どうも産科受付の前の廊下に寝かされているらしい。 ちょうど交代の時間になったのか、向こうの方で看護婦たちが挨拶を交わしている。キョロキョロしていると、子供を取り上げた男の医師がやって来て、「出血があるかどうか見るので、もう少しここで待つように」と言う。子供も元気で、何の心配もないと言われて、安心してまたウトウトしていた。
午後十一時過ぎ。入院室に移される。定期検診を受けていたのは病院の一 を受けていたのは病院の一階で、分娩室や入院室は四階なので、部屋の位置関係がさっぱりわからない。移動ベッドに乗せられたまま、運ばれて行く。その途中につれあいの姿が見えた。
彼も私がどこにいるのか知らされていなかったので、ずっと廊下に立ち通しだったそうだ。入院室のベッドに横になっていると、舅がニコニコして入ってきた。男の子出産の報に、 タクシーの運転手にチップをはずんで駆けつけたそうだ。
私の入った一人部屋にはテレビや電話、冷蔵庫、シャワーとトイレが付いている。六人部屋なら保険の範囲内なのだが、「入院費は心配するな。私が払うから」と舅は胸を張る。だけどもしかして女の子だったら六人部屋だったのかなあ。そこまではちょっと聞けなかったけど。
部屋には冷めたワカメスープと御飯、ホウレンソウのナムル(おひたし)、ジョンという野菜や魚に卵を付けて焼いたおかずが置いてあった。午後九時以前に入院手続きをしたので、夜食が出たのだ。ほとんど食欲もなくて、ちょっと口を付けただけだった。
翌朝看護婦が来て、赤ん坊を病室まで連れて来たければ、夜九時までにまた新生児室に返せばいいからと言う。さっそくつれあいと姑が、赤ん坊を小さなカートに入れて連れて来た。 昨晩見た時は紫色だったのに、今は真っ赤。だから赤ちゃんって言うんだな、と納得。
「こんなのが私のおなかに入ってたのか」とヘンな気持ち。しわくちゃだし、小さくて頼りなくて壊れそうで、私は怖くて触れない。それなのにつれあいの家族たちは、やれ抱いてみろとかおっぱいやってみろとか言う。そんなことやったこともないから、どうしていいのかわからない。母乳もちゃんと出るのか出ないのかわからない。
日本の本では初乳を飲ませろと書いてあるけれど、赤ん坊は初めから、哺乳びんとセットで連れられて来た。病院の産着はよく洗ったものだろうけど、それでも古くて真っ白じゃない。義姉は脇の下が破けているのを発見して、「うちの大事な赤ちゃんにこんなの着せるなんてあんまりだ」と憤慨している。
だけど病院にいる間は、勝手に着替えさせるわけにもいかないという。 子供好きの義姉は、「可愛いわねえ」を連発。舅に「どうだ、可愛いか」と聞かれて、私は正直に「パドゥギの方が可愛い」と答えて大騒ぎになった。パドゥギとは義姉の家で飼っている雑種犬で、産まれた時私がへその緒を切ってあげたのだ。
「自分の子供より犬の方が可愛いですって!」だって赤ん坊はしわくちゃの宇宙人みたいで、まだ可愛いと言うにはほど遠い。それに私、正直子供より犬の方が好きなのだ。金曜日に出産したのに、日曜日にはもう退院。自然分娩の場合の入院は二泊三日だ。
出産にかかった費用は、分娩などにかかった二十万ウォンほどが保険扱いになり、残りの差額ベッド代や食費などの約三十九万ウォン(約五万五千円)を現金で支払った。それ以前に、定期検診などでかかった費用が三十五万ウォンほど(約五万円)。日本と比べて高いか安いか、私はわからない。
ただ超音波の費用などは病院によってかなり差があると新聞に報道されていたのを見たら、私の通ったソウル中央病院は、かなり高い方に入っていた。二泊三日の間、病院では子供の扱い方など一切教えてくれない。赤ん坊なんてこれまで抱いたことも触ったこともない私は、どう抱けばいいのか、どうやって授乳すればいいのかもわからない。
恐る恐る抱いてみても、「そんな抱き方じゃ子供がかわいそう!」とつれあいの家族たちに取りあげられてしまう。私は母乳を飲ませたいと思っていたのに、家に帰ってくるとすぐに家族が、ミルクと哺乳びんを買いに走ってしまった。
「母乳が出るようになるまでミルクは飲ませたくないんです」「だっておなか空いて泣いてるのに、可愛そうじゃないの。あんたはそんなこと気にしないで、疲れるから寝てなさい」私は素人、家族たちは皆経験者だ。反論もできない。私はおむつの替え方もお風呂の入れ方もわからない。
何かするたびに、「なんでそんなにもたもたやってるの」「そんなことじゃ子供が可愛そう」「もういいからあんたは寝てなさい」私が赤ん坊に触ると、危なっかしいと言って、皆が赤ん坊を取り上げてしまう。我が家にはさっそく、入れ代わり立ち代わり親戚一同がやって来た。
ところが外から来て手も洗わずに子供を抱いたりする。赤ん坊は生まれた時から、もう人まみれになっている。「親戚の人たちにいちいち手を洗えなんて言うのもなんだしねえ・・・・・」と姑は小声でブツブツ。出産後三週間は外部の人は訪ねてきてはいけないというが、親戚は家族なので例外である。
昔韓国では、男の子が産まれると門に縄を張って赤い唐辛子をいくつかぶら下げたという。唐辛子は韓国語では「コチュ」。男の子のオチンチンもコチュと言うので、男の子が産まれたというしるしだ。あり、今また赤は魔除けで、底病が入って来ないようにという意味もある。そしてこれが張ってある間は、外部の者はその家に出入りしてはいけないことになっている。
出産後しばらくは、キムチなどの刺激の強いものは食べてはいけないことと、ワカメスープをどっさり飲むことが韓国の習慣。また冷たい水に手を入れてもいけないということで、 約二週間姑が泊り込みで家事や子供の世話を引き受けてくれた。さぞや疲れるだろうと心配になるが、姑は孫が可愛くて可愛くて仕方ないらしく、夜中まで眠っている赤ん坊にあれこれ話しかけている。
姑だけではない。つれあいの家族は皆赤ん坊が大好きで、小学校の教師である義姉は早退してまで、子供をお風呂に入れにやってくる。申し訳ないし、私たちだって少しずつ育児を覚えていかなきゃいけないのに、男は私たちが子供をお湯の中に落とすのではないかと言って、触らせてもくれない。私とつれあいは指をくわえて見ているだけ。
「孫はおじいちゃん、おばあちゃんへのプレゼントだ」とつれあいは言う。まさにそのとおり。この子は私の子である以上に、柳家の子供なのだ。義兄に「大変だろうけどしっかり育ててくれ」と言われた時に、それを実感した。そういえば出産直後につれあいの家族が私に言った言葉は、「よくやった」「御苦労だった」だった。ところが日本の両親は「おめでとう」だ。かなりニュアンスの違いを感じる。
その後の子育ての中でも、韓国では私の子供だからといって私の好きなようにはならないことが、だんだんとわかってきた。日本と韓国の習慣の違いもある。退院して何日目かにポロリとへその緒が落ちた時、姑がそれをごみ箱に捨てようとするので、私は慌てた。干からびたへその緒を大事そうに拾う私姑は気味悪そうに見ている。確かに乾いたへその緒なんて不気味な物だけど、ごみ箱にポイとはあまりにも忍びない。
後で桐の箱にでも入れてあげようと、織に包んで自分の机の中にしまった。初めて髪の毛を切った時も、ごみ箱行き寸前に私がストップをかけて、ティッシュに包んで、これも机の中に入れて持っている。いつか捨てようと思える日が来るかもしれないけど、今はまだ捨てる気になれない。こういうことを見ると、韓国だけじゃなくて日本にも、結構摩訶不思議な風俗が残っているようだ。
ところで私たちの結婚に反対し続け、結婚後もつれあいのことを嫌っていた私の母が、一ヵ月後に父と共に韓国にやって来た。大荷物の中身はすべて赤ん坊のもの。何だかんだ言っってもやっぱり孫はかわいいらしく、同時につれあいに対する感情もガラッと変わった。よくそんな話を聞いていたけど、つれあいはそのことにいたく感動していた。
ソウルは今日も快晴(1998戶田郁子)
●11. 韓国でも日本でもつごうのよい名前を-名前のつけ方
近所の銀行にアパートの管理費を払いに行った。だいたい韓国の銀行という所は、窓口がいくら忙しくても、その後ろに座っている課長とか係長とかの肩書を持つ男たちが暇そうにしているので、いつも私は不愉快になる。
ちょうど月末で、管理費を払いに来た人が長い列を作り、二つしかない窓口の職員は息つく暇もない。ところがそのすぐ後ろのおっさんは、雑誌なんか広げてくつろいでいるのだ。待たされている私は、だんだんいらいらしてくる。なによっ、こんなに大勢待ってるんだから、窓口業務を手伝わないまでも、自分もちょっとは忙しそうに仕事してなさいよ、と文句の一つも言ってやりたい。
そんな時ふと、彼の机の上に掲げられたネームプレートが目に入った。「課長金王國」。途端に私の怒りは吹っ飛んで、笑いが込み上げてきた。まわりの人たちに、「ネエネエあの人、金王國っていうんですって」と話し掛けたくてウズウズしてくる。しかし並んでいる人々は皆知らん顔。私は一人で笑いを噛み殺して、順番を待っていた。
家に帰るとさっそく、つれあいに「金王國さん」の話をした。ところが彼は、「そんなの別に珍しい名前じゃないよ」とつれない。「だから、銀行員で金王國っていうのがすごいじゃない?」「なんで?」・・・だめだ、このおかしさがわかってもらえない。この逆に、韓国人にはとてもおかしい日本人の名前がある。私の友人の名は純代。
韓国人はその名を漢字で書いた途端にゲラゲラと笑い出す。純代を韓国語で読むと「スンデ」。豚腸詰めのことだ。「ご両親もあんまりよね。何もスンデなんてヘンな名前付けなくたっていいのに・・・」「だって日本の両親が、韓国語なんてわかるわけないでしょうが。日本語じゃかわいい名前んだから」そんなわけで子供が産まれる前に、韓国語でも日本語でも不自然でない名前を付けなけれこと、私はかなり悩んだ。
初めは、韓国語読みでも日本語読みでも同じ発音の名前がいいと思った。ところがつれあいの家では、孫の名前はおじいちゃんが付けるのが慣例。しかも男の子の場合は、トルリム付けチャといって、名前のうち一字が既に決められている。ちなみに女の子はどんな名前を付けてもいいのだそうで、それじゃあ女の子が産まれればいいと思ったけれど、産まれてきたのはやっぱり男の子だった。
韓国では普通、名字が漢字一字、名前が二字。名前二字のうち一字はトルリムチャだから、自由に決められるのはたったの一字だけ。従って同姓同名がかなり多い。韓国の大学に通っていた時のことを思い出す。出席を取るたびに、「キム・テジュン」「キム・イルソン」という名前で、皆が大笑い。漢字まで同じではないかもしれない。金大中ではなくて金大重、金日成ではなくて金一星かもしれない。でも音が同じなのだ。
私の戸田郁子という名前は、漢字で書いても日本式に読んでくれる人はいない。韓国式の読み方で、「ホジョンウッチャ」と呼ばれてしまう。なんだか自分の名前じゃないみたいで、 私は馴染めない。病院の待合室でこう呼ばれると、周りの人がジロジロ見ている。時々「変な名前ですね。 中国人ですか」と聞かれたりもした。全くデリカシーのない言い方だ。
「変な名前」だなんて。でもこういうことに一々傷ついていたら、韓国では生きていけない。トルリムチャを直訳すると、回し字。何代目は何、次の代は何、と決まった漢字があって、何代か後にはまた同じ字が繰り返し使われる。これによって、同じ名字の同じ本覚 (一族の始祖の出身地)で同じトルリムチャを持つ者同士は、同じ親等にあるということがわかる。
例えば二十歳以上も年が離れていても、一族の系列から見て同じ代にいる者同士ならば、 建前上は尊敬語を使わなくてもいい。まあ年上の人に対しては、自然に尊敬語を使ってしまうものだけど。 ところが下の代の者が年上、という場合もよくある。こういう時は、お互いに言葉使いや呼び方で苦労する。でもまあ、遠い親戚だったらめったに会うこともなかろう。
舅のトルリムチャは根、つれあいは珪が、それぞれ名前の下の字として使われている。私の子供の代は秀だ。思わず「それなら秀吉にしよう」と言って顰蹙をかう。しかし残念ながら(?)、秀の字は下に付かなければならないという。この字は日本語と韓国語では読みが異なるので、せめて残る一字を、日本でも韓国でも使う漢字にしてもらうしかない。
ところが日本の母も黙っていない。画数が二十四画か三十一画になるように、などと注文を付けてきた。「戸田と柳は同じ九画だから、ちょうど良かったわ」そんなこと、私はこれまで考えてみたこともなかった。それでもどうせ自分たちの好きなように決めることのできない名前なのだから、どちらの意向も汲んで決めたいと思った。
辞書を引きながら、日本でも韓国でも使う漢字の中で画数が合うものを選び出してみると、数個しかない。その中から舅に決めてもらうことにした。男の子を産んだその夜、男は嬉しそうにそのリストの中から、一つの名前を選んだ。「明秀」、韓国語ではミョンス、日本語ではあきひでだ。二十四画で金運に恵まれるという。頼りにしてまっせ。
いまどきの日本の子供たちは、ケンだとかゴーだとかジュンだとか、英語にしてもおかしくないハイカラな(?)名前ばかりだと、幼稚園に通う子を持つ友人が言っていたのを思い出した。そんな中で「あきひで」なんて、野暮ったい名前だと言われるかもしれないな、 私は苦笑いした。
だいぶたって、小学校の教師をしている義姉がポツリと私に言った。「ミョンスなんて、 一昔前の小学校の教科書に出てくるような陳腐な名前だわ」なるほど、明秀は日本でも韓国でも、時代遅れの名前だったのか。それはそれで日本でも韓国でも不公平にならなくてよかったじゃないか、と私は妙に納得したのだった。
ところで結婚して以来、私はつれあいの家族から名前で呼ばれたことが一度もない。あるいは私の正確な名前を知らない者もいるだろう。私だって義兄嫁の名前を知らないのだ。 留学生だった頃、仕事をしていた頃、いつも私は「戸田シ」と呼ばれていた。シは氏。韓国では職場の同僚や外での付き合いのある人には、名前に氏を付けて呼ぶのが普通だ。あるいは姓にミスター、ミスを付けて呼ぶことも多い。
ところがおかしいのは、自分のことをミスター・キムとかミス・チョンなどと名乗るのが習慣になっていること。外国語だからミスターやミスが敬称であることを、つい忘れてしまうのかもしれない。それを日本式に置き換えて、「私はキムさんです」「チョンさんです」と名乗って、日本人を面食らわせる人もいる。
つれあいもそうだった。私の父が「柳君」と呼ぶのを聞いて、電話口で「もしもし、こんばんは。私は柳君です」と言ってるのを聞いて、私が慌てて訂正した。そういえばもう一つ気になることがある。犯罪報道を見ると、有罪になった韓国人の犯人の名前にまで氏を付けているのに、外国人の名前には何の敬称も付けず、「ホソカワは」「ハシモトは」と言うのは、私にとってはすごく不自然。
私が韓国で誰かに電話して「戸田ですが」と名乗ると、取り次いだ者が「戸田ですね」と受け答えするのも、すごく不愉快。「あんたね、戸田氏ですねっていいなさいよっ」と怒鳴りたくなるのをいつも我慢している。それでも、結婚して自分の名前がなくなってしまうことに比べれば、見ず知らずの人間に 「戸田」と呼び捨てにされる方がまだましだった。
名前があるのにそれを使ってもらえないというのは、私にはちょっとしたショックだった。それなら私はなんと呼ばれているのか。これがまた複雑極まりないのである。呼ぶ人によって呼称が異なる。子供ができる前、舅姑は私のことを、「チャグンネ(小さい家)」と呼んでいた。つれあいは末っ子だからだ。義兄は私を「チェスシ」と呼び、義姉は「オルケ」と呼ぶ。
義兄夫婦の子供たちは私をチャグンオンマ(小さいお母さん)、つれあいをチャグンアッパ(小さいお父さん)と呼び、義姉夫婦の子供は私を外叔母と呼ぶ。幸い子供が出来てからは、わかりやすくなった。私は「ミョンスエミ」、つれあいは「ミヨンスエビ」だ。エミ、エビとだけ呼ばれることもある。
これはオンマ、アッパよりも一段格の低い呼称で、私が自分より目上の家族に対してつれあいのことを話す時には、「エビが」 と言う。初めはそのたびに一人で「海老だって」とニヤニヤしてしまったけれど、もう慣れた。 外では私は、「ミョンスオンマ」になる。つれあいの姉や兄嫁もそう呼ぶ。子供が学校に行き始めても、それはずっと続く。
私がつれあいの家族を呼ぶ時はどうか。日本だと家族というのは普通両親と子供までと考えるけれど、韓国では祖父母、両親、子供、両親の兄弟とその子供までが家族だ。ちなみに我が家は義兄夫婦に子供が二人、うちが子供一人だから正確には九人家族になるのだが、義姉夫婦が両親と同居しているため、義姉夫婦と子供一人を加えた十二人家族と考えるのが自然だろう。
私がつれあいの家族を呼ぶ時は、子供が産まれる前までは自分との関係でその一人一人の呼称が違ってきた。舅姑はアボニム、オモニム(ニムは様の意)、義姉と義兄嫁はヒョンニム、その夫はアジュボニム、またはソバンニムと呼ぶ。そして子供たち(甥姪)は名前で呼ぶ。
私に子供ができてからは、今度は子供から見た関係で呼ぶようになる。舅姑はハラボジ (お祖父さん)、ハルモニ(お祖母さん)、義姉夫婦は姑母、姑母夫、義兄夫婦はクナボジ (大きいお父さん)、クンオンマ(大きいお母さん)となった。
その呼称通り、子供にとってはクンオンマやチャグンオンマは母親代わりだ。だから私は、義兄夫婦の子供を自分の子供同様に扱わなければならない。私たちにもしものことがあった場合、明秀は義兄夫婦が引き取り、逆の場合は私たちが義兄夫婦の子供を引き取って育てる義務があるわけだ。
ところが理屈はそうなんだけど、だいたい自分の子供も満足に育てられるかどうかわからず、しかも根本的に子供嫌いの私としては、甥姪を自分の子供と思えと言われたって、そうは簡単にいかない。もしものことが起こらないよう祈るばかりである。
さてここまでの家族関係の呼称は、私も何とかクリアした。問題は親戚だ。舅の兄弟とその子供、姑の兄弟とその子供までが近い親戚に当たり、家で行事があるたびに行き来する関係だ。ややこしいので、義兄嫁が使う呼称にじっと耳を傾ける。つれあいの使う呼称をそのまま覚えたんでは、私は外から嫁に来た人間だから当てはまらない場合があるのだ。
一度に大勢と対面すると、私にはいったい誰が誰の子供か孫なのか、さっぱりわからない。壁に大きく家系図でも書いて、顔写真を張って覚えようとしたのだが、すぐに諦めた。 というのは、「誰が誰を呼んでますよ」という伝言形になってしまうと、自分を基本に考えた呼称だけでは通用しないことに気付いたからだ。こうなったら、あやふやな呼称を使って失敗するよりも、黙っていた方がいい。
親戚一堂が会して女たちが台所で世間話をする時も、いったい誰の話なのかさっぱりわからないので、聞いてるふりしていつも別のことを考えている。時々隣にいる兄嫁が私の膝をつついて、「あんたのこと言ってるわよ」と教えてくれる。せめて私のことだけでもいろんな呼称で呼ばないで、名前で呼んでくれと言ったところ、 義姉に怒られた。
「名前で呼ぶなんて、サンノムのすることよ。柳家ではそんなこと許しません!」ここょうサンノムとは身分の低い者、下郎などといった意味で、両班と対をなす。韓国ではこういう差別語が日常茶飯に使われる。私は正直言って、柳家の家門には全然興味もないのだけれど、嫁の立場からそんなことも言えずに黙っていることにした。
呼称といえば、夫婦の呼び方も忘れてはならない。恋人同士の場合は互いを名前+氏で呼んだり、チャギと呼ぶ。チャギを漢字で書くと自己だが、これをあなたとか君という意味で使う。そして結婚すると互いをヨボとかタンシン(あなたの意)と呼ぶのが普通だ。
しかし私たちはどうも照れ臭くて、ヨボだのタンシンだのと呼べない。子供が産まれた今でも、相変わらず互いにチャギと呼んでいる。これをつれあいの家族に聞かれると、すぐさま怒られるのだが。 つれあいはしばらく近所の日本語学院に通ったことがあって、ある日ニコニコしながら帰ってくるとこう言った。
「キミのこと日本語でなんて呼べばいいのか、今日習ったよ。奥さんって言うんでしょ」教科書を見ると、「山田さんの奥さんの誕生日はいつですか」という例文があった。それ以来つれあいは、「奥さん、御飯食べましょう」「奥さん、テレビ見ましょう」奥さんと呼ばれると何だか不倫でもしてるみたいでおかしくて、私はあえて否定しなかった。
ところが呼ばれるたびに「ウヒヒヒ」と顔が笑ってしまうので、つれあいもどうもおかしいと勘づいたらしく、その呼び方をやめてしまったのは残念だった。他人に自分のつれあいを紹介する時は、つれあいに当たるちょうど良い表現がないので、 ちょっと不便だ。韓国式に男便(夫、亭主の意・・・だけど漢字で書いてみるとちょっとぽい)と言うか、エギアッパ(子供のお父さん)と言うしかない。
つれあいは私のことをチプサラムと言うが、直訳するとこれは「家の人」という意味なので、私は気にいらない。マヌラ(女房)というのもあるが、これもマヌル(ニンニク)みたいでピンと来ない。かといってワイフと呼ばれるのも、気持ち悪い。何かいい言葉はないかと思うが、まだ見つからない。
ソウルは今日も快晴(1998戶田郁子)
●12. キムチと梅干し-とびこえられない食生活
産後はワカメスープを大量に飲まなければならない。朝、昼、晩とずっとワカメスープだ。姑が大きな鍋に作ってくれて、やっと飲み終わったと思うとまた作る。ワカメは血をきれいにする作用があるとかで、韓国では産後や誕生日などに欠かせない。 だけど日本でもワカメを食べるのに、特に産後大量に食べたりはしないのはなぜなんだろうか。
母乳がよく出るようにするには、豚足を煮込んだ汁を飲めと言われたけれど、臭いがすごそうで自信がない。買って来るという舅を何とか引き止めて、必死に言い訳を探す。「私は外国人だから、韓国人とは体質が違うかもしれない。だから日本式のやり方でやってみます」
なるほど、と一同頷いた。それで鯉こくを作って食べた。鯉は韓国でも出産後に食べる物だが、こちらもぐつぐつ煮込んでその汁を飲む。私にとってはそれより、日本風に味噌仕立てであっさりの方が食べやすい。
ソウルは今日も快晴(1998戶田郁子)
●13. 死者をなぐさめる花札-夫の親友の葬儀で
月曜日の朝七時に電話が鳴った。「誰だ、こんな朝っぱらから!」寝ぼけ眼でつれあいが電話に出た。大学時代の同級生だった。「スンヨリが昨日の夜死んだ・・・」「エエッ、まさか・・・」「俺も信じられないんだけど、昨日の夜遅くにスンヨリの叔父さんから連絡があって、朝になるのを待ってお前のとこに電話したんだ」
スンヨリと呼ばれる友人(名前のスンヨルを呼び名にすると、スンヨリとなる)は、つれあいの大学時代の同級生で、共に写真を学んだ仲間だった。忠武路で、スピード現像サービスの店を経営していた。忠武路には写真スタジオや映画プロダクション、印刷所などが密集しており、ソウルの中心部にありながら下町の雰囲気の漂う町だ。私も外でつれあいと待ち合わせる時に、よく彼の店を使わせてもらっていた。
交通事故だった。日曜日で家に早く帰って来た彼は、その日はなんだか疲れたからと、夕食を食べてすぐ横になっていたという。午後八時ごろ近所に住む高校時代の友人がやって来て、ドライブに行こうと彼を誘った。疲れているからと一度は断ったが、しばらくしてまた誘いに来て、二人で出掛けたという。
ダンプカーとの正面衝突で、運転者も助手席にいた彼も即死だった。ソウルは交通事故が多いという言葉を毎日他人事のように聞き流していたことに、我が身が震えた。つれあいはすぐにあちこちに電話を掛け始め、遺影にするための写真が必要だと、写真やフィルムのぎっしり詰まった大きなケースをひっくり返して、大学時代に仲の良かった五人創で地方に撮影旅行に行って撮った白黒写真を取り出した。
そこに笑顔で小さく映っているスンヨル氏の顔を、大きく引き延ばすことにした。写真を撮るのが好きだったスンヨル氏だが、不思議なことに自分のポートレートは一枚も残していなかった。どこかに遊びに行って 「撮ったスナップ写真もないという。つれあいは大慌てで着替えると、その写真を持って出行った。
「一人家に残された私は何も手に付かなかった。何日か前にスンヨル氏は、大学時代の仲の良い数人と共にうちに遊びに来たばかりで、突然の訃報は私にも信じられなかった。店を借りるための仰止金は親に援助してもらい、現像機械の代金は毎月売上の中から少しずつ返済し、もうすぐそのローンも終わると言っていた。店を始めて三年目でようやく固定客も付き、なんとかやっていける自信ができたという話も聞いていた。
それに最近やっとガールフレンドもできたんだと、嬉しそうに話していた時のことを思い出して、私はたまらなかった。夜遅くなって、つれあいはかなり疲れた様子で家に帰ってきた。夜になって勤めを終えた友人たちが集まってきたので、とりあえず帰ってきたという。スンヨル氏は一人っ子だった。それだけに残された御両親の嘆きはどれほどのものか、想像するに余りあった。
事故の報せを聞いて駆けつけた母親は、即死だったと聞いてその場で失神してしまったという。その夜は、横になってもなかなか寝つけなかった。突然つれあいが言った。「もう一度病院に行って、スンヨリに会って来ようか」すでに日が変わって、時計は午前二時を回っていた。私もスンヨル氏と最後のお別れをしなければと思い、すぐに起き上がって準備をした。
今晩は友人たちが一晩中徹夜であいつの側にいるはずだから、何か食べる物を持って行こうとつれあいが言う。大急ぎで熱いコーヒーをポットに詰めて、家にあったパンや果物などを持って病院に向かった。事故のあった場所に近い病院の駐車場では、友人の一人が車の中で眠りこけていた。スンヨル氏の店の二階でコマーシャルスタジオを経営している、大学の同級生の一人だった。
朝、事故の報せを開いてから、仕事も放り出してずっと病院から離れなかったという。病院の裏にある霊安室に行った。だだっぴろい部屋に、その日は六人の遺影が飾られており、その前にそれぞれの親戚や友人たちが集まっている。大きく引き延ばされたスンヨル氏の遺影の前にひざまずくと、私は涙が出た。
向こうで布団を被って寝ているのが、スンヨリのオモニ(お母さん)とアボジ(お父さん)だと、つれあいが耳打ちした。疲れ切って倒れるようにして寝入ってしまったのだと、誰かが言った。 回りでいくら騒いでも、全く聞こえないようだった。通路を隔てて反対側に、やはり若い遺影があった。スンヨル氏をドライブに誘って死んだ友人だという。
集まった者の中にも、互いに行き来をする者はいなかった。あちこちで人が輪になって、花札に興じている。スンヨル氏の遺影の前でも大学時代の友人たちが、親戚の人が準備した焼酎やジュース、餅やみかんを食べながら歓声を上げている。「お通夜の席で騒ぐなんて」と私が眉をひそめると、「友達や親戚が大勢集まって賑やかに遊んでやって、故人を楽しませてやるんだ」と、つれあいは言う。たけとこんな席で花札なんて...。
韓国に留学して最初のお正月に、私は下宿のご主人の実家に招かれてびっくりした。親戚一同老いも若きも、花札に興じているのだ。私にも盛んに仲間に入れと誘うのだが、何しろ私はルールすら知らない。そう言うと、皆不思議そうな顔をした。「へえ、あんた日本人のくせにファトゥも知らないの?」ファトゥとは花闘と書く。花札のことである。
それまでの私は花札に決して良いイメージを持っていなかった。「賭博」というおどろおどろしい言葉が、妙に重なって浮かんでくるからだ。当然、花札で遊んだ記憶もない。 一同はまるでメンコでも引っ繰り返すような勢いで、代わる代わる力まかせに札を叩きつけている。ピシッという音で、日頃のストレスや疲れを解消させようとでもいうかのようだ。この激しい闘いに耐えうるように、韓国のファトゥはプラスチック製なのである。
初めのうちは小豆色の千ウォン札とコインが飛び交っていたが、じきに緑色の一万ウォン札が飛び交うようになった。こうなると全員、目の色まで違ってくる。お客であるはずの私をかまってくれる人は誰もいない。「お父さん違うよ、それじゃなくてこれだよ」にきび面の息子が父親の後ろに付いて真剣な表情でアドバイスをしている。「あなた、頑張って。今夜のおかずは任せたわよ」
妻も夫に熱いエールを送る。私はただ茫然と見ているしかない。飛び交う言葉の中に、日本語らしきものが混じっている。「コドリ」「ナガリ」「ミナト」…。このファトゥも日帝の残滓なのだ。まだ結婚する前に、つれあいがいかにも腹立たしそうに私に言ったことがある。「まったく日本人ってのは頭がいいよ。韓国人にファトゥ教えといて、皆がうつつを抜かしている間に国を奪ったんだもんな」
「別に花札のせいで、植民地になったわけじゃないでしょ」「いや、充分効果はあったはずだ」「そんなこと言うなら、花札なんかやめればいいじゃない」「それは、できない」つれあいはかつて、無類のファトゥ愛好家だったそうで、友達の家に遊びに行ったりすると、必ず明け方までファトゥをして遊んだと聞いている。ところが結婚後、私はファトゥが嫌いだと言ったところ、一度もやっていない。
「お前結婚してずいぶん変わったなあ」つれあいの友人たちは、いつもこう言ってからかう。「昔は新婚の俺の家に来て、一晩中遊んでたじゃないか」「エッ、俺はそんなことしてないよ」「何言ってんだ。今日は復讐に来たんだから、さっさとファトゥ出せ」「 俺はファトゥなんかやんないから、家に置いてあるわけないじゃないか」そのたびに、あくまでもしらを切りとおすつれあいだった。
今度は私から反撃する。「花札はもともと日本のものなんだから、韓国人だけで勝手に楽しまないでよ、気分悪わ」「こっちだってそれを利用する権利はある」「花札は日本の国技よ」誰々が結婚することになったとかの情報交換も行われる。時にはファトゥのやり過ぎで、腕や腰が痛いとぼやく人もいる。私の下宿のおばちゃんもその一人だった。朝起きると、彼女の日課はまずファトゥ占いだ。
良くない結果が出ると、良くなるまでやり続ける。固いオンドルの上で背中を丸めて、一人で黙々とファトゥを並べている。真剣である。私が学校に行ってくると挨拶をしても、見向きもしない。私の知り合いで、旅館に住み着いた人がいた。その人と電話で連絡を取るのがなかなか大変だ。というのも、旅館のおばちゃんたちはいつでもファトゥに熱中していて、興に乗っている時など彼女がいるかいないか確認もせずに、「でかけてるよ」と電話を切ってしまうからだ。
おもしろい統計を見たことがある。厳山大学家庭管理学科鄭民子教授が、蔚山地域の成人男女八百四名を対象にまとめた調査だ。それによると、成人男女の九十四%が「ゴーストップ」と呼ばれるファトゥのルールを知っており、その大部分が三十代以前に習い、家族や親戚が集まるたびに必ずファトゥをすると回答。
そのうち二十%は、暇さえあれば毎日でもファトゥをすると答えている。また一度始めたら三時間以上続けるという者が六十三%という結果だった。職場で昼食や夕食を賭けて一勝負行われるのは当たり前。中には一晩で一ヵ月分の給料をパアにしてしまう者もいる。もちろん賭博は韓国でも禁じられている。
しかしどこまでが娯楽でどこからが賭博になるのかという基準はない。まあ食事を賭ける程度なら、賭博にはならないだろう。賭博の被告として起訴されたものの、初めの三点が五百ウォン、二点追加されるごとに五百ウォンという単位のファトゥは無罪だという判決が下された例がある。
花札だけでなく、ビリヤードやポーカーなどで賭けを楽しむ者は多い。だから賭博絡みの事件がよくある。某大学教授が近所の不動産屋でファトゥをして喧嘩になり、相手に全治三週間の怪我を負わせただの、引退した元女優がファトゥで儲けた何百万ウォンを、警官を偽装した青年に持ち逃げされたという記事も見たことがある。
新聞沙汰にならない所でも、すごい話をよく聞く。兄がポーカーで一億ウォン以上の借金を抱え込み、弟夫婦が返済のために家を売った。ファトゥに狂って家までなくし、妻が子供を連れて家出した。高校生がファトゥで数百万ウォンの借金を作り、親が返済した・・・。そんな話が日常茶飯にあるのだから、子供たちがその影響を受けないわけはない。
つれあいも小学生の頃から親戚たちにファトゥを仕込まれたと言っていた。中学生にもなってポーカーも知らないと馬鹿にされるとか、日本の人気漫画のカードを使って、小学生が学用品や小遣いを賭けて遊ぶのが問題になったりもする。子は親を見て育つものなのだ。スンヨル氏のお通夜から、だいぶ脱線してしまった。
お葬式は翌日だという。朝九時に枢を火葬場に移すと聞いた。明け方までファトゥに興じた友人たちは、柩は自分たちが担ぐからと親戚に約束して、一旦家に戻ったという。つれあいは火葬が終わって遺影をお寺に安置する時に合流することにした。ところが、朝九時前に友人たちが霊安室に集まると、すでに柩は担ぎ出された後だったという。うちに電話してきた友人の一人はかなり興奮している。
「ちゃんと約束しておいたのに、あんまりじゃないか。友達に最後の別れもさせないで、朝早く火葬場に運んで火葬してしまったっていうんだ。皆怒って、今家族に抗議しに行ってる」 おそらく遺族は、遺体を友達に見せたくなくてそうしたんだろうな、と私は思った。韓国では土葬が一般的で、特に親が死んだ場合に火葬などにしたら、親を二度殺す親不孝者だと言われる。
しかし病気や事故などで親よりも先に死んだ者は火葬にする場合が多く、 灰は山や海、川などに撒く。お墓というのは代々祭祀(法事)をしてくれる子孫がいる場合に作るもので、結婚せずに死んだ者は当然子供がいないので、お墓は作らないのだ。スンヨル氏は特定の宗教を信じていたわけではない。オモニは教会に通っていたというが、だからといって故人が信じていたわけではないので、葬儀をキリスト教式に行うのはおかしい。
スンヨル氏の店によく出入りしていた、山の写真が趣味だという僧侶がいて、自分の寺で故人の遺影を預からせてほしいと申し出たことから、そこに安置されることになった。四十九日は暑い夏の日だった。お寺といっても住宅街にある普通の一軒家で、二階に仏像が祀られていた。この日まで、スンヨル氏の遺影はそのお寺に安置されており、お参りしたい者はいつでもここに訪ねてくることができた。
しかしそれは四十九日までで、この日を最後に彼の魂はこの世を離れて成仏するのだ。遺影の前での祈禱が済むと、読経をするお坊さんを先頭に階下へ下り、庭の片隅にある焼却炉の前に勢ぞろいした。いよいよお別れの時がきた。お坊さんが故人を送る言葉を述べ、 遺族が持ってきた故人の下着と靴下に火が点けられた。
スンヨル氏の姨母(母親の姉妹)が大声で泣き出して、回りの人からたしなめられている。この時に泣いては、故人の魂が成仏できなくなるという。「スンヨリは馬鹿だよ。俺たちに何の挨拶もなしに、突然逝っちまった」「あいつはかわいそうなヤツだ。結婚もせずに死んじまった」友人たちはいつもの軽口をたたくような調子で、突然死んだ一人の友達のことをいつまでもあれこれ話し合っていた。
私は帰り道でつれあいに聞いた。「かわいそうなのは死んだスンヨル氏じゃなくって、残されたご両親の方なのに、なんで皆スンヨル氏がかわいそうだって言うの?」「だって結婚もできずに死んだじゃないか」「もし結婚してたら、残された家族はもっとかわいそうよ。若くして未亡人になった奥さんは、いったいどうすればいいの? 私は彼が結婚せずに死んだのは、むしろ幸いだったと思うけど」
「でも結婚してたら、子供が墓を守ることもできたのに」お墓を作るということは、とても大切な意味があるようだ。私などつれあいの祖父母の祭祀だからとお墓に連れていかれても、一度も会ったこともないし名前も知らない人だから、 どうもピンとこない。祭祀のためにあれこれ食べるものを準備して、わざわざ山を登って行かなきゃならないと思うと、面倒臭い。
しかし男姑を見ていると、そうやってきちんと祭祀を行うことが生活の中でのけじめになっているようだ。お墓参りに行くといつも、とても清々しい顔をしている。スンヨル氏が亡くなって何ヵ月か過ぎた秋夕(旧暦のお盆)の休暇の時、大学時代の友人たちが故人のご両親の所に遊びに行くという。一人息子を亡くして寂しがっているだろうから、皆で息子の代わりにご両親を慰めようというわけだ。
私も一緒に付いていった。 オモニは、妊娠中の私に言った。「若いうちは子供を育てるのが大変だからって一人しか産まない人が多いけど、こんなことがあったから悪い意味で言うんじゃないけど、二人は産みなさい。本当にその方がいいわよ」スンヨル氏が亡くなってからご両親は、孤児院から養子を貰おうかとも思ったという。しかしスンヨル氏の遺影を預かったお坊さんは、こう言って反対した。
「もし養子を貰ったとしても、それで息子さんを亡くした悲しみが消えるわけではありません。それに養子がこの先怪我をしたり病気になったりした時に、本当に自分の息子と同じ気持ちで接する自信がありますか。寂しいから安易に養子を貰おうと考えないで、もう少し時間を置いてみた方がいいでしょう」
その後ご両親とは、すっかりご無沙汰してしまっている。私は今でも時々気になる。残されたご両親はどうされているのだろうかと。スンヨル氏が死んだ後、店は友人が引き継いで経営している。時は流れ、忙しい友人たちの口から、スンヨリという名前が聞かれることもめったになくなってしまった。「そんなふうにして俺たちも、だんだんスンヨリのことを忘れていくもんなんだな」つれあいはぽつりと言った。
ソウルは今日も快晴(1998戶田郁子)
●14. 神様を信じなさい-プロテスタントとカトリックている。
韓国はアジアの中では、フィリピンに次いでキリスト教信者が多いと言われている。アメリカの宗教雑誌である『クリスチャンワールド』の九三年の調査によると、世界で信徒数の最も多い教会を調べた結果、一位のソウル市汝矣島の純福音教会(六十万人)、二位の京畿道安養市の純福音教会(十万五千人)を初めとして、韓国の二十三の教会がベスト五十に名前を連ねている。
日本では一言でクリスチャンと言うが、実はプロテスタント(改新教)とカトリック(天主教)の二つがある。私も韓国に来る前は、どっちがどうなのか全然わからなかった。
いや、今でも私は信者じゃないので、詳しいことはやっぱりわからないが、簡単に言うとプロテスタントの教会には牧師がいて、カトリックの聖堂には神父がいるのである。
牧師は妻帯が認められているが、神父は一生結婚しない。町で目に付く灰色のベールと服を付けた修道女はカトリックで、やはり結婚はしない。
カトリックは儒教の伝統を受け入れて、祖先の祭祀(法事)を行うのを肯定しているが、プロテスタントはそれを一切否定している。これが原因で大喧嘩をする家庭も珍しくない。韓国でカトリック信者が多いことにも納得がいく。
初めに例を挙げた統計はプロテスタントのもので、それとは別にカトリックの方も、信徒数の多い有名な聖堂がいくつもある。カトリックはローマ教皇がてっぺんにいて、そこから任命された神父が地域ごとの聖堂を守っている、なんて安易に説明してしまっていいのかわからないけれど、とにかくあちこちに無闇に聖堂を建てることは禁止されていて、共通の教義を持っている。
一方、ソウルの町を夕方高い所から眺めると、あちこちに赤く光った十字架が見えるのは教会だ。信徒さえ集まれば、牧師はどこにでも新しい教会を建てることができる。教会という建物がなくたって構わない。集まる場所さえあればいい。雑居ビルの窓に十字架が書いてある所も多い。聖書をよりどころとしながらも、解釈の仕方が異なる様々な宗派があり、キリスト教と言いながらも新興宗教のような団体も多い。
西洋のクリスチャンは日曜日を休息日として、教会や聖堂に礼拝に出掛けるが、韓国には韓国風の解釈の仕方があるようだ。なにしろ国民の四分の一がクリスチャンだと言われるのに、日曜日になると行楽地へ向かう道路は大渋滞。信徒は朝六時とか七時の礼拝に出て、さあ今日は一日思い切り遊んでやるぞ、と勇んで出掛けるのだ。おかげで月曜日はフラフラになって出勤し、仕事を抜け出して淋浴湯(銭湯) で一休みする人も少なくない。
どうも日本人は宗教というとなんだか胡散臭いもののような印象が無きにしも非ずだけど、韓国では決してそうではない。「宗教は何ですか」という受け答えが自然に交わされるし、確か大学の新入生生活調査カードにも、宗教を記す欄があった。外国人の宣教師も多い。以前私が韓国語を学んだ延世大学韓国語学堂にも、アメリカやインド、アフリカ、フランスなど様々な国からやって来て、宗教活動のために韓国語を学んでいる人たちがいた。
私の隣の席のインド人は、なにかというと「神は偉大である。ハレルヤ!」と言うので私は辟易していたのだが、ある日彼は非常に穏やかにこう言った。「あなたにキリスト教を信じろと強要するつもりはない。でもどんな宗教でもいいから信じてみるといい。心のよりどころが見つかるはずだ」私は韓国で宗教を強要されるのに、何度もうんざりした経験がある。
「あなたがその年になるまで結婚できないのは、神を信じていないからだ」「神を信じないとあなたは不幸になる」そんなの私の勝手でしょ、と怒鳴り出したくなるような一種脅迫めいた宗教勧誘に何時間も捕まってしまったこともあるし、乗ってから下りるまでカセットで賛美歌をガンガンかけながら、「神を信じなさい」「教会に通いなさい」と説教するハレルヤタクシードライバーに会った時は、路上で悲鳴を上げて逃げ出したくもなった。
熱心なのは大いに結構だけど、個人の意思を全く無視した押しつけがましい勧誘は真っ平だ。それだけにインド人宣教師の言葉は、素直に胸の中に入ってきた。教会や聖堂にも何度か出掛けてみて、私はその規模の大きさや信徒の熱心さに驚かされた。 日本でも何度か教会に行ったことがあったけれど、お説教の言葉が難しすぎて、いつも眠くなってしまった。賛美歌だって歌詞が難解で、日本語のはずなのに意味がさっぱりわからない。
ところが韓国の教会は違う。夫婦の葛藤や子供の教育問題、果ては最近の社会情勢など、 わかりやすい例を挙げながらお説教が行われ、賛美歌の歌詞もわかりやすい。すごく下世話な話で信者をどっと笑わせておいて、すぐその後でぐっとくるような話題に切り換えるなどの話術の巧みさ。思わずウンウン、と頷きながら聞いてしまう。信者たちが話の合の手に「アーメン」と叫ぶのも、なんだか楽しい。
聖堂の方は建物の荘厳さや、そこに漂う厳かな雰囲気が私にとっては非日常的で、おもしろかった。 それでも信心が足りないせいか、信者になるに至っていない。宗教を持つようになるには、何かきっかけがあるはずだ。私の知り合いの出版社の社長は、事業に失敗して精神的にも不安定だった時、新しい事業を起こす時に利用できそうだからと、財界人や著名人が名を連ねるあるキリスト教系の新興宗教の門を叩いた。
彼にとっては宗教に縋ろうという意図よりも、そこで知り合った人との人脈を利用して商売に結びつけてやろうという思いが強かったわけだが、三日間の祈禱会と称する研修に参加して、すっかり考えが変わってしまい、まるで自分が新しい人間に生まれ変わったような感動を得て、それ以来熱心に信じるようになったという。
しかしその信心と良心とは結び付くことがないんだろうかと私が首をひねってしまったのは、彼が新しく始めた出版社が日本の漫画を不法にコピーした海賊版で大儲けをしたという噂を聞いたからだ。新興宗教だからと色眼鏡で見るつもりはない。聖堂に集まるカトリックの信者を見ても、 毛皮のコート姿のおばちゃんがいたり、運転手付きの車でやって来る者もいるからだ。貧しき者を助け、平等を謳ってるんじゃないんですかね、と聞いてみたいところだ。
だいたいこれだけ宗教を信じている人口が多いなら、なんで巷でこんなに犯罪が起こるのかわからない。皆教会や聖堂に足を踏み入れた時だけ、聖人君子になってしまうのだろうか。それでも神父様というのは、一目置かれる存在だ。ある調査で、「尊敬できる職業」の第一位が神父だったという。まあ神父も職業と言えば職業である。神に仕える職業なのだから、まさに聖人君子に間違いない。
つれあいの家族の宗教は、舅姑、義姉夫婦とその子供がカトリックで、義兄嫁がプロテスタントだ。 信心のきっかけはこうだ。結婚後何年も子供ができなかった義姉が周囲の人の勧めで聖堂に通い出したところ、めでたく子供を授かり、夫婦で信じるようになった。産まれた子供は幼児の頃にすでに洗礼を受け、その後も親子三人で熱心に聖堂に通っていた。義姉は家族も勧誘したが、その誘いに乗る者はいなかった。
ところが、ある日舅がフグ中毒にかかって病院に担ぎこまれるという大騒動があった。当時小学校五年生の甥はおじいちゃんの容態を心配して、夜通し神様にお祈りした。無事退院してきたおじいちゃん、孫の涙ぐましいその話にいたく感動して、「私も聖堂に行こうか」と一言。舅の一言は鶴の一声である。
それまで「アーメンなんか嫌だよ」と毛嫌いしていた姑まで、聖堂に通うことになった。通い始めたらおもしろかったのか、姑は熱心に勉強をして洗礼も受け、今では初めて聖堂に来た人たちに、週に一回神の教えを講義するほどの入れ込みよう。舅の方は、「本当はあんまり興味ないんだけど、あいつが熱心だから付いて行ってやってるんだ」と言いながら、毎日曜日の早朝ミサを欠かさない。義兄嫁は結婚する前から教会に通っていたのだが、結婚後すぐ子供ができてずっと通う暇がなかった。
しかし子供も大きくなり、夫は日曜日も仕事で忙しいため、幼なじみの友人に勧められて、最近また教会に通い始めたという。ところで韓国の宗教というと統一教会が有名だけど、韓国内ではかなり異端と見なされており、マスコミは悉く無視を続けている。例の合同結婚式の時でも、むしろ日本のマスコミが大騒ぎしているということで話題になったくらいだった。
サイビ(似而非=エセ、インチキの意)宗教と言われる新興宗教が、社会問題になることもある。一九九二年十月二十八日二十四時に世界は終わるという『終末論』も、その一つだった。九二年の夏頃、終末論を信じる信徒らが職場をやめ、学校を退学し、離婚して家庭を捨て、また家や家財道具を売り払ったお金を教会に献金して、山奥の祈禱院に籠もって終末の日を待っていることが報道された。
終末論信徒は約二万人。その中の五千人ほどが、祈禱院に籠もるほどの熱烈信徒だと言われた。その教えとは、「十月二十八日夜十二時にイエスが空中再臨すると、地上の終末論信徒はイエスの元に生きたまま引き上げられ(携挙)、七年の間共に暮らす。その間地上では大混乱が起こり、終末論を信じない者はすべて滅亡する。
そして一九九九年にイエスが地上に再臨すると、新しい神の意志に基づいた『千年王国」が建設される」というものだ。もともと終末論とは、クリスチャンならば誰でも知っている聖書の中の重要な教えの一つ 、キリスト教に限らず仏教の末世思想など、どんな宗教にも必ず共通した教義があると聞く。つまり世が乱れた時、救世主が現れて古い世を終わらせ、新しい理想の国を創造する、という教えなのだ。
私はつれあいと一緒に、山奥の祈禱院に取材に行ったことがある。ちょうど警察が本格的に取締りに乗り出した頃で、牧師は教会を去り、五十人余りの信徒だけが残っていた。終末が訪れなかった場合、集団自殺の危険性があると言われて、地元の刑事が毎日欠かさず見回りにやって来ていた。
信徒の中には、終末論に傾倒した妻に悲観して夫が自殺し、九歳と六歳の子供を連れてこの祈禱院に入ったという女性もいるはずだった。
皆十月二十八日まで食べていけるだけのお金を持って祈禱院にやって来た者ばかりで、長い者はここでの生活が一年にもなるという。一日四回の礼拝以外は、皆ただ静かにその日を待っていた。半数以上が高校生のようで、 中には親に連れられて来たらしい子供や赤ちゃんもいた。高校生風の子たちは、皆真面目そうでおとなしそう。ビニールハウスの礼拝堂に入ると、一人の女の子がはにかみながら、私に座蒲団を勧めてくれた。
終末論を韓国に広めた李長林牧師のタミ宣教会の礼拝にも行った。毎夜十時から十二時まで礼拝が行われ、その後も希望者が徹夜祈禱を行っていた。礼拝は、ビルの四階で李牧師が直接伝道を行い、二階と三階は、四階に入り切れなかった信徒がそれをテレビ画面で観覧するようになっていた。賛美歌を演奏するのは、ギター、ベース、キーボード、ドラムの四人組の青年バンドだ。
このような光景は、韓国のどこの教会でも見ることができる。他の教会との違いは、賛美歌が非常に軽快なリズムで演奏され、歌詞がすべて携挙に関連した内容だということ。信者らは何度も何度も繰り返される賛美歌に次第に陶酔し、両手を振りかざしたり手を打ってリズムを取ったり、体を前後左右に揺らしながら、大声で合唱していた。
九月二日午前一時頃、タミ宣教会では「悪魔払い」の祈禱会が行われた。李牧師の前に、一人の若い女性が横たわった。彼女の体には、「十月二十八日携挙を信じない悪魔」がとりついているということだった。「ここはお前のいるべき所ではない。さっさと出ていけ。家賃も払わずに何でこの体に入ってきたんだ。出ていけ!」
李牧師が大声で叫ぶたびに、女性は体をブルブルと振るわせて恐ろしい形相で反発する。こうした遣り取りが三十分も続いただろうか、やがて女性は大声で泣き出し、不信の悪魔は彼女の体を離れたと宣言された。何だか巫堂が病人のお祓いをする光景によく似ていると思った。神の啓示を受けたという六歳の少年にも会った。
何でも三歳の頃突然笑い出したので、どうしたのかと尋ねると、「天国の川で遊んでたら、天使様が僕をくすぐったの」と答えたという。 この子が家でお祈りを始めると、家のガラスに十字架が映るのが見える。実際私も見たが、何か仕掛けがあるようには見えなかった。
お祈りをしながら遊んでいた少年が、突然「天使様が天国の葡萄を僕に下さったの」と手を差し出すと、その手からプーンと甘い香りが漂ってびっくりした。その子の影響で仏教を信じていた両親も、終末論を信じるようになったという。この子の場合は、どう見ても大人をだましているようには見えない、あどけない少年だ。それだけに、大人に話を聞くよりも説得力がある。
妻が自分の留守の間に全財産を処分して教会に献金し、一人息子を連れて教会に籠もってしまったという夫にもあった。家を捨て、家族を捨て、友達や学校を捨てて、人々はなぜ終末論に走るのか。何か不満やストレスがあったから、そこから逃げ出したんだろうか、といろいろ想像もしてみた。
十月二十八日が近づくと、終末論教会の中には分派も生まれ、神の啓示を受けたという者が他の信徒を引き連れて、山に籠もってしまったという話もあった。そして十月二十八日の夜、私も成り行きを見守るために、ソウル市内のある教会に出向いた。教会の回りには、信徒たちが集団自殺や放火などに走る危険があるとして、機動隊や消防車、救急車が待機するという重々しい雰囲気。
マスコミは一切シャットアウトされていた中で、私は取材で知り合った信徒の助けで何とか教会の中に入り、礼拝に加わった。教会に入るとすぐに、氏名を書いたシールを胸に貼るよう言われた。携挙する時は肉体だけが空中に引き上げられるので、残された衣類から誰が携挙したかを確認するためだという。
今になると笑い話のようだけれど、こういう雰囲気の中に入ってしまうとその言葉に反発を感じる余裕もない。入口では私服警官が二人、厳しい面持ちで信徒たちを見守っている。やがて賛美歌が始まり、陶酔した信徒たちは床に座ったままで体を揺らしたり、立ち上がって踊ったりしながら合唱。伝道師が合の手を入れるかのように叫ぶ。
「もうすぐです」「我々はイエス・キリストの花嫁となるのです」いよいよ午前零時が近づくと、全員起立して隣同士手を握り、『主よ栄光の国」と題された賛美歌を歌いながら携挙を待つ。 ・・・、しかし、零時が過ぎても何も起こらない・・・。泣きながら賛美歌を歌い続ける信徒、歌をやめる信徒、帰り支度を始める信徒などで、教会の中がざわついてきた。「携挙は必ず起こります、皆さん、歌い続けましょう」と叫ぶ伝道師。
その時突然入口から、信徒たちの家族が雪肌込んで来た。「いつまで馬鹿なこと言ってるんだ」「妻を返せ」「携挙なんて起こらないじゃないか」家族を連れ戻そうとする者たちが、信徒らと揉み合いになった。興奮した信徒の一人は壇上に駆け上がり、「携挙は明け方に必ず起こる! それまで祈り続けよう」と叫ぶと、「あれは悪魔だ、彼の言うことを信じるな」と怒鳴る信徒。「だまされた」と牧師に詰め寄る信徒。
家族同士の殴り合いなどで場内は大混乱。機動隊が踏み込んでやっと騒ぎは治まった。一部のマスコミでは、信徒たちがまるで精神異常者であるかのように報道していたけれど、実際に会ってみた人々は皆非常に真面目で敬虔なクリスチャンだった。
終夫論の信徒のほとんどが元々クリスチャンだったことからもわかるように、この教えは私のような無宗教の人間にとっては、いくら説明されてもよくわからず、だから取材中周囲の友人デ心配したように、洗脳されることもなかった。キリスト教に対する基本的な知識と終論をを理解することは到底不可能だったのだ。
終末論を布教した李長林牧師は詐欺などの疑いで連行され、その後教会も閉鎖された。心配された集団自殺も起こらなかったし、山奥に籠もっていた人々はそれぞれ家に帰ったのだった。 ろう。職場や学校を辞めてしまった人々はその後いったいどうなったのか気になるところだが、私も体調があまりすぐれず(ちょうど妊娠三~四ヵ月の頃だった)、フォローできなか
終末論を布教した李長林牧師は詐欺などの疑いで連行され、その後教会も閉鎖された。心配された集団自殺も起こらなかったし、山奥に籠もっていた人々はそれぞれ家に帰ったのだった。 ろう。職場や学校を辞めてしまった人々はその後いったいどうなったのか気になるところだが、私も体調があまりすぐれず(ちょうど妊娠三~四ヵ月の頃だった)、フォローできなかった。
その後も新聞の三面記事の片隅に、どこだかの教会で「何月何日携挙説」を唱えて、信者が祈禱しているという話題が小さく載っているのを、時々目にした。どうやらまだまだ懲りない面々がいるらしい。 ちょうど同じ頃、やはりプロテスタントの分派である「ものみの塔」教会に通う妻への腹いせに教会に放火して、十四人の信徒が死亡するという事件もあった。
終末論やこの放火事件の報道を見た私の母は、「韓国人って怖いわねえ」と言う。こういう騒ぎがあるたびにやっぱり日本では、韓国人を一括りにして「怖い」と言いたがる人が多いんだろうな、と私はまた溜め息をついてしまった。
ソウルは今日も快晴(1998戶田郁子)
●15. 幸せな巫堂はいない?-仏教の民間信仰
クリスチャンも多いけど、韓国には仏教徒も多い。クリスマスと並んでお釈迦様の誕生日 (旧暦四月八日)は国民の休日だ。この日は安突島広場から市内の曹溪寺まで大規模な提灯行列が行われるし、全国のお寺にも信徒の持ち寄った蓮の花をかたどった美しい提灯がいっぱい下げられる。
キリスト教同様、仏教にもさまざまな宗派がある。まあこれは日本にも共通していることだが。しかし私は信者ではないので、詳しいことはわからない。熱心な信者は毎日お寺にお参りしてお祈りするし、旧暦の一日と十五日には遠くのお寺まで出掛ける。こんな時は完全にピクニック気分だ。
クリスチャンもそうだけど、仏教の方も信者の大半が女性。おばちゃんたちだ。やっぱりこういうおばちゃんたちって、家で満たされてないのかな、などと私は想像する。夫は毎晩酒を飲んで浮気や賭博にうつつを抜かし、大学受験を控えた息子は成績が思うように上がらず、大学に合格したとしても入学金の工面も大変だし・・・、などとそれぞれ深刻な、しかも似たような人生の悩みを持つ者が多いように思う。
私がソウルで留学生活を始めたばかりのころ、下宿のおばちゃんは熱心な仏教信者だった。ある日江原道五台山のお寺にお参りに行くんだがいっしょに行くか、と私を誘ってくれた。近所の信者仲間でバスを仕立てて、早朝に出発して日帰りするというかなりきついスケジユールだった。
行くのは全員が女性。五十代が一番多かった。バスに乗った途端にお菓子が配られ、歌が始まる。これからお寺にお参りに行くという厳かさなど微塵もない。バスの狭い通路を駆け回りながら踊るおばちゃんもいる。互いに気心の知れた信者仲間なのだ。念のため、お酒は一滴も入っていない。
歌うのは懐かしい演歌やら最新ヒット曲やら、とにかく皆元気なのである。大声で笑ったり合の手を入れたり、興に乗って何人かが立ち上がって踊り始めると、大型バスも揺れる。 ヒイッ、高速道路で百キロ以上も出してるのに・・・。何時間もの激しい大騒ぎの末到着すると、それぞれお寺にお参りをすませ、そこで準備された食事を頂く。
もちろん肉料理はなく、山菜がメインになった精進料理だ。韓国では普通どんな料理にも唐辛子を使うものだが、唐辛子の赤い色は鬼神(悪い鬼やお化けという意味だけでなく、先祖の霊や仏様まで含む)を追い払うと言われるため、寺や祭祀(法事)の料理には一切唐辛子を使わない。
一休みしたらソウルに向けて出発だ。私などこれだけで疲れてしまってもう眠いのに、おばちゃんたちはパワー全開だ。何しろ夫や家のごたごたから久し振りに解放されたのだ。 い切り自由を満喫してやろうと燃えている。旅行会社のパックツアーを見ると、「聖地巡礼」というのがよくある。
クリスチャンはエジプトやイスラエル、あるいはローマなど。仏教徒はタイやインドなどの東南アジアだ。年老いた両親に旅行をしてもらおうという「孝道(孝行)観光」としても、聖地巡礼コースは人気があるようだ。これなんかもきっと、皆遠足気分で参加するんだろうな、と思う。 それにしても、「聖地巡礼」も「孝行観光」も、日本では旅行商品として絶対に成立しないものだろう。
仏教の信者もクリスチャン並みにいると聞くから、全人口のやはり四分の一ほどになるのだろうか。つれあいの家族には仏教徒はいないが、私たちが住んでいたオリンピック競技場の隣にあるアパートで、電気代ガス代を踏み倒していった前の住人は、仏教徒だったようで、よくお寺から、いつ何の行事があるというダイレクトメール(?)が来ていた。
少し前の統計になるが、「女性仏教新聞」が九二年に創刊された時のアンケートによると、 なぜ仏教を信じるかという質問には、「仏法を通して自己修行を行うため」六十七%「福を授かりたい」十七%「煩わしい現実を忘れるため」十二%という結果が出ている。寺にお参りする回数は、「行きたい時」「週一回」「月一回」がそれぞれ三十%だった。
子供の頃からよくお寺に行っていたという者は四十二%。家族全員が仏教信者であると答えた者は五十一%もいた。ところでキリスト教だけでなく仏教の方にもいろいろとサイビ(えせ)がある。元々韓国には巫俗信仰(シャーマニズム)のような土着の民間信仰があり、仏教やキリストが普及する過程で、かなりこれとも結び付いている。
例えば流行る教会というのは、不治の病が治った、歩けなかった人が歩けるようになったなどの話で信徒を集めている。それは仏教も同じだ。巫俗信仰の根底にあるのはまさにそれで、極度のエクスタシー状態に陥った時に、信じられないような力や現象が起こるのを利用して病気を治したり、奇跡を起こしたりするのだ。
こういったことはキリスト教や仏教の教義からずれることなのだが、目の前で奇跡を見た人々はより強くその宗教を信じるようになるのは当然のことでもある。私とつれあいとの出会いは、巫堂(シャーマン)の取材がきっかけだった。その後も魔黙大学の総運範教授に案内していただいて、何人かのシャーマンに会った。
シャーマニズムは、韓国では長い間迫害を受けてきた。朴正熙政権のころに始まった「セマウル(新しい村)運動」は、立ち遅れた農村に近代化をもたらしたが、一方で伝統的な民俗芸能や民間信仰などが否定された。例えば家に病人が出て、シャーマンを呼んでお祓いをしてもらっている最中に、近所の人の通報で警官が飛んで来て大騒ぎになったこともよくあったそうだ。
今でも敬虔なクリスチャンや仏教徒は、巫堂は迷信だと頭から決めつける。私とつれあいが巫堂に会いに行くなどと言おうものなら、姑や義姉が必ず嫌な顔をする。徐教授はすでに四十年近くもシャーマンの研究を続けていらっしゃる方で、シャーマニズムに関する本もたくさん執筆されている。それによると、巫堂になるきっかけは大きく三つに分けられる。
「家庭環境の中で愛情が欠如していた場合」が七十%。例えば幼い時に両親が離婚したり、死別したり、あるいは結婚生活がうまくいっていないなどの原因を抱えている場合だ。「家族(親)が巫堂である場合」が二十% このような世襲巫堂は、特に済州島に多い。「雷の音などの強い衝撃を受けて」が五%。早い話が、幸福な者は巫堂にはなれないということだ。
スンレンクリスチャンが神の啓示を受けるというのと同じように、巫堂もある日突然仏様や自分の祖先、あるいは全く関係ない白い顎髭を生やした仙人とか歴史上の有名な人物、例えば李舜臣将軍などが夢枕に立って、啓示を授ける。巫堂はそれぞれ自分の守護霊をお祀りしている。ある者は子供だったり、ある者は山の神様や自分の祖先だったりする。
そうして、クッと呼ばれるお祓いを行って病人を治したり、 未来を占ったりする。クッのやり方は巫堂によって千差万別だし、地方によっても特色がある。マッカーサー元帥が憑いているという巫堂は、お供えにケーキやウィスキーやバナナなどを準備していたし、子供の霊が憑いている者は、飴やお菓子を喜ぶ。
人々が巫堂を訪ねるのは、悩みごとがある時。付き合っている相手との相性はどうか、心身の悩みや病気、あるいは家庭不和など、単に座って占いだけやってもらう場合と、お供え物を準備して大掛かりなクッをやってもらう場合とがある。私も何度か巫堂に占ってもらったことがある。後になって「そういえば当たってたな」と思うこともいくつかあった。子供の霊の憑いた巫堂に「もうすぐ子供を授けてあげる。
男の子だよ」と言われたのもやっぱり当たっていた。巫堂はそれぞれに波瀾万丈の人生を送っている人が多い。私は民俗学者じゃないから専門的な知識は何もないけれど、巫堂になった人たちの生き様にはとても興味を覚える。ある巫堂に聞いた話によると、相談事に来る者の中には時には犯罪者もいて、巫堂がこっそりと警察に通報して捕まる場合もあるのだそうだ。
悩みを相談に来て逆に捕まってしまうとは、なんだかかわいそうな気もする。しかし社会的に差別を受けてきた巫堂にとっては、たまにこうして警察にも協力しなければならない時があるそうだ。聖堂に自分の罪を告白しに来た人の中に犯罪者がいたらどうするのかと姑に聞くと、その告白は神に対する告白なのだから、秘密を知った神父も決して通報したりはしない、という答えだった。
逆に考えると、神父は社会的な力を持っているからそういうことができるのであって、個人営業の零細な巫堂は、やはり「寄らば大樹の陰」なのである。カトリックもプロテスタントも仏教も皆組織が大きく、放送局や新聞社を持っているが、 巫堂はそうはいかないのだ。組織が大きいと言えば、統一教会もすごい。とにかく財力がある。
日本では霊感商法だの何だのと騒がれているけれど、そのお金がウォンになって韓国に来ると思えば、大したものである 。大学だって持ってる。広大な土地もあるしビルもある。アメリカにもかなりの財産があるそうだ。ムンソンミョン以前、中国吉林省にある延辺大学に行った時、文鮮明の寄付でもって建てられた図書館があると聞いた。
「そんな、だって統一教会は反共じゃないですか」私はびっくりした。「それは知っています。でも『白い猫でも黒い猫でも、鼠を捕る猫はよい猫だ』と言いますからね」 なるほど、金の力はイデオロギーにも勝るのだ。合同結婚式で、言葉のほとんど通じない外国人と結婚する人たちに、不安はないかと聞いてみたことがある。
「同じ真理を学んでいる人なので、不安はありません」「正直言って複雑な気持ちですが、神様を中心にして考えれば不安はありません。感謝しています。世界人類は皆兄弟ですから」「神様が願って下さっていることです。文先生と同じ韓国の人で感謝しています」「同じ信仰、同じ目的を持っていますから」「不安があったら、初めから合同結婚式に申し込むことなんてできません。どういう人でも受け入れられる心の準備がなければ、申し込めません」「ゆだねていました」
それでも相手が日本人の人は、外国人じゃなくてホッとしたという感想を述べる者も多かった。これだけ多くの人が信じて、しかも自分の人生を託そうとしているのを見て、私はとても不思議だった。自分なりの価値観とか人生の悩みとかは何もないんだろうか。そんなものはすでに超越してしまったんだろうか。
どんな宗教でも、勧誘する側は自分の信じる宗教が絶対だと自信を持っている。そして信じていない私のような人間が、すごくかわいそうに見えるらしい。終末論の信徒もそうだった。「あなたも私たちと一緒に携挙しましょう」私の手を握らんばかりにして真剣に語るその態度は、それまで私が経験したどの宗教勧誘よりも熱が籠もっていた。どうしてそこまで信じ切れるんだろうかと不思議に思いながらも、一方ではそんな純粋さが羨ましくもあった。
世俗の欲から抜け出すことのできない私は、宗教とは無縁の生活を送らざるを得ないのかもしれない。家にいるとキリスト教、カトリック、仏教、その他いろいろな宗教の勧誘がベルを鳴らす。 扉を開けてしまったら、もう捕まってしまう。声を荒げて追い立てることもできず、困ってしまう。時々、韓国語がよくわからないふりもしてみる。わざと日本語で、「パンフレットを貰っても、私は読めないから」なんて言ってみる。
ところがいつだったかは、「あら、日本人ですか。私も日本に住んでたんですよ。それじゃあこの次は、日本語のパンフレットを持って来ましょうね」と日本語で答えが返って来て、面食らった覚えもある。相手がしつこくてどうしようもない時は、最後の手段でこう言うしかない。「すみませんけど私、日本人なもんで神道を信じてます」
ソウルは今日も快晴(1998戶田郁子)
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