+聖ベネディクト修道院長記念日に、神に賛美をささげよう。
おはようございます。
今日は聖ベネディクト修道院長記念日です。
愛の主・イエス・キリストと主の御母聖母マリア、聖母の配偶者聖ヨゼフ、聖ベネディクト、諸聖人の大いなる祝福がありますように!
また、大天使とすべての天使、私たちの守護の天使が今日も皆さまを見守り平和でありますようお祈りします。
********『西方修道生活の父』と呼ばれる聖ベネディクトは、480年ごろイタリアのウンブリア地方ノルチャで生まれました。ローマで学業を終えた彼は、修道生活への関心からスビアコで3年間、苦行と祈りの隠遁生活を送りました。彼の聖徳が知られるようになると、多くの人々が集まり、ベネディクトはついに修道院を設立し、『修道規則』を書きました。この規則が広く伝播され、『西方修道会の始祖』と呼ばれるようになりました。聖人は547年ごろモンテカッシーノで死去したと言われ、8世紀末から各地方で7月11日に彼を記念して崇敬されています。1964年には聖パウロ6世教皇によって、ヨーロッパの守護聖人に宣言されました。(今日の典礼から)
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マタイによる福音
<ただで受けたのだから、ただで与えなさい。>
そのとき、イエスは使徒たちに言われた。10・7「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。8病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。9帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。10旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。11町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。12その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。13家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。14あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。15はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む。」(マタイ10・7-15)
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毎日のミサの「今日の黙想」です。
今日の福音で、イエス様は使徒たちに、お金も、旅行袋も、替えの服も持たずに、人々のもとに行き、天の国を宣べ伝えるように命じています。このイエス様の厳しさと福音宣教の緊急性は、私たちには非常に馴染みがないように感じます。それは、福音が伝えるイエス様の姿を私たちが正しく見ていないためかもしれません。
私たちキリスト教徒は、むしろイエス様の徹底性を避けようとする危険性がより大きいということを反省し、20世紀に製作された宗教映画の問題作の一つである『マタイによる福音書』を思い起こします。この映画の監督は、イタリアのピエル・パオロ・パゾリーニです。無神論者でありカトリックの教えとは異なる生活をしていた彼が、イエス様についてのこの映画を作ることになったのは偶然の出来事がきっかけでした。彼がアッシジに滞在していたとき、ヨハネ23世教皇の訪問によって、しばらくの間ホテルの外に出られなくなり、ほとんど捕らわれていたような状況になりました。暇を紛らわすために彼が何とはなしにホテルの部屋に置かれていた聖書の『マタイによる福音書』を読んだことが、この映画を作るきっかけとなりました。
この映画は大いに称賛される一方、多くのキリスト教徒が映画に描かれたイエス様の姿を批判しました。20世紀を代表する霊性家であるトマス・マートン神父は、この映画に登場するイエス様の姿を次のように要約しています。「この映画のキリストは若く、驚くほどに超然として真剣であり、19世紀の教会美術に描かれていた親切で寛大なイエス様とは明らかに異なっていた。彼は優しくなく、断固としていた。ある意味では無慈悲にさえ感じられるほどだった。」マートンは、私たちが本当に驚くべきことは、多くの信者がこのようなイエス様の姿に衝撃を受けたことであると述べています。なぜなら、この映画の監督が描いたキリストの姿は、福音をそのまま読み取ったことを反映しているからです。
マートンはこのように反問します。「愛とは厳しく要求するものであることを私たちは忘れていないだろうか?とりわけ、愛が他者の苦しみに対する無関心や、他人を欺き搾取しようとする傾向と対立するときはどうだろうか?」
私たちはキリスト教徒としてイエス様の姿をよく知っているつもりでいても、ある瞬間、自分にとって都合の良い、見たいイエス様の姿に変質させてしまうことがあります。時には挑戦となるイエス様の言葉と態度にも、常に新しく出会おうとする準備ができた心こそが、彼の弟子として持つべき最も重要な姿勢であるでしょう。
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難しい社会の中、ありとあらゆる大変な問題のうちで出会えるイエス様のことを識別できる知恵を得て生きることができますように!聖霊、きてください。