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●"GO"(1998金城一紀) 4-1
あの夜からちょうど一週間後の金曜日の夜、初めて桜井に電話をした。 電話に出た桜井はいきなり、言った。「あのね、アメリカのキャリア・ウーマンのあいだではね、『男にナメられないためのマニュアル』みたいなのがあって、その中に、週の後半にかかってきたデートの誘いは断れ、っていう鉄則があるんだって」僕はまだデートに誘っていなかった。もちろん、誘うつもりではいたけれど。「どうして?」と僕は訊いた。
「男は、週の前半は本命の女の週末の予定を押さえるのに忙しくて、その本命の女に断られると、まあこいつでもいいか、って週の後半を使って、あまり大切に思ってない女に誘いをかけるんだって。その誘いを受けると、ナメられて『都合のいい女』と思われちゃうから、断らなくちゃいけないの。分かる?」
「•••」「でも、わたし、マニュアルって嫌いだから、そういうのはぜんぜん気にしないけど」絶対、気にしてるに決まってる。「今度からは気をつけるよ」「絶対よ」やっぱり。日曜日のデートが決まった。
日曜日。午後一時ぴったりに、待ち合わせ場所の渋谷駅東口の改札に着いた。まわりを見回しても桜井の姿は見えなかった。改札口の脇に立って、桜井を待った。十分経過。僕は長期戦を覚悟して、キオスクでニューズウィークを買い、読み始めた。
カンボジアのシアヌークの身辺警護をしているのが北朝鮮の特殊部隊出身のボディガードだ、 なんてちょっと興味深い記事を読んでいる時に、僕の体にドンとぶつかってくる柔らかい物体があった。覚えのある衝撃だった。顔を上げると、桜井の無防備な笑顔があった。「遅れてごめんね」「遅れたうちに入らないよ」桜井は笑みを深め、訊いた。
「これから、どうする?」この前、電話を切ったあとに気づいたのだけれど、僕たちは会う約束だけを取りつけて、 何をするかについてはまったく話し合っていなかった。きっと、僕たちは、ただ会いたかったのだろう。僕が、映画でも観ようか、と提案しようとすると、桜井が先に口を開いた。
「わたし、満員電車みたいに混んでる渋谷の街をブラブラしたり、初デートの記念にお互いの腕にタトゥーを入れたり、晩御飯は混んでるだけが取り柄のまずいイタ飯屋かなんかに入ったり、狭い犬小屋みたいなカラオケボックスに入ったり、っていうのはイヤよ、絶対に」僕は慌てて首を横に振った。
「そんなことは考えてなかったよ。映画でも観ようかと思ってたけど」「いま、なんか観たい映画ある?」「特にないけど」「それじゃ、違うことしようよ」「なに?」「わたしについて来る?」と桜井は挑むように、言った。僕は頷いた。「それじゃ、行こうか」桜井はそう言って、切符売り場を指差した。僕と桜井は券売機に向かって、歩き出した。
僕がニューズウィークを円筒状に丸め、片手で握るようにすると、桜井は楽しそうな笑みを浮かべて、言った。「棍棒みたいに見えるよ。わたしを守ってくれてるの?」僕はちょっと離れた場所に置いてあるゴミ箱に、ニューズウィークを放り投げた。うまい具合にゴミ箱に収まった。僕は言った。「棍棒なんて必要ないよ」
桜井は嬉しかったのか、思い切り体当たりをしてきた。僕は思い切りよろけた。桜井は眉をひそめながら、僕を見ていた。「棍棒、拾ってこようか?」僕と桜井は山手線の円の半分を辿って、有楽町に出た。桜井は駅を出たあと、日比谷方面に足を向けた。桜井はパープルのブルゾンと細身のホワイト・ジーンズ、そして、ベージュのトレツギング・ブーツという姿で、丸の内のビル街を刻と歩いていた。
黒いジャケット、白いTシャツ、普通のジーンズ、ローファーという管好の僕は、つべこべ言わずに黙って桜井のあとをついていった。僕が連れて行かれたのは、日比谷のお潔近くのビルの最上階にある、大企業が経営する美術館だった。桜井は馴れた足取りでビルの中に入って行き、エレベーターに乗り込んだ。僕は美術館に入ったことは、一度もなかった。でも、画集はよく眺めていた。正一がよく僕に画集を貸してくれるのだ。
「よく来るの?」エレベーターに乗ってすぐ、僕は訊いた。桜井は、ううん、ときっぱり首を横に振った。「はじめて。いつも入ってみようって思うんだけど、独りじゃなかなか入りにくくて。入るの、イヤ?」僕は首を横に振った。エレベーターが美術館のあるフロアに着くと、桜井はさっさと、切符を売っている窓口に向かい、自分の分の切符を買ってしまった。僕がお金を払う暇はなかった。
公開されていたのは、フランス画壇で活躍していた画家たちの絵で、けっこう有名どころが揃っていた。ルオー、ブラック、シャガール、ピカソ、ダリ、などなど。「好きな人、いる?」美術館に足を踏み入れてすぐに、桜井に訊かれた。「ルオーとシャガール」「誰それ?」桜井は悪戯っぽく笑った。「わたし、絵のことぜんぜん分からないの」僕と桜井の絵の見方はひどく対照的だった。
僕は一枚一枚の絵をきちんと眺めていくのに対して、桜井は瞬間の観た目で絵の好悪を決めるらしく、気に入った絵の前ではジッと立ち尽くし、そうでないものの前は風のように通りすぎて行った。その姿は、見ていてとても分かりやすく、気持良かったので、僕も真似をすることにした。僕はルオーの『老いた王』や、シャガールの『横たわる詩人』の前でだけ立ち止まった。 そうやって観ていくうちに、かなり先に行っていた桜井との距離が縮まった。
桜井はダリの絵の前で立ち止まり、微笑みを浮かべていた。桜井が観ていたのは、「たそがれの隔世遺伝」という絵で、有名なミレーの『晩鐘』を再構築したものだった。再構築とは言っても、僕の目には趣味の悪いパロディにしか見えなかったけれど。だって、例の黄昏時に祈りを捧げている男女の男のほうの顔は骸骨になっていて、女のほうの体には槍みたいなものが突き刺さっているのだ。そして、田園風景は荒涼とした岩場に変わっていた。
「最高よね」桜井が僕の顔を見て、言った。僕は曖昧に頷いた。桜井は不服そうだった。桜井は多くの時間をダリの絵の前で過ごした。鼻先が絵についてしまいそうなほど体を乗り出して眺めたり、クスクス笑いながら眺めたり、時々、はぁ、とため息をつきながら眺めていた。僕はそんな桜井をずっと眺めていた。ちっとも飽きなかった。グリの最後の一枚の前に立って、桜井は言った。「この人、わたしに喧嘩売ってるのよね。「おまえにこの絵が分かるのか?』って」
最後の一枚は、人間の体が引き出しになっていて、自在に開け閉めできるのを描いた絵だった。「もう意味なんてぜんぜん分かんないんだけど、喧嘩を売られてるのは分かるから、ものすごくドキドキする。ほら」桜井はそう言って僕の手を掴んで引き寄せ、自分の胸の真ん中に僕の手のひらを当てた。 本当だった。心臓がドクンドクンと速く、力強く、胸を打っていた。ふいに桜井が僕の胸の真ん中に手のひらを当てた。
「杉原のも、すごく速く打ってるよ」桜井の鼓動がさらに速くなった。僕の鼓動はもっともっと速くなっていたのだけれど、それは他の人たちが僕と桜井のまわりに集まって、僕たちのことをジロジロと眺め始めたからだ。僕と桜井はほとんど同時に手を離し、ダリの絵の前を離れた。桜井は楽しそうにクスクスと笑っていた。僕はひどく恥ずかしかったので、気をそらそうと、桜井に言った。
「この前新聞に載ってたけど、ダリって小学生の男の子に人気があるらしいよ」桜井は笑顔のまま、ふーん、と言ったけれど、すぐに真顔になって、僕の脇腹にパンチを入れた。「悪かったわね、小学生の男の子並みの感性で」出口付近で売っていたパンフレットを二部買って、一部を桜井に渡した。桜井は素直に、 ありがとう、と言って、パンフレットを受け取った。そして、楽しかったね、と言った。僕は素直に頷いた。
●"GO"(1998金城一紀) 4-2
日比谷公園に行き、あてもなく散歩をしたあと、ベンチに座って何をするともなく時間を過ごした。とても気持の良い春の夕暮れだった。「ねえ、訊いていい?」「いいよ」「家族構成は?」「両親と僕の三人家族。桜井は?」「うちは両親とお姉ちゃんの四人家族。田舎は?」「・・・田舎はない。桜井は?」
「うちはお父さんの実家が関西で、お母さんが九州。杉原のお父さんはなにをしてる人?」「・・・しがない自営業者だよ。桜井のお父さんは?」「しかないサラリーマン。これまで何人の女の子とつきあった?」「一人」「いつのこと?」「中学二年の時に一ヵ月だけ」「短いね。どうして、別れたの? 答えたくなきゃいいけど」「別にかまわないよ。デートの約束をすっぽかして、それでパー」「なんですっぽかしたの?」
「仲のいい男友達に、旅行に行こうって誘われたんだ。その日程がデートの日とかぶってたんだけど、そっちを優先した」「なにそれ」と桜井はひどく呆れたように言った。「どうしてそんなことするわけ?」「中学生の男って、そんなもんなんだよ」 そんなもんなんだよ」と僕は言い訳がましく言った。「彼女より男友達のほうを選ばなくちゃいけないんだ、基本的に。男友達より彼女を選ぶような奴は「裏切り者」って呼ばれて、迫害を受ける」
「バカみたい」「いまでは、僕もそう思う」「ところで、旅行ってどこに行ったの?」「名古屋」「なにしに?」「・・・観光だね」「変なの」僕と僕を誘った友人は、名古屋のパチンコ店を制覇し、『パチンコ長者』になって東京に帰って来よう、と誓い合って、普通列車に揺られながら名古屋に向かった。旅行はとても楽しかった。僕たちはパチンコの勝ち金でホテルに泊まり、おいしい味噌煮込みうどんを食べ、帰りは新幹線のグリーンに乗った。
三泊四日の旅だった。もちろん、平日に学校を休んで行ったので、帰って来てオヤジに殴られた。「彼女、怒ったでしょ?」と桜井が訊いた。「 二週間無視され続けたあと、一言、最低、って言われた」桜井は、それ当然よ、と言って、僕の肩に軽いパンチを入れた。会話が途切れた。僕が話題を探していると、桜井が唐突に話し始めた。
「わたしはね、これまで三人の男の子とつきあった。初めは小学校五年の時でね、相手はクラスメイトで、目がクリッとしたちょっとトム・クルーズ似の男の子だった。ホワイト・デーにプレゼントをくれなかったから、別れちゃった。若かったのね、わたしも。次は中二の時で、相手は同じ中学のいっこ上の先輩で、水泳部のキャプテンと生徒会長を掛け持ちしてた人。別れたのはね、日曜日に家に呼ばれて、赤い競泳水着渡されて、これを着て欲しい、って真顔で言われたから。
その時は、思い切りほっぺをひっぱたいて、帰ってやったわ。でもね、いまから考えたら、着てあげても良かったかな、って。たぶん、キャプテンと生徒会長の掛け持ちのプレッシャーで頭おかしくなっちゃってたのよ。ものすごく真面目な人だったから。耳のうしろに十円ハゲもできてたし。三人目はね、高一の時なんだけど、友達に紹介されたケイオーの大学生で、代議士の息子でね、ものすごいイヤな奴で、ものすごいバカな奴だった。、俺のまわりは低能ばっかりだ、なんて平気で言う奴だったのよ、そいつ」
「どうしてそんな男とつきあったんだ?」と僕は当然の疑問を口にした。「その頃、自信満々の男に弱かったのよ」と桜井はあっさり言った。「女って、一度はそういう時期があるのよ、自信満々の男に弱い時期が」「ふーん」桜井は続けた。「そいつとはね、二週間で別れた。原因は、二人で六本木を歩いてたら外国の人に英語で話し掛けられたからなの」「なにそれ?」
「外国の人は、たぶん、道を尋ねてたと思うんだけど、とにかく、英語でそいつに話し掛けてきたわけ。エクスキューズ・ミー、って。エクスキューズ・ミーまではそいつの顔もにこやかでね、自信満々だった。でも、すぐに難しい単語がいっぱい出てきて、そいつの目があちこちに飛び始めたのね。耳から煙が出ないかしら、ってわたしは興味深く見守ってたんだけど、そいつはわたしの視線に気づいて、どうにかさっきまでの自信満々な感じを取り戻したあとに、外国の人に向かって、言ったの。なんて言ったと思う?」
「想像もつかないよ」と僕は言った。「アーハ、って。ものすごく自信満々に、アーハ、って。その時、わたしは気づいたのよ。 こいつはただのアホなんだ、って」彼女は言いながら、クスクス笑っていたけれど、僕は笑えなかった。彼女と一緒の時に外国人に話し掛けられないことを祈った。彼女は笑顔のまま、付け加えた。
「普通に、アイ・キャント・スピーク・イングリッシュ、って言えば良かったのにね」僕は肝に銘じた。桜井の瞳に、悪戯っぽい色が浮かんだ。「わたしが、つきあってた男の子たちとどこまで行ったのか、訳きたくない?」僕は少し迷ったあと、首を横に振った。「聞いてもむかつくだけだ」
桜井は顔に柔らかな笑みを広げた。そして、バカみたい、と言って、僕の肩に思い切りパンチを入れた。僕が本気で痛がっているところへ、ふいに前方から犬が姿を現わし、トコトコと僕たちに向かって歩いてきた。雑種らしいその犬は、軽く尻尾を振りながら近寄ってきていた。
僕が頭を撫でてやろうと身を乗り出した時、桜井が、「ううううう」と、低い唸り声を上げた。犬はその声に反応して立ち止まり、耳を折り曲げたあと、すいませんでした、 という感じの色を目に浮かべて、来た道をとぼとぼと帰っていった。僕が桜井を見ると、桜井は、「邪魔者は寄せつけるな。これがデートの鉄則よ」と言って、ニッコリ微笑んだ。
日比谷公園を出たあと、CDショップに行き、お互いに気に入っているCDを薦め合い、買った。僕が薦めたのはブルース・スプリングスティーンの『トンネル・オブ・ラブ』というCDで、僕の特にお気に入りの一枚だった。桜井が僕に薦めたのはホレス・パーランというジャズ・ピアニストの『アス・スリー』というCDだった。僕はジャズをほとんど聴いたことがなかった。
「お父さんがジャズが好きでね、子供の頃からよく聴かされたの」と桜井は薦める時に、言った。「これ、すっごくカッコいいよ」銀座をブラブラして、目についた洋風の定食屋に入り、晩御飯を済ませた。食後の散歩で勝鬨橋まで歩き、潮の匂いを嗅いだ。「海に行きたいね。綺麗な海」と桜井は言った。
僕は頷いた。「できたら、近いうちに行こうよ」有楽町駅の改札で別れた。桜井は、またね、とそっけない言葉だけを残して、僕と反対方向のホームへと上がっていってしまった。僕は、日比谷公園の犬の足取りでホームへ繋がる階段を上がった。ホームの適当な場所で立ち止まり、ぼんやり下を向いていると、視線の上のほうに、向かい側のホームでせわしなく動いている人影が映った。視線を上げた。
桜井が、いまにも飛び上がりそうなほどの爪先立ちで、僕に向かって手を振っていた。ふたつのホームの多くの乗客の視線が、僕に集まっていた。僕が桜井の行為に応えられずにいると、乗客たちの苛立ちのようなものが伝わってきた。電車がホームに入ってくる、というアナウンスが流れると、近くでいくつもの舌打ちの音が聞こえた。
僕は恥ずかしさを堪えながら手を上げ、桜井に手を振り返した。乗客たちの安堵感が伝わってきた。桜井のほうのホームに電車が滑り込んできて、桜井の姿を消した。僕は上げていた手をさりげなく下ろしたあと、それまでいた場所から急いで移動を始めた。僕に目を向けている人たちはみんな、初孫が初めて歩いている姿を見るような目で僕を見ていた。
家に帰ると、オフクロが家出から戻ってきていて、居間でオヤジとチェスをやっていた。「もしかして、デート?」とオフクロがクイーンを進めながら、僕に訊いた。「チェック」 追い詰められたオヤジは、まいったなあ、なんて言いながらも、めちゃくちゃ機嫌が良さそうだった。 「ノーコメント」と僕は答えた。「いい加減なことだけはしちゃダメよ」とオフクロが言った。
「分かってる」オヤジが盤面から顔を上げた。夏休み初日の小学生みたいにキラキラとした瞳で微笑んでいた。オヤジが僕に向かって言った。「まいったよ、逃げる手が見つからないんだ。こいつ、強くてさあ」ずっと寂しかったのはわかるけれど、あと数年で還暦を迎える目の前の男が、ひどくわびしく見えた。すべての日課を済ませたあと、『アス・スリー』を聴いた。本当にカッコ良かった。眠るまでに、三回聴いた。
翌日の月曜日、誕生日以来ずっと姿が見えなかった加藤が、昼休みに僕の教室に姿を現わした。「よっ、色男」僕の隣の席に座りながら、加藤はそう言った。「なんだよ、おまえのその色は?」と僕は言った。加藤の顔は真っ黒に日焼けしていた。「親父の誕生日プレゼントで、サイパンに行ってた。楽しかったぞ」「いいご身分だな」
「ところで」加藤はにやけた笑みを顔に貼りつけた。「もうやったのか?」「また、鼻、曲げてやろうか?」加藤は慌てて手を鼻にあて、防御姿勢を整えた。「勘弁してくれよ」「おまえ、彼女のこと知ってるのか?」と僕は訊いた。加藤は鼻に手をあてたまま、首を横に振った。
「興味があったから、おまえたちがいなくなったあとに、まわりの連中に色々あたってみたけど、誰も知らなかった。安心しろ、俺のまわりの連中が知らないってことは、きちんとした子だってことだ。それにしても、おまえ、どうやってあんな可愛い子とお知り合いになれたんだよ」
「俺にもよく分からないんだ。かなり不思議な子でさ、突然現われて、気がついたら向こうの世界に引き摺り込まれてた」加藤はようやく鼻から手を離し、真顔で言った。「もしかして、雪女かもしれないな。それか、おまえがむかし助けた鶴の化身か---」「おまえ、日焼けのし過ぎで、頭の中までカラカラになっちまったんじゃないのか」
「それは生まれた時からだ」と加藤はきっぱり言った。「おまえが気になるなら、俺が色々調べてやってもいいぞ。その子、高校生なんだろ? 高校の名前が分かりゃ、ツテを辿ってたいていの情報は手に入る」僕は少し迷って、首を横に振った。「いいや。彼女が何者だろうと、関係ねえ」 「そうだよな、関係ねえよな」加藤はなぜか嬉しそうにそう言って、続けた。
「それにしても、なんか映画みたいな話で楽しそうじゃねえか」「ジャンルが、ミステリとかサスペンスじゃなきゃいいけどな」昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。加藤が席から腰を上げた。「第三者としてはホラーかオカルトのほうが楽しめるけど。チンポでもちょん切られてくれたら、すげえ盛り上がるぞ」加藤はそう言って、僕の肩を叩いた。「健闘を祈る」
●"GO"(1998金城一紀) 4-3
毎週月曜日の夜の桜井への電話が、僕の習慣に加わった。ゴールデン・ウィークを越えたあたりから、桜井への電話は、僕の日課の中に加わっていた。僕たちは休日のほとんどを、お互いのために使った。そして、いつも会っているうちに、 僕たちのあいだにはある共通認識が生まれていた。それは、「カッコいいものを探すこと」というものだった。
僕たちはお互いに色々な本やCDや映画を薦め合い、「カッコ良かったか、悪かったか」というふたつの基準だけを設け、ひとつひとつ選り分けていった。桜井は僕が薦めるたいていのものを、「カッコいい」と言ってくれた。ブルース・スプリングスティーン、ルー・リード、ジミ・ヘンドリックス、ボブ・ディラン、トム・ウェイツ、ジョン・レノン、エリック・クラプトン、マディ・ウォーターズ、バディ・ガイ・・・。 でも、ニール・ヤングだけは桜井の趣味に合わなかった。理由を訊いた。
「だって、歌が下手なんだもん」桜井が薦めるたいていのものを、僕はカッコいいと思った。マイルス・デイヴィス、ビル・エヴァンス、オスカー・ピーターソン、セシル・テイラー、デクスター・ゴードン、ミルト・ジャクソン、エラ・フィッツジェラルド、モーツァルト、リヒャルト・ストラウス、 ドビュッシー…。でも、ジョン・コルトレーンだけは僕の趣味に合わなかった。理由を訊かれた。
「暗すぎる」僕が薦めたブルース・リーの『ドラゴン怒りの鉄拳』は、特に桜井のお気に入りになった。おかげで、僕はよく回し蹴りを食らうことになった。桜井に薦められた『カッコーの巣の上で」は、特に僕のお気に入りになった。そのことを桜井に告げると、おかげで、ジャック・ニコルソンの出演作品をイヤというほど観せられる破目になった。桜井はジャック・ニコルソンが気に入っていた。理由を訊いた。
「変で、カッコいいから」桜井も変で、カッコ良かった。本は僕の苦手分野だった。僕は小説の類を滅多に読まず、人類学とか考古学とか生物学とか歴史学とか哲学といった、堅くてあまり面白いと言えないような本ばかりを読んでいたので、薦めようがなかったのだ。正一に薦められて読んだ小説は、たいてい日本の古い小説で、そのほとんどを桜井は読破していた。桜井は本好きの父親の影響で、たくさんの本を読んでいた。
僕は桜井に薦められて、色々な小説を読んだ。ジョン・アーヴィングやスティーヴン・キングやレイ・ブラッドベリは、僕のお気に入りの小説家になった。でも、特に気に入ったのはジェイムズ・M・ケインの『郵便配達夫は二度ベルを鳴らす』と、レイモンド・チャンドラーの「長いお別れ」だった。そのことを桜井に告げると、桜井は得意気に、「絶対気に入ると思ったよ」と言った。
僕たち二人で「発掘」したものもあった。ダシール・ハメット、アラン・シリトー、ジャック・フィニィ、レイモンド・カーヴァー、『炎のランナー』、『太陽がいっぱい」、「ハリーの災難」、「酒とバラの日々」、「ワイルドバンチ』、エルビス・コステロ、R.E.M.、T・レックス、ダニー・ハサウェイ、クロノス・クァルテット、グレッキ、テレンス・プランチャード、エゴン・ シーレ、ワイエス、ターナー、リキテンシュタイン・・・
それらの発想作業はとても楽しかった。発掘方法は簡単で、「本屋やCDショップやレンタルビデオ屋に行って二人の直感で選ぶ」、ただそれだけのことだった。僕たちは本の表紙やCDジャケットやビデオのパッケージを見て、「何か」を感じ取ったものだけを選んだ。
でも、僕たちの直感の打率は三割ちょうどのアベレージ・ヒッター程度のものだった。当然ながら空振り、凡打も多く、多くの時間とお金を無駄にした。 を無駄にした。それでも、二人での発掘作業は楽しかった。
六月に入ってすぐの日曜日、銀座のファースト・フードの店で、桜井が唐突に切り出した。「いまから、うちに遊びに来ない?」僕が戸惑っていると、桜井は言った。「うちにはね、お父さんの趣味でAVルームがあるの。そこで、一緒に音楽を聴いたり、映画を観たりしようよ。そしたらすぐに感想を言い合えるじゃない」
「男が遊びに行ったら、お父さん気にするんじゃないかな」「うちはそういうのぜんぜん大丈夫な家なの」と桜井は言って、硬い感じの微笑みを浮かべた。「お姉ちゃんのボーイフレンドなんか、よく晩御飯を食べにきてるし」
桜井はこれまでになく真剣な眼差しで僕を見ていた。僕は、いいよ、と言って、頷いた。 桜井は、断られたらどうしようかと思っちゃった、と言って、ホッとしたように、ふうと短く息をついた。
●"GO"(1998金城一紀) 4-4
桜井の家は、世田谷の高級住宅地にあった。桜井のお父さんはふさふさした髪を真ん中から分けていた。高そうなダンガリーのシャツいい感じに色落ちしたジーンズをはいていた。そして、娘の男友達を見てもなんの動揺も示さず、優雅に微笑んで、いらっしゃい、と言った。
居間に通され、ふかふかしたソファに座った。桜井によく似た上品な感じのお母さんが紅茶を持って現われ、「いらっしゃい、娘をよろしくね」と言いながら、紅茶をテーブルの上に置き、居間から出ていった。「杉原君はどこの高校に通っているの?」とお父さんに訊かれた。
僕が高校名を言うと、お父さんは、ふーん、と言い、「きっと優秀な高校なんだろうね」 と付け加えた。僕は、「いえ、そんなことないです」と真実を告げた。お父さんの隣に座っていた桜井が、目立たないように、クスリと笑った。お父さんは話し好きのようで、しばらくのあいだ、色々な話につきあわされた。
お父さんは東大を出ていた。お父さんは学生運動の元闘士だった。お父さんはものすごく有名な商社に勤めるサラリーマンだった。お父さんはジャズが大好きだった。お父さんは黒人のことを 60 (アフリカン・アメリカン〉と呼んだ。お父さんはインディアンのことを《ネイティヴ・アメリカン)と呼んだ。お父さんは日本が嫌いだった。
「杉原君はこの国が好きかい?」桜井がトイレのために席を立ってすぐ、お父さんがそう訊いた。僕が返事に困っていると、お父さんは続けた。
「僕なんか、仕事で世界を飛び回ってるけど、こんなにポリシーのない国も珍しいよ。海外で、自分のことを〈日本人》て言うのが恥ずかしいぐらいだよ。僕は日本の政治に対する積極的な拒否を表わすために、選挙には行かないんだ。投票に行く時間があったら、それを家族と過ごすために使うよ。そうすることが結局は、日本が――」
「'日本'ていう――」僕はお父さんの言葉を遮った。「国号の意味を御存知ですか?」お父さんは意気を削がれたような表情のまま、少しのあいだ僕が発した問いについて考え、答えた。「確か、日がのぼる場所、ってことだろ?」
「そういう説もあるみたいですけど、他にも色々な説があるそうですよ。『やまと』の枕詞が「日の本』で、そこから転じて国名になったという説とか、その他にも色々と。学者たちはいまだに論争しているそうです。最近たまたま僕が読んだ本には、そういったことは歴史教育の現場では全然取り上げてなくて、自分の国の名前の正確な由来とか意味をほとんど知まくらことばらないで育つ国民ていうのは、世界でもひどく珍しいって書いてありました」
お父さんが、だから? という感じの表情を浮かべながら、僕のことをジッと見ていた。 僕はひどい徒労感に襲われた。僕はどうしてこんな場所にいるのだろう? そう思った時、理由が僕の視界に入ってきた。トイレから戻ってきた桜井は、ソファに座らず、お父さんに向かって言った。「そろそろ解放してあげて」
居間から出てAVルームに向かっている時、桜井が低い声で訊いた。「鬱陶しかった?」僕は、ぜんぜん、と言って首を横に振った。僕は初めて桜井に嘘をついた。AVルームは地下にあって、木目が鮮やかな総板張りの、十畳ほどの空間だった。ひどく高そうなステレオやスピーカー、畳ぐらいの大きさの大きな映写スクリーンとプロジェクターが置かれていた。
壁の造り付けの棚には、それぞれ何百枚という枚数のCDやLPやDV Dが収まっていた。そして、部屋のほぼ真ん中には、居間にあったものと同じソファが置いてあった。桜井がモーツァルトの二十五番のシンフォニーをCDプレイヤーにセットしたあと、ソフアに座った。
桜井は、ずらっと並んだCDの背中に書いてあるタイトルを眺めている僕に向かって、「おいでよ」と言い、ソファをポンポンと叩いた。僕は桜井と少しだけ距離を空け 60 て、ソファに腰掛けた。桜井がリモコンを使って、CDプレイヤーをONにした。ものすごい音量で、シンフォニーが始まった。しばらくすると、桜井が僕の肩をトントンと叩いた。
桜井の口が大きく動いていた。でも、声が聞こえなかった。初めは、音量のせいで聞こえないと思っていたのだけれど、すぐに桜井がわざと声を出していないことに気づいた。桜井は、同じ口の動きをずっと繰り返していた。唇がすぼみ、開く。僕には、その二文字の言葉が聞こえた。僕が手を伸ばして桜井のうなじに添えると、桜井の口の動きが止まった。うなじに添えた手に力を込め、思い切り僕のほうへ引き寄せた。
第一楽章が終わるまでの十分ほどのあいだ、僕と桜井はほとんど唇を離すことなくキスをし続けた。 AVルームを出ると、夕御飯が待っていた。断る間もなくダイニングのテーブルに座らされた。テーブルには桜井のお姉さんも座っていた。桜井のお姉さんは遠慮という概念をまるっきり無視して、僕のことを興味深げに眺めていた。
「いただきます」夕御飯が始まった。よく考えたら、僕は《日本人》の家族に囲まれて御飯を食べるのが初めてだった。そのことに気づいた僕は意味もなく緊張して、箸を持つ手が少し重くなってしまった。違う意味で僕が緊張していると思ったのか、桜井たちはできるだけ僕の緊張をほぐそうと、色々な明るい話題を持ち出して、食卓を笑いで満たし始めた。
桜井の両親とお姉さんは、とても気さくな人たちだった。僕は彼らの話によく笑ったし、 時々話題にも加わった。いつの間にか、食も進んでいた。食事中、お父さんが何度かアイスティーのお替わりをしたので、僕は訊いた「お酒は飲まれないんですか?」お父さんの代わりに桜井が答えた。
「うちは全員お酒の飲めない体質なの。おちょこぐらいの量でも即ノックダウン状態」「杉原君は飲めるの?」とお姉さんが意味ありげに微笑みながら、訊いた。「まだ未成年ですから」僕が真面目な顔でそう答えると、短い笑いが起こった。僕は続けた。「先天的にお酒を受けつけない人が存在するのは、黄色人種だけだそうですよ」
桜井家のみんなが、ふーん、という感じで頷いた。僕はなぜ黄色人種にだけ存在するのかを説明しようと思ったけれど、やめておいた。桜井が訊いた。「お酒に強い人と弱い人の違いはどこにあるの?」
「お酒を飲むとね、アセトアルデヒドっていうある種の毒物が体の中に生まれて、人を酔わせるんだ。でも、お酒の強い人はそのアセトアルデヒドを分解する'ALDH 2'ていう酵素がちゃんと働くから、お酒に酔わない。お酒に弱い人はその逆。ALDH2がほとんど働いてないんだ」
お父さんは満足そうに頷きながら僕の言葉を聞き終えたあと、言った。「やっぱり杉原君は、優秀な高校に通ってるんだろうね」桜井と、お姉さんが目立たないようにクズリと笑った。どうやらお姉さんは僕のことを桜井から聞いて色々と知っているらしい。
家を出る時、桜井のお父さんが玄関まで見送りに出てくれて、「また、遊びにいらっしゃい」と言った。最寄り駅まで歩いているあいだ、桜井はとても嬉しそうだった。改札口で別れる時、桜井が言った。「お父さんに、気に入られたみたいよ」僕は曖昧に頷いた。桜井は少し俯き加減に顔を傾け、言った。
「うちのお父さん、あんまりセンス良くないかもしれないけど、でも、悪い人じゃないのよ。すごく優しいし、理解もあるし・・・」僕は、そっと触れる感じで桜井の左の頬にパンチを当てた。桜井の顔が上がり、僕を見つめた。僕は言った。「気に入られたなら、すごく嬉しいよ」「ほんと?」
僕はしっかりと頷いた。桜井はホッとしたように息をつき、はにかんで笑った。僕は言った。「それより、みんな、一度も桜井の名前を呼ばなかったね」桜井は楽しそうに、言った。「絶対言わないようにって、注意しといたから」「いつか知りたいな」と僕は言った。「なんかミステリアスでいいでしょ?」と桜井は相変わらず挑むように目を細めて、そう言った。「でも、近いうちに教えてあげるね」
●"GO"(1998金城一紀) 4-5
初めて桜井の家に行って以来、僕と桜井のほとんどのデート場所は桜井の家になった。僕と桜井は多くの時間をAVルームで過ごした。ある時は、一日をかけて「ゴッドファーザー」の三部作を観た。『ゴッドファーザー』シリーズは、僕にとって大切な作品だった。例えば、『ゴッドファーザーPARTⅡ」の冒頭で、アメリカに上陸したばかりの幼いビト・コルレオーネ(のちのゴッドファーザー)が、 エリス島から自由の女神を眺めているシーンは、僕がこれまで観てきた映画の中で、一番美しいシーンだった。
「ゴッドファーザー」シリーズは、すべての移民(難民)とその末裔のための作品だった。この世界から移民(難民)がいなくならない限り、「ゴッドファーザー』シリーズは永遠の価値を保ち続ける、というようなことを桜井に力説すると、桜井は微笑みを浮かべながら、言った。「あんまり難しいことはよく分かんないけど、杉原が「ゴッドファーザー」を大好きなことはよく分かったよ」
ある時は、一日をかけてマイルス・デイヴィスの多くの作品を聴いた。桜井は、マイルス・デイヴィスのジャズ史における重要性を僕に力説した。クール、ビ・バップ、ハード・ パップ、モード、ファンク、という順で、マイルスの代表作を聴きながら、桜井から細かい説明を受けた。マイルスはジャズそのものなのよ、という言葉で桜井が説明を終えると、僕は桜井を引き寄せて、キスをした。
ある時は、一日をかけて愛撫をし合った。僕たちはお気に入りの音楽をかけながら、お互いの体に優しく触ったり、キスをしたりした。でも、性器には触れなかった。僕たちには、 初めてお互いを受け入れるのはこの場所ではない、という暗黙の了解事項みたいなものがあった。僕たちは、性器に触れてしまうことで衝動に拍車がかかり、了解事項を侵してしまうことを恐れたのだ。
僕はいつも桜井の首筋にキスをしながら、背中を優しく撫でた。桜井は胸にキスをされるより、首筋にキスをされるのを好んだ。曲線を描くように背中に指を這わせると、桜井はいつも深くて濃い吐息を漏らした。そして、僕の耳に口を寄せ、何度も「好きよ」と言った。
桜井は僕の筋肉にキスをするのを好んだ。桜井のお気に入りは僕の上腕二頭筋と三角筋と腹筋だった。時々、桜井は僕の上腕二頭筋を思い切り噛んだあと、「ううううう」という唸り声を上げた。桜井はいつも、僕の六つに割れた腹筋の四角のひとつひとつにキスをした。 それが愛撫の終わりの合図だった。
場所へ行こう」という結論を出した。両親から貰ったお金で行くのは、「カッコ悪い」ことだった。自分たちで稼ぎ出したお金でそこへ行き、お互いを受け入れるのだ。そこがどこなのか、そこへ行くのにどれだけのお金がいるのか、そのどちらも僕たちには分かっていなかった。しかし、とりあえず僕たちは動き出すことにした。
夏休みはもう目の前に来ていた。 僕たちは会う時間を削り、アルバイトに精を出すことに決めた。夏休みの大半を、ナオミさんのお店で皿洗いのバイトをして過ごした。正一も一緒だった。正一は、受験費用を稼ぐためにバイトをしていた。「最近、どうなんだよ?」
ある日の休憩時間、正一は意味深な笑みを浮かべながら、そう訊いた。正一には桜井のことは話していなかった。でも、正一の誘いを何度か断るうちに、正一は感づいたのか、気を遣って誘いをかけてこなくなった。「すげえ、いい子だ」と僕は言った。「近いうちに、絶対におまえに会わせるよ」正一はそれ以上詳しいことは訳かず、ただ、楽しみにしてるよ、とだけ言った。その日は珍しく、僕たちの話はくだらない話題で終始した。
いつもは、「同じマイノリテイである黒人はブルースやジャズやヒップホップやラップという文化を築けたのに、どうして〈在日〉は独自の文化を築けなかったのが」なんていう話をしているのに、その日は、「キム・ベイシンガーのためなら死ねるか」、とか、「ビートルズの中でリストラするならや。 っぱりリンゴ・スターか」、とか、「スーパーマンのピストン運動はやっぱりスーパーなのか 」、なんてくだらない話題で盛り上がり、よく笑った。
休憩時間が終わる少し前、正一がふいに笑いを収めて、思い出したように言った。「なあ、「肝試し」のこと覚えてるか?」「なんだよ、急に」「クルパーはやっぱりスゴイ奴だよ」と正一は目を細めて僕を見ながら、言った。でも、あん時、おまえはホームにいなかったよな?」と僕は言った。「 正一は首を横に振った。「おまえたちのグループとは離れた場所に偶然いて、見てたんだよ」
「肝試し」とは、僕の中学に代々伝わる伝説的な度胸試しのことだった。僕は個人的には「スーパー・グレート・チキン・レース」と呼んでいた。度胸を試す方法は至極簡単で、僕たちの学校の最寄り駅のホームの端に立ち、電車がホームの端から五十メートルの地点に入ったのと同時に線路に降り、ホームの端から端までを進 60 行方向に向かって走り切る、というものだった。
百メートルを十二秒で走れれば、電車に轢かれずに走り切れる、という話だったけれど、僕の学校の誰かが計算したのだろうから、ほとんど十二秒という数字に信憑性はなかった。とにかく、途中で転んだりしたら一巻の終わり。途中でビビって立ち止まっても一巻の終わり。足が遅くて電車に追いつかれても一巻の終わり。
途中でホームの下に逃げ込んだり、反対車線に逃げ込んだり、ホームに這い上がってきたりしたら、そいつは『オカマ」という称号を与えられ、みんなのパシリにならなくてはいけない掟になっているから、どちらにせよ一巻の終わり。要するに、挑戦する奴は成功するしかないのだ。
過酷なルールなだけに、挑戦者はほとんど現われず、その結果、成功者は僕が挑戦するまでに二人しかいなかった。一人は僕の十二年ほど上の先輩で、のちにヤクザの鉄砲玉になって死んだ。そして、もう一人はタワケ先輩。僕は朝鮮籍から韓国籍に変えた時に、記念に挑戦することにした。僕はその頃、百メートルを十一秒台で走れたから、成功する自信はあった。
結果から言えば、僕は見事に成功したのだけれど、成功したせいで、まわりの連中から、「あいつは本当にクルパーだ」と言われるようになった。僕より前に成功した二人の先輩は、線路に降りる時、わざと一万円札を落とし、それを取りに行くというシチュエーションを度胸づけにして「肝試し』をスタートさせたらしい。
僕は何も落とさず、淡々と線路に降りて、「肝試し」を成功させた。 僕は少し迷ったあと、その時の種明かしを正一にすることにした。実は、僕は好きな同級生の女の子をこっそりとホームに呼んでおいたのだ。当然、僕の勇姿を見た彼女は僕に惚れた、ということになる計画だったのだけれど、計画は見事に破欲した。
彼女は、男心が分からない女だったのだ。彼女は言った。「病院で、頭、診てもらったら?」正一は、ケラケラと本当に楽しそうな笑い声を上げた。しばらくすると真顔になり、俺が女なら絶対に惚れるけどなあ、と言った。僕は、だろ?と言って、首を傾げた。
「あの時のクルパーは本当にカッコ良かったよ」と正一は柔らかい笑みを僕に向け、言った。「最近、どういうわけか、あの時のクルパーの走ってる姿がよく思い浮かぶんだ。道を歩いてる時とか、風呂に入ってる時とか、ふとした時に。どうしてだろうな・・・」
「院で、頭、診てもらったら?」と僕は言った。僕と正一は顔を見合わせ、短く笑った。休憩が終わって洗い場へ戻る途中、僕は言った。「今日みたいにくだらない話、もっとしような」正一はいつも通りの人懐っこい笑みを浮かべ、頷いた。
バイトの合間を縫って、桜井と会った。桜井はお父さんの会社のコネで、テレホン・オペレーターのバイトをやっていた。要するに電話受付で、楽な仕事の上に、時給も良いらしかった。桜井は子供の頃から貯めていた貯金もあったので、バイト料も合わせると、貯まったお金はかなりの額に達していた。一度金額をこっそり教えてくれたのだけれど、僕はびっくりしてしまった。桜井がバイトをする必要は、ほとんどなかった。
ある日のデート中、桜井が僕に言った。「模試を一緒に受けようよ」桜井は、カバンの中から有名な予備校の模試の申し込み用紙を取り出し、僕に手渡した。「進学するつもりなんでしょ?」と桜井が訊いた。僕は曖昧に頷いた。「それじゃ、受けといたほうがいいよ、絶対」
ことわ桜井はそう言って、ジッと僕の顔を見つめた。断れるはずがなかった。僕は頷いた。桜井の顔に笑みが広がった。そんなわけで、八月の下旬のある日曜日、僕は桜井と一緒に、初めて模試を受けた。結果は、約ひと月後に出る予定だった。
●"GO"(1998金城一紀) 4-6
夏休みが終わりに近づいたある日の夜、加藤から電話がかかってきた。「いいバイトがあるぜ」話を聞くと、加藤が主催するダンス・パーティーの用心棒のバイトだった。「でも、おまえのダンパは大丈夫だろ?」僕の高校ではダンパを主催するのが流行っていた。
手軽に女が手に入るし、チケット売買から生じる利益もかなりのものになるからだ。でも、「素人」が手を出すと痛い目に遭う。甘い汁に群がる虫は一匹とは限らない。当然利益を巡って争いが起こる。それなりの力を持たない虫は、簡単にひねり潰されてしまう。
要するに、ダンパのチケット売買や客の取り合いで、他校の連中としょっちゅう争いが起きるというわけだ。時には暴力沙汰が起き、警察のお世話になることもある。そうなると主催者の信用はがた落ちになって客足が落ちるから、主催者はできるだけ争いを避けるようにする。その時に必要なのが用心棒で、数が多ければ多いほど敵襲を受けにくくなるのだ。
でも、加藤のダンパは一度も敵襲を受けたことがないはずだった。加藤の親父さんのバックを恐れずに敵襲をしてくる奴は、相当頭がイカレた奴に違いなかった。「酔って暴れたりする奴がいるんだ」と加藤は言った。「そういう連中を叩き出す時の手伝いをしてくれよ」
加藤には「手下」が大勢いた。そんな役目のために、僕は必要がないはずだった。僕はバイト料を訊いた。僕がナオミさんの店でひと月働いて稼ぎ出した金額とほぼ同じだった。加藤は、僕が桜井のためにお金を稼いでいることを知っていた。「いいのか?」と僕は訊いた。「鬱陶しいこと訳くなよ」「悪いな」「ああ、それじゃ、次の土曜にな」
土曜の夜、僕は加藤の誕生パーティーが開かれた 生パーティーが開かれた『Z』に向かった。店に入っていくと、前と同じように、電子音と煙草の煙とアルコールの匂いと人いきれと、チケット係の竹下が出迎えてくれた。竹下が、この前僕が座ったテーブルを指差した。すべて埋まっているテーブルの中で、そこだけがぽっかりと空いていた。僕は竹下の肩を叩いたあと、テーブルに向かった。
テーブルに座った。何もすることがなかったので、持ってきた文庫本を開き、テーブルに載ってるアルコール・ランプを読書灯にして、読み始めた。だいぶ前に正一から借りた『流亡記」だった。借りて以来、色々と忙しかったのでほとんど手がつけられずにいたのだ。
テーブルの上に、ウーロン茶の入ったふたつのグラスが置かれた。テーブルの脇に加藤が立っていた。本に集中していたので、近づいてきたのに気づかなかった。僕が本を閉じるのとほぼ同時に、加藤が僕の向かいの席に腰を下ろした。
「雪女じゃなくて悪いな」僕と加藤は顔を見合わせて、笑った。「うまく行ってるのか?」と加藤が訊いた。僕は、ああ、と言って、頷いた。加藤は自分のグラスに口をつけたあと、訊いた。「雪女は、おまえのこと知ってるのか?」「どういうことだよ?」「おまえの全部を知ってるのか、ってことだよ」「・・・近いうちに話そうと思ってるけど」
加藤は頭をガリガリと掻きながら、余計なお世話だったな、と言い、またグラスに口をつけ、ゴクゴクとウーロン茶を飲み干した。そして、言った。「おまえ、高校を出たらどうするつもりだ?」「まだ、はっきりとは決めてない」と僕は言った。「それなら、俺と組んでガンガンのしてかねえか?」と加藤は僕の目を覗き込むようにして、言った。「のすって、どんなことをするつもりなんだよ?」
加藤は心持ち身を乗り出した。「俺はクラブを経営するつもりなんだよ。すげえカッコいい店にするつもりだ。有名人がごそっと集まるような最先端のな。それを俺と一緒にやらねえか?」「用心棒なら、俺より米軍基地の兵隊崩れのほうがぜんぜん役に立つぞ」加藤は苛立たしそうに首を横に振った。「おまえに用心棒なんてさせねえよ。俺とおまえで共同経営者になるんだ」
「俺は、金なんて持ってねえぞ」「金か」加藤は吐き捨てるように言った。「金なんていくらでも親父が出してくれるよ。俺はおまえにそばにいて欲しいんだよ」「おまえ、もしかしてゲイか?」僕は加藤の勢いを消そうと、わざと冗談を口にした。「いや、ハード・ゲイか?」加藤はクスリとも笑わなかった。加藤は真剣な眼差しを浮かべ、言った。
「俺とかおまえみたいな奴は、初めからハンデを背負って生きてるようなもんだ。俺たちは双子みたいにそっくりなんだ。俺たちみたいな連中がこの社会でのしてこうと思ったら、正攻法じゃダメなんだよ。分かるだろ? 社会の隅のほうでしのいでいって、でかくなって、 そんで、しけたまとも面で俺たちのことを差別してきた奴らを見返してやろうぜ。俺とおまえならできるんだよ。俺とおまえは選ばれた人間なんだよ」
僕はしばらくのあいだ黙って、グラスについた汗を眺めていた。加藤の体が答えを促すように、小刻みに動いている。僕はグラスから目を上げ、言った。 「俺とおまえは似てないよ。俺とおまえは違うんだよ」加藤の眉間に縦皺が刻まれ、口から反論の言葉がいまにも飛び出そうになったその時、下かんだかのフロアから、女の、「いやっ!」という甲高い怒声が聞こえてきた。
加藤は反論の言葉をいったん押し止め、席を立った。用心棒である僕も、席を立って、手摺越しにフロアを見下ろした。フロアのほぼ真ん中あたりで、男と女が揉み合っていた。男のほうには見覚えがあった。僕と同じ高校、同じ学年の、確か小林という奴だったはずだ。いきがった奴で、裏では、僕のことをいつかぶちのめす、とほざいている、という噂だった。
小林は嫌がる女の肘のあたりを掴み、強引に自分のほうに引き寄せようとしていた。女が 「やめてよっ!」と叫び、小林の頬を思い切り叩いた。パン、という音が合図になり、フロアで踊っていた連中のほとんどが動きを止め、揉み合っている二人のそばから離れ始めた。 DJが音楽を止めた。
●"GO"(1998金城一紀) 4-7
ギャラリーのすべての視線が自分の次の行動に注がれているのに気づいた小林は、短い時間でふたつの選択肢のうちのひとつを選ばなくてはならなかった。そして、当然のように小林は間違った選択をした。女の頬が叩かれる、パシン、という音がフロアにこだました。女が頬を押さえながら、小林に向かって「クズ!」と吐き捨てた。
その言葉に反応して小林の手が動こうとした時、加藤が、「おい!」とフロアに向かって大声を降らせた。小林の動きが止まり、視線が僕と加藤に向けられた。小林は上げかけていた手を、ゆっくりと下ろした。でも、目は血走り、いまにも食ってかかってきそうな色を浮かべていた。加藤がなめたように、口元に笑みを点した。それがいけなかった。大勢のギャラリーの視線の中、あとに引けなくなった小林は、また最悪の選択をした。
「だせえチョン公をお供にしていきがってんじゃねえぞ!」チョン公。懐かしい響きだ。物心ついた頃から、最低でも五十回以上は投げつけられてきた言葉だった。僕は最低でも五十発以上のパンチでそれに応えてきた。加藤が僕の顔を見た。僕は肩をすくめた。加藤がフロアに向かって動こうとしたので、僕は肘を掴んで止めた。小林の声がまたフロアから飛んできた。
「下りてこいよ、チョン公。それとも尻尾巻いて国に帰るか、あ?」加藤の目のあたりに、暗い陰が落ちた。僕は加藤の肘を離して、言った。「分かったろ? 俺とおまえは違うんだよ」僕は加藤をロフトに残し、階段を降りてダンスフロアに入った。クラブ全体に、ジリジリと肌を焦がすような緊張感が満ちていた。僕と小林の距離が一メートルほどになった。
小林の顔は緊張で歪み、泣いているのか笑っているのか分からないような表情になっていた。僕はその曖昧な顔に向かって、言った。「おまえ、『日本』ていう国号の意味を知ってるか?」得体の知れない僕の質問に、小林の緊張が一瞬、ほどけた。僕は顔の真ん中に、素早くて、体重の乗った右ストレートを叩き込んだ。
ガシン、という音が鳴ったのとほとんど同時に、小林は、ギャッ、と叫んで、鼻を手で覆い、フロアにうずくまった。僕はとどめを刺さずに、小林を見下ろしていた。小林は顔から手を離して手のひらについだ血を見つめたあと、右手をズボンのポケットに入れ、バタフライナイフを取り出した。シャンシャンという音を出しながら、シングルハンドの四つの動作で刃が開いた。
ギャラリーが息を呑む雰囲気が伝わってきた。小林はゆっくりと立ち上がったのだ。派手な見せ場を作ってギャラリーを楽しませるつもりはなかったので、僕は右の爪先蹴りを、防御がガラ空きの小林の股間に叩き込んだ。ガツン、という音がし、小林は口の端からよだれを垂らしながら、再びフロアにうずくまった。僕は右足を元の位置に収め、小林の背後に回り込み、後頭部を足の裏で軽く蹴った。
小林は前のめりにゆっくりと倒れていき、最終的にはピンで手足を打ちつけられ、あとは解剖を待つばかりのカエルのように大の字でうつ伏せになった。小林は命綱のバタフライナイフを握り続けていた。僕はナイフを持っているほうの手首を、勢い良く踏みつけた。小林の手からナイフが離れた。僕はナイフを拾ったあと、小林の延の部分に片足を乗せ、体重をかけた。小林が無理に動くと、頸椎が折れてしまうはずだった。僕は言った。
「おまえ、喧嘩にナイフを使うってことは、自分もナイフでえぐられてもいいってことだぞ」(僕は、いったい、何を言っているのだろう?)小林の下半身がブルブルと震え始めた。「それに、俺がおまえをえぐったところで、完全に正当防衛だ。ナイフを使おうとしたのはおまえなんだからな。目撃者も大勢いるぞ」僕はまわりを見回した。
誰一人として僕と目を合わせようとしなかった。(僕は、こんなところで、いったい、何をしているのだろう?)「本当なら腹をえぐってやるところだけど、今回は特別に勘弁してやる。その代わり、両耳をそぐか、両手の親指を切り落とすかのどっちかにしてやる。どっちか選べ。耳なら指を一本立てろ。指なら二本だ」(僕は、本当は、こんなこと、ちっとも、言いたくないんだ)
小林は両手を握り締めることで、答えるのを拒否した。全身が小刻みに痙攣している。「両方だ」と言って僕が動こうとし、小林が、ヒャーッという女のような悲鳴を上げると、連鎖反応で女の子たちのあいだからも、キャッ、という短い悲鳴が上がった。「勘弁してやってくれ」「背後から声が掛かった。振り向くと、加藤が立っていた。「勘弁してやってくれ」と加藤が同じ言葉を繰り返した。
僕と加藤は黙って見つめ合った。僕はナイフの刃を収め、加藤に放ったあと、小林の延髄から足を上げた。加藤の脇を通り抜け、フロアからロフトに上がり、テーブルの上に置きっ放しだった「流亡記』を手にして、出口に向かった。すべての視線が僕に集まっていた。出口には、加藤と竹下が並んで立っていた。竹下は俯き、僕と目を合わせなかった。加藤がズボンのポケットから、札束を取り出した。
僕は札束から目をそらし、加藤の顔を見た。加藤は僕の目を見つめ、いまにも泣き出しそうな表情を浮かべた。「・・・すまねえ」僕は加藤の肩を優しく叩き、ドアを開け、外に出た。湿気の強い夏の夜の風が、顔に吹きつけた。月は分厚い雲に隠れていた。僕は少し迷った末に、東京タワーを目指して歩き始めた。
途中、何度か道に迷いながらも、あの日の小学校に辿り着いた。桜井が跨がって得意気な顔をしていたレール式の鉄扉の前に立ち、ぼんやりしていると、雨が落ち始めた。しばらくのあいだ、鉄扉にもたれながら、雨に打たれた。ふと、オヤジとの最後のトレーニングのことを思い出した。
「天国って、ほんとにいい国なのかな・・・」試しにあの時のオヤジのように飛んでみようかと思ったけれど、やめた。落ちてきている雨は、笑ってしまうぐらいしょぼかった。セミのションベン並みだ。もっと激しく降れ。そう願ったけれど、ダメだった。雨は止み始めていた。僕は思った。なんであの時、飛んでおかなかったんだろう?
●"GO"(1998金城一紀) 4-8
夏休みが終わり、二学期が始まった。僕はちょうど沖縄に行けるぐらいのお金を貯めていた。そんなわけで、僕と桜井は沖縄行きを決めた。あとは、いつ行くか、ということだけだった。僕たちは慎重に計画を練ることにした。加藤が僕の前に姿を現わさなくなった。そもそも、学校に来ていないようだった。また旅行にでも行っているのだろう、と思い、あまり気にしなかった。
模試の成績が戻ってきた。驚いたことに、僕の偏差値は卵の白身部分から卵豆腐ぐらいに格上げされていた。いつも小難しい本を読んでいたのが幸いしたのかもしれない。僕の成績を見た桜井は、浮かない顔で何度か、すごいじゃない、と言った。桜井は成績を見せてくれなかった。「帰ろうか」と桜井は浮かない顔のまま、言った。
予備校近くのファースト・フードの店を出た。最寄り駅に向かうと思った桜井の足が、違うほうに向いた。 「ひと駅分だけ歩こうよ」僕は頷いて、桜井の横に並んで歩いた。しばらくのあいだ、無言で歩いた。桜井は子供がするみたいに、道に落ちている小石を蹴ったり、電信柱のひとつひとつにタッチしたり、といったようなことをしていた。
十五分ぐらい歩いたあたりにバスの停留所があって、そこに待合いのベンチが置いてあった。「座ろうか」と桜井は言った。僕たちはベンチに腰を下ろした。僕は訊いた。「どうした?」桜井は、ふう、と息を吐いて、言った。「なんか、わたし、バカみたい。すっごくカッコ悪い」僕は黙って桜井の言葉の続きを待った。
「模試の成績、この前より下がっちゃった・・・。わたしね、こういうことでけっこう落ち込んじゃうタイプなの。ものすっごくくだらないことだって分かってるんだけど、どうしようもないのよね・・・」「くだらないことだとは思わないけど」と僕は言った。「そうかな?」と桜井は言った。「試験の成績のことで落ち込むなんて、やっぱカッコ悪じゃない」「真面目に試験を受けたんだろ?」「うん」
「それなら落ち込んでもいいと思うよ。そのほうが自然じゃないかな」「どうして?」「真面目にやって、自分の目標にそぐわなかったのに、落ち込まないでヘラヘラしてる奴のほうがカッコ悪いよ。例えばそれが試験であっても、オリンピックの百メートル競技でも変わらないと思うけど」桜井はジッと僕の顔を見つめ、言った。
「ほんとにそう思う?」「百パーセント」桜井の顔にホッとしたような笑みが浮かんだ。「杉原も落ち込むこと、ある?」僕は頷いた。「そりゃ、あるよ」「例えば、どんなことで?」「・・・色々だね」桜井は僕の目を覗き込むように見つめて、「落ち込んだ時は絶対にわたしに相談してね」僕は頷いた。残りの道のりを歩くあいだの桜井はひどく上機嫌で、何度も僕に体当たりをしてきた。
「お姉ちゃんが言ってたよ」僕のふとももに回し蹴りを入れながら、桜井が言った。「杉原、 すっごくカッコいいって。特に、目がキリッとしてて鋭くて、むかしの'日本男児'って感じだって」薬局の前に置いてあるカエルのディスプレイを見つけた桜井は、わあ、と喜びの声を上げたあと、カエルに向かって小走りで駆け寄っていった。僕はその後ろ姿を見ながら、さっそく桜井に相談すべきなのかどうかを迷った。
すべてを打ち明けるべきなのかどうかを迷った。でも、カエルの胴体に回し蹴りを入れている桜井を見た瞬間、どうでもよくなってしまった。僕は桜井のそばに駆け寄り、カエルの頭に回し蹴りを入れた。薬局の店主らしきおじさんが店から出てきて、なにやってるんだ! と怒鳴ったので、僕と桜井は慌ててその場から逃げた。途中で桜井が僕の手を握ってきた。僕は桜井の手を強く握り返した。僕たちは一生懸命に走った。
とりあえずは、すべてのことが順調に行っているように思えた。十月に入ってすぐの、ある火曜日の夜、正一から電話がかかってきた。その夜は、とても静かな雨が降っていた。「次の日曜、会おうぜ」と正一は興奮気味に言った。「その日は大事な予定が入ってるんだ」珍しく正一は引かなかった。「少しの時間でもいいからさ」
「電話で話せないのか?」「会って、直接話したいんだよ」「どんなことだよ?」「すげえこと」「だから、どんな風に?」「いいから。とにかく、おまえには絶対に聞いて欲しいことなんだよ。おまえには分かってもらえると思うんだ」僕は日曜の予定を思い浮かべ、言った。
「昼過ぎなら」「何時?」「一時から三時ぐらいまでだな」「上等」「それじゃ、いつもの通りでいいか?」「一時に新宿の東口の改札ね」「OK。なあ、ちょっとだけ教えろよ」「しつこいよ」電話が切れた。僕が「すげえこと」を聞くことは、永遠になくなった。
● "GO"(1998金城一紀) 5-1
都内の高校に通う、十七歳のある男の子がいた。『彼』は通学途中にいつも駅のホームで会う、ある女の子に一目惚れをした。彼女も都内の高校に通う学生で、とても美しかった。彼女に会うたびに、『彼』の胸はひどく苦しくなった。思いをどう伝えれば良いか、分からなかったのだ。まず、彼女のような人間にどんな言葉で話し掛けたら良いか、それさえ 「彼」には分からなかった。
まわりの大人たちはそんなことを教えてはくれなかったし、それに、彼女みたいな人間がどういった人間かということさえ、満足に教わったことがなかった。彼女はチマ・チョゴリの制服を着ていた。「彼」は迷った末に、まわりの友人たちに相談を持ちかけた。
友人たちは当然のように囃し立て、俺たちがついてってやるから思い切って告白しろ、と煽った。『彼』は仲間たちの提案に抵抗できなかった。「彼」は内気で、ひ弱なタイプの男の子だったのだ。はこれを持ってると気合いが入るぞ、とバタフライナイフを『彼』に手渡した。
ある水曜の朝、「彼」と仲間たちは彼女が現われる駅のホームに集まった。「彼」が見かけるいつもとほとんど同じ時刻に、彼女が彼らの前に現われた。彼らの誰もが、彼女の美しさに息を呑んだ。嫉妬を感じて吐かれた仲間の言葉を、近くにいた乗客の一人が聞いていた。「おまえ、あんなチョーセンにふられたら、パシリにしてやるからな」「彼」は仲間たちに背中を押され、彼女に近づいていった。
『彼』は彼女の斜め後ろに立った。「あの…」彼女は反射的に身を震わせた。北朝鮮のテロ行為、日本人拉致疑惑、核開発疑惑、などのすべてはチマ・チョゴリを着ている彼女の細い肩に背負わされる。彼女は以前、五十がらみのサラリーマンに肩を殴られたことがあった。その駅のホームで。恐る恐る振り向いた彼女の目に、神経質に目をしばたいている男の子の顔が飛び込んできた。
「彼」には見覚えがあった。何度か電車の中で一緒になり、ひどく恐い目で自分を睨んでいたことがあった。彼女は持っていたカバンを胸の前で抱え、無意識のうちに防御体勢を整えたあと、言った。「•••なんですか?」『彼』はその時、どう思ったのだろう? 彼女の声の美しさに圧倒されて恐れを感じたのか、それとも、彼女が日本語を喋れることに驚きを感じたのか。とにかく、『彼』はただ黙って彼女の顔を凝視した。
彼女はその視線にたじろぎ、脅威を感じ、心の中で助けを求め、まわりをキョロキョロと見回した。まわりにいた多くの乗客たちは、彼女の視線に射貫かれないよう、慌てて目をあちこちにそらした。 ホームに繋がる階段を、ある学生が上ってきて、ホームに姿を現わした。そいつはまるでそれが当たり前のように、すぐに彼女の視線を受け止め、音になっていない助けの声も聞き取った。
彼女はそいつの後輩だった。そいつは、後輩をそんな目に遭わせる北朝鮮を憎んでいたし、筋違いの弱い者イジメをする日本人を憎んでいた。そいつは小走りで『彼』と彼女のそばに駆け寄り、まず『彼』の背中を強く押した。僕はそいつの勘違いを責めることはできない。その場にいたら、僕だって同じことをしただろう。
僕とそいつは、そういった勘違いをするような状況の中で生きているのだ。いつだって。前によろけた「彼」は、体勢を立て直したあと、後ろを振り返った。プレザー姿の制服の男が立っていて、ひどく険悪な眼差しで自分のことを睨みつけていた。ほんの短いあいだ、『彼』とそいつは無言で睨み合った。
● "GO"(1998金城一紀) 5-2
僕が新聞で読んだ話では、その時に「彼」は、「その男が彼女の彼氏で、自分に暴力を振るうと思った。「恐かった。それに、 みんなが見てたから、とてもみじめで恥ずかしかった」と警察に語ったということだった。 そして、そこから先のことは、「よく覚えてない」。電車の到着を知らせるアナウンスがホームに流れた。
それが合図だったかのように、「彼」 は制服の上着のポケットからバタフライナイフを取り出し、無器用な手つきで刃を開き、そいつの上半身に鋭い刃を向けた。そいつは生まれてから一度も殴り合いの喧嘩をしたことがなかったし、当たり前だけれど、ナイフを向けられたこともなかった。
喧嘩馴れをしている僕でも、初めてナイフを向けられた時は、一瞬にして体中の毛穴がすべて開いた感覚を味わい、ションペンをちびりそうになった。そいつ、正一は、僕よりも勇敢だった。持っていたカバンでナイフを叩き落とそうと、ちっとも臆することなく『彼』に詰め寄った。僕は正一に教えておくべきだった。初めてナイフを向けられた時、僕はカール・ルイスより速く走って逃げた、と。
それに、この世界で生き残る奴はみんな臓病者で、真に勇敢な者は早死にする運命にあるのだ、と。そして、おまえはこの世界に必要な人間だから、ナイフを向けられたら、弾丸よりも速く走って逃げなくてはダメなのだ、と。正一は足を前に一歩踏み込んでカバンを振り上げ、素早い動作で思い切り振り下ろした。
『彼』は咄嗟にナイフを持っていないほうの手を顔の前に上げ、カバンを受けた。二人の距離が縮まった。正一がもう一度カバンを振り上げた時、『彼』は恐怖のために反射的にナイフを下から上へと斜めに振り上げた。それは、正一が勢いをつけてカバンを振り下ろそうと、上半身を前にのめらせたのとほぼ同時だった。
ナイフが正一の首に走る左の頸動脈をえぐった。『彼』が腕に伝わってきた得体の知れないイヤな感触を振り払うように、本能的にナイフを持った手を引くと、正一のカバンが振り下ろされてきて、ナイフにぶつかった。カラン、という音を立てながら、ナイフがホームに転がった。電車がホームに入ってきた。
正一は反射的にえぐられた箇所に手のひらをあて、 押さえつけた。指の隙間から、シャワーのような勢いで血が噴き出し始めた。そばで一部始終を見ていた彼女は大きく目を見開き、小さく口を開け、声にならない叫びを上げた。あっという間に、本当にあっという間に、正一が着ていたブレザーの下の白いシャツがどす黒い赤に染まっていった。
血を見た『彼』は、上半身を前に傾けたあと、胃の中のものすべてを吐き出し始めた。正一がホームにひざまずいた。彼女が近寄り、小さな手を頸動脈に
あてられている正一の手のひらの上に重ねて載せた。彼女の手があっという間に血まみれになった。
電車が停まり、ドアがいっせいに開いた。正一と彼女と『彼』がいる付近のドアからは、ホームにいる乗客は誰一人として乗車しなかった。「救急車を呼んでください!」。彼女が誰にともなく叫んだ。乗客たちはその言葉に真剣に耳を傾けることなく、整然と電車に乗り込んだ。彼女は閉まっていくいくつものドアに向かって、もう一度叫んだ。
「救急車を呼んでください!」。何事もなかったかのように、本当に何事もなかったかのように、電車は発車し、次の駅へ向かって走り去っていった。『彼』を煽った仲間たちの姿は、ホームからなくなっていた。ようやく若い駅員が近づいてきた。「どうしたんですか?」。「救急車を呼んでください!」。
若い駅員は彼女の叫び声の重さにきちんと反応し、瞬時に駅長室に向かって走って行った。彼女の体に、正一のぐったりとした体が寄りかかってきた。彼女はそれをしっかりと受け止めた。彼女はホームにべったりと腰を下ろし、後ろから抱きかかえるようにして、正一の体を自分の膝の上に横たえさせた。
● "GO"(1998金城一紀) 5-3
それ以上、正一に対して彼女ができることは何もなかった。救急車が到着し、担架が運ばれてくるまでのあいだ、彼女は目の前で吐き続けている『彼』と、遠くから物見高そうな視線を向けるだけの乗客たちを、時々、睨げて、泣いた。正一は出血多量で死んだ。病院に到着した時にはすでに手遅れの状態だったようだ。
「彼」 は警察に逮捕された。『彼』の心神の耗弱は激しく、取り調べは途中で打ち切られ、留置場に送られた。深夜、「彼」がひどい下痢の症状に襲われ、脱水症状に陥った。「彼」は留置場を出され、近くの大学病院に送られた。点滴治療の準備が進められていた病室は六階で、大きな窓が半開きになっていた。
それは、本当にあっという間の出来事だったそうだ。それまで歩く気力もなく寝台に横たわっていた「彼」が急に窓に駆け寄って、窓を全開にし、窓枠に片足を掛けた。一瞬動きを止め、後ろを振り返った『彼』は、病室にいる人たちの誰にともなく、「ごめん」とつぶやいたあと、窓枠を越え、外の闇に向かって身を投げ出した。救急治療を受けたけれど、ダメだった。
『彼』と正一は同じ日に死んだ。そして、その病院は、 正一が運び込まれた病院でもあった。悲劇だった。悲劇以外のなにものでもなかった。でも、どんな悲劇からだって、人はどうにか一片の「救い」を見出そうとする。僕だって同じだ。事件の二日後、僕は民族学校時代のある友人から、現場にいた彼女の話として、次のようなものを聞いた。
――ぐったりしたまま彼女の膝の上に横たわっていた正一の頭がふと、動き始めた。彼女は正一の顔を覗き込んだ。正一の青白い顔には薄い笑みが浮かんでいた。そして、視線は線路のほうに向けられていて、まるでホームに入ってきた電車の姿を追うように、進行方向にゆっくりと動いていたそうだ。
正一は間違いなく線路を駆け抜ける僕の姿を見ていたのだ。きっとそうだ。そうであって欲しい。そうであってなにが悪いというのだ?
僕が正一の死の報を受けたのは、事件当日の夜のことで、電話は正一のお母さんからだった。前夜の正一の電話から、まだ二十四時間が経っていなかった。「・・・正一が死にました」僕が電話を受けてすぐに、お母さんはそう言った。お母さんの声はいつもより透き通っていて、僕にはとても綺麗に聞こえた。
こ意味がうまく呑み込めなかった僕は、ただ、え?という声を発しただけだった。僕の声が合図だったかのように、お母さんが泣き始めた。低く、か細い嗚咽が僕の耳に次々と流れ込んできた。僕は詳しい説明を訳きたいのを堪えて、ずっとお母さんの嗚咽を聞き続けた。 途中、キャッチホンの合図の信号音が何度も鳴った。僕は、こんなものを発明したのはいったい誰だ? と思いながら、すべてを無視した。
お母さんは二十分近く泣いたあと、ごめんなさいね、と謝り、正一を死に至らしめた事件について話してくれた。「正一は、本当にあなたのことが好きだったのよ。これまで正一につきあってくれて、本当に本当にありがとね」電話を切る前、お母さんは僕にそう言った。
僕はただ、はい、と応えただけだった。 電話を切ったあと、僕はベッドに仰向けに寝転がり、しばらくのあいだ天井を見続けた。 一時間ぐらいは見続けたと思う。そのあいだ何を考えていたのかは、全然思い出せない。ベッドから降り、居間へ向かった。オフクロはナオミさんとプーケットに行っていて、家にはいなかった。
オヤジはゴルフのレッスンビデオを見ていた。 「正一が死んだよ」 オヤジはすぐにリモコンを使ってビデオを停め、テレビの画面を消した。僕は事情をオヤジに伝えた。オヤジは話を聞き終えると、そうか、と言って、深いため息をついた。そして、座っていたソファから立ち上がって僕に近づき、頭を荒っぽく撫でてくれながら、言った。
「いまはあまり深く考えるなよ。バカみたいに泣いたり、食ったり、そういうふうにしたほうがいい」僕は頷き、ありがとう、と言って、居間を離れた。部屋に戻って数分後に、電話のベルが鳴った。子機のスイッチをONにすると、桜井の声が聞こえてきた。「さっき、電話に出なかったね」と桜井は言った。
僕は正一のことを話そうかどうか迷ったけれど、結局、話さないことにした。色々なことをいっぺんに、うまく説明できる気力もなかったし、自信もなかった。「ちょっといま色々と立て込んでるんだ」と僕は言った。「また明日でいいかな」短い沈黙のあと、桜井が言った。
「どうかした?」「近いうちに話すよ」「・・・うん、分かった。明日、電話待ってる」電話を切ろうとすると、桜井が思い出しだように、慌てて言った。「日曜日のこと、覚えてるよね?」「うん」「ならいいの」僕は電話を切った。
● "GO"(1998金城一紀) 5-4
日曜日の朝、僕は家を出た。僕と桜井は、つきあい始めてすぐに、「カッコいいもの探し」の一環として、いつかオペラを観に行こう、と約束した。僕たちはオペラを観たことがなかったのだ。僕たちは多くの有名なオペラ作品をCDで聴き、その中から実際に観てみたいものをピックアップしていく作業をずっと続けていた。
『フィガロの結婚』、『タンホイザー」、「蝶々夫人」、「ばらの騎士」、「カヴァレリア・ルスティカーナ」、「椿姫」… 。僕は「カヴァレリア・ルスティカーナ』が観たいと言い、桜井はどうしても「椿姫」が観たいと言った。
当然僕が折れ、「椿姫」を観に行こうということになったのだけれど、残念ながら、「椿姫」の上演予定は当分のあいだなかった。桜井は十一月からの数ヵ月を受験勉 10 強にあてるつもりでいたので、オペラ鑑賞のリミットを十月までにしていた。そして、十月中の公演予定には・「カヴァレリア・ルスティカーナ」があった。
僕たちは八月の頭には、驚くほど値段の高い公演チケットを買い、「カヴァレリア・ルスティカーナ」の予習を始めた。AVルームで何度となくCDを聴き、歌詞と内容を把握した。来たるべきオペラ初鑑賞に向けての準備は着々と進んだ。準備は万端に整った。だから、公演の前日の土曜日の夜に、僕がキャンセルの電話をかけると、桜井はかなり不服そうな声で、「どうして?」と理由を訊いた。
「友達の告別式に行かなくちゃならないんだ」僕がそう言うと、桜井は少しの沈黙のあと、訊いた。「いつ死んだの?」「水曜日」「どうして今日まで言ってくれなかったの?」「•••」「そういうのおかしいよ、絶対」「そうだね」しばらくのあいだ、重い沈黙が流れた。「その友達って、すごくむかしからの?」と桜井は訊いた。「うん」
「ねえ、もしかしてわたしって頼りないのかな?」「どうしてそう思う?」「わたし、もしむかしからの友達が死んじゃったら、絶対に杉原に話して、慰めてもらおうとすると思う。それに、落ち込むことがあったら、わたしに話してって言ったでしょ?」「・・・ごめん。でも、桜井が頼りないとかそういうことじゃないんだ、絶対に。事情は近いうちに話すよ」
以上僕を責めるようなことはしなかった。僕が、チケットがもったいないから他の誰かと観に行ってくれ、と言うと、桜井は元気のない声で、そうするかも、と答えた。
電車の駅をふたつ乗り過ごし、バスの停留所をみっつ乗り過ごしたので、告別式の時間に一時間近く遅れてしまった。
正一の家からそう遠くない、とても大きな斎場に入っていくと、正一の告別式はすでにクライマックスを迎えていて、お母さん方の親戚の叔父さんがスピーチをしていた。
どうしてお母さんがスピーチしないのか僕にはよく分からなかったけれど、そんなことはどうでもいい気がしたので、僕は正一の遺影を胸の前で抱えて立っているお母さんの姿をぼんやり見ながら、叔父さんのスピーチを聞くともなく聞いていた。お母さんはひどくやつれていた。
僕が聞いていた十分ほどのスピーチのあいだ、叔父さんは三回も、「正一は生きて二十歳を迎えられなかった」と言った。僕はそれを聞くたびに目眩を感じた。
告別式が終わった。係の人が、「会葬者の皆様には簡単なお昼ご飯が用意されておりますので、お二階の座敷のほうにお上がりください」と言った。階段のほうへと移動している会葬者の間を縫って、お母さんに近づいた。お通夜の時は黙礼を交わしただけだったので、きちんと挨拶をしておきたかったのだ。
お母さんの前に立った。僕の姿を見たお母さんは、体中の空気が抜けてしぼんでしまうような深いため息をひとつついたあと、僕の胸に顔をつけて泣き始めた。正一の遺影が入ったちょくりっろとう額縁の角が、何度か僕の顎に当たった。お母さんは時々、どうしてあの子が死ななくちゃいけなかったの、と言いながら、泣き続けた。僕は直立不動のまま、その言葉を聞いた。
親戚の叔父さんに引き離され、お母さんが僕の胸の中から出ていった。正一が焼かれる場所へ向かうお母さんの後ろ姿を見送っていると、後ろから肩を叩かれた。振り向くと、プレ 「ザーの学生服姿の連中が大勢立っていた。僕は肩を叩いたと思われる奴の腹を、軽く殴った。元秀はおどけたように両手で腹を押さえ、頑丈な四角い顎を従えた、いかつい顔に笑みを浮かべながら、言った。
「久し振りだな。どうしてずっと連絡くれなかったんだよ」「そっちこそ」僕と元秀はお互いになんとなく気まずい感じで、笑った。僕と元秀は小学校以来の悪友だった。僕が悪さをする時、いつも隣には元秀がいた。ミニパトに絵の具入りの水風船を投げたのも元秀だし、一緒に名古屋に行ったのも元秀だった。
● "GO"(1998金城一紀) 5-5
ちなみに、中三の時、つきあいの悪くなった僕のあとを尾けて学習塾通いを目撃し、全校にすっぱ抜いたのも元秀だった。でも、僕が日本の高校に通い始めてからは、元秀とは一度も会わなくなってしまった。「おまえ、ピヨってねえよな?」元秀が顔を僕に近づけて、そう言った。
ひどくヤニ臭い息がかかった。僕は、今度は思い切り元秀の腹を殴った。元秀が、ウッという呻き声を上げた。「殴っていい約束だったよな?」僕と元秀は中二の夏休みに、二人で禁煙の誓いを立て合った。先に誓いを破ったほうは殴られても文句を言ってはいけない、という罰則つきで。
元秀は腹をさすりながら、満足げに微笑み、言った。「明日、久し振りに一緒に暴れようぜ」「なにして暴れるんだよ」「狩りに行くんだ」「誰を」「正一を殺った奴を煽った連中だよ」「どいつか分かってんのか?」「分かるもんか」と元秀は吐き捨てるように言った。「同じ学校の奴を誰か一人さらって小突いてやればすぐに吐くだろ」
僕は黙って、元秀の顔を見つめた。そして、背後にいるむかしの級友たちの顔を見回した。みんな生け贄を欲しがっていた。僕は言った。「やめとけよ」「あ?」元秀の眉間に深い縦皺が刻まれた。僕は続けた。「今回のことは新聞とかテレビにけっこう取り上げられたから、地元の警察は問題が起こらないようにって、当分のあいだ高校のまわりを張ってるぞ」
「警察がなんだって?」元秀の顔に凶暴な色が濃く浮かんだ。「警察が張ってるから、おまえはやめとけって言ったのか? あ?」「連中を痛めつけてなんになるっていうんだよ。そんなことしたって――」元秀が人差し指と中指の二本を立てて僕の学生服の胸のあたりを小突き、僕の言葉を遮った。
元秀はすぐに指を引き戻し、突いた指先を不思議そうに眺めた。元秀が突いたのは、さっきまで正一のお母さんが顔をつけて泣いていた部分だった。元秀はかすかに濡れた指先をブレザーでこすったあと、言った。「来るのか来ねえのか、どっちなんだよ?」僕はきっぱりと言った。「行かねえよ。正一もそれを望んじゃいねえはずだ」
「ほざいてんじゃねえよ」と元秀は抑えた声で言った。「確かに、正一は気の毒だった。でも、もう死んじまったんだよ。死んだらおしまいだ。だから、正一が残した問題は、生き残ってる俺たちが片付けなくちゃいけねえんだ。正一がそれを一番して欲しがってるのは、おまえのはずだぞ。そのおまえが、なにピヨったことほざいてんだよ」「ほざいてんのは、てめえのほうだろ」と僕も抑えた声で言った。
「おまえらに正一のなにが分かるってんだよ。おまえら、正一とまともに話したことがあんのか? おまえらはただちから 「暴れたいだけだろ。そんなら族とでもイチャついてろよ」 ひどく凶暴な雰囲気が、僕たちのいる一帯に充満した。元秀と背後の連中の無数の視線が突き刺さり、痛い。僕は短くため息をついて、言った。
「正一を静かに行かせてやろうぜ」「おまえ、どうしちまったんだよ」と元秀は困ったような表情で、言った。「日本学校に行って、日本人に魂を売っちまったのか」魂という言葉を聞いて、ふと正一が「吾輩は猫である』の中に書かれている、大和魂に関する一節を暗誦したのを思い出した。でも、詳しくは思い出せなかった。僕は少し迷ったあと、言った。
「魂のことなんて知ったこっちゃねえよ。でも、もし俺が朝鮮人の魂なんてものを持ってたとしたら、そんなもんいくらでも売ってやる。おまえら、買うか?」元秀はひどく遠い眼差しを僕に向けた。
――なあ、そんな目をするなよ。おまえは忘れたのか? 名古屋に着いた夜に宿に泊まる金がなくて、パチンコ屋の駐車場で野宿をした時、アスファルトの上に大の字に寝転がりながら夜空を見上げて、もっと遠くに行きてえなあ、って二人で言い合ったじゃねえか。俺たちは行けるんだぜ。いますぐにだって出発できるんだぜ・・・。
元秀はまた人差し指と中指で僕の胸を小突いた。「おまえとは、これっきりだ。今度道で会っても、話し掛けるなよ。もしなれなれしく近寄ってきやがったら、速攻襲ってやるからな」元秀はそう言って、後ろを振り返り、行こうぜ、とみんなに声を掛けた。元秀と他の連中が僕の横をぞろぞろと通り過ぎていく。その中の誰かが僕の耳に向かって、「こうもり野郎」と吐き捨てた。
みんなが僕の横を通り過ぎたあと、僕は一度だけ後ろを振り返った。元秀が立ち止まって、僕を見ていた。恐ろしいほどに無表情だった。僕は無理に笑みを作って、元秀に向けた。元秀は無視して、僕に背中を向けた。斎場を出た。降りるべきバスの停留所を四つ乗り過ごし、反対方向のバスに乗ったもの今度は五つも乗り過ごした。そんなことをしているうちに、斎場の最寄り駅に着いたのは夕方近くになっていた。 ていた。
● "GO"(1998金城一紀) 5-6
ホームに繋がる階段を下りていると、なぜかさっきの「こうもり野郎」という声が耳の奥で蘇った。本当にこうもりだったらいいな、きっとどこにだって自由に飛んでいけるな、 と思った時、ひどい目眩を感じて体のバランス感覚を失いそうになった。階段の途中で、お尻をべったりとつけて座り込んだ。
目眩はすぐに止んだけれど、今度はどうしようもなく胸が苦しくなった。僕は、「うーうーうー」という低い唸り声を上げた――。それは僕が中二の時のことだった。僕が所属していたバスケ部は、民族学校の全国大会の決勝まで進んだ。試合は、相手が大阪の連中だったせいか、『伝統の巨人対阪神戦』みたいな様相を呈して、異様に白熱した。
激しいコンタクト・プレイで何人もの怪我人が出たし、 観客のあいだでも喧嘩が起きて怪我人が出たほどだった。僕はポイント・ガードで試合に出ていたのだけれど、僕をマークしている選手から、巧妙なパンチを四回顔面に食らった。僕はそいつに膝蹴りと肘打ちと頭突きと目潰しの仕返しをした。その中の目潰しが審判にバレて、一度ファウルを宣告された。
試合は一点差で、僕たちが負けた。試合後、控え室に戻った僕たちは、黙って下を向き、 10 悔しさを堪えていた。誰か一人が泣き出したら、それは瞬く間に伝染して、みんなも泣き出していたことだろう。コーチが僕たちの学校の校長を連れて、控え室に入ってきた。「よくやった。わたしはおまえたちを誇りに思う」
コーチのその言葉で、一年坊主の一人が泣き始めた。僕たちの体の中の「泣きのスイッチ」がONになろうとしたその時、コーチが泣いている一年坊主に近寄っていき、オリンピックの円盤投げ選手並みの腕の振りで、一年坊主にビンタを見舞った。一年坊主は吹っ飛び、ドン!という大きな音を立てながら、ロッカーにぶつかった。僕たちはその音に身を震わせた。コーチはひどく冷静な口調で、僕たちの誰にともなく、言った。
「人前で泣く奴があるか。おまえたちはいつも敵に囲まれて生きてるんだぞ。敵に涙を見せるっていうのは、憐れみを乞うことと一緒だ。敗北を認めることと一緒だ。おまえらが敗北を認めるということは、朝鮮人全体が敗北を認めるということになるんだ。だから、人前で泣くような習慣は絶対につけるな。泣きたかったら、部屋にこもって独りで泣け」
コーチが校長のほうを見た。校長は何事もなかったような顔で、軽く頷いた。コーチは言った。「早く着替えろ。今日は校長先生がおまえたちの健闘を称えて、晩御飯をごちそうしてくれるそうだ」コーチと校長が控え室を出ていった。控え室の中には、ひどく重苦しい雰囲気が充満していた。
ある三年の先輩が、ビンタを食らった一年坊主に近寄り、頭を撫でてやった。それを見たキャプテンが突然、「うーうーうー」と低い唸り声を上げ始めた。キャプテンの目は真っ赤だった。唸り声はすぐに僕たちのあいぎに伝染した。みんな目を真っ赤にしながら、「うーうーうー」と唸り声を上げた。みんな泣かないように必死で、「うーうーうー」と唸り続けた。
それ以来、耐えられないほど辛かったり悲しいことがあったりした時に「うーうーうー」と唸り声を上げることは、コーチの知らないバスケ部の習慣になった。そんなわけで、僕は駅の階段に座って、「うーうーうー」と唸り声を上げ続けた。夕刻のラッシュ時で駅はかなり混んでいたのだけれど、僕のまわりには見事なほどに誰も近寄らなかった。
時々、不機嫌そうな顔をしたスーツ姿の若いサラリーマンたちが、僕に向かって舌打ちをした。おまえらが俺の敵なのか? 僕の心強い味方だった正一の顔が思い浮かんだ。僕は唸り声を止め、正一に話し掛けた。
「なあ、おまえが言ってた'すげえこと' っていったいなんだったんだよ。ミトコンドリア DNAよりすげえのか? それさえ知ってれば世界中から差別がなくなるとか、そういったもんだったのか? でも、本当にそんなもんがあったらすげえよな。おい、もしかして、女ができたとか、そんなことじゃなかったろうな。
でも、俺としてはそっちのほうが良かったぜ。俺、おまえが女といるところ、一度も見たことなかったもんな。惜しかったな、おまえ、日本の大学行ってたら、絶対もててたぜ。おまえみたいな奴、どこにもいないもんな。なあ、なんで死んだんだよ? 俺、独りじゃちょっとキツイぜ。なあ、なんで死んだんだよ?」
僕は目を閉じて深呼吸をしたあと、階段から腰を上げた。階段を下り切ってホームに入り、公衆電話を探した。キオスクの脇にあるのを見つけて、そこに向かった。受話器を上げたものの、テレホンカードを家に忘れてきたことに気づき、ズボンのポケットに手を入れて十円玉を探した。十円玉がなかったので百円玉を入れ、ゆっくりと桜井の家の電話番号を押した。オペラに行っていたら、家にはいないはずだった。
● "GO"(1998金城一紀) 5-7
「・・・この前テレビでやってたのを見たんだけど、現代人の祖先ていうのは、実は北京原人とかネアンデルタール人じゃなくて、二十万年前にアフリカ大陸で生まれた猿人らしいんだ。それはミトコンドリアDNAっていうDNAの配列の調査でネアンデルタール人のものと現代人のものを比べたことで分かったらしいんだけど、ミトコンドリアDNAのことは面倒臭くなるから、今度また説明するよ。
アフリカ大陸で生まれた新しい猿人は、進化を重ね『ていって、ついには僕たちの直接の祖先である現代型の新人という存在になる。その新人の集団の中から、やがてアフリカ大陸を脱け出して世界各地に拡がっていくことを選んだグループがいくつか出てきたんだ。移動のきっかけは、勢力争いだったかもしれないし、環境の変化が原因かもしれない。
地球は約十三万年前に氷期に入ったから、アフリカがものすごく寒くなって、暖かい場所を目指したのかもしれない。僕はそういうのとはぜんぜん違うきっかけだと思うんだけど、そのことはあとで言うね。アフリカを出た新人のいくつかのグルーブは、中近東のあたりでヨーロッパに向か集団と、アジアに向かう集団に分かれた。
そこで分かれたのが、のちのいわゆる「白色人種」と「モンゴロイド」、つまり僕たちのような 『黄色人種」の始まりなんだ。「モンゴロイド』になることを選んだ集団は、アジアの土地目指して進んでいった。アジアの環境に応じた体と顔を徐々に作りながらね。彼らは途中では絶対に足を止めなかった。
親が死んだら子供が意志を受け継いで、ただひたすら足を動かして移動し続けたんだ。そして、アフリカから十万年近い年月と一万数千キロの旅の果てに、日本に辿り着いたモンゴロイドたちがいた。そのモンゴロイドたちが、いわゆる縄文人と呼ばれる人たちで、大むかしの日本の住人だった。普通ならここで、めでたしめでたし、って感じで話は終わるんだけど、実はここからが面白いんだ。
極東に辿り着いても、旅を止めないモンゴロイドたちがいたんだ。彼らはユーラシアをぐんぐん上がって行ってシベリアに辿り着き、その頃水期で海水面がめちゃくちゃ下がって陸地になってたベーリング海峡を歩いて、アメリカ大陸の西の端のアラスカに渡った。でも、彼らはアメリカ大陸に渡っただけでも、満足しなかった。彼らはアメリカ大陸を一気に南下し始めた。途中で、マヤとかアステカ文明なんてものを築きながらね。
そして、彼らはついに南アメリカの南の涯まで辿り着いた。何代もの代替わりの末に終着した旅だったけど、一番初めの一歩を踏み出した奴の勇気と名誉はきちんと子孫の体の中に残されてる。彼らが日本に留まったモンゴロイドと同じ集団に属していたことは、ちゃんと調査で判明してるんだ。縄文の血を受け継いでるアイヌの人と、アンデスのインディオの人のミトコンドリアDNAの配列を比べたら、ほとんど同じという結果が出たらしいんだ。すごいと思わないかい? アフリカ大陸からの距離を入れれば、二万五千キロもの旅だよ。
それでね、彼らをそこまでの旅に駆り立てたのは、勢力争いが原因でも、環境の悪化が原因でもないと僕は勝手に思ってるんだ。彼らはただ、陸地の涯がどんな場所か見たかっただけなんだよ。きっとそうに違いないんだ。そのどうしようもなく単純な衝動を刻んだ遺伝子は、何代もの代替わりを経ても、決して消えなかった。そもそも僕たち人類はね、定着する性質を持たない種だったんだ。それが農耕というものが発明されて――」
「結局、何が言いたいの?」と桜井が柔らかい微笑みを口元に浮かべて、訊いた。「僕が言いたいのは」僕は桜井の目を見つめながら、言った。「彼らがすごくカッコいいってことで、僕は彼らのようになりたいっていうことなんだ」 「要するに、わたしの気を惹こうとしてるんでしょ?」と桜井は笑みを深めて、言った。 僕は素直に頷いた。桜井はクスクスといった感じで笑ったあと、 ヘクスといった感じで笑ったあと、僕の目をジッと覗き込んで、言った。
「この前テレビでやってたのを見たんだけど、北海道に盲導犬の老犬ホームっていうのがあってね、そこは、歳をとって盲導犬の役割をきちんと果たせなくなった犬が余生を過ごす場所なのね。わたし、そういったコンセプトの場所があるだけでも、すごく感動しちゃったから、もう食い入るようにテレビの画面を見続けたのね。そしたら、十年も一緒に暮らした人と犬のお別れの様子が映し出されたの。
目が見えないおばさんと、オスのゴールデン・レトリーバーのカップルだったんだけど、おばさんと犬は一時間ぐらいずーっと抱き合ったまま動かなくて、ようやく係の人に引き離されてお別れを済ませたの。車に乗って老犬ホームを離れていくおばさんは、窓から身を乗り出して、手を振りながら、じゃあね、とか、バイパとか、犬の名前を叫ぶんだけど、犬のほうはジッと座ったまま車のほうを見てるだけなのね。
それは仕方ないことなの。盲導犬はそういう風に躾られてるから。絶対に心の動揺を態度に出しちゃダメだし、鳴き声を上げてもダメなのね。車が老犬ホームの敷地から消えても、犬はお別れを済ませた場所から一歩も動かないで、おばさんが消えていった方向をジッと見てた。
何時間もよ。十年のあいだ片時も離れずにいた人がそばからいなくなったんだもの、ショックで動けなくなったんだと思うわ、きっと。おばさんと別れたのはお昼頃だったんだけど、夕方ぐらいに雨が降り出したの。ものすごく強い雨が。そしたら、ジッと前を見つめてた犬が顔を上げて、雨が落ちてくる空を見上げたと思ったら、いきなり、ワオーン、て鳴き始めたのね。
ワォーンワオーン、て何度も何度も。でも、その様子はちっともみじめだったり、みっともなかったりしないの。犬の背筋はピーンと伸びてて、胸から顎のラインはまっすぐで、まるでよくできた彫刻みたいだった。わたしもう、ボロボロ泣いちゃった。犬に合わせて、ワオーンワオーンて感じで」「結局、何が言いたいんだい?」と僕は訊いた。
「わたしが言いたいのは、その犬みたいに好きな人を愛したいってこと。その犬の鳴き声は、わたしがこれまで聴いてきたどんな音楽よりもきれいだった。わたし、好きな人をきちんと愛し続けて、もしその人を失ったとしても、あの犬みたいに泣けるような人間になりたいの。わたしが言いたいこと、分かる?」
僕はしっかりと頷いたあと、手を伸ばし、テーブルの上に載っていた桜井の手の甲の上に自分の手を重ねた。僕たちはしばらくのあいだ、言葉を交わすことなく、ただ見つめ合った。喫茶店のウェイターがやってきて、グラスに水を注ぎ足していった。桜井が言った。
「ずーっと泣きそうな顔してるね」「そうかな」「うん」桜井は少しだけ俯いて、僕から目をそらし、ふうと息を吐いた。胸が小さく上下した。「どうした?」僕が訊くと、桜井は顔を上げ、僕の目を見つめた。「今日、ずーっと一緒にいてあげようか?」「え?」「杉原が寝て起きるまで、ずーっと一緒にいてあげる」「・・・いいの?」「駅き返さないでよ、お願いだから」 桜井はそう言って、優しく微笑んだ。
● "GO"(1998金城一紀) 5-7
銀座の四丁目近くにある喫茶店を出て、有楽町駅に向かった。桜井が構内にある公衆電話で家に電話をかけているあいだ、僕は駅の近くにあるコインロッカーに学生服の上着を預けに行った。コインロッカーの前に立ち、上着の内ポケットに入れておいた、ふたつの香典袋を取り出した。遅刻と元秀たちとのゴタゴタが重なって、渡すのを忘れてしまったのだ。
まず、自分の香典袋から中身の三万円を取り出してズボンのポケットにしまった。次に、急な仕事で告別式に行けなかったオヤジから預かった香典袋を開けた。真新しい一万円札が十枚入っていた。それもズボンのポケットに入れた。きっと、正一もオヤジも許してくれるだろう。
駅の構内に戻ると、桜井はまだ電話をかけ終えていなかった。壁に設置されている時計を見た。午後十時十分前だった。十時ちょうど、電話を終えた桜井が僕のところへ駆け寄ってきた。「トラブル?」僕がそう訊くと、桜井は慌てて、ううん、もと首を横に振った。
「ぜんぜん大丈夫。お父さんには友達のところに泊まるって言っといた」僕たちは帝国ホテルに向かった。別に悪いことをしているわけではなかったので、僕は自分の恰好も顧みず、堂々とロビーに入っていった。桜井とはロビーに入ったところで別れ、 ティールームの脇に設置されているソファで待っていてもらうことにした。
フロントに向かった。若いフロント係は僕を見てもなんの動揺も示さず、きちんとお辞儀をしながら、いらっしゃいませ、と言った。「泊まりたいんですけど」と僕は言った。「御予約はなさっておられるでしょうか?」「いえ」それからしばらくのあいだ、部屋の種類と料金に関する簡単な説明を受けた。
料金は部屋の階数や向きによって違った。フロント係と色々と検討した結果、十二階にある日比谷公園向きのデラックスルーム、というやつにすることにした。とても眺めがいいのだそうだ。料金は香典で充分に足りた。「お支払はカードでございましょうか、それとも、現金でございましょうか」とフロント係が訊いた。「現金で」前払いかと思ってズボンのポケットに手を入れると、タイミング良く、のちほどでけっこうでございます、という声が掛かった。宿泊者カードを渡されたので、記入した。面倒臭かったから、僕と桜井が夫婦ということにして、名前を「杉原』で統一した。問題だったのは桜井の下の名前で、わざわざ訊きに行くのも変だったから、僕が適当につけることにした。
「恵子』ということにしておいた。キーを受け取り、フロントをあとにした。桜井と合流したあと、エレベーターに乗り、十二階に上がった。フロア受付の前を通り過ぎ、長い廊下を歩いて、部屋のドアの前に立った。ドアを開け、中に入った。背後でドアが閉まると、僕と桜井はほとんど同時に、ふう、とため息をついた。「緊張したねえ」と桜井が微笑みながら、言った。僕は素直に頷いた。
部屋は僕がこれまで泊まったことのあるホテルのどの部屋よりも広く、趣味が良かった。部屋の中にはどっしりとした感じの木のライティング・デスクや、どっしりとした感じのソファ・セットが置いてあり、壁にはどっしりした感じの額縁に入った絵が掛けられていた。 浮ついていた僕と桜井はどっしりとした家具や調度品に見切りをつけ、ベッドに向かった。
僕たちはそれが当たり前のように、靴を脱いで広いダブルベッドの上に乗り、ぴょんぴょんと飛び跳ねた。桜井は羽織っていた赤いカーディガンを飛び跳ねながら器用に脱ぎ、壁に向かって放り投げた。白いワンピースだけの恰好になった桜井は、ベッドに着地する時に裾がめくれてパンティーが見えるのも気にせずた、飛び跳ね続けた。本当に楽しそうだった。
三十回ぐらい飛び跳ねて、お互いに息が切れ始めた時、桜井が僕に向かってダイブをしてきた。僕は空中で桜井の体を抱き締めて受け止めたあと、ベッドに着地した。僕たちは、はあはあ、と息をしながら、ベッドの上に立ったまま見つめ合った。桜井が急に唇を僕の唇に押しつけてきた。僕たちは舌を絡ませながら、長いあいだ激しいキスをした。途中何度か唇を離して息継ぎをし、また唇をつけ合った。
僕が桜井の腰に両手をあてて親指を上下に動かすと、桜井は唇を離し、僕の胸に頭を載せながら、濃い吐息を口から漏らした。僕は手を徐々に下へ下ろしていき、ワンピースの裾を桐んで、ゆっくりと上にずり上げていった。桜井が両手を上げてバンザイの恰好をした。僕は一気にワンピースをずり上げ、脱がせたあと、ワンピースを壁のほうに放った。
下着姿の桜井が僕のワイシャツのボタンに手を掛けた。ひとつひとつ丁寧に外していく。 桜井のリードに任せ、シャツとタンクトップを脱ぎ終えた。桜井はシャツとタンクトップをベッドの脇に落とし、僕のズボンのベルトに手を伸ばした。「これは自分で脱ぐよ」僕がそう言うと、桜井はクスッと笑い、ベッドから飛び降りた。
そして、壁に向かい、照明のスイッチに手を伸ばし、部屋の明かりを消した。戻ってきた桜井は、ベッドの縁に腰を掛け、ブラジャーを外した。僕はベッドから降り、暗闇の中でズボンと靴下を脱いだ。トランクスをどうしようか迷ったけれど、とりあえず脱がないままにした。ベッドのほうに目を戻すと、桜井が仰向けに横たわっているのが見えた。暗闇に目が馴れ始めていた。
僕は桜井の隣に身を横たえたあと、右手の親指で桜井の顔のパーツを優しくなぞっていった。おでこ、眉毛、目、鼻、頰、唇。なぞり終えると、今度はそれらに軽いキスをした。桜井は規則的で、浅い息をしている。僕は桜井の肩を掴んでゆっくりと裏返し、桜井の体をうつ伏せにした。まず首筋に舌を這わせ、時々両方の耳たぶを軽く噛んだ。桜井の呼吸が不規則に、荒くなり始めた。
僕は首筋から唇を離し、代わりに左手の親指をあて、優しく上下左右に動かした。そして、唇を背中の窪みにつけ、舌を出して嘗めた。脂の味がした。植物性ではなく、動物性の脂だった。舌を窪みに沿って下げて行くと、桜井の体が時々、ビクンと震えた。荒い呼吸をするたびに腹部が上下し、僕の頭もそれに合わせて上下する。
バンザイをするように頭のほうに上げていた桜井の右手がベッドの上を這いながら、徐々に下りてきていた。下り切った手が、何かを探しているようにあちこちに動いた。僕が空いている右手を寄せると、桜井は驚くほど強い力で僕の手を握り、また頭のほうに上げていった。桜井は顔を横に向け、僕の手を思い切り噛んだ。
僕は痛みに合わせるように、窪みにあてた舌を激しく動かした。右手の甲に激しい痛みと、荒い鼻息を感じた。僕は背中の窪みから舌を外して体を少し起こしたあと、左手で桜井の肩を掴み、体を仰向けに戻した。桜井が噛んでいた僕の手を口から離して、言った。「好きよ」
一瞬、桜井の目が赤く光ったように見えた。僕は目の前に横たわっている女を、発光体を、狂おしいほどに愛していた。だからこそ、お互いにすべてを受け入れ合う前に、言っておかなくてはならないことがあった。この女に隠し事をしておきたくはなかった。
僕は完全に上半身を起こし、ベッドの上に正座をした。「どうしたの?」と桜井が訊いた。「ごめん」桜井が僕の右手を離した。僕は続けた。「聞いて欲しいことがあるんだ」桜井は両肘を立てながら、ゆっくりと上半身を起こした。「なに?」僕は桜井に気づかれないように深呼吸をして、言った。
「ずっと隠してたことがあるんだ」「どうしたの、いきなり?」桜井の声にはたっぷりの不安がこもっていた。「僕自身はたいしたことじゃないと思ってるんだけど・・・」「なんなの?」「うん・・・」僕が言いあぐねていると、桜井がおどけたように、言った。「もしかして、前科があるとか」「何度か補導はされたことあるけど、まだ前科はついてない」
「ふーん、そうなんだ」と桜井は言った。「家族のこと?」「関係がないこともない」「お父さんが前科者とか?」「うちのオヤジは乱暴者だけど、真面目なんだ」「お母さんが前科者?」「ふざけてる?」「あのね」と桜井は言ってため息をつき、続けた。「この状況で冗談でも言わなかったら、ものすごく気まずくなるでしょ?」「そうかも」「そろそろ話して。それで、さっきの続きをしましょうよ」
僕は一瞬、なんでもないんだ、さあ続きを始めよう、なんて言ってその場をうやむやにすることを考えた。でも、この機会を逃したら、二度と打ち明けることができないような気がしたので、やっぱり話すことにした。それに、僕が何を言おうと、桜井はきちんと受け入れてくれる気がしていた。そして、こう言ってくれるはずだった。それがなんだっていうのよ、いいから続きを始めましょうよ。
● "GO"(1998金城一紀) 5-8
僕は桜井に気づかれるほどの深呼吸をして、言った。「俺は――、僕は、日本人じゃないんだ」それはきっと十秒とかそこらの沈黙だったはずだけれど、僕にはひどく長いものに思えた。「・・・どういうこと?」と桜井は訊いた。「言った通りだよ。僕の国籍は日本じゃない」「・・・それじゃ、どこなの?」「韓国」
桜井は僕のほうに投げ出していた両足を上半身に引き寄せたあと、折り畳み、膝の前で両手を組んで座った。桜井の体がひどく小さく見えた。僕は続けて、言った。「でも、中二の時までは朝鮮だった。いまから三ヵ月後には日本になってるかもしれない。一年後にはアメリカになってるかもしれない。死ぬ時はノルウェイかも」「なにを言ってるの?」と桜井は抑揚のない声で言った。
鼓動が速く打ち始めた。僕は続けた。「国籍なんて意味がないってことだよ」沈黙。沈黙。沈黙。沈黙。ようやく桜井の口が開いた。「日本で生まれて、日本で育ったの?」僕は頷いて、言った。「君とだいたい同じ空気を吸って、だいたい同じ食べ物を食べて育った。でも、教育は違う。僕は中学まで朝鮮学校に通ってた。そこで、朝鮮語とかを習った」
そこまで言って、あとはおどけた感じで続けた。「僕は実はバイリンガルなんだ。でも、日本では英語を喋れる人しかバイリンガルって呼ばれないみたいだけど。僕はね、オリンピックを見てる時、日本と韓国の選手の両方にエールを送れるんだ。すごいと思わないかい?」
桜井はクスリとも笑わなかった。無表情で僕を見ている。恐ろしいほどの沈黙。鼓動がさらに速くなった。むかし、初めてナイフを向けられた時よりも、速い。僕は何か話すべき事柄を必死に探した。見つからなかった。ひどい焦燥感がまず背筋を襲い、やがては全身に広がって、僕の体を重くした。僕はゆっくりと桜井のほうに手を伸ばした。桜井の体がビクッと震えた。
僕の手が宙に浮いたまま、止まった。僕の脳は、動け、と命令しているのに。僕は手を下ろして、訊いた。「どうして?」桜井は何かを言いあぐねている感じで何度か口を小さく開けては、閉めた。それがどんな言葉であれ、とにかく桜井の声が聞きたかった。僕は、どうした?と優しく言って、桜井を促した。桜井は目を伏せて、言った。
「お父さんに・・・、子供の頃からずっとお父さんに、韓国とか中国の男とつきあっちゃダメだ、って言われてたの・・・」僕はその言葉をどうにか体の中に取り込んだあと、訊いた。「そのことに、なんか理由があるのかな?」桜井が黙ってしまったので、僕は続けた。
「むかし、お父さんが韓国とか中国の人にひどい目に遭ったとか、そういうこと?でも、もしそうだとしても、ひどいことをしたのは、僕じゃないよ。ドイツ人のすべてがユダヤ人を殺したわけではなかったようにね」
「そういうことじゃないの」と桜井はか細い声で、言った。「それじゃ?」「・・・お父さんは、韓国とか中国の人は血が汚いんだ、って言ってた」ショックはなかった。それはただ単に無知と無教養と偏見と差別によって吐かれた言葉だったからだ。そのでたらめな言葉を否定することはひどくたやすかった。僕は言った。
「君は――、桜井は、どういう風に、この人は日本人、この人は韓国人、この人は中国人、て区別するの?」「どういう風にって・・・」「国籍? さっきも言ったように、国籍なんてすぐに変えられるよ」「生まれた場所とか、喋ってる言葉とか・・・」「それじゃ、両親の仕事の関係で外国で生まれ育って、外国の国籍を持つ帰国子女は? 彼らは日本人じゃないの?」
「両親が日本人だったら、日本人だと思うけど」「要するに、何人ていうのはルーツの問題なんだね。それじゃ訳くけど、ルーツはどこまで遡って考えるの? もしかして君のひいおじいちゃんに中国人の血が入っていたとしたら、 君は日本人じゃなくなる?」「……」「それでもやっぱり、日本人? 日本で生まれ育って、日本語を喋るから? それじゃ、僕も日本人ていうことになるね」
「・・・わたしのひいおじいちゃんに中国人の血が入ってるなんて、ありえないもの」と桜井は少し不服そうに言った。「君は間違ってるよ」と僕は少し強い口調で言った。「君の『桜井」っていう苗字はね、元々は中国から日本に渡来した人につけられた名前なんだ。そのことは、平安時代に編まれた「新撰姓氏録」っていうのにちゃんと載ってるよ」
「・・・むかしの人には苗字なんてなくて、あとから適当につけたって話を聞いたことがあるけど。だから、わたしの先祖が中国の人だなんて分からないじゃない」「その通り。君の先祖が桜井家に養子に入った可能性もあるしね。それじゃ、もっと遡ろう。君の家族はお酒が飲めなかったよね?」桜井はかすかに頷いた。僕は続けた。
「いまの日本人の直接の先祖と思われてる縄文人にはね、お酒が飲めない人は一人もいなかったんだ。これはDNAの調査で明らかになってる。というか、むかしのモンゴロイドたちは全員お酒が飲めたんだ。ところが、約二万五千年前の中国の北部で突然変異の遺伝子を持った人間が生まれた。その人は生まれつきお酒が飲めない体質の持ち主だった。そして、いつ頃かは分からないけど、その人の子孫が弥生人として日本に渡来して、お酒が飲めない遺伝子を広めたんだ。君はその遺伝子を受け継いでる。その中国で生まれた遺伝子が交じってる君の血は汚いの?」 沈黙。
僕は身動きもせず、桜井の言葉を待った。桜井は長い長いため息をついて、言った。「本当に色々なことを知ってるのね。でもね、そういうことじゃないの。杉原の言ってること、理屈では分かるんだけど、どうしてもダメなの。なんだか恐いのよ・・・。杉原がわたしの体の中に入ってくることを考えたら、なんだか恐いの・・・」
速かった鼓動が徐々に元のスピードに戻り始め、同時に、ついさっきまで僕の体を重くしていた焦燥感が消え始めた。僕は桜井よりも長い長いため息をついた。桜井に背を向け、ベッドを下りた。暗闇の中で白く浮き上がっているタンクトップを拾い、身に着けた。桜井は言った。「どうしてこれまで黙ってたの? たいしたことじゃないと思ってたら、話せたはずじゃない」
シャツを拾い、袖を通した。ボタンをはめる。桜井は続けた。「ひどいよ、急にあんなこと言い出して、こんな風にしちゃうなんて・・・」ズボンより先に靴下をはこうと思い、探したけれど見当たらなかった。しゃがんで床を手で探った。見つからなかった。困っているところに、桜井が言った。「ズボンの裾の中に入ってるよ、たぶん」
僕はズボンを手に取り、裾の中に手を入れてみた。あった。桜井は言った。「男の子はたいてい焦って、ズボンを脱ぐついでに靴下も一緒に脱ぐでしょ。だから、裾の中に入って見つからなくなっちゃうのよ」僕は床に腰を下ろし、靴下をはいた。片足をはき終えた時、桜井が言った。
「さっきの長電話ね、お姉ちゃんだったの。お姉ちゃんに杉原と泊まること喋ったら、靴下のこと教えてくれた。もし杉原が靴下を見つけられなかったら、教えてあげろって。そしたら、杉原との関係でこれからずーっと主導権を握れるからって。初めてのセックスの時に余裕を見せないと、相手の男にナメられちゃうんだって」
もう片方の靴下もはき終えた。ズボンを手にして、立ち上がった。片足をズボンに入れた時、桜井が言った。「わたし、初めてだったのよ・・・。そうでなくても、恐かったのよ」ズボンをはき終えた。ズボンのポケットに入っていたキーを取り出し、ベッドの脇のサイド・テーブルの上に置いた。桜井は言った。
「ねえ、なんか喋ってよ・・・」ドアに近づいて歩いて行く僕の背中に、桜井が言葉をぶつけてきた。「わたしの下の名前はね、'椿'っていうの。'椿姫'の'椿'。桜と椿が一緒に入ってる名前なんて、めちゃくちゃ日本人みたいで教えるのがイヤだったの」ドアノブに手を掛けた。少しだけ迷ったあと、振り返って、言った。
「僕の本当の名前は、'李'。李小龍の'李'。めちゃくちゃ外国人みたいな名前で、こんな風に君を失うのが恐くて、教えられなかった」ドアを開けて、廊下に出た。ドアを擦り抜ける時に、桜井の声を聞いたように思ったけれど、何を言ったのかは聞き取れなかった。
フロントに行くと、さっきの若いフロント係がまだいて、僕の出現に少しだけ不審そうな目を向けた。料金を払って、先に独りだけヂェックアウトすることを告げた。不審の色が濃くなるかと思ったが、そうはならなかった。普段からきちんと訓練しているのだろう。 「眺めのほうはいかがでしたでしょうか?」
料金を払ったあとに、フロント係にそう訊かれた。そういえば、素晴らしい眺めを観るのを忘れていた。僕が、最高でしたよ、と嘘をつくと、フロント係は、ありがとうございます、と言い、折り目正しい笑みを作り、お辞儀をした。
● "GO"(1998金城一紀) 5-9
電車はまだあったけれど、家まで歩くことにした。JRの線路に沿って、東京方面に向かった。東京駅に着いた時に、学生服の上着を忘れたことに気づいた。十月の肌寒い夜だった。
東京駅を通り過ぎ、相変わらず線路沿いに神田に向かって歩いた。神田の駅前にあるコンビニエンス・ストアに入り、ショート・ホープと百円ライターを買った。若い店員が僕の恰好を見て一瞬何かを言おうと口を開いたけれど、睨みつけてやったら、まあいいや、という諦め顔で、煙草を渡した。
まるまる四年ぶりの煙草だった。吸い始めはむせたけれど、すぐに往年の吸いっぷりを取り戻し、上野に着くまでには一箱吸い終わっていた。上野の一軒目のコンビニエンス・ストアでは販売拒否に遭い、二軒目では買えた。今度は念のために二箱買っておいた。
煙草を吸ったり、歌を口ずさんだり、ガードレールの上に乗って綱渡りのように歩いたりしながら、快調なペースで歩き続けた。西日暮里駅に着いた頃には、午前三時を過ぎていた。家までもう少しだった。午前四時過ぎに、ようやく白山にある家の近くまで辿り着いた。
まったく人気のない住宅街を我が家に向かって歩いていると、前方から自転車のライトが近づいてくるのが見えた。僕は深いため息をついた。自転車がこちらに近づいてくるスピード感だけで、乗っている奴がどんな種類の人間か分かった。「彼ら」とは本当に長いつきあいなのだ。そういえば、『長いお別れ』の中で、フィリップ・マーロウが言っていた。
「警官にさよならをいう方法はまだ発見されていない』ズボンのポケットに入っている煙草とライターを、どうしようか迷った。中学一年の時に職務質問を受けた時、所持品を調べられた。煙草用に持っていたマッチのせいで、危うくその頃頻発していた放火の犯人にでっち上げられそうになったことがあったのだ。
ちなみにその時、「このマッチはなんだ!」と警官に問い詰められたので、僕は一休さん並みのとんちを利かせ、「僕はストーブ当番なんです」と答えた。まあ、そのとんちが警官の機嫌を損ね、交番に連行されて放火魔にでっち上げられそうになったのだけれど。
歩道の脇に捨てようかと思ったが、こそこそ動くのが嫌だったので、そのままにしておいた。僕の姿を捕捉した自転車の乗り手が、少しだけスピードを速め、こちらに向かってきた。時々、自転車のライトが目に飛び込んできて、眩しい。「ちょっと、君。こんな時間にどうしたの?」若い警官は自転車から降りながら、そう訳いた。
顔には濃い不審の色と、獲物を目の前にした捕食動物の残忍さが浮かび上がっていた。僕はのちのちのことを考え、自然な動きで立っている位置を修正し、若い警官が、駐めた自転車のすぐ近くに立つように仕向けた。 「友達と遊んでいるうちに電車がなくなっちゃったんで、歩いて帰ってきたんです」と僕ははきはきと答えた。「どこから歩いてきたの?」
僕が、有楽町です、と本当のことを答えると、若い警官は、そう、大変だったね、と言い、いかにも労をねぎらう様子で頷いた。普通ならここで、それじゃ気をつけて帰りなさい、という展開になるはずなのだけれど、相手もさすがにプロだ。僕の中学時代の残り香を嗅ぎつけたらしく、お得意の質問に移った。「うちはどこ?」と若い警官が厳しい顔をして、尋ねた。
さて、例えば、ここで僕が住所を言うとする。若い警官は無線で交番に連絡を取り、同僚の警官が住民台帳を見て僕が本当のことを言っているかどうかを調べる。その時、ついでに僕が《在日韓国人》なのも分かる。それを若い警官に伝える。若い警官は僕に尋ねる。「『外国人登録証明書」、持ってる?」。
日本には外国人登録法という、『日本に在留する外国人」 を管理するための法律がある。管理というと一応聞こえがいいのだが、要するに、「外国人は悪いことするから、首に首輪をつけとこう」という発想の法律だ。僕は日本で生まれて日本で育っているけれど、「日本に在留する外国人』だから、登録を義務づけられていて、当然ながらその証明書も持っている。
その『外国人登録証明書』は常に持ち歩かなくてはならないことになっていて、それに違反すると、場合によっては、《一年以下の懲役、または二十万以下の罰金》を科せられる。要するに、首輪を外した奴には折檻が加えられる、というわけだ。僕は国家に囲われている家畜ではないから、首輪はつけてない。これからもつけるつもりはない。
とにかく、僕は重罪を犯して若い警官の前に立っていた。「どうしたの? なんで答えないの?」と若い警官が嫌味な口調で答えを促した。鬱陶しくて、腹立たしくて、面倒臭かった。フィリップ・マーロウなら、うまいへらず口を叩いてこういう状況をどうにか切り抜けるのだろうけれど、僕はフィリップ・マーロウというよりコンチネンタル・オプのほうなので、殴って逃げることにした。
素早く無駄のない動きで、右の手のひらを若い警官の喫仏に押しつけるようにしてぶつけた。若い警官は、ゲホッ、という声を上げながら、後ろによろけた。若い警官のすぐ後ろには自転車が駐めてあったから、若い警官はそのせいでバックステップをして体勢を整えることができず、背中から自転車のサドルの部分にのしかかる感じで背後に倒れていった。
若い警官の体重を支えきれない自転車は、若い警官の体を乗せたまま横倒しになった。計算通りだった。僕は若い警官がよろけだ時に、すでに走り始めていた。警官が体勢を立て直して追ってくる前に、どうにかして逃げ切るつもりだった。自信はあった。警官とのチェイスには馴れていた。背後で自転車が横倒しになる、ガシャン、という音を聞いた。
でも、続けて予想外の音が聞こえた。ガツン。走るスピードを落としながら後ろを振り向くと、若い警官が横倒しになった自転車の上に大の字になって乗っかったまま、ピクリとも動かないのが見えた。制帽が脱げ、頭部が剥き出しになっていた。僕は足を止めた。どうやっても演技には見えなかった。僕は深呼吸の中にため息を混ぜながら、これからどうするかを考えた。とりあえず若い警官の様子を見に戻ることにした。
若い警官のそばにしゃがんで、右の手のひらは若い警官の鼻の上にかざし、左の手のひらは頸動脈にあてた。右は規則的な呼吸を、左は少し速めだけれど規則的な脈を、感じ取った。後頭部に手をあてた。出血はしていなかった。まわりを見回した。相変わらず人気はなかった。このまま逃げようかとも思ったけれど、若い警官の腰にぶら下がっている拳銃が目に入った。
いまの僕の運気からすると、厄介な展開になる可能性が充分にあった。僕は長い長いため息をつき、近くに転がっていた若い警官の制帽を手にして、立ち上がった。 近くにあった月極駐車場の奥の空いているスペースに、若い警官を引き摺っていった。壁際に体を横たえさせた。
● "GO"(1998金城一紀) 5-10
自転車も駐車場に運び込んだ。あとは若い警官が意識を取り戻すのを待つだけだったので、そのあいだを利用して一服することにした。壁に背中をつけて地面に座り、煙草に火をつけた。煙を深く吸い込んで、深く吐いた。遠くから小鳥のさえずりが聞こえたような気がした。夜明けが近いのかもしれない。
煙草を一本吸い終わった時、若い警官が目を覚ました。少しのあいだ横たわったまま、目玉を激しく動かし、状況の把握に努めていた。何度か僕と目が合った。僕は笑みを向けた。僕が二本目の煙草に火をつけると、若い警官は上半身を起こし、とりあえずという手つき! で、体のあちこちを触り、なくなったものがないかどうか調べた。
「拳銃の弾を一発だけ抜いておきましたよ」僕がそう言うと、若い警官は苦笑いを浮かべた。若い警官は体を動かして僕の横に移動し、壁に背中をつけて座った。「一本くれよ」と若い警官は言った。僕は箱ごと渡した。若い警官は煙草を抜き出し、口にくわえた。僕はライターを煙草に近づけ、火を点した。若い警官が頭を少しだけ動かし、煙草の先を火につけた。深く煙を吸い、吐き出したあと、若い警官が言った。
「俺、向いてねえんだよなあ、この職業」僕は黙って若い警官の顔を見た。若い警官は続けた。「俺、体育大を出てんだけどさ、警官になったのは就職先が見つからなかったからなんだよ。仕方なくって感じでなったからさ、いまいち仕事に身が入んないし、さっきのような時はいいようにやられちゃうし。俺、だいたいハンドボール一筋の球技系だから、格闘技系は苦手なんだよな・・・」
「さっきのはよけられないですよ」と僕は言った。「これまでよけた奴、誰もいませんでした。あれ、アメリカの軍隊で、接近戦用に教えてる技なんですよね」「本当?」僕は頷いて、言った。「だから、気にすることないと思いますよ」若い警官は、そうか、と言ってホッとしたような笑みを浮かべ、煙草をうまそうに吸った。
それからしばらくのあいだ、若い警官の愚痴を聞いた。先輩にイジメられてるとか、出世できそうにないとか、彼女ができないとか、そういうことを。そして、僕はいつの間にか、 桜井とのホテルでの一部始終を若い警官に話し始めていた。若い警官は真剣な面持ちで、耳を傾けてくれた。
僕が話し終えると、若い警官は、俺ならなんにも言わずにやっちゃうけどな、やったあとに考えるけどな、おまえ偉いな、よくこらえたな、という感想を述べた。そして、続けて、「その女の子、芸能人でいえば誰に似てる?」僕が少し考えて、思いつかないです、と答えると、若い警官は、そういうの困るんだよな、想像力に歯止めがかかるんだよな、とよく分からないことを言った。
「恐い、って言われちゃったんですよね」と僕は言った。「正直、すげえショックでした」「分かるような気がする」若い警官は四本目の煙草に火をつけ、遠くを見つめながら、言った。「俺は気持悪いって言われたことがあるよ」「それはキツイですね」と僕は言った。「いまでもその時のことを思い出すと、泣きたくなる時があるよ・・・」
「早く忘れちゃったほうがいいですよ、そんなこと」と僕は言った。「それじゃ、おまえは今夜のことすぐに忘れられそうか?」僕は首を横に振った。だろ? と若い警官は言った。「本当に好きだったんですよね」と僕は言った。「俺もだよ」若い警官は煙を口と鼻から吐き出した。「まあ、俺の場合、つきあう前にふられたけどね」僕は新しい煙草に火をつけ、深く吸って吐き出したあとに、言った。
「俺、これまで差別されてもぜんぜん平気だったんですよね。差別する奴なんてたいていなに言ったって分からない奴だから、ぶん殴っちゃえばよくて、喧嘩だったら負けない自信があったから、ぜんぜん平気だったんですよね。多分、これからも、そういった奴らに差別されるなら、ぜんぜん平気だと思うんですよ」僕はまた煙草の煙を吸って、吐いた。
「でも、彼女に会ってからずっと差別が恐かったんです。そんなの初めてでした。俺これまで本当に大切な日本人と出会ったことがなかったんですよね。それも、めちゃくちゃ好みの女の子となんて。だから、そもそもどんな風につきあったらいいかもよく分からなくて、 それに、もし自分の素性を打ち明けて嫌われたら、なんて思っちゃったから、ずっと打ち明けられなかったんです。
彼女は差別するような女じゃない、なんて思いながらも。でも、結局は彼女のこと信じてなかったんですよね・・・。俺、たまに、自分の肌が緑色かなんかだったらいいのに、って思うんです。そうしたら、寄ってくる奴は寄ってくるし、寄ってこない奴は寄ってこない、って絶対に分かりやすくなるじゃないですか・・・」 お互いに黙って、煙草を二本灰にした。新しい煙草を手にしながら、若い警官が言った。
「俺の大学の三年上の先輩にさ、金さんていう在日の人がいてよ、その人はみんなから「恐怖の金さん」て呼ばれてた。サッカー部にいたんだけど、部で一番足が速くて、腕っ節も強くてさ、一度差別した空手部の連中をこてんぱんにぶちのめして、それから「恐怖の金さん」て呼ばれるようになったんだ。俺、たまたまその喧嘩を見てたんだけど、あれはすごかったな。動きに少しの無駄もないんだ。芸術的ってああいうことを言うのかもしれないな。
とにかくさ、こいつは人間じゃねえ、って思ったもの。アッパー食らった奴の体が、ちょっと宙に浮いたんだぜ。いまでも目に焼きついてるよ。それを見て以来、俺、金さんに憧れちやったもんな。うまく言えないけど、金さんが在日だとかそういうのは関係なくさ、ただ金さんに憧れちゃったんだよ」
若い警官は、うん、あれはほんとにすごかったな、と何度も頷きながら、煙草に火をつけた。僕は、「恐怖の金さん』のフルネームと思われる名前を若い警官に言った。若い警官は驚き、なんで知ってんの?と言った。僕は、『恐怖の金さん』が僕が中二の時に学校に新しく赴任してきた体育教師であることや、やっぱり生徒たちから『恐怖の金さん」として恐れられていたことを告げた。
「僕の友達で、すげえ数学が苦手な奴がいたんです。・九九もやばい感じで、だから中学の数学の授業なんてぜんぜんついてこられなかったんですよ。そいつがある日、真冬の持久走の授業をさぼって、教室のストーブの前で居眠りをしてたんですけど、そこに『恐怖の金さん」が現われたんです」
若い警官は興味深げに、耳を傾けていた。「'恐怖の金さん'はつかつかとそいつのところに歩いていって、まだ居眠りしてるそいつの胸倉を掴んで引き摺り起こしたあと、首が引きちぎれるぐらいの、ものすごい往復ビンタを食らわしたんです。それ以来、そいつは数学が得意になりました」
若い警官は気が抜けたように口から煙を吐き出し、なにそれ、と言った。僕は続けた。 「往復ビンタを食らってから、ひどい頭痛がするっていうんで、そいつは病院に行ったんです。そうしたら、脳波が乱れてるのが分かったんです」若い警官は、金さんのビンタならありえるな、としみじみつぶやいた。
「頭痛は一週間ぐらいで治まったんですけど、その代わりにそれまで解けなかった連立方程式とか図形の問題がスラスラ解けるようになったんです。四九は二十八とか言ってたレベルの奴がですよ」「マジかよ」「本当です」と僕はきっぱり言った。
「それ以来、そいつは中学レベルの問題どころか高校レベルの問題までスラスラ解けるようになって、'開校以来の天才'って呼ばれるようになりました。いまは高校で『フェルマーの定理」に挑戦してるみたいです」「'フェルマーの定理'って二次関数よりすごいのか?」と若い警官は訊いた。「リトルリーグと大リーグの違いぐらいです」
若い警官は、ふーん、と感心したように頷いた。それじゃ、金さんはそいつの大恩人だな。そうかな? そろそろ帰らないとやべえな、と言って、若い警官が煙草を消し、制帽を手にして立ち上がった。僕も合わせて腰を上げた。若い警官は僕の肩を叩いたあと、少し照れ臭そうな笑みを浮かべ、言った。
「おまえ、「恐怖の金さん」みたいになれよ。そしたら、女なんていくらでも寄ってくるよ」僕は小さく頭を下げ、さっきはすいませんでした、と謝った。若い警官は口を僕の耳に近づけ、あれは二人だけの秘密だからな、と言った。僕は笑いながら、頷いた。若い警官は、 恥ずかしそうに微笑んだ。
家に戻ると、オヤジが寝ずに僕の帰りを待っていた。「なにしてたんだ?」とオヤジは訊いた。 僕は桜井のことは省いて、警官を殴ってそれがきっかけで仲良くなった、と答えた。オヤジは深いため息をつき、まあいいや、とつぶやいた。そして、「大丈夫か?」僕は頷いた。軽くシャワーを浴び、部屋に戻った。正一から借りっぱなしだった小説や詩集や画集や写真集やCDを机の上に積み上げた。
本類は全部で三十四冊あり、CDは十六枚あった。正一が好きだったシューベルトの『冬の旅』を低い音でかけ、すべての本に簡単に目を通していった。ラングストン・ヒューズの詩集に目を通している時、あるページに付箋が貼ってあることに初めて気づいた。そのページには「助言」という短い詩が載っていた。
その詩を、ここには記さない。みんなが知らないうちは、その詩は僕だけのものだ。いや、みんなが知ったって、僕だけのものだ。すべての本に目を通し終えた時には、夜は完全に明けていて、学校へ行く準備をしなくてはならない時間になっていた。
僕は迷ったあと、学校をさぼることにした。そう決めてすぐに、僕は、泣いた。机の上に額を載せて、一時間近く泣き続けた。泣いたのは本当に久し振りだった。ベッドに入って、眠りに落ちる前、僕は胸の中で正一に、おやすみ、と語り掛けた。 おやすみ――。
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