+イエスのみ心の祭日に、神に賛美をささげよう。
おはようございます。
今日はイエスのみ心祭日です。
御心の主・イエス・キリストと神の母聖マリア、聖母の配偶者聖ヨゼフ、聖カロロ・ルワンガと同志殉教者、諸聖人の大いなる祝福がありますように!
また、大天使とすべての天使、私たちの守護の天使が今日も皆さまを見守り平和でありますようお祈りします。
******
イエスのみ心の祭日は、イエズス様の聖なる心を崇敬し、その心を見習おうとする日です。この祭日は、極めて聖なるキリストの聖体の祭日の次の金曜日に行われますが、それはイエズスの聖心が御体の秘跡と非常に密接に関連しているためです。イエズスの聖心に対する崇敬は中世に始まり、次第に一般的になりました。1856年、ピウス9世の時代に教会の典礼に導入され、第2バチカン公会議以降、大祝日として行われています(『今日の典礼』より)。
**********
ヨハネによる福音
<イエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。>
19・31その日は準備の日で、翌日は特別の安息日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た。32そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、もう一人の男との足を折った。33イエスのところに来てみると、既に死んでおられたので、その足は折らなかった。34しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。35それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている。36これらのことが起こったのは、「その骨は一つも砕かれない」という聖書の言葉が実現するためであった。37また、聖書の別の所に、「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」とも書いてある。(ヨハネ19・31-37)
********
チョ・ミョンヨン神父様の「今日の黙想」です。
ある中学校に優れたピアノの腕前を持つ教師がいました。地理担当の教師だったにもかかわらず、その演奏の腕前はなかなかのピアニストにも引けを取らないほどでした。その噂が広まると、一人の新聞記者が彼を訪ね聞きました。
「どれくらい練習すれば、そんな腕前を持つことができるのでしょうか?」
すると教師は笑顔で答えました。
「たったの10分です。」
驚いた記者が不思議そうな表情を見せると、彼は再び笑って言いました。
「実は毎日10分ずつ練習してきたのです。」
この言葉に私も共感しました。実際、私にも同じような質問をされることがあります。
「どうすれば神父様のように上手に文章が書けるのでしょうか?」
正直に言うと、私は上手に書けませんが、私はこう答えます。
「毎日少しずつ文章を書いてみてください。そうすれば、いつの間にか私のようになれます。」
正直に言うと、幼い頃から現在まで、一度も文章を書いて表彰を受けたことがありません。つまり、生まれつきの文才は全くないのです。しかし、2001年から毎朝早く起きて文章を書いてきた結果、今では人々から上手に書けると好評をいただくようになりました。
一日で技量が身につくわけではありません。長い時間をかけて努力した後に得ることができる結果なのです。しかし、多くの人々はこのような結果を一気に手に入れたいと思い、そのようになることを神様に強く願うこともあります。しかし、イエス様がどれほど多くの努力と真心を込めたかを忘れてはなりません。神の息子でありながらも最も低い者の姿でこの世に来られ、3年間の公生活のために30年もの時間を準備されました。また、その全能の力で一気に打ち倒すことができる悪の勢力を自身の十字架で包み込む大きな愛を示されました。
このような謙遜と愛を通して、私たちはさらに主を信じ従うことができます。しかし問題は、主に従うと言いながらも、自分自身は楽にすべてを得ようとすることです。
今日はイエスのみ心の祭日です。つまり、イエズスの聖なる心をさらに崇敬し黙想する日です。その聖なる心はまさに謙遜と愛の心でした。その謙遜と愛によって、私たちすべてが救われ、主の国に招かれる栄光を得ることができました。
したがって、私たちもイエス様に徹底的に従わなければならないのです。一気に与えられることを期待する欲望はもう捨て、継続的な努力を通して少しずつ主に似ていかなければなりません。そうすれば、主の心と自分の心が本当に一つになることができるのです。
********
毎日の福音の教えを聞き、実践を通してイエス様の限りない愛と慈しみを見倣い、永遠の命を得ることができますように!聖霊、きてください。