+神をたたえよう。神は偉大、すべては神に造られた。
おはようございます。
今日は年間第10金曜日です。
み心の主・イエス・キリストとみ心の聖マリア、聖母の配偶者聖ヨゼフ、諸聖人の大いなる祝福がありますように!
また、大天使とすべての天使、私たちの守護の天使が今日も皆さまを見守り平和でありますようお祈りします。
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マタイによる福音
<みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。>
そのとき、イエスは弟子たちに言われた。5・27「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。28しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。29もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。30もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。
31『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。32しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」(マタイ5・27-32)
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チョ・ミョンヨン神父「今日の黙想」です。
ある信者さんの悩みを聞きました。
「神父様、私が働いている会社にはビジョンがありません。どうすればいいでしょうか?」
今やっている仕事が自分の専攻でもなく、また適性に合っていないということでした。さらに毎日同じことの繰り返しで、自分は何もできないのではないかという不安が頭から離れないということでした。時折、自分の立場に不満を抱いている方々に出会います。時には神父様たちの中にもこのようなことをおっしゃる方がいます。
「私がいるこの教会の信者たちは本当に特異な感じがします。神父をこんなにも苦しめることができるものでしょうか。この教会には希望が見えません。」
希望やビジョンがないという言葉は、自分自身の錯覚から出てくる「できない」という理由です。希望やビジョンは与えられるものではなく、自分で作り上げるものだからです。正直なところ、相手に希望を見せてくれと要求するのは、自分の人生を相手に責任を負わせる無理強いと同じではないかと思います。しかしその主体が自分であるなら話は変わります。つまり、「希望は自分から始まる」という心を持つなら、確かに絶望よりも希望、否定的な考えよりも肯定的な考えを持つことができるでしょう。
主は私たちが自分から始まる希望を持って生きることを望んでおられます。自分が立てた基準を徹底的に守りながら生きる主体的な人生を望んでおられます。ここで妥協をした場合どうなるでしょうか? このくらいは大丈夫、一度だけ、最後に、他の人もやっているんだから…などの妥協が行われると、自分の主体性が失われ、代わりに他の人の顔色をうかがうことばかりに忙しくなるでしょう。
今日、イエス様は淫らな思いで女性を見るだけで姦淫することになると言い、右目が罪を犯させるならえぐり出して捨て、右手が罪を犯させるなら切り落とせという、少々過激と感じる命令をなさいます。この言葉をそのまま受け取ると、もしかしたら皆が身体障害者になってしまうかもしれません。しかし、これは必ずしもそうしなさいという意味ではありません。それよりも、神から遠ざかる罪への可能性を完全に遮断する必要があると言っているのです。
信仰者として、神の御心に従って生きるという希望とビジョンを持っています。それではどうすればいいのでしょうか? 他の人の顔色や世間の目を気にしたり、世の中と妥協しては絶対にそれを成し遂げることはできません。このような顔色伺いや妥協から生じる少しの隙間も許してはいけないのです。むしろ、徹底した自分の努力と誠意で神の御心に従って生きるとき、自分の希望とビジョンを初めて完成することができるのです。
神に向かう大きなビジョンと希望の中で生きている私たちは、一体どのような姿で生きていたでしょうか? 救いという大きな贈り物を受けるために、今こそ世俗と妥協して生じる隙間を埋めていかなければなりません。
徹底的に神の御心に従って生きるとき、確実に後悔のない幸福な人生を手に入れることができます。
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自分の生き方に満足できないとき、救い主のイエス様に希望をおき、毎日を喜びと平和で生きることができますように!聖霊、きてください。