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細川ガラシャ夫人(上巻)1975三浦綾子
● 縁 05-1
十一月二日、坂本ではみぞれが降っていた。夜には雪に変るかも知れない。「母上、いかがでござろう。凞子の病いは」光秀は義母のお登代の顔を見た。侍女のおつなが二人の前に茶を置いて立ち去った。「そうですのう・・・」お登代の柔和に老いた顔もくもっている。「やはり、むずかしゅうござりましょうか」光秀は腕を組んで吐息をついた。
京都に所用があって、光秀は五日程坂本を留守にした。一昨日帰城したところ、思いがけなく妻の凞子が病床についていた。無子が明智家に嫁いで、既に三十余年になる。その間、 床に臥せったのは、産褥以外この度がはじめてのことである。普段が極めて健康であっただけに、光秀の憂慮はひとかたならぬものがあった。
昨日は朝からつきっきりで凞子の傍にいた。五日見ぬ間に、凞子はひどくやつれていた。 疱瘡の跡があるとはいえ、人並すぐれて白い肌がひどく黄色い。「曲直瀬道三殿が来てくだされば・・・」お登代はつぶやくように、凞子の臥ている隣室の襖に、そっと目をやった。曲直瀬道三は京都在住の名医である。今年光秀は、本願寺攻めの際石山の陣中で病んだ。そのあと、曲直瀬の診療を受けて全治している。
「は、曲直瀬殿には、昨日直ちに使いを出しております。忙しきご仁ながら、必ずこの坂本までお越しくださりましょう。それに、吉田兼見殿にも、同様迎えの者をさし向けておきました」 吉田兼見は闊達な人物である。従二位の高官で神祇職にあり、京都に住んでいた。かねてから光秀には少なからぬ好意を示し、坂本城にも、年に幾度も出入りしている。
光秀にとって以前からの友人であるこの吉田兼見は、全国地方の神社に神位を授けたり、神職に位階斎服の許状を授ける権威を持っていた。当時の天皇や公家大名は、病気にかかると吉田兼見を招いて、病気平癒の祈禱を乞うていた。光秀が夏に病んだ時も、兼見はすぐに見舞にかけつけ、祈禱してくれている。
「おお、名医の曲直瀬殿と吉田殿がおいでくだされば、鬼に金棒、大丈夫でござりましょう」お登代は、にっこりと光秀を見た。必ずしもこれらの二人にお登代が期待したからではない。あまりにも光秀の不安気な姿が、痛々しかったからである。「しかし、あのように顔色が黄色くなっては・・・」光秀は眉根をよせたまま、首を傾けた。黄疸になって死んだ者を、光秀はこれまで幾度も見て来ている。全く光秀は憂慮していた。妻の熈子こそ、光秀には唯一の心の支えなのだ。
一昨日、京都から帰ってくる時も、この琵琶湖に突き出した坂本城を馬上に見ただけで、光秀の心はふしぎに安らいだ。それは、自分が精魂こめて築城した城であるということも、 あったかも知れない。が、何よりも、その城に妻の凞子がいるということが、光秀を安らがせるのだ。凞子は常に、すべてを包みこむようなあたたかさと、決して裏切ることのない真実さで、光秀に対してくれた。
凞子の前では、謹厳な光秀も、ついのびのびとした思いになる。黒子には、いかなる自慢話をしようと、大きな夢を語ろうと、深くうなずき、興味深げに聞いてくれる。また、信長を批判しても、いかなる秘密を語っても、決して他に洩らすおそれはなかった。人を出しぬいたり、裏切ったり、他を誹謗したりする男の世界に生きている光秀にとって、凞子は、自分自身よりも信頼できる存在であり、その中に憩うことのできる大きな存在であった。
その凞子が、思いがけぬ病いを得、一日のうち半分以上も眠りつづけているのだ。光秀の心痛が尋常でないのも無理からぬことであった。「おばば様」障子の外で、玉子のひそやかな声がした。「お入りなさい」「はい」静かに障子が開いて、玉子が入ってきた。母の凞子が臥して以来、玉子は看病や家政に忙しい。
「何のご用です?」「あの・・・また平五郎がしじみを届けてくれました」足軽の平五郎は、初之助の父である。しじみは初之助が湖から取ってくるものだった。「それはそれは。何よりの薬です。光秀殿、初之助はこの寒いのに、毎日湖の中に入って取ってくれております由」「それはありがたい。初之助は珍しく誠のある若者ですのう、母上」「ほんに、このみぞれの降る水の中に・・・。心がなければ決してできることではありませぬ」
玉子は黙って聞いていた。玉子も、初之助は口は重いが誠実な男だと思う。いつも庭を掃いたり、草をむしったり、少しの休みもなく、雑用にも心を配っている。だが玉子には、それが仕える者の、当然の姿としか思われない。
一ヵ月前、西教寺の境内で大きな蛇を見、初之助の胸にしがみついたことなど、玉子は忘れている。いや、大きな青大将であったことは記憶しているが、初之助にしがみついたほうは忘れているのだ。初之助が一生忘れ得ぬこととして、日に幾度も思い出すことを、玉子はきれいに忘れ去っている。
それは、相手が身分の低い初之助であったからではない。たとえ相手が、弥平次光春であろうと、他の若侍であろうと、少女である玉子にとっては、どれほどの意味も持ってはいない。むしろ、大きな青大将を見たという事実のほうが、一大事であったに過ぎなかった。
「ではおばば様。今日もお母上様にしじみ汁を差しあげてよろしゅうござりますか」「申すまでもござりませぬ」「でも、お母上様は、毎食しじみ汁では、飽きられましょう」「いえいえ。しじみは肝と胆の薬と、昔からいわれております」「そのとおりじゃ、お玉。たとえ飽いてもよい。しじみ汁をつくらせるように」「はい、かしこまりました」玉子は大人びた表情を見せて静かにうなずいた。
凞子は光秀の浪人時代、髪を売らねばならぬほどの貧苦を味わった。それは、何不自由なく育った禦子にとって、全く想像もできない生活であった。ある時は近くの農家にやとわれて、田植えや稲刈りをさえも手伝った。その生活が凞子に人生とは何かを教えた。
大名の妻になっても、凞子はその浪人時代を決して忘れなかった。大名といえども、いついかなる環境に陥るかわからぬ時代である。凞子はその心づもりで、子女たちをきびしく詳けた。機織などは無論のこと、掃除さえも侍女たちと共にさせた。その点、黒子は他の大名の奥方とはちがっていた。
手習、和歌、笛などを習わせることも忘れなかったが、体を鍛えることも決して忘れなかった。姫とはいえ、いつ山道を歩いて越さねばならぬ運命になるかも知れない。熈子の教育は、常に裸一貫を予想してなされた。そして、裸一貫が、この世の大方の人々の生き方であることも、凞子は娘たちに教えていた。台所で立ち働かすことも、日常のことだった。
玉子が、女たちに夕食の指示に立った後、従者が、吉田兼見の到着を知らせてきた。「お? はや、お見えくださったか」光秀は義母のお登代と顔を見合わせ、いそいそと立ち上がった。兼見の平癒祈願は四半刻(三十分)あまりで終った。そのあとで、客間にささやかな酒宴が設けられた。
給仕役は玉子と侍女のおつなである。常々接待役の弥平次光春は、今日は安土城に使いに出ていて、この席にはいない。 「本復は疑いござらぬ」兼見は先程いった言葉をくり返して、玉子の注いだ酒をゆっくりと飲んだ。天皇をはじめ、公家大名と、つきあいの多い兼見は、如才のないもののいい方をする。「ありがたきことで・・・」
光秀も先刻述べた言葉を再びいい、膝に手を置いて頭を下げ、「女房の患いというものは、このように身に応えるものでござるかのう。いや参りましたわい」と苦笑した。「さすがに明智殿は正直なお方じゃ。世の亭主たちは、なかなかそうは申せませぬて。のう、お玉殿」しばしば出入りしている兼見は、玉子を肉親のように愛しんでいる。
「いや、兼見殿。これは貴殿とわたしの仲だから申したまでのこと」「とにかく、男にとって、よき女房を持つか持たぬかは、大きなちがいでござるのう。いずれにしろ、お凞殿ほどの女性は珍しい。赤の他人のこのわたしでも、何か相談ごとを持ちこみたくなるお人柄じゃ」「これは痛み入る」光秀はちょっと首をなで、「貴殿こそ、立派なご内室をお持ちではござらぬか」
「いや、あれは少し激しい性格で・・・」吉田兼見は、従兄細川藤孝の娘と結婚している。「あれの弟の与一郎が、よく似た性格でござってな。やさしいところはやさしいが、また短気というか、激越なところのある若者で・・・。だが、内府殿(信長)は、いかいあの者を気に入ってござる」と、意味ありげに笑って、玉子を見た。
細川ガラシャ夫人(上巻)1975三浦綾子
● 縁 05-2
二年前、玉子が十二歳の時、織田信長は冗談のように光秀と細川藤孝にこういったことがある。 めあ 「そちたちの息子と娘は、同年じゃそうな。年頃になったら、要合わせるがよいぞ」酒の席であった。藤孝は、「与一郎奴は、いまだ粗暴な童に過ぎませぬ」「ははは、童も今に大人になるわ」
そうはいったが、信長も座興であったのか、その後、話を持ち出すこともなく、いわば立ち消えになっていた。光秀もまた、まだ玉子の結婚を考える気にはならず、この話は凞子の耳にちょっと入れただけで、玉子には語ったこともなかった。が、兼見はこの話を知っているようなふうであった。
「わたしも与一郎殿には、時折会っているが、藤孝殿とは少しちがいますのう。しかし、まだ十四や十五で、藤孝殿のように思慮分別があっては、むしろ無気味と申すものでござろう。 若者らしい覇気があって、将来楽しみなご子息じゃ」「いやいや、それほどでもござらぬ」兼見が手をふったが、光秀はいった。
「何しろ与一郎殿は、十歳の時に実戦に出ておられる。さればこそ内府殿のお気に入りになられたにちがいない」「まあ! 十歳の時に!」それまで、神妙に耳を傾けていたお玉の唇から、驚きの声が洩れた。
「なに、実戦に出たと申しても、観戦でござるよ、お玉どの。かの天正元年、織田澱が義昭将軍を攻められた時のことじゃが、淀城で豪勇な岩成主税介古通と、細川家の下津権内とが一騎打ちをしたことがあっての」
「有名な話じゃぞ、お玉」「その折、長岡監物という大将の肩車になり、そのかぶとにしっかりとつかまって観戦していたのが、僅か十歳そこそこの与一郎よ。その時の、岩成の首が飛ぶのを、与一郎は泣きも脅えもせずに見ていたという話じゃったが、只それだけのことでの」「さすがに細川殿、文武両道にすぐれた御方だけあって、ご子息の鍛え方も徹底しておられるのう」
「お父上、わたくし、その与一郎様とやらに、お目にかかったことがござります」明晰な玉子の口調だった。「ほう!いつ、どこでじゃ」光秀が驚いた。「 京のお家で。たしかわたくしが七つの頃でした」確か正月であった。父の細川藤孝と共に遊びに来ていた与一郎と、玉子は擺角力をしてたわむれた。
「おう、それはそれは」と、吉田兼見は一人何やら打ちうなずいて、お玉をいかにも愛しげに見た。「小父さま」玉子は無邪気に兼見を呼んだ。「何でござる」「小父さまは、さきほど母上の平癒をご祈禱くださいましたけれど、どこの神さまにおねがいなされたのでしょうか」「うむ・・・。八百万の神々でござるよ。お玉どの」
「八百万の? 小父さま、小父さまはお偉い神官さまですけれど、その八百万もの神々を全部ご存じですの?」「こちらでは知らずとも、神々のほうでご存じじゃ。わが吉田の社の斎場には、全国の神々を祭ってござるからのう」兼見は盃を片手に、大きな体をゆすって笑った。兼見の四代前の吉田兼俱について、ある本には次のように書いてある。
〈天皇及び公卿、あるいは将軍に、しばしば日本書紀を講じ、あるいは将軍義政の夫人日野富子に取入り、その勢力を自家の勢力拡張に利用し、あるいは神道管領長上などと僭称した。吉田神社の境内に斎場を設け、これに全国三千余社を祀り、遂に伊勢神宮の神霊がここに遷移したと偽って、ここを日本最高の霊場にせんとするなど、大胆な企てを試みた。
この遷移の問題は、結局失敗に終って、吉田家は徳川時代の終りまで、公然とは伊勢神宮に参拝することを拒まれる結果となった。が、地方の神社に神位を授け、神職に位階斎服の免許状を授与することには成功し、(中略)吉田家の勢力は全国に波及するに至った〉
この斎場は一時破却されていたが、兼見が再興したのである。だから、今、兼見が、全国の神々を祭っているといったのは、彼としては冗談ではなかったのだ。「では、小父さまは知らない神々を祭っていらっしゃいますの」「これ、お玉。またいつもの癖がはじまったの。失礼な口を利いてはならぬ」 光秀がたしなめた。
「いやいや、これがお玉どののおもしろいところ。吾々とても、勉強になる」 兼見は機嫌よく、「のう、お玉どの。そなたの申されるとおりじゃ。人間は本来、神を知らぬ。じゃによって、 人の思い思いの神を神とした故、八百万もの神々が日本にはできてしもうた」「じゃ、人が神をつくりましたの、小父さま」
「そのような神が多い故に、日本中の神々を吉田山一ところにまとめたのじゃ。あまりに多くては、どの神には参り、どの神には参らぬという失礼なことになるが、吉田神社に参れば、 一度で神へのお参りは済んでしまう。全国の神々を廻る要はない。何と便利なことであろうが」
玉子はかしこ気に頭をかしげ、「小父さま、小父さまはお玉がまだ子供だと思し召して、本当のことをお話ししてはくださいませぬ。先程、小父さまはひたいから汗を垂らしてご祈禱くださいました。この寒い時に、 汗の出るほどお祈りなさるのは、やはりまことの神さまがいられるからでございましょう。もっと本当のところを、玉は教わりとう存じます」
うなずきながら聞いていた兼見は、膝を打って、「よう申された、お玉どの。もうお玉どのは、子供ではござらぬわ、のう日向殿」と感じ入った。「いやいや、まだまだ幼うござるが、どういうものか、お玉は神とか仏には、格別の関心を持っているようでの」「それはまた奇特なことよのう。お玉どの」兼見は、琵琶湖名物の鮒の塩焼を口に入れて、「神とはのう、実在するものじゃ。
常住恒存、この天地のつくられる前より神はあった。神 ―には、始めもなく終りもない。常に在るのだ。それを吉田神道ではのう、天地間では神と呼び、万物に宿って霊という。お玉どのの中にも神は在る。それが人間の心じゃ」吉田神道は唯一神を信奉する、かなり進んだ神観念を持っていて、全国の神の統一を思いはんしんろん立ったふしも考えられる。が、やはり汎神論に近いものであったことも否めない。
「人間の心が神でございますか」玉子は解せない顔をした。「一気末分の元神とか、万法純一の元初に帰するといっても、お玉どのにはまだわかるまいかよおお、忘れるところであった。日向殿はご存じか。清原家には佳代と申す女があってのう---」兼見の父は清原宣賢(よしすけ、せんけん、のぶかたなど、幾通りもの呼び方がある)の次男だった。
清原宣賢は公家や僧侶に経書を教え、後奈良天皇の皇太子時代の侍講であり、漢学国学に貢献した当時日本随一の儒者であった。その晩年、越前の朝倉家に出講し、一乗谷で病没した。 光秀も朝倉家に仕えたことがあったので、その噂はよく聞いていた。なお、細川藤孝は宣賢の娘の子に当る。
「清原どのの?」「さよう。その佳代が、ふしぎなことに、何とのうお玉どのの面ざしに似ておるのじゃ」「お玉に?」「いや、無論お玉どのほどには美しゅうござらぬが、しかし、きょうだいともいいたいほどに似ておりましてな。それがまた、えらい信心家でござるわ」「おいくつになられる?」
玉子に似た娘と聞いては、光秀も興がふかい。目を細めた光秀の目じりのしわがやさしかった。 「十三歳だが、幼い時に両親がキリシタンになった。で、佳代も赤児で洗礼を受けている。洗礼名をマリヤと申してな」「おう!では、キリシタンになられた清原頼賢殿のご息女か」清原頼賢は宣賢の孫で、兼見や細川藤孝とは従兄弟の間柄になる。身分の高い公家である。「ご存じか、明智殿も」「細川藤孝殿に伺ったことがござった」
「なるほど。で、その佳代のことじゃが、佳代はキリシタンの養育会という会に入っておりましてな。まあ、熱心なことといったら驚くばかりじゃ。毎朝起きたらすぐに、京の近くの山を歩いて捨子を探して歩いてのう。見つけるとすぐに養育園に連れて行く。弱って生きる力のない子と見定めれば、養育園に神父を招いて洗礼を授けてもらう。こんなことばかりしてくらしている女子じゃ」
「まあ! 十三歳でそんなお仕事を」玉子は目を大きく見はった。当時、体の弱い子は育たぬといい、山に捨てる風習があった。体の弱い子だけでなく、貧しくて育てられぬ子供も捨てていたようである。キリスト信者たちは、それらの捨子を集めては、養育会に入れて育てていた。
「さよう。お玉どのより一つ下じゃが、顔も似ていれば、信心の深いところもよう似ている。 ふしぎなこともあればあるものじゃ」「小父さま。玉は信心など深くはございません。ただ、本当に神や仏がだすのかと、ふしぎに思っているだけです。とてもとても、朝から捨子を探して山歩きをすることなど、思いもよりません」玉子は首をふった。
その謙遜な玉子の姿を、光秀は珍し気に眺め、「吉田殿、その佳代どのとやらは、特別に生まれた方かも知れぬのう」「かも知れぬて。この間も、さる大名からの縁談をきっぱりと断りましてのう。生涯、マリヤは嫁ぎませぬと父母にも答えたそうな。そして、捨子ひろいじゃ。雨が降っても雪が降っても、決めた山歩きは休みませぬ。もし、悪天候の日に捨てられた子があれば、生命も危ぶまれるとか申してな」
「ほほう。一生涯嫁がぬとな。それはまた、えらい決心じゃ」「いやいや、二、三年もすれば嫁ぎとうなるぞと、わたしは笑っておりまする。何分まだほんの子供のこと、どれほどの決心もありますまい」「小父さま、わたくし一度その方にお会いしてみたいと存じます」酌をすることも忘れて、玉子はいった。
自分に似た、自分より年下の娘が、キリシタンになって一生嫁がぬといっているのだ。どんな娘であろうかと、玉子はいたく心を惹かれた。その清原マリヤが、まさか、二年のうちに自分の侍女となり、自分を信仰に導き、一生の苦楽をわかつ存在になろうとは、無論夢にも思わぬところであった。
曲直瀬道三の薬が効いたのか、兼見の祈禱の効があったのか、凞子の病いはその後半月を経ずに、見事に癒された。とにかく、「本復まちがいなし」といった兼見の言葉どおりになったのである。光秀の喜びは一通りではなく、自ら吉田神社に礼に行き、兼見にたくさんの供物を献じた。
細川ガラシャ夫人(上巻)1975三浦綾子
● 縁 05-3
天正六年、元日の夜。光秀は一人、書院の机によっていた。 (命令とあらば逃れようもないが・・・) 今日、即ち元日、光秀は信長のお茶の会に招かれた。まだうす暗い寅の刻(午前四時)には、 招かれた家臣たちが続々と、安土城につめかけた。招かれたのは十二人、その中には信長の子信忠をはじめ、羽柴秀吉、細川藤孝、丹羽長秀、 滝川一益、荒木村重などがいた。
ことば茶のあと、一同が順に、年賀の詞を信長に述べ、酒が出された。信長は終始上機嫌で、光秀と藤孝にも、「いつぞやすすめた両家の縁組はいかが相成った? 信長が仲介をしてとらせるぞ。隣国同士、今年中には親戚になるがよい」と催促した。光秀も藤孝も畏まって、その言葉を受けたが、内心驚いた。
今年、与一郎も玉子も十六歳になる。(だが…) と、いま光秀は考えている。確かに、与一郎は雄々しい若武者である。去年、松永弾正久秀が信長にそむき、その家老の森秀光、海老名弾正ら三千の兵が片岡城に籠城した。光秀、 藤孝、そして筒井順慶がこれを攻めたが、この時の戦いは激しく、細川家の高名の勇士下津権内をはじめ、多くの士が討死し、また傷ついた。
この時、僅か十五歳の与一郎は、ひるむ味方の兵の先頭に立って敵の首を挙げ、士気を高揚した。信長はこの与一郎に、自筆の感状を与えた。光秀もその感状を、藤孝の披露で既に見ている。
「与一郎
働、手がらにて候也かしく
をりがみ披見候。いよいよ働き候
こと油断なく馳走候べく候。かしく」
松永弾正を敗北せしめたのも、与一郎の働きに負うところが大きい。信長は、息子信忠の忠の一字を与えて、忠興と名乗らせた。それほどの働きであったのだ。その勇猛さは、無論武将として賞めらるべき長所である。にもかかわらず、光秀を逡巡せしめる何かが忠興にはあった。
それは、例えば昨年十月の丹波攻めの時のことにもいえた。丹波の平定を一任されていた光秀と、隣国の丹後の領主である細川藤孝は、常に提携しつつ戦っていた。この時も、藤孝は与一郎忠興と共に、光秀を助けて戦った。そして細川藤孝は、 次のような手紙を書いて開城をすすめた。
「各々方は、内藤家には新参の者ではござらぬか。つい先日、城主の内藤氏も俄かに病死したばかりである。これ以上信長と戦ってみたところで、決して長い間城を保つわけにはいくまい。各々方が吾らに降るならば、信長にその由を言上し、決して悪くは取り計らわぬ。内藤家を全うすることも忠の道と心得られたし」
諄々と降服をすすめた手紙であった。が、亀山城を守る者たちは、これを受け入れず、 三日三夜奮戦した。遂に、今まさに落城という時、降参を表明してきた。光秀は、城兵の投降を許して大手門の囲みを解こうとした。忠興は顔色を変えて光秀に詰めよった。
「日向殿。何故城兵の投降を許すのでござるか。わが父藤孝が懇切に書いた手紙を無視して手向った者共を、何も許す必要はござりますまい。この忠興は兵をひきいて、からめ手門から攻め入る故左様ご承知おきいただきたい」眉宇に殺気を漲らせた忠興の猛々しい顔に、光秀はいささか圧迫を感じながらも、静かに制した。
「忠興殿、その気持はよくわかるが、しかし、敵は殺せばそれでよいというものではござるまい。戦わずに勝つのが真の武将じゃ。御父上の藤孝殿も、殺すよりは生かしたく思われて、 あのようにすすめられたのじゃ」「お言葉なれど、奴らはその言葉を受け入れなかったではござらぬか。しかも三日も戦ったあげくに、今更助けてくれとは、恥知らずな奴ばらとは思し召さぬか」
「忠興殿、人間はのう、無駄に殺すより、生かして使えば使う道があるものじゃ。投降の意を表した者を殺して、何の武士の誉れとなりましょうや。戦う意志のない者を打ちとって、 何の潔いことがありましょうや。忠興殿、投降者を許すことも、肝要な武士の道と心得られよ」忠興はむっとした面魂を見せていたが、それでもようやく光秀に従った。
こうして内藤一族とその臣達の降服を信長に報じ、亀山城は遂に光秀の城となった。光秀は内藤の家臣をことごとく自分の臣として、手厚く扱った。これによって、光秀、藤孝の評判は更に上がった。
だが、今、その時の忠興を考えると、光秀は玉子を嫁がせることに躊躇も感ずる。 (確かに頼母しい婿にはなるであろう・・・) まだ十四や十五で、大人をも凌ぐ勇気がある。亀山城の一件も、年若いための一徹さであって、特別無思慮というわけではないのだ。
藤孝とは、この松の内に一度二人を見合わせようと話し合って、別れてきた。信長の命とあっては、嫁がせぬわけにもいかぬと、光秀は燭台のゆらめく灯をみつめた。風もないのに、焰は右に左に揺れやまない。(考えてみると、悪い縁談ではない)
世には、人質にやる思いで、娘を敵国に嫁がせる例も多い。藤孝とは、越前の朝倉家にいた時からの親友で、もう十五年ものつきあいになる。光秀の周囲に、藤孝以上に信頼できる人間はいない。その藤孝の息子に嫁がせるのだ。むしろ願ってもない良縁と喜ぶべきであって、何の文句もないはずなのだ。
何のことはない。自分の心の底を探っていえば、忠興にも、細川家にも何の苦情のあるわけではない。自分は、玉子を嫁がせるのが淋しいのだと、光秀は苦笑した。いや、苦笑したつもりで、のどもとにこみ上げてくる熱い感情があった。(ばかな!) 光秀は、両の目頭をおさえた。
一度他家へ嫁したなら、めったに玉子はこの城を訪ねて来ることはあるまい。姉娘たちの結婚も、それぞれに淋しくはあった。が、この度の玉子の場合は、特別に愛しいのだ。他の娘たちは、父親の光秀には何も語らなかった。だから、何を考え、何を思って生きていたかを光秀は知らない。
(惜しい) が、玉子はちがう。玉子は幼い時から、父を恐れず、よく馴ついた。自分の思いを、疑問を、いつも光秀に語ってきた。それが光秀の大きな慰めでもあった。光秀は、やや細ってきた燭台の火をみつめながら、深い吐息をついた。ふと、光秀は初之助の顔を思い浮かべた。
細川ガラシャ夫人(上巻)
● 輿入れ 06-1
午下りの日ざしが暖かかった。ふくいくたる梅の香りが庭にただよっている。光秀や凞子のうしろに立って、玉子も細川父子を見送りに出た。与一郎忠興は、十六歳とは見えぬ立派な体格を持ち、眉の秀でた若者である。今、与一郎は食い入るようなまなざしを玉子に向けている。その激しい与一郎の視線を外して、玉子は与一郎の弟頓五郎興元に静かな微笑を送った。
興元はちょっと顔をあからめ、顔を伏せたが、さっと一礼してくるりと背を向けた。「 では、失礼つかまつる」細川藤孝が軽く礼をし、待たせてあった馬に近づいた。「ご免!」忠興はひらりと馬上の人となった。頓五郎も兄にならった。「道中、お気をつけられよ」深々と光秀は一礼した。
