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● "GO"(1998金城一紀) 06-1
正一の告別式の夜以来、桜井からはなんの連絡もなかった。僕も連絡をしなかった。正一の告別式の一週間後のある晩、加藤から電話があった。「久し振りだな」加藤の声には張りがなかった。「元気か?」「ああ。そんなことより、おまえどうして学校に来ないんだよ?」加藤はひと月近く、登校していなかった。
「まだ噂は広まってねえのか」「なんかあったのか?」と僕は訊いた。「警察にパクられたんだよ」「なにやって?」「Lの売買」「アホ」「その通り」「それで?」「家裁に送られたけど、なんとか保護観察で済んだ。最近の週末のデート相手は保護司のおっさんだよ。またこのおっさんがキュートでよ。婚約も間近だな」
「アホ」「その通り」「これからどうすんだよ?」「学校のほうはクビになったし、親父もカンカンでさ。俺のこといい子だと思ってたらしいんだよな。そんなわけで、しばらくは禅寺の坊主みたいに暮らして、あちこちの機嫌を伺うちかが生活だ」「そうか。しっかり修業しろよ」
「そういや、雪女のほうはどうなってる?」「溶けていなくなっちまったよ」「ダメになったのか?」「だからそう言ってるだろ」「・・・そうか。おまえ、これからのこと、決めたか?」「大学を受けるよ」「どうしたんだ、急に」「友達の遺言なんだ」「なんだそれ?」「いつか話すよ。まあ、いまは受験勉強とやらを必死にやってるよ」「おまえなら受かるよ」「そうかな」「ああ、絶対だ。でも、どうせ受けるなら、すげえ大学を受けろよ。
俺の代わりに高いところの空気を吸ってきてくれ」「どうせ薄くて、汚ねえに決まってる」「ばっちりじゃねえか。おまえ、馴れてるだろ」僕たちは同時に短い笑い声を上げた。「近いうちにそっちに顔出すよ」と僕は言った。「いや、やめてくれ」と加藤はきっぱり言った。「どうしたんだよ?」少しの沈黙のあと、加藤は言った。
「俺、当分のあいだおまえに会わねえつもりだよ。この前のクラブでの一件のあと、俺は俺なりに無い頭で色々考えて、そうすることに決めたんだ。俺、これまで色々なものに甘えてて、中途半端で、すげえカッコ悪い男だったと思うんだよな。おまえが小林をぶちのめしにフロアに降りてく後ろ姿を見た時、そのことに気づいたんだ。ああ、このままじゃ一生こいつにかなわねえ、って思った。俺、おまえみたいにてめえの足でしっかり立てるようになって、おまえとタメ張れるようになるまで、おまえと会わないことに決めたんだ」
「・・・俺はそんなにいいもんじゃねえよ」「おまえにとっては、それが普通なのかもしれねえよ。でも、俺にとっては違うんだ。ヤクザの息子ってだけじゃダメなんだよな、もう。それだけじゃ足りねえんだ。それだけじゃおだ。 まえに届かねえ。何かを見つけねえとな、必死によ。これでけっこう大変なんだぜ、日本人でいることも」
加藤はそう言って、へへへ、と笑った。僕は言った。「すげえ大学に受かったら、連絡するよ。何年かかるか分からねえけど」「ああ、そん時はすげえパーティーを開いてやるよ」「親父さんによろしくな」「伝えとく」僕が、じゃあな、と言い、加藤は、またな、と言って、電話を切った。
十一月に入ってすぐ、新たな挑戦者が僕の前に現われた。加藤という後ろ盾を失くして僕が意気消沈していると勘違いした二年坊で、一分で片付けた。最短記録だった。こうして僕は『二十五戦無敗の男」となった。それにしても、僕はいつまでこうして戦い続けなくてはならないのだろう?
加藤がいなくなり、話し相手さえいなくなった僕は、受験勉強に集中した。休み時間や昼休みも受験勉強にあてた。学校が終わるとまっすぐ家に帰り、いつものようにトレーニングとギターの練習をやり、明け方まで受験勉強をやった。そうそう、 で受験勉強をやった。そうそう、受験勉強の息抜きに、スペイン語の勉強も始めた。ウノ、ドス、トレス、クワトロ、ブエノス・ディアス、ムチャス・グラシアス、アディオス、アスタ・ラ・ビスタ…。
オヤジとオフクロが喧嘩をし、オフクロがまた家出をした。今回の原因は、オフクロが車の免許を取りたい、と言い出したからだった。もう勝手にしてくれ。雨の多い毎日が続いた。時に憂鬱に響く雨音を聞きながら、受験勉強に集中した。
十一月の下旬のある雨の日の昼休み、見覚えのない奴が僕の机の前に近づいてきた。ギャラリーたちの話し声が止み、僕の机のそばにいた連中は、みんな教室の隅のほうへと離れていった。僕は読んでいた古典の参考書を閉じ、一応戦闘体勢を整えた。そいつは敵意がないことを示すように、かすかな笑みを口元に浮かべていた。 「ちょっと、いいかな?」
柔らかい声だった。銀縁の眼鏡を掛けていた。眼鏡を掛けたまま喧嘩を仕掛けてくる奴は、よほどの達人だ。そいつはどうやっても達人には見えなかった。僕が頷くと、そいつは空いている僕の前の席の椅子を僕の机に向き直し、腰を下ろした。ギャラリーたちの話し声が戻った。
「僕は宮本っていうんだけど、知らないよね?」と宮本は言った。僕は正直に頷いた。宮本は、やっぱりね、と言って、爽やかに笑い、続けた。「一応、杉原君と三年間同じ学年だったんだけどな」「なんの用だよ?」と僕は訊いた。宮本の顔から笑みが消えた。宮本はさりげなく目を動かしてまわりを見たあと、抑揚のない声で言った。「実は、僕も君と同じ《在日》なんだよね」宮本は僕のなんらかの反応を待っていた。
多分、好意的なものを。僕はなんの反応も示さなかった。宮本はかすかに落胆の色を浮かべた。「僕は君と違って、ずっと日本の義務教育を受けて育ってきたから、韓国語も知らないし、韓国の歴史や文化についても知らない。でも、僕は《韓国人》なんだ。不思議だよね。そう思わないかい?」僕は黙って宮本の顔を見ていた。宮本はかまわず続けた。
「もし僕がアメリカに生まれてたら、僕は《韓国系アメリカ人》ていう地位を与えられて、それと同時にアメリカ国民としてのすべての権利を与えられたはずなんだ。きちんと人間として扱ってもらえたはずなんだ。でも、この国は違うよね。僕がどんな日本人よりも模範的な人間になったところで、国籍が韓国のままだったら、絶対にちゃんとした人間として扱ってくれないんだ。外国籍のままじゃ、相撲の親方になれないようにね。同化か、排除か。この国はふたつの選択肢しか持ってないんだ」
「それじゃ、国籍を日本に変えればいいじゃねえか」と僕は言った。宮本はあからさまな落胆の色を顔に浮かべた。「この国に敗北を認めろって言うのか?」「敗北ってなんだよ? おまえは具体的に何と闘ってるんだ? それに、おまえの民族心とやらは、国籍を変えることでなくなっちまうのかよ」宮本はため息をついて、言った。
「時間がないから、今日来た用件を言っておくよ。僕はいま、'在日'の若い連中を集めて、 あるグループを作ろうとしてるんだ。そのグループには北朝鮮とか韓国とか総連とか民団とか、そういう区別は一切ない。'在日'の権利のために勉強したり活動したりしていこう、 っていうグループなんだ。もうすでに百人近くは集まってるし、これからも増えていくはずだ。君もそのグループに参加しないか? 君みたいな人間が参加してくれたら、ものすごく頼もしいんだけどな」
宮本は答えを促すように、僕の目をジッと覗き込んだ。僕が黙っていると、宮本は、ひとつだけ訊いていいかな、と言った。僕は頷いた。「杉原君は韓国籍だよね?」頷いた。宮本は続けた。「君が国籍を変えることに抵抗がないなら、どうして韓国籍のままなんだい?」 僕は答えなかった。宮本は薄い笑みを唇の端のあたりに見せながら、言った。
「生きていくのに別に支障がないからだ、なんて言わないでくれよ。例えば、何年かに一回でも、外国人登録の切替なんて称して、お役所に'出頭'させられるのはどうなんだい? 例えば、海外旅行に行くために、'再入国許可'の手続きを取らされるのはどうなんだい? 僕たちはこの国で生まれて育ってるのに、'この国に戻ってきてもよろしいでしょうか?' なんて伺いを立てなくちゃいけないんだ。そういった一切合財が、君みたいな人間にとって、生きていく上での大きな支障なんじゃないのかい?」
少しの沈黙のあと、僕は口を開いた。「知ったふうな口をきくなよ。おまえに俺のなにが分かる」昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。宮本は軽く舌打ちをして、腰を上げた。「いいところだったのにね。近いうちにまた来るよ。その時に答えを聞かせて欲しい」宮本に言われたことを色々と考えながら、家に帰った。
● "GO"(1998金城一紀) 06-2
家の中には人の気配がなかった。オフクロの家出は三週間目に突入していた。居間を覗くと、パターが床の上に寝転がっていて、ゴルフボールもあちこちに散らばったままになっていた。僕はパターを拾って、ソファに立て掛けた。夜になっても、オヤジは帰って来なかった。夕飯の出前をどうしようか迷っているところへ、オヤジから電話が入った。オヤジはひどく酔っていた。
「おう、ちゃんとお勉強してるか?」
「酒、飲んでんの?」「おうよ」「珍しいじゃない」「おまえが生まれた日にやめたからな、十八年ぶりだよ」「どうしたの? なにかいいことがあったの?」「その逆だ」「なにがあったの?」「詳しいことはあとで話すよ。とりあえず、金持ってきてくれねえか」「は?」「金、なくなっちゃって、酒代が払えないんだよ」「しょうがねえなあ」「悪いな」
オヤジの居場所を訊いて、電話を切った。着替えを済ませ、机の引き出しの中から香典の残りを取り出し、ジーンズのポケットに入れた。戸締まりをチェックし、家を出た。朝から降り続いていた雨が上がっていた。 オヤジは上野駅の広小路口の改札の脇の壁に、ぐったりともたれて立っていた。
壁をずるずると伝って、いまにも崩れ落ちそうだった。隣には、不機嫌な顔をした若い男が立っていた。僕は改札口を抜けて、オヤジのそばに立ち、肩を叩いた。オヤジがビクッと身を震わせながら、目を開けた。「おお、孝行息子よ」オヤジは満面の笑みを広げて、そう言った。
ものすごく酒臭い息が、僕の顔にかかった。「この人に、お金払ってやってちょーだいな」オヤジが若い男を指差した。僕は男から料金を聞き、その通りに支払った。「お父さんにクレジット・カードを持つように言っておいてね」と若い男が嫌味っぽく言った。
かなり前の話になるけれど、オヤジはクレジット・カードに入会しようとして、事前の審査で落とされたことがあった。当時、オヤジは腐るほどの金を持っていた。落とされた理由は言うまでもない。オヤジはそれ以来、クレジット・カードを目の敵にしていた。
腹が立ったので、若い男を小突いてやろうと思ったが、僕の気持を感じ取ったのか、オヤジが若い男を追い払うように、それじゃどーも、と言って若い男の背中を押した。若い男は軽く舌打ちをして、僕たちのそばから離れていった。「歩けるの?」と僕は訊いた。
オヤジは、大丈夫だよ〜ん、と言って切符売り場に向かって歩き出した。酔っ払いコントで芸人が演じる足取りだった。よく見ると、ズボンの腰のあたりが泥で汚れていた。僕はオヤジの横に並び、腰に手をあてた。「タクシーで帰ろうよ」と僕は言った。オヤジは僕の肩に手をまわしたあと、金足りそうか、と訊いた。
僕は頷いた。タクシー乗り場に向かって、オヤジを支えながらのろのろと歩いている時、オヤジがポツリと言った。 「今日、立て続けに二本の電話があってな・・・。一本は、また交換所がなくなる話だった。 もう一本は、北朝鮮からの国際電話でな、東吉品が死んだ、って話だった・・・」僕は足を止めた。東吉とは、北朝鮮に行った僕の叔父さんのことだ。「なんで死んだの?」と僕は訊いた。
「病気らしい。電話は東吉の奥さんからだったんだけどな、高血圧がどうのこうのとか、栄養失調がどうのこうのとか、あんまり要領を得ない話で、結局何が直接の原因かはよく分かんなかったよ・・・。それでな、三十分ぐらい話したけど、二十五分ぐらいはずっと奥さんに責められてた。自分だけいい暮らしをして、弟にはなんにも送らなかったって・・・」
「送ってたじゃねえか」と僕は強い口調で言った。「足りなかったんだろ」オヤジはそう言って、行こう、と僕を促した。僕は歩を再開した。タクシーに乗り込んで、年配の運転手に行き先を告げた。月末で、さらには週末の夜だったせいか、タクシーはラッシュに堀まり、のろのろと進んでいた。僕とオヤジはしばらくのあいだ、黙ってシートに腰を埋めていた。
オヤジはぼんやりとした視線をフロントグラスに向けていた。僕は一度も会うことなく死んでしまった叔父のことを考えていた。日本から北朝鮮まで、飛行機ならどれぐらいで行けるのだろう? 二時間? 三時間? 僕は同じぐらいの時間を使って、韓国には行ける。でも、北朝鮮には行けない。何がそうさせるのだ? もとを継せば、韓国だって北朝鮮だって、ただの陸地じゃないか。何が行けなくしてるのだ? 深い海か? 高い山か? 広い空か? 人間だ。
クソみたいな連中が大地の上に居座り、縄張りを主張して僕を弾き飛ばし、叔父と会えなくしたのだ。信じられるかい? テクノロジー全盛でこれだけ世界が狭くなっている時代に、たった数時間の場所に行けないことを。僕は北朝鮮の大地に居座って、えばり腐ってる連中を許さないだろう。絶対に。 レタクシーはラッシュを抜け、快調に走り始めた。
「東吉は絵がうまくてな・・・」オヤジが急に、ポツリという感じで話し始めた。「戦争が終わってすぐの頃、俺の家族は大阪から岡山の漁港の近くに移り住んだんだ。短いあいだだったから、その漁港がどこだったかはっきりと覚えてないんだけどな・・・。俺は学校には行かないで、毎日漁港に行って、漁船から魚の入った籠を下ろすとか、船の中を掃除するとか、 そういう簡単な仕事をさせてもらって、晩のおかずを調達してた。
アボジ(とうちゃん)とオモニ(かあちゃん)は山口のほうにいい仕事があるって出稼ぎに行ってたから、俺が東吉のことを養わなくちゃいけなかったんだ。東吉は俺の仕事が終わるまで、いつも独りで漁港の堤防の上に炭で落書きをして遊んでたよ。俺はあいつが堤防から海に落ちないかって心配で仕方がなかった。
あいつ、絵を描くのに熱中すると、まわりが見えなくなっちまうんだよな・・・。ある日、漁港の組合長が東吉の絵を見て気に入ってくれて、自分の漁船の舳先にペンキで絵を描かせたんだ。水平線から太陽が昇ってる絵だ。綺麗に描けて、組合長も満足そうだった。絵を描いて三日後、組合長の船が沖合で嵐に遭った。
船は夜になっても戻ってこなくて、みんな、もうダメだろう、なんて思ってたんだが、翌朝、船はちゃんと戻ってきた。そのことがあってから、組合長の船が戻ってこられたのは、東吉の絵のおかげだって噂が広まって、自分の船に東吉に絵を描かせる人が増えたんだ。漁師ってのはけっこう縁起をかつぐんだよな。東吉はあっという間に売れっ子画家になって、次第に俺が養われるようになっちまったよ。
あいつ、俺が一度ももらったことないカニなんてもらったんだ。俺はあいつのことが誇らしかったよ。俺がカニを食ったのは、その時が初めてだった。東吉もそうだ。恥ずかしい話だけど、俺とあいつはカニを食いながら、泣いたよ。うまいうまい、ってい言ってな・・・。あいつ、北でカニ食ったことあったのかなあ・・・。カニ送ってやればよかったなあ・・・」
いい話だった。オヤジの目には涙が浮かんでいた。本当なら、ここで僕がオヤジの肩なんかを抱き、「元気出せよ」なんて言って、感極まったオヤジが僕を抱き締めたりするのが最高の展開なんだろうけれど、そうはいくもんか。これまで、僕はこのクソオヤジにさんざん痛い目に遭っていた。僕が中二の春、原チャリをパクって、当然ながら無免許で、とどめに三人乗りをしているところを、警察に捕まった。
僕はそれまでも色々と悪さをして捕まっていたので、その時ばかりは微罪処分の説諭だけでは済まず、家裁送りになる可能性があった。警察に呼ばれ、署にやってきたオヤジは、「うちの子が申し訳ないことを」と言って警察に微罪処分を悪願した、わけがなく、僕と顔を合わせた瞬間、いきなり体重の乗った右フックを僕のこめかみ、ボクシング用語で言う、「テンプル」に叩き込んだ。
半分意識を失っている僕の肝臓に左のボディ・フックが入り、次の瞬間には返しの左フックが顔面に入った。ボクシング用語で言う、「左のダブル」というやつだ。ボディ・フックのせいで嘔吐が始まり、左フックのせいで、奥歯が折れた。吐き出した胃液の中に奥歯が交じっていた。オヤジは、床に崩れ落ちてゲロゲロ吐いている僕の胸倉を掴んで引き起こしたあと、今度は至近距離からの右ストレートを僕の顎先、ボクシング用語で言う、「チン」に叩き込んだ。
そこから先のことはよく覚えていない。ただ、頭の奥のほうで、僕を取り調べていた刑事の、 「もう許してあげてくださいっ! 死んじゃいますっ!」という懇願の声を聞いたのは覚えている。意識を取り戻すと、オヤジが運転する車の後部座席に横たわっていた。どうにか上半身を起こすと、バックミラーに映るオヤジの満面の笑顔が見えた。「へへへ、バツがつかなくて済んだぞ。感謝しろよ」僕はその時、誓った。いつか俺がこの手で殺してやる――。
そんなわけで、僕とオヤジには「最高の展開」など似合わないし、必要ないのだ。それに、オヤジは僕がぶちのめすまで、どんなことがあっても、誰に対しても、膝を屈してはいけないのだ。たとえ、国家権力に仕事を奪われようが、最愛の弟が死のうが、弱音を吐いてはダメなのだ。一度もダウンをしたことのない男を、初めてダウンさせるのは、この僕なのだ。だから、僕は言った。
「なにがカニだよ。貧乏くせえこと言ってんじゃねえよ。もうそういうので泣ける時代は終わったんだよ。あんたたち一世が貧乏くせえから、俺たちの世代がいまいち垢抜けられねえんだ」オヤジは目に涙を浮かべたまま、驚いた顔で僕のことを見た。僕は続けた。「北の連中もカニが食いたかったら、革命を起こしゃいいんだ。なにやってんだよ、あいつら」 オヤジの目から涙が引き始めた。僕はさらに続けた。
「叔父さん、きっと恨んでたぞ。自分が苦しんでんのに、あんたはハワイにゴルフだからな。今夜あたり枕元に化けて出るんじゃねえのか、アロハってよ」オヤジの全身から、手で掴めるような酒気が漂ってきた。一気に毛穴が開いたのだろう。 顔がさっきとは違う赤色に染まっている。僕はとどめを刺した。
「とにかく、もうあんたたちの時代は終わりなんだよ。貧乏くせえ時代は終わりなんだよ」オヤジは酒気と殺気が混ざった雰囲気を全身から発していた。オヤジが何かを言おうと口を開きかけた時、快調に走っていたタクシーが急ブレーキを踏みながら、車道の脇に停まった。
完全に車体を停めたあと、年配の運ちゃんが僕たちのほうを振り向いた。顔が真っ赤だった。運ちゃんが僕に向かって、怒鳴った。「親に向かって、なんて口きくんだ!」どうもタクシーの運ちゃんとは万国共通で相性が合わないらしい。 オヤジが口を開いた。「おまえ、お勉強のし過ぎで頭がイカレちまったらしいな」
● "GO"(1998金城一紀) 06-3. 222p
僕は答えた。 「うるせえよ、小卒のパンチドランカー」オヤジはひとつ息を大きく吸って、運ちゃんに言った。「ちょっと待っててください。外でカタつけてきますから」僕とオヤジはタクシーから降り、まわりを見回した。歩道の先のほうに、公園の入り口が見えた。僕とオヤジは無言でそこに向かって歩いた。後ろからタクシーの運ちゃんがついてきていた。
公園はけっこう広く、入ってすぐに円形の広場があって、円のまわりをいくつものベンチが囲んでいた。いくつかのベンチで若いカップル連中が乳繰り合っているのが見えた。僕とオヤジは円のほぼ真ん中に行き、ニメートルほどの距離を置いて、向かい合った。ハロゲンライトがスポットライトのように、僕とオヤジを照らしている。
運ちゃんがまるでレフェリーのように、僕とオヤジを結ぶ直線上から少し離れたあたりに立っている。一瞬、オフクロの顔が思い浮かんだ。オフクロは常々僕にこう言っていた。「あの人に手を出したら、あんたを殺してわたしも死ぬ」。オフクロの中で生き残っている、唯一の儒教スピリットだった。 でも、ここで引くわけにはいかなかった。どうしても。
僕は覚悟を決めた。僕はオヤジに気づかれないように息を吸い込み、腹に溜めた。オヤジが口を開き、小馬鹿にした口ぶりで、言った。「かかってこいよ、ルーク――」 うるせえ。僕は膝を軽く折って体を下に沈めたあと、つま先を使って両足を思い切り前に蹴り出し、 オヤジの懐に飛び込んでいった。
人間の動体視力は横の動きには反応しやすいのだけれど、上下の動きにはうまく反応できない。普通の人間なら、下方から襲ってくる僕の動きに恐慌。 を来たし、ガードも取れずに一発でKOされてしまうのだが、さすがに元日本ランカーのオヤジは違った。オヤジは咄嗟に顔の前に腕を立てて、盾のようなガードを固めた。
瞬時に顔面への攻撃を諦めた僕は、飛び込んでいった勢いそのままに、左のボディ・フックをオヤジの肝臓に入れた。手応えはあった。普通の人間なら、上げていたガードを条件反射的に下げてボディをかばってしまい、返しの左フックを顔面に浴びてしまう。
でも、オヤジはガードを決して顔の前から下ろそうとしない。今度は右のフックを左の脇腹に入れて、 試してみた。グッ、という呻き声は吐いたものの、ガードは顔の前からぴくりとも動かない。ボクシングを習い始めの頃、オヤジはよくこう言っていた。
「ボディにパンチを食らって倒れるような奴は、ダメだ。一流にはなれない。だから、死ぬ 60 ほどボディを鍛えろ。ボディでパンチを受けて、相手の力を奪い取ってやるんだ。その代わり、頭はしっかり守れ。体がボロボロになっても、頭がはっきりしてるかぎり、チャンスはある。絶対にな」
オヤジに反撃の隙を与えないように、立て続けにボディにパンチを入れた。それにしても、固い。ものすごく固い。あと何年かで還暦を迎える男の体とは思えなかった。こいつはいったい何者なんだ? 何を食ったら、こんな体を作れるんだ? しゅしびれを切らせた僕は、ガードの脇をついて、顔の側面にパンチを入れ始めた。
耳のすぐ後ろの部分、ボクシング用語で言う、「アンダー・ジ・イアー」を狙って、左右のフックを繰り出した。ここにうまくヒットすると、三半規管が麻痺してバランス感覚を失い、ダウンしやすくなるのだ。何発かうまい具合に当たり、オヤジの膝が少しずつ揺れ始めた。
ぴったりと顔の前をガードしていた両腕が、打たれている部分をかばおうと、徐々に横に開き気味になってきている。もう少し「アンダー・ジ・イアー」を攻めれば、完全に腕が横に広がって顔の前がポッカリと開き、鼻面にパンチを入れることができるだろう。そうすれば、僕の勝ちだ。初めて膝を地面につけさせてやる。
僕は、開け開け、と念じながら、フックを繰り出し続けた。ガードがーセンチほど広がり、その隙間からオヤジの鼻と唇が見えた。鼻はいつも通りの鼻だった。問題は唇だった。 オヤジは下唇を口の中に巻き込み、歯でしっかりと噛み締めていた。痛みを堪えるためにしている感じではなかった。ふいに、チューチューという何かを吸い込んでいる音が聞こえた。
オヤジは下唇を噛み締めながら、同時に何かを吸い込んでいた。オヤジの意図に気づいた時には、もう遅かった。オヤジのガードが、一気にパッと開いた。それまで見えていなかった両目がハロゲンライトの光線を反射し、キラリと光った瞬間、オヤジの口から血が噴き出された。オヤジの目の光に見とれていたせいで、目を閉じるのが遅れた。
勝負は常に一瞬で決まる。血が目に飛び込み、僕は視界を失った。顔面へのパンチを立て続けに三発食らった。コンクリートの塊がぶつかってきたような衝撃で、背骨のきしむ音がかすかに聞こえた。二発目のパンチで、前歯が一本折れたのが分かった。慌てて、顔の前でガードを固めた。左右の脇腹に、重いパンチが入った。ガードを下げてしまった。
左の「アンダー・ジ・イアー」にフックを食らった。目を閉じたままの僕の目の前に、一瞬青白い炎のようなものが浮かび上がり、消えた。そして、次の瞬間には地面に崩れ落ちていた。背中をぴったりと地面につけ、横たわった。地球がグラグラと揺れている。酔ってしまいそうだ。誰か地球を止めてくれ。オヤジの声が上から降ってきた。地球が止まった。
「ガードを下げるバカがいるか」「汚ねえぞ・・・」 僕は口の中に溜まっていた血を吐き出したあと、どうにか言葉を搾り出した。オヤジの容赦のない声が体を打った。「悪いな。俺たちはこうやってどうにかこうにか勝ちを拾ってきたんだ。いまさらやり方を変えるわけにはいかねえんだよ」声がするほうを見ようと、手で目をこすった。
血は、オヤジの血は、なかなか目の中から消えなかった。それでも網膜に貼りついた赤を通して、声がしたほうを見た。見上げていたせいもあったろうけれど、オヤジが途轍もなく大きく見えた。運ちゃんがオヤジに近寄り、 オヤジの右腕を掴んで、上に持ち上げた。まわりからいっせいに拍手が起こった。ヒューヒュー、という口笛まで聞こえてくる。
● "GO"(1998金城一紀) 06-4
オヤジは運ちゃんやカップル連中の祝福を受け、照れ臭そうに笑っていた。目が痛くなったので、目を閉じた。自然に涙が出てきた。何度か目をしばたき、血の交じった涙を目の中から搾り出した。拍手や歓声が、止まない。 ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう・・・。公園の水飲み場で血を洗い流したあと、タクシーに乗った。
僕は手のひらの上に載っている前歯のかけらを、ぼんやり眺めていた。公園で顔を洗っている最中に、運ちゃんが、はいこれ、と拾ってきてくれたのだ。舌先で、折れた左の前歯の形をなぞってみた。神経が露出しているのか、息をするたびにスースーして、獄に触る。窓を半分ぐらい下ろして前歯を外に放り投げた時、オヤジがポツリと言った。
「確かに、おまえの言う通りかもしれないな」「なにが?」と僕は言った。「もう俺たちの時代じゃないってことだよ」と僕はオヤジの横顔を見た。下顎あたりの痣が、さっきまでの赤から青に変わり始めていた。下唇にくっきりとした歯形が残り、小さなかさぶたが所々にポツポツといった感じで浮いていた。
「この国もだんだん変わり始めてる。これからもっと変わって行くはずだ。在日だとか日本人だとか、そういうのは関係なくなっていくよ、きっと。だから、おまえたちの世代は、どんどん外に目を向けて生きてくべきだ」「そうかな?」と僕は真剣に訊いた。「ほんとに変わるかな?」
オヤジはなんの根拠があるのか、はっきりと頷いた。顔には自信満々の笑みが広がっていた。根拠? そんなもの必要ない。思うことが大事なのだ。きっと。「仕事のほう、大丈夫?」と僕は訊いた。「おうよ」とオヤジは勢い良く、言った。
「まだ一軒残ってるからな。まあ、もともと長くやるつもりで始めた商売じゃないし、おまえに継がせるつもりもなかったから、最後はゼロになればちょうどいいんじゃないか。俺とあいつが幸せな老後を過ごせるぐらいの貯えはあるしな。そんなわけで、おまえの面倒は見ないぞ」
オヤジは、カッカッカッ、と楽しそうな笑い声を上げた。このクソオヤジは小学校しか出てないくせに、独学でマルクスやニーチェを読めるようになった。鉄筋コンクリートのような体と、氷のように冴えた頭脳で闘い続け、このタフな国で生き抜いてきた。僕はこのクソンオヤジが、どうして急に韓国籍に変えたのかを分かっていた。ハワイのためじゃない。僕のためだ。
僕の足にはまっている足枷を、ひとつでも外そうと思ったのだ。このクソオヤジムが、どうして玄関先に、キスをされてダブル・ピースをしている恥ずかしい写真を飾ったの。 か、僕には分かっていた。総連にも民団にも背を向けることで、ほとんどすべての友人を失くし、家に訪れる人がなくなるのを知っていたからだ。
孤立無援で闘い続けている、このク・ ソオヤジにねぎらいの言葉をかけてやる人間は、この国にはほとんど存在しない。だから、 僕が言ってやることにした。「いつか、俺が国境線を消してやるよ」オヤジは僕の言葉に目を丸くしたあと、不敵な笑みを口元に浮かべ、言った。「これまで言ってなかったけどな、うちの家系は李朝から続く由緒正しい大ボラ吹きの家系なんだ」
僕とオヤジが、顔を見合わせ、へらへらと笑った時、タクシーが、うちの近所の住宅街にまで辿り着き、ある交差点で信号に捉まって、停まった。下ろしっぱなしだった窓を通して、季節外れの風鈴の音が、遠くからかすかに聞こえてきた。チリンチリン、チリンチリン•••。
オヤジは赤ん坊のようにふくよかに微笑み、懐かしい音だなあ、と言った。僕は、韓国に風鈴を吊るす習慣があるかどうか、知らない。そして、たぶん、オヤジも。家に着いた。タクシーの運ちゃんは、どうしても料金を受け取ろうとしなかった。「本当にいいものを見せてもらったんで・・・。
そのお金で亡くなった弟さんに、お花でも送ってあげてください」家には明かりが点いていた。最悪の展開だった。覚悟を決めて家に入って行くと、玄関先で僕たちを出迎えたオフクロの顔が瞬時に変わった。オフクロは僕とオヤジのそばをダッシュで擦り抜け、ドアから外に出た。
十秒後ぐらいに戻ってきたオフクロの手には、竹ぼうきが握られていた。僕は竹ぼうきの柄で全身を三十八発殴られた。そばに立って見ていたオヤジは、これが愛の力だ、思い知ったか! と言い、豪快に笑った。オヤジも三発殴られた。 打ち身で発熱した僕は、学校を三日間休むことになった。
昼休み。教室には不穏な空気が漂っていた。二時限目の国語の授業の時、教師に指されて質問の答えを口にした時、前歯が折れていることがみんなにバレてしまったのだ。今日は挑戦者が大挙して押し寄せるかもしれない。 教室の前のドアが開いた。ギャラリーの視線がいっせいにそちらに向く。ギャラリーはがっかりしたように息をつき、仲間たちとのお喋りに戻った。
宮本はこの前と同じように、僕の前の席に座った。「考えてくれたかい?」と宮本は訊いた。「俺はつるまねえよ」と僕は言った。宮本は短いため息をついて、言った。「もしよかったら、理由を聞かせてもらえるかな。今後の参考にするから」僕は少し迷ったあと、言った。
「おまえがやろうとしてることがどうのこうのって問題じゃないんだ。正しいことだと思うし、意義のあることだとも思う。でも、俺は誰ともつるまないで、おまえたちと同じことをやりたいと思ってるんだ」宮本は皮肉な笑みを浮かべた。「君は現実主義者だと思ってたよ」僕は鼻で笑った。
「俺はバリバリの現実主義者だよ。おまえと見てるものが違うだけだ」宮本は相変わらず皮肉な笑みを浮かべながら、言った。「独りでできるものならやってみればいい。でも、気づいたらこの国にぺしゃんこにされてた、ってことにならないようにね」僕は短いあいだ、黙って宮本の顔を見つめたあと、言った。
「おまえと喧嘩はしたくないんだ。さっきも言ったように、おまえは正しいことをやろうとしてる。俺がそれに加われないってだけのことだ。俺は忙しいんだよ」宮本の顔から皮肉な色が消えた。「忙しいって、なにをやってるんだ?」
「倒さなくちゃいけないすげえ奴がいるんだよ。そいつを倒すために勉強しなくちゃならないし、体も鍛えなくちゃならない。とりあえずそいつを倒さなくちゃ、先に進めないんだ。 でも、そいつを倒したら、俺はほとんど無敵だ。世界だって変えられる」
僕の高校に上がってからの戦績は、『二十五勝一敗』になっていた。僕は無敗の男ではなくなってしまった。そして、その一敗は途轍もなく大きな一敗だった。
宮本が、わけが分からない、といった感じで首を横に振った。それからな、と言って、僕は言葉を続けた。
「俺が国籍を変えないのは、もうこれ以上、国なんてものに新しく組み込まれたり、取り込まれたり、締めつけられたりされるのが嫌だからだ。もうこれ以上、大きなものに帰属してる、なんて感覚を抱えながら生きてくのは、まっぴらごめんなんだよ。たとえ、それが県人会みたいなもんでもな」
宮本が何かを言おうと、口を開きかけた。僕は言葉でそれを遮った。 「でもな、もしキム・ベイシンガーが俺に向かって、、ねえお願い、国籍を変えて、なんて頼んだら、俺はいますぐにでも変更の申請に行くよ。俺にとって、国籍なんてそんなもんなんだ。矛盾してると思うか?」
宮本は開きかけた口のまま、僕のことを厳しい目つきで見つめていたけれど、やがて、口元をほころばせ、優しい笑みを顔に作った。そして、言った。「僕は――、俺は、カトリーヌ・ドヌーブかな」「古いのを出してくるな」「うるせえ」
僕と宮本が、顔を見合わせてへらへら笑ったのと、教室の前のドアが開いたのは、ほとんど同時だった。僕は宮本に言った。「そこをどいたほうがいいぞ」宮本は素直に席から腰を上げたあと、手を差し出した。僕たちは強い握手を交わした。 僕は、教室の隅のほうへと避難している宮本の背中から、僕に向かってきている挑戦者に視線を移した。
そして、今日はどんな決め詞を吐こうか考えていた。オヤジから教わった、あの言葉がいいかもしれない。「ノ・ソイ・コレアーノ、ニ・ソイ・ハポネス、ジョ・ソイ・デサライガード(俺は朝鮮人でも、日本人でもない、ただの根無し草だ)」それに、決めた。
● "GO"(1998金城一紀) 07-1 234p
雨の多かった憂鬱な十一月が終わり、十二月に入った。僕は真面目に受験勉強を続け、オフクロは真面目に自動車教習所に通い、オヤジは真面目にゴルフ場に通った。十二月初旬のある日曜日、正一から借りていたものを返しに、正一の家に行った。「正一のためにずっと持っててあげて」お母さんはそう言って、にこやかに笑いながら、続けた。「歯、どうしたの?」
色々と悩んだ末に、正一の骨を色々な国に散骨するつもりだ、とお母さんは言った。「近いうちにね、初めて韓国に行ってみようと思ってるのよ」僕が通訳での同行を申し出ると、お母さんは、いま必死で韓国語を勉強しているの、と言って、楽しそうに笑った。
知らない言葉を習うのって、楽しいわよね。もっと早く、あの子が生きてるうちに教わっとけば良かったわ・・・。帰り際、家の外まで見送りに出てくれたお母さんが、僕に言った。「正一のこと、忘れないでやってね」僕は、はい、と答えた。絶対に。
十二月の中旬に、オフクロからナオミさんの結婚話を聞いた。相手は店によく来ていた、 外資系の商社に勤めるアメリカ人だった。僕は受験勉強の合間を縫って、お祝いを言いに店に行った。僕が、おめでとうございます、と言うと、ナオミさんは本当に嬉しそうに微笑んで、言った。
「はるかむかしに中近東のあたりで分かれたグループの子孫たちが、日本で巡り合ったっていうわけよね。ねえ、ものすごいことだと思わない?」僕はしっかりと頷いた。「欠けた前歯がとてもキュートよ」ナオミさんは僕の頬を優しく撫でながら、言った。
「もっともっとキュートになって、いい娘をゲットしなさいね。それで、誰よりもハッピーになりなさい」僕は頷いて、言った。「言葉の中に英語が増えてますよ」ナオミさんはどういうわけか頬を赤らめ、そして、とても色っぽく微笑んだ。
十二月二十三日の夕方、元秀と池袋駅のホームで、偶然に会った。僕は予備校の冬期講習に向かうために山手線のホームにいて、元秀はその向かいの埼京線のホームにいた。お互いの存在に気づいたのは、ほとんど同時だった。元秀は三人の仲間たちと一緒にいた。他の仲間も僕の存在に気づいた。僕と元秀のグループは、四本分のレールを挟んで、しばらくのあいだ対峙した。
先に元秀たちのほうのホームに電車が滑り込んできて、元秀たちの姿を消した。それからほどなくして、僕のほうのホームにも電車が滑り込んできた。僕は電車には乗らなかった。電車が走り去り、視界が開けた。向かいのホームに、 元秀たちの姿はなかった。僕はスペースが広く取ってあるホームの真ん中あたりに移動し、 待った。元秀とのこれまでの対戦成績は三勝二敗で、僕がひとつだけ勝ち越していた。
一分ほど待つと、元秀の姿が僕のいるホームに現われた。他の連中の姿はなかった。僕はジッと立ったまま、元秀がそばに来るのを待った。元秀が僕の向かいに立った。元秀が眉間に深い縦皺を刻みながら、射貫くような視線を僕に向けた。むかしから、嫌になるぐらいに見慣れた表情だった。ちっとも恐くなんてなかった。僕は思わず、ニカッと笑ってしまった。僕の笑顔を見た元秀の顔に一瞬困惑の色がよぎったけれど、またすぐに険しい色が戻った。
「誰にやられた?」こいつはいつもそうなのだ。仲間が傷つけられたり、なめられたりすると、自分のことなんて顧みずに、真っ先に仕返しに向かおうとするのだ。「うちのジジイだよ」僕がそう言うと、元秀の顔から険しい色が薄れた。僕がもう一度ニカッという笑みを元秀に向けると、元秀は少し照れ臭そうに笑った。
元秀が歩を動かし、肩を並べるようにして、僕の隣に立った。僕たちはさっきまで元秀がいたホームに向かって立っていた。僕たちのホームに電車が入ってきて、出て行ったあと、 元秀が前を見つめたまま、言った。「原チャリをパクって、三人乗りで捕まった時のこと、おぼえてるか?」
僕も前を見たまま、頷いた。元秀は続けた。「あん時、おまえのアボジ(オヤジ)が警察署に乗り込んできて、おまえをボコボコにした姿は、俺は一生忘れねえよ。俺、自分もやられると思って、死んだふりしようかと思ったもんな」 「うちのジジイはクマかよ」「ただのクマじゃねえ。ヒグマだよ」僕たちは相変わらず前を見たまま、短い笑い声を上げた。元秀がポツリとつぶやいた。「おまえのアボジ、カッコいいよな・・・」
あたみ元秀のアボジの口癖は、「俺が日本人に生まれてたら、総理大臣か社長になってた」で、 勤めている工場で嫌なことがあると、酔っ払って元秀を殴った。元秀の左の肩甲骨とへその右横と右のお尻と左のふとももと右足の甲には、アボジに火のついた蚊取り線香を押しつけられた火傷の痕が残っている。
そんなわけで、元秀は五回家出をし、僕はそれらすべてにつきあった。初めての家出は小学校三年の時で、東京駅から東海道線に乗り、茅ヶ崎まで行った。次は小田原、次は熱海、次は静岡、と家出のたびに距離を伸ばしていき、最後は名古屋まで行って、『パチンコ長者』になった。家出は楽しかった。
その分、東京に戻ってきて別れる時が辛く、僕たちは仕方なく、「おまえの眉毛が気に入らねえ」とか、「おまえの箸の持ち方が気に入らねえ」とか難癖をつけて、殴り合いの喧嘩をした。その戦績が三勝二敗だった。僕たちは、「おまえとなんか二度と遊ぶか」と言って別れ、その翌日には何事もなかったかのようにつるんで遊んだ。僕は元秀のことが大好きだった。
電車が二本、入っては出て行った。元秀が言った。「おまえ、葬式の時に、俺が正一とほとんど話したことないとか言ってたろ。それは、違うぞ。俺、正一とはよく話してたんだ。俺はおまえたちとは違ってボンクラだから、難しい話をしたわけじゃねえけど。・・・俺、正一からよくおまえの話を聞いてたんだ」
僕は元秀の横顔に視線をやった。元秀は相変わらず前を見つめたままだった。僕は視線を前に戻した。また、電車が二本、入っては出て行った。僕たちのまわりを、無数の乗客たちが通り過ぎていく。僕たちは微動だにしないで、ホームに立ち尽くしていた。元秀が言った。
「俺もちゃんと分かってるんだぜ。北とか総連の連中が俺たちを利用することしか考えてなくて、ちっともあてにならないなんてことは。でも、俺はこっち側でがんばるつもりだ。こっち側には俺を頼りにしてくれてる連中がけっこういるからな。そいつらのためにがんばってるあいだだけは、俺はハンパな野郎じゃなくなるんだ」
「・・・ああ、分かってるよ」電車が二本。元秀が言った。「おまえ、高校の連中と、いつもどんなこと話してんだよ?」「・・・あんまり話をしたことがねえんだ」「友達はいるのかよ?」「・・・いねえ」「・・・そうか」電車が二本。元秀が言った。「将来、お互いにしょぼいジジイになるまで生きてたら、そん時は温泉にでも行こうぜ」「いや、もっと遠くに行こうぜ。ハワイに行こう」「ハワイか・・・。いいな」電車が二本。
元秀が言った。「"肝試し'の時のおまえ、カッコよかったぞ」「・・・ああ」電車が一本。元秀が言った。「もう行けよ」「・・・ああ」電車が一本。元秀が言った。「行けよ。葬式の時の一発は貸しにしといてやるからよ」「うるせえ、俺の勝手だろ」電車が一本。元秀が言った。「行けよ、ぶん殴るぞ。俺はおまえの生き方が気に入らねえんだ」久し振りに顔に視線を感じた。僕は元秀に視線を向けた。
元秀は泣き笑いのような表情を顔に浮かべながら、僕を見つめていた。――なあ、教えてくれよ。俺はいま、どんな顔をしてる? 自分じゃ分かんねえんだ..。新しい電車が来た。僕は一歩だけ足を動かしたあと、どうにか言葉を搾り出した。「むちゃして死んだりするなよ」元秀は泣き笑いのような表情を浮かべたまま、僕のパンチを何度も跳ね返した頑丈な顎をクイッと上げ、啖呵を切るように、言った。「俺様が、そう簡単に死ぬかよ」
電車がホームに滑り込み、やがて停まった。僕は軽く手を上げて、じゃあな、と元秀に言い、歩を進めた。背中にひどく懐かしい感じの視線が貼りついていた。電車に乗り込んだ。 背後でドアが閉まっても、まだ懐かしい視線が僕の背中に注がれているのが分かった。僕は電車が完全にホームから走り去るまで、一度も、振り返らなかった。
クリスマス・イブ。朝から部屋にこもって受験勉強をしていると、オヤジが部屋に顔を出し、ふふふ、と嫌味に笑った。「うるせえよ」オヤジはドアを閉めたあと、これみよがしに歌い始めた。きっと君は来ない〜
独りきりのクリスマス・イブサイレン・ナイ〜 ホ〜り〜・ナイ~ どうやら息子をけなすために、わざわざ覚えたらしい。クソオヤジめ。
夜、電話が鳴った。おーい!という声が下から聞こえてきた。オヤジとオフクロはチェスをしている時、絶対に電話には出ない。仕方なく勉強の手を休め、子機を手に取った。桜井からだった。「久し振りね」と桜井は言った。僕は返事をためらった。
「元気?」と桜井は訊いた。僕は黙っていた。桜井はかまわず続けた。「わたしは元気よ」短い沈黙のあと、思い切ったような桜井の声が届いた。「あの小学校、おぼえてるでしょ? いまからあそこに来て。来てくれるまでずーっと待ってるから」 電話が切れた。
僕は子機のスイッチを切り、ベッドの上に仰向けに寝転がった。五分ぐらいあれこれ考えたけれど、結論は初めから決まっていた。僕はベッドから降り、着替えを始めた。白の長袖Tシャツを着て、ジーンズをはいたあと、黒のダウンジャケットを上に着込んだ。机の引き出しの中から、残り少なくなった香典を取り出し、ジーンズのヒップ・ポケットにねじ込んだ。
「ちょっと出掛けてくる」チェスボードの上の駒を睨んでいた二人が、同時に顔を上げ、僕を見た。オフクロが言った。「だから、早く差し歯にしとけって言ったでしょ」僕は、うるせえ、と言いながら、居間をあとにし、玄関に向かった。靴を履いている僕の耳に、オヤジのビング・クロスビーばりの歌声が聞こえてきた。
サ〜イレン・ナ~イ、ホ〜り〜・ナ~イ
オール・イズ・カ〜ム、オ〜ル・イズ・ブラ〜イト. おまえはマルクス主義者だろうが。家を出た。時間半ほどかかって、小学校のレール式の鉄扉の前に辿り着いた。一鉄扉を飛び越え、校内に入った。校庭の中を見回した。
桜井は偉い人の胸像の横のペンチに、暗闇にぽっかりと白く浮かび上がりながら、座っていた。僕はゆっくりと近づいて行った。桜井は青のタートルネック・セーターの上に、白のダッフル・コートを着ていた。とてもよく似合っていた。耳ぐらいまで伸びた髪を左から横に分け、耳の後ろに流していた。
理知的なおでこがきちんと見える。僕は桜井のおでこが好きだった。僕は桜井の目の前に立ち、歩を止めた。桜井の顔に緊張の色が落ちていた。僕は黙って桜井を見下ろしていた。桜井はぎこちなく微笑み、言った。「ありがとう、来てくれて」僕は沈黙を続けた。
「待ってるあいだ、ずーっと空を見上げてた。月が雲に隠れるたびに、雪が降ったらどうしよう、なんて思ってた。今日、天気予報で雨か雪が降るかもって言ってたから。最悪よね、 雪のクリスマス・イブなんて。雪のクリスマス・イブに男の子と会うなんて、恥ずかしくて死んじゃうわ。
その前に寒くて死んじゃいそうだったけど・・・」 桜井が大きなため息をついた。白い息が浮かんで、消えた。桜井は顔から笑みを消し、言った。「杉原と会わないあいだ、わたしなりに色々考えて、たくさんの本を読んで、難しい本もたくさん読んで――」僕は桜井の前にしゃがみ込んだ。
僕の急な動きに、桜井の口から言葉の代わりに、浅い息が漏れた。顔がひどく緊張している。僕は桜井の顔を睨みつけるように見上げながら、言った。「俺は何者だ?」「え?」「俺は何者だ?」桜井は少し迷った末に、答えた。「…在日韓国人」僕は立ち上がり、胸像の台座の部分を思い切り三回蹴ったあと、桜井に向き直って、言った。
「俺はおまえら日本人のことを、時々どいつもこいつもぶっ殺してやりたくなるよ。おまえら、どうしてなんの疑問もなく俺のことを《在日》だなんて呼びやがるんだ? 俺はこの国で生まれてこの国で育ってるんだぞ。在日米軍とか在日イラン人みたいに外から来てる連中と同じ呼び方するんじゃねえよ。《在日》って呼ぶってことは、おまえら、俺がいつかこの国から出てくよそ者って言ってるようなもんなんだぞ。分かってんのかよ。そんなこと一度でも考えたことあんのかよ」
● "GO"(1998金城一紀) 07-2
桜井は息を呑んで、僕のことをジッと見つめていた。僕は桜井の目の前にひざまずき、そして、言った。
「別にいいよ、おまえらが俺のことを〈在日〉って呼びたきゃそう呼べよ。おまえら、俺が恐いんだろ? 何かに分類して、名前をつけなきゃ安心できないんだろ?でも、俺は認めねえぞ。俺はな、《ライオン》みたいなもんなんだよ。《ライオン》は自分のことを《ライオン〉だなんて思ってねえんだ。
おまえらが勝手に名前をつけて、《ライオン》のことを知った気になってるだけなんだ。それで調子に乗って、名前を呼びながら近づいてきてみろよ、おまえらの頸動脈に飛びついて、噛み殺してやるからな。分かってんのかよ、おまえら、俺を《在日》って呼び続けるかぎり、いつまでも噛み殺される側なんだぞ。悔しくねえのかよ。
言っとくけどな、俺は《在日》でも、韓国人でも、朝鮮人でも、モンゴロイドでもねえんだ。俺を狭いところに押し込めるのはやめてくれ。俺は俺なんだ。いや、俺は俺であることも嫌なんだよ。俺は俺であることからも解放されたいんだ。俺は俺であることを忘れさせてくれるものを探して、どこにでも行ってやるぞ。この国にそれがなけりゃ、おまえらの望み通りこの国から出てってやるよ。
おまえらにはそんなことできねえだろ? おまえらは国家とか土地とか肩書きとか因襲とか伝統とか文化とかに縛られたまま、死んでいくんだ。ざまあみろ。俺はそんなもの初めから持ってねえから、どこにだって行けるぞ。いつだって行けるぞ。悔しいだろ? 悔しくねえのかよ・・・。ちくしょう、俺はなんでこんなこと言ってんだ? ちくしょう、ちくしょう・・・」
桜井の両手が僕の頬に伸びてきて、ぴったりと触れた。桜井の手はとても暖かかった。 「その目・・・」と桜井はかすかに微笑み、震える声で言った。「・・・目?」と僕は問い返した。桜井は頷いたあと、笑みを深めて、続けた。
「去年の九月のことなんだけど、わたし、返ってきた模試の成績が悪くて、いつもみたいに、なんでこんなことで落ち込むんだろう、バカみたい、って分かってながらも落ち込んじやってたの。それは雨の日の放課後で、なんだか家に帰りたくないなあ、って思いながら、 体育館のそばを通ったら、バスケットの全国大会の予選リーグがうちの高校の体育館で開かれてて、ちょうど試合をやってたとこだったの。
わたし、バスケのことなんてよく分かんないし、興味もなかったんだけど、どういうわけかその時はね、タンタンタン、ていうバスケット・ボールが床にあたる音に惹かれて、体育館の中にフラフラって入って行っちゃった。それでね、観客席に座って、初めのうちはぼんやり試合を観てたんだけど、だんだんプレイしてるある男の子の動きばっかりを目で追うようになったの。
その男の子の動きはすごくしなやかで、まるできちんと振りつけされてるダンスみたいだった。すごいな、自分もあんな風に動けたらいいな、って思いながら、その男の子のことを見てたらね、その男の子が突然、持ってたボールを、自分をマークしてた相手の選手の顔に投げつけたの。たぶん、その男の子は相手の選手にひどいファウルをされたか、ひどい言葉を言われたのね。わたし、突然のことだったから、すごくびっくりしちゃった。
コートの中も一瞬静まり返ったんだけど、すぐにボールをぶつけられた選手の味方の選手が、その男の子に、てめえ!って言いながら殴りかかっていったのね。そしたら、その男の子、向かってくるその選手に、ものすごく打点が高いドロップ・キックをやったの。わたし、ドロップ・キックなんてテレビでプロレスラーがやってるのしか見たことなかったから、生で見れてすごく感動しちゃった。それでね、一発だけでもすっごく感動しちゃったのに、その男の子、次々に向かってくる相手に連続して何度もドロップ・キックをやったのよ。
そのあいだは、着地してる時間より、宙にいる時間のほうが長かったんじゃないかな。わたし、もう感動とかそういうことを感じるどころじゃなくなっちゃって、ただただその男の子の動きに見とれてた。だって、その男の子の動き、ほんとにすごかったんだもの。その男の子のまわりだけ重力がないの、まるっきり。
その男の子、自然の法則を超えちゃったのよ。気がついたら、コートの中にいた相手の選手たちは鼻血を出したりしながら、みんな床の上に倒れてた。そんな風になってようやく審判たちがその男の子のことを取り押さえようとして、その男の子に近づいて行ったんだけど、その男の子、すっごく興奮してたみたいで、審判にもドロップ・キックをやり始めたの。
わたし、そこらへんから、もうおかしくておかしくて、クスクス笑ってたのね。そしたら、その男の子のチームのコーチが、ベンチに座ってた選手たちに向かって、行けっ! 杉原を取り押さえろ! って命令した。わたし、ダメ!つかまらないで! って心の中で叫んだんだけど、ダメだった。杉原は二人目の審判にドロップ・キックをし終わって着地した瞬間に、チーム・メイトにつかまっちゃったの。
でも、しばらくのあいだ、杉原は必死に抵抗してた。離せ! 離せ! って叫びながら。チーム・メイトは仕方ないって感じで、杉原を床の上にどうにか倒したあと、杉原の上に乗っかった。確か、四人が乗ってたから、小さな山みたいになってた。わたし、ああ、つかまっちゃった、ってすごく残念で、バカみたいだけど、悔しくて涙が出そうになったのね。
でもね、すぐに涙が引っ込んだ。だって、小さな山が、ビクンビクン、て動いてるのよ。四人も乗っかってるのに、ビクンビクン、て。わたし、こらえきれなくて、観客席に横になりながら、お腹を抱えて笑っちゃった。
あんまり笑いすぎて、引っ込んだ涙がまた出てきたぐらい。どうにか笑いがおさまって、コートを見たらね、杉原は何人かの先輩たちにビンタをされてて、そのあと、コーチにユニフォームの背中の部分をつかまれて、コートから控え室のほうに連れていかれることになってた。その姿がまた面白かったのね。
だって、いたずらばっかりする子猫が、飼い主に背中をつかまれて、外に放り出されるみたいだったんだもの。コーチと杉原は、わたしが座ってたほうに歩いてきてた。わたし、相変わらずクスクス笑いながら、身を乗り出すようにして杉原のこと見てたのね。そしたら、杉原がわたしのことに気づいて、ものすごい目でわたしを睨んだの。わたし、勘違いしてた。
杉原は子猫じゃなくて、ライオンだったんだよね。それでね、わたし、杉原に睨まれた時、背肪がぞくっとして、体の中心がもぞもぞする感じがあって、 気がついたら、濡れてたの…。わたし、そういうの初めてだった…。それまで、男の子にキスされたり、体を触られたりしても、濡れたことなかったのに、睨まれただけでそうなっちゃった…。
わたし、その日、ずーっと正門の前で杉原が出てくるのを待ったんだけど、裏門から帰っちゃったみたいで、会えなかった。その日からずーっとわたしの頭の中には、『杉原」っていう名前と、杉原の高校の名前があった。
何度か高校まで訪ねて行こうと思ったこともあったんだけど、そんなことこれまでしたことなかったから勇気が出なくて、 友達に相談したら、そんなバカ高校の奴やめなよ、って言われて、それだけじゃなくて、あの高校に近寄ったらまわされちゃうよ、なんて恐いことも言われたから、結局行けなかった。でもね、わたし、絶対に杉原に会えるって信じてた。それはもう確信に近かった。
だから、今年の四月に、わたしの隣に座ってる男の子が、パー券をむりやり売りつけられた、って言ってわたしに見せてくれて、それが杉原の高校の男の子が主催してて、杉原の高校の男の子たちがたくさん集まるって聞いた時、何があっても絶対に行こうって思って、その男の子からパー券をもらったのね。それで、会場に行ったら、やっぱり杉原に会えた・・・。杉原のこと、すぐに分かったよ。だって、その時もわたしのこと、睨みつけてくれたもの。わたし、あの時も濡れてたんだよ・・・」
頬を挟んでいる桜井の両手に力がこもった。「わたし、いまもすっごく濡れてるよ。触ってみる?」「ここで?」と僕はちょっとびっくりして、言った。桜井は頷いた。僕は少し迷って、言った。「ここじゃまずいんじゃないかな――」ふいに顔を胸の中に引き寄せられた。後頭部とうなじに桜井の手がかかり、ギュッと抱き締められた。
桜井の、ドクンドクン、という心臓の音が聞こえてきた。ドクンドクン、ドクンドクン・・・。なんて懐かしい音なのだろう。なんて心地いい音なのだろう。桜井の声が頭に降ってきた。「もう杉原が何人だってかまわないよ。時々、飛んでくれて、睨みつけてくれたら、日本語が喋れなくたってかまわないよ。だって、杉原みたいに飛んだり、睨みつけたりできる人、 どこにもいないもん」
「ほんと?」と僕は桜井の胸に顔をつけたまま、訊いた。「ほんとだよ。わたし、ようやく、そのことに気づいた。もしかしたら、杉原を見た初めから気づいてたのかもしれないけど」桜井はそう言って、僕の頭のてっぺんにキスを三回してくれた。桜井の手の力が緩んだので、僕はゆっくりと顔を胸から離した。桜井が僕の顔を見つめて、訳いた。「どうして泣いてるの?」
「嘘つけよ」と僕は言った。「俺は人前では泣けない男なんだ」桜井は眩しいものでも見るように目を細めて微笑んだあと、また僕の頬に両手をあて、親指を優しく動かし、涙を拭き取ってくれた。「さっきからずーっと言おうと思ってたんだけど」と桜井は真面目な顔をして、言った。「欠けた歯がおマヌケで、とっても可愛いよ」
僕と桜井は顔を見合わせ、笑った。桜井が僕の顔から手を離し、ベンチから立ち上がった。 「また、月が隠れ始めたわ。雪が降ってくる最悪の事態の前に、どこかへ行きましょうよ」「どこに行く?」「どこでもいいわ。とりあえず暖かいところに行って、それで、今晩どこに泊まるか考えましょうよ」「・・・いいの?」「そういう鬱陶しい質問をする癖は直してね」
桜井は僕の横を擦り抜け、スキップのような足取りで正門のほうに向かった。僕はひざまずいたまま、桜井の後ろ姿を目で追っていた。桜井が足を止め、振り向いた。僕がこれまで見たことのない微笑みが、浮かんだ。そして、雪のように白い息とともに暖かい声が吐き出され、僕の耳に届いた。「行きましょう」
ㅡ終ㅡ ( 252p)
