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日本初のがん告知 「明治維新の立役者」岩倉具視を支えた強靱な胆力と希代の名医
早川智・日本大学総合科学研究所教授
2024年10月5日
かつて500円札の顔は岩倉具視だった=2021年11月4日、篠口純子撮影
医師生活も40年を過ぎると、診療の上で随分変わってきたことが多い。束子(たわし)のようなブラシによる手術前の手洗いや、術後に続く毎日のガーゼ交換とベッド上安静、連日の抗菌薬点滴といった話を研修医にすると怪訝(けげん)な顔をされる。もう一つ、電子カルテの普及によって診療記録はコメディカルや他科の医師にも分かるように分かりやすい日本語で書くのが原則となり、達筆な筆記体のドイツ語で診察所見や診断名を書くという明治時代からの伝統も途絶えてしまった。
患者さんに対する説明においても同様で、大きく変わったのは「がん告知」である。現代では手術や投薬前に患者さんのインフォームドコンセント(十分な説明に基づく同意)を取るのが当然となった。抗がん剤治療や免疫療法が21世紀になってから大きく進歩し、がんの告知イコール死の告知ではなくなったことも大きいだろう。
「あなたは死を恐れる方ではない」
今ではまずありえないが筆者が研修医だった頃、早期でない限りは患者さんに、がんの告知をしなかった。「放置すると悪性化する」とか「極めて悪性度の高い前がん状態」とか言って手術の承諾をもらったことはあるが、がんであることは伝えないものだった。その点、一番困ったのは再発したり、手術が不能だったりする患者さんで、「術後の癒着」とか「薬の副作用」といった苦し紛れの説明をしたことを覚えている。
岩倉具視=国立国会図書館蔵
日本で最初に西洋医学的ながん告知を受けたのは明治の元勲、岩倉具視である。
東京帝国大学(現在の東京大学)のお雇い外国人医師だったエルウィン・フォン・ベルツは、明治16(1883)年初め、ドイツ公使館で一人の若い貴族から父親の病気について相談を受けた。年齢が52歳(これはベルツの聞き誤りで実際は満57歳)で、数カ月前から食事がのみ込みにくくなったという。ベルツはすぐに受診するよう勧めるが、何の連絡もなく半年ほどが過ぎた。すると宮内省(現在の宮内庁)から、京都で静養している岩倉公爵を往診し、東京に連れて帰るようにという依頼があった。ベルツが往診すると岩倉はやせ細り、著しい衰弱状態にあった。進行した食道がんだったのである。
ベルツは岩倉の全身状態を詳細に診察した後、「お気の毒ですがご容体は今のところ絶望的です。これを申し上げるのは、閣下がそれ(告知)を望んでおられるからであり、またそれを知りたいわけがあること、そしてあなたが死を恐れる方ではないことを存じ上げているからです」と話した。岩倉は深く感謝し、「これは一身のことではない」として、未熟な国家組織の後継者に目していた伊藤博文が憲法調査の外遊から帰るまで自分の生命が持つかどうかを尋ねた。ベルツは「全力を尽くして治療します」と約束したが、1カ月後の同年7月20日、遺言を参議・井上馨に託して死去。日本で初めての国葬が執り行われた。
敵方にも一目置かれた敏腕の公家政治家
岩倉具視=国立国会図書館蔵
岩倉具視は文政8(1825)年、前権中納言・堀河康親の次男として生まれた。幼少より俊英をうたわれ、14歳で村上源氏久我家庶家の岩倉具慶(ともやす)の養子となる。養家は下級公家ながら、安政元(1854)年には孝明天皇の侍従となる。しかし公武合体をもくろみ、孝明天皇の妹・和宮(かずのみや)と徳川14代将軍・家茂(いえもち)との婚姻を進めたために佐幕派の急先鋒(せんぽう)と目され、岩倉排斥の機運が高まる。文久2(1862)年8月、帝から辞官落飾を命じられ、西賀茂の霊源寺、洛西の西芳寺を経て洛北・岩倉村に蟄居(ちっきょ)することになった。その後、孝明天皇の逝去により政界に返り咲くことになる。
岩倉具視が幕末の一時期を過ごした主屋。現在は国指定史跡・岩倉具視幽棲旧宅(京都市左京区)として一般公開されている。©植彌加藤造園 撮影/相模友士郎
上記主屋からの眺め。©植彌加藤造園 撮影/相模友士郎
明治維新では薩長に密勅を下して討幕を正当化し、王政復古の大号令を実現する。維新政府では参与、議定、副総裁などを歴任。明治4(1871)年に外務卿を経て右大臣になると、日米修好通商条約改正交渉の特命全権大使として使節団を率い、欧米へ向け渡航する。帰国後は征韓論を退けて西南戦争を乗り切り、さらに憲法制定を目指した。岩倉は頭脳明晰(めいせき)なだけではなく公家には珍しく胆力があり、修羅場を乗り越えてきた志士や敵方である幕臣にも一目置かれたという。
死の前日、かすれた声で憲法を…
一方、岩倉晩年の主治医を務めたベルツは1849年、南ドイツに生まれた。普仏戦争の軍医を経て76年、東京医学校(現在の東京大学医学部)教授に招聘(しょうへい)された。退官するまでの26年間に多くの日本人医師を育て、診療や教育の傍らさまざまな臨床的研究を行い、業績は肺ジストマ症の病原体や蒙古斑(もうこはん)の発見、温泉療法の紹介など極めて多岐にわたる。
岩倉に対する病状説明で、ベルツは「告知に対する患者の強い希望」「余命認知を望む正当な社会的理由」「告知を受け止められる強い精神力」という、必須の条件を確認して告知を行った。さらに死に至る数週間のターミナルケア(終末期医療)を誠実に行っている。
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西の河原公園に建つベルツ博士の胸像=群馬県草津町で2023年12月16日午後1時27分、西本龍太朗撮影
くしくもベルツが亡くなった1913年、世界で初めて開胸による食道がん切除と食道再建術が米国の医師トレックにより成し遂げられているが、明治初期には放射線療法も化学療法もなかった。岩倉は死の前日、かすれた声で大日本帝国憲法に関する意見を口述する。かくのごとき名医と大政治家の邂逅(かいこう)があって、初めてがん告知ができたのであろう。
医療の進歩がもたらしたがん告知の「現在」
21世紀現在、がんは日本人の死因の第1位であり、放置すれば生命に関わる病気であることは論を俟(ま)たない。また、平均寿命が延びたこともあって、全ての日本人のほぼ半数が生涯のうちに何らかのがんに罹患(りかん)する。
しかしながら冒頭で述べたように不治の病ではないし、がんと診断された大半の患者さんは無事に治療を終えて社会復帰する。昭和が終わって平成になった1990年のわが国のがん告知率は15%であったが、2016年の国立がん研究センターの調査では94%に達している。
背景には、分子標的薬など薬剤デザインの進歩により副作用が少なく、効果の高い抗がん剤が出現したこと。最初の治療(ファーストライン)が効かなくなっても二の太刀三の太刀(セカンドライン、サードライン)で再発がんを治療し、患者さんの延命や苦痛の緩和が可能となったこと。また、かつては夢物語だった免疫療法がチェックポイント阻害薬やCAR-T(カーティ)細胞療法によって具体的な成果を出し保険適用になったこと。さらに欧米では新型コロナウイルス感染症対策として登場したメッセンジャーRNA(mRNA)ワクチンが難治性の膵臓(すいぞう)がんに対する切り札として注目されていること――などがあるだろう。こうした状況の変化から、かつては医師の裁量権のうちにあった患者さんやその家族への告知は、02年の最高裁判決により医師の義務とされるに至った。もちろん、告知を行う医師には十分な配慮が必要であるし、患者さんと家族の希望を十分に聞くことが必要になる。
だが、残念なことにわが国では(外国でも)、「がん告知」をされショックを受けている患者さんに対して、効果が立証できない免疫細胞療法やビタミンC大量点滴、抗寄生虫薬イベルメクチンの投与など正統な医療と相反する補完代替療法を自費で行う医療機関も存在する。その場合、患者さんに多額の金銭負担をかけるのみならず、正統な治療を受ける機会を奪うことにもなりかねない。
実際、いかに医学が発展しようとどうしても治癒不可能な進行がんの患者さんもおられる。そのような場合には正確に診断した上で「がんの告知」に加えて「予後の告知」を行い、適切な緩和医療のもとで、残された日々を有意義に過ごしていただくことになる。そのためには医師と患者の間の強い信頼関係が必須である。
現在から100年以上も昔、短い時間に岩倉との関係を構築できたベルツ博士はやはり「日本近代医学の父」の名に違(たが)わぬ希代の名医であろう。
<参考文献>
・エルウィン・ベルツ トク・ベルツ 菅沼竜太郎訳「ベルツの日記」上・下(岩波文庫)1979/2/16
・大塚桂「明治国家と岩倉具視」(SBC学術文庫)2004/6/1
・吉良枝郎「明治期におけるドイツ医学の受容と普及―東京大学医学部外史」(築地書館)2010/3/30
・服部敏良「近代諸家の死因」(吉川弘文館)1986/6/1
※岩倉具視幽棲旧宅の詳細はこちら https://iwakura-tomomi.jp/
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1958年、岐阜県関市生まれ。83年日本大学医学部卒業、87年同大大学院修了。同大医学部助手、助教授、教授を歴任し、2024年4月より現職。著書に「ミューズの病跡学Ⅰ音楽家編」、「ミューズの病跡学Ⅱ美術家編」「源頼朝の歯周病―歴史を変えた偉人たちの疾患」(診断と治療社)など。専攻は、産婦人科感染症、感染免疫、粘膜免疫、医学史。