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毎日新聞 2023/6/2 06:00(最終更新 6/2 06:00) 有料記事 1698文字
手描きの地図を広げ、ニューギニア戦の体験を語る中野清香さん=長崎県長与町の自宅で2023年5月23日、國枝すみれ撮影
心不全で3度目の入院をしていた104歳の中野清香さんが退院したと聞き、長崎県の自宅に急行した。5月下旬、日差しはもう暑い。
太平洋戦争で人肉食まで起きた東部ニューギニア(現パプアニューギニア)の戦場を生き延びた中野さんは、座卓に手描きの地図を広げ、ワープロ打ちした手記を用意して、私を待っていた。すごい気迫に、痩せていても大きく見える。
「1弾で敵1人を必ず倒せ、20メートルに近づくまで打つな」と命令された。「無理ですよ。それまでにやられてしまう。1発撃てば地形が変わるぐらい砲撃される。勝負にならない」
上官が動けない傷病兵に手投げ弾を渡し、「分かっとるな」と繰り返した。自決を迫っているのだ。戦没者名簿を目の前に広げ、死亡日時の一部や場所が「不明」と記載された兵士を指さす。
イナゴを捕まえて羽をむしり、そのまま食べた。水たまりに頭を突っ込んで倒れている兵士はまだ生きているのに、誰も助け起こさない。ウジがわく死体の隣で眠っても死臭が気にならなくなった。
「戦争が終わった時、喜怒哀楽の感情がすっかり抜けていた。今考えるととても恐ろしい」
「まったくあの戦争は…」
中国戦線にいたころの中野清香さん=本人提供
「疲れてませんか。明日出直しましょうか」。何度も尋ねるが、さえぎられる。
「声が出なくなるかと思ったけど、大丈夫だ。毎日、お経を読んで訓練しているからね」
死因の8割以上が餓死、病死だったというニューギニア戦。「まったくあの戦争は……」。中野さんの言葉が途切れた。胸が詰まる。私の大叔父、新井進もニューギニアで死んでいる。
「あのとき日本が負けて良かったと思うことがある。もし勝っていたらまた戦争を始めていた」。大本営だけでなく、国民もメディアも浮かれただろう。
「戦場体験放映保存の会」の田所智子事務局次長(56)は、元兵士から、怒りや無念の気持ちを抱えて死んだ戦友の話をたくさん聞いてきた。
生還者自身も「(殺し合いをする)戦場で望んだ自分ではいられなかった」「戦場で起きたことに納得ができない」などと感じていた。だが、こうした戦場の記憶は多くの元兵士たちと共に社会から消えていった、という。
田所さんは言う。「ロシアのウクライナ侵攻が起き、大半の日本人はウクライナ人に感情移入します。一方で、多くの元兵士が感情移入するのは、招集されて、ろくな装備もなく、知らない戦場に送られて死ぬロシア兵なのです。身につまされる、と」
一番言い残したいこと
ニューギニアで通信兵だった山口県の吉賀清人さんは4年前、98歳で亡くなった。遺言で「残して」と頼んだ紙袋に手記と戦友が書いた本があった。青いマーカーが引いてある。
「200万人とも言われる若い人たちが徴兵されて異国の地に命を散らせました。その一人一人それぞれに、無念に泣いた家族・友人があり、さらに多くの日本の市民や、それとは比較にならない数のアジアの人々を泣かせたという事実は決して忘れてはならない」
2010年11月、パプアニューギニアで遺骨収集団に参加する中野清香さん=本人提供
日本人の戦争観の下地となった元兵士たちの戦場の記憶が失われたとき、日本人は再び戦争プロパガンダに吸い寄せられるのではないか――。
静かな居間で向き合った中野さんに、取材の最後に尋ねた。数少ない元日本兵として一番言い残したいことは何ですか、と。
「あの戦争のどこが間違っていたのか、検証していない」
口にしたのは、戦後の戦争調査会の頓挫だった。
終戦から3カ月後、幣原喜重郎首相は、どこで間違えたのかを突き止め、反省するために、戦争の実態と敗戦の原因を調査し、結果を公開すると決めた。軍幹部や政治家だけでなく、経済人や文化人にもヒアリングしようとした。
だが、原因追究や処罰は国際軍事法廷の仕事と考えるGHQ(連合国軍総司令部)の諮問機関によって1年間で中止させられた。日本政府はその後、反省する機会を持とうとしなかった。そして今も。
「検証していない」。元兵士はもう一度、繰り返した。着色レンズの眼鏡の下から、しかとこちらを見据える。
104歳は怒っていた。【デジタル報道グループ・國枝すみれ】
<※6月3日は休載します。4日のコラムは政治部の村尾哲記者が執筆します>