소수 서원은 본래 중종 37년(1542)에 주세붕이 안향(安珦)의 사우(祠宇)를 세워 선비들이 공부하는 장소로 삼았다. 그후 이퇴계의 건의에 따라 명종 5년(1550)에 소수 서원으로 사액(賜額)되었는데, 우리 나라 서원의 시초가 되었다. 《연려실기술(燃藜室記述)》 사전고(祀典考).
명종 | 4 | 1549 | 기유 | 嘉靖 | 28 | 49 | 白雲洞書院에서 강학하다. ○ 2월, 향교에서 釋奠을 행하다. ○ 4월, 小白山을 유람하다. ○ 9월, 병으로 사직하다. ○ 12월, 監司에게 白雲洞書院의 사액과 書籍의 頒賜를 위한 계문을 요청하다. ○ 세 번이나 감사에게 사직을 요청하였으나 회답이 없자 그대로 귀향하다. |
명종실록 10권, 명종 5년 2월 11일 병오 2번째기사 1550년 명 가정(嘉靖) 29년
이기 등이 풍기의 백운동 서원에 편액과 책을 내려 보낼 것을 아뢰다
○領議政李芑、左議政沈連源、右議政尙震、禮曹判書尹漑、禮曹參議徐固議: "豐基 白雲洞書院, 黃海道觀察使周世鵬所創立, 【世鵬, 豐基郡守時, 創此書院。】 其基乃文成公 安裕 【名珦, 避諱稱裕。】 所居之洞, 其制度規模, 蓋倣朱文公 白鹿洞之規也。 凡所以立學令置書籍, 田糧供給之具, 無不該盡, 可以成就人才也。 李滉 【作宰豐基, 嘉世鵬之志, 恐傳守難久, (移)〔稱〕病將歸, 具辭啓聞, 故命議三公、該曹。】 之請賜扁額, 書籍、土田、臧獲, 不可盡從, 而扁額及書籍二三件, 特命下送, 則遠方儒生, 必皷舞欣感而興起也。 土田則周世鵬措置, 不爲不足, 仍而不改, 雖不給臧獲, 使喚之人, 出於其中。 且儒生讀書, 貴寂寞之境。 若監司、守令欲爲勸課, 煩其敎令而檢束之, 則人不自由, 恐乖藏修游藝之道, 莫若勿撓之而已。"
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명종실록 13권, 명종 7년 3월 28일 경술 1번째기사 1552년 명 가정(嘉靖) 31년
설경 안수가 소수 서원에 서책을 하사하도록 청하다
○庚戌/上御晝講。 說經安璲曰: "慶尙道 豐基郡, 有紹修書院, 高麗人 安裕之故居也。【裕, 初名珦, 竹溪人, 有學行。 竹溪, 今屬豐基郡。 同知事周世鵬爲郡守(日) 〔時〕 , 立祠其地, 又起書院於其側, 令儒生聚學焉。】 一道儒生濟濟相聚, 如朱文公之白鹿洞。 有志之士欲博覽諸書, 而窮鄕下邑, 簡策稀罕, 必貽有志之嘆。 請於印冊之時, 各頒一件。"
【史臣曰: "書院之名, 古未有也。 南唐之世, 就李渤舊隱廬山 白鹿洞, 創立學宮, 置師生以敎之, 宋朝因之。 其在中葉, 猶未盛, 天下只有四書院。 渡江而來, 雖當百戰搶攘之日, 而閩、浙、湖、湘之間, 斯文大興, 士學日盛, 轉相效慕, 處處增置。 胡元竊據, 猶知先務, 益有修擧。 蓋隱居求志之士, 講道肄業之儔, 厭煩囂而遠城市, 思寬閑而就寂寞, 學聖賢而求其道, 閱義理而蓄其德者, 率皆得力於書院, 賢才輩出, 蔚爲世用, 其於作成之道, 豈少補哉? 我東方敎學之規, 一遵華制, 內有成均、四學, 別有鄕校, 可謂美矣, 而獨書院之設, 前未有聞, 此實大欠典也。 頃者郡守周世鵬, 慨然有意於此, 冒衆笑排群謗, 卽先賢舊居而首建焉, 其副古興學之意, 無讓於古君子, 而後郡守李滉, 尤眷眷焉盡其心, 以爲事不經宣命, 名不載國乘, 則無以聳四方之觀聽, 定衆人之疑怪, 爲一國之效法, 而終必至於衰墜, 乃白諸方伯, 聞諸朝廷, 賁飾其光彩, 悠遠其規模。 上有以儷白鹿、考亭之美, 下有以啓藍溪、(敬賢)〔景賢〕 之作, 使先正淸修之地, 爭相欣慕, 學者有歸, 其所以闡揚聖朝右文之化者, 豈淺淺乎? 然崇敎化育人材, 其本在於一人。 苟非有好賢樂善之誠, 而又有躬行心得以推之, 書籍之頒, 扁額之賜, 特爲一文具而已。 其不至於怠忽而陵替也難矣。"】
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명종실록 17권, 명종 9년 11월 2일 기해 2번째기사 1554년 명 가정(嘉靖) 33년
정몽주를 기리는 임고 서원에 서책과 편액을 내릴 것을 예조가 아뢰다
○禮曹啓曰: "鄭夢周道德節行, 無讓於安裕。 其於生長之地, 建立書院, 藏修學徒, 敦勵風化, 大是美事。 宣賜扁額, 頒降書冊、奴婢、田結等事, 一依紹修書院例施行事, 傳敎。 奴婢、田結, 則因本道監司啓本, 已移文該司處置矣。 書冊, 依紹修書院例, 四書五經各一件, 以文武樓所藏帙賜送, 而《綱目》及《事文類聚》, 則餘在只一件, 賜給爲難。 以外, 校書館貿易冊內, 《少微通鑑》、《通鑑續編》各一件賜送, 每書初卷, 題其年月日, 內賜(林皐書院)〔臨皐書院〕 , 以示敦奬之意。 扁額則 ‘(林皐書院)〔臨皐書院〕 ’ 四字, 大字書寫, 下端具刻年月日、宣賜等字, 順付公幹人, 同道監司處交割何如?" 上從之。
【史臣曰: "夢周之忠節, 可以激頑敦薄, 而作後人之師表也。 其所以宣賜書冊, 大書扁額者, 褒奬忠節, 興起後學之盛心也。"】
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명종실록 18권, 명종 10년 2월 25일 경인 3번째기사 1555년 명 가정(嘉靖) 34년
수양 서원에 편액과 서적을 임고서원의 예대로 내리라고 전교하다
○下生員金澤等疏于禮曹, 仍傳曰: "扁額、書籍等事, 一依臨皋書院例。" 其疏略曰:
崔冲, 奮自西服, 慨然以誘掖後進, 爲己任。 麗史稱海東孔子, 而東方學校之設, 由冲始。 謚曰文憲, 則可爲後學之模範者, 而荒祠蕪沒於首陽之麓, 尙無後進依歸景仰之所, 則吾東人之不好古也甚矣。 歲在己酉秋, 監司臣周世鵬, 受命來宣, 簿書之暇, 咨訪古蹟, 得其祠於榛莽中, 披草萊而禮拜, 歎其阨陋。 越明年庚戌, 移而闢之于州庠之西, 以安其靈, 下建書院, 以爲諸生肄業之所, 乃出家藏書帙以實之, 置田民立廚庫, 又擇鄕之謹愼者二人幹之, 以資來學, 名之曰首陽書院, 以 ‘書不得出, 色不得入。’ 八字, 揭于門楣。 其措置之方, 纖悉備具。 由是蒙學之輩, 游藝於斯。 此必天誘其人, 以啓我 聖明文運之興也。 所可恨者, 事不經稟旨, 名不載國乘, 興墜補弊者無幾, 而毁瓦畫墁者, 比比有之曰: "此非朝廷之所知, 廢置何關?" 至如院藏書帙, 窺爲私見, 或脅以官威, 啓其出納之端, 而謀墜其院憲者, 間或有之。 士風之不美, 一至於此, 臣等不勝憤悶。 自上依宋朝故事, 賜扁額書史以奬之, 此斯文亨泰之期也。
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명종실록 33권, 명종 21년 6월 15일 갑술 1번째기사 1566년 명 가정(嘉靖) 45년
정여창의 서원에 사액을 청하는 경상도 함양 진사 강익 등의 장고
○甲戌/慶尙道觀察使姜士尙 【不營産業, 廉素可取。 然於國事, 無特拔建明之稱。】 馳啓曰: "咸陽居進士姜翼等三十餘人狀告曰: ‘謹按, 儒先鄭汝昌 【成廟朝名儒也。】 乃吾鄕人也。 自髫齔, 聰警不群, 父六乙通判義州時, 華使張寧見汝昌而奇之, 作說以名之。 及長, 務自砥礪, 鄙夷口耳之習, 篤好性理之學, 沈潛探討, 深有所得。 其平居, 德宇醇粹, 自然使人厭服而尊仰之。 執親之(衰)〔喪〕 , 葬祭以禮, 一日不脫衰, 三年不出廬。 夙有晦養之志, 挈妻子, 結屋頭流山下, 嘯詠雲泉, 以爲終焉之計。 成廟用薦者言, 特授昭格署參奉, 陳疏力辭, 則御批不允曰: 「聞爾之行, 予不覺出涕。 行不可掩, 今猶如此, 是汝之善也。」 仍就試登科, 卽爲檢閱。 乃遷說書, 輔導勤切, 東宮 【卽燕山】 有憚色, 遂乞補安陰縣, 政先仁恕, 化若神明。 又精吏事, 無敢欺蔽, 設爲科條, 曲盡利柄。 民到于今, 受其賜。 尤以敦學善俗爲務, 春秋行養老禮。 又隨材敎人, 多所成就。 終坐戊午之禍, 配死鍾城。 中廟受命, 普雪無罪, 例贈承旨。 後又因大臣獻議, 以先生與金先生宏弼, 【成廟朝名儒, 擢刑曹佐郞。 燕山時賜死, 中廟朝特贈右議政。】 學術醇正, 踐履篤實, 相與講劘, 猶考亭之於南軒, 志道之士, 尙多慕之。 命倣宋朝褒崇濂洛諸賢故事, 就平日講道之所, 置立祠宇, 春秋致祭, 歲廩其家, 以爲永式。 而以當時無講道之所, 故不立祠宇, 設公祭於私廟, 禮無所據, 而勢亦難行。 前者郡守徐九淵, 始立祠宇, 傍設堂齋。 且將奉安以禮, 儲士以修, 而未獲卒功。 迄至十餘年, 乃克就緖。 第以今之建祠, 實因先朝遺命, 然若不稟朝命, 而徑自變置, 則無異於前日之家廟, 而同於無祀矣。 被臨皋 【永川郡別號也。 臨皋書院, 卽鄭文忠公 夢周祠也。】 紹修 【卽豊基郡 白雲洞書院 安文成公 珦之祠也。 我國古無書院, 周世鵬爲豊基郡守, 始起此院, 立廟以祠文成, 置齋以居學者, 書籍田民, 無不具焉。 又爲黃海監司爲崔文憲公 冲立書院於海州, 名曰文獻堂而規模一如白雲故事, 遠近學者, 多就之。 嘉惠之功, 有足多者。 自後若星州、江陵效此, 立院之處頗多云。】 二院, 皆出於一時慕古者之作, 非有朝廷之命, 祀典之載, 而亦皆賜額頒經, 兼之臧獲土田, 恩典極矣。 況此有祠, 出於先朝之遺旨, 則寵命之賜, 豈在於二院之下乎?’ 臣因竊思惟, 汝昌學行, 不獨爲一鄕之儀表, 足爲學士之矜式, 故褒贈之典, 特隆於先朝, 而士子之景慕, 蔚起於今日, 實出於人心之同好, 而不能已也。 若不上達朝廷, 賜額崇奬, 則終爲一邑靑衿之私設, 揆諸事理, 反爲未安, 而難於永久。 今方追孝繼述之日, 倘賜旌額, 廣布恩典, 則庶幾上以成先王之美意, 下以助風化之鼓舞矣。" 上下其議于禮曹, 禮曹請賜額賜書, 以示奬勉。 上從之。 賜號曰蘫溪書院(禮)。 【蘫溪院傍水名。】
【史臣曰: "書院之設非古, 南方多有之, 爲學者藏修之所, 爲其世敎, 豈少補哉? 汝昌與金宏弼, 一時師友, 學問雖無傳者, 觀中廟追贈之擧, 亦近代大儒, 院以祀之, 有何不可? 第此時粉袍之輩, 不求諸心, 紛紛制作, 務出新意, 恐不能久也。"】
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선조실록 7권, 선조 6년 11월 28일 갑진 2번째기사 1573년 명 만력(萬曆) 1년
경상 감사가 김굉필·이언적·이황 서원에 사액할 것을 청하자 예조에 계하하다
○慶尙道監司狀啓: "道內玄風設金宏弼書院, 慶州設李彦迪書院, 榮川設李滉書院, 乞賜額, 頒降書籍。" 啓下禮曹。
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선조실록 9권, 선조 8년 10월 19일 계미 1번째기사 1575년 명 만력(萬曆) 3년
의성 서원에 사액을 내리는 일로 올린 예조의 계목
○癸未/禮曹啓目粘連, 慶尙監司書狀:
云云傳敎。 向前義城書院, 依玉山書院例, 賜額與書扁號, 令大提學擬啓, 移文于本道監司, 俾審聖意, 何如?
傳曰允。
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선조실록 206권, 선조 39년 12월 26일 경신 2번째기사 1606년 명 만력(萬曆) 34년
중건한 천곡·금오·쌍계·남계 등 서원에 사액하다
○慶尙監司柳永詢馳啓曰: "道內列邑, 爲先賢立祠宇, 春秋香火, 傍建講堂齋舍, 以爲士子藏修之所者, 非止一二。
如星州之川谷書院, 因其地有伊川、雲谷之名, 奉安程、朱子位版;
善山之金烏書院, 因冶隱先生吉再所居之鄕;
玄風之雙溪書院, 因寒暄先生金宏弼所居之鄕;
咸陽之藍溪書院, 因一蠧先生鄭汝昌所居之鄕, 在平時, 一道士子, 同力建設, 聞于朝廷, 特賜扁額, 而不幸, 兵火竝被灰燼。 今者士子等, 各出財力, 地方之官竝力扶助, 依舊重建, 妥靈有所, 極可嘉尙。 前日賜額, 無有存者, 逮玆重建, 有院無額, 無以示國家表章昭揭之義, 殊爲欠闕。 朝廷特令申賜, 以光斯文, 不勝幸甚。 其中南溟先生曺植, 學行道德, 竝美於前賢; 士子之欽慕, 亦不減於前賢。 平時營建書院於晋州之德山舊居之傍, 而亦爲兵火所及, 今方重建, 依他書院例, 竝命賜額, 以示朝廷右文重道之意。 詮次善啓。" 啓下禮曹。 禮曹啓目: "粘連啓下。
川谷、金烏、雙溪、藍溪四書院, 平時特賜, 扁額額名以此書之, 令本道相考啓聞後, 特令申賜爲當。 曺植學行, 竝美於前賢, 今於書院之創設, 依他書院, 竝命賜額, 允合於右文重道之意, 係是恩命, 上裁施行何如?" "啓依允。 曾已賜額處則賜額; 新建處則賜額安徐。"
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광해군일기[중초본] 109권, 광해 8년 11월 10일 정축 2번째기사 1616년 명 만력(萬曆) 44년
조식의 서원에 ‘백운’이라고 사액하다
○賜曺植書院額曰白雲。 以院在三角山 白雲峯下故也。