+神をたたえよう。神は偉大、すべては神に造られた。
おはようございます。
今日は年間第27主日です。
愛の主・イエス・キリストと神の母聖マリア、聖母の配偶者聖ヨゼフ、諸聖人の大いなる祝福がありますように!
また、大天使とすべての天使、私たちの守護の天使が今日も皆さまを見守り平和でありますようお祈りします。
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マタイによる福音
<ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。>
そのとき、21・33イエスは祭司長や民の長老たちに言われた。「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。34さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。35だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。36また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。37そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。38農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』39そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。
40さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」41彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」42イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。
『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』
43だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。」(マタイ21・33-43)
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教会の教えです。
今日の福音のぶどう園の農夫のたとえは、イエス様が誰であり、イエス様に対する反対者が究極的にどのような席に立ったのかを理解するにおいて非常に重要です。 このたとえがイザヤ書と詩篇の2つの旧約聖書の御言葉を引用することから、このような意図がさらに明らかになります。
旧約の預言者に対するイスラエルの民の持続的迫害の歴史を背景に展開されるこのたとえが、究極的に見せようとする切迫した真実は何だったのでしょうか。 スイス出身の神学者ライムント·シュヴァーガー神父は、『生贄は必要なのか。』で次のようによく要約しています。 「人々の心が頑固になり、惑わされることでイエス様を神の啓示者として理解すること、そしてイエス様の歴史的行動を通して明らかになった神の真理が損傷する危険にさらされているということである。」
このような「頑固さ」と「惑わされ」をシュヴァーガー神父は、模倣欲望にともなう集団的虚偽と暴力の過程であると解釈します。 そしてこの比喩に引用された詩篇118編22節の御言葉「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。」にたとえて、全体の核心的な価値を付与します。 「捨てた石」が意味するのはイスラエルの民による「御子の排斥」であり、これはむしろ集団的眩惑に隠蔽されていた真理が明らかになるようにしました。
ぶどう園の農夫のたとえの意味に対するシュヴァーガー神父の結論は、この御言葉が「その時彼ら」が、今日の私たちに向かっていることを悟らせます。 「暴力を振るう者は、自分たちの攻撃性を他の人に投影するという事実を意識していない。 しかし啓示を通してこのような隠された傾向が明らかになれば、人々は決断に直面することになる。 つまり、自分の行動に対する真実を認めるのか、それとも今から「意図的な頑固さ」の中で、その真実を拒否し、嘘つきと偽善者になるのかを決断しなければならない。」
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いくら人を騙すことができても例外なくすべての人は死んで主の御前で裁かれます。この世から真実な人となれますように、聖霊、きてください。