+聖母のみ心の記念日に、神に賛美をささげよう。
おはようございます。
今日は聖母のみ心の記念日です。
み心の主・イエス・キリストとみ心の聖母マリア、聖母の配偶者聖ヨゼフ、諸聖人の大いなる祝福がありますように!
また、大天使とすべての天使、私たちの守護の天使が今日も皆さまを見守り平和でありますようお祈りします。
***********
イエスのみ心を尊敬しながら自然に生まれた聖母信仰に対する敬意は、17世紀フランスのノルマンディー出身の聖ジャン・ユードの努力によって次第に普遍化され、イエスの聖心ミサで記憶する形で典礼の中で行われるようになりました。ピウス12世教皇は1942年に聖母のファティマ出現25周年を迎え、『無原罪の聖母のみ心』に世界を奉献し、この記念日を全教会で祝うことにしました。最初は8月22日に選択記念日として祝われましたが、1996年の教皇庁典礼省の教令により『イエスのみ心の祭日の次の土曜日』に『義務的記念日』として祝われるようになりました(今日の典礼から)
*********
ルカによる福音
<母はこれらのことをすべて心に納めていた。>
イエスの2・41両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。42イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。43祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。44イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが、45見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。46三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。47聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。48両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」49すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」50しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。51それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。52イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。
(ルカ2・41-51)
**********
パク・ソヌ・グレゴリオ神父(サレジオ会)の「聖母のみ心記念説教:聖母のみ心の崇敬」です。
けがれなき聖母の御心は「イエスのみ心」と密接に結びついているため、イエスのみ心の祭日の翌日に記念されています。イエスのみ心を崇敬する中で自然に始まった「聖母のみ心の崇敬」は、17世紀のフランスの聖ジャン・ユード(1601-1680)の努力により初めて始まりました。聖ジャン・ユード神父が著したいくつかの書籍の中に『聖母の極めてけがれなきみ心』があります。聖人は「最も聖なる聖母のみ心は聖徳の宝庫であり、三位一体の神が宿る聖所である」と語り、けがれなき聖母のみ心を崇敬し広めました。しかし、教会は長い間この信心に対して慎重に対応していました。
1917年、ポルトガルのファティマで、聖母はルチアを含む3人の子供たちに六度にわたって出現しました。その時、聖母は「世界のすべての人々を聖母のけがれなきみ心に奉献し、祈る」ことを求められました。聖母の出現とメッセージは、子供たちの苦しみと死を、悲しみ、祈り、慰め、救いの道を示す慈愛に満ちた母のみ心を感じさせました。
ついに、1942年、聖母のファティマ出現25周年のミサで、教皇ピオ12世は聖母の要請通りに世界を聖母のけがれなきみ心に奉献し、この記念日を全教会が守るようにしました。
清らかで澄んだ湖は空や雲を抱きます。この湖のように神の御子を受け入れることのできる清らかな心とはどのようなものでしょうか?神の人間救済のための特別な介入と恩寵によってすべての罪から守られた人が持つ心でしょう。ですから、罪から自由なけがれなきみ心を持つ女性というのは、神の特別な選びと恩寵によって原罪や他の罪から守られ、神との関係に何の断絶もないという意味です。
時が満ちて、神が送られたガブリエル天使はマリアを訪れ、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」 (ルカ1・28)と挨拶しました。これはあなたの中に最も聖なる方を迎えるのにふさわしい恩寵を神から受けて、聖霊を迎える準備がすでに整っているということです。ついに聖母は清らかで聖なる心に神の御言葉を受け入れることができたのです。マリアは主の御言葉に従順であればよいのです。マリアは処女でありながらイエス様を宿し生むという天使の言葉に、信仰と愛で従順に従い、ついに聖霊の力によって主を宿し、主の母となりました。
マリアの御心には罪が入り込む余地がありません。聖母は暗闇に満ちた世に命を与える真の光である救い主をその中に宿すことで、すでに救われた祝福された女性となったのです。ですから、今日の朗読のように「わたしは主によって喜び楽しみわたしの魂はわたしの神にあって喜び躍る。主は救いの衣をわたしに着せ恵みの晴れ着をまとわせてくださる。」(イザヤ61・10)祝福された女性となったのです。
けがれなき聖心からあふれる神の愛によって、聖母は神と一体となりイエス様を育て、公生活にも母として弟子として一緒にいました。そして十字架の苦難と死の瞬間にも息子と共に苦しみを分かち合い、初期の教会でも一緒にいて生まれたばかりの小さな教会を母のように世話しました。主の母としてのこの使命は、この世の終わりまで続くでしょう。
これらすべては三位一体の神の恩寵によって生まれる前からすべての罪から守られた聖母のみ心の愛から始まりました。ですから、けがれなき聖母のみ心をどのようにして崇敬し、その愛を真似しようと努力しないでいられましょうか。
けがれなき聖母のみ心を崇敬することで、私たちも聖母の心でイエス様を信じ従い愛しましょう。そして、たとえ間違えて主を失ってしまったなら、聖母のように全心全力と愛を持って祈り、兄弟たちと共に主を見つけるようにしましょう。
特に、主はご自身の体である教会と、貧しい人々の中におられるので、聖母のように主の家を訪ね、助けを必要とする人々を訪れて、主と出会う喜びを味わいましょう。また、貧しく助けを必要とする人々に対し、愛の分かち合いと奉仕の生活を通じて救い主イエス様を伝え、聖母とともに神に栄光と賛美を捧げましょう。
********
イエス様のみ心とマリア様のみ心に従い、見倣い、真のキリスト者として生きることができますように!聖霊、きてください。