+死者の日 祝日に、神に賛美をささげよう。
おはようございます。
今日は死者の日 祝日です。
愛の主・イエス・キリストと神の母聖マリア、聖母の配偶者聖ヨゼフ、諸聖人の大いなる祝福がありますように!
また、大天使とすべての天使、私たちの守護の天使が今日も皆さまを見守り平和でありますようお祈りします。
*********
死んだすべての人を記憶する「死者の日 」は死んだすべての人の霊魂、特に煉獄の霊魂が一日も早く神の国に入るよう祈る日だ。 伝統的に教会は今日3回の慰霊ミサを奉献してきたが、これは15世紀末ドミニコ修道会でクリスマスのように3回のミサを奉献した風習に由来する。 1748年、ベネディクト14世教皇がこの風習を認めて特典に拡大させた。 教会は「諸聖人の祭日」である11月1日から8日まで墓地を訪れ、亡くなった人々のために祈ることを推奨している(今日の典礼から)
ヨハネによる福音
<わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。>
そのとき、イエスは人々に言われた。6・37「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。38わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。39わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。40わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」(ヨハネ6・37-40)
*********
<毎日を花畑として飾ってください>
「人生授業」という本を読んでいます。 ホスピス運動の先駆者であるエリザベス·クイブラー·ロスと彼女の弟子デビッド·ケスラーは、死の直前の何百人もの人々にインタビューしました。(注、多分日本では「死ぬ瞬間ー死にゆく人々との対話」)」という本かもしれません)
死を目前にした人々が残した物語の共通点は、一様に「生きていることを最大の祝福と考えなさい。毎日をお花畑で飾りなさい。毎日を充実した喜びで編んで生きなさい。」でした。
死を控えた人々が最も後悔しているのは、「人生をそんなに深刻に(悩んで?)生きるべきではなかった。」ということだそうです。 私たちは皆、星の巡礼者であり、ただ一度の楽しい遊び(喜び?)のためにここに来たことを思い出させます。 私たちの目がきらきらと輝いていなければ、どうやってこの美しい世界を反映できるのだろうか?と言いながら、このように叫びます。
「今この瞬間を生きてください。」
「人生で最も大きな喪失は死ではありません。 最大の喪失は、私たちが生きている間に、私たちの中で何かが死んでしまうことです。」
「人生の最後の瞬間に、切望するようになること、それを、今してください」
どれほど熱心に、そして後悔のない人生を送ったのでしょうか?自分に近づいてきた死を眺めていたエリザベス·クイブラー·ロスはこう言いました。
「私は天の川に踊りに行きます。 そこで歌いながら踊ります。」
2004年8月、78歳で亡くなった著者エリザベス·クイブラー·ロスの葬儀の時のことです。 2 人の女の子が彼女の棺桶の前で小さな箱を開けました。 箱の中からは一匹のアゲハチョウが飛び立ちました。 同時に弔問客があらかじめ受け取った紙袋からも、数多くの蝶々が一斉に羽をはためかせながら青空に飛び上がりました。
今日は死者の日です。 言葉通り、私たちより先にこの世を去った霊魂のために祈り、その霊魂が神の慈しみの胸の中に憩うことを願う日です。
あわせて、いつか私たちの取り分になる死を黙想しながら、謙遜で誠実に、この世の人生を生きていくと誓う日です。
エリザベス·クイブラー·ロスの思う通り、この世の人生がすべてではありません。 いつか私たちの肉体が消滅するその瞬間、私たちの霊魂は一羽のきれいな蝶のように、永遠の神様の慈しみの胸の中に舞い上がるでしょう。
結局、私たちがそんなに恐れる死は、他でもなく永遠の父の家に渡る生命の橋です。 その瞬間は、私たちの人間的な弱さとそれによってもたらされた多くの過ち、その多くの罪悪が主の愛の中できれいに洗われる瞬間になるでしょう。
これ以上の彷徨も、これ以上の苦しみも、これ以上涙もなくなるその瞬間、あらゆる束縛からひらひらと立ち上がった私たちは、夢に描いた大自由を得て、永遠の父の国に飛び立つことになるでしょう。
*********
自分の居場所を花畑にて造り、毎瞬間を死を目前に置いたように、目をさまして生き、この世であらかじめ死と復活を生きることができますように、聖霊、きてください。