+神をたたえよう。神は偉大、すべては神に造られた。
おはようございます。
今日は年間第10土曜日です。
み心の主・イエス・キリストとみ心の聖マリア、聖母の配偶者聖ヨゼフ、諸聖人の大いなる祝福がありますように!
また、大天使とすべての天使、私たちの守護の天使が今日も皆さまを見守り平和でありますようお祈りします。
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マタイによる福音
<あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。>
そのとき、イエスは弟子たちに言われた。5・33「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。34しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。35地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。36また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。37あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」(マタイ5・33-37)
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ハン・ゼホ神父様の「今日の黙想」です。
今日、イエス様は私たちに誓いを立ててはならないと仰います。しかし、修道者や聖職者は誓願式や叙階式の時に誓いを立てます。また、平信徒も洗礼の時に誓いを立てます。それでは、誓ってはならないという主の言葉をどのように理解すればよいでしょうか?
この言葉で使われている「誓う」というギリシャ語の「オムニュオー」は、「絶対者である神を根拠として自分が真実であると主張する」という意味を持っています。旧約聖書では人が誓うときにもこの言葉を使用しますが、新約聖書ではそうではありません。唯一、神だけがご自身を根拠として誓います(ルカ1・73、 ヘブライ3・11、6・13参照)。
例外として、神ではない人が誓う場合が二つあります。一人はヘロデで、彼はヘロディアの娘に王国の半分でも与えると誓います(マルコ6・23参照)。もう一人はペトロで、イエス様が捕らえられて大祭司の邸宅に連れて行かれたとき、イエス様を知らないと否認しながら誓います(マルコ14・71参照)。こうして見ると、誓ってはならないというイエス様の言葉は、自分の正当性を証明しようと神を利用してはならないという意味で理解することができます。また、天、地、エルサレムを根拠として誓うので、人間は単なる被造物に過ぎない存在であることに気づくべきだという意味として受け取るべきです。
その通りです。私たちは取るに足りない被造物に過ぎません。そのような私たちが神を利用して自分の正当性を証明しようとするなら、それは神の前で主の役割を果たすことになります。
私たちがすべきことは、自分の弱さを認め、ただ私たちの本当の主人である神が望むことに「はい」と応え、神が望まれないことに「いいえ」と従順に答えることだけです。
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私たちは洗礼を受けるとき主に誓った約束を守ることと、主の御心に叶うことにだけ「はい」と答えることができますように!聖霊、きてください。