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毎日新聞 2023/4/26 地方版 有料記事 957文字
街に活気が戻ってきた。コロナ禍も一段落ということで、出勤や通学の人たち、食事や映画に出かけるグループ、それに外国人観光客が増えてきたのだ。
「やっぱりにぎやかなのはよいものだな」と思っていたら、あるときちょっとヒヤリとすることがあった。大勢の人が乗っていた電車が駅で止まると、さらにたくさんの人が乗車しようと押し寄せた。当然のことながら、車内は押し合いへし合いになる。電車はなんとか発車したが、一人が「押すなよ」と苦情を言うと、そのそばの人が「おまえこそ押すな」と反発。「いや、おまえが先に押した」「そっちだ」と口げんかが始まったのだ。
言い合いはしばらく続いたが、誰かが「やめましょうよ」と言ってようやく収まった。私は「ああ、電車の混雑が戻ってきたら、こういう車内のいざこざまで復活してしまったんだな」と複雑な気持ちになった。
言うまでもないが、人間は一人では生きられない。何かの仕事をするにも、ある程度は近づいて、会話をしながら進めていかなければならない。友情も恋愛も人と人とが接近しなければ始まらない。
ところが、人間同士の距離が縮まりすぎると、必ずトラブルが起きる。相手を傷つけるようなことを言ってしまったり、相手の一言で落ち込んだりする。この電車内の人たちのように、激しく攻撃し合うような状況に発展することもある。
「接近したがるのに、近づきすぎると傷つけあってしまう」という人間の性質は、心理学で「ヤマアラシのジレンマ」と呼ばれる。寒さを防ぐために体を寄せ合ったヤマアラシがトゲでお互いに傷つけあってしまう、という例え話を使って、人間の心を説明したものだ。
街や電車内に大勢の人が戻ってきて、とてもうれしい。でも、たくさんの人がいるからこそ、ぶつかり合いやすれ違いなどのトラブルも起きてストレスが増す。今はやりの人工知能なら「人が少なくてトラブルがないか、人が大勢いてトラブルに耐えるか、どちらかを選びましょう」と回答するかもしれない。でも人間にはそんな選択はできない。矛盾があると分かっていても、「人が大勢で活気があって、それでもトラブルやストレスが少ない状況があるはず」とわがままな願いを抱いてしまうのだ。
活気が戻った街で、みんながどう気持ちよくすごせるか。もう一度、考えてみたい。(精神科医)