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毎日新聞 2023/7/9 06:00(最終更新 7/9 06:00) 有料記事 2235文字
塾が建ち並ぶ地域に掲げられた野党の横断幕。「修能(大学修学能力試験)大混乱」と書いてある=ソウルで2023年7月3日午後7時59分、日下部元美撮影
韓国には日本の大学入学共通テストに相当する大学修学能力試験、通称「修能(スヌン)」がある。日本の共通テストも受験生にとって非常に大事な人生のイベントであると思うが、正直、韓国の学生にとっての「修能」は、はるかに重いように感じる。
日本の大学進学率は6割を切るが、超学歴社会の韓国では7割を超える。更に若者の就職難が問題になっており、韓国で優良企業に就職するためには単に大学を卒業するだけではなく、ソウルの限られた名門大に入学するのが最低条件のようになっている。このため、修能の日は英語のリスニングの時間に騒音を出さないよう飛行機が離着陸を控えたり、企業や役所が学生への配慮のために出勤時間をずらしたりするなど、社会全体が神経をとがらせる。
尹錫悦(ユン・ソンニョル)政権は11月に行われる修能まで半年を切ったこのタイミングで「キラー問題」の廃止に乗り出した。「キラー問題」とは公教育で学ぶ範囲で解答するのが困難な超難解問題のことだ。
激烈な受験競争の中で成績を差別化するための策で、特に上位大学を狙う場合はキラー問題が鍵になる。修能をかつて受けたことのある私の知人は「大学3年生が解くような問題が出てくる。その時は解けても大学に入ると解き方を忘れちゃうんだけど」と笑っていた。
李周浩(イ・ジュホ)社会副首相兼教育相は6月15日の記者会見で、尹氏がキラー問題について「私教育に依存しろということか。教育当局と私教育産業によるカルテルではないか」と批判したことを明かした。
午後10時過ぎ、塾の授業を終えた生徒ら=ソウルで2023年7月3日午後10時13分、日下部元美撮影
統計庁が3月に発表した調査によると、全国の小中高生の私教育への参加率は78・3%に上る。韓国の塾市場は巨大だ。2022年に国民が小中高生の私教育に費やした額は総額26兆ウォン(約2兆8500億円)。年収が10億円を超えるスター講師も存在する。
キラー問題の演習のための問題を公募し、採用された場合は1問当たり100万~200万ウォンの賞金を与える塾もあるという。実際に修能の出題委員を務めた人物が、その模擬問題を作り販売しているケースもある。このため、「キラー問題1問が1兆ウォンの価値がある」などと表現する韓国メディアもあり、「カルテル」発言はこうした難解な問題とそれによって塾がもうけるという循環を解体したい狙いがある。
子供の教育費の負担は少子化の要因の一つにもなっている。新韓銀行の21年の調査では40代夫婦の平均収入家庭では中高生に対する教育費の平均が月108万ウォン(約12万円)で、全体の支出の約4分の1を占める。子育てをしている43歳男性は「ソウルでも地方でも小学校に入って少したてば塾代が月100万ウォン以上はかかる。300万ウォン以上使う家庭も多い」と実態を話す。所得が高ければ高いほどより実績のある塾に入れたり、家庭教師をつけたりと手厚い教育が受けられる構造で、教育格差にもつながっていると指摘されている。
尹政権のこの改革、一見、受験生にとっても親にとっても良い話に見えるがそう簡単ではないようだ。野党は幼い時から対策をしてきた学生やその親の間で「混乱を生んでいる」と攻勢を強めており、教育業界からも反発が出ている。与党関係者は「カルテルを解体するといった検察出身の尹大統領ならではの観点だが、修能というものが国民にとって重いだけに変革に対して動揺も大きい」と不安そうに語った。
子育てをしている韓国人に意見を聞いても「改革は必要だけど、キラー問題を廃止したくらいでは何も変わらない」と冷めた意見が多い。廃止したところで実力を測るために「準キラー問題」が登場したり、別の競争に移行したりするだけとの見方が強い。小学生の子供がいる40代男性は「親は自分の子供に後れをとってほしくないですから。ジャンケンポンで入試を決めるとしても韓国の親は塾に通わせると思いますよ」と笑った。
また、34歳の女性は「キラー問題をなくすと単純な暗記型試験になる可能性がある。大学は修能の点数で選抜しにくくなり他の制度を多く導入しようとするでしょう」と推測した。韓国にも推薦試験はあるが、これも家庭の経済力によって子供の経験が左右されるとして改革が行われている。知人らの話を聞いていると、「修能はまだ実力勝負で公平な制度」と認識されているようだった。
確かに、今回の方針だけで韓国の教育競争や教育費負担が解消されるわけではない。背景には就職問題や仕事に対する強い「貴賤(きせん)意識」などがあり、生き方の価値観が分散・多様化しない限り競争は終わらないだろう。
塾が多く入るビル。地下には深夜でも勉強ができる「スタディーカフェ」がある=ソウルで2023年7月3日午後8時45分、日下部元美撮影
だが、忘れてはいけないのは、本来の当事者である子供たちのことだ。有名塾が建ち並ぶソウル市江南区大峙(テチ)。塾帰りの11歳の男子小学生にキラー問題廃止について聞いてみると「簡単なのはうれしいけど……。バランスが大事ではないか」となんとも大人びた答えが返ってきた。
夜10時を過ぎると中高生らしき生徒らが塾からぞろぞろと出てきた。学生街かと思うほど道が生徒で埋まり、一部は「24時間スタディーカフェ」と表示された店へ入っていく。店舗の中をのぞくと、少なくとも80席ある席がほとんど埋まっている。塾が終わった後に更に勉強しているのだ。スタディーカフェは街のいたるところにある。
大学とは何か、教育とは何かということを韓国社会は問われているように感じる。【ソウル日下部元美】
<※7月10日のコラムはニューヨーク支局の八田浩輔記者が執筆します>