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「オーラルフレイル」という言葉はご存じでしょうか。オーラルは「口腔(こうくう)」、フレイルは「虚弱」で、口の機能が衰えつつある状態のことをいいます。このオーラルフレイルが進行して、歯をなくしたり、かみ砕くことができなくなったりすると、認知症のリスクが1~2割ほど上昇するとの報告があります。ただし、オーラルフレイルは改善可能な状態なので、諦めないでください。人生100年時代、認知機能の低下を防ぎ、健康なまま年を重ねていくためにも、オーラルフレイルを防ぎ、口内の健康を保つにはどうすればいいのかをお伝えします。
おかゆはやさしい?
「歯が抜けてしまってかめないので、食事はおかゆばかりなんです」
60代半ばから70代の患者さんから、このような愚痴めいた言葉を診察室でときどき聞きます。
また、患者さんのご家族からは「消化に良いおかゆに、あえてしているんです。食べやすいと思って」という声も聞かれます。
人は母乳から離乳食、固形物へと口に入れるものが硬いものに変わるにつれて、口や舌の動かし方を徐々に練習し、自然にかめるようになっていきます。そして、歯さえあればかむことができ、食べ物を体内に取り込むことができます。まさに、かんで食べることは、生きることなのです。
口内の状態と認知症との深い関係
かむことは、食べ物を摂取するのに役立つだけではありません。認知機能とも深い関係があるのです。それを示唆する研究もあります。
スウェーデンのカロリンスカ研究所とカールスタード大学などの研究チームは、77歳以上の高齢者557人を対象に、歯の喪失、咀嚼(そしゃく)力、認知機能の関係を分析しました。その結果、リンゴなど比較的固い食べ物の咀嚼が困難な高齢者は、認知機能が退化するリスクが高いことが分かり、アメリカの老年医学会誌で2012年に発表したのです。
かむという動作は、脳への血流量を増やします。歯が少ない、あるいは歯がない人は、かむ回数が減ります。そして、脳への血流量が少なくなり、その結果、認知症になるリスクが高まるというのです。これは、自分の歯でかんでも、入れ歯やインプラントなど人工の歯でかんでも、咀嚼は認知障害に影響する可能性があることを示しています。
日本にも似たような研究があります。
東北大学の研究チームは、65歳以上の高齢者約3万8000人を9年間追跡し、歯の本数や、咀嚼が困難だったり、口の中が乾燥していたりした状態と認知症との関係を調べました。すると、歯の本数が19本以下だと1.12倍、歯がないと1.20倍、咀嚼が困難だと1.11倍、口腔内が乾燥していると1.12倍、認知症のリスクが高いことが分かり、アメリカ老年医学会誌で23年に発表しました。
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歯を失うと口内の健康状態がダウン
かむという動作には、咀嚼筋、歯周組織の受容器、顎(がく)関節、知覚など、いろんな要素が複雑に関係しています。そして、想像以上のエネルギーが必要です。食べ物が飛び出さないように口を閉じて、のみ込まないようにしながらかみ続けることは、とても高度な協調運動で、バランス感覚も求められます。さらに、かむことで顔と頭の筋肉を使う運動になるため、脳に送る血流量が増え、脳へのいい刺激になります。
かむ能力(咀嚼能力)をはかるのに「咀嚼能率」という指標があります。これは、一定回数の咀嚼でどれだけ効率よく細かく砕いたかを表したものです。歯の本数やかみ合わせ、かむ力によって人それぞれ異なります。
奥歯を1本失っただけでも、天然歯がすべてそろった歯列と比べ、咀嚼能率は40~60%に低下するそうです。歯が一本もなくて総入れ歯の場合、咀嚼能率は25~30%に過ぎないともいわれています。そして、この咀嚼能率の低下が、認知障害と関係しているのです。
かむ目的は、歯によって固形物を細かくしたり、つぶしたりすることです。そこで歯がないと、柔らかい歯茎に負担をかけるため、自然とかむ回数が減って、のみ込むだけになってしまいます。こうして歯を失うことに伴う咀嚼障害は、認知機能低下の危険因子になると考えられているのです。
また、歯を失うことでかむことが少なくなり、その結果、唾液の量が減り、口内の健康状態が低下します。認知機能に障害のある人は口の中の健康が損なわれている人が多く、そのためさらに歯を失う原因にもなります。また、歯周炎のような慢性の炎症がある人は、頸(けい)動脈の硬化が進んでいたり、アルツハイマー型認知症の原因になったりしていると考えられています。このように、口内の健康を保つためにも、歯のケアはとても大事なのです。
とにかく、よくかむこと
口内の健康のため、厚生労働省の検討会は2009年に報告書をまとめ、「嚙ミング30」(カミングサンマル)というキャッチフレーズを作成しました。一口30回以上よくかんで食べることを勧めています。
実際、30回以上かむことであごの運動になりますし、歯茎を刺激して丈夫にします。唾液が出るのを促すので、むし歯の予防にもなります。味や、鼻に抜ける香り、舌触りなどが楽しめ、五感を敏感にさせてくれます。
よくかむ、すなわち咀嚼回数が多いと食べ物が消化され、脳の満腹中枢を刺激して満腹感を得られるため、食べ過ぎを防ぐことができると昔からよく言われてきました。ただ、時間に追われる医師の中には、これとは逆によくかまず、早食いをする人がいます。恥ずかしながら、何を隠そう、私がその一人です。
患者さんには「ゆっくりかんで食べましょうね」と説明しながら、自分はというとのみ込むようにして食べています。これは悪い見本なので、決してまねをしないでください。
振り返ると、私が子どもの頃、給食の時間内にパン2個を残さず食べなければならないという、いま思えば変なルールが学校にあり、残したら先生に厳しく怒られました。私は食べることが遅かったため、「早く食べなければいけない」「いつまでもゆっくり食べるのは良くない」という間違った考えが根付いてしまい、結果、のみ込むという悪い習慣を身につけてしまったのです。
さすがに、そのようなルールを設けている学校はもうないかと思いますが、なにかと忙しいいまの時代、食べやすくて柔らかい食べ物も増えているので、早食いの習慣を身につけてしまっている人も少なくないかと思います。
いま一度振り返り、「早食いかな」と心当たりがある人は、「噛ミング30」、一口30回以上よくかんで食べる習慣を取り戻すことをお勧めします。年を取ってからも、認知機能を健全に保つのにきっと役立つはずです。
写真はゲッティ
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金子至寿佳
日本赤十字社 和歌山医療センター 糖尿病・内分泌内科部長
かねこ・しずか 三重県出身。医学博士。糖尿病医療に長く携わる。日本糖尿病学会がまとめた「第4次 対糖尿病5カ年計画」の作成委員も務めた。日本内科学会認定医及び内科専門医・指導医、日本糖尿病学会認定糖尿病専門医・指導医、日本内分泌学会認定内分泌代謝科専門医・指導医、日本老年病学会認定老年病専門医・指導医。インスリンやインクレチン治療薬研究に関する論文を多数執筆。2010年ごろから、糖尿病診療のかたわら子どもへの健康教育の充実を目指す活動を始め、2015年からは小中学校で出前授業や大人向けの健康講座を展開している。