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「希望の日」晩餐会のメッセージ
1974年5月8日
帝国ホテル孔雀の間で
神より貴い人間の価値
敬愛する諸先生の皆様。待ちに待ったこの場におきましてお会いすることができましたことを心より感謝申し上げます。
人間は、食べることと、見ることによって喜びを感ずるのであります。今日、こういう風に、食べたり、いろいろな環境を見ているのですが、私たちのために音楽や歌、ピアノを聞かせて下さった人達にも感謝の拍手をお送り下さることをお願い申し上げます。(拍手)
諸先生方におきましては、統一教会の創立者としての、文鮮明という人物に対して、いろいろな疑惑を持っておった方がおられると思います。今日、このようにして諸先生をお迎えしましたこの本人が、いわゆる文鮮明という人物でありますから、皆さん、よくよく御判断をお願い申し上げます。(笑)
私は、敬愛なる諸先生方を心より愛するものであります。
人類歴史におきまして、あるいは古い、あるいは長いといいましても、神様の永遠不変なる存在の前には新しいものであり、「瞬時」の期間なのであります。こういう観点から見ました時に、日本の国あるいは日本の国民が願う前に、神様が、この日本列島を誰よりも愛して来られたと、思うのであります。
この日本列島のこの地に、日本の国とその国民を立たせて今まで守って来られた、特に、第二次大戦後において、世界史上にかつてない祝福を恵まれた国があるとするならば、それは、日本以外には無いということを、諸先生方もよく知っていらっしゃることと思うのであります。それは、日本の国民の努力もあろうが、その反面、まさしく、神の保護と祝福と愛が多かったことは言うまでもありません。
このような完全の地において、この東京というのは日本の国の中心部であり、日本を愛して来られた神においては、この首都である東京と都民を愛さざるを得ません。この都民増ら最も愛される方々が、ここに集った人達、従順であられる諸先生であります。そのことを思います時、神様が皆さんを愛していることは、いうまでもありません。このような諸先生近が今晩、このように集いまして、足らないこの私を観迎したということ
、無上の栄光に思うのであります。それに、大韓民国の代表者、あるいは中華民国の代表者の諸先生が、このバンケット(晩贅会)に参加して下さいましたことを、心から超謝するものであります。
日本と韓国と中華民国はアジアの地から見た場場に、共に兄弟であると思うものであります。この「弟が一つになって、日本が今まで神に愛されてきた、それ以上の愛を、神の高次元な愛を、日本の国を越えてアジアあるいは世界に、授けさせるような努力がなされ、共に手をつなぎ合い、兄弟の格でもってそういう方向に進む、その契機となる今晩であるならば、これ以上の喜びはないと存じます。
諸先生の家庭におきまして、あるいは会社に、生涯におきまして篤い神の守りが共にあることを願きながら、今から本人の所感を述べたいと思うのであります。如何でしょうか。
人間歴史におきまして、如何なる時代においても、人々は、永遠普遍の真なる愛と、幸福と平和と理想を求めてきたのであります。現代におきましては、この問題を持っていても、求めておっても、それが果せる望みというものが欠けた見地に立っているということを、我々はよく知っているのであります。それで、人々が落胆して、この世界はもうだめだ止これ以上に行かれない。という限界まで人類がつき当り、窒息圏にたっているということを、我々省よく知るものであります。
こういうような変化してゆく人類世界におきましてはそれを果せないとしても、もしもこの人間を越えて、絶対なる神様がいるとするならば、その神様においてはまことの愛、まことの平和、まことの幸福、まことの理場想を成就されるに違いない、とする以外、我々は求める道がないのでございます。
こういう風に考えて見た場合、神様自体におきましてもは、愛の儒様であり、あるいは平和、幸福の王様であり、中心者であるに違いない。そして人間が求めてきていき詰ってしまった限界を、神によって打開する以外にはないと思うのです。その愛とか、あるいは幸福とか平和とか理想という、その言葉自体を考えてみた時に、その言葉は、一人だけという言葉ではございません。
愛にしても、幸福にしても、平和にしても、理想にしても、相対関係がなければこれが果されないのです。そう思います時に、神様におきましても、神様ははたして愛、はたして幸福、平和、理想を成されますか?こうつきつめて聞いた場合に、神様自体におきましても、これは出来ない、ということになるのあります。それが相対関係の理想を果たすには、この宇宙世界に、誰かがその相対の立場に立つものがなければならないというのであります。そう考えてみると、その宇宙間に、神様がもし主体とするならば、その相対的立場に立つというものは我々人間以外にはありません。そう思う時に、神様の愛の完成は神様によってなされるのではなくして、神様の平和、幸福、理想も神様自体によって成されるのではなくして、我々人間なくして果たされないということを思うのです。(拍手)
今まで全ての人類、あるいは全ての個人々々において、ここまで考えた人々がそう居ないということを感じるのでございます。
こういう風に結論を出すというと、我々この一人一人が止こんなにも偉大な価値の相対者であるという価値を、我々は、再び、元返ししなければなりません。また再び、これを探し求めなければならない。この執念が、ここに、滞っているということを、我々はよく感じるものであります。
だから、こういうような相対関係の理想を果たすには、この宇宙世界の誰かが、つまり、そ相対の立場に立つものが、なければならないことになるのであります。
もし、神様が永遠不変であり、唯一、絶対であるとするならば、その理想を全てを成し得るその相対者におきましても、永遠不変を求めるのは勿論であります。唯一、絶対という基準を真なる理想を求めたのは、結局その主体たる神を迎えるための準備であったということを結論づけるのであります。もしも、我々人間がその立場に立ったとするならば、つまり神が永遠の生命の実体者であるとするならば、我々も永生する相対的実体者であるに違いないという事は、最も理論的なことでございます。
こう考えてみた時、我々人間の価値をここまで求めていかなければならないと思うのであります。
それでは、諸先生方に、一つ質問を致しましょう。
皆様におきまして、過去において、年令において先輩の諸先生方も多くいらっしゃるようでありますが、若き日に、自分の相対者として嫁を貰うときには、自分よりも優った者を貰うか、それとも劣った者を貰うか、と聞けば、誰れでも優った者を願うのが当然でございます。
こういうような本性が、一体どこから到来したのか?
人間は何処までも、宇宙の原因の存在ではありません。結果の存在であるということを絶対に否定できません。こういう観点からみた場合、ある原因の存在に由来したその絶対的な結果の存在である。だからこその絶対に否定することはできません。こういう観点からみた場合はある原因の存在に由来しその絶対的な結果の存在である。だからこそ、そういう願いを限つとするならば、その原因の本体あるいは原因の主体も、そのような願いを持たざるを得たざるを得ないという風に思うのであります。
そう考えてみた時に、我々は、質問を神に向けて、「神様、もしもあなたも、あなたとその相対者が自分より優った者を願いますか?あるいは劣った者を願いますか?」そういう質問するならば、神様の答は、この地球上に住んでいる人々の答えと同じ結論を出すに違いない。
神様自体も、その相対者を自分より優った者と見る、そのようなものでなければ神様は永遠の愛の木対者として、あるいは希望、あるいは幸福、あるいは理想の相対者として永遠に愛されることは出来ない。
こう考えてみた時、神よりも優る相対圏に立っているものは、人間の価値であるということを、ここに結論を出すことが出来るのです。
人間は神の貴い子女
もう一つ質問するならば、ここに美男子と美しい娘が立派な夫婦になった。いよいよ最初の子供が産まれた。その子供を抱えるお母さんを見た時に、それは実に素晴らしい美人である。そういう子供を見つめてみた時に、お母さんあるいはお父さんに比べて見た時に、それはじゃがいもみたいな、自分の気ままに出来たようなタイプをしている。それを見つめながら、その親に言うには、「この子供は実に素晴らしい。お父さんの顔よりもお母さんの顔よりも、実に素晴らしい顔をしている。」そういう風に言うとそのお母さんの口がゆるむようになるのです。
それに反して、「絶対そうじゃない。そんな事はあり得ない。自分の方が子供もよりもっと素晴しい」こういう事を言う親は一人もいないと思うのであります。如何でしょうか?
(拍手)間違いなくそうである。そうだとするならば我々自分自体はそもそも、神の子供として造られた、神の愛すべき真なる子供、真なる娘として生まれてきた。その子供がこういうような悲惨なものになる。惨めなものとして、このような堕落圏、あるいは聊息の世界にいるのを神様は喜ばれるはずがない。
最高の理想の存在として、和気あいあいとして立っておるにかかわらず、何故こういうような結果になったかという事は、それは宗教の立場からは、堕落したからというのです。なにか誤ってしまったという結果になる。いわゆる陥ちてしまった、何か、原因から離れてしまった。その事によって、こういうような悲惨な人類になったというのであります。こういう悲惨な人類は、悲惨なるその状態におってとどまるのではなくして、これを乗り越えて、歴史を乗り越えつつ、生涯を乗り越えつつ、人間はその本郷の地に向って、今までそれを探し求めて来ている。生涯そういう過程にあるのです。まだその結果が果されていない。こういう風に考えてみると、この人間自体が、神より尊きものにならなければならない。そういう存在であるということを、皆様がここにおいで下さって、「文さんという人からこういう七うな話を聞いた」と一生涯忘れれない印象となれば良いと思うのであります。
「ために存在する」神さま
こういうような結果を見た時、主対なる神、相対的立場に立つべき理想的人間という、二つの問題に帰結するのであります。
そうすると神様は、知恵の王者であり、すべてを知っていらっしゃる全能なるお方でありますから、人間、人類世界において真なる愛と、真なる幸福、真なる平和、真なる理想を主体と相対関係において、主体を中心とした方向においてその起源を定めるか、あるいは客体を中心とした立場おいて、その起源を定めかという、神はその永遠の理想世界をながめながらそれを決めざるをえないというのであります。
もし神を中心として主体ばかりにそれを尽せということになったとするならば、そういうような伝統的基準を人間が築いたとするならば、すべてが自分を中心としてすべてをつかえさせるというようなことになったとするならば、これは大な事になるというのであります。一つとか、統一という問題、あるいは融合とか、あるいは発展という原則を満たす事はできません。
それで神様におきましては、そういう主体を中心として客体が待るのではなくして、神自体におきまして客体を中心として神自体がために存在するという立場を決めざるをえなかったというのを我々はわかるのであります。
ここにおきましてすべてが一つになる、すべてが発展の原則を満たすから、全能なる。全知なる神は、この愛、幸福、理想愛、本然の基準を、神に存在すると定めざるをえなかったというのであります。こう考えてみた時に、理想とか、愛と平和、幸福は、自分を主体として主管する、あるいはつかえさせるのではなくして、あるいはために生きる、ためにすべてを得るという立場におきまして、真なる愛、真なる幸福、真なる平和、真なる理想が始まるというように、宇宙創造の理想の原則を、ここにおあたのであります。
こう考えてみた時に、ここにいらっしゃる諸先生におきましては、東京、日本の地におきまして、自分は自分なりに、自分を中心として自由自在に主管的な立場に立ってゆかれる、何も自分に欠けるところがない、そういうえらいお方がおられると思いますが、この男である諸先生を中心として考えてみた時に、この男のいかにして生まれてきたかということを、つきつめて聞いてみますと、その男は、男自体を中心として生まれてきたのではなくして、そと生まれてきた存在の動機は、女によって存在されてきたということを忘れてはなりません。(拍手)
しかしだそういうことを言うと、それはそうだが、文さん、これは男として気持が悪いじゃありませんか。今までそういうようなことを思ってこなかったから気持が丙いかも知れない。しあし、そういう風に気持が悪いと思わないで下さい。
今からずっと語りますが、もし、今までの男としては、自分は自分のために生まれてきた、その観念が宇宙の原則に違反する。女にしてみれば、女は自分を中心として生まれてきたとという、その観念が問題である。女が生まれてきたのは、女を中心として生まれときたのではなくして、男を中心としてきた。だから、存在の起源はために存在しているのだということを、我々はここに新しい認めて、それを中心としてために生きる、ために生涯を終えるというようなそういう男、そういうような女として、夫婦となったとするならば、その父母こそ真の父母である。(拍手)の父母こそ真の平和、真の幸福、真の理想の父母である。
その反面に、子供に言わせれば自体において、生まれたのも、親のために生まれたのであり、生きるのも親の為に生き、死するのも親のために死するというような立場に立ったとするならば、この子供におきましてはこれこそ真の孝行者。真の愛を受けが真の幸福、真の平和や、真の理想の子供としてならざるをえないでしょう。
また、国を中心として、為に存在するという原則を適用すれば、その国で一番愛国者は、一体誰かと聞かれたならば、すぐ答えがでる。
聖人中の聖人・イエスさま
たとえて言えば、日本の歴史におきまして、一番日本が讃えるべき愛国者は、一体誰でありましょう、という時にこれは、近世においては、乃木大将をあげることができるでしょう。自分の明治天皇に対して生命を捧げる、あるいは日本の一大機危の為にすべてを捧げる。生命はもちろん、すべての生涯を日本のために尽したのだから、その方が言うまでもなく愛国者であります。これを拡大して人類歴に適応してみれば、一体この歴史上に真ななる聖人はいかなる者や、と聞かれたならば、為に存在するという創造理想の原則を適応すれば、すぐキャッチできます。それは駅、イエス・キリストという人は、最大の聖人として我々はうち立てざるをえないというこであります。なぜかと申しますならば、それは人類のために来られ、人類の為に生き、人類の為にすべてをつくすというその立場におきながらも、怨讐に対して祝福していた、そういう立場に立っていたということを考えてみた時に、善人はもちろん、悪に対しても存在そのものの為に、存在しきっていくという精神の為に死んで行かれたそなたは、イエス様以外にはない。そう考えてみた時に、聖人の中の聖人と言わざるをえない。
その立場に立ったキリスト教こそは、神に保護され、愛されて、神に守られて世界に文化を指導する現実の立場に立ってきたというのは、もちろんだと思うのであります。
こうきうふうに、為に存在するという原則を各個人におきまして、国家におきまして、世界にそういうふうな原則を中心として、もしも、人類が共に生きるとするならば、その国こそは地上天国にならざるを得ません。
ここに集っておられる皆様において、神のみ恵みに召されてその霊界は、諸先生方は、その霊界をよく知らないと思いますけれど、その霊界ののすべてのことを体験した事がありますがその世界をずっと分析してみれば、あの世界の構造組織体系は、何によって成されるかというと、この原則によってなされているということを発見することができました。
だから、ために存在する者達、ために生涯を過した者達が、行かれる所が天国であるということを諸先生方は信じてもらいたいのであります。
それで、数多くの宗教の教典におきまして、この為に存在するという原則を中心として、神は教え来たのであります。
神の国につなぎ、神の国を求める者におきましては、その本郷の国に帰る基準からみました時に、それに即応する内容でもって教育せざるを得ないから、高尚なる宗教であればある程その宗教におきましては、奉仕せよ、犠牲そよというような教えは、この原則からみた場合に、当然の結果と言わざるを得ません。
ために存在するということをひとことで適応すれば、聖書の教典が六十六巻あるとするならば、このひとことに帰する。ひとことに限る。
イエス様の言う聖書の内容を読んでみれば、現在の若き者には、思いもよらない内容をもっている。すべて反対のことを言っている。低かろうとする者は高くなるし、高かろうとする者は低かろうとするし、生命を捨てようとする者は、生命を救われると言うし、生命を救われようとする者は生命を捨てよと言う。すべて反対になっている。イエス様は救い主として来られたんだが、自分は侍られる為に来たのではなくして、仕える為に来た。すべてが反対だ。こういうような教えをなさったのは、イエスこそは、奥深い神の原則の基準を体瞼しておられるから、よくよく体験しているから、こういう教えをなさたと思うのです。
こう考えてみると、ここにいらっしゃる諸先生方におきまして、悪の人、善の人は、どういう法則によってそれを選び出そうか、それは簡単であります。人の為に存在し生きて行く人はそれは間違いなく善なる人であり、その反対に自分を中心として存在せんとする立場の者は、神の理想の世界と反対だから、悪魔に通ずるということを我々はここで見分けなければなりません。
俳書の内容からみた時に、堕落というのは一体何ものか、それは、自分の自覚を始めた、主体である神の為に存在するのではなくして、自分を主体として考え出した、自分の自覚を初めて考え出した所に、堕落の原因があるということをよく知っているのであります。
サタンというものは、侍るべき為に存在する立場におるにもかかわらず、自分を中心として存在するという立場を乗り切ったところにおいて、堕落、起源が生じてきたのであります。
聖書で言えば、エバは自分を中心としてアダムを堕落させた。女は男を堕落させた。誰を中心として――自分を保護する為に、為に存在するという原則を放棄して、自分を中心としてすべてを成させるというような立場におきまして、堕落してきたのであります。それが悪の世界の始まりです。そういう悪より先祖が、そういう結果に立って存在してきた我々後孫として、生まれてきたんだから、人類は自分を中心としてすべてを考えるようになった。自分をはじめに考える。これが堕落の結果のたまものである。
こういうような世界を神はそのままなす事ができないから、もと返さなければならない。どの世界に、反対の方向の世界に蛍さなければならないという運動を、歴史を通してなさなければならないというのが、宗教なのであります。(拍手)それが真理であるとするならば、歴史内にこういうような実績の期待を残しておるようなことを我々は見つめることが出来る時に、神は歴史を動かしておる。神は必ず在るという結論は、正当な結論である。
「ために存在する」者が天国へ行く
そうするというと、なぜ神様は、ために存在するというような原則を立たせるようになったか。そういうような原則を立たせなくても良いのではないか。こういうように思う人がいるかもしれない。一つ質問をしましょう。我々本心をずうーっと分析してみた場合に、本心は善の立場に立っているという事を誰でも知っておられるのであります。
もし、自分の為に生命をかけて、あるいは、百パーセント犠牲の愛の心でもって、自分に幸運をこうもたらすその人があるとしたならば、我々はそれを問題視しようとする時に、その百パーセントの基準から、五十パーセント位を取って、ポケットに入れて、五十パーセント位を返そうとする、そういう本性を持った人がいるでしょうか?そう聞いた場場合に、誰でも、「そうじゃありません」と答えるに違いありません。
この心が、この心がすばらしい心である。その本性があるからこそ、百パーセントの愛でもって、報いられた場合には、それ以上返したいという思があるから、我々人間自体が、堕落したものが、もとの世界に帰る希望を持つことができるというのであります。何故ならば、もしも私が、Bの人に百の恩をこうむらせた場合に、そのBの人、私に対して以上返す。その百以上は真心をもって返す。とした場合に私自体は、それはまた返してやるという立場に立ったというならば、それ以上百二十%のものとしてかえす。まことに又Bに返してやったからそこにおいて百二十以上が戻ってくるというような結論になるのであります。
こういうふうに主体と相対が授受作用することによって、まわることによって永遠の観念がここにおいて成立するのであります。だから神様は、ために存在するということにおいて、永遠性をつめるために、ために存在するという原則を立たざるを得ないという結論になのであります。(拍手)そこにおいて、又発展がある。繁殖がある。繁殖をきたす事ができる。だから、一般の父母様が子供を教育する時、いいことをやれ、いいことになるか、人の為に尽くせ、犠牲になって皆の為、そうなれば、恵まれるんだ、良くなるんだ。内容にはっきり知らないけれど、結論においてそうういう事を言うとは、宇宙の原則がそうなっているということを認めたから、うなっているんだという事を我々は信じいといけないのであります。又、神様は、ために存在るという原則を立たざるを得ななかった。もしも、その基準を立たさなかったとするならば、中心を立てることはできない。為に存在するという為に、命をかける者はそれは、月日がたてば立つ程、どういうふうになるかと言うならば、間違いなく中心者になるのであります。
例をあげれば、もしも家族に十人の家族がいるならば、父母がおり、兄さん、姉さんがおり、一番下の弟がその家族のためにすべてを尽したとするならば、自然とその親も、小さいその子供を中心に立たせるようになる。その兄さん、姉さんもまちがいなく中心に立たせるようになるという事は、それは言うまでもありません。
だから、ために存在する者におきましては、中心者になるという鉄則を、我々はここに認める事ができるのであります。その中心者が決定になればなる程、その者におきましては、すべての家庭、十人だったら十人が自動的に主管してもらいたい。誰が願わなくても自動的に、我々の家の中心者として我々をひきたいいて下さるというように、申し出る結果になるのであります。
こう考えてみた場場に、まあ、人間社会におきましても、主管されるということは恥しいと思うんだね、本当に自分の為に尽すその者において主管される。それより幸福であるという事は、世にないということを我々は、認めざるを得ません。
もし、神様が宇宙の中心者であるというその神様は、宇宙の為に存在することによって主管されとするならば、その幸福感はたとえようもない幸福感に打たれるということはもちろんであります。だら、神の存在という基準をみたさなければないということは、中心者決定と共に自動的理想圏を満す事ができいから神様は、ために存在するという原則をたたざるをえなかったとううのであります。
それからもう一つ、三番目は何かというと、愛や理想を得たいの、我々の欲望であります。その愛なるもの、その理想たるものは、今まで人間におきましては神様によって果たされるという考えを持って来ました。
それは、絶対そうじゃありません。愛は神自分のものではありません。理想は自分のものではありません。自分によって成されるのではなくして、その愛たるものは、相対者によって授けられるという鉄則がある。その理想たるものは、自分によって成されるのではなくして相対者によって得られるのだから、生命よりも尊きその愛を理想を迎えるには侍る為に存在しるということになるのであります。
こういうような理原則を考えてみた場合に、ために存在するというところにおきましても、真なる愛を満たすことができる。ここにおいて、真なる幸福、真なる理想を満たすことは、諸先生方の生涯において、あらゆる社会、世界いずれにおいてもその基準に一致する原則が成り立つのです。
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