+神をたたえよう。神は偉大、すべては神に造られた。
おはようございます。
今日は年間第11主日です。
み心の主・イエス・キリストとみ心の聖マリア、聖母の配偶者聖ヨゼフ、諸聖人の大いなる祝福がありますように!
また、大天使とすべての天使、私たちの守護の天使が今日も皆さまを見守り平和でありますようお祈りします。
**********
マルコによる福音
<どんな種よりも小さいが、どんな野菜よりも大きくなうる>
その時、4・26イエスは人々に言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、27夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。28土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。29実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」
30更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。31それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、32蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」
33イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。34たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。(マルコ4・26-34)
********
ヤン・スンククステパノ(サレジオ会)神父様の黙想文「限りない豊かさと可能性、拡張性を持つ神の国』です。
誰も訪れたことのない神の国について、ここかしこであれこれと騒がれます。私も例外ではなく、時折思い悩みながら話します。視覚障害者が象の足を触って、大きな柱のようだと表現するように、全く見当違いなことを言っているのではないかと心配になります。
私が時折、大きな修道院の本部で、典礼やグレゴリオ聖歌に忠実なミサ、特に復活祭夜のミサを捧げる時、膝を打ちます。「ああ、もしかして神の国の姿はこんなものではないか」と想像することがあります。
慈しみ深い神様とイエス様、そして聖母マリアをはじめとする無数の聖人、天使たちがすべて座っている場所、そして一方の一般席には先に亡くなった愛する人々が座っている場所。
では、そこで何をするのか?まるで復活祭夜のミサのように、第一朗読、答唱詩編、第二朗読、答唱詩編…アレルヤ、福音朗読、卓越したお説教、聖体の祭儀…などなどの聖なる儀式が終わりなく続く場所。
したがって、地上で聖なる典礼に慣れ親しんだ人々にとっては、とても快適で自然な場所ですが、お金や世の中の良いものばかりに埋もれて生き、ミサや典礼には全く関心のない人にとっては甚だしく退屈で苦痛な場所、言わばそれ自体が煉獄や地獄のように感じる場所かもしれません。
今日の福音でも、イエス様は神の国がどのようなものであるかをさりげなく説明されます。からし種のたとえを通じて、神の国の卓越した特長は限りない豊かさと拡張性であることを強調されます。
「神の国はからし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」(マルコ4・31-32)
おそらく神の国はこのような場所であるのでしょう。ねずみのしっぽほどの小さな私たちの善行、あまりにも微々たる私たちの祈り、私たちが施した爪ほどの愛が、驚くほど豊かな実を結ぶ場所、豊かさと豊穣、喜びと感謝、誇らしさと歓喜に満ちた場所が神の国であると思います。
世の荒波にもまれて、時の流れに色褪せ、様々な傷と罪にまみれた私たちが、長い荷物を下ろし、新たに変わった魂で甦る場所が「神の国」と私は思います。
もう悲しみも、涙も、傷も、苦痛も存在しない場所、ただ神の豊かな慈しみと恵みが川のように溢れ流れる場所、その慈しみと恵みの前で、私たちのすべての罪と傷、過ちと失敗が洗い清められるその場所が神の国であると私は思います。
神の国、それはいつか遠い将来のことかもしれませんが、今この瞬間、私たちの足が立つこの地上でも実現されるべきです。結局のところ、神の国は私たちが神と完全に一つになる充満の中で生きる場所であると確信します。
互いの可能性を見つめ励ます私たちの共同体、互いの不足を喜んで耐える私たちの共同体、互いの成長のために絶えず汗を流す私たち個々の現実が、また別の神の国であるでしょう。
***********
毎日、福音を伝えるなり、ほか、爪の先よりも小さな善行ができ、限りない祝福になって毎日天国を生きることができますように!聖霊、きてください。