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理想家庭の指標
第一章 真の愛で創造理想を実現する者
一(韓国語の家庭盟誓1番)
一 私たちの家庭は真の愛を中心として、本郷の地を求め、本然の創造理想である地上天国と天上天国を創建することをお誓い致します。
人生何事を始めるにも、目的を明確にすべきである。愛が真実であるか偽りであるかは、愛する者たちの心の奥深くにある目的によって決まるのではないだろうか? 真の愛に生き、真の家庭を建設するための前提条件とは、いかに正しい目的に自らを向かわせるかということである。目的が正しいものであれば、われわれのなすすべてのことは、最終的に成功するであろう。それゆえに「家庭盟誓」は、家庭生活は天国建設のためにあるという目的を述べ、それを誓うことをもって始まるのである。われわれは、神の希望であり理想でもある地上天国と天上天国の創建のために、自らの情熱と愛と行動のすべてをささげることを誓う。イエスご自身も神の国を説くために来られた(マルコ一・15)。イエスは弟子たちに「まず神の国と神の義とを求めなさい」(マタイ六・33)と教え、そうすれば神から無限の繁栄と幸福が与えられると約束した。同様に、「家庭盟誓」の第一条をもって、われわれは自分自身と自らの家庭がキリストと共に天国を創建する者となることを誓うのである。
もしわれわれの家庭が、天国建設のために献身的に働く真の家庭であるならば、真の愛によって生きるのである。真の愛は、夫婦、親子、兄弟姉妹といったあらゆる家族関係を通して輝くものである。このようにして家庭において良き見本を示す。さらに、真の家庭は地域社会に対しても惜しみなく奉仕する。われわれは、近所や親戚の人々に善と愛の光を与え、彼らの心の中に慈愛と平和と善意が広がるように鼓舞すべきである。イエスは次のように語っている。
あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照らさせるのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。
マタイによる福音書第五章14~16節
(この教えに従うなら)だれもが自然にわれわれの家庭を地域社会の教師、親、あるいは指導者として歓迎し、尊敬するようになるであろう。このようにして、われわれの家庭は本郷の地、すなわち真に心の安らぎを感ずる愛と喜びに満ちた地を見いだすのである。さらにわれわれが各家庭ごとに自分の故郷を変革するために働くときに、神の偉大なる天国復帰の摂理が進展するのである。真の家庭は、世界的な次元で神の国を建設するために自らの氏族と地域社会を育成する、キリストの善きパートナーなのである。
この誓いの意味をさらに詳しく見てみよう。韓国語では「私たちの家庭」で始まる。英語の慣例では、「私の」家庭、「私の」家、「私の」隣人などというが、韓国語では「私たちの(ウリ)」という複数形を使う。英語では個人の主体性が強調されているが、韓国語では全体性に力点が置かれている。われわれが「私たちの家庭は……」と唱える時、家庭というものは家族の喜びも苦しみも共に分かち合うということを思い起こすべきなのである。私の運命は家庭の運命から切り離すことはできない。「私の」家庭という英語の表現は、「私の所有物」としての家庭を意味する。とすれば、「私」はそれを捨てることも、それから離れることも、家庭を犠牲にしても、「私」だけの出世を願うこともあり得ることになる。
ところが「私たちの」家庭といった場合、家庭は私の所有物ではない。それは家族全員のものである。私の存在そのものが、家族全員の運命と固く結ばれているのである。家庭は私が存在するための基台、すなわち私が帰属すべき全体である。この「私たちの」というほんの短い言葉が、天宙のすべての個性体はその第一目的としてより大きな全体のために存在するという、普遍的な法則を表しているのである。
一 家庭
三世代世で構成される理想家庭
家庭を構成するものは一体何であろうか? 韓国語の「家庭(カジョン)」という言葉は、単に父と母と子供というもの以上の意味をもっている。工業化社会における都市生活が生み出した現代の核家族は、家庭というものがもっていた本来の豊かさを脱ぎ捨ててしまった。韓国の小さな農場における伝統的な家庭生活や、アフリカや南米の伝統的な家庭、あるいはいまだ地域に根ざした生活を営んでいる文化圏の家庭のことを考えてみるとよい。そこでは三世代が一つの家に住み、祖父母が家庭の重要な役割を果たしている。特に両親が畑仕事に出掛けている間は、彼らが子供たちの面倒を見ているのである。彼らは土地から収穫されるものによって生計を立て、その得たものを、裏庭を走り回ったり、時には家の中で一緒に休むことさえする鶏や豚と分かち合う。家には神々の祭壇が設けられており、その神々が家族を守り、繁栄と幸福をもたらしてくれる。近くの丘には、先祖の墓がある。先祖たちもまた家庭内の祭壇や特別に準備された部屋で、いつまでも記憶にとどめておけるように大切に祭られている。「家庭」という言葉は、このような要素を含めたより大きな意味で想起されるべきである。それを次の七つの観点から見てみよう。
第一に、家庭を構成する人々に関わる問題がある。後に三大王権(圏)との関係で論ずるが、本来は三世代が一つの家に一緒に住むのが理想である。
家族の顔としての家屋や土地
第二に、家屋自体が家庭の一部である。家屋は家族が共に住み、繁栄を分かち合う環境であり、それは世間に対する「家族の顔」として存在している。したがって、家屋は心地良い雰囲気を醸し出すように、きれいに片付けられ、快適であるべきである。統一教会の食口たちが新しく家を借りるときには、以前そこに住んでいた人々からの悪い霊的影響を一掃するために、聖塩をもって家を聖別する。家の中には、真のご父母様のお写真を飾る。これらはすべて家屋の霊的雰囲気を良くするための手段である。
どの家にも、家族がお客を迎えられるような公的な場所を設けるべきである。たとえ質素なアパートであっても、お客を落ち着いて迎えられるような、ちょっとしたスペースを準備すべきである。広々とした空間がある家をもつ食口がいるなら、公的集会の場として一番良い部屋を提供してあげるべきである。例えば、アメリカのある古い食口は、自分の個室を三十人が優に参加できる講義室兼礼拝堂として改築し、そこで定期的に集会をもっている。この観点から見た場合、たとえ大邸宅を所持しているといっても、それが地域社会の宣教に利用されるのであれば、何ら問題はないのである。しかし一方において、お客を歓迎することもせず、自分たち家族の楽しみのためだけに家屋を用いたとするなら、その家屋自体が本来の目的を果たせないでいると抗議してくるであろう。
われわれの家は家族の公的顔であって、信仰と奉仕の精神を表に示すものである。文師はわれわれの家の前に統一旗を掲げ、「家庭教会」という看板を出すようにといわれる。玄関と中庭がある家ならばきちんと整頓されているべきで、芝生等もよく手入れしておくことが大切である。壁のペンキもはげ落ち、雑草も生え放題という家では、そこに住んでいる家族には近所に対する思いやりが全くないということをさらけだすようなものである。そのような家庭は、地域社会にとってマイナスであって、排除されるようになる。我が家というには恥ずかしいようなお粗末な家に裕福な親戚を招待するのは気が引けるという場合には、熱心に働いて立派な家をもつとしても、それは間違いではない。しかしそのような場合、得られる富は決して自分のためのものではなく、氏族復帰と地域社会に貢献するためのものであるということを肝に銘じるべきである。
家庭の第三の要素は、財産と土地である。家と同じように、土地は家族の益になるばかりでなく、より大きな目的のために奉仕するものでなければならない。
農耕社会においては、土地は豊饒と祝福の源であった。土地に愛情が注がれ、よく手入れされると、その土地は穀物とそれから得られる利益とをもって家族を豊かに養ってくれた。今日われわれの大部分はこのような土地との親密な関係を失ってしまった。それでもやはり財産を築き上げるために仕事に精を出している。どんな人でも一生懸命に働き、汗や涙を流して生産的な仕事に取り組まない限り、決して繁栄することはできない。しかしわれわれの関心は、そのような財産と富とをもって、いかに自分の家庭が家庭盟誓を成就することができるかということに向けられるべきである。
十一条の伝統
われわれの家庭が神と神のみ旨に貢献する上において重要なことは、働いて得た実りを十一条を通してささげることである。家庭の信仰はその財産をどのように使うかによって表される。十一条の背後にある原理は、神が万物の創造主であり、所有者であるということである。本来、われわれの富はすべて神のものである。われわれが得たものの最初の一〇パーセントをささげるならば、神はすべてをささげたものとして受け入れてくださる。そうすれば、残りの九〇パーセントを個人的な目的のために自由に使用することができるのである。
十一条の伝統は、聖書の中にその実例を数多く見いだすことができる。その伝統はアブラハムから始まった。彼は「天地の主なるいと高き神」に戦いを挑んできたケダラオメルとその連合の王たちを撃ち破り、祭司メルキゼデクを通して、獲得した物の十分の一をささげた(創世記一四・18~20)。ヤコブはベテルの地で、安らかにハランから帰ることができるならば、すべての所有物の十分の一を神にささげると神に約束した(創世記二八・10~22)。彼の十一条への誓いは成功への道を開き、また彼は故郷に帰る道の途上において、まさにその誓いを全うしたのである(創世記三五・7)。パウロは「少ししかまかない者は、少ししか刈り取らず、豊かにまく者は、豊かに刈り取ることになる」(コリント・九・6)と述べ、物質的繁栄をもたらすためには、まず与えることが重要であると説いている。これは特に、信仰的に十一条を全うしようとする人々に当てはまる内容である。モーセの律法は、貧富の差に関わりなくすべての者が産物の十分の一を神の宮に持ってきて、祭司に納めるようにと明記してある。しかもこの十分の一は、土地の最初の産物でなければならなかった(申命記二六)。その乏しさにも関わらず、精誠の限りを尽くして持てるもの以上のものをささげた貧しいやもめを、イエスは賛美されたと福音書は記録している(ルカ二一・1~4)。
今日、われわれは神殿以上のものに侍っている。そうであるなら、十一条と願われる供え物を、喜びと感謝の心をもってささげようではないか。
家庭の第四の要素は、その家のペットや動物や庭である。
われわれはペットをあたかも家族の一員のようにかわいがる。犬とベッドを共にする家庭もあれば、かつて貧しい農家では牛や豚と寝起きを共にすることもよくあった。ペットは子供たちに責任と親の愛を教えてくれる。中には庭園を大切に手入れするために何時間も費やした人もいるであろう。そこから取れたものを近所の人たちや友人と分かち合うことで、個人的な親密さや絆を深めることができる。
神の創造目的としての家庭
ここで視点を地上から天に移してみよう。家庭における第五の要素は神である。神にとって、真の家庭はその創造のみ業の理想であり目的である。
最高水準の科学的計算によれば、神の創造のみ業は百五十億年はかかったとされるが、家庭はその有終の美を飾るものである。神は、はるか遠いところから創造の結実を称賛することだけを望まれたのではない。理想の家庭を懐に抱き、それと一つになることを願われたのである。
文師に啓示された統一原理において、神がまさしく家庭の一員であることを説明しているのは、四位基台の教えである。神は夫、妻、子供に対して主体的な相対である。神はまた、彼らが三対象目的を完成するときには、対象的な相対にもなる。四位基台の意味するところは、安定し繁栄する家庭のための基台は、神、夫、妻、子女という四つの格位を必要とするということである。この四つの格位が家庭のための正しい基台を規定する。
夫婦間の相愛のみによって作られた従来の家庭は、このパターンに適合しないため、この基台をもたない。したがって、繁栄もせず長続きもしない。結婚の結び付き自体が親の強い意向でなされるような東洋の伝統的な家庭でさえ、この基台がない。だから家庭も、三世代のうちに崩壊することがよくある。
「共に祈る家庭は、一緒にいることができる」という格言は、真の家庭生活の根本原則を示唆するものである。敬虔な信仰心に満ちた家庭こそが、その安定性と長期的繁栄性において最も優れた資質を有しているのである。
真の家庭は、自分の子女たちと一緒に暮らすことを幾十星霜も待ち焦がれた神の願いを実現するための機会を提供することによって、神の創造目的を成就する。実に神はすべての家庭に快く親しく臨むことを願っておられるのである。それは、神と夫と妻の三位一体である結婚をもって始まる。夫婦一体のその中心に神は住まわれる。神は子女受胎の場に臨席される。子供たちが四大心情圏を通過して成長しながら、子女の愛、兄弟姉妹の愛、夫婦の愛、父母の愛を体験するにつれて、神との愛の授受作用を深める。この四つの愛の型はそれぞれ異なった性質をもっており、それが神の心情の様々な側面と共鳴する。家庭が完成へと成長するにつれて、神ご自身も一種の成長を体験されるのである。神性を体恤した家庭の中に、ご自身が余すところなく展開されているのを体験されるとき、神は喜ばれる。四位基台を成就する真の家庭は、この神との深い交わりをこの上ない喜びとして体験するのである。
われわれは様々な形で、神が家庭に臨在されるのを認知する。統一教会の食口の家にはどこでも祈祷室か、少なくとも祭壇がある。朝起床するとき、食事の前、そして就寝するときに祈りをささげる。家に入るたびに神に挨拶する。祈祷の中で、神に自らの心情を打ち明け、神が協助し導いてくださったことに感謝をささげる。神はわれわれに英知と勇気を授けてくださる。これはわれわれが様々な活動の中で、神のみ旨にいそしむときはなおさらである。
神以外にも天使と先祖たちが、われわれの家庭に霊的に参加している。家庭は世代を通して縦的に拡大しており、先祖七代が善きにつけ悪しきにつけ直接の霊的影響を与える。韓国の伝統的な家庭は、毎日先祖に挨拶をし、彼らの霊に対する孝行の姿勢をもって生きる。食卓には先祖の場所まで設けられている。先祖たちは霊的に訪れて、われわれを通してその願いを成し遂げようとする。神聖なる家庭として、われわれは彼らの誇りとなるべきである。
伝統的な文化圏において健康と家庭を守る守護霊とは、天使界の霊たちのことである。多くの現代人たちが、天使をその心から消し去ろうとしてきたが、天使は今日もなおわれわれと共に存在するのである。だれにでも守護霊がいるが、彼らの使命は、人間に仕えながら人間を救いと心霊の成長へと導くことである(ヘブル一・14)。守護霊はいつでもわれわれの責任遂行を協助しようと準備している。彼らはどうしたら奉仕できるかと道を探しているので、われわれも絶えず彼らを呼び求め協助を願うべきである。
ところで、天使たちはとても賢くて、われわれのことは何でも知っているのだから自動的に成功させてくれるし、最善の道筋を示してくれると決め込んでしまってはいけない。彼らは、主体としてのわれわれの指示を必要としている。だから口に出して彼らを呼び、命令を与えるべきである。天使と善霊たちは、強力な力と知恵の供給源となる。彼らは絶えずわれわれの生活に活気を与え、一歩一歩偉大なことを成し遂げるようにと導くのである。われわれは感謝の思いで彼らの協助を認識すべきである。
家庭はこのように、天と人と地を包含する共同体である。これらの三要因はわれわれの生活に深く関わっているのである。聖書には、アダムの家庭は天使と動物たちが仕える肥沃な土地で、神と共に暮らしていたと書かれている。われわれの家庭は三大祝福が実現されるべき、一つの小エデンである。三大祝福とは、四大心情圏を通して家庭の一人ひとりが成長し、神と一体になることによってなされる個性完成、祖父母、父母、子女の三世代を通してなされる子女繁殖、そして地上界と霊界の両方を含む万物を主管することを意味する。「福」という漢字は、神の告知(示)と天(一)と、人(口)と、地(田)を意味する(注1)。この三要素のすべてがわれわれの家庭で共に繁栄し、喜びを享受すべきである。
二 誓い
誓いは祈祷の核心
誓いは祈祷の核心に位置する。われわれは祈りの中で、名状し難いが確かなる神と出会い、神の愛の温かさに浴する。祈りはわれわれの魂を清め、神愛の聖火によって再び充電してくれる。基本的な祈祷は、神の祝福に感謝をささげ、罪の悔い改めをなし、神に導きを請い、神の英知に耳を傾けることである。そしてその結論として、覚醒された状態を行動をもって証すること、つまり祈祷を祈祷で終わらせるのではなく、実質的なものにしていくことを決意することである。祈祷の終わりは、神への信仰をもって生きるという誓いである。
祈りは、人間の大志と神の慈愛とが出合うところである。神の慈愛はいつも現存する。結局のところ、神はわれわれを抱き、子女として慈しみたいと願っている、愛に満ちた親なる方である。神はいつもわれわれの祈りに応えようとして、われわれの世話をやいてくださる。神が応える時とその仕方は、われわれが期待し願っているものとは一致しないかもしれないが、神は必ず応えてくださる。われわれが要求するもののすべては与えられないかもしれないが、しかし神は親の愛をもって、われわれが必要としているものは必ず授けてくださる。
問題は常に、神に対するわれわれの姿勢にある。神の信頼と憐れみの情は常に変わらないが、人間は変わりやすく、信頼し難い存在である。信仰者は確信をもって神を信頼することができるが、神はご自身が信頼することのできる人々を尋ね求める中で、しばしば落胆されることがある。文師の祈祷は、「いかなる状況にあっても必ず信仰を全うします」という神への誓いで満ちている。歴史を通じて、召命した者たちが信仰の重荷に耐えられずつまずいていく姿に、悲痛な思いを味わってこられた神であることを知っている文師は、「私のことは心配しないでください。私は大丈夫です」と神を安心させようと誓ってきた。北朝鮮によって強制収容所に収容されたときでさえ、文師はいかなる苦難があったとしても信仰を全うすると神に誓ったのである。文師は次のように語っている。
私は自らの弱さのゆえに神様に祈ったことはありません。不平を言ったこともありません。状況が厳しいと怒ったこともありません。神様に助けを求めたこともなく、むしろ神様を慰めることに忙しく、「私のことは心配しないでください」と言い続けてきました。父なる神は私のことをよく知っておられます。私の苦しみをすでにご存じです。私の苦しみを話すことで、神様の心情にさらに悲しみを与えることがどうしてできたでしょうか。私が神に話すことができたのは、ただ、苦しみには絶対負けませんということだけでした。
このように、神への誓いは祈祷の核心部分である。祈祷の中で神に知ってほしい個人的な悩みも数多くあるであろうが、しかし最後に神がもっとも聞きたいと思っておられる言葉は、真剣な心でもって、自らの手で成し遂げるという誓いの言葉である。
どの宗教にも、その信仰の本質を言明する固有の祈祷がある。祈祷文を暗誦するとき、信者たちは単に恵み深き導きを神に懇願するのみでなく、神に献身しそのみ意に従うことを誓っているのである。
四大宗教における神への誓い
シナイ山でのイスラエルと神との契約は、厳粛な誓いであった。それは神が自らの力と約束を宣言することをもって始まる。
あなたがたは、わたしがエジプトびとにした事と、あなたがたを鷲の翼に載せてわたしの所にこさせたことを見た。それで、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたがたはすべての民にまさって、わたしの宝となるであろう。全地はわたしの所有だからである。あなたがたはわたしに対して祭司の国となり、また聖なる民となるであろう。
出エジプト記第一九章4~6節
そしてこの後には契約に伴う義務、とりわけ十戒とイスラエルの共同生活を統治する律法が続くのである。契約の書が民に読まれたとき、彼らは厳粛な血の儀式をもってそれに従うことを誓い、「わたしたちは主が仰せられたことを皆、従順に行います」(出エジプト記二四・3、7)と言った。そしてイスラエルの民がカナンの地で契約を更新したとき、ヨシュアは神の前に進み出て、「わたしとわたしの家とは共に主に仕えます」(ヨシュア記二四・15)と誓ったのである。
シェマといわれるユダヤ教の最高の祈りは、神への信仰告白であると同時に忠誠の誓いである。
イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。
申命記第六章四~五節
ユダヤ人はシェマを暗誦することにより、神と神の律法を生活の中心に置くこと、さらには自分の生命以上に貴いものとすることを誓うのである。ローマ人の迫害を受けたとき、そして後に異端審問やナチの残虐行為に直面したとき、ユダヤ人の殉教者たちは、口々にこのシェマの言葉を唱えながら死んでいったのである。
コーランの第一章であるファーティハ(開端章)は次のように始まる。
仁慈あまねく慈悲深き、アルラーのみ名によって。
アルラーをたたえ奉る、よろずの世の養育の主、
仁慈・慈悲の主、
審判の日の執権の主。
あなたにのみわたしたちは仕え、あなたにのみわたしたちはお助けをこいねがう。
わたしたちを直き道に導きたまえ、
あなたが怒りたもうた者、また踏み迷った者でなく、
あなたが恵みを垂れたまいし者の道に導きたまえ。
熱心なイスラム教徒が、このファーティハを暗誦するとき、アルラーの神を称揚すると共に、他のいかなるものも崇拝しないと誓うのである。そして彼はその返報として、道義と信仰から逸れることのない「直き道」へと進み行くことができるようにと、神の導きを請うのである。「あなたにのみわたしたちは仕え、あなたにのみわたしたちはお助けをこいねがう」という章句は、その信者が金や現世的快楽、あるいは彼の生活に対する神の命令を否定するような世俗的なイデオロギーに慰めを見いだすことを、決してしないという断言である。これはすべて良きものを生み出す創造主アルラーを称え恐れるという厳粛な宣誓である。
仏教徒たちは次のような簡潔な告白によって、信仰と忠誠を表明している。
佛に帰依したてまつる。
法に帰依したてまつる。
僧に帰依したてまつる。
仏陀は完全な清廉、解脱、そして梵我一如の最高の境地を例示している。ダルマと呼ばれる法は、想念、言葉、行動において完全に無我であることを説く教えである。僧伽(出家者の共同体)は、神聖さの生きた手本であり、高潔な生活へと導くための温かい霊的雰囲気を拡大する。仏教徒はこの告白を通して、仏陀の見本に従い、その教えに学んで実践し、そして僧侶の導きを受け入れることを誓うのである。
キリスト教には次に挙げる「主の祈り」があるが、クリスチャンたちがこれを暗誦するとき、彼らは神を賛美すると同時にその助けを懇願している。。
天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。
マタイによる福音書第六章9~13節
この「主の祈り」は二つの誓いから成っている。「御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」という言葉は、イエスが至る所で「まず神の国と神の義とを求めなさい」(マタイ六・33)と説いたように、父のみ旨をなして地上天国の建設を促進させるという誓約である。
第二の誓いは、「わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください」という言葉の中に見いだされる。キリスト教徒がこの言葉を暗誦するたびに、イエスは既に自分に悪をなした者たちすべてを許していると宣言する。それゆえ、彼は自らの罪過に対して神から許されるにふさわしい者である。この教えに関して、イエスは「もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう」(マタイ六・14~15)と、より詳しく述べている。
キリスト教の理念に基づいて生きようとするならば、許しは何よりも肝要なことである。「家庭盟誓」の第一の宣誓文は、地上天国を創建し、真の愛によって生きるという二つの誓いをもって、「主の祈り」の中に含まれているこの二つの誓いを再び宣言しているのである。
三 真の愛を中心として
われわれの家庭は、「真の愛を中心として(by centering on true love)」誓いを成就する。これは、家庭盟誓を成就する間のわれわれの姿勢や実践内容を描写している副詞句である。これは、以前の英語訳の Our family, centered on true love から連想されるような、われわれの家庭の一般的な霊的状態を描写している形容詞句ではない。言い換えれば、この誓いをいう時、それによってわれわれの家庭は既に真の愛に生きているということを宣言しているのではない。一体どこの家庭で常に真の愛で互いに愛し合っているだろうか。むしろ、われわれの家庭は「家庭盟誓」の目標である天国創建を実現するための道としての真の愛によって生きよう、と誓うのである。この「真の愛を中心として」という句は、家庭盟誓の七つの誓いのすべてに繰り返し出てくる。したがって、この句は家庭盟誓の成就のために最も重要なものであるに違いない。
英語の「 by centering on 」という言葉は、韓国語の「チュンシムハゴ(中心として)」を訳したものである。この言葉には、「Christocentric(キリスト中心の)」とか、「theocentric(神中心の)」といったキリスト教神学の用語に一般に使用される接尾語である 「-centric(~中心の)」を想起させるものがある。実際、真の愛を中心とすることは、真の愛の根源である神を中心とすることであり、真の愛の受肉体であるキリストを中心とすることである。しかし「真の愛を中心として」という句はそれのみならず、個人と家庭におけるダイナミックな関係の両方を包含しているのである。
「centering on(中心として)」という言葉には、このように神学の専門用語と深い関係があるのであるが、われわれは時としてこの概念を平易な英語で表現することがある。「centering on true love(真の愛を中心として)」と類似する表現を探してみると、「in true love(真の愛の中で)」、「with true love(真の愛をもって)」、「focused on true love(真の愛を焦点として)」、「upholding true love(真の愛を堅持して)」、「guided by true love(真の愛に導かれて)」、「living by true love(真の愛に生きて)」といった句を挙げることができる。どれも 「centering on true love(真の愛を中心として)」と共鳴するものがあるが、同時にどれも本来の韓国語のもっている味わいがどこか欠けている。
例えば、「in true love(真の愛の中で)」は、愛の感情や雰囲気、つまり人生のすべてにしみわたる存在状態としての愛を、正しく表示している。しかしそれには愛というものがもつ、他に奉仕するという行動としての意味合いは除外されている。「with true love(真の愛をもって)」は、われわれの行動は温かい愛の心でなされるべきであるということをよく表している。しかしそれは、存在状態としての愛、あるいは理想や目標としての愛の意味合いを欠いている。「focused on true love(真の愛を焦点として)」は、われわれが追求すべき目的あるいは理想としての真の愛の意味を正しく伝えている。「guided by true love(真の愛に導かれて)」は、真の愛は天法に従い、その根源である神と連結することによってのみ得られるということを強調している。「upholding true love(真の愛を堅持して)」は、真の愛には常に責任ある行動が必要であり、それは道徳的過ちによって侵害され得るということを開示している。これらの類義語の中で、一番適切なのは「 living by true love(真の愛に生きて)」であるが、これは、真の愛はわれわれの指針であり、道であり、実践であり、根源であり、目標であることを意味している。それは「真の愛を中心として」という言葉がもつ包括性をほぼとらえているが、そこにはっきりと表されている関係性という意味を表しそこなっている。
ここで「 centering on(中心として)」の固有の意味を明確に把握しておかなければならない。それは二人の個人が互いに横的な関係を結ぶと同時に、より高い中心との縦的な関係をも結ぶときに形成する、三次元的な関係性を描写しているのである。この横的関係はその中心に縦軸をもっている。四位基台においては、神が夫婦の横的関係の縦的中心となる。夫婦が真の愛を中心として生きることで、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」そして「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」(マタイ二二・37~39)というイエスの偉大な戒めを、彼ら夫婦の家庭生活が実体化するようになるのである。
これに匹敵し、しかも信者のあるべき姿勢や信仰を描写する多元的な意味をもった用語を挙げるならば、「in Christ(キリストにあって)」がある。「キリストにある」人は、新たに生まれ(ペテロI一・3)、キリストと共に新しい命へと引き上げられて(ローマ六・4~11)、キリストの救いの圏内に生きている。彼はキリストの支配を受け入れ、自らの十字架を背負って、キリストによる永遠の統治がなされるその時まで耐え忍ぶ(テモテ・二・10~12)。彼は、キリストがかしらを務める教会という偉大な建物の一部として(エペソ二・21~22)、また真のぶどうの木であるキリストの枝として(ヨハネ一五・1~6)、キリストと一体となるのである。彼はキリストの御霊と愛を注入されて(コリントI一六・24、エペソ四・10)、キリストを体現するようになり、キリストが彼の内に住むようになる(ヨハネ一四・20、コロサイ二・6)。キリストにあって生きることで、われわれは現世的な価値観や、自己中心性や、私利私欲を拒否する。主キリストの道に従いながら、われわれは神への信仰と従順をもって生きる。われわれは、そのように日々キリストを目指して、努力するのである。
真の愛の実現に努力する祝福家庭
キリストの救いは、個人としてのわれわれの神に向かう姿勢を転換する。しかしながら、それは家庭というものの核心部分には触れない。「真の愛を中心として」という用語はどの家庭にも応用できるが、とりわけその結婚が「祝福」によって聖化され、清められた家庭に適用される。ここでいう「祝福」とは、文師ご夫妻があらゆる国と宗教のカップルを神聖な夫婦として結び付ける国際合同祝福結婚式のことである。この祝福は、罪の根を取り除いて、神の愛が家庭に注がれる条件を確立する。「キリストにある」個人は、確かに真の愛を中心とする家庭生活を送りうる位置にいる。しかし、家庭の関係を聖化する神の祝福なしには、われわれは偽りの根からの要素を引きずる関係性の中で葛藤し続けるであろう。祝福は、比類ない神の賜であり、それは普通の結婚を聖なる愛の交わりへと変革させるのである。
愛の根源である神のみが、家庭に真の愛を授けることができる。家庭は聖なる交わりとしての結婚から始まる真の愛を中心とし、それが神の愛のもとで夫と妻を結び付ける。希望に満ちたところから、夫婦は、お互いの中心的な目標としての真の愛の実現のために情熱を燃やす。この共通目的を中心に家族の各員が授受作用をして、永遠の関係を築こうと努める。そのたゆまぬ実践を通して、真の愛は彼らの生き方そのものになる。このように、真の愛は神が授けた「種子と情熱」(蘇生期)から成長し始め、「行動の基準やその成果をはかる基準」(長成期)となり、神が家庭の中心に臨在され、その家庭が真の愛をその存在と生き方の内に具現化する「成熟段階」(完成期)へと到達するのである。
最も高貴な真の愛
真の愛とは何であろうか? どこにそれを発見することができるのだろうか? 真の愛とはどこにでもあるような愛ではない。それは最も高貴な愛である。真の愛によって、天と人と地を連結させる共鳴が始まる。われわれの心と心情は宇宙までも抱擁しようと果てしなく広がる。そのような神秘的な脱我状態にあっては、それ以上何見いだすかを達成したいとも、欲しいとも思わない。文師は次のように述べている。
皆さんが真の愛の共鳴圏に入るようになるとき、……皆さんの手の中に世界を感じるようになり、天と連結されるようになります。真の愛の共鳴圏に入るようになるとき、もはや信仰を保つことも必要ありません。救い主も必要なくなるのです。これが真の解放です。すべてが終わるのです(注4)。
『原理講論』では、主体と対象とが四位基台を造成して創造目的を成就するために、授受作用をなすとき、主体が対象に授ける情的力を愛と定義している。二性に分かれた性質をもって誕生した地上の無数の生物が、その生命の目的を成就するために結合し一つになろうとするとき、愛は、生物間でなすすべての相互作用の中に表現される。しかし、四位基台が特に明白に表されるのは、神中心の家庭においてである。家庭内の家族全員が互いに授受作用の関係をもち、神との関係も深まるにつれて、愛は家庭に浸透して、全員の真心こもった相互作用を活気づける。家庭におけるあらゆる次元の愛が真の愛でなければならない。真の愛は、特に心と体、夫と妻、親と子という三つの関係性を通して表される(図1)。
家庭では、神と夫と妻が共に完全な一体化をなすところに、真の愛が見いだされる。すべての男性の真の願いは、永遠に愛を分かち合う一人の女性に出会うことである。男性の心の奥深くには、理想相対となる特別な女性の像がある。彼の心はその女性を探し出し、彼女の身も心も抱きしめたいと願う。彼女がいない限り、彼は完全ではない。その女性を見いだし愛する時、これ以上の満足はないのである。同様に女性も、何よりもまして、彼女を愛して人生の永遠のパートナーになってくれる一人の男性を、恋い焦がれるのである。
神の愛に連結して愛を養う
しかし真の愛は、愛の対象によって決定されるのではない。多くの人々が、真の愛に至る秘訣は正しい相手を探すことだと思っている。「この人だ」という相手を見つけさえすれば、愛の問題は解決するだろうと思いがちである。しかし、これは愛というものを誤解している。一人の相手を愛することができない人は、恐らくほかのどの人を愛することも難しいだろう。「彼(あるいは彼女)を愛せない」と言う代わりに、「私は愛せない。どのように愛したらいいのか分からないのだ」ということを悟るべきなのである。心理学者のエーリッヒ・フロムは、人々は「愛することの問題は、その対象いかんの問題であり、能力の問題ではない」と誤って信じており、「この人たちは、《愛する》ことは簡単なことで、ただ愛する――あるいは愛される――正しい対象を見つけ出すことがむずかしいのだと考えているのである」と述べた(注5)。「正しい」相手を探す中で必ずといっていいほど起こることは、次第にお互いが尽くし合うことを忘れて傷つけ合い、愛する能力も一層低下していくことである。そしてそのことによってその後の関係も無為に帰してしまう。なぜなら愛というものは、感覚でも感情でもなく、また強烈な快楽の中でもうろうとしたバラ色の時を過ごすことでもない。結局のところ、真の愛にはその必要とするものも欲望も全く異なる他人のために、自分自身をささげようとする心情が必要なのである。それがたとえ自己否定を意味するときであっても、愛をもって行動しようとする意志が必要である。したがって、真の愛を発見する秘訣は、実にわれわれ自身の心の中にあるのである。われわれはすべてを変える力をもった神の愛に連結することによって、また心と体の統一を修得することによって、自分の愛する能力を養うことができる。
だれでも一度は愛のエクスタシー(興奮)を味わったことがあるであろう。しかしわれわれはそのような神秘的一体の状態のまま、永遠に生きることができるであろうか? それともそれはいつしか消えて行く瞬間的な状態なのだろうか? 聖書の中でイエスは、終末には人々の愛が冷えるであろうと預言している(マタイ二四・12~13)。われわれの愛はうつろいやすく、一瞬は激しく燃えるが、その後は消えかけた残り火のごとくに衰えていく。遅まきながら、今までの自分たちの愛が真の愛ではなかったことを悟るようになる。
ほとんどの男女の関係は長続きしない。たとえ長続きしても、実際のところ彼らはそれに満足していない。その根本的な問題がどこにあるかといえば、彼らの横的関係が、その絶対的中心であるべき神の愛と連結されていないところにある。文女史は次のように言明している。
家庭が神の愛の理想を中心としていない場合、その家庭の家族の間には衝突が起こるでしょう。絶対中心としての神の愛がなければ、家庭は最終的には崩壊するのです。
他のために生きる
もし人類が堕落しなかったならば、われわれは神の性質に似たものとなり、当然のごとく他のために生きるようになっていたであろう。残念なことに、アダムとエバが堕落した時、人類はその中心を喪失してしまった。サタンが神の位置を奪って、人類最初の家庭の中心に居座ってしまったのである。このことにより、人間の愛は汚され、人間社会は破壊されてしまった。今日の人間関係は、神の真の愛を中心としていないがゆえに、汚辱にまみれている。堕落はまた人間の心までも腐敗させ、それはサタンの自己中心的な心に似たものとなってしまった。文師は次のように述べている。
神様は個人主義ではありません。神様は全体のために生きる方です。神様に似る者たちは全体のことを考えますが、サタンに似る者たちは自分たちのことしか考えません。この観点が天地の差となって、天国と地獄を、善人と悪人を、そして公的人間と私的人間を分ける分岐点となるのです。
神様の真の愛の根本的性質は、他のために仕えようとするものですが、それに対して私たち人間社会の愛は、根本的に自分のために他を仕えさせようとすることを目的としています。
親たちはどのように愛するかということを教えてくれる。堕落人間であっても、父母の愛は真の愛に一番近いものである。このことについて文師は次のように語っている。
父母として子供たちの顔を見つめる時、彼らに無限の愛と期待を注ぎます。私たちは自分たちが夢にのみ描いて成し得なかったことを、子供たちが成長して実現してくれることを切に願います。
しかし真の愛をさらに深く理解するためには、愛の創造主、愛に満ちた天の父である神について調べてみなければならない。聖書によれば、キリストの愛は始めから存在し、永遠であって(箴言八・22)、終わりがなく(ヨハネ一五・9)、無条件であり(テモテ・一・13)、不変である(ヨハネ一三・1)。われわれはキリストの愛から離れることはできず(ローマ八・35~39)、それはわれわれを支配して(コリント・五・14)、完成間近へと導くのである(ヨハネI四・17)。真の愛について教えることにその宣教の努力を傾けている文師は、次のように説明している。
神様の本然の愛は、幾万年も他のために生きたいと願い、それでも足らずさらにもっと尽くしてあげたいと願うのです。
神様の真の愛は、愛を投入しても与えたことを記憶にとどめません。だれかに与えたことをもし覚えていたとしたら、神様は際限なく与え続けることはできないでしょう。愛は終わりなく先に進み続けるものなので、既に与えられたものの思い出に留まっていてはならないのです。……このような愛を受けた息子や娘たちがそれを認識できず、神様に反逆したとしても、神様はそれでも与え続けるのです。
神様は公的精神をもった方であって、愛と平和という目標に向かって、全体のために生きる道を歩み続けておられます。
真の愛とは他のために生きることである。真の愛にあって、われわれは愛する者たちの繁栄と幸福のために自らを完全に投入する。だれかがある人を真に愛するとき、その人が自分よりも何倍も素晴らしくなることを願う。愛にあふれる親は、決して自分の子供の成功に嫉妬したりしないし、子供が親よりもずっと素晴らしく育ったと人々が批評しても気にかけない。むしろ親は、子供が成し遂げたことを自分のことのように喜ぶものである。この意味合いから、イエスは、「わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。わたしが父のみもとに行くからである」(ヨハネ一四・12)と言いながら、弟子たちが自分以上の者になることを期待したのである。
真の愛の性質
真の愛は、忍耐強く希望をもってすべてを耐え忍ぶ(コリントI一三・4~7)。真の愛にあってわれわれは与えては忘れ、そしてまた与える。イエスは他者を許すことにおいて、七たびではなく、「七たびを七十倍するまでにしなさい」(マタイ一八・22)と教えている。これは、許すのに際限はないということである。人を許し、そして許したことさえも忘れることによってのみ、われわれは変わらない心情でその人に与え続け、その人を愛し続けることができる。真の愛は、いかなる環境にあっても不変である。われわれの心情を純粋に保ち、愛する能力を維持するためには、尽きることのない神の真の愛の井戸によって愛を補給し、過去の過ちを許し、忘れ、再び愛そうと前進する時に生ずる心の痛みを癒す必要がある。
真の愛は公的である。それは排他的ではなく、すべての人とすべての物を抱くためにあらゆる方向に拡大する。真の愛は、自分を愛する者たちを愛することのみにとどまるものではない。それは、親戚や親しい友人の間を越えて、見知らぬ人にも近づいていくようにわれわれに呼びかける。イエスは敵を愛せと教え、そうすることが神のごとき完成体に至る道であると語った(マタイ五・43~48)。
真の愛は勇敢である。それはわれわれに、この世の迷える人々を救うために必要なことは何でもするようにと要求する。
真の愛によって生きることは、われわれは自身の内にあっても、あるいは外の世界にあっても、いかなる罪悪にも妥協できないことを意味する。
真の愛は熱誠を生み出す。だから罪の虜となって天国の喜びも知らずにいる人々がいる限り、われわれは休むことができないのである。われわれの大胆さのゆえに、この世の権威者は攻撃してくるかもしれない。善意の人々が真の愛の人を歓迎する一方で、悪が砦を築くところでは、真の愛は十字架を受け入れる。真の愛の熱誠は、最短期間で神のみ旨をなすために犠牲をやむなくされるとき、いつもあらわになってくる。人間の責任分担が達成されずにいる限り、人間の不幸は終焉しないであろう。真の愛によって、われわれは可能な限り早く同胞たちの罪の苦しみを終わらせたいと願う。
神の愛を中心とした地上天国の基地
真の愛を倫理としてだけ理解するのは不十分である。真の愛を体験してそれを与えるために、愛の縦的な源泉である神に連結されなければならない。愛の方(ヨハネ・四・8)である神も、永遠に愛し慈しむことのできる理想の対象を探し求めておられる。神は人間をご自身の似姿として創造されたので、その本性を顕現させてご自身の神霊と完全に共鳴できる人々が現れることを切に願っているのである。彼らは神の愛する対象であって、神の真の愛を受けることができ、次にそれを互いに分かち合うことができるのである。文師は次のように述べている。
私たちは、神様は絶対であると知っています。では神様は、寂しさを感じないのでしょうか。神様は幸福であると思いますか。紳士淑女の皆様、たとえある人が国の大統領になったとしても、妻もなく一人で住んでいるとしたら、その人は無視されているように感じることでしょう。私たちに愛する対象がいなければ、私たちは不幸です。神様はだれかを必要としないのでしょうか。そのような立場にいたら、皆様でしたらどのように感じることでしょう。神様であっても、とても寂しく感ずるでしょう……では一体だれが、神様の愛の完全な対象となることができるのでしょうか。私の答えでは、真の人間です!……
男性と女性が神様の愛の対象として一体となり、子供たちが幸福に生きる家庭は、神様の真の愛を中心とした地上天国の最初の基地であります(注13)。
神の真の愛と共鳴する人々は、夫婦関係、親子関係、自然界との関係といったすべての関係性の中に自然に真の愛を表す。われわれは本来神性を帯びるようになっており、神の愛もわれわれの内に完成するようになっている。神の愛と一体とならなければ、われわれは愛の根源から切り離されたままであって、真の意味で他を愛することなどとても望み得ないのである。
四 自己愛と良心
神の愛に歓喜して自分を愛する
愛は個人から始まって、家庭、社会、国家、世界、天宙へと拡大する。したがって真の愛を表現する最初の舞台は個人である。果たして私は私自身を愛しているだろうか? 私自身を愛する出発点は、私とは一体だれなのかを知ることである。私は神の子である。私は神から親しく愛される存在である。私の本質である霊人体は神聖なものであるがゆえに、私は天宙的価値をもつ。私は永遠であり、不滅であって、何も恐れるものがない。不幸なことに、大部分の人々が自分がいかなる存在なのかを忘れてしまっている。人類は何世紀もの間、無知とサタンの讒訴とによって、有限で、弱く、無価値で、愛されない状態に置かれてきた。人類は死を恐れ、失敗を恐れ、拒絶を恐れる。これは太古の昔からのサタンの策略の一つである。
われわれは何か失敗をすれば、かつてアダムがエデンの園でしたように、神の元を離れてわが身を隠さないであろうか? ルーシェルからの讒訴がアダムの心にみなぎり、自分はもはや神の愛を受ける価値のない存在であると思い入ませたとき、アダムはそれに耐えることができなかった。もしアダムが木の茂みから一歩踏み出して、悔い改めの涙で神に走り寄っていたならば、それはアダムが復帰される条件となっていたに違いない。
ルーシェルの天使の心情は、主人に正しく仕えることで存在し得る僕としての心情である。もし、アダムが天の父に会いたくて走り寄っていたならば、神の真の息子としての心情を表現していたに違いないのである。アダムと神の関係は、職務や仕事の成功いかんによらず、血統によって連結されているからである。神はわれわれにご自身の子女の心情を根付かせることを願っておられるのである。
だから、神はいまだ罪人であったわれわれを救うためにイエスを送ってくださったのであり、パウロを霊的に導いて、救いは「神の賜物である。決して行いによるものではない。それは、だれも誇ることがないためなのである」(エペソ二・8、9)という教えを伝えさせたのである。キリスト教の伝統を通して、われわれは神の無条件の愛を知るようになった。成功か失敗か、あるいは勝利か敗北かにかかわらず、われわれは神のいとしい子女なのである。
「私は神の怒りを恐れて、震えおののきながら神に従っているのではないか?」と反省してみることは意義あることである。確かに、堕落に匹敵するほどの恐ろしい失敗もある。しかし、もし神に対して自分の信仰を証明するために、完全な従順と偉大な成果をささげなければならないとするならば、ごくささいな失敗でさえ信仰の危機を招来する契機となり得るだろう。そのような葛藤は、天の父が私を愛そうといかに忍耐しておられるかを知らないために生ずる。神は果てしなく続く裏切りをじっと堪え忍びながら、六千年もの間私を捜し求めてきたのではなかったか? 私が一つの失敗をしたとき、罪悪感と自責の念がわき上がってくるかもしれないが、それは決して天の父の無限の愛をさえぎることはできないのである。
自分自分を愛するということは、心を開いて、私に注がれる神の愛に歓喜することを意味する。温かい神の愛に抱かれるときには、平和と生命と受容と成功とがある。神はわれわれが神の愛を体験することによって、真の自分を発見するようになることを願っておられる。日々の祈りと瞑想を通じて、われわれはそのような内的な平和と愛の境地を見いだすべきである。こうして自分自身に働きかけ、他者を愛するために必要な教訓を学ぶことができるのである。
真の愛は良心と調和する
自分を愛することの第二段階は、自分の中に潜んでいる真に他者を愛することのできる能力を引き出す努力をすることである。これは、心の戒めに体を従わせながら、良心によって生きる道を体得することを意味する。文師は次のように語っている。
アダムとエバが堕落しなかったならば、神様が一つであるように、当然彼らの心と体も一つであったはずです。堕落のために、体がもう一つの主体として現れるようになり、神様に連結されている良心の主体性に反対するようになりました。この二つの主体の衝突が闘争の歴史をもたらしたのです……。
体は地獄の基地となり、良心は天国の基地となりました。人間は、この二つの世界の闘争が自分自身に内包されていることを知りませんでした。この観点から、体が心を支配しているのか、それとも心が体を支配しているのかを、私たちは皆、自分に尋ねてみなければなりません……。
良心の力を強めるために、私たちは体を主管しなければなりません。自分の意志で良心が体を導けるようにするためには、良心を解放しなければなりません。
宗教がなすべき内容は何でしょうか? それは体が嫌がることを、あえてするように働きかけることです。体が一番嫌がることとは一体何でしょうか? それは、断食すること、奉仕すること、犠牲になることです。宗教は私たちに祭物になることを要求します。祭物は血を流すように運命づけられています。したがって、祭物は自らの生命を犠牲にすることができなければなりません。……肉体に打ち勝ち、良心を解放するならば、私たちは天国に行くようになります(注14)。
とりわけ五感を満足させようとする肉体は、公的生活をしようとする良心を支配しながら、今日まで優位に立ってきた。このことゆえに、われわれは犠牲的生活を送りながら、他人に仕えるべきであるということを心の奥底で分かっていながらも、実際は他人を自分に仕えさせる安逸な生活を求めているのである。この主管性の転倒は既に堕落の時に始まった。その時、エバは「食べてはいけない」という神の戒め(良心の求めた心理の道)を拒絶して、それよりも天使長との愛の刺激を楽しむことを好んだのである。その後エバがアダムに出会った時、本来の相対に戻っていく道であるとして、自己の欲情を正当化した。その時以来、われわれが愛だと思ってきたものは、実は相手を快楽の対象にしようとする利己的な肉欲の情念を覆い隠す飾りにすぎなくなってしまった。これが偽りの愛なのである。
真の愛は、善をなそうとする良心の欲求と調和して存在する。教会の長老(先輩家庭)たちが、伝道してより大きな世界に奉仕するように訴えるのは、われわれの良心が最高の基準で働くように刺激するためである。公的な指示に信仰をもって従うことによって、われわれは自分の良心を強化することができる。肉体は、「もっと家にいて家族と過ごしたほうがいい」といって抵抗するが、これはわれわれの家庭がいかに偽りの愛によって支配されているかを示すものである。「労なくして益なし」といわれるとおりである。しかし良心に従って公的立場で熱心に仕事をした後に、帰宅して夫婦が互いに出会う時、われわれの愛は真に自由で純粋なものとなることができる。神はそのような愛すべきカップルを、熱烈な真の愛で満たすのである。
夫婦の間で何か問題が生じた時には、相手を非難する前にまず自分自身を反省してみることが必要である。自分にふさわしい相手を見つけられさえすれば、真の愛を楽しむことができるだろうにと思っているならば、それは自分を偽っているにすぎない。どんな妻であろうと、私(夫)の心が純粋なものでなければ、じきに彼女はそのことに気づいて私(夫)を批判するであろう。妻が私を無条件に愛することを期待する前に、私の愛は良心の基準に従っているのか、またそうなるように努力しているのかを、まず点検してみるべきである。
五 本郷の地を求める家庭
家庭は神によって定めれられた唯一の機関であるといわれる。これは創造の始め、すなわち神がアダムにその助け手となり妻となるように、エバを与えた時からそうであった(創世記二・18)。教会や司祭職といった他の機関は、もっと後になってから復帰摂理の過程の中で現れたものである。王権に関していえば、それはサタン的国家群によって打ち立てられたものである。イスラエルの王たちでさえも、預言者たちはしばしば、本当に彼らは神によって立てられたのかと疑問を投げかけてきた(ホセア書八・4)。しかし家庭は、人類に与えられた神の本来の機関であって、愛の中にあって人生の目的を成就していく成長の場である。
しかしながら神は、アダムとエバだけを創造されたのではない。神は彼らをエデンという心の安らぎを感ずる美しい楽園のただ中に創造された。アダムとエバの家庭は、彼らの愛を映し出す世界の中で繁栄するはずであった。彼らの家庭の平和や調和や幸福といったものは、その世界の美しい花々、豊かな果実、そして動物たちが仲良く生きる姿を通じて表現されていたであろう。エデンの園は、まさにその美しさの中に心情からあふれ出る愛が表された、われわれの「本郷」になるはずであった。しかしアダムとエバが堕落したとき、彼らはエデンの園から追放されてしまった。それゆえ、われわれは再び「本郷の地を求め」なければならないのである(注15)。
慈愛の光を周辺に降り注ぐ
このように、個人に始まり家庭の中に現れる真の愛は、その恵みにあふれた慈愛の光を周囲の環境に降り注ぐように意図されていた。愛あふれた家庭は、その家庭が住む地域社会に良い影響を与える。自分の子供に憐れみの情愛を示す親の愛は、他人の子供にも同等の憐れみを感ずる情愛へと成熟するであろう。また兄弟同士の争いを和解させるその愛は、地域の社会的あるいは政治的な衝突を積極的に仲裁し、解決する愛へと成熟するであろう。
このことに関して、中国の偉大な思想家である孟子は、「天下の本は国に在り、国の本は家に在り、家の本は身に在り」(注16)と教えた。孟子は、社会生活を支えている土台は、各人の内にある「惻隠(そくいん)の情」であると語った。彼は、深い井戸に落ちかけている子供を見ている見物人の例を挙げながら、それが家庭の中のみならず、すべての人に向かっていくものであることを説明している。持ち物すべてを投げ捨て、直ちに走る体勢を取って、その子供を助けようと走り寄るのが人間の本性というものである。これが「人に忍びざるの心(他人の苦痛や不幸を見るに忍びないあわれみの心・同情心)」(注17)である。数年前テキサスで二歳の女の子が井戸に落ちた事件を見ても、このような心情の発露があることは明らかである。アメリカの全国民が、ボランティアの一行がその井戸に到着するのを息をこらして見つめた。その子供が救助された時、贈り物と手紙がその家に殺到し、国民全体が安堵のため息をついたのである。
時としてわれわれは、「家庭の価値」について、自分の家庭を他のいかなるものよりも高いところに置くべきだと考える。しかし真の愛には、本来そのような制限はない。それは決して家庭だけでとどまるものではなく、地域社会や国家、世界を満たすところまで拡大していく。この真の愛の広がりは、スライド映写機の働きに例えることができるだろう。真の愛は家庭をレンズとし、世界というスクリーン上に輝く光である。レンズは焦点をコントロールする。同様に家庭の状態は、より大きな社会(スクリーンの映像)が明確で色彩鮮やかであるかどうかを決定する。真の愛を中心とする家庭が、真の愛の社会を形成するのである。
家庭は公益に貢献することによって、真の愛を証しすることができる。無私の愛と奉仕と教えを通して、家庭は自分が住んでいる地域社会の精神的指導者となる。他のために生きる一つの家庭から始まって、すべての家庭が他のために生きるようになる。その一つの家庭がその地域で他の家庭を愛するために犠牲となってにささげたものは、絶えず拡張する愛の循環の輪の中で、すべて何倍にもなって戻ってくるであろう。家庭はそこに真の家を築いて、安着することができるのである。
アダムとエバにとっての本郷の地は、よく知られているようにエデンの園であった。エデンの園はアダムとエバが誕生した場所であり、神の祝福という本来の約束が与えられた所である。だがそこはまた、ルーシェルが彼らの愛と生命と血統を汚した所でもある。エデンの園とは、アダムとエバが住んでいたある限られた地域であると同時に、彼らが「ふえよ、地に満ちよ」という神の祝福(創世記一・28)を成就したならば、その子孫たちの生家となるはずであった全世界をも意味していた。われわれの家庭にとって本郷の地はもっと具体的な意味をもっている。本郷の地とは、愛と生命と血統を復帰して、神の祝福の約束を刷新すべき場所である。それはわれわれが誕生した故郷と、地上に建設するべく召命された天国の理想の両方を意味している。われわれは各々の故郷においてキリストの共労者としての使命を果たし、そして互いに共同して天国完成のために貢献する。文師は、このキリストの共労者としての使命にこたえる家庭のことを「氏族的メシヤ」と呼ぶ。
故郷における氏族的メシヤ
われわれが「本郷の地を求め」という言葉を暗誦する時、それは故郷を復帰することを意味することを知らなければならない。故郷とは、われわれが生まれた所であり、親戚や氏族がいる所を意味する。さらに故郷は、二義的に現在住んでいる近所や地域社会をも指している。そこにおいて子女を養育するのであるから、われわれが住んでいる所は子女たちの故郷となる。したがって、そこも拡大した意味で故郷とみなすことができる。われわれはキリストの共労者として、そして氏族的メシヤとして故郷を変革することによって本郷の地として復帰することができる。
本郷の地を求めれば、われわれはエデンの園から追放された者として、すなわち茨と敵意に満ちた地での異邦人としての旅を出発する。故郷に着いて最初に発見するのは、その世俗的で退廃的な雰囲気である。その価値観は人々の悪い習慣と妥協しており、笑顔の背後には暗い秘密が隠されている。世代を通じて引き継がれてきたわれわれの家庭の血統の中には、殺人・強盗・裏切りなどの数限りない罪悪が積み重なっている。先祖の多くが、ぞっとするほどの怨念と、打ち砕かれた望みと、悲嘆に暮れた心情をもって墓場へと運ばれていった。不毛の地に鍬を入れ、茨の雑草をひっくり返して、愛と善意に満ちた人々を育てるのにふさわしい所にまでその土地を整えるには、相当の労働が必要である。しだいにその地の各住人の善意が回復し、活気づいてきたとき、故郷はわれわれの求める本郷の地となることができるのである。
ヤコブは、全精力を投入して自分の本郷の地を復帰しようとした人物の一人に数えることができる。ヤコブは、ハランで獲得した富や財があったにもかかわらず、兄弟と和解して自分が生まれた地に帰るまでは休むことができなかった。このヤコブの例からわれわれは、家族の憎悪に直面し、愛の心情と実践的な知恵をもってそれを克服するまでは、故郷で受け入れられたという実感を得ることはできないという教訓を学ぶであろう。イエスは「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『抜け出して海に植われ』と言ったとしても、その言葉どおりになるであろう」(ルカ一七・6)と語った。この例えは、たとえ小さな信仰であったとしても、家族をそのサタンの血統から引き抜いて、神の血統に植え変えることができるということを確証しているものとして理解できるのである。
「本郷の地を求める」という言葉には、三つの側面がある。第一は、われわれの先祖の復帰である。第二は、土地と環境という意味での故郷の復帰である。第三は、神が人間たちと住めるように、完全な意味でその地域を聖化することである。
先祖からの協助と復帰
すべての家庭が先祖からの協助を必要としている。それがなければ、霊的基台のない孤立した家庭となってしまう。われわれは先祖を崇拝するよりもむしろ彼らを救い、神の愛に満ちた天国圏に導きたいと切望しているのである。氏族の他の者たちからの協助のある家庭には、好運と繁栄が訪れる。そのような家庭は、より高い段階へと神のみ旨を進めることができるのである。
われわれは両親と現在生きている親族を復帰することによって、先祖たちを復帰することができる。最初にわれわれが宗教的な道を選んだ時、彼らの中には迫害した者がいるかもしれない。それは古い時代の生き方にあまりにも固執していたイエス時代のユダヤ人たちが、新しい時代を出発するために新しいみ言をもって現れたイエスに反対したのと同じである。たとえ両親がわれわれを心から愛していたとしても、われわれは既に以前とは違う人間になっているのである。われわれの心霊は高められていて、低い次元の波動にたやすく調和することができない。そのことで、彼らは何か疎外感を感じるかもしれない。両親の否定的なエネルギーは、その背後にいる何世代もの先祖たちによってさらに強められる。両親の多くはこのような先祖たちの働きによって、普段よりもさらに強く古い時代に固執するようになるのである。このような先祖たちを復帰する方法は、われわれの両親と親戚を愛することである。先祖たちのためになすどんな霊的条件よりも、両親と親戚たちの心を解放してあげ、救いへと導いてあげることのほうが、先祖たちに直接的な恩恵をもたらすのである。後に五番目の誓いとの関連でさらに詳しく説明するように、過去の罪を蕩減復帰するべく善の行為をなすとき、霊的に見れば先祖たちもわれわれと共にいるのである。(『原理講論』の「復活論」第二節(三)1を参照)
生まれ育った故郷は、われわれの家庭が深い情的なつながりをもつ所である。われわれの家庭は、その家や財産に深い愛着をもち、また家族が通勤したり、買い物をしたり、遊んだり、通学した所に深い愛着をもっている。この愛着心には、彼らの堕落した愛と堕落した意識が注ぎ込まれている。故郷が復帰されないでいる限り、われわれが住む環境もそのままであろう。われわれは、いつも身近な環境の否定的要素に脅かされながら、異邦人として生き続けるのである。しかし、ひとたび両親と兄弟姉妹を復帰したならば、彼らが愛着をもっている所も同時に復帰されるようになる。この観点から、われわれは自分の住む地域社会に対して、主人としての意識をもつようになる。そして、そこが子女たちを養育するのに良い環境となるように努力する。われわれの奉仕と、指導力と、模範的生活とによって、地域社会全体を変革することができるのである。
キリストの同労者としての氏族メシヤ
われわれが愛にあふれる社会に住むようになるとき、氏族的メシヤは完了する。たとえ自分の家庭が真の愛で恩恵を受けたとしても、それが悪意に満ちた世間から孤立したままではいけないのである。地域社会に対する責任を果たさなければ、家庭は親戚や近所の人々、あるいは霊界や環境から来る否定的要素の前に、依然として脆弱なものにとどまるのである。そのような家庭は天宙の保護圏も享受することができない。何千年もの間ただお一人で孤独の中にあった神は、孤立した家庭によって形成される世界を望まれない。神の願う世界は、心情と愛で統一された地球家族社会である。ヨハネの黙示録は、神が人と共に住む様子を「新しいエルサレム」というビジョンをもって描いている(黙示録二一・3)。「新しいエルサレム」とは、家庭、地域社会、伝統、財産を包含する都のことである。われわれがキリストの共労者として、そして氏族的メシヤとして地域社会を愛し、奉仕するとき、これはすべて達成されるであろう。
たとえ故郷に住んでいなくとも、氏族的メシヤをなすことができる。み旨成就においてわれわれがなすことはすべて、氏族の復帰に寄与される。われわれは、自分の子女たち以上に敵の子女たちでさえ愛することができる。たとえどこに住んでいようとも、「カイン型」故郷にいる近所の人々を愛し、彼らに仕えることによって、「アベル型」故郷にいる親戚や氏族にも救いの恩恵をもたらすことができるのである。多くの家庭が、その故郷を遠く離れて、公的み旨を全うするように呼び集められてきた。しかし、それぞれに与えられた地域で良き基台をつくった者たちが自分の故郷に帰ってその親族を訪れてみると、復帰のみ業がとんとん拍子に進んでいるというのが、われわれが共通してもつ体験である。
六 本然の創造理想
第一の誓いの目標は、「本然の創造理想である地上天国と天上天国を創建する」ことである。イエスは神の国の到来を宣布して、その実現を推進するために弟子たちを呼び集めた。聖霊の働きを通して、イエスは天国の基礎を築くように人類を導いてこられた。イエス時代の人々は、聖書を通して、約束された天国とは理想社会、すなわち心底実感できる平和と幸福の世界であることを知っていた(イザヤ書九・6~7)。イエスの到来に及んで、天使たちは、「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」(ルカ二・14)という希望の言葉をもって天国の始まりを告げた。
今日に至るまで、様々な理想世界の夢やユートピア思想が現れては、人々の想像を駆り立ててきた。われわれは近年に至って共産主義の崩壊を目撃したが、それは経済的平等に基づいたユートピアという空しい理想を追求し、何百万人もの生命を犠牲にした一つの強烈な妄想であった。今日のアメリカは、未曾有の繁栄と自由と民主主義を享受している。しかしこのような祝福にもかかわらず、われわれの社会が衰退しつつあるのは明白である。平和で繁栄する社会の基礎とはどこか別の、もっと本質的なところにあるのである。
神の心情と愛によって築かれる本然の理想
神の国は本然の理想であり、故李相軒博士によれば、それは神の心情と愛によって築かれる理想を意味する。神の心情と愛への連結を喪失した堕落人間は、「鏡に映して見るようにおぼろげに」(コリントI一三・12)見ているように、わずかにその理想の痕跡を発見することができるだけであった。だが理想を夢見るのはわれわれの本性である。ユートピアの理想を抱く人々は、宗教者であろうと世俗の人間であろうと、今の現状をそのまま受け入れることができない。彼らは社会の変化に拍車をかける夢想家であり、人々を覚醒させる人であり、革命家である。アメリカは、英国教会と貴族の圧制的非難の中で、そのまま英国にいては生きながらえることができなかった清教徒たちによって建国された。彼らは、新世界での「丘の上の都」というキリスト教共同体を夢見ていた。腐敗した抑圧的な君主社会を転覆させようとするフランス革命と、それに続く一連のヨーロッパでの革命は、人間の自然状態としての「自由、平等、友愛」を宣言する理想主義に燃え上がっていた。天国への人類の希求は、十七世紀以降の民主主義、人権、市民権、男女平等、社会福祉の保障といった様々な社会的業績の根底に横たわっているのである。
しかしこのような理想社会を建設しようという努力にもかかわらず、現実は夢には遠く及ばないものである。フランス革命は血塗られた恐怖政治をもたらし、最終的には独裁政権を生み出した。アメリカ民主主義は奴隷制を受け入れ、人種差別を許した。その自由の理想は、不道徳にふける放縦へと変質しつつある。その民主主義は、貧富の格差が増大している一方で、醜い党派主義へと後退している。われわれはこのような問題の根源は、確固たる霊的基台が欠如していることにあると見る。より完全な社会を建設するための鍵は、究極的にはその市民の精神的・道徳的生活の向上にあるのである。結局、本然の創造理想は、すべての人が神の真の愛と心情に連結されたときに成就されるのである。
特に、神の母性的・女性的性質を体現する聖霊を通して表わされた神の愛は、争い合う子供たちをみな抱擁して、調和させるだけの力がある。教会はキリストの新婦である。もし教会が完全に一つであったならば、世界は既に平和であるはずだ。しかし教会は政治によってバラバラに引き裂かれ、ついには神のみ旨に反対するところにまで落ち込んでしまっているのである。教会の再建が必要である。それはすべての家庭を父なる神の心情と一体化するまで高め、至る所に平和と調和を広げるようにしなければならない。
ひとたび世界の各家庭が神の心情と連結されたならば、彼らは当然お互いを思いやるようになり、多少でも幸運に恵まれていない家庭があったなら、それを援助するようになる。神の愛はすべての子女たちに及ぶのである。彼らは、その愛にあふれた神の心情と一体であるがゆえに、貧しい人や苦しみの中にいる人に対して、憐れみの情で満ちるようになる。彼らは真の愛に生き、明確に善悪を分別することによって、この世の腐敗と堕落を拒絶するようになり、純潔・無私・奉仕の価値観の支柱となる健全な文化を促進するであろう。この心情の転換が、今日の民主主義社会をより高い段階、すなわち「神の本然の創造理想である地上天国」へと高めるための基台を提供するであろう。この理想に関する詳細については、後に四番目と七番目の誓いにおいて言及する。
七 キリストと共に天国を創建する者
韓国語の「創建する(チャンゴンハダ)」という言葉は、いまだかつて存在しなかったものを創造するという意味である。天国は既に地上に種として存在しているものではない。それは天上にさえ存在せず、ただ神の心の内に理想や期待としてあるのみである。それは全く新しいものであって、われわれの努力によって創建されなければならないものである。
天から下ってくる「新しいエルサレム」という聖書的概念にもかかわらず、われわれは天国が空から降りてくるのではないことを知っている。それはイエスが天使のラッパの音と共に雲に乗ってやって来て、直ちに天国をもたらす、ということではない。同様に天国も、アメリカの大統領が、あるいは韓国の大統領が真のご父母様を受け入れ、彼らに従う時に、突然に自動的に現れるのではない。千七百年前にイエスがコンスタンティヌス大帝に現れ、キリスト教を受け入れるように彼の心を動かしたにもかかわらず、ローマ帝国が突然に天国に変わったりはしなかった。それどころかローマ帝国は衰退を続け、それから一世紀半後には崩壊してしまった。その間教会は、福音を広げる個々のクリスチャンの努力を通して、徐々に成長していった。人々は心にキリストを受け入れながら一人ずつ回心していったのである。同様に今日天国が建設されていく過程も、各家庭が一つまた一つと祝福を受け入れ、その生活を真の愛を中心とするようになるときに進んでいくのである。真の愛を中心とする各家庭は、社会、国家、世界に調和と統一をもたらすために必要な糧を提供する。それらは、地域社会や国家が行くべき道を切り開いていく。
われわれの一人ひとりが天国建設のためのメシヤ的使命を担っている。真のご父母様は地球次元の責任を背負っておられるが、われわれには氏族と地域社会に天国を建設する責任がある。天国は各家庭、氏族、近隣の地域でも建設されなければならないのであるから、真のご父母様だけではすべてを成就することができないのは当然である。地域社会を引き上げるためにみ旨をなす数千、数百万という家庭の協力を、神は必要としておられるのである。われわれは自らの信仰を省みて、原理の教えにもかかわらず、真のご父母様がわれわれのためにすべてをなしてくれるに違いないと、心の奥底でいまだに信じていないかどうかを照らし合わせてみなければならない。もしそうであるならば、いまだに天国が雲に乗ってやってくるという古いキリスト教的な観念を誤って信じていて、自分たちの責任分担に対しては盲目であるといわざるを得ないであろう。
氏族メシヤとしての責任
実際、氏族的メシヤとしてのわれわれの責任は、故郷に本郷の地を探し求めることであり、真のご父母様の責任は、地上、天上の天国を創建することであって、両者の責任は互いに一体不可分で連結しているのである。われわれの本郷の地は小さな地域に限られているかもしれないが、それは天宙的意義をもっている。それはちょうどエデンの園が小さな場所でありながら、全地球と同じくらいの重要性をもっていたのと同じである。それゆえ文師は、より大きな宇宙的観点から、氏族的メシヤの勝利基準は百六十カ国を代表する百六十家庭の復帰であると定義している(注19)。この両条件のための共通した形態は、百六十家庭の救済のための氏族的メシヤ活動と、百六十国家の復帰のための真のご父母様のみ旨との間に深遠な天宙的共鳴を作り出す。われわれは自分たちの地域社会を引き上げることによって、真のご父母様の世界次元の宣教に霊的推進力を与える。実際、後でさらに詳細に議論するが、勝利した氏族的メシヤは真のご父母様の完全な具現体であり、真のご父母様が神の祝福を世界に拡大するみ旨を最も強力に支援することができるのである。しかしあまりにもよくあることであるが、真のご父母様はたとえわれわれが責任を全うしなくとも、世界次元でみ旨を成就されながら、われわれの前方を先立っていかれる。その時われわれは、ご父母様が背負わなければならない重荷となってしまうのである。
イエスがわれわれに対して初めてご自分の共労者になるようにと呼び掛けたのは、ペテロに向かって「わたしの羊を飼いなさい」(ヨハネ二一・15~19)と語り、弟子たちに十字架を背負って従ってくるようにと諭したときであった。パウロは自分自身と仲間のクリスチャンたちは、「神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者」であり、「神と共に働く者」であると言明した(コリント・五・20、六・1)。神は、イエスと罪に妥協した弟子たちとの間に大きな隔たりができることを決して願わなかった。神はすべてのクリスチャンが、理想世界を築くためにキリストのパートナーとなり、共労者になることを願っているのである。
神は、イエスに偉大な力と愛を授けなかったであろうか? イエスの愛は地上の何十億という人々の心を動かしてきた。われわれはキリストの相対として家族や氏族を愛し育成し、彼らに奉仕するとき、この偉大な力と愛を引き出すことができる。ペテロをはじめとするイエスの弟子たちは、自らがいかに無価値の存在であるかを認識していた。しかし主が託してくれたみ旨を成就することに、彼らはその生涯をささげたのである。もしわれわれが彼らと同じレベルの熱意をもってみ旨に打ち込むならば、われわれもまた栄冠を受けるのである。
八 天上天国
イエスは「御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」と祈るように教えた。霊界は既に天法に従って運行している。その大気は愛であり、愛を呼吸して生きる人々にその栄養を供給している。ある人が地上の人生を終えて霊界に入ると、彼は自分がその生き方に全く慣れていないことに気づくであろう。彼が地上にいる間、自己中心的で物質的な生活に慣れ親しんでいた場合には、無私の愛の生活に全く準備ができていないことに気づいて、途方に暮れてしまうであろう。彼は愛する能力が未発達のままであり、愛における障害者であるので、本来なら味わうことのできる愛の喜びを享受できないのである。しだいに彼は地上生活を無駄に過ごしたことに対して、後悔の念にさいなまれるようになる。キリスト教の言葉を用いれば、彼はその人生を地獄で終えたということになる。しかし愛の神は、ご自身の子女たちのだれ一人だに永遠の刑罰の中で苦しむのを見るのを望んではおられない。それがいかに難しくとも、神はそのような不運な者たちが地上に再臨して過去を清算する道を用意しているのである。地上生活の期間にのみ、われわれは自分の人格と愛を成長させる機会をもつことができるのである。
イエスは地上人であるペテロに天国の鍵を授け、「あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」(マタイ一六・19)と語った。霊界の霊人たちは、彼らが地上で達した霊的成長の度合いに応じた段階にとどまっている。ひとたび家庭が地上で真の愛を実現すれば、その愛をもって霊界に行き、そこで永遠に愛の中で生きる。地上の社会が引き上げられ天国に変革されると、霊界でもそれに対応する社会が発展して、いわゆる「天上天国」が創られる。霊界の地理とそこに住む霊人たちを解放する方法に関する議論は、五番目の誓いにおいて展開することにする。
真の愛は、その性質からいって、全体に向かって外へ外へと拡大していく。したがって真の家庭の生活は自然に、より大きな地域社会に奉仕するようになるのである。愛はまずわれわれの家庭で花開く。キリストの聖化する愛に満たされるにつれて、われわれはそれを他の人々と分かち合うことを願うようになる。公的精神をもった一つの家庭がなす奉仕が、多くの人々の生活を変革することができる。天国では、すべての家庭が公的精神をもち、親族や近隣の人々の幸福のために気を配るようになる。互いに高め合うことを通して、社会全体が繁栄するようになる。より多くの家庭がますます真の愛を啓発して地域社会に奉仕するようになることによって、真の愛の運動は拡大して、世界と全天宙を天国へと変革していくのである。
